私の研究足跡
・私は比較的オーソドックスな民俗調査をおこない、論文を書いてきました。今、民俗学は存亡の危機にあり、若い後継者が必要です。こういう仕事に 興味を持 ち、民俗学に接近する若い人が一人でも現れることを期待し て、恥ずかしながら私の研究の一端を紹介します。

 ・大学での研究テーマは、山村の過疎化に伴う社会組織の変化についてでした。今思うと、何とも地味なテーマでしたが、高度経済成長に 山村が発 展から取り残されてゆく中、老人ばかりになってしまったムラをどうしてゆくかは切実な問題でした。

 ・卒業後は大学に残ろうかとも思いましたが、民俗学者として食ってゆくには大学の研究室の数が少なすぎ、40歳頃まで粘って研究室の 空きを待つ 気力がありませんでした。伝統的に民俗学研究者は在野の者が多く、地方での地道な活動の中でよい仕事をしてきた人がたくさんいます。高校教員の試 験に受 かったことから、教員のかたわらで研究という選択をしました。

 ・最初の民俗学の仕事は『豊明市史』民俗編の刊行に伴う調査で、これ以後、数多くの市町村史刊行のための調査研究をするようになりま した。民 俗学を学んだ者は数が少ないので、自治体史発刊のときには貴重な存在になります。こちらとしては、行政の調査を利用しつつ、自分の研究テーマを探 して論文 を書くということになります。

 ・地元の民俗学研究団体、名古屋民俗研究会に所属し、長年、この地方で民俗調査をしてきた先輩研究者の方々から様々なことを教わりま した。そ のアドバイスにより、卒論で得た調査資料を膨らまし、再調査をおこなって書いた論文「婚礼披露における女客の優位−嫁社会への加入式」が、平成6 年に第 14回日本民俗学会研究奨励賞を受賞しました。これは若手研究者の登竜門であり、大学に残っていれば就職に直結するもののようです。在野の私には 関係あり ませんでしたが・・・

 ・平成9年からは教員の現場を離れ、愛知県史編さん室民俗部会主事として勤務しました。調査研究が仕事の一部になった訳で、ここにい た5年間で愛知県中を回りました。ここで得た資料は一生の宝になるのでしょう。

・今までにまとめた聞き書きカードは3万点あまり、話を聞いたお年寄りの数は数百人に達します。今も愛知県史と名古屋市史の仕事にはお世話になっ ており、調査で得たデータは逐一授業で活用させてもらっています。


お気に入りの論文
 ・今まで書いたもののうち、気に入っているものを紹介します。民俗学が何をしているか、その一端がわかってもらえると幸いです。
 ・なお、外部から来た学生さんなどで、レポート等に引 用する場 合は出処を明らかにしてください。最近、ネットから安直に論文を引っ張り、自分が書いたかのようなレポート(はなは だしきは卒 論)を作る学 生さんが多いと、知り合いの大学の先生たちが嘆いています。引用することはいっこうにかまいませんが、出処をはっきりさせないのは重大なルール違 反です よ。 そして、一通り中身を読んで、こいつはこう言ってるけど自分はこう思うと書けば、それは立派なあなたの業績です。手間ひまを惜しむな!

