「犬 山の町組織と犬山祭り」
服部  誠  

はじめに

 都市の民俗を考える上で重要なのは、民俗の伝承母体をどのように捉えるかということであろう。都市住民は、ムラという単一の世界に生きているのではな く、1人の人物が地縁、血縁、職縁など、数々の組織に所属して生活している。そして、その一つ一つの組織が伝承母体になり得ることが指摘されてきた。幾多 の伝承母体が錯綜している上に都市民の民俗が形成されているのであれば、その解明は困難である。この点が、農村に比して、都市の民俗研究に実証的な研究が 多く蓄積されていない背景でもあろう。
 都市の伝承母体として最初に着目されるのは、ムラと対比できる町内会である。しかし、農村に比べて都市の住民は流動性が高く、町内会においても民俗が超 世代的に伝えられてゆくことは難しいとされる。団地社会のように住民の定着度が低いところでも自治会組織が形成されて、一定の生活様式は形成されている が、それが超世代的に継承されてゆくかどうかは疑問である。しかし、古い伝統を持つ町場においては、新しい住民がその町に入る際、その伝統になじむことで 初めて生活が可能となる場合があり、住民の生活は町社会によって規制される。ここでは、たとえメンバーの頻繁な入れ替えがあったとしても、町の伝統が継承 されてゆく可能性が強い。本報告では、そのような町の事例として旧犬山町を取り上げ、町の民俗がどのように継承され、その継承の背景に何があるかを考えて みることにする。
 犬山は、尾張藩家老・成瀬家の城下町であり、木曽川が尾張平野に出る位置にあたるところから、木曽材の筏流しの中継地、美濃・飛騨と尾張を結ぶ陸路の結 節地として繁栄した。犬山衆と呼ばれる商人たちは、万治4年(1661)に尾張藩主にお目見えしている。元々の城下町は本町3町内(本町・中本町・下本 町)と魚屋町、練屋町の5つであるといい、町の境には木戸が設けられていた。その後、城下の範囲は拡大し、名栗町、鍛冶屋町、横町、熊野町、寺内町、鵜飼 町、外町を加えて犬山十二町となり、さらに出来町、七軒町、材木町、余坂町などが成立していった。本報告では、犬山の町場の中で余坂町と中本町を中心に取 り上げ、マチの民俗について見てゆく。初めに両町の特色をながめ、次にかつての町内の自治組織について振り返る。そして、町組織と連動する、かつての犬山 祭りの組織を報告する。その上で、戦後の町組織、祭礼組織の変化を見ることで、民俗の伝承母体としての犬山の町内会について考えたい。

1 町の概要

(1)余坂町

町の性格
 犬山城下町は、犬山城から南に続く台地上に形成されているが、余坂町はここから東に坂を下った場所に位置する。近世においては、城下町の周 囲には木戸が置かれていたが、城下東の木戸は魚屋町と余坂町との間にあり、余坂町は木戸外であった。犬山城下から塔野地、善師野など城東地区に向かう道は 余坂町を通り、町並みの途中で内田から木曽川の渡しを経て美濃に至る道を分けていた。城東方面の人が犬山に行く場合はもちろん、犬山橋が開通する前は、鵜 沼方面から犬山に行く人も必ず余坂町を通ることになり、往来の人々で賑わっていた。
 第1図は、犬山橋が開通する以前の余坂町の町並みを示したものである。道の両側に商店が並び、焚き物(タキモン)屋と称された燃料店が5軒、桑問屋が4 軒あることが注目される。昭和初期まで、犬山近郊は養蚕が盛んであり、桑を売買する桑問屋は重要であった。余坂町でも、本通りの裏に町の人が持つ土地は桑 畑として利用され、桑摘みをしては桑問屋に売っていたという。余坂町には、生糸を集荷する商家や製糸場もあり、繭を生産する農家と密接に結びついた町で あったことがうかがわれる。反面、いわゆる大店は少なく、小売り店舗が並ぶ商店街が余坂町であった。
 燃料店は、城東、美濃方面から農民が売りに来る割木などを扱ったもので、品物はここから尾張の平野部に転売されていった。特に、内田に向かう道の両側は 片端と呼ばれ、燃料店が集中していた。片端には車屋もあり、集積された燃料を朝早く車に積み、一宮方面に運ぶ仕事をしていた。余坂町の北の内田にも馬車小 屋の大きなものがあり、たくさんの馬が朝一番に余坂町を通ったため、朝起きると馬ぐそがたくさん落ちていたという。余坂町は、農民が燃料を売り、桑の売買 をした町であり、売ったお金で買い物をして帰る町であった。酒屋や菓子屋は、そういう人たちを相手に商売をしていたものである。町の東端にはお酒を出すカ フェのようなところもあった。ここをカンツ屋と称したのは、若い女性のことをカンツボといったからだという。
 「余坂で売れるのは唐団子」という言葉がある。継鹿尾の観音は養蚕の観音さんとして有名で、3月4日、4月3日はお参りの人で賑わった。犬山西郊の養蚕 が盛んな地帯の人たちは余坂を通って継鹿尾に行き、美濃の人も、木曽川の渡しを渡って片端を抜けていった。この日、余坂町では、どこの家でも外に台を出し て唐団子を売った。唐団子は繭がたくさんとれることを祈った食べ物で、米の粉を練り、蒸して作る。1本の竹を3つに割った先に、黄マユ、白マユ、嘴やトサ カに赤い色粉を付けたオシドリ形のものを付け、丸い藁束に刺して並べて売った。土産にするため、1人で50本も買って行く人がいて、余坂町の人たちは2日 がかりで唐団子を用意して当日に備えたという。唐団子は、継鹿尾に行く途中のムラでも売っていたが、犬山では余坂町だけで作り、他地区では売らなかったと いう。余坂町が犬山の東口にあり、町場と農村を結ぶ重要なルート上に栄えていたことがうかがわる。

余坂町の燃料店
 近郊農村と町との結節点という余坂町の性格をよく示しているのが、燃料店の存在である。ここでは、片端に店を構えた板津燃料店の事例とし て、板津美恵さん(大正3年生まれ)からの聞き書きを紹介する。
 板津燃料店は、元は本通りに店を構え、うどん屋と焚き物屋の両方を兼ねていたという。しかし、うどんよりも焚き物の方が儲かったこともあり、美濃からの 入口である片端に居を移し、焚き物専門になった。
 焚き物屋の店は、荷の出し入れに便利なように通りに面して広い土間を持っている。板津燃料店でも、農村から運ばれた焚き物は土間で竿秤を使って計量し、 裏の小屋に納めていた。焚き物屋の仕事は、需要の多い冬に集中し、夏はあまり商売にならなかったという。このため、板津家では、夏は2反ばかりの田の仕事 をするとともに、8畝ほどの畑で桑を作り、摘んだ桑を桑問屋に売る仕事をしていた。また、合間に桑摘みの手伝いに出たり、上簇の時に虫をモズに入れる仕事 をして小遣い銭を稼いだりもしたという。余坂町の商店は、このような半農半商のところが多かった。焚き物屋の中には、夏は桑問屋を営む家もあり、この場合 は、夏冬を通じて商売が忙しかった。
 一口に焚き物と言っても、割木、シバ、マツゴ(松の落ち葉)という区別があり、割木にも、カタギ、松割木、雑木の種類がある。割木とシバは城東方面か ら、マツゴは鵜沼方面の農家が売りに来た。割木は寒の内に切ったものがよいと言い、暖かくなって根から水を吸うようになった木は虫が喰ったという。このた め農家では、寒中に切った木を割木にして乾かし、春頃から出荷をした。割木は農家にとっては貴重な現金収入源であるから、お金が入り用な時に売りに来る。 戦前の犬山町では、正月は旧暦で祝われていたのに対し、東部の農村では早くから新正月を祝うようになっていた。そのため、正月用の資金を得るため、一年乾 かした焚き物を正月前に売りに来ることが多かったという。割木のうちで最も高値だったのはカタギで、これはカシなどの実を付ける木のことであった。カタギ は火持ちがよいため、ご飯を炊いてさらに味噌汁を炊くことができ、また、燃えさしでも炭として使えると言って、好んで求める人があった。松割木は火力が強 いが、エブるのが難点であった。黒松と赤松があり、赤松の方が高値であった。飯を炊くのに強い火力を求めた寿司屋などでは、松割木しか使わないところも あったという。割木は、農家が出荷する段階で蔓を使って束ねてくるので、焚き物屋ではそのまま量り、代金を支払った。
 割木に対し、シバは燃えやすいが火持ちが悪く、マツゴは主として焚付け用であった。これらは、犬山の町にはあまり売れず、下の方(尾張平野部)に転売さ れていった。マツゴは秋から冬、正月にかけて掻き集めて出荷されてくる。鵜沼の農家は朝4時頃、大八車いっぱいに50貫ほどのマツゴを積み、余坂町にやっ てきた。マツゴは真ん中に詰め、縁にシバを巻いて縄をからげてくる。焚き物屋では目方を量り、雨に当たるといけないのですぐに屋根の下に入れた。農家の人 はムラに戻ると、また一日マツゴを掻くのが日課であった。
 農家はだいたいは決まった店に売りに来たが、焚き物屋では余坂町の東はずれに当たる犬山線の踏切の向こうまで出向き、車を引いてくる農家の人と交渉して 店に呼び込むこともあったという。焚き物屋の儲けは口銭取りであり、仕入値に対して公定の口銭を上乗せして客に売った。犬山の町の人は主として割木を求 め、ここへは自転車にリヤカーを付けて配達した。余坂町から本町方面に行くためには坂を上らなければならず、坂では犬をつけて車を引かせた。支払いは商売 屋であれば現金であったが、他は盆正月に帳面を持って掛け取りに行った。焚き物は犬山の町の人の他、下の方からも農家や焚き物屋が求めに来た。下の焚き物 屋は、さらに一宮や西春方面に転売して儲けるものであった。直接買いに来る人は、何軒かの焚き物屋を廻り、値段を調べてから買っていったという。
 戦時体制下では焚き物は統制となり、燃料店が組合を作って一括して焚き物を仕入れるようになった。この頃、余坂には7〜8軒の焚き物屋が集まったとい う。焚き物という農村から町場に流入する物資の結節地点として、犬山の東玄関である余坂町の重要性が高まっていたことがうかがわれる。

