「津
島町衆の生活と出入衆−冨永新六商店の事例−」
服部 誠
はじめに
伝統的なマチは、大店、小商人、職人など雑多な人々の生活する場であるが、個々人がバラバラに暮らしていたわけではなく、様々な人的ネットワークの中で
生活が営まれていた。マチの社会は、農村のように血縁関係や地縁関係を基本として作られた比較的単純な社会ではなく、町内という地縁関係、同業という職縁
関係の他、職人の場合の親方と徒弟、商家の場合の主人と使用人、あるいは檀那場と出入という一種の親分子分関係、さらには芸事や趣味などの同好関係が輻輳
した社会であった。そして、個々人がそれぞれいくつもの関係を合わせ持っているという点で、非常に複雑であった。現代都市社会における人々の関係も複雑で
あるが、都市社会のそれが契約や個人的好悪によって作られたものが多いのに対し、かつてのマチでは義理に基づいて維持された関係が多く認められる。それが
伝統的マチ社会と現代的都市社会の差であり、その典型を檀那場と出入の関係に見出すことができる。
マチを階層的にながめれば、その頂点はいわゆる町衆であり、経済力に由緒を加えた大店が位置づけられた。かつて、ある程度、規模の大きな商家では、商売
の場所である「店」と、家族の生活の場である「奥」が分離しているのが普通であった。そして、生産の場である「店」には「店」の使用人、生活の場である
「奥」には「奥」の使用人がいた。しかし、冠婚葬祭や祭礼の時には、この人たちだけでは手が足りなくなり、お出入と呼ばれる人たちの手伝いをあおぐことに
なる。村落社会の一般の農民の場合、冠婚葬祭時の手伝いは、組やシンセキなどの互助によって営まれる。これに対し、商家では、その家族が互いに労働力を提
供し合うような互助関係は作られていない。お出入の関係は、商家の人々が生活を営んで行く上では欠かせないものであった。お出入りの側から見た場合、出入
り先の商家は檀那場と呼ばれる。檀那場は、お出入に対して義理立てをし、普段は優先的に仕事をくれる。出入の人にとって、よい檀那場を持つことは生活の安
定につながった。したがって、檀那場の求めに応じて本業以外の場面で労力を提供することは、そのような檀那場に対して義理を立てることに他ならなかった。
檀那場と出入の関係は、同じく親分子分的色彩を持つ職人の親方と徒弟という師弟関係、商家の主人と使用人という雇用関係以上に、義理によって結ばれた関係
であると言える。
本報告では、津島の町衆・冨永新六家の事例を中心に、かつての津島の町衆がどのような生活をしていたかを振り返る。そして、商家とお出入の関係について
ながめ、その関係が崩壊してゆく状況について見てゆくことにする。それは、この関係を紐解くことが、伝統的なマチを理解する上で欠かせないと考えるからで
ある。
まずその前に、冨永家のあった津島のマチの様子について、一瞥しておこう。
1 津島のマチのくらし
町場としての津島
津島は津島神社(津島牛頭天王社)の門前町として、また、江戸時代前期までは桑名に至る航路の港町として古い歴史を持っている。とりわけ古
いマチは、現在の本町通りに沿って、かつての天王川の自然堤防上に成立している。「本町筋をタカマチヤと呼び、一番元の堤防であったところ」とされ、ま
た、本町筋は「昔は富裕者がたくさん住んでいた」という。津島祭りの車楽を出す米之座、堤下、筏場、今市場、下構の、いわゆる「津島五か村」はこの地域
で、かつては繊維関係の商店や造り酒屋、地主などが軒を並べていた。
近世には、本町筋の西に天王川が流れ、津島神社との間には天王橋が掛けられていた。本町筋からこの橋に至る道筋が橋詰町である。ここは門前町として小商
いや食べ物屋などの店が並び、津島駅から神社に伸びる天王通りが開通する以前は、もっとも繁華な場所であった。天王川は近世後期には堰止められ、その後の
埋め立てによって、昭和初期には、この周囲に新天地と呼ばれる歓楽街が形成され、映画館や料理屋が並び、多数の芸者衆の姿も見られた。もちろん、新天地以
外にも、門前町である津島には、浦方町、舟戸町など近世から花街が形成されていた。
一方、本町筋の東は、かつては大工、左官、仲士、日傭方など職人衆の住む町で、小さな長屋が軒を並べていた。この地域は借家が多く、住居に風呂が設けら
れなかったため、現在でも、津島のマチには銭湯が多く目に付く。
また、津島は寺の多いことでも知られ、約50の寺がマチの中に点在している。町屋造りの家は道から街区の中に向けて細長く伸びるため、空白となった街区
の中心に寺が建てられている場合が多い。このように、津島は、かつてのマチとしての要素を色濃く伝えている。
マチの社会関係
マチの社会組織は、それぞれの町内ごとに差があり、複雑である。かつて上切町と言われた本町1丁目では、資料に掲げたような町規則があっ
た。町の人々は五人組に組織され、その代表を伍長としている。また、伍々長2名が選挙され、立合総代と称された伍々長と伍長によって町政が司られているこ
とがわかる。月行司は、立合総代以外の町の人が月番で務めていたもののようで、伍々長の指示で集会の案内などをおこなっていた。町費の割り付けを「丁銀
割」と呼び、旧暦3月と8月に立合総代によって家ごとに金額が決められた。
かつてのマチでは、家ごとの経済力の格差は大きく、町費はこの差を考慮して徴収されていた。本町3丁目(坂口町)の場合、町費は13段階に分けられ、最
大は銀行の支店の150口、次は車屋を務める渡辺家の100口であったという。銀行は実際には町のことには関わらないので、総会があるときは、渡辺家の当
主が一番の正座に座っていた。乗り方を務めるような町衆の場合、町費の口数は10口だったといい、本町3丁目における渡辺家の経済力の大きさがうかがえ
る。町費は、下げればその家の恥になると考えられたため、途中で上げることはあっても下げることはなかった。本町3丁目は、津島祭りには筏場車を出すが、
その範囲は横町や筏場町を含むため、そのためのお金は町費とは別に車屋、乗り方衆で負担していた。
マチの社会関係で重要なのは、いわゆる向こう三軒両隣である。先の本町1丁目の町規則でも、他町から引っ越して町入りした場合、向こう三軒両隣、町請、
家請、伍々長を招いて懇親会をするものとされている。これに対し、五人組には酒と肴代を出すことになっており、日常のツキアイでは、五人組よりも向こう三
軒両隣が優先したことを物語っている。
五人組は、現在の班に受け継がれるものである。班は冠婚葬祭時にツキアイをする単位であり、葬式の時はオトキのお膳などを手伝った。マチでは、料理は仕
出屋などから頼むのが普通で、ご飯と味噌汁などもご飯炊きを頼むことが多かったようである。同じ班の女性はお膳を組んだり出したりという仕事を手伝った
が、出入の人がいれば、その人たちが立ち働くため、本町筋の場合は、班の人の仕事はあまりなかったようである。婚礼の場合も、式の翌日に近所の女衆を招い
て披露することがまれにあったが、この時も班と向こう三軒両隣の人が呼ばれていった。
マチの人たちと農村の人たちの間にも、様々な交流があった。田畑を持っている家ではそれを小作に出していた。本町の「砂糖正商店」では、2反ほどの他を
小作に出し、飯米を取っていたが、小作とのツキアイは緊密であった。向こうからは、野菜が取れれば持ってきてくれ、遠足だとサトノキをもらったし、豆名
月、芋名月の時は、豆や芋を持ってきた。「砂糖正商店」からも折に触れて届け物をして、シンセキのようなツキアイであったという。かつては、下肥の汲み取
りにはこの小作の人が来ていた。
下肥の汲み取りは、マチの人と農民との接点の一つであった。小作を持っていない場合でも、長年のツキアイである特定の農民が汲み取りに来た。本町2丁目
