「カ ヨイ婚と念仏婆さん」
服部  誠   


 篠島の通過儀礼で特筆されるべき問題は、婚姻儀礼においてカヨイ婚(一時的訪婚)の習慣が現在も残されている点と、葬送儀礼において念仏婆 さんと呼ばれる老婆の集団が大きな役割を演じている点である。この二つは、伊勢湾内の島嶼と志摩地方に広く分布した習俗であり、とりわけカヨイ婚について は、志摩地方において詳細な調査・報告が数多くなされてきた。これに対して、篠島におけるこれらの習俗については、従来、充分な調査が行われてきたとは言 えない。それは、篠島が大都市名古屋に近く、比較的早くに観光地化の波を受けて民俗全般の改変が進んでいると理解され、よりプリミティブな形態は志摩地方 に残されていると判断されたためかも知れない。しかし、実際には、篠島の通過儀礼には近年までかなり古風な習慣が維持されていたし、篠島特有の発展を示し ている。以下、この二点を中心に、篠島の通過儀礼について報告したい。

1 篠島の婚姻儀礼

 篠島では、婚姻関係が成立した後、一定の期間、妻が実家に居住し続けて夫婦が同居せず、夫が夜だけ妻の元に通う婚姻形態が取られてきた。妻 は、後に夫方に嫁入りして同居をすることになる。篠島ではこの慣行を指す特定の用語は用いられていないが、婚姻成立後、夫が妻の元を訪れることを「カヨ ウ」とか「カヨイ」と称しているため、ここではカヨイ婚の用語を用いることとする。現在、愛知県下でカヨイ婚の慣行を保持しているのは篠島の他には見当た らないと思われる(注1)。

(1) 交際と仲人

娘遊び
 篠島では、10人の内8人までは恋愛結婚であり、結婚相手の選択に親の意向が強く反映する見合い結婚は、島の中でも経済的に上の家に限られ ていた。
 篠島で一般的な恋愛は、若い衆の宿のホーバイ(仲間)が娘のいる家を訪問する「娘遊び」によって進行し、親のいうことを念頭に置きながら も、自由に結婚相手を選択していった。娘遊びは、学校を卒業して若い衆が宿に入る15歳〜16歳くらいから行き始め、娘も学校を卒業すると、じきに若い衆 の訪問を受けた。相手は自分より2〜3歳年上までで、年下は7〜8つ離れていてもよかった。初めは同級生のところに行き、次に一つ年下の娘のところに行く 例が多かったようである。出かけるのはヨルゴハンを食べてからで、7時半から8時半くらいに行った。夜の漁としては打瀬網があったが、これを行う者の数は 少なく、若い衆の仕事は網なおしくらいであったので、夜は娘遊びに出かけることができた。
 篠島では、島外に働きに出ない場合、娘はたいていは日本髪に使うイタコ絞りの内職をしていた。この仕事は小学校の1年生くらいから始め、娘 時分は朝から帯あげ、着物、襟、長襦袢なども絞るようになり、15〜16歳の頃には一日に80銭くらいは稼ぎ、貯金しておいて嫁入り支度にしたり家の足し にしたという。イタコの仕事をするときも、みんなで歌を歌いながらやった方がおもしろかったので、ツレ同士でどこかの家に集まることになる。集まる娘の数 は多ければ7〜8人くらいで、同級生や一つくらい年が離れている場合もあった。集まる家を決めるときは「やらしておくれ」といってやってくるだけで、若い 衆の宿を決める時のように、あらたまったしきたりはなかった。娘たちは、朝になるとイタコを絞る台と袋を持って通ってきて一緒に仕事をしたが、夜、その家 に泊まるようなことはなく、11時くらいには自分の家に帰った。このため、娘の集まる家のことはヤドとはいわなかった。このような娘の集まっている家に は、若い衆も頻繁に訪れてきた。
 娘遊びでは、どこの家にでも無礼講で入ることができ、若い衆は篠島中を一晩で3〜4軒くらいはまわったという。そこの娘が了解すれば、「こ んばんわ。娘遊びに来たぞえ」といって自由にあがった。若い衆が来ても、島の習慣であるため、娘の家の人も何も言わなかったし、親は気をきかせて別のとこ ろにいるか寝てしまう場合が多かったという。若い衆にお茶を出してもてなしたりということはなかった。一方で、絞りの糸を巻いてくれたり、生地を揉んでく れたりと、手伝いをしてくれる若い衆もあった。座ってみんなで話をし、仲が良くなった二人がいれば気をきかせて残しておいて、他の若い衆はよそに行ってし まう。若い衆が宿に帰る時間はだいたい同じになり、11時か12時くらいだった。始めはゴウズリ(集団で行くこと、元は集団で魚を食うという意味であると いう)でいっても、慣れ始めるとそこの家に目的を持っていくようになり、娘を口説くようになる。好きな娘のところであればずっといることになるし、こうな ると、他の若い衆は遠慮するので、一人で夜遅くに特定の娘のところに遊びに行った。
 気楽に娘遊びに行くのは冬が多かった。冬は風が吹いているので商売がないからである。冬は先に早くヤドに戻ってしまうと蒲団が冷たく、後か ら戻ると体温で暖まっていたため、長い間娘遊びをしているほうがよかったという。夏は忙しかったが、娘遊びに季節はなかったという人もいる。
 結婚する相手については、親はよく間に合う人がいいなど、それぞれに好みを言ったし、家柄によって釣り合ったり釣り合わなかったりというこ ともあったが、基本的には、若者と娘は、この交際期間の中で自分に本当にふさわしい伴侶を探すことになった。
 なお、現在は、娘遊びは行われないという。反対に娘が若い衆の宿を訪れることがあり、「時代も変わったものだ」という話者もいた。