(2)中本町

町の性格
 犬山城大手門からまっすぐ南に続く道は、犬山城下町のメインストリートであり、本町、中本町、下本町の3つの町が並んでいる。ここは俗に 「上町」と称される地域であり、犬山城下町の中でもいわゆる旦那衆が多く居住し、格式も高いところであった。犬山で「町に行く」と言えば、本町一帯に行く ことであった。
 第2図は、太平洋戦争以前の中本町の町並みを示したものである。本町通りに面して両側に商家が立ち並ぶが、その構成を見ると、余坂町とはかなり異なって いる。呉服屋4軒、布団屋1軒、家具屋1軒は、この町が高級買いまわり品を供給した地域であることを物語り、酒造業2軒があるのにも注目される。酒醸造 は、広い田地を所有した旦那衆が年貢米を利用して営んだものである。また、荒物屋1軒も、犬山で有数の規模の店であった。大店の合間に並ぶ八百屋、魚屋、 饅頭屋なども繁盛し、年の暮れなどは、周辺の農村から買い物に繰り出す人々で雑踏をきわめたのである。
 本町通りの一帯には、このような店が軒を並べたのであるが、反面、通りから入った閑所と呼ばれる場所には長屋も建ち、表通りとは異なった生活を送ってい た。表通りだけで見ても、後述するように町会費である日一文には、大店と他の住人との間には20倍もの開きがあった。中本町は大店の並ぶ町ではあったが、 決してそれだけで構成されてはいなかったのである。
 中本町には、余坂町の天神社に当たる町内氏神はない。また、組ごとに祀られる神仏もなかったという。町内には会館と称された集会所が設置されていた。

中本町の酒造業
 中本町では、本町通り東側の「綿善」、西側の「豊金」の2軒が酒造業を営んでいた。ここでは、「綿善」の高木正一氏と裕子氏(いずれも大正 10年生まれ)からの聞き書きを元に、中本町を特徴づける大店の様子を紹介したい。
 「綿善」・高木家は近世にはいさば屋(乾物商)を営んでいたといい、酒造を始めたのは近世末から明治初期にかけてのことではないかとされる。銘柄は「乾 菱」「白帝正宗」「勇」の3つで、「乾菱」は商号にもなっていた。醸造は戦時色が濃くなる昭和14年頃までおこなっていた。
 高木家の現在の住宅は大正期の建築であり、第3図はその間取りを示したものである。裏には4つの酒蔵があり、そこに至る広い通りニワが抜け、間口に対し て奥行きが深い。これは町屋建築の特徴で、犬山では間口の大きさが町費徴収の基準であったことも手伝って、このような「鰻の寝床」式の家屋が多かった。
 町屋の建築では「店」の部分と「奥」の部分は明確に分けられている。店は通りニワ部分と北側の帳場の部分からなる。通りニワの南側には樽が4つ並び、手 前で量り売りをしていた。店には床台を出し、盃の一杯売りもしていて、仕事帰りの人が塩を肴に飲んでゆくこともあった。店の帳場には番頭が座り、主人はそ の後ろで目を光らせていたという。近在のお得意さんには店の徳利を渡し、酒を買いに来るときにはこの徳利を持参してもらった。大口のお得意さんへは4斗樽 を大八車に積んで出荷し、遠方では下呂や笠松方面にも送っていたという。一方、通りニワの北側は奥の部分に当たり、12畳半の座敷を始め、居住部分が並ん でいる。高木家では、高名な画家などが宿泊した際に絵を残してゆくこともあり、そのような軸が座敷に飾られ、四季を演出していた。座敷東側には坪の内と茶 席が設けられ、犬山上層町衆の暮らしぶりを伝えている。
 かつては地主経営と米屋・酒屋経営は表裏一体のものであり、高木家はその典型である。高木家では周辺の農村にかなりの田地を所有して小作に出し、納めら れた年貢米のうち200俵を酒醸造に使っていたという。杜氏は、米がとれた頃を見計らって新潟から4人ほどがやってきて、4月までの間、酒蔵の2階に寝泊 まりして酒を仕込んだ。酒造りをするムロは神聖な場所であり、「ケガレルから」という理由で、女性は家族の者も女中も立ち入ることができなかった。2階に あった醸造のための試験室も同様で、ここには大きな神棚が祀られていた。
 「綿善」の店の従業員は番頭1人と小僧3人であり、比較的小規模であった。番頭は結婚をしていたので通いで勤め、古い番頭の中には暖簾分けをしてもら い、犬山の町で酒の小売りをしていた者もあった。小僧は主として岐阜方面から来ていたもので、酒蔵に寝泊まりしていた。店では、小僧は「吉」をつけて呼ぶ 習わしであり、本名には関係なく「正吉」などと呼んでいた。給料は前貸しであったため、しばらくは無給であったが、盆暮れには着物を作ってやり、薮入りで 実家に帰していた。
 奥の仕事は女中がしたが、掃除や家族の世話をする上女中、洗濯をする下女中がいて、杜氏が来たときは飯炊きの人を雇っていた。女中は1人だけが住み込み で、通りニワに面した4畳半の女中部屋を使っていた。女中についても、「おたけ」など、店で決まった名前で呼んでいたという。
 商家の食事は家族も従業員も同じものを同じように食べるのが原則である。通りニワに面した狭い板縁を使い、ここに一列に並んでお膳をおいて食べた。最初 に家族が食事を済ませてから従業員が食べ、杜氏は女中が作ったものを裏で食べていた。上等のものは食べなかったが、麦飯ということはなく、白米だったとい う。1日と15日にはご馳走が出たようである。番頭は晩御飯を食べてから自宅に帰って行った。
 大掃除など人手が必要なときは、出入の大工などがやってきて、「綿善」の半纏を着て手伝いをした。正月は1日だけが休みで、この日は遅くまで寝ていられ る日であったと記憶されている。主人が座敷に座り、家族や小僧の挨拶を受け、お年玉を渡した。2日は初売りで、店には行列ができるほどの買い物客が押し掛 けた。この日の客には景品があり、箱書きを施した犬山焼きの盃などが出された。また、田楽屋さんなどの大口のお得意には、火鉢などが贈られたという。
 犬山祭りの時は、大店では屋内に飾りを施して公開する習わしがあった。中本町では、出入に頼んで表通りに竹矢来を組ませていたが、高木家では店の北側の 部屋に茶席をしつらえ、れんじ格子を外して竹矢来越しに内部を公開していた。赤絨毯を敷いて金屏風を立て、道具を揃えて掛け物を飾り、部屋越しに中庭まで が見通せた。犬山祭りは、普段は見ることのできない大店の内部が知られる機会でもあった。
 「綿善」は、中本町の中でも最も規模の大きな商家であり、このクラスの店は犬山でもそれほど多くはなかった。しかし、経営の基盤は酒造よりもむしろ土地 にあり、地主的な色彩が強かったと言える。一般に、犬山の商家は、ここで成功を収めれば名古屋など大きな町に進出してゆくのが常であったといい、それは後 背地の市場規模を考えれば当然のことであった。犬山の町では大々的な商業資本家としての発展は難しかったのであり、ここに犬山町衆の限界を見て取ることが できる。