のある家では、天王川の向こうの中地の人が自転車のうしろにリヤカーをつけ、肥桶6個を積んで汲み取りに来た。この人は、近所に4〜5軒くらいのお得意さ
んを持っていて、天秤棒で肥桶を担って家の中に入ってきて、汲み出していった。家によっては、汲み取りの際には野菜をもってきてくれることもあり、また、
12月になると豆殻を持ってきてくれた。豆殻は「まめになる」といって、正月の朝、雑煮を炊くのに用いた。汲み取りは、戦後すぐに回数券の制度になった
が、農家の手で処理される時代は昭和30年頃まで続いた。
一般の町屋では職人の出入を持つことはまれであるが、大店でなくとも、農家の人を出入に頼んでいる家はあった。茶道具を扱った「戎利商店」では、何かが
あった時にお願いをして、代わりに高張りをもって見舞いに行ってくれたり、使い歩きをしてくれる農家の出入を持っていた。
マチの行事
マチらしさを感じさせる年中行事についても触れておこう。
年末から正月にかけては、マチが賑わう季節である。太平洋戦争前は、新正月よりも旧正月の方が盛んに祝われ、商店の掛け取りも旧暦の大晦日におこなわれ
ていた。正月の餅も、新正月には三が日分のものを用意するだけで、保存用のセンベイやアラレなど、餅を大量につくのは旧正月であったという。旧正月は織物
工場や学校も休業となり、2、4、7日には津島神社の南にサーカスなどもかかったこともあり、津島のマチは賑やかであった。
正月の餅は、大きな家では出入の者が来てついたが、小商いの店などでは賃つきを頼んだ。賃つきは日傭方が5〜6人で請け負ったもので、臼を始め、ない場
合はクドや釜も吊って持ってきた。餅つきは、「苦をつき込むのでよい」といって29日にする人もいたが、普通は、この日は苦餅といって嫌い、8の日は「開
くのでよい」といって28日につく場合が多かった。餅米はついてもらう家で用意をし、釜にかけて蒸しておいた。お飾りは、店、神棚、仏壇、床の間、水神、
荒神、便所、風呂場などに飾る。なお、松飾りはよほど大きな商店、料理屋、会社などしか飾らず、普通は花屋から注連飾りを買ってきてつけていた。
大晦日は、夜の10時、11時まで店が開いていて、お客さんも遅くまで買いに来てかき入れ時だった。昔は、掛け取りで31日しかお金が入らなかったため
であるという。夜遅くまで掛け取りに回っているので、町家(ちょうか)の人は旧正月一日はゆっくり寝ることになった。
2日は初荷で、朝早くから商品を配った。小売のところには問屋さんがお酒を持って挨拶に来た。昔の津島は織物工場の女工さんが多かったので、呉服屋は大
売り出しをして賑やかだった。
旧暦1月10日は、十日市といって米之座に祭られている津島神社末社・市神社の祭りである。市神さんは女の神様であり、甘いものが好きだと言って、お祭
りの朝は味噌汁の代わりにお汁粉を作った。十日市は朝の祭りで、早く行かないと福がなくなると言って、早朝、お参りに行った。現在でも、一番札を取るとよ
いというので、深夜2時頃にはお参りの人が来ている。かつてはたくさんの露店が出て、柔らかくて粉がついた小指くらいの大きさの福飴を売った。また、どこ
を切ってもお多福が出てきたお多福飴や、紙でできた柄杓状のものの中に豆を1〜2粒入れ、両面には恵比須大黒を付けたガラガラのようなものなど、いくつか
の縁起物が商われた。十日市は、現在も祈祷に訪れる人が多く、福引きもあって賑やかである。
様々な門付けが回ってくるのもマチらしい現象で、正月の万歳の他、節分の夜には厄祓いが来た。モリドウギ(守胴着。コオビドウギ・子負び胴着)に頬かむ
りをした男の人が「ヤッコ祓いましょう」といって回って来るので、戸を開けて頼んでお金を渡すと、「ヤラメデタヤノ、タノシヤラ、タノシイコトデイウナラ
バ、商売繁盛、お家繁盛、鶴は千年、亀は万年・・・メデタシメデタシ・・・ココラデチョイト歌づくし・・・ハラッテ西の海へサラリサラリ」という厄祓いの
歌を歌っていった。なお、盆には女の人が一人か二人で「お盆でございます」といって物乞いに来たので、これに対してはお金を渡したという。
繊維問屋では、東京や大阪から仕入れに来た人があれば、そのもてなしに「三戎」(片町)、「山平」(橋詰町)、「まのや」(祢宜町)などの料理屋に行
き、芸者衆をお酌に頼むのが普通だった。津島には、多いときには130人もの芸者衆がいたという。節分の時は、芸者衆は普段はツブシ島田に結った頭を丸髷
にして、黒の裾模様を着て、舟戸町の西福寺で豆撒きをした。
夏の津島祭り、13両の山車が引かれる秋祭りは、いずれもマチの祭礼である。旧暦10月20日の恵比須講の時は、橋詰町や天王通りの商店街では大売り出
しがおこなわれた。
2 冨永家に見る商家の民俗
津島市米町の冨永新六家は、津島祭りの車楽の一つ、米車を維持した車屋である。その由緒についてはつまびらかではないが、同家には「蛭子屋新六」名で
「寛政十三歳辛酉正月吉日」(1801)起こしの「大吉萬福帳」が伝えられており、冨永家は、近世後期には津島の町場で、縞ものの扱いを中心とした木綿問
屋を営んでいたことがわかる。その後、「天保十一年庚子正月吉日」(1840)起こしの「年々棚卸勘定帳」には「夷屋新六」、「文久三年癸亥正月吉日」
(1863)起こしの「年々棚卸帳」には「戎屋新六」と記され、屋号の記述には変遷があるが、商売は順調に推移したものと見られる。弘化2年(1845)
には、米之座村車肝煎役となって苗字帯刀を許されており、以後、現在に至るまで米車の車屋を勤めている。
明治21年の「尾陽商工便覧」によれば、「佐織縞 買継問屋 本家冨永新六」として紹介され、米町の現在地で営業をする同家の様子が描かれている。新六
氏(大正4年生まれ・故人)によれば、日清戦争の後、明治35年に台湾に進出し、夜間の営業もおこなうため、台北の日本人居留地外で支店を構えるように
なった。台湾には、台南、台中にも支店を持ち、現地人を雇用して日本から輸出した綿織物を販売した。織物は、海部郡、中島郡などのコバタ屋が織ったものを
仕入れ、月に1〜2度、出荷していた。明治43年、「夷屋」は合資会社冨永商行となり、やがて、津島近郊で毛織物の生産が盛んとなると、国内向けに毛織物
も扱うようになっていった。その一方で、冨永家は津島近郊で土地や家作の経営もおこなっていた。大正前期の好景気の最中が、冨永新六商店にとってもっとも
充実していた時期であり、昭和になると、奉天にも支店を開設した。
ここでは、聞き書きによって復元した昭和初期の冨永家の暮らしについて紹介する。同家の屋号は蛭子屋、夷屋、戎屋、冨永商工などと各種があるため、便宜
的に冨永新六商店の呼称を用いることにする。
冨永家の使用人
かつての大きな商家は、商売の場である「店」と主人家族の生活の場である「奥」が分かれ、使用人も「店」の者と「奥」の者に分けられた。一
方、商店の家族は「上」の者であり、使用人は「下」の者とされ、商家は、その内部が4分される構造を持っていた。このことは、商家の空間的な利用形態にも
反映している。第1図は、昭和初期の冨永新六家の間取りである。図のように、冨永家では家の中が店と奥に分けられる。店と奥の境の部分の上に神棚が吊って
あった。店の部分以外は「奥」である。古い番頭さんは「奥」に入ってくることができたが、若い人は入ることを遠慮していた。もっとも、店員の方から奥に
入って来ることはなく、何かの用事で呼んだときに来る程度である。反対に、「奥」の人でも娘さんなどは、なるべく「奥」にいろと言われていた。
使用人の居所も店の者と奥の者とでは異なる。店には一人では動かせないような太物など、商品の反物が300本〜500本も山のように積まれ、留守番を兼
ねて店員2人が寝泊まりし、あとの店員は2階で寝ていた。一方、奥の女中は別の2階で寝ていた。