ナジミ
 男女の気が合って恋愛関係になることをナジミになるといった。娘遊びを始めて2〜3年もすればナジミができ、ナジミになると娘の方でも若い 衆が来るのを心待ちにしていた。中には布団を敷いておいて、若い衆を泊める場合もあったという。もっとも、このような話は、話者によってさまざまな経験が 語られることは当然である。ナジミになっても、今のようにベタベタしたり、手をつないだりということもなく、夜泊まるなどということはもってのほかだと 語ってくれた人もいたし、反面、ナジミになれば、ちょうど戦争中の場合、兵隊に行く前に10人のうち9人は娘と深い仲になり、結婚前に子供ができた人も、 同級生の中で5人くらいはいたと語ってくれた話者もあった。娘も若い衆も、ナジミになったことを特に親に打ち明けることはしないが、親の方でもわかってい て、周囲も親もこれを認めた。ホーバイもナジミの関係を認め、ツレのために空いている部屋を提供することもあった。
 中には、ナジミのいる娘のところに他の若い衆が遊びに行くこともあり、ナジミの二人が別れることもあった。しかし、一般にはナジミの関係の 娘をとったりするとたいへんなことになった。違う宿のものにとられたりすると、娘をめぐって宿同士で喧嘩になったこともあるといい、盆や正月には、若い衆 が酒を飲んで娘の取り合いでよく喧嘩をしたともいう。同じ宿のもののナジミの娘をとってしまった場合は、ホーバイ同士で話して理解しあった。
 ナジミの証として物を贈りあったりすることはなかったようである。自分の着るものもたいへんであり、それどころではなかったという。ただ、 若い衆が正月のお祭りに奴を振る時、下帯に絞りの帯あげを下げるので、これをナジミの娘に頼むと用意してくれたという。
 ナジミになると、この間に子供ができることもあったが、そうするとたいていは結婚した。男性が娘遊びの交際期間を経て、結婚するのは20 歳〜25歳くらいであり、女性の場合は10代での結婚も多かった。
 なお、昔はホーバイのために一肌脱ぐという気持ちが強く、交際相手のできない若い衆がいると、ホーバイが援助をした。
 ところで、ナジミになって娘の家に若い衆が通うのは当たり前のことであるのに対し、娘の了解なしで黙って行くのは、ヨバイといって悪いこと であると説明される。ヨバイの対象は娘に限らず、後家の他、亭主持ちのこともあり、夫が酒を飲んで寝ているところに出かけて行った者もあったといわれ、現 代風にいえば、いわゆる不倫の関係もヨバイの範疇でとらえられている。ある話者によれば、ヨバイは昔はちょくちょく行われ、顔かたちの違う子供ができるこ ともあって、その場合でも正規の子供として育てていったというが、これらの話は人の噂の範囲内のことであるようだ。

オチュウニン
 よほどの事情がないかぎり、オチュウニンは若い衆の宿の宿親が務めた。宿親は、宿を引き受けたときから、宿の若い衆の面倒を見ることは覚悟 をしている。
 娘遊びからナジミの仲に発展し、若い衆と娘が結婚することを決めると、オチュウニンである宿親、若い衆、若い衆の親とで娘の所に話をしに 行った。この時は何も持って行かず、普段着で出かける。ここで話がまとまれば、結納を待たずに若い衆は娘の所に通ってきて、嫁の方でも食事を出し、夜も泊 めてゆくことが多い。結納は日取りやお金のこともあるため、時期が遅くなることがあるからである。しかし、これは公ではなく、娘遊びのときと同様、暗黙の 内に泊まるのが認められていたということであり、正式に若い衆が娘の家に泊まるのが認められるのは、結納のあとであるのが普通だという。もっとも、若い衆 が娘の所に通うのをいつから認めるかは、その家ごとの雰囲気によって異なり、前述の様に娘遊びのときから泊めている家もある一方、堅い家だと、足入れの後 に初めて泊めるということもあった。
 親が結婚に反対した場合は、宿親が中にはいって「頼むでくれてやってくれ」と頼むことになった。男のツレ(ホーバイ)のほうでも、宿親や娘 の叔父、叔母などに働きかけをした。もっとも、娘の親のところへ直接掛け合うようなことはしなかったという。また、娘のツレのほうは目立った援助というこ とはしなかった。親に反対されて、若い二人が泣く泣くあきらめる場合もあるが、中には駆け落ちする場合もあり、子供が先にできてしまえば、やむなく認めら れることもあったという。
 オチュウニンをしてもらった宿親とのツキアイは一生続き、婿方と嫁の在所とで、毎年正月、オチュウニンのところにオタロとカケイオを持って 行く。オタロは朱塗りの手で提げる箱で、出前の岡持の小さいような形をしていて、オミキが2本入っている。また、結婚して初めの年は、大きい鏡餅を持参 し、宿親は、正月の3日か4日にこれを切ってシンセキに配る。この次の年からは、小さな鏡餅を持って行く。
 以上のように篠島の娘遊びは、配偶者の選択に当たって若い衆と娘たちとの間に一定のルールが作られていたのであり、それに従って自由な恋愛 が行われるものであった。そして、娘遊びは、若い衆の宿仲間(ホーバイ)を単位とする行動であり、宿での生活を全面的に管理している宿親も、間接的にせ よ、その行動に責任を持っていたのである。