カヨ イ婚と念仏婆さん
 結婚してからも夫婦が 同居せ ず、夜になると夫が妻のところを訪ねてゆくのがカヨイ婚です。古典ではおなじみのこの結婚形態が、愛知県篠島では今もおこなわれ ています。実は、夫婦が同 居しないことにはメリットがあります。そして、古い時代の日本では、それが家庭生活を円満にこなす知恵になっていました。篠島の カヨイ婚の実態と、その存 続理由を探ります。
  そしてもう一つ、篠島では人が亡くなると、念仏婆さんと呼ばれる人々の手で弔いがおこなわれます。寺が葬式を引き 受けるようになったのは江 戸時代からですので、それまでは、こういう年輩の女性たちが葬式を取り仕切っていた可能性があります。念仏婆さんの実態とその持 つ力の謎に迫ります。
トック リコロガシと両仲人
 結婚するときには仲人を立てるのが一昔前の日本では当たり前 でした。 ところで、三河地方では、仲人を婿方と嫁方の両方で立て、夫婦合わせて4人の仲人に見守られて結婚式が営まれていました。仲人を 両家で立てる理由は何か。 そこには三河地方独特の社会構造の存在が隠されていました。
地取りと ムショウ参り
 奥三河地方はケガレ意識を強烈に伝えてきたところであり、人 が亡く なった際には丁重な葬送儀礼がおこなわれます。一方、遺体は以前は屋敷周辺の畑のあちこちに埋葬されたため、人々は死者とともに 住んでいるような雰囲気が ありました。ここにはケガレの意識がほとんど感じられません。
  このようにケガレ意識の二律背反が存在するのはなぜか。ここでは、人を畑の一角に埋葬する際におこなわれる「地の 神」から土地を買いとる儀 礼、「地取り」に着目しました。この儀礼が、死のケガレを一気に取り去るものであり、その不思議な儀礼を担ったのが法印と呼ばれ た里修験の人たちだったこ とを指摘します。
津島町 衆の生活と出入衆
津島は中世に起源を持つ伝統的な町場であり、名古屋などもより もはるか に古い歴史を持っています。車楽船が登場する津島祭りは津島の町の上層町人によって担われてきたもので、車屋と呼ばれるその身分 は世襲されるものでした。 一方、町場にはたくさんの職人たちが住んでいましたが、彼らは上層町人とお得意さんの関係を作り、これがやがてお出入りという一 種の主従関係に発展してゆ きました。
  ここでは津島の町にとって車屋がどのような役割を演じているかを示すとともに、彼らの生活が出入衆なくして成り立 たなかったことを示し、町 の持つ社会構造の一端を明らかにします。
尾張の 嫁入り
 名古屋の結婚式はとかく派手だと言われます。菓子を撒くとか 嫁入り道 具がすごいとか、東京や大阪の人たちはびっくりするようですが、それは本当でしょうか。派手だとすれば、その理由は何なのでしょ う。私が新聞、ラジオ、テ レビの取材を受けるネタでもっとも多いのがこのテーマです。
  ここでは派手だと言われる要素を分析し、尾張地方の軽工業の発展とボタモチヨビ・エリゾロイと呼ばれるムラの女性 たちへの花嫁と道具の披露 慣行の存在、さらには「在所」と呼ばれる嫁の実家の置かれた立場から派手な結婚の裏側を探ります。
尾張平野の田 植慣行
 田植は稲作ではもっとも手間と時間のかかる仕事です。ところ が尾張平 野では、その田植をわずか一日で済ます習慣になっていました。そして、そのためにヒヨと呼ばれるたくさんの田植人足を雇ってたく さんのお金を払っていまし た。田植時期には大勢のヒヨが尾張平野を行き交う姿が見られましたが、彼らはどこから来たのか。何よりもどうして一日で植えなけ ればならないのか。その謎 解きのため尾張平野の農業構造を分析し、畑作と稲作からなる尾張北部と、稲単作の南部という農業の地域性を明らかにします。
犬山の 町組織と犬山祭り
 犬山は成瀬氏の城下町で、町衆が山車を繰り出す犬山祭りを 担ってきま した。伝統的町場には厳然とした町衆の家格差があり、一方では、町衆は平等であるという意識が存在します。この矛盾する二つの原 理が町の自治や祭りの場に どのように顕在化するのか。そして、伝統的な町場が廃れてゆく中で、このような古い意識がどのように壊れ、町の自治や祭りの維持 のために姿を変えてゆくの か。空洞化に悩む現代の都市の問題にも切り込んでみました。
尾 東・尾北地域の通過儀礼
 尾張東部の丘陵地帯は、西部の平野に比べれば江戸時代になっ て新しく 開けた地域です。尾張地方の文化のセンターは西部にありました。しかし、古い通過儀礼のしきたりは東部の方にたくさん残されてい ます。それはなぜなので しょうか。
  柳田国男は「蝸牛考」を著わし、京都に端を発した文化が地方に伝わり、京都では新しい文化がその後も創造されて地 方に伝わっていった結果、 それがまだ来ないところでは古い文化が残っていることを指摘しました。いわゆる周圏論です。柳田の周圏論は当てはまる事例もあ り、そうでないものもあり で、全面的には認められていません。これを地域レベルで検証しようとしたのが鹿児島の小野重朗でした。ここでは、尾張地方の通過 儀礼にも周圏論的分布が見 られることに着目してみました。
製糸と機屋
 製糸と織物業は近代日本の発展を支えた産業です。今まで、こ れらはあ まり民俗学の研究対象とはされていませんでしたが、その仕事の中身は熟練を要するものであり、機械化がさらに進行した今となって は、その技術を記録してお くことに意味があります。また、働き手は若い女性が主でしたが、彼女たちは住み込み、節季払いという江戸時代以来の伝統的な雇用 形態に基づいて働いてお り、古い慣行を利用しつつ産業の近代化が進められてきたことがわかります。
  日本的経営、日本的労働とは何か、そして新しい民俗学の調査対象として機械化以後の生業が重要なジャンルであるこ とを指摘します。
※いずれも図版や写真を除いたテキストデータだけであり、また、刊行された完成版とは若干異なります。草稿段階のものも 含まれています。