太平洋戦争以前の商家では、使用人は主家に住み込んで働くのが一般的であった。店の使用人については、日常の衣食と将来の別家を保証される代わり、小遣
い程度の報酬で働く仕着別家制度が、商家が本来有していた雇用慣行である。しかし、冨永新六商店の場合、昭和初期には仕着せはなくなり、個人個人で洋服を
用意するようになっていた。「津島でも小さい店は、揃いの法被に藁草履というところがあったが、冨永新六商店は番頭もみんな開けていて、昔臭いしきたりは
なかった」という。また、当時は給料制になっていて、入店したての小僧でも、1カ月に3円をもらえた。支給は月末で、現金の入った封筒をもらう。3円は純
粋に手取りであり、ここから食費などを取られることはなかった。冨永新六商店は、輸出商らしく新しい経営環境を積極的に取り入れていたのであり、女店員も
2人雇っていた。古い時代の慣行として残されていたのは、番頭と女店員以外の店員が住み込みで働いていた点であろう。当時の従業員は女店員を入れて
13,4人であった。
店の使用人に対し、奥には主人一家の用をこなす住み込みの女中が2〜3人いた。商家では、雇用する女中には代々同じ名前をつける習わしがあるが、冨永家
では、奥用の上女中はキク、雑事をする下女中はハルという名前に決まっていた。女中は嫁入り前に来て行儀見習いをするのが目的であり、結婚するとやめてゆ
くことになった。このほか、子供が小さいときには、子守の女中が一人一人についていたという。
店員は、大きく見れば小僧と番頭とに分けられる。小僧は高等小学校卒業後、冨永家の主人が学校に募集に行ったものに応じたり、縁故によって入店した。商
家では入店の先後によって扱いが異なり、住み込みの新弟子は次の者が入ってくるまで、広い店の掃除をさせられた。朝は5時に起き、店の中と倉庫を掃除し、
格子戸などは格子の1本1本を拭いていった。
冨永新六商店では、35,6歳の人が番頭として一番の働き手で、一番頭は会計、二番頭は営業をしていた。番頭さんは全部で5人ほどいた。番頭には定員は
なく、嫁をもらって通いになれば番頭と呼んでいた。冨永新六商店の場合、所帯を持って出ていった人を別家ということもあった。従業員が結婚する年齢は特に
決まっていなかったが、結婚すれば、家を持って通って来なければならず、たいていは30歳くらい、早くても28歳くらいで、それまではしたくてもできな
かった。結婚にあたっては、店では祝儀だけを出し、家財道具を揃えてやるようなことはなかった。また、式は、結婚する人が独自に用意した新居で挙げ、店の
人が招かれて行った。仲人を店の主人が引き受けるということもなく、従業員の結婚に際して、主人はあまり関係なかったようである。
番頭を勤め上げた人は、辞めてからも冨永家とのツキアイは続き、年に2〜3回、頼まれてはお出入をしていた。いずれも60歳に近く、そういう人が津島に
は5〜6人住んでいて、いずれも自分の甲斐性で借家を2〜3軒建て、この収入で暮らしていた。
一方、暖簾分けした人をシンヤといい、冨永家には、5代前といわれる冨永新吾家を始め、何軒かのシンヤがあった。中には、台湾で独立した人も4〜5人い
たが、シンセキでなければ、本家が独立を援助することはなかったようである。商家は、本家と別家衆によって商家同族団を結成することもあるが、津島の町衆
の場合、このような結束は確認されない。冨永新六家も、2代目の時に筏場の呉服商・戎徳に世話になり、戎徳(エビトク)の北店として家を持ったのが始まり
という。このため、屋号も戎屋新六で、エビ新と称された。また、しかし、これらの家が、特別に結束する関係はなかったようであり、それは、津島という町場
の規模の小ささに起因すると思われる。
店の仕事
冨永新六商店は買い継ぎの卸問屋であるため、外国支店のあった台湾や満州を除き、間に入った商社の指示で外国などの指定先に品物を出荷して
いた。品物は機屋に注文して織らせたもので、営業日の午前中は、小僧が機屋への注文に使い歩きに出かけた。取引先の機屋は佐屋、祖父江、平和などに50軒
くらいあった。糸や商品の残りのことなどは電話連絡で済ませ、これを織ってくれという細かい話は書類を持って行って指示をした。小僧は自転車をこいで書類
を届けたが、5人の番頭がバラバラに注文を出していたため、一度行った先にまた出かけることもあったという。
昼からはたいていは出荷の仕事となり、反物詰めや店先での釘打ちをした。反物はセル箱に入れて出荷をする。朝、材木屋の八百大に「縦・横・深さ何セン
チ」「6反の箱」というように寸法と数をいって箱を作らせ、昼までに持ってこさせる。八百大では、人間の背丈くらいもある大きな箱を、半日で200個も
作ってきた。品物が詰められると、セル箱に冨永商行の名前と出荷先の名前を、型をあてて墨で刷っていった。準備が整うと、駅にいた運送屋(駅仲仕)の丸
通、丸十に電話をかけ、大八車10台くらいで荷を取りに来させた。セル箱は道にいつまでも並べておけないので、出来たものから大八車に積んで駅に送った。
運送屋は、駅に荷物を置くと、すぐに次のを取りに戻ってきた。場所がないので、商品は次々に詰めて釘を打っては積み出すことになる。隣の冨永新吾家は新六
家のシンヤで、同じく繊維を扱って同じような作業をしていた。商売敵でもあったため、向こうが200本出荷すればこっちは300本だというように張り合っ
ていた。釘打ちは運送屋も手伝ってくれ、店員は反物のどれを入れるかを指図して、品物を担いできては詰めてもらった。荷作りの仕事をするのは下回りの小僧
の仕事で、2人がかりであった。
小僧に対し、先輩の仕事は出張が多く、自分の得意先がある東京や大阪に泊まり掛けで出かけ、電話で注文を連絡してきた。
冨永新六商店は卸なので仕事に区切りがあり、小売商のように営業時間に際限がないということはなかった。5時半か6時には仕事は終わり、夜は通いの人は
帰り、住み込みの者も、晩御飯を食べたら縫い物や肌着の洗濯をしたり、喋って過ごしていた。夜、小僧が習いものなどをすることは特にはなかった。
商売には独特の符丁が用いられることもあった。冨永新六家では、数字の符丁として「ヌ、エ、ビ、ス、ヤ、ノ、シ、ン、ロ、ク」を用いていた。これは、順
に1〜10になる。数字を表に出したくないときは、ほとんどの場合は店の者同士でこれを使っていた。お客が来て値切ったとき、番頭が「ノの字」にするかど
うか聞いてくると、奥で「エの字にしろ」などと言い、商談の他、帳面にも書き付けた。
商家の暮らし
商家の暮らしは質素であったと語られることが多いが、冨永新六商店の場合にはそのような側面を見いだせない。これは、比較的早くに仕着別家
制から給料制へ移行したためであろう。朝食は8時から9時、昼は12時、晩は6時くらいに食べた。食事はニワに面したところで食べ、店の者も奥の者も一緒
の場所であった。店の者は箱膳、奥の者は小さなお膳を使ったが、後には飯台を用いるようになった。おかずは皿づけでつけてあるのでお鉢からご飯をよそって
食べる。奥の者が先、次いで店の者、最後に女中というように順番があった。実際には手の空いているものから食べてこいといわれることが多く、遠慮している
と食べられなくなってしまったという。また、食事はさっさと済ませることになっていた。店員の中では年の順で食事をとることになっていて、小僧は入店した
順番に座った。おかずは一菜で、これに味噌汁と香の物という献立であり、冨永家の家族も同じものを食べていた。漬け物などは順に取って回してゆくので、最
後の新入りまで回らないこともあった。肉じゃがなどが出たときは、先に食べる人が肉だけを拾ってしまい、残りはジャガイモだけということもあった。冨永新
六商店の食事はかなりよく、肉や魚もよく出たし、ご飯にも麦は入っていなかったという。恵比須講以外は酒が出る日はなかったが、好きな者はこっそり池須町