2 かつての町の自治

(1)余坂町の自治組織

役職
 犬山の町では、それぞれ町規約を作り、自治をおこなっていた。余坂町には、昭和13年5月起の「余坂町組規約」が残されている。これによれ ば、組内に居住するものは必ず余坂組に加入することとし、役員として組長1名、副組長1名、会計1名、評議員15名、幹事(当番)9名、衛生係役員4名、 納税組合役員2名が置かれていた。
 余坂町は、内部が上・中・下の3つの区(組)に分けられ、評議員は各区から選任された。人数は、上区5名、中区3名、下区7名である。評議員の呼称は昭 和12年からであり、それまでは伍々長と称されていた。「近所が10軒くらいでグループを作っていて、この中で伍々長を決めた。そのうち、伍々長は評議員 というようになった。余坂町のことは、この人たちを集めて決めていた」といい、区内がさらに班に細分され、その代表である評議員が町の自治の末端に位置づ けられていたのである。余坂上組では、評議員は旧正月におこなわれる御日待会合に際して選挙され、再選を妨げなかった。昭和16年に隣保班が設置される と、評議員は班長と名前を変えた。近年の事例では、班長は家順で務めることになっているが、かつての評議員は特定の有力家が務めていた。
 「余坂町組規約」によれば、組長と副組長は幹事の中から評議員によって選任され、会計は、幹事以外の者から評議員が選任したという。組長の選任方法はい ろいろと変遷があり、町内全員の投票で決することもあった。かつての組長は、経済的に豊かな家に固定される傾向があった。
 幹事は一般には当番と呼ばれ、犬山祭りを含め、余坂町の行事の執行責任者である。幹事は「年内ノ諸行事ハ大小問ハス凡テ全部是レヲ幹事確実ニ行フモノト ス」と定められ、裏屋と踏切東閑所の居住者を除き、本通りの南側は西から順、北側は東から順に、家並み順で全員が務めることとなっていた。

会合
 会合としては、余坂町の組員全員でおこなう総会と、評議員によっておこなう評議員会があった。規約では、総会には、必ず戸主が出席するよう に取り決められている。総会は、元は町内の空き家などを使っておこなっていたらしいが、その後、余坂町の氏神である天神社に会所場ができ、そこに集まるよ うになった。総会後は御日待として会食をし、オヒマチ総会の呼称もある。犬山祭りは町内行事の画期であり、最近まで、祭りが済んだヤマオロシの時に総会が 開かれ、町会長の選挙をおこなって新旧役員が交代していた。(注:町内行事では犬山祭りがもっともお金がかかり、祭り後に総会を開くと議題が会計報告のみ となってしまうため、現在では3月第2日曜日に役員が交代している。この場合、祭りを準備してきた人と実際に運営にあたる人が異なるのが難点であるとい う)
 昭和13年度の会議は第1表のようにおこなわれている。評議員会は、年度当初と祭りを控えた3月に多くおこなわれている。他の年を見ても、3月の会議開 催回数は多く、犬山祭りが町内最大の関心事であったことがうかがわれる。

組費
 組費は「その家を評価して伍々長で決めたので差があった。一度に全額支払うのではなく、何回かに分けて払った」という。「余坂町組規約」で は、組の費用をまかなうためのものに月掛金、加入金(間口割)、水金、奉納金、納税組合奨励金が挙げられている。月掛金は一般には日一文とよばれる。その 家の資産に応じて徴収金額が異なり、「余坂町組規約」によれば評議員が決定し、上・中・下の区ごとに毎月10日までに会計に納めることになっていた。加入 金は新たに余坂町に転入する家が納めるもので、間口1間に対して50銭の割であった。ただし、裏屋と踏切東の閑所については半額となっている。水金は、新 たに宅地家屋を購入した者が納めるもので、登記金額の100分の1を納入した。奉納金は結婚、初老、還暦祝いの際に、月掛金の10倍以上を天神社に納める ものである。この他、結婚の際は当月、初老と還暦は旧2月1日に天神社に供物料を納めている。
 このように、町内の構成者の費用分担については、その者の資力によって金額を変えることになっていたのであり、これは、祭りの際の出不足についても当て はまった。

余坂町の行事
 「余坂町組規約」によれば、余坂町には、第2表のような数々の町の行事が存在した。行事には、町全体を単位とするものと上・中・下の区 (組)を単位とするものがある。天神社の祭礼は町全体の行事で、提灯を飾り、露店商が出て賑やかであった。行事を取り仕切ったのは幹事(当番)である。
 余坂町では、年に2回の秋葉に関わる行事があった。秋葉は、住居が集中し、特に火災を畏れた町場では火伏せの信仰を集めていたものである。秋葉代参は各 組の行事で、10銭ずつを町内各戸から徴収して2名で出かけ、お札を配布した。一方、冬の秋葉火祭りは、天神社で夜通し火を焚く余坂町全体の行事で、実施 者は小学校1年〜高等科2年までの男の子であった。子供は事前に寄付、ムシロ、タキモンを集めてまわり、お宮には竹を組んでムシロをぶら下げ、屋根もムシ ロで葺いて小屋を作った。持ち寄った米でニンジン飯を作り、5年生以上の者は一晩泊まっていった。
 御日待にも、前述のように余坂町内全体でおこなうものの他、各区でおこなうものがあった。余坂上組の御日待は旧暦の正月と9月に開催されたが、ここでは 秋葉の掛軸が祭られ、神官の祈祷がおこなわれた。御日待は、家並み順で出された3名の当番が取り仕切り、費用は当日徴収したが、欠席の場合も半額を納入す ることになっていた。組の御日待は、組内の旅館などを借りておこなうことが多かったようである。

町の付き合い
 ムラにおいては、日常的に互助共同をする単位としてムラ組が重要である。マチの場合も同様で、町内をいくつかに分けた組が日常の互助組織に なっていた。余坂町では、町内が上・中・下の3組に分けられ、後には片端組が分かれて4つになっている。
 冠婚葬祭は町付き合いの中でも重要な意味を持っている。片端組の例を見てみよう。この組は15軒ほどの軒数で、組が葬式の時の手伝いの単位になってい た。犬山の町場では早くから葬具店が葬具や棺の提供をしていたため、これらを組の人たちが手作りする必要はなかったが、片端組の場合、葬式の食事の支度は 組の人の手に委ねられていた。トナリなどを借りてオカッテとし、ご飯を炊き、ニンジン、コンニャク、カクフなどの五つ盛り、味噌汁を用意した。食事はオト リモチの組の中で広い家を探してヤドとし、そこで提供した。本膳は町内でモウヤ(共有)で持っており、片端組は組内の弘法堂に預けてあった。
 片端組の人の檀那寺は、北に隣接する内田地区にあることが多く、墓までは葬列を組んでいった。棺は輿にのせて孫が担ぎ、アネムコテンガイと称して姉婿が 棺に天蓋をかざしていった。オトリモチの組の人たちは寺まで会葬し、また、土葬であったため、この穴も、場合によってはオトリモチの人で掘ることがあった という。葬式後は、オトリモチの人による念仏があった。
 四十九日はシアゲで、法事をおこなった。この時は近所は招かないが、引き物を配った。
 葬式が組の互助を必要としたのに対し、婚礼の際の付き合いは組よりも小さな単位でおこなわれる。嫁入りの付き合いは親戚が主であり、近所では向かい三軒 両隣を招待し、手伝いもしてもらった。また、嫁は家の人に連れられて向かい三軒両隣を挨拶にまわった。婚礼翌日にはイショウミセがある。これは、主として 近所の女の人たちが嫁入りの衣装を見に来るものであり、昔は箪笥の中もあけて見せたという。来た人にはお菓子をあげた。
 片端組の葬式の互助の様子は、農村のそれと変わりがない。もっとも、組によっては組に手伝いを仰がず、料理も仕出しを取って済ませたところもあった。こ のようなところでは、組は会葬するのみで、向かい三軒両隣が接待の仕事を手伝う程度であった。
 しかし、組の結束力は決して小さくない。例えば余坂上組では、年2回のお日待と秋葉山への代参を組の行事としておこなっていたが、新たに組に入るものに 「膳椀什器加入金」として50銭の支払いを求め、酒1升の披露を義務づけていた。また、「膳椀什器」は冠婚葬祭などに用いられたものであると考えられる が、組内の者は必要に応じて借用することができた。生業形態はまちまちであるにもかかわらず、このような共有財産を持っていることは、組が構成員にとって 互助組織として機能し、組の構成員の一体感を高めていたと言える。