(2) 結納とシュウゲン

結納とシュウゲンの関係
 カヨイ婚の分析では、結納と婚礼が指標として重要であり、このいずれをもって婚姻が成立したとみなされ、いつ嫁が婚家に引き移るかが問題と なる。この婚姻儀礼の根幹をなす二つの儀礼の関係は、篠島においては、時代や階級によってかなりの偏差がある。これを大まかに分類すると次のようになる。
 結納のみで夫のカヨイが行われるもの。この場合は、婿方に嫁を連れて来て足入れを行うのが普通であった。後に婿方への引き移りがある。(A 型)
 結納後、夫のカヨイが行われ、後に婿方でシュウゲン(婚礼)があるもの。しかし、これによって嫁が婿方に引き移る場合はまれで、引き続き夫 のカヨイが行われる。ただし、この日に嫁が夫方に泊まった場合、2〜3日は夫方で過ごすことになった。(B型)
 結納もシュウゲンもなく、ナジミの段階からそのままカヨイを続けて結婚生活に入るもの。(C型)
 一般に、昔は結納だけをしてシュウゲンはしなかった人のほうが多かったといい、いいところの家でやったくらいであるという。また、シュウゲ ンを行っても、本当のシンセキだけを招いて親子の盃だけで終わる場合が多かったという。特に、戦時中はシュウゲンはほとんどやらなかった。また、結納ので きなかった人もかなりいたという。結納とシュウゲンでは、結納のほうが大切であるとされていて、これを事実上の結婚の成立とみなす考え方が残っているとい える(注2)。

結納オサメ
 結納のことは「オミキを入れる」、「オミキが入った」、「オサメに行く」と称した。結納は日柄のいい日(大安)が選ばれ、夏は仕事にいって 忙しいので、10月から2月、3月頃まで、特に漁も一休みの時期である11月に行われることが多かった。結納オサメはオチュウニンに頼み、夜ではなく、ま だ明るいときに婿方から嫁さんのほうへ行った。結納として持って行くものは、カケイオ(懸魚)、オミキ、チョウチョの形の水引きの飾りなどであり、結納金 は貰いに行くほうの財産にあわせて持参した。金額は、大正末くらいで30円から50円くらいであり、50円ももらえばいい方であったという。また、結納金 はなかったこともあった。オミキは、一合入りの銚子を2本、オタロに入れて持参した。これは樽酒の代わりであったのだろうという。結納に対してのお返しは しない。
 結納オサメの客には、婿方からは、3、5、7という奇数の人数で出かけた。提灯持ち(婿方のシンセキの男の子、小学校1〜2年生で、一張羅 の着物を着ていった。カミオキの着物があればこれを着た。なお、婿養子をとるときは女の子が提灯持ちを務めた)が先頭に立って手に高張りの紋付きの提灯を さげて歩き(火はつけないで形だけ持って行く)、次いでオチュウニン夫婦、それに婿のおばさんか姉さんがついていく場合があった。おばさんと姉さんは夫婦 で行ってもいいし一人でもよかった。婿の親は行かないが、勝手知った仲なので、顔合わせをする必要もなかった。受けるほうは嫁と両親、それにおばさん夫婦 か姉さん夫婦であり、人数はやはり奇数だった。服装はいずれも紋付、留袖で、嫁は花嫁衣装ではなく晴れ着を着た。
 結納オサメの場所は嫁の家のデイであり、床の間の前にすわって挨拶をした。オチュウニンが「今日は日柄がいいので結納を納めさせてもらいま す」と口上を述べ、この後、双方、人数分の奇数のお膳が出された。お膳はその家で作り、品数は5品くらいで煮た魚など簡単なものだった。また、ラクガンの お菓子をつけ、これはおみやげに持っていってもらった。その後、毛布などをおみやげにすることもあったが、だんだん派手になり、今は、家族におみやげをつ けているという。
 昔は、結納はオミキを納めるだけであり、嫁の親が「頼むぜ」というので、「おねがいします」と答え、その後、嫁の父、オチュウニン、嫁の母 の順で盃をいただいた。嫁さんはその場にはいるが、恥ずかしいので奥に座っているだけだった。また、その場にいないこともあった。婿方の客で堤灯持ちが省 略されることもあり、嫁方でもお膳を出さずに、オタロのお御酒だけで結納を済ます家もあるなど、結納の形式はいろいろであったようである。ある話者によれ ば、結納もヨメドリもなく、ナジミの関係からそのまま結婚生活に入る人は全体の半分以上であったのではないかというが、実数はともかく、以前は、必ずしも あらたまった婚姻儀礼を必要とせず、簡単なオミキオサメによって結婚が正式に認められていたといえるであろう。
 なお、結納の後の正月には、婿方から嫁方へお鏡とオタロ、カケイオを持参したが、この時が初めて夫婦そろって歩いて行く機会であったとい う。