に飲みに行ったりしていた。昭和16,7年頃、女中さんが嫁にいってお勝手をやる人がいなくなってからは、仕出屋の「魚島」で朝、昼、晩の食事を全部とる
ようになり、この時の代金も店持ちだったという。
冨永家は田地を持っていたので、小作が米を持ってきた。これは会計役の番頭が管理をしていた。米は店に持ってくるので、ここで検査をおこない、店の米倉
に入れていたが、店に人手がなくなってからは、農協の倉庫に入れるようになった。
風呂は下女中が毎日焚き、店員は年の順で入浴した。大勢が入るため、後の者は水を足したりして焚きなおしをした。
夜になると、店では新入りが住み込みの人の布団を全部敷いた。全部で8〜9人が店の2階などで寝たが、布団は物置に個人個人のものが入っていて、枕に
よって誰のものかがわかった。寝る場所も年の順で上下があった。冬は掛け布団が2枚になる。朝は、先輩たちでゆっくりの人は8時に起きればよく、先に起き
た新入りが待っていて布団を上げた。
洗濯物は近くの洗濯屋に出し、洗濯代は自分持ちであった。女中が従業員の洗濯をするようなことはなく、奥の人のものについてだけ、女中が洗っていた。
休みは月に2回、第1と第3の日曜日だった。この日は朝から休みだったが、店を辞めた番頭さんたちが新小僧を小間使に使いに来たので、実際にはなかなか
休めなかったという。盆正月には3日くらいの休みがあり、冬はボーナスが10カ月分出たので、正月休みを利用して伊勢や奈良に連れていってもらった。
特徴的な商家の年中行事
商家の一年の節目は、棚卸しと決算がおこなわれた正月である。「年々棚卸帳」によれば、冨永新六商店の棚卸しは旧正月におこなわれていた。
正月は新暦で祝っていたが、台湾に出荷するものが多いと新正月は仕事を休めないこともあった。これに対し、旧正月は3日間くらい休み、店員も薮入りで里に
帰った。正月の餅は新暦の年の暮れ、出入が2人来てつき、一番大きな鏡餅を帳場に飾り、他は金庫の上、仏壇、おクド(竈)、井戸、神棚、床の間、蔵に飾っ
た。大晦日は早くに店を閉めないと福が逃げて行くと言い、風呂に入ってはいけないとも言った。
正月1日は「ゆっくり店を開け」と言い、「箒を持って掃くな。蔵や金庫を開けるな」とも言った。したがって、正月前に出したいものは出しておかなければ
ならなかった。2日は初荷で、運送屋が赤地に白の染め抜きで「初荷」と記したものを用意してくるので、これを荷造りしたものに貼っていた。
秋の恵比須講は、商家にとっては大きな行事である。冨永新六商店は小売はしていなかったので、恵比須講の日に大売り出しなどはおこなわず、引き物なども
出さなかったが、この日は店員祝賀会と称し、年に一度、従業員にすき焼きを食べさせる日であった。店からはカシワの肉を提供したが、これで足りなくなる
と、従業員たちでお金を出し合って馬肉を買ってきて追加した。冨永新六商店では、従業員は普段は酒は飲めないが、恵比須講の日には惜しまずに酒が出され
た。奥では、床の間に恵比須、大黒の掛け軸を3〜4つ掛け、レンコンと切り干しの煮ものなどを供えた。また、魚屋の「カネチョウ」から生きているエビスブ
ナ(鱗が透明なフナ。津島市指定天然記念物で、別名をエベッサマという)を3匹くらい買ってきて丼に入れて供え、このあと、新堀川にフナを放した。
3 町衆のハレと出入衆
(1)冨永家の出入衆
店と奥という二面性を持った商家では、店の仕事が店員たちによって支えられたのに対し、奥の生活は奥の使用人によって支えられた。しかし、奥で営まれる
ハレの儀礼や行事の際は奥の使用人だけでは手が足りず、出入衆の互助が必要であった。町衆と使用人、出入衆の関係は、構造的には第2図のように捉えられ
る。
出入と一口に言っても、津島の町衆とかかわっていた者の内容は3つに分けられる。それぞれの出入の性格の差を押さえておこう。
一つ目のタイプは、代々、主家のために奉仕する譜代の出入である。多くは地主小作関係で結ばれた農民であり、土地を仲立ちとした親分子分関係に基づいて
いた。これは、農村の地主の場合でも同様の出入衆を持つのが普通である。マチに特徴的なのは二つ目のタイプで、主家から優先的に仕事を与えられることで、
出職の職人衆が普段から様々な主家の仕事の手伝いをする関係である。商家はたくさんの家作を持っていたこともあって、マチでは農村に比べて普請などの仕事
が多く、大工、左官、日傭方、畳職、瓦職などの職人衆が商家に出入りをしていた。三つ目は、八百屋、魚屋など小商いをする者で、商売上のお得意さんとして
商家に出入りしていた者である。彼らは、冠婚葬祭などの際に手伝いを依頼されることもあったが、前二者に比べれば、主家との親分子分関係は希薄であった。
ここでは、小商いの出入を除外し、譜代の農民の出入と職人衆の出入について概観しておく。
譜代の農民の出入
冨永新六家の場合、農民の出入は小作の人が二人で務め、一人が中心でもう一人が補助だった。この人たちは、冨永家の一切の雑用をしていた。
大正の頃、冨永新六家の譜代の出入は、佐織町見越で冨永家の小作をしていた若山儀左衛門氏で、その後、子の新八氏に引き継がれた。昭和初期、新八氏は冨永
家では「シンサ」と呼ばれ、もっとも頼りになるお出入であった。若山家は、何代も冨永家の出入をしていたため、冨永家の奥のことをよく知っていたといい、
冨永家で何かがあると、すぐに「シンサを呼んでこい」ということになった。台風で被害が出たりすれば、シンサが来て修繕に何人の人がいるかを算定し、出入
の職人衆の手配をおこなったし、近所に火事があったようなときでも、シンサが火事見舞いの半纏を着て、名刺を持って見舞いに回ってくれた。嫁入りなどで人
手がいる時は、シンサが人の手配のために職人衆のところに連絡に回った。冨永家には番頭はいるが、番頭は店のことを受け持つのであり、冨永家の奥にかかわ
ることはシンサの受け持ち領域であった。シンサは奥の番頭であったとも言える。
商家では、汲み取りに来る出入が一番親しかったものという。シンサは週に一度、肥桶を担って冨永家の肥汲みにやってきたが、それ以外でも、一週間の間に
何度も用を作っては出入りをしていた。暮れになると、一年間に何日出入をしたかということを報告してきたが、先方のいいように聞いて、これを年貢に換算し
て小作料を取っていた。小作の中でも、出入でない人には小作料を請求したが、シンサに対しては小作料の取り立てなどはしなかった。その分、「昼から来い」
といえばすぐに来てくれるし、何でも頼むことができたのである。冨永家とシンサの間には、労働と報酬によって結ばれた関係以上に、親分子分間の紐帯の強さ
が感じられる。様々な贈答の機会も多く、田植えの時は、シンサのところに鰹節などを田植え見舞いとして持って行き、このお返しとして、大きなボタモチをも
らった。また、冨永家では、盆と暮れにはシンサの家族の分の下駄を与えていたが、シンサはこれを何年分も天井裏にあげて置いて、「旦那のところからもらっ
た下駄だ。一代、履き物は買わないでよい」と言って、人が来ると自慢げに見せていたという。
職人の出入
譜代の農民の出入に対し、職人の出入は2代くらいで関係が切れてしまうのが普通であった。これは、その人の子供も跡を継ぐとは限らないため
であり、他の仕事に移れば、別の人を出入に頼まなくてはならなくなった。また、譜代の農民の出入とは違って、職人衆の出入には雑用を頼むなどの勝手は言え
なかったという。冨永家の出入職人には、日傭方、大工、瓦屋、ブリキ屋、庭師などがいたが、いずれも一つの業種(仕事の内容)について出入は一人だけで
あった。反対に、職人の方では、一人の人が何軒もの商家の出入をしていることもあった。職人の側では、恒常的に仕事をくれるところが檀那であれば、生活の