主な著書・論文など

・教員をしながらこんなものを書いてきました。ここで得た資料が授業で役立っています。

「山村における親類結合の変貌−鈴鹿山脈北部時山集落の場合−」(新地理31巻1号)1983年6月刊=卒業論文
 『豊明市史 資料編五』(共著)豊明市史編纂委員会1988年3月刊
 「鈴鹿山脈北部時山集落の民俗(1)」(名古屋民俗41号)1988年11月刊
 「鈴鹿山脈北部時山集落の民俗(2)」(名古屋民俗42号)1989年5月刊
 『安城市堀内町の民俗』(共著)安城市歴史博物館1992年3月刊
 『豊明市史 本文編』(共著)豊明市史編纂委員会1993年3月刊
 『婚礼披露における女客の優位−嫁社会への加入式−』名古屋民俗研究会1993年12月刊=第14回日本民 俗学会研究奨励賞受賞
 『春日井市史 現代編』(共著)春日井市史編集委員会1994年3月刊
 『新修名古屋市史報告書1 高針地区民俗調査報告』(共著)名古屋市総務局1995年3月刊
 「都市化と民俗の変容−春日井市下市場の事例−」(日本民俗学203号)1995年8月
 『下市場誌』(共著)1998年2月刊
 『新修名古屋市史報告書3 下之一色地区民俗調査報告』(共著)名古屋市総務局1998年3月刊
 「カヨイ婚と念仏婆さん」(『愛知県史民俗調査報告書1 篠島』)愛知県総務部県史編さん室1998年7月 刊
 「トックリコロガシと両仲人」(『愛知県史民俗調査報告書2 西尾・佐久島』)愛知県総務部県史編さん室 1999年7月刊
 『津具村誌』(共著)津具村2000年3月刊
 「ウブヤと地取り・ムショウ参り」(『愛知県史民俗調査報告書3 東栄・奥三河』)愛知県総務部県史編さん 室2000年7月刊
 「奥三河の年中行事」(『愛知県史民俗調査報告書3 東栄・奥三河』)愛知県総務部県史編さん室2000年 7月刊
 『新修名古屋市史 第9巻 民俗編』(共著)新修名古屋市史編集委員会2001年6月刊
 『あいちの祭り行事−あいちの祭り行事調査事業報告書−』(共著)愛知県教育委員会2001年3月刊
 『瀬戸市民俗調査報告書1 幡山・今村地区』(共著)瀬戸市史編纂委員会2001年3月刊
 「津島町衆の生活と出入衆−冨永新六商店の事例−」(『愛知県史民俗調査報告書4 津島・尾張西部』)愛知 県総務部総務課県史編さん室 2001年6月刊
 「尾張平野の田植え慣行」(『愛知県史民俗調査報告書4 津島・尾張西部』)愛知県総務部総務課県史編さん 室2001年6月刊
 「尾張の嫁入り」(『愛知県史民俗調査報告書4 津島・尾張西部』)愛知県総務部総務課県史編さん室 2001年6月刊
 「愛知県内の仲人慣行と地域性」(『信濃』54巻第1号)信濃史学会2002年1月刊
 『瀬戸市民俗調査報告書2 水野・掛川地区』(共著)瀬戸市史編纂委員会2002年3月刊
 「尾東・尾北地域の通過儀礼」(『愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部』)愛知県総務部総務課県史編 さん室2002年6月刊
 「犬山の町組織と犬山祭り」(『愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部』)愛知県総務部総務課県史編さ ん室2002年6月刊
 「製糸と機屋−機械化以後の生業の「民俗」−」(『愛知県史民俗調査報告書6 渥美・東三河』)愛知県総務 部総務課県史編さん室2003年8 月刊
 「東三河の通過儀礼」(『愛知県史民俗調査報告書6 渥美・東三河』)愛知県総務部総務課県史編さん室 2003年8月刊
 『瀬戸市民俗調査報告書3 赤津・瀬戸地区』(共著)瀬戸市史編纂委員会2003年9月刊
 『宮村史』(共著)宮村史編集委員会2003年12月刊
 『一宮市萩原町中島の民俗』(共著)名古屋民俗研究会2004年5月刊
 『瀬戸市民俗調査報告書4 品野地区』(共著)瀬戸市史編纂委員会2004年10月刊
 『犬山祭総合調査報告書』(共著)犬山市教育委員会2005年3月刊
 『愛知県史 別編 民俗3 三河』(共著)愛知県2005年3月刊
 「尾張・三河の四水と民俗」(『季刊河川レビュー』133号)新公論社2006年2月刊
 『瀬戸市史 民俗編』(共著)瀬戸市2006年2月刊
 『可児市史 第4巻民俗編』(共著)可児市2007年3月刊
 『豊明市史 総集編』(共著)豊明市2007年3月刊
 『愛知県史 別編 民俗2 尾張』(共著)愛知県2008年3月刊
 『男と女の民俗誌』(日本の民俗7)(八木透、山崎祐子、服部誠著)吉川弘文館2008年9月刊
 『須成祭総合調査報告書』(共著)蟹江町教育委員会2009年3月刊
 『新修名古屋市史 資料編民俗』(共著)名古屋市2009年3月刊
 『みよしの民俗』(共著)三好町誌編集委員会民俗部会2011年3月刊
 「自治体史編さんとマチ・都市の民俗」(名古屋民俗58号)2011年3月刊
 『愛知県史 別編 民俗1 総説』(共著)愛知県2011年3月刊

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