足入れとシュウゲン
 昔は、シュウゲンのできる人はいいところの人だけであり、普通の人は結納を納めた時に足入れをした。これは嫁を婿のところに連れて行くもの であり、ここでしるしをするということであった。足入れで仏壇に参れば、それはシュウゲンの代わりであったという。また、足入れは結納当日に限ったことで はなく、結納の後、日柄がよいからといって嫁さんを婿方につれてきて敷居をまたがせる場合もあり、同様に足入れといっていた。もちろん、この時も嫁が婿の 親に「お願いします」と挨拶するだけで終わり、これを機会に嫁が婿の家に住むようになるわけではなかったのである。
 一方、シュウゲンについても、結納の時に婿方で行うときもあるし、後日に行うときもある。いずれの時も、嫁さんが婿さんのところに来て、三 三九度を行い、宴を開いたが、このシュウゲンの後は、嫁は大部分が自分の実家に帰っていた。したがって、シュウゲンと足入れの持つ意味に差異はなく、規模 の大きな宴をシュウゲン、そうでないものを足入れと称しているといってよい。
 シュウゲンは何時から始まると連絡してあるので、その頃になるとオチュウニン夫婦と堤灯持ち、ツキビト(婿の父の兄弟であるおじさん・おば さん、代わりに従兄弟が来るときもある。)が嫁の迎えに来る。もともとは婿が嫁を迎えにゆくという習慣はなかったが、戦後は婿が迎えに行くようになった。 シュウゲンは本当は夜行うものとされていたが、昭和初期には昼に行っていたようである。花嫁は仏壇に挨拶をして家を出たが、出立ちの前に嫁方で宴を開くと いうことはなく、また、出立ちの時のまじないも確認出来なかった。
 花嫁の出立ちの時、「嫁さんのおみやげ」としてカドで駄菓子を撒いたが、これも本来、島の中同士のシュウゲンには撒かず、よそから嫁入りし た人が撒いたのが元で、習慣として定着したものらしい。島の中同士のシュウゲンは派手にはやらなかったという。菓子を撒いたのは、大正時代には姉妹従姉妹 など女の人であり、戦後はシンセキや嫁さんのツレ、婿のツレの奥さんなどの手伝い人の女の人が行った。
 花嫁は白無垢を着て、髪を島田に結い、角隠しを被った。婿の家にくると、花嫁は玄関から入って仏壇に詣り、式場に座った。
 三三九度の時は、甥や姪など、シンセキの小さな子供がオチョウ、メチョウを務め、盃の受け渡しを行った。盃ごとの時には障子を開け放ち、近 所の人がいっぱい見に来た。盃は夫婦盃だけで、親子、兄弟の盃は客が酒を盃に注いで順に流して飲んだ。三三九度の直後、色直しとして白無垢から留袖に着替 えた。
 披露宴では、座敷のカミザに嫁方、シモザに婿方のものが着席した。床の間の前には花嫁と花婿が座り、その横にオチュウニン夫婦が座った。ま た、カミザの一番床の間よりのところに提灯持ちの子供が座った。嫁方の客は花嫁の両親とおじ、おばなどのシンセキ、兄弟であり、夫婦で出席するのではな く、血のつながりのある本当の身内の方が席に座った。本当の身内が来られないときはその連れ合いが座った。式に出るのは身内だけであり、トナリなどは来な かった。また、若い衆の宿のツレには、この後で婿がお金を持って行くので、それを使ってホーバイ同士で宿で酒を飲んだ。娘のほうのツレには祝儀を出したり ということはなかった。
 婚礼の宴には本膳を出し、タイの塩焼きや刺身がついた。また、中ヂョクには豆を付けたが、これはマメに暮らせるようにという意味だった。今 はモズクやエビ、キュウリの酢の物をつけている。おヒラにはコブ、エビ、タイなどの形のラクガンをつけた。これは煮物の代わりで、山盛りに盛られ、蓋が上 にのっていた。篠島には大正屋という菓子屋があり、ラクガンはここで買ってきた。宴では酒を飲み、ウルチが7分、餅が3分くらいのアズキご飯(赤飯)を食 べた。花嫁が宴の客にする挨拶は特になかった。宴ではめでたい歌を歌う人も多かったが、朝まで宴が続くことはなかったという。
 宴の終わった後、花嫁だけを残してみんな帰ったが、この日に花嫁が婿の家に泊まると、3日は泊り続けなくてはならないといった。特に長男と 結婚した時はホンヤ(婿の家)に泊まることになり、花嫁にとっては気苦労であったという。しかし、それからずっと実家に戻れないわけではなく、花嫁はじき に実家に戻ってそこで生活し、1年くらいは夫が通ってきた。花婿が長男でなければ、一般に、式の当夜は花嫁は実家に戻り、夫が嫁の家に泊まりにいくことに なる。「式を挙げたからといって、娘が夫の家の人間になったわけではない」という話者(女性、大正11年生まれ)の言葉は、篠島のシュウゲンが、家から家 への女性の移動を意味しないことを物語っている。なお、この夜に、床入りのご飯を食べるなどの習慣もなかった。
 元は、島の中同士で結婚をしたときは、近隣へ結婚の挨拶をするということもなかったという。ナジミの期間を経て、結納後にカヨイを行ってい ることは周知のことであり、シュウゲンによって嫁の地位に変化が生じるということはなかったのである。島の外から嫁に来た場合は、オチュウニンと嫁の親が 留袖を着て、何かものを持って花嫁に付き添い、近所に挨拶に回ったが、これは珍しい出来事であり、何が始まるのか注目されたという。
 以上の様な状況であるため、篠島において、結納後に婚礼が行われ、嫁の披露がなされるようになったのは、比較的新しいことと考えてよいであ ろう。婚礼のことをシュウゲンといい、また、「ヨメドリなので見に行かにゃあ」などともいって、ここでは嫁入りを意味するヨメドリという語彙が用いられて いる。しかし、シュウゲンを機会に嫁が婿方に引き移るのは一般的ではなく、その後もカヨイの生活が続いている点に注意すると、この語彙自体、篠島固有のも のではないことが示唆されている。
 なお、現在のシュウゲンは家ではなく、半田などの結婚式場で行う場合が多い。島で行う場合でも、家ではなくて旅館でやっている。