安定にもつながったし、いいところに出入をしていれば、「うちはあそこに出入している」といって、他に対して顔になった。職人の中では、いざという時に動
員力のある日傭方の親方が重要で、手伝いが必要となったときの指揮はこの人が執るのが普通であった。大工などは、その技術力によって高く評価されていて
も、人を動かすという能力という点では日傭方の親方には及ばなかった。冨永家の場合、明治から大正にかけては水谷与右衛門が務め、その後、国次郎に代わっ
たが、この2人はいずれも津島祭りでは米車の祝司を勤めており、冨永家の職人の出入の中心人物であった。
商家と職人の出入の関係も、個別の労働と報酬で結びついた単なる雇用関係ではない。商家の側では、出入の人がいながら、他の職人に仕事を頼んだりする
と、「檀那場を取った」といって喧嘩になったため、簡単には出入を替えることができなかった。このため、よほどのことがなければ出入の関係は続いていっ
た。職人側の事情で出入を辞めるときは、次の人を連れてくるのが普通であった。大工であれば、次には誰がいいかということを大工仲間で考え、次の人を探し
て出入になるように働きかけをしてゆく。仮に職人の代がかわって仕事が気に入らず、その人を辞めさせて他の出入に替えようとする場合は、新しく頼まれた出
入の人が古くからの出入の者に対して酒などを持参し、「旦那から頼みに来たが・・・」といって納得させに行った。新しい出入の人を頼むときは、シンサを通
じて頼むこともあった。「もめたらどうするか、金で済ませるか」と、もめ事の時にはシンサが相談に来ることもあった。新しい出入は、何かの機会で職人仲間
が集まったとき、他の人たちに紹介をした。もっとも、職人仲間であれば、普段から互いに知り合っている仲である。
出入は、商家にとってみれば、冠婚葬祭など人の手が欲しいときの労働力として頼めたし、この場合、お金を払うときも普段の払いと一括で済ますことができ
た。したがって、わざわざ別の人を雇って賃金を云々するよりも使い勝手がよかったのである。新六氏の言うとおり、「出入がいなければ、町は回ってゆかな
い」。「出入が相談事に来たときは、ある程度の話を聞いてやらないと、こっちの話も聞いてもらえないことになる」といい、商家も出入の者を大事にしてい
た。商家と職人の出入の間にも、譜代の出入の場合と同じく、一種の親分子分関係があったと認められよう。
なお、譜代の出入と職人の出入では、職人の出入の方が報酬面、仕事の取り扱いの面で格が上であった。普請などの際でもシンサは手伝いに来たが、職人の下
働きであり、「俺は百姓だで職人の下」という意識を持っていたという。しかし、主家との関係がより密接であったのは、あくまでも譜代の出入であった。
普段の出入衆の活動
冨永新六家には、明治45年2月起こしの「諸職人日雇帳」(以下「日雇帳」と略す)があり、これを元に、普段、出入衆が冨永家でどのような
活動をしていたかが復元できる。第1〜3表は、明治45年の出入衆の仕事ぶりをまとめたものである。この年は、冨永家では、故・8代新六の妻、くにゑの隠
居に伴う家屋の普請と仏壇の新調があり、また、9代新六氏に嫁いだ、あい氏に長女が誕生している。
第1表は職人の出入衆について記してある。この年は普請があったため、出入の日数は多い。冨永家では、比較的頻繁に普請があった。明治15年起こしの
「大吉萬福帳」には、商況と合わせて冨永家の出来事が簡単に記されているが、これによれば、明治14年には火事で焼亡した養父宅を普請、27年に物置土蔵
普請、39年に新座敷普請と正福寺に借家を普請、42年に上湯屋普請と書院の庭直しなどの記載がある。この年、冨永家に出入りした職人衆は大工浅吉、日傭
方の与右衛門、左官富造と松造、瓦職の六、畳職菊次郎、表具職豊七、庭師捨吉である。それぞれの名前は仕事を請け負う親方であり、仕事の際には配下の者を
連れてきている。表にはないが、「日雇帳」には6月17日に「念仏弥助」の名があり、これは仏壇を新調したことに関わっているものかも知れない。大工の出
入の延べ日数は77日、日傭方は41日、左官14人、瓦職5人、畳職4.5人、表具職7人、庭師17.5日となっている。昭和初期に冨永商店で働いていた
堀田学氏によれば、「大工の浅吉さんは一週間に2日くらいは来て、いろいろな箇所を修理したりしていた」といい、特に普請の仕事のない時でも、職人衆は出
入をしていた。
第2表は、農民の出入と手伝いの女中について記したものである。農民の出入は若山儀左衛門の他、伊藤新太郎もいるが、それぞれの仕事は雑草取り、墓掃
除、蓮根掘りというような雑事である。儀左衛門の出入日数は、3年分を見ても平均10日程度である。しかし、「日雇帳」に記載されていない分がかなりあっ
たと考えられ、堀田学氏も「よく来ていたのは若山さんで、ほとんど毎日来ていた。穴を掘ったり木を切ったり、いろいろと用事があり、オヤジさんが言いつけ
ていた。しばらく来ないと、呼びに行かされたこともある」と語っている。農作業の忙しいときは別であったであろうが、譜代の農民の出入日数は、かなり多
かったと見るべきであろう。
手伝いの女中では、およしが30日間出入りしている。彼女の肩書き「津島町瀬古女中」が何を指すかはわからないが、長期にわたる手伝いは、あいの妊娠出
産と絡むものであったことは確かであろう。あいは9月14日に女児を産み、10月12日、13日に「七夜」をしている。初子であるため、実家の大橋家で出
産したものと思われるが、およしは、9月14日以降2週間は毎日手伝いをしている。あいが冨永家にいたときは身の回りの世話をして、大橋家で出産してから
は先方で手伝いをしていたのであろうか。
第3表は仲仕の出入について記したものである。冨永商店では、商品の発送のため、津島駅にいた仲仕を頼んでいた。仲仕にはほぼ毎月、賃金が支払われてい
る点で、職人衆や農民の出入とは扱いが異なっていた。これについては、後に詳しく触れることにする。
(2)冠婚葬祭と出入衆
伝統社会において、多くの人の互助協力を必要とする機会は冠婚葬祭である。地縁的な互助組織を持っていない大店では、出入衆に手伝いを仰ぐ
ことになる。
冨永家には、享和3年(1803)以降、昭和41年に至るまで、118点に及ぶ冠婚葬祭関係の文書が残されている。その内訳は、「出産祝控帳」など産育
関係16点、「婚礼祝儀受納留」などの婚礼関係29点、「香奠帳」「諸事覚帳」などの葬送関係63点、「病気見舞帳」など交際関係9点、その他1点であ
る。この文書群は、160年以上もの間の冨永家の冠婚葬祭におけるツキアイ関係、および儀礼の内容を知ることができる点でたいへん貴重である。ここでは、
このうち「新六婚禮諸入費帳」(明治43年)、「清華院釈尼妙忠諸事控」(大正11年)、「久ら出産見舞帳」(明治26年)、「新七初児内祝控」(明治
26年)を用い、新六氏からの聞き書きと合わせて、町衆のハレの儀礼がどのようにおこなわれ、出入衆がどのように関わったかを見てゆきたい。
婚礼
明治43年、冨永新七氏(9代新六を襲名)は、同じ津島の名家・大橋家から嫁をもらった。仲人は本町で吉屋という呉服屋をしていた羽柴宗輔
氏夫妻で、新七氏には姉婿に当たる。また、これとは別に、友松信治郎氏夫妻も仲人として名が上がっている。友松信治郎氏は大阪商船の代理店の人で、冨永家
の商品を台湾に出荷するときは、全てこの店を経由して出していた。仲人が二組出されている点は興味深いが、これが婿方、嫁方双方を代表したものであったか
どうかは不明である。
結納は、婚礼の2週間前に執り行われている。この時は、2組の仲人の他、婿の父親である8代新六氏と出入衆が行っている。結納金についての記述はなく、
