「地 取りとムショウ参り−奥三河の葬制・墓制」
服部 誠  

はじめに

奥三河の葬制・墓制の特色
 奥三河の葬制・墓制・先祖祭祀で特筆すべき事柄は、(1)比較的古い葬送儀礼伝承が残されている点、(2)かつては屋敷墓が一般的であり、 明治政府の墓埋政策の中で、多様な墓制が展開していった点、(3)盆行事、特に初盆の行事が豊かである点、この3つにまとめることができる。(3)につい ては、まだまだ調査も不十分であり、今回は、このうち(1)と(2)について取り上げ、この地域の葬制・墓制の特色について考えてみたい。もっとも、この 2点についても、調査はまだ端に着いたばかりであり、様々なご教示を賜りたいと考えている。
 さて、(1)について繰り返すと、奥三河では、平野部で忘れられてしまったような古い葬送習俗が豊かに語られている。葬送においては、古い時代ほどケガ レを強く意識し、死霊を恐れる気持ちが強かったであると考えるのが自然であるから、奥三河で古い時代の葬送習俗が伝承されていることは、それらは死穢に対 する強い意識の表れであると考えられる。この点については、特に湯潅や納棺の儀礼を取り上げて、後から詳しく見ることにしたい。
 一方、(2)の墓制については、明治以降、奥三河地域ではかなりの変遷があった。現在、奥三河のムラで最初に目に付く墓は、屋敷裏にたたずむ石塔であ る。これらは、たいていは苔蒸しており、近世の年号が彫られたもので、最近建てられたものは少ない。一方、これとは別に、ムラの山の手の方には共同墓地が 設けられている事例も多く目にすることが出来る。前者を旧墓、後者を新墓と称することが多いため、屋敷裏の墓が近世以前の姿、共同墓地が明治以降の姿とい うように見られやすい。しかし、いろいろと聞き書きを進めてゆくと、この両者の墓地はともに新しいものであり、ずっと以前は、屋敷地の中や畑の中に埋葬が されていたという。そして、これが奥三河の墓の原初的な形態であったことが知られるのである。現在でもこの三つのタイプの墓は一部で併存しており、この地 域の墓制を複雑なものにしている。それぞれの墓の関係については、後から見てゆきたい。

ケガレ意識の二律背反
 ところで、墓制研究の定説では、遺体はけがれたものとして、ムラはずれなどに埋葬されるのが古い形態であったという。これに対して、奥三河 において遺体が屋敷地周辺に埋葬されることは、死のケガレ意識がそれだけ希薄であるということを意味するともとれる。しかし、一方では、先に述べたよう に、葬送習俗においては死のケガレを強く意識した事例が豊富に語られているのである。このように、この地方の死のケガレ意識は、葬制と墓制の間で二律背反 が見られるといってよい。
 ケガレ意識が、ある状態からある状態に移行する際の過渡的状況の下で生じるものとするならば、生から死への移行の際に生じる死のケガレは、ケガレの最た るものである。そういう死のケガレは、繰り返される死者祭祀によって取り除かれ、弔い上げによって完全に浄化されるというのが古い民俗学の定説である。し かし、屋敷地内に築かれた墓の存在を考えると、弔い上げに至るまでの長期の死者祭祀を経なくても、かなり早い段階で死のケガレが取り除かれてゆくのではな いだろうかとも思われる。奥三河の葬制に強く現れる死のケガレ意識と、墓制における希薄な死のケガレ意識の、両者が併存することで矛盾がないのならば、こ の二つの間には何らかの儀礼的措置が存在し、意識の転換が図られなければならないだろう。この点、筆者は埋葬時の「地取り」の儀礼に注目している。これ は、埋葬地を死者のために儀礼的に買い取るものであるが、この儀礼によって、死者に死後の世界が保証されることで、生者から死者に移行する際に生じるケガ レが、薄らいでゆくことが考えられるからである。