篠島の婚姻儀礼の具体例
 次に、1995年11月7日に行われた結納の事例をみてみたい。結納を納めに行ったのは提灯持ちとオチュウニン夫婦、これに婿の父の姉妹に 当たるおばさん夫婦であった。結納の時には婿の家でカケイオを用意し、結納飾りも持参する。提灯持ちは嫁の家に来ると、「○○さんをもらいに来た」とい い、その後、5人は嫁の家に上がった。結納飾りはオチュウニンがザシキに並べ、カケイオは床の間の柱にかけた。この後、床の間の前に嫁と嫁の父、その前に オチュウニン夫妻が二人に向かい合って座り、結納オサメが行われた。白扇を広げて目録と結納金を載せて反対向きにして出し、「本日はお日柄もよろしく て・・・改めてめでたくお納め下さい」と口上を述べて品物を嫁の父に渡すと、嫁の父は「ありがとうございます」といってこれを納めた。
 結納を納めたあと、嫁方の子供がオチョウ、メチョウを務めて盃事を行った。床の間の前に嫁が座り、その両脇にオチュウニン夫婦、ザシキの奥 に提灯持ちと婿方のおばさん夫婦、手前側に嫁のシンルイ(嫁の父や兄弟、父の兄、おばさん夫婦など)が座った。婿方の両親や嫁の母はこの場には出席しな い。盃はオチュウニンの男、嫁、オチュウニンの女、婿方のおばさん夫婦、嫁の父と嫁方のシンルイと回し、最後にオチュウニンが納める。このあとで嫁方では 膳を出してもてなしをする。一膳飯はいけないのでおかわりをすることになっているが、嫁とオチュウニンは箸をつけないので、この分の膳に菓子や果物をつけ てあとからオチュウニンの家に届けた。
 膳を食べてから、オチュウニンは嫁を連れて婿方に引き移った。嫁の家を出るときは「○○さんをもらってくでね」といった。この時には、嫁と 嫁方のおばさん夫婦が行くが、嫁の父が同行することもあるという。嫁は花嫁衣装ではなく、普通の格好である。婿の家に行くときはソウシキ道を使った。婿の 家につくと、「○○ちゃんをお嫁さんにもらってきたよ」といって中に入った。婿方でシュウゲンを行い、三三九度をするときもあるが、1995年の事例では 行っていない。シュウゲンの時は膳を出したが、この時は寿司と刺身くらいが出ただけであった。嫁側から婿方に持参するものはなかったという。正式な結婚式 は、後に半田で行うことになっていた。
 以上の結納の事例は、比較的古いしきたりを残しているものといえる。盃ごとについてみると、基本はオチュウニンと嫁の父との間のカタメであ るといえる。また、結納後の嫁の婿方への移動は、足入れを意味している。
 T1さん(女性、明治42年生まれ)、T2さん(女性、明治42年生まれ)、T3さん(女性、大正11年生まれ)の場合、それぞれ結納だけ で、シュウゲンは行われなかったという。T3さんは、「ヨメドリをすると花嫁衣装を着られるのでやりたかった」というが、シュウゲンのない事例は多かっ た。
 K1さん(男性、大正13年生まれ)の婚姻の場合、結納の後にシュウゲンを行った。このときは、日柄を見て、結納の日とは違う日にK1さん の家に花嫁が来てシュウゲンを行っている。
 Oさん(男性、大正14年生まれ)の場合、嫁方での結納の後、嫁が婿方に来て、ちょっとした酒盛りをやった。この時には、婿方嫁方の叔父さ ん、叔母さんなど、双方のシンセキ代表が来て、10膳くらいのお膳を出したという。Oさんは窓を開けて近所の人に見せるのがいやで、この時はわざと漁に 行ってしまったという。ここで三三九度を行う人もあったというが、いずれにしても、シュウゲンを婿方であげても、嫁は婿の家には泊まらないで実家に戻って しまったという。