縮緬振袖3枚、朱珍廣帯2本、打掛1枚が結納品の主なものである。明治24年のくら氏(冨永家より出嫁)の結納時にも結納金の記述はない。結納に伴う進物
には大橋家の家族の他、店員、別家、出入、女中衆の分も用意されている。結納持参に出立する際、婿方では小宴がおこなわれた。その後、大橋家には仲人2
人、婿方親戚2人、新六氏の5名が人力車で出かけ、他の人足は徒歩で行ったものと思われる。宰領案内の前野氏は冨永家の大番頭である。明治24年の事例で
は結納持参者を新客としてもてなしている。この時も「盃相済」とあるところから、嫁方で結納盃を交わし、新客の宴があったものと推測される。明治24年の
事例では、嫁方女客によって結納開きの呼衆があった。この時の大橋家でも、同様の宴がおこなわれたのであろう。
荷入れは婚礼前日におこなわれている。荷物の受け渡しが途中であったのか、婿方まで運び込まれたものかは定かではない。荷入れに際しては仲人2人(男性
のみ)が付き添い、大橋家の手代・山内氏が荷宰領となって同行している。釣人足18名のうち6人を婿方から出すとしているが、そのうち1名は新七氏の母
親・くに氏であり、実際には17人が人足である。持参者のうち、仲人と宰領は本膳でもてなされ、釣人足には折り詰めが渡された。明治24年の事例では、道
具の他、婿方家族等への進物が持参されている。
入費の中には普請費用が含まれており、婚礼に先立って新夫婦の部屋等が新しくなっていたと思われる。入費中に幕代などの記述もあり、婚礼当日は、祝いの
幔幕がめぐらされていたのであろう。
婚礼当日、嫁方からの客を新客と呼び、嫁の父親も含めて7名が来ている。仲人は夫婦で2組とも出席している。婿方の呼衆は6人であるが、いずれも女客で
ある点が注目される。献立の11種は、この婚礼の料理中、もっとも多種であり、この宴が第一次披露宴であったことをうかがわせる。なお、婿、嫁の献立が計
上されているのはこの宴のみであり、以下の宴の際に、婿、嫁の席が設けられていたかどうかは不明である。また、婿方の両親も、この宴には出席していないと
思われる。
婚礼2日目、3日目は婿方の親戚と懇意の者を集めて宴がおこなわれ、1日目に対し、基本的には男客であった。祝儀受納の記録には部屋見舞の項があり、玉
子などを婿方親戚が持参している。4日目は、近隣女客による宴があり、農村でのボタモチヨビに当たる。しかし、会食は何らかの理由で取りやめとなり、送り
膳とされている。この日、「取持並ニ出入」の宴があったためであろうか。翌日、代わりに近隣の男方が三戎楼で会食している。取持ならびに出入衆の慰労会に
は25人が招かれた。献立の7種は近隣の女衆のものと同様で、これも芸妓をあげての祝宴であった。
5日目には、店員・下女の他、取持衆の女客が招かれている。献立5種はもっとも品数が少ない。この日は、新嫁が里に戻る「初通い」の日である。明治24
年の事例では、「三ツ目こし」として初通いがおこなわれているが、この時は、新嫁の母親と付女が土産持参で嫁を迎えに行っている。
婚礼5日目に里帰りをしているところから、婚家には初通いから5日目に戻ることになる。「里方女新客」は、新嫁を送ってきた里方の者をもてなす宴であっ
た。
以上の婚礼に関わった人物をまとめたのが第4表である。ここでは、出入衆について注目しよう。この婚礼では、結納も含めると、6日間に渡って儀礼がおこ
なわれている。この間、儀礼の取り持ちとして依頼を受けた出入衆の数は23人に及び、最大はおさよの7日間、次いで6日間の取り持ちを依頼されたのは水谷
与右衛門、大熊、儀左衛門、国治郎、清治ままの5人である。出入衆ののべ取り持ち日数は82.5日であり、大店の婚礼に、いかにたくさんの人手を要したか
が分かる。仕事の内容はつまびらかではないが、荷物の運搬、屋敷内外の掃除、膳椀の準備、料理の手配・配膳、案内、下足番など、およそ現在の結婚式場の従
業員に分担されるあらゆる仕事が割り当てられたと思われる。そして、出入衆全体に対する指揮は、水谷与右衛門がおこなったのであろう。
檀那場と出入衆の親疎によって、取り持ちの依頼のされ方は当然異なってくる。例えば、荷物を運ぶのを頼まれた仲仕は、1日しか取り持ちを頼まれていな
い。この人たちはいつもは駅にいて、呼ばれると冨永新六商店の荷造りをしていた。新六氏によれば、仲仕は荷物を運ぶのみで力だけの仕事であり、雑用は何で
もできる日傭方よりは下に見られていたという。しかし、日当は60銭を支払われ、4日目の宴にも招かれている。60銭という額は、他の出入衆と比べても遜
色なく、待遇はよい。前述の「諸職人日雇帳」などを見ても、日当の支払いは若山儀左衛門が年1回程度、他の職人衆も数カ月遅れであるのに対し、仲仕は仕事
の後ですぐに払われるなど優遇されている。しかし、これは、仲仕が運送店の下職であり、冨永家と緊密な出入関係を持っていないためと考えられる。仲仕の仕
事は、冨永家が義理によって優先的に与えるものでなく、その分、仲仕の側でも冨永家に奉仕をする義理が薄い。「新六婚禮諸入費帳」にも、「仲世連中」とし
て5人が一括りで記載されるくらいで、親分子分的つながりが薄い分、カネで解決するドライな関係だったと言える。
これに対して、譜代の出入である若山儀左衛門とその子・新八はもちろん、日傭方、大工、左官、瓦屋、米搗きという出職の職人衆は、いずれも3〜6日間の
取り持ちをしている。また、女性の取り持ちは女中や子守などに来ていた人たちであり、何かにつけて雑事を頼める存在であった。
葬送
町場では、通夜を自宅でおこない、その後、棺を担いで行列をして寺に行き、ここで葬式をすることが多かったという。通夜では、近所の人が男
女を問わずにやってきて、棺を真ん中にして大きな数珠を繰り、百万遍をおこなった。大正11年の葬儀を伝える「清華院釈尼妙忠諸事控」には、向こう三軒両
隣を始めとする14軒の「講中近隣」が記されている。
冨永家の檀那寺は蓮慶寺で、葬式当日は、この他に成信坊、浄蓮寺、照蓮坊、本住寺、正楽寺、浄光寺、善福寺、大竜寺、雲居寺、宝泉寺、瑞泉寺、西福寺が
招待され、また、祖父江の善光寺と福栄寺が招待外で訪れている。海善庵、貞寿寺、宗念寺については「伽志」が記載されており、通夜の時に訪れていた。ま
た、この3ヶ寺と不動院に「野立之志」が記載され、焼き場まで同行している。
葬列は、先頭を20人の女衆が歩き、以下、杖払(2人)、高張(2人)、銀蓮、花車(店員一同)、花環(2人)、生花(以下1人)、銀蓮華、生花、放
鳥、金蓮華、放鳥、生花桶、放鳥、蓮華、銀蓮、金蓮で、この後に尼僧・男僧行列、さらに明火(2人)、供物(4人)、華(2人)、鶴(3人)、沓(1
人)、位牌(喪主)、棺(仲仕8人)、燈籠(2人)、棺側(3人)、燈籠(2人)、衣服(3人)、棺後(4人)という壮大なもので、おそらく100人近い
行列となっていた。女の人たちは、鉢巻状の帽子のようなものを頭にちょんとのせ、白い喪服を着ていた。当時は、告別式のスタイルが確立されておらず、放鳥
や蓮華という大きな葬具を携えての葬列の規模を競う風潮があった。仕出屋の「八百喜」は150人前の料理を準備しており、その配膳や会葬者の案内など、裏
方にたくさんの人手が必要であったと考えられる。
葬式後は、3日目に蓮慶寺が灰葬と「三日之経」を上げ、初七日にも法要があった。三十五日は盛大で、「呼衆親類」14人、「講中近隣」14人が招かれ、
他に出入9人が来ている。
以上の葬式に関わった人物をまとめたのが第5表である。取り持ちを依頼され、礼を支給されている人は36人いるが、その中には大橋家の番頭と出入(おそ
らくは人足頭)が1人ずつ入っている。冨永家の出入は34人で、そのうち女性は12人である。与右衛門、国次郎、大工浅吉、儀左衛門、おさよは、三十五日