(2)中本町の自治組織

役職
 中本町には大正11年に起こされた「規約及議事録」が残されている。これによれば、中本町の役職として重要だったのは組長と町務員であっ た。組長は現在の町内会長に当たり、2年任期である。町務員は余坂町での評議員に当たり、定員は10名、毎年改選された。現在は、町会長を退くと顧問とな るが、これには定員がなく、長老格としてマチの自治の相談役を務めるものである。
 中本町は、上・中・下の3つの組に分かれ、現在、町務員は各組から2名ずつ選ばれている。しかし、太平洋戦争以前は役職の選出と組は無関係で、「規約及 議事録」によれば資産による階級と連動していた。中本町の町内各戸は日一文と呼ばれた組費の納付額によって1級から3級に分けられ、組長は1級から、町務 員は1級、2級からそれぞれ5名を選出していた。第3表は、この対応関係を示したものである。大正12年の段階では、1級は日一文を100文(1円)以上 納める家であり、中本町38戸(他に閑所などの居住者がある)のうち7戸である。組長と町務員5名はこの階級から出されるため、1級の家は何らかの形で継 続して町の自治に関わっていたことになる。2級の日一文額の基準は変動があるが、大正12年の段階では30文(30銭)以上の納付者が該当し、合計で14 軒あった。大正12年から昭和5年までの8年間を見ると、2級の家で町務員を務めたのは9軒であるが、そのうち、8年間続けて務めた家が2軒あった。昭和 8年には、「日一文ノ級別ヲ廃シ爾来一級二級ヲ改メ普通選挙トシ町務委員ノ階級ヲ打破スルモノトス」と定め、町務員は全戸を対象に選出されることになった が、実際には従来通り、町務員は特定の家に固定される傾向が続いたようである。

会合
 「規約及議事録」には、町務員会、町総会、日待会、常会などの会合の名称が登場する。しかし、同種の会合を様々に呼んでいたらしく、大きく 分ければ役職者だけで集まる町務員会、町内全戸が集まる日待会(町総会、常会)の2つになる。町務員会は、組費(日一文)の割当をおこなうのが中心で、日 待会の議題のたたき台を作成することもおこなわれた。日待会は、大正15年の「規約及議事録」の記事に「御日待会ヲ復旧シ左ノ通年四回催スコト 五月、九 月、十一月、一月」とあるが、毎回、協議事項があったわけではなく、実際には宴会のみがおこなわれた場合も多かったようである。「規約及議事録」では9 月、11月、1月の日待会の協議の記事はほとんどない。第4表は、大正12年から昭和5年にかけ、議決事項のあった会合を抽出したものであるが、臨時の総 会を除くと、犬山祭りの後に決算報告を柱とする町内の総会を開いて町務員を改選し、その後、日一文改正のための町務員会を開くパターンが認められる。ここ でも、犬山祭りは町内自治の大きな節目であったのである。

組費
 日一文は、大正11年、「旧日一文表ニ依リ六分、新県税戸数割資力ニ依リ四分」の割合で各戸ごとに割り当てることとしている。「役員会で毎 年決めていたが、2〜3カ月かかった」といい、日一文の金額の決定は難航したようである。大正11年の日一文を見ると、最高額は「綿善」の2円6銭であ る。最低は8銭というものがあるが、これは空き家と見られ、居住者のうちでは閑所に住む人の11銭が最低であった。もっとも、閑所居住者は町内の正式な構 成員とは見なされず、一人一人の姓名も記されていない。町内構成者の中でもっとも低額なのは13銭の3人で、そのうちの2人は寡婦と考えられる。いずれに せよ、町内自治のための金銭負担は、構成者の資産によって20倍近い開きがあったのであり、この差が自治に携わる度合いの差となっていた。
 一方、町内居住者は、祝い事の際には不見金(水金)を町内に出すことになっていた。昭和7年の取り決めでは、「戸主替り 嫁聟取り 男女初出産(直系ニ 限ル) 引越シ(分家ノ際ハ本家等級ヲ以テ算定ス) 初老 六十一 七十七 八十八 九十九ノ厄歳ニ該当スルモノハ日一文百文以上金参円 四十文以上金弐 円 其以下ハ凡テ一円トシ戸主若クバ民法上直系相続ノ権利ヲ■■スベキモノニ限ル」とあり、ここでも日一文の階級によるランク付けがされていた。

中本町の行事
 中本町でも、町内の行事をとりおこなったのは当番であり、家並み順で5軒が交代で務めていた。行事として最大のものは犬山祭りであるが、そ の他、1月のサギチョウ、8月の車山の道具の虫干しなどがあった。中本町でも余坂町と同様、秋葉の信仰は篤く、1月には日待がおこなわれていた。大正14 年の「規約及議事録」の記事には「毎年代参ヲ二人ト定メ旅費神札料共ニ町内ヨリ金拾参円五十銭出支スル事ニ決定ス」とある。代参は当番の者が出かけ、お札 を受けて各戸に配った。宴会である日待は頻繁におこなわれていたようである。だんだんと派手になってゆく傾向があったものと思われ、昭和7年には「日待費 用ハ区々トナリ費用等ニ付キ意見百出ノ有様ナルモ自今会費一人前金参拾五銭以内トシ其献立ニ付テハ当番ニ委任スルハ勿論ナルモ味噌汁 鰌汁 五目飯位ノ程 度トスルコト」と定めている。昭和13年、戦時色が濃くなってゆく中で「御日待ハ年一回トシ祭礼勘定日待ノミニ止ムルコト」になった。

町の付き合い
 「規約及議事録」には、戦時色の濃くなった昭和13年、「淋見舞ヲ止ムルコト」「御通夜ハ近親者ノミニ止ムルコト」「葬儀改善ニ付テハ予テ 酒禁止ヲ励行シ居ルモ一層荘厳ニ質素ヲ旨トスルコト」「結婚改善ニ付テハ襟飾リ廃止、披露ハ簡素ニ致コト、投菓子ハ絶対廃止ス」の記事が見られる。このよ うな規約化が必要であったことは、中本町でも、冠婚葬祭の際のマチの付き合いが重要であったことの証である。葬式の場合、その家の資力に応じて向こう三軒 両隣のトリモチ、組のトリモチ、町内全体のトリモチというように、手伝いの範囲が異なり、資産家の場合は町内中で手伝いをしたようである。昔は、家の者は 葬式のやり方に口出しができず、組長(町会長)が指揮をして、葬式の規模なども決めたという。隣近所の女の人たちはオカッテまで入ってきて、味噌汁やイモ の煮っ転がし、コンニャクの煮物など、三度三度の食事を作って食べさせた。ここでは、大店も使用人を代理に出すことは希で、一家の主人や奥様が手伝いに参 じたという。中本町の場合、余坂町のように組で共同で膳椀を持つということはなく、膳椀はたいていはその家で持っていて、足らなければ町内で貸し借りをし ていた。また、野辺送りに町内の人が関わるということはなく、遺体を車に乗せた後は、専門の人が旦那寺の墓場まで引いていった。葬儀後は、喪主は全家庭に 挨拶に廻った。
 嫁入りの際の付き合いは葬儀に比べれば範囲が狭く、嫁をもらった家では、組の中だけに挨拶に廻るぐらいだったという。
 中本町のマチ付き合いは、余坂町に比べれば希薄な印象を受ける。しかし、葬儀について見れば、大量の出入職人を擁する大店が並び、町内の互助を仰ぐより も出入衆や葬具店の人足に仕事を請け負わせていた名古屋上町などと比べ、はるかに全人格的な交際が存在していた。中本町は、「綿善」のような大店と、その 20分の1の資力しかない住民が混住するマチであり、日一文の金額で見れば、全体の4分の3が平均以下であった。したがって、住民が軒並みに独力で葬儀を 執行できるだけのレベルにはなく、マチの人たちの互助共同は欠かせなかったのである。