(3) カヨイ

カヨイ
 篠島では、島の中同士で結婚すると、そのまま妻が夫の家に住む場合は少なく、妻は実家で生活して夫が通ってくる場合がほとんどである。妻の 実家を、夫はシュウトヤと呼んでいる。夫が漁師をしている場合、自分の家で食事をとり、風呂に入ってから夜だけシュウトヤに泊まりに来た。蒲団はシュウト ヤのものを使う。朝起きると夫は自分の家に戻り、朝御飯を食べて漁にいった。漁のない時の日中は、シュウトヤにいたり、宿にいたりするのが普通であった。
 カヨイの間はショタイを持っているのではないので(自分ではシンショウをやれないので)、夫の儲けた分は夫の実家の家計にいれる。もっと も、親は子どもの独立のために、このお金を貯金をしていることが多い。妻の稼ぎは絞りのお金などであり、普通はあまり多くはなく、これは妻が貯金したり、 小遣いにしていた。子供ができるまでは、夫は妻に金を渡さないのが普通であり、子供ができたときは、その生活費として、夫方から米1俵とお金を妻方に渡し た。盆正月には、夫は子供の食い扶持と妻の小遣いを持っていくのが一般的であるが、金額などは気持ちの問題であった。カヨイの間は、洗濯物などもそれぞれ の家で洗濯し、夫婦の間は家計も別、生活もまったく別である。
 カヨイの事例を少しあげてみたい。K2さん(男性、昭和43年生まれ)は、子供が生まれて2年(1995年時点)になるが、夫婦の家計は別 々で、夜は、調査時点でまだ夫がシュウトヤに通って寝ていた。夫は仕事から帰って夕食は自分の実家でとり、夜はシュウトヤで泊まる。朝食はシュウトヤで食 べ、仕事に出かけている。
 T4さん(女性、大正11年生まれ)は昭和15年に結婚し、その年に長男、昭和17年に次男が生まれた。ショタイを持ったのは昭和18年で あり、ホンヤの家で持っていた古い家に入った。それまで、3年間は、夫がT4さんのところに通ってきていた。ショタイを持った家は、誰かに貸してあったの で初めは引っ越すことができなかった。T4さんの実家には、兄嫁などがいなかったので安気にしていられたし、家でも手が要るのでいつまでもいてほしかった ためという。
 K1さん(男性、大正13年生まれ)の場合は、はじめはシュウトヤに通い、結婚後3年くらいして上の子がよちよち歩きの時、K1さんの実家 に妻子とともに引き移った。
 Oさん(男性、大正14年生まれ)は、つきあって1年はシュウトヤに通ったが、その後引き移り、2〜3年してから子供ができたという。
 T1さん(女性、明治42年生まれ)は、結婚して1年後くらいに子供が産まれ、これをきっかけにして夫のところに引き移ったという。
 T2さん(女性、明治42年生まれ)の場合は、18歳で結婚し、19歳で出産したが、子供が3歳になるまで夫が通ってきていて、その後、夫 方に引き移ったという。

嫁の引き移り
 子供ができてしばらくし、次の兄弟が結婚する頃にはショタイを持つことになり、カヨイの生活を終えて夫婦が一緒に暮らすようになる。長男と 結婚した場合、妻は1年くらい実家で生活し、夫の家に引き移る。このことを「嫁に行く」と称することもある。もっとも、引き移りの時期はその家々でまちま ちであり、妻の実家に兄嫁がいたりするといつまでもいることができずに早く引き移ったし、安気な家であればいつまでもいることができた。小学校4年生の子 供がいてもシュウトヤに通っている人がいるし、妻のイエの人間のようになってしまっている人もいる。娘を長い間、手元に置いておきたい親もいるし、夫の家 にごちゃごちゃたくさん兄弟がいるときは、夫は妻を連れてくることができず、シュウトヤに通うことになる。妻の実家でも、その家の長男に嫁を迎えると、実 家にいる娘を早く夫方に引き移らせることになる。娘も、自分の家に新しく嫁を迎え、子供が産まれたりすると居づらくなって夫の元に引き移る。このように、 妻の引き移り時期については、一定のルールはなく、全くその家ごとの事情によっているのである。
 篠島で、結婚後、夫が妻の家に通うのは、住宅事情によるところが大きいと説明されている。昔は兄弟が多かったので嫁さんをもらっても入れる 部屋がなかった。嫁をいつ引き移らせるかということは、部屋があるかどうかということにかかっている。第1図は、網元をしていた比較的裕福な家において、 カヨイを行っている際の家族の使用した部屋を示したものである。シュウトヤでは自分たちの部屋をもらってそこで夫婦で寝る。2階があればここを通ってくる 夫のために使わせるが、昔は総2階になっているような家はほとんどなく、ナンドを新夫婦の部屋にして、デイに娘の親が寝た(抱き子がいれば一緒に寝る)。 また、オカッテとアガリハナは他の子供たちの部屋にした。当時は子供が多く、8人以上の兄弟というのも多かったので、子供は布団にアトサシで(互い違い に)入って寝る場合もあったという。しかし、一軒の家に二人の婿が通ってくるということは滅多になく、次の姉妹がいる場合、妹が結婚すれば姉夫婦が使って いた部屋を次に使わせる必要から、姉夫婦には早く出てもらわなければならなくなる。引き移りのためには、婿方では次男以下であれば分家を、長男であれば部 屋を確保しておかなければならない。したがって、この部屋が確保できれば、引き移りはすぐにでもできるのである。実際、夫方の住宅事情がよい場合で、長男 と結婚した場合など、当初から夫方に居住する事例も、少ないながらあったという。
 ショタイを持って分家するときは、親に資産があれば家を建ててくれるが、普通は古い家をもらってそこに入るか、借家を借りることになる。家 を建てても、たいていは新しい家に親とともにホンヤが入り、古い家のほうをシンヤに渡すことになる。篠島の場合、嫁が婿方に引き移ることで親が隠居をする という習慣はなかった。ショタイを持った場合、これまでのように実家にやっかいになるわけにはいかず、全部自分たちでやってゆかなくてはならない。
 嫁入り道具は、夫婦が独立してショタイを持つ前に買って中にいれる。それまではあっても仕方がないので、結婚式後にぼつぼつ買う人のほうが 多かった。もっとも、家が狭い場合、妻方で買った道具を早く夫方に持って行く人もあったし、妻が在所で使うものだけを残しておいて残りを夫方に運んだりな ど、その家によってやり方はまちまちであった。道具を運ぶのはホーバイや近所の人などに頼んだ。島の外から嫁いでくるときは、道具は婚礼の日に運びこん だ。花嫁道具としては、タンス、長持、下駄箱、タライ、ハンゾ、鏡台、茶ダンスか水屋、ミシン、裁ち台(お針のもの一式)などがあり、これらは名古屋や一 色(幡豆郡一色町)で買って自分のところの船で運んできた。分家の場合は、夫の方からは鍋や釜を持っていった。
 篠島には50組以上の隣組(一つの組は戸数が14〜15軒くらい)があり、分家してショタイを持つとどこかの隣組に入れてもらうことになる ので挨拶に出かける必要があった。シュウゲンの後、嫁が近所に挨拶に行くことが、篠島固有の習慣ではなかったことは先述したとおりである。これは、結婚し てもショタイを持たない間は、独立したムラの構成員としては扱われないことを意味している。
 一方、引き移りによって嫁が親と同居した場合、ただちにイエを相続するということはなかった。相続の時期はそのイエごとでまちまちである が、昔は兄弟の数も多かったので、親は簡単には子供に跡を継がせるわけにはいかなかった。家を譲るのは、たいていは跡取りの子供が40歳を過ぎてからで あったという。また、イエのサイフ(家計)は一つであり、老夫婦と若夫婦が別家計ということはなかった。嫁は親からもらったお金でいろいろとやりくりをし たのである。