1 奥三河の葬送儀礼

死のケガレを意識した葬送儀礼
 初めに、葬送習俗の中で、特にケガレを意識した伝承について例示しておきたい。まず、死のケガレを直接被ることになるのは、遺体を洗う湯潅 や死装束を着せる儀礼であろう。いずれも、遺体に直接、接する行為であるからである。
 湯潅はトムライの日の朝早く、日の出る前におこなったというところが多い。これは、死のケガレを意識し、日に当たることを嫌ったものである。ゴザンを捨 てる場合などで、日に当てるなという伝承は比較的得易いものであるが、湯潅について、葬式の日の未明におこなうものという伝承は、平野部ではあまり聞かれ なかったように思う。ご教示願いたい。
 設楽町和市では、湯は蓋をしないで沸かし、アラムシロの上に盥を置いて、水、湯の順番で入れた。遺体は硬直しているが、足を湯で揉んでやると柔らかくな るので、足を折り、手を組ませてから湯潅をした。湯潅は主に近親の女性がつかわしたというところが多いが、和市では男も女も加わった。湯潅の時には、腰切 りなどの上っ張りを裏返しか左前で着る。帯には藁縄か、藁を何本かあわせたものを用いた。上っ張りは3〜4枚用意し、一人の人が最初から最後まで湯潅をつ かわせてやり方を教え、あとは次々に着替えて交代した。津具村下津具では、湯を沸かすときには喋ってはいけないといった。また、スワラの一把束に火をつけ て臭いを消した。したがって、アイの時(普段)は、一本線香を忌むのと同じく、一把束はダメだといっていた。火を焚くのは、いわゆる火の儀礼で、生者との エンキリの意味があるものと考えられる。湯は柄杓を左手に持ち、逆にして頭からかけて拭いた。
 湯潅の時に着ていた服は、川などに行って脱いでおき、あとで喪家の人が洗って片づける場合が多い。東栄町小林では、着物は家の外で脱ぎ、あとは焼いてし まった。また、川に行って手を洗ってくるが、この時はハンカチで拭いたりはせず、濡れ手のままで寺に向かって拝んだ。したがって、普段は濡れ手で手を叩い てはいけないといっていた。また、湯潅に立ち会ったシンルイも、けがれているので川に行って手を洗ってきた。湯潅の水は、山でも畑でも屋敷の中でも、アキ の方角を見て捨てたというところが多い。
 湯潅の後、遺体には晒を縫って作ったカタビラを着せ、ハバキ、手甲を付けて足袋をはかせた。津具村下津具では、死んだ人に着せるものは、3〜4人くらい で縫ったが、この時は一畳の畳の中に全員が入って縫うものとされていた。大勢の人が力を合わせることで、死のケガレに打ち勝つことが期待されたものと考え ることができる。晒は鋏で切ることはせず、手で裂き、また、着物も破いたり裏返しにしたり、左前にしたりと、まともに着せてはいけなかった。糸も最後は止 めないで縫いっぱなしにして、足袋もコハゼをとったりほころばせたりした。このあたりの伝承は、よく聞かれるものである。紐には麻か藁を用い、帯にも藁縄 を使ったという。頭には布で作った三角の頭巾をつけ、ワラゾウリを履かせた。津具村では寒中に四十八夜念仏をおこない、念仏堂に「四十八夜の晒」として晒 をぶら下げている。大勢の人の念仏と線香が焚き込められた晒は死のケガレに克つことができるものであり、死装束をこの晒で作ることがあった。また、これを 棺に付け、「善の綱」として引っ張っることもあった。
 納棺の際に一緒に納めたものは、死後の世界観を表したものでもある。遺体は膝を立てて棺に入れ、手は胸元で組んで数珠を掛けた。また、頭陀袋を縫って、 中には紙に書いたお金、灰、紙に包んだ小糠などを入れた。灰や小糠は「三途の川で鬼婆が来たときの目ツブシだ」といい、ところによってはナンバンや山椒の 粉を入れている。設楽町和市のように団子や小糠団子を入れるところもあり、道中は餓鬼がたくさん出るのでたくさん持たせるものという。これらは、いずれも 亡くなった人が冥途に着くまでの魔除けである。また、紙に書いたお金は、渡し賃や死者のお小遣いとして入れるもので、津具村では、現在でも1億円などとい う大きい金額から、細かいのがないとダメだといって小さい金額までを用意している。中には、書いた金額が大きいと冥途へ行く途中で遊んでしまい、行き着か ないという話者もあった。
 出棺の際にも様々なまじないがおこなわれる。津具村では、棺はシタデイの縁から出したが、この時、竹で半円の輪を作り、この中をくぐらせた。棺は本当の 門(正面玄関)から出してはいけないので、仮の門を作るという意味でここをくぐらせたものという。
 出棺後、外に筵を敷いて棺を安置し、その廻りを会葬者が持ち物を持って回る習慣は多くの地区で見られる。棺の回りには、筵を裏にして10何枚か敷いた。 この筵は大勢の人に踏んでもらうとよいといい、この後、橋のそばや三辻、墓場への道に敷いておく。これも、大勢の人が関わることで、死のケガレが薄れるこ とが期待されていると言える。棺の周りを回る際は、亡くなった人の年の数だけお金を入れた花篭を振るい、お金を散らす。僧侶が読経をする中、焼香をし、引 導を渡してから葬列を組んで墓場に向かうことになる。
 なお、葬列の順序はところによってまちまちである。第4表は、東栄町小林で昭和31年におこなわれた葬式の順序、第5表は津具村・下津具野向組の「平成 元年葬儀準備台帳」に示されている現在の葬列の順序を示したものである。現在、津具村では火葬がおこなわれているが、葬列の伝統は残されており、火葬に付 した後、喪家から墓地までの間で、遺骨を中心に葬列が組まれている。 
 以上の葬送儀礼は、平野部においても、以前はおこなわれていたであろう事柄であるが、現在、伝承で確認することは難しいものが多い。奥三河では、現在も 一般に語られている事柄であり、比較的近年まで、古い習慣が維持されていたことが知られる。そして、それは、死のケガレ意識が強く伝承されてきたからに他 ならないからであろう。