3 犬山祭りと町

(1)かつての祭礼組織

犬山祭り
 犬山祭りは針綱神社の春祭りで、現在は4月の第1土・日曜日におこなわれている。以前は4月7日、8日に実施されていたが、勤めに出る人が 多くなるにしたがって平日の執行が難しくなり、日程が変更された。枝町、魚屋町、下本町、中本町、熊野町、新町、本町、練屋町、鍛冶屋町、名栗町、寺内 町、余坂町、外町の13町内からは車山が曳き出され、坂下大本町、鵜飼町、内田町からは練り物が出されている。車山は祭りの一週間前に組み立てられ、祭り 初日を試楽、二日目を本楽と称している。元は場ならしといって、試楽の前の日に車山を町内で曳いていた。13輛の車山はいずれもからくり人形を持ち、夜は 宵車山といって提灯を灯して曳行される。ここでは、犬山祭りにおける組織を通じ、町社会の特徴を考えたい。
 写真●は、平成13年、魚屋町の山車蔵に掲示された「犬山祭役割」である。この役割を大別すると、町の代表者、祭りの準備と運営者、囃しを奏でてからく りを演じる担い手、車山曳行の担い手の4つになる。祭りの時は、町内各戸は「一軒一役」の原則に基づいて応分の仕事を分担することになっており、ここに挙 げた役割だけで不足する場合、一役を割り付けるため、車付や提灯番などの役が設けられることもあった。

町代と警固
 町の代表に位置づけられるのは町代と警固であろう。町代は町会長であり、裃を着て参加し、祭りの際の全責任者である。2つの町内の車山が道 で重なって、どっちの車山を先に出すかということを折衝するのは、それぞれの町代の仕事である。
 警固は紋付姿で車山の前を歩く人たちで、元は伍々長や町内の有力者が勤めていた。大正12年4月の、中本町組の「規約及議事録」を見ると「一 御祭礼警 固ハ六十一歳還暦祝迄トス」とあり、以後は勤めることができなかった。警固は名誉職であるため、中本町では初めて警固につく「初警固」の際は、子供が初め て車山に乗って小太鼓を叩く「初山上リ」と同様、水金を町内に出し、テコにも祝儀を出すことになっていた。祭りの時は「一軒一役」であり、町内の人たちは 何らかの役を一つずつ分担することになっている。ある町内で、戦後になって、かつて警固を勤めていた家に雑務を依頼したところ、気分を害したということも あったといい、警固を勤める家は、町の代表としての誇りを強く持っていたことがうかがわれる。

当番
 車山の組み立て(山組)、宵車山の際の提灯付け、車山の解体(山颪)など、実際に祭りを準備し運営する仕事は当番によって担われている。昭 和9年2月の、中本町組の「規約及議事録」には、「当番勤務ハ従前通リ組内ニ居住スル限リ必ズ服務スルコト」と記され、町内全戸が交代で引き受ける仕事で あった。前掲の「余坂町規約」では、余坂町の当番(幹事)は9名であり、「幹事ハ何人モ是レヲ務ムルモノトス 但シ裏家踏切リ東閑所ノ人ハ之レヲ除ク」と されている。当番は家並み順で務めたものであり、欠員が生じた場合、3月1日まではそのまま、それ以降に欠員がある場合は犬山祭りに支障が生じるため、次 期当番から家並み順で補充をするとしている。また、「一、止ムヲ得ザル事情ニ依リ幹事ノ役ニ服務スル事能ハザル者ハ金貳拾圓也組ニ前納スルモノトス 但シ 未成年者及ビ七拾才以上ノ人ハ是レヲ免除ス 二、婦人ノミノ家庭ニアリテハ金五圓也ヲ組ニ前納スルモノトス 三、幹事ニシテ若衆役ト重複シタル時ハ若衆役 ヲ除クモノトス」とあり、当番を務められないときのペナルティは重く、また、他の役に対して最優先で務めることが記されている。当番は祭りを運営するに当 たっての中核者であり、当番役を通じて犬山祭りに参加することは、車山を持つ町内の者が平等に負担する義務であった。なお、当番の責任者を当番長といい、 車山を曳くときは、当番長が拍子木を叩いて発進・停止の合図をするのが原則である。
 前述したように、余坂町では組(町)内の自治に当たる組長、副組長は、かつては幹事(当番)の中から評議員によって選出されていた。祭りの組織と町内自 治の組織は密接に絡んでいたのである。

下山と中山連
 町代や当番が祭りの運営者であるのに対し、祭り当日、車山に乗り、車山を曳く人たちは、祭りの中心的な部分を担う人たちである。
 下山は、車山の一段目で笛太鼓を奏でる人たちである。笛は若い衆、小太鼓を叩くのは子供である。昔は4歳くらいで初めて車山に上がり、太鼓を叩いたとい う。
 余坂町のある話者によれば、昔の若い衆は高等科を卒業して入り、25歳まで務めた。犬山祭りの時の稽古は、最初に町内で一週間おこない、この後、子供と 若い衆の個人宅を会所場として1回ずつまわった。全部まわるのに一ヶ月近くかかったという。若い衆の長が若い衆ガシラで、下山で笛を吹く者の中で、一番の 年輩者が務めた。
 昭和13年の「余坂町組規約」では、下山の子供については年齢制限を設けず、若い衆は数え16歳以上、28歳までの者が務めることになっている。若い衆 で下山に出られない者は、3円の出不足が課せられた。若い衆が下山を務めることを義務としていた町内は多く、中本町組の「規約及議事録」にも、再三にわ たって記事が登場する。大正14年の日待の際には、酒肴の点で下山を優遇する方法を講じ、「万止ムヲ得ザル者以外必ズ若衆トシテ出場ノコト」と決議してい るし、昭和3年の日待会では、「若衆祭礼ニ付義務金ヲ廃シ三十五歳迄ハ義務年限ト定ム」と決めている。昭和9年の正月日待会では「若衆付合ハ停年迄ハ服務 スルヲ原則トス 但家事都合事情ニヨリ若干ノ包金ヲ以テ免除セラルルコト」と定めている。しかし、若い衆の参加を義務とする決議はたび重なり出されている ことから、実際には務めを果たさなかった者も多かったと想像される。余坂町のある話者によれば、「着物3枚を持っている人でなければ、若い衆で車山に上が ることができない。例えば、新楽は黄八丈、本楽は紋付、ヤマオロシは遊びに行くので大島が必要である」といい、「下山の若い衆は費用がかかるため、希望者 だけで構成し、入らない人はいくらもいた」と語られる。若い衆は経済的に豊かな家の者だけで務めるものであり、下山に出ない人は車山を曳くテコをしたり、 中山のカラクリをしたという。
 小太鼓の子供衆も、車山に上がるということになれば衣装や祝儀の経費がかかる。したがって、昔は経済的に豊かな家しか務まらなかった。衣装の金襦袢は、 初めて車山に上がる「初上がり」の時に嫁の在所が作るもので、このために田を売ったという話もまことしやかに語られている。そのため、「車山のある町には 嫁に出すな」という言葉もある。
 若い衆でも子供でも、初めて車山に出るのが「初上がり」で、昔は練習の会所場になった時、仲間にご馳走を振る舞い、土産を出した。また、相応の水金を町 内に出し、テコなどへの祝儀もかかった。写真●は現在の魚屋町の初上がり披露の貼り紙であるが、町内へ1万円と酒2升。若衆へ1万円、缶ビール・缶ジュー ス2ケースを出している。初上がりの時は、シンセキその他からたくさんの祝儀が寄せられ、その内容が初上がりの子供の玄関前に張り出され、披露される。
 中山連はからくりを扱う人である。現在は下山やテコの人の中で、練習を積んだ人が引き受けているが、「余坂町組規約」では、下山を終えた者が務めること になっていた。