カヨイ婚存続の理由付け
 カヨイ婚という婚姻の形態がどうして残されてきたのかという理由付けは、今までいろいろと試みられてきた。確かに、カヨイ婚が存続してゆく 背景には、それなりの理由が存在していることは間違いない。しかし、このような慣行が維持されてゆくためには、何よりも、慣行自体に積極的な意義を島の人 たちが見出していることが大切であろう。そして、それが理由付けとしては当を得ていなくても、慣行を存続させてゆく上では大きな要素となっているはずであ る。ここでは、現在の篠島の人々が、どのような点にカヨイ婚の長所を見出し、カヨイ婚存続の理由付けとしてきたかという、島の人々の視点を記しておきた い。
 志摩地方のカヨイ婚は、家が狭いという住宅事情によるのではなく、娘の海女稼ぎが経済的に優れて価値があり、実家が娘の労働に経済的に依存 していることによって存続した習慣であると説明されることが多い(注3)。これに対し、篠島の場合、カヨイ婚存続の理由を、娘の労働の経済的な価値の高さ に求める話はほとんど聞かれなかった。確かに、志摩地方とは異なり、篠島の女性の海女稼ぎは、現在の話者の記憶の範囲では一般的ではない。海に潜ってアワ ビなどを採ることはクグリと呼ばれ、三重県から嫁に来た人や、結婚してから始める人はいたが、娘の時からやるような人はなかったという。また、女性の漁獲 労働は、多くは天草を採る程度であったという。一般に、娘の仕事はお針やイタコ絞りくらいであり、熟達者はかなりの収入を得ていたとはいうが、絞りは知多 郡、愛知郡一帯の農村の女性には共通した内職であり、これをもって篠島の娘の労働に、特別に経済的な価値があったとは言えない。結婚しても、漁の仕事は主 として夫が行い、網を直すのも夫であり、妻は網に藻がかかっているのを取るアミタテの仕事くらいで、あとは子守をしながらイタコ絞りをする程度であった。 帝井までの水汲みや下肥の始末など、確かに往時の女性の労働はたいへんであったが、女性の仕事はオカ(陸)で行えるものであり、八丁櫓や六丁櫓など、船を 櫓でこいで漁に出かけた男性に比べれば、はるかに楽であったと認識されている。娘時分にはクグリを行っていたとしても、結婚してショタイを持ち、夫が漁に でかければ、妻は家庭内の仕事が忙しく、クグリばかりをやっていることはできなかったのではないかともいう。すなわち、労働に対しての価値は男性の方が高 く、妻の労働は男性の労働を補完するものとしてしか考えられていないのである。
 このように、妻の労働の経済的な価値がそれほど高くない場合は、娘を手放す嫁方に比して、男性の家で嫁をもらうことの方が、住まいの問題を はじめとして準備がたいへんになることは間違いない。篠島では、恋愛から生じる年齢的に早い結婚に対し、すぐに対応をすることができない夫方の事情が、カ ヨイの形態をとらせてきたと説明される。すなわち、夫方の家も狭いし、土地が限られている島内では分家がそう簡単にできるわけではないので、「嫁を在所に 預かってくれるといい」(K3さん、大正10年生まれ)という考えである。兄嫁がいるところに弟が結婚した場合、分家ができず、シュウトヤに通うことをし なければ、妻を夫方に引き移らせるしかないが、兄嫁と弟嫁とが一つの狭い家に住むなどということは、家族の人間関係を考えてみれば、およそ想像できないこ とであるとされる。無理に部屋を用意して嫁を引き移らせるより、夫がシュウトヤに泊まりにいった方が、はるかに楽なのは想像がつく。狭小な住宅事情に適応 し、もっとも家族関係を円滑にこなせる形態として、カヨイ婚を存続させてきたというのが、篠島の人々の考えであるといってよい。
 ところで、現在でも篠島ではカヨイの習慣が残されている。子供の数も減り、住宅事情もよくなっている現状から考えると、現在のカヨイ婚の理 由を狭小な住宅事情の点からだけ説明するのは無理がある。しかし、ごく普通に考えれば、娘にとってみて実家の方が居心地がいいし、親も、嫁・姑の関係で娘 が苦労しそうなときは手元に残しておいてやりたいのは確かである。篠島は島内での婚姻関係が錯綜している結果、いたるところにシンセキが存在することとな り、嫁いだ後も、複雑な人間関係の中で結婚生活を送ることになる。そのような中で、従来のカヨイ婚の習慣を存続させることができれば、夫方に引き移って後 の生活のためのモラトリアム期間を設けることができる。1995年の調査時点でカヨイを続けていたK2さん(昭和43年生まれ)の、「婿にとってはシュウ トヤのほうが待遇がいいし、妻にとっても自分の親と一緒にいられるのでこのほうが都合がいい」という言葉は、このことを端的に語っている。ここでも、狭小 な土地に密集して人々が生活しなくてはならないという事情の元で、円滑な人間関係を形成するためにカヨイ婚が合理的かつ有効な慣行であると理解されている のである。