穴掘りと埋葬
 次に、葬法について見ておきたい。奥三河の葬法は、伝染病死などの場合を除いてほとんどが土葬であった。火葬場が建設されてからも、「熱い で焼いちゃいかん」と言う人はいて、現在でも、一部では土葬も残っている。
 穴を掘るのに先立ち、喪家の主人が地面にお金を置き、地取りをする習俗は奥三河の特色である。地取りに関わる伝承を列記してみよう。
・地取りは大役であり、穴掘りの人のことである。土葬の穴を掘る前には主人が位置を決め、6文を持って行ってお墓を買う。「○○が来るから土を分けてく れ」といって、先の先祖から買うもので地取りといっている。豊根村(古真立・大立)
・穴を掘るときは6文銭を用意する。今は1円玉6枚である。喪主は墓地に行き、どこを掘るかを決めてお金を並べた。穴を掘った後、お金を拾って一カ所に固 め、土を盛った上に置いておく。豊根村(坂宇場)
・三文銭は亡者が入る墓を買うためのもので、主人はお金(10円玉・地代)、線香、ロウソクを墓の数だけ持って行き、お金を1枚ずつ置いて「○○が来ます からお願いします」と頼んだ。埋めるところに対しては、四方にお金を置いて「ここに入りますから」と頼む。津具村(下津具・野向)
・穴掘りの時は、家の人が一緒に行って地取りをする。これは、元は六文銭を墓の地面に並べるものであったが、現在は100円玉を使っている。このお金で埋 葬する土地を買うということである。お金は下げてきて、寺の六地蔵に供える。東栄町(古戸)
・穴を掘る前に主人が行って地取りをした。ここを掘ってくれということで、一銭玉を置いてからそこの土を掘った。お金は4隅に置くのではなく、1カ所にあ げるだけであり、埋葬が終わると下げてしまう。このほか、寺の門前の六地蔵にもお金を6枚供えていった。東栄町(小林)
・トムライの日の朝、当主が穴を掘ってもらうところに6文のお金を持ってゆき、石塔の横に6枚並べた。これを墓を買いにゆくといい、現在は10円玉6枚で ある。穴を掘る位置には四隅に棒を立て、ここをムラの人に掘ってもらった。設楽町(和市)
・穴を掘る前に、昔は1銭玉を4つ置き、この中に穴を掘ってくれといった。そこの土地を買い上げるという意味だった。下山村(羽布)
・掘る前には10円玉6枚を六文銭として、喪主がお墓の敷地を買ってきた。六文銭は正方形に6枚並べる。作手村(菅沼)
 このように、地取りは、亡くなった人が入る墓の敷地を買うものと説明されている。そして、その相手は、豊根村や津具村の事例からは、その家の先祖である ことがうかがわれる。買い取る金額は一定しないが、お金6枚ということが意識されていて、これを「三途の川、閻魔様、極楽浄土など、6カ所を通るのに必要 なお金である」と説明する話者もあった。通常、棺の中に納める六文銭の伝承が、地取りの金額に反映したものであろう。地取りの伝承は、この地域の墓制を考 える上でも重要であり、この儀礼によって、死者は死後の住処を得ることになる。
 穴掘り役は組の中で順番で務めるところがほとんどで、たいていは組で当番帳を持っている。津具村では、穴を掘る役割の人をカヤカキと称し、板でできた当 番表が順に回されている。当番は家の順番で二人ずつ出ることになっていたが、ケガレを強く受ける仕事であるところから、奥さんが妊娠していたりするときは 次にとばすことになっていた。穴は昼ご飯を食べてから掘り始め、掘っているときには組の人が酒と肴を持参した。着る服は喪家のものを借りたが、帯は藁縄を 用いた。掘り終わると着物は脱いでそのままにしておき、鍬も道に放っておいた。これらは後から喪家の人が片づけに行った。カヤカキの人は、掘り終わると自 宅の風呂に入り、喪家で葬儀後に行われるゴクロウブルマイでは、一番の上座に着席した。
 設楽町和市では、穴は朝8時くらいから掘り始め、10時くらいには掘り終わる。穴掘り役は早めに喪家に行って食事をとり、用意された常着に着替えた。履 物は元はワラジ履きで、現在は長靴、足袋靴である。ツルハシやスコップを持ち、地取りの印のあるところを掘った。棺を埋けた後、道具と着物は沢に行って脱 いでおく。これらは、喪家の人が行って片づけた。穴掘りはオッサンの次に威張っていられたものであったという。
 土葬の際には、葬儀の飾りもので紙の類は一緒に埋める。また、穴を掘っているときに出てきた丸い石を、枕石として土饅頭の上に据える。また、適当な石が ない場合、よそから石を拾ってくる場合もあり、その時、豊根村古真立では、「枕石には、あれこれと迷ってはいけない。これと決めたらそれを持ってくる」と 伝えている。津具村のように、枕石の他、平らな野面石を土饅頭の前に置き、野膳(お供え)を供える台としたところもある。
 土葬の際の様子はどこもだいたい同じである。東栄町小林の例を挙げると、枕石を据えた土饅頭の前には、洗米、水、枕飯を供えた。枕飯は本人の使っていた 食器に山盛りにご飯を盛り、使っていた箸を立てた。土盛りの後ろには杖を立てて笠を掛け、鎌を立てた。また、野灯篭を土饅頭の前に立て、四十九日までは晩 になると拝みに行き、ロウソクを灯した。子供が死んだときは、竹を細かく土に差し、山のようにした上に笠をのせ、これは野犬ヨケであるといっていた。大人 の場合は、2本の足に板の屋根をつけたものを作り、これを土盛りの上にかぶせた。
 土饅頭に竹を立てるところも多く、設楽町和市では、竹を棺を埋めた上あたりに元を上にして反対に立て、これをイキヌキといった。
 石塔を建てる場合は枕石などを取り除いてしまうが、元は石塔のある墓は少なく、石だけが残されている場合が多かった。

念仏と四十九日
 葬送後は、四十九日まで、七日目ごとに組の人の念仏があったりする。四十九日はシアゲ、キアケ、ヒアケ、ユミアケといって忌明けをこの日に しているところが多く、葬送儀礼の一区切りと考えられていた。寝間着など、亡くなった人が着ていた着物は、前を北向きにして見えないところに干したが、四 十九日の間はのどが渇くといって、着物が乾かないように水を掛けてやった。そうすると、成仏しやすいとされていた。亡くなった人の魂は四十九日までは屋根 下にいるといい、この間は、毎日、夕方にお墓に行き、線香とロウソクを供えてくるところも多い。昔は野灯篭にカンテラを置いたが、現在はロウソクを立てて いる。
 四十九日にはお寺を呼んでお経を上げてもらい、お供養をするが、この時、四十九の餅を作り、形見の衣類と種袋とともに寺に持って行くところも多い。四十 九の餅は、死者とのエンキリの食物であるとするのが定説である。東栄町小林や津具村では、この餅は寺には49個持って行くが、お客に対しては重ね餅を避 け、大きな餅を1個だけを持ち帰ってもらう。一方、設楽町和市では、ムラに配る餅は10センチくらいの大きさのもの二つであり、ところによって差違があ る。種袋は晒を三角に縫って作り、中には白米を1升くらい入れていった。いずれにしても、四十九日は、葬送儀礼の大きな節目である。
 以上、死のケガレ意識を強く残した葬制と、地取りから始まる土葬の様子を見ておいた。次に、この地域の墓制の話に移りたい。


2 奥三河の墓制

 東栄町、津具村、豊根村をはじめ奥三河の山村では、かつての墓は屋敷のまわりにあり、後に作られた共同墓地・新ハカに対し、旧ハカ・旧ボチなどと称して いる。旧ハカは、屋敷裏などの1カ所に石塔が立ち並ぶ、いわゆる「屋敷墓」の形態をとる場合が多い。しかし、これも実は明治以降に成立した比較的新しいも のといい、さらに以前には、死者ごとに屋敷まわりの畑などにバラバラに埋葬されていたらしい。ここでは、いくつかの地域を例に挙げ、奥三河の墓制の展開に ついて報告したい。