テコ・綱割・後見
 テコ(手子、手曳)は車山を曳く人であり、太平洋戦争以前は近隣の農村の若者が務め、それに応じて給料が支払われていた。戦時中、テコを周 辺農村に頼むことが難しくなり、戦後は給料の額が折り合わなくなったこともあって、町内の若者が車山を曳くところが増えてゆく。そのようなテコを町内テコ と呼ぶ。これに対し、周辺農村に依頼したテコは「本デコ」と称され、「本町は本デコだでうまくやらんと」などといった。引き込みだけを町内テコがおこな い、神前は本デコというように分ける場合もあって、やはり農村に頼んだテコが「本職」であるという意識がある。
 一般に都市の祭礼は、祭礼に関わる財産を持つ町場の人たちがスポンサーであり、力を要する仕事は外部の者を雇用して担わせる傾向がある。都市の祭礼は各 町内の実力を示す機会であり、犬山祭りにおいても、贅を凝らした車山のこしらえやからくりのみならず、シャギリやドンデンと呼ばれる車山曳行時の力比べが 重要な町内対抗の要素になっていた。特にドンデンは、車山をテコの人たちが持ち上げ、どれだけ曳くことができるかを誇るもので、祭りの中の見せ場でもあ る。このような力自慢が、日ごろ力仕事に携わっていた町外の者によって担われてきたのは当然であろう。
 テコの人数は、現在の魚屋町の場合、後ろの楫棒が6人×2本(6マイ)、前の楫は1人×2本、これに車山の下にもぐって動かす者が7人である。下にもぐ る者は車山を進める役割であり、楫棒を扱う者が方向を定める。テコの初心者は下にもぐって車山になじむことから始め、うまくなれば楫棒につくようになる。 このほか、交代のための人が車山の周りを歩き、シャギリをする時などは手を貸す。
 綱割は、車山を動かす際の指揮者であり、テコに細かな指示を出す。シャギリと呼ばれる車山が方向転換をする際はもちろん、狭い通りを曳く時に周囲の家屋 への接近を防ぐなど、その都度、テコの配置を変えながら車山を思った方向に進めてゆく。綱割は大声で指図をしなくてはならない役柄でもあり、黄や赤の目立 つ色の半纏を着用する。一方、後見は車山の運行全体を采配する人である。魚屋町では黒半纏を着て参加する。後見は綱割が声をかけてテコの人を動かすのを後 ろで監督し、現場責任者としての立場にある。

(2)テコをめぐる問題

農村からのテコ
 テコを近郊の農家に頼んでいた時代では、綱割や後見もテコを請け負った地域の人で、テコのまとめ役の者が務めていた。この人たちに依頼すれ ば適当な人をテコとして集めて来たのであり、テコの給料も、彼らにまとめて渡されていた。
 余坂町のテコは内田から来ていたが、祭りが近づいて、若い衆が毎晩、会所場に集まって練習をするようになると、テコのカシラ2〜3人が来て「今年も引か させてもらいます」と挨拶に来たという。テコはムラの青年会の人が主で、給料と祝儀が町内から出され、下山の若い衆も別に祝儀を出していた。また、車山が 停まり、下山の子供を家に帰す場合はテコの者が肩車をして連れていったが、この場合でも祝儀を出すのが当たり前であった。内田は練屋町のテコも務め、この ような契約関係をどこの町内もムラの若い衆との間で結んでいた。
 外町では、テコは五郎丸の人に頼み、親方を通じて粒選りで身長の揃った18人の者が集められたという。身長を揃えたのは、車山を肩で担ぐためである。
 魚屋町のテコは丸山の人を頼んだが、昔は試楽と本楽の2日間、犬山にテコに行けば飲み食いができるし格好がよいので、テコに来たい人はたくさんいたとい う。第4図は、犬山祭のテコを務めた人々の居住地である。ムラによっては俵を担いでテコの練習をしたというような話も伝えられ、犬山祭りは近郊農民にとっ ても大きなイベントになっていた。
 テコを頼む地区と町内とは、特別の結びつきがあったわけではない。余坂町では内田とのつき合いは祭りの時だけで、それ以外に特別な交渉はなかった。テコ を頼む地区を替えることもしばしばおこなわれている。この意味で、テコの関係は世代を超えて継承されるものではない。ただ、商家における出入のごとく、一 定の契約関係があったのであり、勝手にテコを替えたりはしないものであった。

中本町の「テコ問題」
 テコをめぐっては、その待遇に関し、しばしば町内とテコの人たちとの間で衝突が起きている。ここでは、中本町組の「規約及議事録」から、テ コに関する記事を紹介する。
 「大正拾弐年四月御祭礼給与手引」には、「手子の部」として第5表のような待遇を講じている。
 中本町は坂下にテコを依頼していた。前年の日一文(町会費)の合計が56円43銭(月額)であることから考えて、テコの給料と祝儀合計の50円だけを見 てもかなりの金額であると言えよう。テコの給料と支度については、例祭前に間口割によって徴収し、「手子半天モモ引」と「手子取締幹部」の「羽織印入」の 衣装は町内持ちであった。
 町内がテコへの出費を抑えようという動きが出るのは当然である。大正12年4月の日待会では、テコの給料と給与品を全廃し、代わりに100円を支給する ことが決められた。しかし、テコからの反発があったのか、翌年3月の祭礼前の協議では、それまで給与していた金品の代価に加えてテコの支度分を見積もり、 代償金は132円に増額されている。いずれにしても、祭礼に対する出費の多さがうかがえる。
 昭和8年4月の日待会では、「手子給料ハ高キニ失スルノ嫌アルヲ以テ隣町ト気脈ヲ通ジ交渉ヲナシ善処スル方法ヲ当番ニ一任スルコト」とし、数度にわたる 交渉がおこなわれた。結果は不調で、昭和10年3月13日の総集会の記事には、「坂下手子トノ交渉ヲナシタルモ値段ニ於テ懸隔アルヲ以テ猶念ノ為メ当番五 名大■万吉ヲ訪問シ更ニ交渉ヲナシタルモ結局不調トナリ其善後策ニツキ協議ヲナス」と記されている。しかし、ここでも交渉は決裂し、結局、坂下とは縁を切 り、橋爪中組の若連と新たにテコの契約を結んでいる。3月17日の総集会では、「当番ヨリ坂下手子ニ対シ分レ酒一斗ヲ贈リ数十年来ノ因襲ヲ快ク袂ヲ分ツコ トニナリタル顛末ヲ報告シ後継トシテ橋爪中組若連ト雇傭契約ヲナス」とあり、条件として、「給料全部ヲ束テ金六拾五円トス 但 足袋草鞋共凡テ自弁ノ約ト ス 右条件ヲ満場一致可決ス」と決めている。中本町としては大幅な支出抑制に成功したことになる。記事には「拾数年以来ノ難問題ヲ本年当番ニ於テ勇敢ニモ 解決セラレタルハ町内トシテ感謝スベキ事柄ナルヲ以テ相当ナル方法ニヨリ感謝若クバ表彰スベキ値アルコトヲ満場一致決議ス」とあり、テコの待遇問題がいか に大きな課題であったかがわかる。この年は、橋爪中組の若い衆が、中本町の新しいテコとして車山を曳いたのである。

余坂町の「テコ問題」
 余坂町では、テコの待遇をめぐる交渉が決裂し、町外のテコに代わって町内テコで祭りを執行するようになった。その顛末を余坂町の「永久簿」 (昭和●年起こし)から見てみよう。
 昭和11年2月の伍々長会では、「祭礼ノ山車手曳給料ハ七拾円ノ事」と協議し、中本町に比べると低額に定められた。これに対し、余坂町の車山を曳いてい た内田のテコは反発し、辞退を申し出てくる。3月6日の伍々長会では「手曳給料不服ノ結果内田ヨリ謝絶アリシカバ金拾円ヲ送リ(御別レ酒代)多年ノ交際ヲ 絶縁スルコト」が協議された。3月11日の伍々長会では、「永年ノ手曳内田区ヨリ何等話シナキ為拾円ノ別レ酒ヲ三月七日持参セシコトヲ報告シ今後ノ手曳ヲ 願フコトニ付キ協議セシ結果、幸ヒ塔之地ヨリ手曳申出デアリシカバ伍々長会席上■出願ヲ求メ町内ノ希望ヲ申求ベシ処、一両日ノ猶予ヲ得テ返事アルコト」と 記し、「町内要求」として「わら志゛、足袋、ちり紙、扇子等■■先方持ノコト 傘ぼこ持チ付キノコトニテ給金六十円也ノコト 試楽引込当日ハ午前五時迄ニ 半数以上手伝ニ来ルコト 試楽ハ其ノ年ノ順位ニ依リ時間ヲ当番ヨリ申シ渡スコト 山組夜山日暮迄ニ来ルコト 本楽ハ午後一時迄ニ来ルコト」を掲げている。
 60円の給料は低かったのであろう。新しく余坂町の車山を曳くことになった塔野地では、翌年の犬山祭りの前には「手曳人夫給料増額」を申し出、15円を 上乗せして75円にするように要求してきた。これに対して、余坂町では70円への増額を認めて祭りをおこなっている。
 昭和12年7月に日中戦争が勃発すると出征者が相次いだ。若者の減少は祭りの執行に大きな影響を及ぼす。おそらく、塔野地からもテコを断る申し入れが あったのであろう、13年3月15日の評議員会では、「本年度ハ支那事変ノ為町内総動員ニテ町内手曳ニテ若衆ニテモ役割ヲナシ一戸一人ハ出不足ヲ得ズ必ズ 務ムルヒト決議ス」とし、17日、「塔野地手曳ヲ断リニ来リシニ片目致シ度ニ付御酒料ノ請求有リシ為御酒料金参円渡ス」と縁を切っている。