の時にも招待されていて、出入の中心メンバーであった。中でも国次郎と儀左衛門は、「高張」を持って葬列中にも参加している。取り持ち日数は、男性4人の
場合「一日ヒイ割」と符丁で書かれていてよく分からないが、他の取り持ちの支給額「1日当たり2円」から類推すると、最低でも5日間は手伝いをしていたと
思われる。この額を元に算定すると、この葬式における出入衆ののべ取り持ち日数は75.5日となり、やはりこの人たちの存在なくしては、大店の冠婚葬祭が
成り立たなかったことがうかがえる。
産育
出産と成長の祝いは、婚礼や葬式に比べて内向きの儀礼であり、多くの人手を必要としない。明治26年の「久ら出産見舞帳」でも、出産祝いと
してもらった品物が記されているだけである。
津島町衆の産育儀礼の中で最も重要なのは「初児」(初稚児)であり、津島祭りの車楽に稚児として上る儀礼である。稚児は、津島祭りでは神の依りましに位
置づけられており、車楽の正面に座る。稚児を勤めるのは数え5歳の男の子で、本来は車屋・乗り方衆の子供から選ばれた。稚児の衣装は緋に金糸、銀糸の刺繍
を施し、家紋を縫いとった壮麗なもので、稚児に上がるときに新調したり、あるいは各家や車ごとに伝わっているものを用いた。稚児に上がるときは、内祝とし
て車屋・乗り方衆、出入衆をもてなすしきたりで、明治26年の「新七初児内祝控」では、車屋中10人、乗り方28人、親戚18人、出入衆17人の名前が連
ねられている。祭りの際には、稚児は祭り人足に肩車され、供回りを伴って行列をするが、この祭り人足に対しても、宵祭り前日の打ち廻しの日にもてなしを
し、相応の祝儀を渡すのが慣例であった。
(3)津島祭りと出入衆
町衆の娯楽
先述したように、冨永新六家は米車を預かる車屋である。津島祭りには、津島旧5か村から車楽(だんじり)が出され、祭礼はそれぞれの車に2
人ずつ定まった車屋を中心に執行されてきた。車屋は津島四家七党の子孫が世襲してきたものという説もあるが、実際には家の盛衰によって交代する場合も多
かったようである。車屋は、祭礼期間中は苗字帯刀が許されたこともあり、交代の際には佐屋代官に届けることになっていた。いずれにせよ、車屋は、津島町衆
の中でも、とりわけ有力な家が勤めてきたことは確かである。
車屋が祭りに奉仕するに当たっては、いろいろなしきたりがあった。祭り前の火替えもその一つである。冨永家では、津島祭りの1週間前から、祭りに出る当
主の食べ物を別に作り、食器も普段とは別のものに替えるようにしていた。また、祭りが終わるまでは洗濯物も別にして洗い、他の者の衣類と混ぜないようにし
た。祭りの前に近隣で葬式があった場合、車屋が会葬することは構わなかったが、先方でお茶を飲んではいけなかった。この時期は神に奉仕するための忌み篭り
の期間であり、車屋には不浄なものに触れないことが求められていたのである。
車屋と並んで、祭りの際に大きな役割を演じる町衆が乗り方で、朝祭りで車楽に載せる人形作りをはじめ、祭りの世話をし、祭礼当日には車楽に乗船した。分
かりやすく言えば「車屋が社長なら乗り方は株主」であるという。乗り方は、世襲制の色彩の強い車屋に対して、かなりの出入りがあり、数が少なくなれば新し
い乗り方が補充された。筏場車では、乗り方を務めるのは車屋のシンセキが多かったという。
津島祭りの宵祭りは「幽玄」の祭りとされ、旧天王川の池を提灯を灯した車楽が進んでゆく様を、ほとりに掛けられた桟敷からながめるのが町衆の娯楽であっ
た。桟敷は、料亭などから料理を運ばせ、宵祭りの風情を楽しみながら歓談する場であり、津島の町衆が得意先などの接待の場としても用いていた。かつての桟
敷は、池の北側(お旅所から東)の10軒分が車屋優先であり、車楽が係留される車河戸入口の御嶽山の前あたりまで、特等から1等、2等、3等とランクをつ
けて掛けられた。古くは、桟敷に座る権利は車屋・乗り方衆が有し、他の人は座ることができなかったとされ、中でも、特等の桟敷を掛けることができるのは
20軒くらいであったという。このため、よい場所に桟敷を掛けられることが津島町衆のステータスであったとも言える。現在でも、桟敷の周囲には竹矢来がめ
ぐらされ、桟敷に座れる者以外は遠巻きにして宵祭りを見ることになる。都市の祭礼には、スポンサーである町衆の娯楽という要素も指摘できるが、一般人を近
寄らせない桟敷回りの竹矢来は、その名残と言える。
江戸時代、津島祭りは尾張藩の保護を受け、車田の他、米50石の寄進を受けて祭礼費用に充てることができたが、明治以降、このような保護は得られなく
なった。祭礼費用は車屋と乗り方衆で負担することとなったが、車によっては乗り方の数が維持できないようなことも生じてきた。特に米町町内会は、30軒ま
での戸数のない小さな町内であり、町内だけで祭りを維持することが難しかった。このため、他町内からも乗り方を募ることとなったが、この時に利用されたの
が桟敷の権利であった。大正11年、米車では、交代で祭礼のまとめ役になっていた冨永新六家と冨永新吾家を中心に組の有志で声を掛け合い、欣声講を組織し
た。これは、他の町内の有力者に呼びかけをし、講員となって祭礼費用の一部を負担すれば、桟敷を掛ける権利を認めたものである。新たに加わった人々も乗り
方とされたが、これは桟敷に座るだけの乗り方であり、実際に祭りの実務にたずさわることはなかった。新たに米車の乗り方になったのは、近竜、朝長、八村屋
(呉服商)、トバ長、伊勢正、丸通(永田運送)、大野干鰯屋(笹文)などで、車を出さない本町1丁目や津島駅近辺の人などが多かった。
もっとも、桟敷を掛ける場合は別途場所代を納め、桟敷の材料と組立費用はそれぞれの家で負担することとなっていた。そして、一度桟敷に座らないと、次の
年には桟敷を掛ける権利を失った。桟敷の維持にはかなりの経費がかかるため、権利が放棄されることは多く、空いた場所は、新たに希望者を募り、籤で桟敷を
掛ける人を決めてゆくようになった。筏場車の場合では、昭和12,3年頃には、桟敷を掛ける権利は乗り方衆の手から放れていたという。
祭りと出入衆
津島祭りの執行には、車楽を準備したり、車楽に乗る稚児の供回りをする職人衆が必要であった。特に、車楽の組立は屋根に上がっての作業であ
るため、トビ職、日傭方の力が必要であった。その数は10人内外であるが、太平洋戦争以前は、車屋に出入りする職人衆がこれを引き受けていた。この職人衆
をまとめたのが祝司である。祝司は多くの人を動かすことになるため、大工や左官などよりも、普段から人あしらいを仕事にしている日傭方の親方の方がふさわ
しかったという。
第6表は、冨永新六家の「諸職人日雇帳」(明治45年2月起こし)から、大正3年の津島祭りで、米車の人夫がどのように動いていたのかをまとめたもので
ある。祝司は日傭方の親方である水谷与右衛門が勤め、祭礼期間は10日前後、仕事に従事している。なお、米車の場合、太平洋戦争以前の祝司は与右衛門から
表中にある国次郎、さらに大工の浅吉へと変遷している。この期間の仕事には、職人衆に加えて、冨永家譜代の出入である見越村の若山儀左衛門も含まれてい
る。従事した人夫は、1日あたりの最大で11人であり、船分け前日頃から多くの人が動くようになっている。賃金を見ると、祝司の日当が65銭であるのに対
し、大工は80銭と高額である。これは、日傭方と大工という普段の仕事に対する賃金の差がそのまま反映したものであり、祝司と言っても、特別に厚遇される
ことはなかったのである。儀左衛門の日当は52銭であり、小三郎の日当も50銭と安くなっている。小三郎は儀左衛門と同じく、下働き的な仕事をしていたも
のと思われる。「昔は、祭りの時でも働かせてもらえるという意識であり、祭りの時の日傭賃は町日傭より10銭安だった。町日傭が3円50銭であれば40銭