(1)畑の中の墓

東栄町小林
 現在、東栄町小林で確認できる墓地には3つの種類がある。(1)畑の中に点在する墓(畑の中の墓)。多くは石塔がなく、枕石のみである。 (2)屋敷裏などの1カ所にまとめられた墓(屋敷墓)。古い時代の石塔が立ち並ぶ。(3)廃仏毀釈の影響で廃寺となった、旧東光寺のノキ山に作られた墓 (共同墓地)。比較的新しい石塔に混じって、移設された古い時代の石塔が並ぶ。
 このうち、伝承からもっとも古いタイプとされるのは畑の中に点在する墓である。小林では、大昔、遺体は屋敷まわりの畑の各所にまちまちに埋めていたとい い、それも住宅から遠く離れた場所ではなく、すぐ目の前や裏の畑が選ばれていた。特に幼い子供が亡くなった場合、遠くではかわいそうだといって家の回りの 畑が選ばれた。2と3のタイプは、明治になって新しい墓地法が出された際、畑の中にバラバラに埋葬することが禁じられたため成立したものとされる。2と3 の先後関係は不明であり、その後も、屋敷墓に埋葬するか共同墓地に埋葬するかはそれぞれの家に委ねられていたという。また、畑の中の古い墓をいっせいに新 しい墓地に移転させるということもなく、移転はそれぞれの家の考えに委ねられていたため、1のタイプの枕石も、昭和40年頃までは畑の中のあちらこちらで 目に付いた。
 1のタイプは石塔がないため、誰の墓かは不明である場合がほとんどである。このような墓に対しては畏敬の念が持たれ、正月や盆、彼岸の時には香の花を 祭っている。枕石の移転に当たっては、僧侶を呼んでショウを抜いてもらう。移転は、その地に建物を建てる必要が生じたりした場合におこなわれ、無理に動か さなくてはならないものではなかった。また、よその家の畑を買うと、そこに墓があって「仏さんがいる」場合があり、祭り手が代わると「仏さんも悲しい」の で、オッサン(僧侶)に拝んでもらい、仏を元の畑の持ち主の墓に持って行くことになる。しかし、祭り手がムラから移転していて移せないときは、その畑を 買った家でお祭りをすることもある。なお、墓を寄せるときは枕石、石碑とともに土を少し持って行き、新しく作る石塔の下に入れる。
 具体的な事例を見てみよう。小野田家の場合、第○図のような場所に枕石が残されていたといい、時代的に新しい埋葬箇所には石塔が建てられていたとされ る。しかし、この家は蔵の裏に屋敷墓を持っていて、明治時代、畑にあった石塔などをかなりここに移転させているため、実際にはもっとたくさんの墓が畑の中 に存在していたと思われる。その後、蔵の裏に集めた墓地も、東光寺ノキ山の共同墓地に移転している。これは、古い時代の石塔が夫婦墓であったため、石塔だ らけとなって埋葬する場所がなくなってしまったことと、一カ所に埋めてもまた5〜6年すると掘り返すときがあり、衛生上よくないからだったという。この時 に移転した石塔は4基あり、共同墓地では、明治15年と36年に亡くなった夫婦の墓(大正8年建立)、安政4年と6年に没した夫婦の墓、安政5年に建てら れた地蔵、元は前畑(オモヤ南面の石垣下)にあった「先祖代々」の墓が確認できる。最後のものは、「これが先祖様だといって拝んでいたもの」という。この 4基の横に、現在は「小野田家之墓」と記した石塔が建っている。他にもいくつかの枕石が移転されたというが、これらは新しい石塔の下に入れられたため、現 在は確認できない。小林では、現在も屋敷のそばに屋敷墓を維持している家は何軒もある。
 小林の共同墓地は他の各地区にもあり、下組は1カ所、ヒカケは2〜3軒で組んで墓を持っている。しかし、最近は、お参りをするのに遠いという理由で、家 のそばに墓を建てる人が出てきたという。ここからは、墓地に対しての忌避やケガレの意識はうかがえず、この地域で屋敷墓が選択されてきた伝統を感じさせ る。

豊根村古真立(大立)
 豊根村大立は、もとは12軒の集落で、古真立村に属した後、豊根村になっている。このムラの場合も、(1)畑の中の墓、(2)屋敷裏の旧墓 地(屋敷墓)、(3)共同墓地の3つの墓がある。
 畑の中の墓は枕石だけが据えられたもので、石塔はなかったという。昔はあっちにもこっちにも墓があり、ギボシがあったり、石に岩柴を生やしてあったりし たというが、その後の移転などで数は減ってきている。畑といっても、比較的屋敷から近い前畑と呼ばれるところに埋められ、遠くの畑には埋められない。これ らは、生きているうちに「ここの畑に埋けてくれ」と言われて埋葬したものという。「畑に埋めれば、ここは自分の畑だ、地所だということを主張することにな るので、よその人にもらわれないように埋めた」という話も伝えられている。写真○は畑の中に残された枕石であるが、このように、普段は特にお祀りされると いうことはなく、草の中に埋もれている。
 大立でも、畑の中に埋葬していたのは江戸時代までであったらしい。それが明治時代になって各家の屋敷裏に集められ、旧墓地ができたという。「豊根村誌」 には、豊根村でそのような動きが起きたのは明治9年と記されている。しかし、大立では「旧墓地は明治時代以前からあり、これがある家は古い家である」とも 伝えている。したがって、それ以前から、畑の中とは別に、屋敷裏に石塔などが設置されていた可能性も考えられ、屋敷裏の墓地の全てがこの時に新設されたも のかどうかは定かではない。大立では、その後、廃寺となったコウフク寺跡地に共同墓地が作られたため、埋葬はもっぱらここにおこない、屋敷裏の旧墓地は誰 の墓かわからない「無縁」のものとして、盆や正月などを除いては拝むことはなくなっている。なお、戦死者の墓や、石塔を高いところにある共同墓地まで上げ るのがたいへんであるという理由から、家の裏に石塔を建てる家もある。
 枕石は、いい加減に扱うと祟るものと伝えられている。「耕作の邪魔だといって持ち出すと、ツカモ(じんましん)ができたり腹が痛くなったりするといわれ た」「子供が(病気で)動けなくなったりしたとき、ネギ様に(枕石の祟りと)言われて石を拝むことがあった」「いい加減にすると運が悪くなったり病気をし たりする」などという。また、よその家の畑を買ったとき、「よその先祖が住んでいる(枕石が残っている)」場合は、これらを祭る必要があった。どこの家の 墓かがわかっていてその家がムラに残っていれば、その家の裏手の旧墓地に寄せ、転出していれば畑を買った家のそばに寄せている。また、畑を耕していると骨 が出てくることがあり、その場合も、オッサマに拝んでもらってその畑を持つ家の墓に入れている。