(3)自治組織・祭礼組織の二重構造と一体性

 以上、余坂町、中本町の事例によって、自治組織と祭礼組織について概観した。かつての犬山の町組織は、階層性と平等性という二重の構造を持っていたと考 えられる。町の自治に関する役職は経済的に豊かな階層から選出される傾向が顕著であり、自治のための費用分担方法にも差が設けられていた。一方、祭礼や行 事を取り仕切る当番(幹事)は家並順で平等に務め、当番を務めないことに対してはペナルティが課されていた。ここには、町の自治は執行・負担能力のある特 定の階層によって担うのがふさわしく、町の行事は全員で平等で執りおこなうのが望ましいという考えが込められている。
 しかし、町の行事を全員で執りおこなう平等性があったといっても、それは、あくまでも表通りに居住する構成戸に対してのみ適用されたものである。裏屋、 閑所と称されたところに住んだ人たちは適用外であった。ここに住む住民が流動性の高いものと認識され、そのような人たちと一線を画することで、町の伝承の 基盤が強固なものになっていたのである。
 一方、犬山祭りの組織も、自治組織と同様に階層性と平等性という二重構造を持っている。町代、警固、下山は階層性が問題となる役、当番は平等性に根ざし た役である。さらに、かつてのテコや綱割などは町外の者が務める役であり、町の組織とは別個のもので、町とは雇用関係で結ばれていた。そして、ここでも裏 屋、閑所の人々は祭礼組織とは無縁な存在であった。
 犬山祭りの祭礼組織は、自治組織と同じ構造を持つのみならず、組織自体が一体化している。第5図は、自治組織と祭礼組織の対応関係を示したものである。 松平誠は、「カミを祀ることで町の「家」が結びつき、町ごとに地縁の祭礼集団が形成される。そして、この祭礼集団が町内を運用していく主体として成長して いくのである」と述べているが、このような傾向は、犬山の場合にも当てはめられる。この祭りでは、山車の曳行を通じた各町内の競い合いがあり、他町内と対 抗する必要からも自分の町内の結束を固める必要があった。そして、町内の規約の中には、祭礼に関する条項が多数記されている。「一軒一役」の平等原理を原 則として、出不足を徴収してきたのもその一つである。町は祭りを中心に動いてきたのであり、町組織の階層性がそれを可能にしていた。上位階層が祭りの維持 のため、ある程度の強制力を持って町内を束ねていたのであり、それゆえ、強固な結束力を持った町内が、民俗の伝承母体として機能していたのである。

4 戦後の町と祭礼の組織

 松平誠は、戦後における町内社会の崩壊と祭礼の変容を(1)町内の自治能力の低下、(2)観客の役割の増大、(3)仕掛人の範囲の拡大と流動化、(4) 女性の祭礼行事への進出、の4点から、祭礼の祝祭的部分がかつての固定的な祭礼集団の外側へ向かって大きくはみ出している状況を指摘した。そこでは、「今 日の都市住民には、過去に存在したような都市的集団結合のかたちを期待することは、ほとんど不可能」であり、「大部分は、地縁的な結合の稀薄な一種の漂泊 者的生活を送っている」と述べている。このようなことは、一般に、都市社会や都市の祭礼において指摘されてきたことである。このことは、犬山の町の場合に も当てはまるのであろうか。次に、戦後の自治組織、祭礼組織の状況について見てみよう。

(1)現在の自治組織

余坂町
 組長は、戦後は駐在員という呼称に変わり、現在は町会長と呼ばれている。余坂町の組長は、かつては当番(幹事)の中から評議員によって選ば れていたが、戦後の町会長は総会で選挙されている。昭和30年頃、班ごとに順番で町会長を出したこともあったが、この制度は5年間くらいしか続かなかっ た。その後、戸数が150戸ほどに増加したため、東余坂町と西余坂町の2つの町内に分かれ、町会長もそれぞれの町内から1人ずつ選出されるようになった。 しかし、祭礼の車山は東・西余坂町が合わせて出しており、両町内会は不可分の関係にある。町内の総会は、戸数の多かったときは東・西余坂町で日を変えて天 神社社務所でおこなっていたが、現在は100戸以下に戸数も減ってきたため、3月第2日曜日に一緒におこなっている。
 東余坂、西余坂町では、それぞれ7〜8戸で5つの班を作っている。班の代表が評議員で、現在は順まわりで1年交代で務めており、かつてのように特定の有 力者に固定されるということはなくなった。また、組費である日一文は均等に徴収するようになり、現在は月額1000円であり、このうちの250円が車山の 費用になっている。
 このように、余坂町では、戦前に見られた階層性原理による町内自治のあり方に変わり、平等主義が表に出ている。

中本町
 中本町でも、戦後の町内自治は平等性原理に基づくようになった。もっとも、日一文が均等割りになったのは近年のことであり、費用負担ついて は階層性が遅くまで残っていた。役職には、町会長、副会長、顧問、町務員がある。顧問は町会長を終えた人が務めるが、定員はなく、現在は5人である。かつ て、町内の階層に基づいて出されていた町務員は、現在は上組、中組、下組から2人ずつ出されている。町会長と副会長は町務員と顧問の推薦であり、1月に町 務員が集まって開く町務員会で決められる。町務員も前任の人が後任の人を推薦して選び、任期は1年だが、だいたいは同じ人が引き続き務めているという。こ の結果は3月の町内の総会で諮り、承認を得ることになる。町会長は3月31日までが任期であるが、犬山祭りの仕事については、1月から新しく町会長に就任 する予定の人が引き受けている。
 中本町では、家並み順で5軒が1年交代で当番を務めていたが、男手のない世帯などが増えたこともあり、現在は7軒でまわしている。当番は行事や祭礼の執 行組織にとどまらず、現在でも町内自治の組織の一つとして、この中から会計、衛生係を出している。会計は日一文の金額(現在は均等)を記した板を持ち、組 費の集金に当たっている。衛生係は町内の廃品回収の仕事などをしているが、元は汲み取りの切符を売ったりしていた。当番の引き継ぎは、犬山祭りの本楽の夜 の8時、車山が外町から下本町に入ったときにおこない、前の当番が半纏、手提げ提灯、拍子木を新しい当番に渡す。もっとも、これは象徴的な引き継ぎであ り、実際には犬山祭りが済んだ4月最後の日曜日、会館で勘定日待を開き、1年間の会計報告を前年の当番がおこなって正式に新しい人に引き継ぎをすることに なる。
 中本町は、現在は戸数25戸の小さな町となっている。このため、実際に自治に携わることができる人は限られ、特定の人が継続して役職を担う傾向がある。 しかし、そこにはかつてのような階層性原理は認められない。また、行事組織である当番が自治組織と不可分の状態が残っているが、これも小さな町特有の事情 であろう。

(2)現在の祭り組織

町代・警固
 町代の呼称は、現在でも祭りの時に用いられ、町会長が務めている。
 警固は、元はある程度の年齢で日一文を多く出している家が務めていたこともあり、戦後も実力者の役柄であることには変わりがなかった。車山をぶつけて家 の庇を壊してしまったようなときは、町代と警固が謝罪に行き、「新しく来た人では務まらず、対外的な問題が起きたときに顔がある人」である必要があった。 中本町では、町務員と顧問を警固に当てていた。
 しかし、警固役に見られる階層性も、近年では薄れる傾向がある。余坂町では、現在は50歳くらいまでテコとして活躍し、55,6歳から警固となる場合も あるため、ある程度の年配者が勤めているが、「今は誰でも警固になれる」といい、対外的な問題が生じたときの責任は当番長が担うようになっている。また、 中本町でも、数年前からは他に祭りの役のない人を全て警固役にしている。
 町代と警固は、かつては階層性に基づく役職であったが、現在の町代(町会長)は平等原理によって選出されているし、警固役の持つ重みも薄らいでいる。自 治組織における階層性原理の喪失は、祭礼組織にも影響している。