となった」とも言うが、この「日雇帳」の記載に関する限りでは、祭礼の際の日当と、普請などの際の日当とは同額である。日当の支払いについてはいろいろと
変遷があり、「ヒヨ方は何もかもで48人半、大工は出た人数で普通の日当を出した」場合もあったが、賃金をそれぞれの車で出すことについては変わりがな
かった。日当の支払いは、与右衛門分、浅吉分、小三郎分、儀左衛門分の3つに分けておこなわれている。与右衛門分と浅吉分は、その配下の職人衆の分も合わ
せて、いずれも1ヶ月以内に渡されている。
次に、祭りの場面で、これら職人衆がどのように活躍したかを順に見てゆこう。
祭りにおける出入衆の仕事
津島祭りの期間中、町場には清浄な地を示す斎竹と称される結界が設けられる。斎竹は、元は旧暦5月晦日に立てられていたとされ、第6表によ
れば、祝司の与右衛門と日傭方の国次郎の2名が斎竹を立てている。大正3年の事例では、旧暦5月晦日にあたる7月22日に「午前朝8時迄斎竹立テ」と記載
があり、早朝の行事であった。
第6表中、7月24日(旧暦6月2日)の「丁始め」は手斧始めのことで、大工がヤカタや祭り道具の修繕を始める日である。前日に「丁始メ廻リ分」とある
ところから、祭礼準備の開始を乗り方衆に知らせ、当日は「半人」の仕事であるところから儀礼的な行事になっていたようである。本来は大工の浅吉が関わると
ころ、大正3年の事例では与右衛門と小三郎が引き受けている。実際に大工たちが仕事を開始したのは、船分けの2〜3日前からであった。
船分けは祭りに使う木造船を各町内に割り振る行事で、旧暦6月12日早朝におこなわれる。かつては朝5時半頃からおこなわれたという。10艘の舟は、前
日に旧天王川の池・北端の御旅所前に係留され、籤を引いて1番から5番までの舟の順番を決めた。舟が決まると、各車の人足は競争で舟を漕いで車河戸に向か
い、ヤカタを舟の上に上げた。ここではそのその速さが競われ、1等になれば、神酒が出された。この行事は、職人衆の腕の見せ所でもあった。
打ち廻しは、各車の稚児を祭り人足が肩車をして車楽まで連れて行き、ここからさらに津島神社に連れていって打ち廻す行事である。旧暦6月13日夕刻から
おこなわれ、ハバキ酒をふるまわれた後、祝司、車の高張り提灯を持つ露払い2名、花と鞨鼓を持つ者1名、稚児を肩車する者1名、稚児の傘持ち1名、車屋の
高張り提灯を持つ者2名、箱提灯を持つ者2名、車屋2名に続いて車屋の傘を持つ者1名の合計11名の職人衆が参加する。稚児を伴う行列は宵祭り、朝祭りに
も繰り広げられるが、ここでは11名の人足が必要で、大正3年の事例では、10人の大人と「小共」でこの仕事を勤めている。なお、この日までには、ヤカタ
の上の構造物も祭り人足の手で組み上げられる。
宵祭りの提灯付けも、職人衆の技の見せ場である。ボウズと呼ばれる巻藁に、提灯を灯した竹を下段から順に丸く一周させて刺してゆくが、目印がないため、
祝司の勘で指示がされてゆく。風が吹くと2本目からが動いてしまい、思い通りにはつけられないものだという。下手な提灯付けはひと目でわかり、桟敷に座る
人々の目にさらされてしまうため、車屋は「命がけできれいにつけろ」と言うことになる。提灯は365個というが、実際には440くらい付けたときが一番き
れいであり、500個くらい付けられることもある。太平洋戦争前は、人足の許可でジゲの百姓の子供も提灯付けの手伝いをしていた。宵祭りが終わると、職人
衆は翌朝の朝祭りのため、すぐに車楽の模様替えをおこなう。提灯を灯した如意とボウズを取り、櫓を上げる。この日の作業は深夜2時頃にまでおよぶことにな
る。
朝祭り当日は、午前8時には車屋から稚児行列を組んで車楽に向かうため、職人衆は早朝から車楽に幕を取り付けたりの作業を済ませておかなくてはならな
い。車楽が御旅所に到着し、稚児が神社に入ってから、ほんの間のない時間が休息時間である。稚児を送り届け、車楽を車河戸に廻すと、さっそく解体作業に入
る。
期間中の祭り人足の仕事は、暑い最中に早朝から深夜におよぶものであるため、大変過酷なものと言える。しかし、かつては「祭りの時は、祝司も白米を食べ
させたので、日傭方としてもよい仕事だった」といい、また、桟敷を作れば、その分の日当も支払われるため、職人衆たちにとっては稼ぎ時でもあった。そして
何より、出入先の檀那の車のために奉仕をし、祭りにおける名誉を獲得することが、出入職人の誉れにもつながったのである。
まとめにかえて・出入制度の解体
冨永家のように繊維を扱う商店は、日中戦争が勃発した昭和12年以降、統制が布かれたことによって商品の仕入れが難しくなってゆく。津島は生産地の中に
あったため、それでも商品の供給が続いたが、太平洋戦争に入ると店員も応召を受けるようになり、商売どころではなくなっていった。戦後は台湾の支店もなく
なり、統制で品物もなかったため、商売が出来るような状況ではなかったという。また、農地解放によって、地主としての冨永家の経済力も奪われていった。昭
和25年以降、いわゆるガチャマンの時代になっても、「機屋が早く儲けたかったので、品物を高く買ってくれるところに出し、冨永さんに売るよりも直接よそ
に回していた」といい、冨永家の本業がかつての勢いを取り戻すことはなかった。
太平洋戦争後、町衆の生活を支えてきた出入の制度はなくなっていったが、それは、このようにして、出入衆を抱えていた町衆が総体的に力を失っていったこ
とが原因である。「昔は、出入になっていれば儲けさせてもらうことができた。年の3分の1、4分の1の仕事をもらっていれば、出入のものは喜んで祭りにも
働くことになる。出入の人が人足の親分だったので、ここに頼めば日常の生活のつながりで人を集めてきた。それが、車屋が没落して年に1日や2日の仕事しか
与えられないようになっては、出入をしているだけでは食ってゆけなくなる。儲けさせてもらって初めて出入になるものである。車屋が没落して資力がなくなっ
てきたため、出入を使って祭りをやるだけのことができなくなってきた」という冨永新六氏の言葉は、この変化を端的に物語っている。
一方、職人衆の方でも、檀那場と出入という一種の親分子分関係を尊ぶ観念は薄れ、ある意味ではドライとも言える契約関係によって仕事をおこなうことが当
たり前になっていった。津島祭りの際の仕事を例に取ると、戦後間もなくは、お出入でなくなってからも半纏を着て車屋の供をする職人衆もあったが、そのう
ち、職人衆から「祭りの時に働くのだから、賃金は普段の時よりも高くしてほしい」という意見も出されるようになってきた。職人衆は車ごとに日当の引き上げ
を求めたため、車による賃金格差が生じ、これを防ぐため、各車が横並びで職人衆と交渉して賃金を決める制度が取り入れられたりするようになった。かつての
町衆と職人衆たちは、対等の立場で契約を結ぶようになっている。
出入衆を失ったことで、例えば冠婚葬祭などの互助は、専門の業者の手に委ねられようになってゆく。また、従来、町衆と出入職人によって維持されていた津
島祭りは、太平洋戦争後は、祭りに必要な人手を建設会社などに請け負わせるようになった。これは、義理で結ばれていたマチ社会から、契約を基本とした都市
社会への変化であるとも言えるが、このような時代の変化の中で、マチの民俗は解体していったのである。
「愛
知県史民俗調
査報告書4 津島・尾張西部」所収論文
編集/「愛知県史民俗調査報告書4 津島・尾張西部」編集委員
会・愛知県
史編さん専門委員会民俗部会
発行/愛知県総務部総務課県史編さん室
平成13年刊行
Copyright(C)2007 Makoto Hattori
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