畑の中の墓と共同墓地の関係
 奥三河では、畑の中に埋葬することは一般的な事例であった。他地域の事例を列挙しておく。
・東栄町古戸川合「元は田の畦や畑の中にあったりしたが、戦後、オッサマを頼んで1カ所に寄せた。なぶると罰が当たるといったり、またぐとチンボが腫れる ぞなどといっていた。これらは石塔があったり、ただの石だけだったりする。よその畑を買うと墓がついてくることがあり、この場合、買った家で一所に集めて 祭る。月でも同じように畑の中に墓があり、草を取るのも怖い感じだった。」
・東栄町古戸「現在の墓はだいたいは一カ所に固まっているが、元はバラバラで、家の裏や横など、各家の地所の中に墓があった。その後、新墓地を組で固めて 作ったが、元の墓を新墓地にまとめる人もいるし、元のままで残している人もいる。墓が二つあれば、墓参りの時は新旧両方の墓地に行っている。」
・津具村油戸「古い家の墓は山の麓にあり、旧墓という。これとは別に油戸全体の共同墓地があり、新墓と称している。新墓には、明治元年に生まれた人の2代 前の人から埋葬している。」
・豊根村下黒川「墓は家の裏などにある。元の墓は、畑など家のクロマワリにあり、これを一カ所に集めたものである。昔はここを掘りたいと言っても、金神さ んがいるので駄目だということがあって、各所に埋めていた。」
・稲武町黒田「墓は、田の横などに個人で持っている旧墓と共同墓地がある。墓を一軒で一カ所ずつ持つというのが駄目になり、共同墓地が作られて旧墓は使わ なくなった。墓参りをするときは現在でも共同墓地と旧墓とに参っている。」
・作手村菅沼「共同墓地と家の近くの墓がある。家の近くのものは立派な石塔を作るのではなく、五輪塔など小さなものがいくつか並んでいる。旧正月の墓参り は、この墓と共同墓地になって新しく建てた石塔の二つに行く。それ以前の墓は畑の中などにあり、「俺が死んだらここに埋けてくれ」といわれたところに埋め たものだと親から聞いている。現在も、畑の中には昔の墓と伝える石の塚が残っている。畑の中の石には、盆の時にタイマツをあげ、正月にはニュウギをあげて いた。畑の中の石は絶対に動かすものではなく、家などは建てない。引っ越しをしても旧墓はとっておき、盆や彼岸には参りに来る。そういう石があるような土 地は売らないものである。」
・富山村大谷「現在は共同墓地になっているが、昔は、各家ごとに自分の家の灯が見える位置を定めて埋葬したという。」
 このように、奥三河ではかなり広い範囲に、もともとは畑の中に埋葬する習慣があったことがうかがえる。そして、それが明治政府の墓埋政策により、最終的 には共同墓地に一元化されてゆくのは確かである。しかし、各家の裏などに設けられている屋敷墓については、明治の墓埋政策によって畑の中の墓から石塔など を移設してできたという可能性と、それ以前からあったという可能性がある。そして、屋敷墓が近世から存在した場合、畑の中の墓と併存していたのであり、両 者の関係がどのようなものであったのかが問題となる。すなわち、畑の中の埋葬墓に対し、屋敷墓が石塔を設けて詣る墓として位置づけられ、両墓制がとられて いた可能性も考えられるのである。次に、この点について見ておきたい。

(2)両墓制

 現在、三河山間部で両墓制の伝承が得られるのは、東加茂郡旭町を中心とする矢作川沿いの地域と、南設楽郡の南部から新城市にかけてである。初めに、この 地域の墓制を見ることで、畑の中の墓と屋敷墓の関係を考えたい。

東加茂郡の両墓制
 矢作ダム建設によって水没した旭町牛地については、30箇所調査の記述を引用しておく。
 「牛地は全戸が禅宗で土葬地域である。埋め墓は共同墓地で、小字ごとに合計4カ所ある。中切の共同墓地は竜渕寺内。他は寺の土地以外にある。位置は山腹 の家からよく見えるところで、発生の根拠は、自分の家のまわりでは埋葬しにくいため、共同の墓地を作るのだという。1〜3年くらい経過後、家のまわりの個 人墓地に石塔を作って移葬する。念仏人数が穴掘りをすると、坐り棺(たて棺、昔は丸、今は四角)を埋葬、盛り土し、木の墓標(これは最近のこと)を立て る。やや長い竹を中の節を抜いて差し、鎌を魔除けのために逆さまに土に差す(6歳までの子供は小さな竹矢来を、上にすぼめ、下に開くように組んで、中に鎌 を逆さまに差す)。この共同墓地は20年くらいで一杯になるので、掘り返すとのことである。両墓制は、旭村の中でも浄土真宗の大坪、萩ノ平、山中(すべて 火葬地帯)を除き、ほとんど村内全部の禅宗地帯(土葬地帯)に見られるとのことである。ちなみに、閑羅瀬に3カ所、小渡に3〜4カ所、小滝野に2カ所、田 津原に4カ所ある。
 拝み墓は個人墓地でハカ、ヒキハカという。各戸ごとに自分の家付近にあり、石塔を建てる。一人一基宛であったが、最近は共通の先祖代々の墓として立てる ものが多くなった。共同墓地より移葬の時は、単に砂のみを移す。移葬後はこちらに多く参るようになる。特に一周忌以後、年回忌(最近は50年忌まで)の供 養参りをする。ヒキハカ発生の根拠としては、地元の人はキリシタン嫌疑を避けるためという。民家の墓は元禄年間から見えている。戒名を彫ったのは、死後も キリシタンでないことの証明であるという。なお、石塔を作る石屋は、牛地に一軒ある。共同墓地とヒキハカの間は、距離は短くて100メートルくらい、平均 して200〜300メートルくらい離れている。」
 旭町浅谷でも両墓制の伝承が得られる。埋め墓はシンハカと呼ばれ、集落南の薮の中にある。ここは共同墓地になっているが、家によって埋葬場所が区画され てはおらず、掘りやすい場所に埋めていた。一方、詣り墓はヒキハカと呼ばれ、各家で屋敷裏などに所有しており、形態は屋敷墓である。かつては、埋葬後7年 くらいを経過すると掘り返し、頭蓋骨を晒の袋に入れて持ち帰る場合もあって、袋ごと石塔のあるヒキハカに納めた。また、お骨ではなく、ヒキハカの枕石や土 を持って来ることもあった。お骨や土を移すこともヒキハカと呼び、あるいは「ヒイテ来る」と称した。このとき、埋め墓では特別なお勤めなどはなく、ヒキハ カに納めたときにお寺に拝んでもらった。石塔は昭和30年頃までは個人のものが建てられていて、ここでショウを入れてもらうことになった。昔は、四十九日 までは毎日、シンハカにお参りに行き、水、線香、食べるものを供えた。その後も、毎月の命日にはシンハカに詣ったが、ヒキハカをしたら仏が手前のうち(ヒ キハカ)にいることになるため、シンハカには参らなくなる。以後は、部落で時々掃除をする程度であった。