当番
 現在の当番の決め方は町内によって様々であるが、順番制による平等原理による役職である点は変わらない。
 下本町では、当番は7人で家並み順で務めていたが、車山を組み立てる作業がたいへんであり、現在は本町通りで東西に分け、東側祭礼委員、西側祭礼委員と して、それぞれの家が交互に務めている。魚屋町は1班から5班までの5つの班に分かれていて、当番は班を基準に出されている。当番の人数は10人くらい で、人数が少ない場合は班を二分し、隣の班と合わせて当番となっている。
 余坂町では、当番は東・西余坂町を分かたず、15軒ずつの家並み順で務めている。70歳を過ぎると町内の役や祭りの役を抜くこととされているため、高齢 者のみの家庭であれば当番を飛ばすことになる。現在、余坂町では、車山を組むときは当年の当番(本当)と前年の当番(前当)が集まり、30人で作業をして いる。昼までで前当は引き揚げ、後は本当が仕事をする。山を解体するヤマオロシの時は、本当と翌年の当番(受け当)が作業をし、本当は昼までで引き揚げて いる。
 当番長は、余坂町では当番の中で互選される。「祭りが終わって提灯の後かたづけの時、次の当番(受け当番)が提灯を受け取りに集まるので、ここで何とな く長が決まる」という。当番長は、祭りに対してある程度の経験がなければ務められるものではないという。
 余坂町の当番は、2月中頃には会合を持って、祭りの準備のスケジュールを話し合い、3月第1日曜日には役割を決定する。この後、若い衆との打ち合わせや 会所場の手順、提灯の点検や修理をおこなう。大切なのはテコの手配であり、名簿を作って調整し、人員を確定するまでには3回の話し合いが必要になる。手が 足りなければ、町内のテコのツレを頼む必要も出てくる。
 余坂町では、当番になって祭りに全く出られないというようなことは許されないという。出不足はないものの、どうしても用事で休まなければならないとき は、当番長に断って気持ちを出すことになる。いずれにせよ、当番は万難を排して務めるものであるという伝統は受け継がれている。
 中本町の当番は5人から7人に増えたが、家順で出されることには変わりがない。犬山祭りについては町内各戸から1人ずつが出て仕事をしているが、中心は やはり当番である。中本町は小さな町内であるため、「一軒一役」の原則は強固に守られ、出不足金も課している。平成10年には、山組みと山壊しが2000 円、テコと警固は一日7000円、提灯付けは1回500円であった。テコは、警固を務めた町務員と顧問以外の全員を割り振ったものであるが、これは名前だ けであり、実際に車山を引いたのは町外から頼んだ本デコの人たちである。現在は、前述したように、役のない人は全員が警固になっている。祭りに出ない人は 当番が記録し、出不足を徴収しに行った。実際に働く場面はなくても、祭りは「顔を出すことが大切」であるという。祭り参加の平等原理を守ることが、中本町 の祭りを維持してゆくためのカギなのである。

下山・テコ
 子供や若い衆は、かつては一定の有力者の子弟が務める傾向にあった。これについても、戦後は平等主義の視点から改革が図られた町内がある。
 例えば、余坂町では、町内で8人分の子供の友禅の衣装を作り、1年生になれば誰でも車山に上がれるような体制をとり、若い衆についても町内で衣装が用意 された。他に熊野町や寺内町、魚屋町などでも町内で揃えた衣装を持っている。もっとも、町内のものは使わず、各自で衣装を別に作ってもよいとしているとこ ろもあり、この場合、町内の衣装はだんだんと着られない傾向にあるという。
 もっとも、近年は子供や若い衆の人数が減り、町内で下山を揃えることができない場合が多くなっている。かつては見られなかった、女児が車山に上がって小 太鼓を叩くことはもちろん、下山の担い手を町外の人に拡大してゆくこともおこなわれている。
 テコは、太平洋戦争後は町内で務めるようになったところが多い。余坂町では、戦後も内田の若い衆にテコを依頼することはあったが、昭和30年代後半から は町内テコとなった。この場合、綱割や後見という役割も、当然ながら町内の者で務めることになる。
 中本町では、戦後は橋爪にテコを依頼し、綱割、後見も橋爪の人が務めていたが、やがて、賃金の折り合いがつかずにテコが集まらなくなった。このため、町 内のある人が個人的なつながりでテコを集めてくるようになり、祭りの時はこの人が綱割を務めている。
 このように、テコは大きく見れば、町外の働き手から町内の働き手へという変化がある。しかし、町内テコで祭りを維持してきたところでも、最近、町内の若 者の数が減ってきたこともあって、町外の者の応援は欠かせなくなっている。職場や学校の仲間など町外からの応援者をサシテコ(差し手子)と称しているが、 現在の祭りではテコは花形であり、遠方からも継続して応援に来る者が多くなってきた。松平誠が言うように、「本来土地の祭礼とは無縁だったはずの人びと が、山車を曳き神輿を担ぐ」現象が顕著になっている。例えば、練屋町では広く町外の人も含めた「国香会」というテコ連が結成されている。テコはかつてのよ うに特定の地区に人手を委ねるのではなく、祭りの好きな人たちが作った車山を曳く組織に仕事を頼む形に変化しているのであり、「地域とは何の縁もない神輿 担ぎの「睦会」」が祭礼に関わっているのと同じく、「仕掛人(ここでは担い手)の範囲の拡大と流動化」が起きているのである。

自治組織と祭礼組織の変化
 戦後の町組織は階層性が影を潜め、平等性を前面に押し出すものであり、さらには町による個人への規制を弱める方向で組織が変化してきた。こ の変化は祭り組織にも現れている。「祭りの時は一軒一役であり、必ず一人は出なければいけなかった。出ないと出不足として5000円を取っていたが、現在 はなくなった。それぞれの家に事情があり、無理強いはできない」とか、車山に子供を乗せるのも「祭りが好きでなければやらないし、それでも構わない」とい う風潮の町内もある。ここでは、町内在住者には半ば強制的であった祭りへの関与が、平等性が前面に出ることで、個々人の自由な参加形式に形を変えている。 これは、多くの都市祭礼に共通してみられる現象である。
 しかし、少なくとも祭りの中心となって動く当番については、このような自由さは認められていない。余坂町では「一軒一役」に対する出不足課金こそなく なったものの、当番の務めは絶対であり、その務めを果たさないようなことは全く考えられないこととされる。また、中本町のように町内住民の減少という事態 に見舞われているところでは、現在でも祭りの不参加者に対して出不足金を課し、祭りの維持のための規制を強化している。
 犬山では「仕掛人の範囲の拡大と流動化」が生じていても、現在も祭りの担い手としての町内は重要である。そして、それは、今もなお、自治組織と祭礼組織 が同一であるという伝統が残されているからに他ならない。

まとめにかえて

 犬山の町内の強固な結束力は、祭礼を仲立ちとして形成され、自治組織と祭礼組織は、それぞれが階層性と平等性の原理を合わせ持ち、同一のものとして機能 していた。戦後は、平等性原理が前面に出る形で組織に変化が生じ、祭礼組織には「範囲の拡大と流動化」も生じている。しかし、車山のある町に住む限り、祭 りの当番を務める義務が課されており、現在も自治組織と祭礼組織は一体のものとなっている。この点で、犬山の町内は、今もなおしっかりした民俗の伝承母体 として機能していると言える。
 例えば余坂町を例に取ると、ここでは町内に居住する人に対し、当番の他にも様々な役務がある。天神さんと弘法さんの掃除は、週2回、家順で5人くらいで おこなっている。11月、12月は落ち葉が多いため、8人で隔日に実施し、この時期は月に3回は掃除がまわってくる。お灯明番は、針綱、伊勢、稲置などの 神名を記したガラスの六角箱が家順にまわってくるもので、各家では中にロウソクを灯し、軒に吊したり、台を出したりして祀る。弘法さんの御膳箱も、毎日、 家順でまわり、箱がくると中の高坏に4体分のお供えを盛り、弘法堂に供えに行くことになる。このような事象を見ると、民俗の伝承母体としての町内の重要性 が察せられる。
 古い町内は、現代的な感覚で生活をしてゆく上ではしがらみが多いのも確かである。「ヤマのある町内は付き合いがたいへん」であるとして、若い世代を中心 に、町外へ転出をする事例も目に付くという。「町に残るのは祭り好きだけ」という話者もあった。しかし、「共に町に住む「家」の共同を実現する媒介として カミの祭が重要視され、カミを仲介とする集団−祭礼集団がつくりだされて、生活の共同へと活動をはじめる」のであり、「こうしてはじめて町内が実体化し、 帰属感が生ずるのである」とすれば、犬山祭りを通じて犬山の町が培ってきた伝統は貴重なものである。祭礼組織についてはある程度の流動化は避けられないも のの、基本的な部分で自治組織と祭礼組織の同一性が維持されてゆくことが、今後の犬山の町の活性化にもつながってゆくものと考えられる。


「愛 知県史民俗調 査報告書5 犬山・尾張東部」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部」編集委員 会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部総務課県史編さん室
  平成14年刊行


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