南設楽郡の両墓制
 作手村保永地区も、近年まで両墓制の習俗を伝えてきた。埋葬地はシンバカといい、杉平の場合は宗堅寺の上の山林にある。石塔は屋敷のそばに 建てられ、形態は屋敷墓である。古い時代の夫婦墓や近年の「先祖代々」の墓が建てられている。シンバカには川から拾ってきた石を枕石として重石に置いただ けであった。シンバカには、亡くなってから49日くらいの間、お参りに行く他は、1年に1度掃除をしてお花をあげる程度で、盆や年忌のトウバは軒端の石塔 の方に立てていた。
 しかし、保永地区のシンバカは、それほど古い起源を持つものではない。「畑の真ん中に茶の木や柿の木が植えられていて、これは何だと聞くと、その昔、亡 くなった人を埋けたところだといわれた」「協和小学校を建て替えるとき、掘ったら骨が出てきた。古い人が言うには、昔は家の近くの畑の隅に埋けたもんだと 言っていた」といい、かつては、北設楽郡の場合と同じようにアキの方を見て畑の中などに埋めていたのである。そこには石塔などはなく、石が置いてあるくら いであったとされ、これらの墓を動かすと罰が当たると伝えられる点も共通している。そして、現在の詣り墓は「昔、埋葬した場所だった」とも伝え、かつては 単墓制であった可能性もある。なお、遠州の両墓制では、明治以前には屋敷周辺に遺体を埋葬し、別のところに石塔を建てる事例が顕著で、埋め墓と詣り墓が比 較的近接していたとされる。これが、明治政府の墓埋政策によって共同の埋葬地が設けられたため、二つの墓が遠く離れることになった。作手村の両墓制も、遠 州の事例と似た展開を示したものかも知れない。
 このように、両墓制は奥三河地域の縁辺で伝承されており、詣り墓は屋敷墓の形を取っている。しかし、これらの事例から、北設楽郡を中心に広がる畑の墓と 屋敷墓が、それぞれ埋め墓、詣り墓の性格を持つものであったとは言い切れない。次に、それぞれの墓の扱いの点から両者の関係を見てみたい。

ムショウ参り
 北設楽郡を中心とするムラでは、旧正月にムショウ参りと称し、ムラの中の神仏や墓に詣る習慣がある。「ムショウ」は墓を意味し、本来は墓参 りが第一義に置かれていたものと推測され、この地域の墓の在り方を考える材料になる。現在、ムショウ参りは旧正月一日におこなわれ、ニュウギを墓に供えて 回る。奥三河では、新正月へ移行するにあたり、十五日正月の行事が旧正月一日の行事として残されたところが多く、ムショウ参りも、多くのムラではこの日に 実施されている。しかし、近年まで正月を旧暦で祝っていた作手村菅沼では、ムショウ参りはモチイの前、14日の晩までにおこなったといい、本来は十五日正 月の行事であったことが知られる。ニュウギは、小正月に用いる予祝の呪具であり、これが供えられる神仏は豊作をもたらすことが期待されていたとも言え、墓 にもそのようなことが求められていたのである。
 まず、東栄町小林の事例を挙げておきたい。ムショウ参りに用いるニュウギは小さなもので、長さ6センチ、幅1.5センチくらいであった。木はフシの木を 用い、平年であれば「十二月」、閏年であれば「十三月」と墨書する。この時は、サイコロくらいの大きさに切った餅と、洗米、串柿を細かく切ったものを供え ていった。かつては、旧正月元日の朝、暗いうちに争うようにして参ったものという。平成11年におこなわれた小野田家の場合、図のようなコースで回ってい る。
<門松→農機具庫(農具は、元は奥座敷に祭っていた)→コンニャクの種の保管庫→耕耘機→墓(東光寺・よその家のお墓にも参る)→薬師堂(東光寺本堂跡) →集落西の三十三観音(石仏を一軒ごとにお祭している。サイの神、金比羅などが祭られる。ここの手水鉢の水は、疣が出来たときにつけると治るという)→お 宮→龍神(ホンヤの裏に個人で祭る。水源地であり、元はここから竹樋で水を引いていた。)→蔵>
このほか、家の中の仏檀、神棚、火の神、水の神、エビス、大黒などにも供える。畑の中に枕石や石塔が多く残されていた頃は、その一つ一つに対して供えて いった。昔はシンセキの墓などにも参り、ムショウ参りは年の始めの供養であるとされていた。
 一方、新正月の時、小林では門松として松と香の花(シキミ)を立てる。小野田家では、カドの他、畑などにも門松を立てるが、これは、畑にも仏がいるため であるとされる。
 豊根村大立でも、ムショウ参りは現在もおこなわれている。ここでは、「十二月」と記した小さなニュウギを2枚ずつ(1枚は「十二月」と記したものでオニ と称した。もう1枚は無地)供える。旧ドシ(旧正月)の時は暗いうちから神様などにオニを祭り、これを終えてから年を取ったという。ムショウ参りの時は、 昔は畑の中のお墓にも参り、よその家の墓も自分の家の墓も分け隔てしなかった。ここから、「ムショウ参りは、ムショウに(むやみに)参るという意味ではな いか」と言われたりもする。また、この時に参る神仏は神社を始め、第○図のように、山の神、水神さん、セイの神、天神さん、地蔵の森、庚申さん、金比羅、 秋葉、天伯さん、不動さん、御池様、阿弥陀さんなど多岐に渡る。最後はムラ境のセイの神様に参り、余りのニュウギを全て供えた。
 ムショウ参りは、ムラの中の神仏と全ての墓に対して分け隔てなくおこなわれるものであり、畑の中の枕石と屋敷墓の石塔、共同墓地の石塔に対する扱いは同 じである。このことは、いずれの墓にも遺体が埋葬され、祀ることが求められたものであると言え、畑の中の墓が埋め墓、屋敷墓が詣り墓としてそれぞれ別個の 性格を持っていたと考えることを難しくしている。この点で、奥三河の墓制は、一部地域で例外はあるにせよ、基本的には単墓制であったと言えるのではないだ ろうか。また、祀られなくなった枕石などは祟るということも語られており、この点で、いわゆるショウ(霊魂)は埋葬地にとどまっていると考えられている。 ここからも、埋葬地とショウの分離を前提とする両墓制が、古くから存在していたとは考えにくいのであり、屋敷墓は、畑の中の墓に遅れて成立したものと思わ れる。
 さて、屋敷地や畑の中の墓に対し、ケガレ意識がないのはなぜであろうか。次にこの問題について見てみたい。実は、墓に対してはケガレ意識が持たれない代 わり、それが祟ったり、あるいは一種の利益をもたらす神性が認められたりしているのである。まず、墓は祟るものという意識から見てゆきたい。

(3)墓制と民間宗教者

埋葬・墓移しと民間宗教者
 奥三河では、枕石が祟るということが強く意識されている。それは、不用意にこの石を動かしたりしたときに起こるものであるが、このような伝 承の背景には、ホウイン様とかホウガン様と呼ばれる民間宗教者の介在が考えられる。それというのも、病気や事故などが生じた際、その原因は宗教者に見ても らうことによって判明するのであり、広範に存在する埋葬者不明の墓の存在が、祟りをもたらすものとして強調されるようになったと考えられるからである。 「ホウガン坊主が回ってくると、家に何か悪いことがあったとき、そういうもの(枕石)をきちんと祭っていないからだと言った」ということは多くのムラで聞 かれる話である。
 畑の中の墓については、「埋葬の時に宗教者に依頼して方角を見てもらい、「アキの方角」とか「金神さんのいない方角」に埋めていた」という話が広い地域 で語られており、民間宗教者は埋葬の際にも活躍していた。「豊根の伝承」には、「昔は家族の誰かが死亡すると、家屋敷の周りの畑にバラバラに人を埋め枕石 (墓穴を掘る時出土した自然石を盛土の上に置いたもの)を置き後程墓石を建てたが、これは筆者が安政生まれの祖母から聞いた話によると、次のようである。 『昔は人が死ぬと先づ祢宜様を頼んで拝んでもらった。死者のそばで御幣を振り乍ら、拝んでるとその中に御幣は活き者のような状態になる。そうなると、祢宜 は幣束を持って外に小走りに出て行き、しかるべき場所に幣束を立てると、その場所が墓所と決まった・・・』この埋葬の仕方は江戸時代を通じて行なわれたも のであるが、或は中世この地に修験者が訪れて以来の古い様式であるかも知れない」と記されている。
 埋葬の際に地取りとして六文銭を並べる習俗も、元はこれら民間宗教者によっておこなわれていた可能性がある。地取りをして土地を買った以上、その区画は 死者のものとして占有されるのであり、これを動かせば祟るとされるのは当然のことであった。
 畑の中に埋葬しなくなると、民間宗教者は埋葬地の選定で活躍することはなくなり、新たに作られた屋敷墓や共同墓地への墓移しの際に活動するようになる。
 設楽町田峯には、旧墓と呼ばれる屋敷墓と共同墓地がある。しかし、昔は墓が畑の中にあった。これも、きちんと石塔が建っているものと、ただの石で、墓か 自然の石かの区別がつかないようなものもあり、多くは誰の墓かがわからないものであったという。ある話者によれば、畑のまん中にある墓は仕事の邪魔にな り、「うちの畑にあるのでうちのだろう」と思って玉宝院のホウイン様に頼んで拝んでもらい、旧墓に移したという。この家の旧墓には20くらいの石塔が建つ が、この時、畑の中のものを2つ、遠方にあって不便だったものを2つ移した。ホウイン様は、墓を移すとき、埋められている人について「この人は男の人、こ の人は女の人で縞の着物を着ている」などと言い当てたという。
 玉宝院は真言宗の寺である。法印の嶋恵洋師によれば、300年くらいの歴史を持つ寺で、修験の行者が来て修行をするところであったという。近くのリュウ ズという行場で行をしている間の仮住まいの寺であり、行が終わればよそにいってしまったらしい。ここの行者は法印様と呼ばれている。
 法印と呼ばれる民間宗教者は、往々にして不遇な過去を持っているが、嶋師の場合も例外ではない。師は、元々は豊田市の生まれであるが、小さいときに両親 が亡くなったため、おばあさんのところに預けられた。しかし、おじいさんはママおじいさんであり、学校も出せないということで、岡崎の大照院(真言宗醍醐 寺の系統)に7歳で入れられることになった。寺の修行は厳しく、棒で叩かれたり梅の木の先に枝の残っているようなもので叩かれたりして、13年間修行した という。寺の跡継ぎは師匠のシンセキから来ていたため、嶋さんは他の真言宗の寺に入ることになり、ここで召集が来た。戦地に6年いた後、昭和21年、復員 した。行くあてもなかったが、設楽町の玉宝院が空き寺になっているいうことで、ここに住むようになったという。
 嶋師によれば、身体の調子が悪い人などが相談に来た際、真言を唱えていると声が聞こえたり姿が見えたりして、お墓が障っていることがわかる。墓はお参り をしないと憑きやすい。畑にある墓は、食糧難の時代、邪魔になったこともあって1カ所に集めるようになっていったが、嶋師によれば、墓移しはあまりやりた いことではなく、憑くために、移すときは特に慎重にやるようにと師匠から念を押されたという。墓を移す時は、墓の下の土を墓一基につき1升2合(1年の 12月に合わせ、月に1合の意味)取り、藁で作ったモッコに入れて新しく移す先に持って行く。ショウは土に入っているので土が大切であり、この時、土を 取った穴の中でバタ(木切れ)を長さ30センチくらいに切って細く割ったものを、20センチほどの束にして燃やす。これは杉の葉を使ったり、田の多いとこ ろでは、藁を20把くらい燃やすこともあるが、いずれにしても、そこの土と縁を切るという意味である。墓石があれば、土と一緒にモッコで担いで行き、土を 新墓に入れて墓石を建てる。師によれば、最近、お寺などに頼んで墓移しをしてもらう場合、石塔ばかりを拝んでいる事例があるが、墓移しはあくまでも土が大 切で、その場所と縁を切らせることが肝要だという。

神に転換する墓
 先祖の墓が神に転換するという話は、地の神の場合に顕著に語られている。このような信仰の背景にも、民間宗教者の関わりがあったのであろ う。地の神は、奥三河北部ではあまり見られず、南部で顕著である。
 新城市などでは、地の神として、各家の北西端などに石祠が祀られているのが目に付くが、実態のよくわからない神である。作手村保永地区では盛んに地の神 が祀られており、これにはジルイと呼ばれる同族を基本として祀るものと、各家で祀るものとの二つがある。前者は、分家してシンヤで出た場合、大ホンヤの地 の神を一緒に祀るようになったものである。ジルイの地の神は大きな木の根元などにあり、1月と10月頃に地の神さんの命日があって、榊、御幣、注連縄を用 意して地の神祭りがおこなわれる。これは土地を切り開いたご先祖さんの祭りとされている。
 見代の西郷家の場合、「地の神のボロウ(小さな森の意味)」と呼ばれる山中に、「西郷家之地の神」と彫られた石が祀られている。これは、元々は4軒のジ ルイで祀っていたが、大ホンヤがよそに出たため、現在は3軒で祭っている。3軒の家は、大ホンヤから同時代に分かれたもので、この地の神は大ホンヤのもの であったらしい。ここの地の神は盆と正月に祀り、榊を替え、正月には小さな餅を供えている。これとは別に、各家では石祠や自然石の地の神を祀っているが、 元はただの丸石が多かったといい、シンヤで出たときに河原で拾ってくることもあったという。
 先祖が、死後50年を経て地の神に転換するという話は遠州では盛んに語られている。これは南設楽郡でも聞かれる伝承であり、作手村杉平のある話者は、 「地の神の元は先祖の墓だと言い、墓がもっと古くなると神様になり、家を守ると聞いている」と述べている。杉平の峯田家では、屋敷の北西端に地の神を祀っ ている。元は同家の持ち山に祀られていたもので、20年くらい前に現在地に移したものである。正面「南無阿弥陀仏」右面「文政五年午六月 組中建之」左面 「九月十四日 願主峯田忠兵衛」となっていて、供養塔の形態をとっている。「組中建之」となっているところから、峯田姓のジルイで建てたものと考えられる が、この事例からも、先祖を地の神と意識していることがうかがわれる。
 設楽町田峯でも、古い家では地の神を祭っている。多くは何も彫られていない自然石で、家の横や裏、畑、山つきなどにある。盆・正月の他、お彼岸に小豆ご 飯、祇園さんにはオハタキ、ムギカラを供えている。
 古い時代の地の神が、畑の中の枕石と区別できないようなものであったのは確かである。ともに祟りやすいとされている点や、「ここは自分の畑だ、地所だと いうことを主張する」ものであることなど、共通点が多い。地の神は多様な性格を持つ神であり、その分析は慎重におこなわなければならないが、地の神の中に は墓から転換したものがあったという可能性は指摘できよう。
 地の神は、東栄町、津具村、豊根村などではあまり目にしなくなる。東栄町古戸川合では、隣近所で山の高みに地の神を祀っているところがあるが、地の神は 山の神ほどには一般的ではない。しかし、古い墓石などが神に転換してゆく事例は多く見られる。
 豊根村大立の伊藤家には、屋敷の東北に旧墓地があり、「五輪塔様」が祀られている。これは伊藤家の一番の先祖ではないかといって2本あり、「よその者が あらけるとツカモができた」という。また、ここにお茶を祭ると、歯の痛いのが治ると言っていた。「五輪塔様」は、実際には古い宝筐印塔の上部であり、もと もとは墓塔であったと考えられる。
 津具村では、田の畦に田の神が祀られている。見越・村松家の田の畦にあるものは「三界萬霊」と刻まれ、昔、飢饉の時に亡くなった人を祀ったものであると 伝えていて、墓塔であったのであろう。

まとめ

 奥三河では葬送儀礼はたいへん丁重におこなわれ、死のケガレを強く意識していたことがうかがえる。しかし、遺体が屋敷周辺に埋葬されてきたことからもう かがえるように、一定の手続きを踏むことで死のケガレはなくなってゆく。ケガレが、置かれた立場が不安定であるところから生じる状態であるとするならば、 地取りによって死者の場が与えられることによって、ケガレがなくなると言える。また、ムショウ参りによって供養される先祖は恐ろしいものではなく、子孫を 守る神にも転換する存在であったため、ケガレ感は持たれなかったとも考えられよう。ムショウ参りが、本来は小正月の行事であり、豊作祈願の呪具でもある ニュウギを祭るところから、先祖は豊作をもたらすものと意識されていたとも言える。しかし、一方で、いい加減に扱われる先祖は祟る存在となり、祀り方に よって福と災禍をもたらす二面性を持っている。
 ところで、このような祖霊観は、従来、日本の常民文化のベースであるとされてきたものである。奥三河の場合、それが非常に鮮やかに伝承されているのが特 徴であるが、それはあまりにも教科書的であるとも言える。その背景として、この地域の民間宗教者の盛んな活動を念頭に置くことは大切であろう。これら民間 宗教者は、近世においては遺体の埋葬地を選び、神として子孫を守護する祖先の存在を喧伝したに違いない。そして、明治政府の墓埋政策によって、この地域の 墓制は変化を余儀なくされたが、今度は祭られない枕石が祟る存在として、彼らによってクローズアップされてきたのである。そして、このことは、祀り方に よって福と災禍をもたらすという、従来からの祖霊観を強化する結果になったと言えるのではないか。
 奥三河の人々の祖霊観を考える上では、他にも活発な初盆行事の存在や神葬祭導入の問題がある。総体的な分析が必要であろう。



後に改作し、「愛 知県史民俗調 査報告書3 東栄・奥三河」に「ウブヤと地取り・ムショウ参り」として所収

  編集/「愛知県史民俗調査報告書3 東栄・奥三河」編集委員会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部県史編さん室
  平成12年刊行


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