2 篠島の産育儀礼

 カヨイ婚のもとでは、娘の初子は実家で成長する場合が多く、産育儀礼に対しての関わり方も、一般の嫁入り婚の場合とは変わってくる。次に、 この問題を軸にして篠島の産育儀礼について報告したい。

(1)妊娠と出産

妊娠と祝い
 子授けのための祈願は特になかったらしい。ただ、子供のできないとき、よそから養子をもらうと子ができるという俗信が伝えられていた。
 妊娠したことは「子ができた」といったが、これは普通の場合であり、結婚前に妊娠したときは「子をはらんだ」といった。嫁に行く前にできた 子をシクジリ子という。ナジミになって子供ができたときは、ヤドのオヤジ(宿親)に頼んで親に伝えてもらい、結婚させてもらった。中には親が結婚に反対す る場合もあり、どうしても許しが出なければ逃げることになった。しかし、宿親が一生懸命になって言いに行けば、親はたいていは許してくれたという。ナジミ のうちに子供ができることはさほど珍しいことではなかったという。子供ができても結婚することが許されなかった場合、子がいると嫁のもらい手がないので、 その子供を養子に出すことがあった。
 カヨイ婚が原則で、初子の妊娠時は娘が実家にとどまっていることが多い篠島の場合、妊娠に際しての儀礼で、嫁の実家は重要な立場にはない。 まず、結婚して後、妊娠したことを妻が最初に知らせるのは夫であり、ここから実家の親、姑、産婆などにその事実が伝えられる。ここでは、嫁の実家の特別な 挨拶などは行われていない。
 妊娠の祝いとしては、妊娠5カ月の5日目に五月五日(いつつきいつか)が行われ、この時は5個のボタモチがシンセキに配られるが、これを用 意するのは嫁方ではなく、婿方であった。元は、五月五日の祝いをやるのは一部の人であり、ボタモチを作るのも経済的に余裕のある人だけであったらしいが、 いずれにせよ、五月五日の時は、嫁方の家は何もやらないものだという。ボタモチをもらったところでは、出産時に産着を祝いとして持ってきた。おむつを祝い として持参することもある。今はボタモチをもらうと祝い金を持ってくる。したがって、ボタモチを配るのはシンセキにお祝いを請求するようなものだという話 者もあった。なお、五月五日に祝いをしないのであれば、妊娠7カ月の7日目に祝うが、この時はボタモチは7個配る。
 腹帯を用意するのも、篠島では嫁方ではなく婿方である。腹帯は夫の親が晒を買ってきて産婆さんに持って行き、嫁に巻いてもらった。なお、腹 帯を巻くのは五月五日の時ではなく、戌の日を選んだ。

出産と祝い
 安産祈願としては、観音さん(六兵衛観音)で焚いているロウソクの小さいものをもらってきて、お産の時に焚くと、これが燃え尽きるまでに子 供が産まれるといった。お守りやお札はどこか遠くに行ったときに受けてくる場合が多かった。K3さん(大正10年生まれ)は、「私もやったから」と言っ て、マゴジージ(ひいおじいさん)が受けてきたお守りを実家の母親からもらったという。また、どこかの塩竃様のお守りなどを受けてきて枕の下に入れて寝た りした。
 初の子の場合、夫の家に嫁入りをしていても(カヨイではなく引き移ってしまった場合でも)嫁ぎ先から実家に戻って産んだ。ただ、実家に兄嫁 さんのいる場合は、スペースの関係などで難しいこともあったかもしれない。出産に使う部屋の決まりは特になかった。T4さん(大正11年生まれ)の時は、 実家のナンドの西側の廊下のような板の間で出産した。K3さんは畳の上に布団を敷き、そこに油紙、洗った布を敷いて出産した。
 子供は篠島に一人だけいた産婆さん(板谷ふさえさん)が取り上げてくれたが、免状のない人でも器用な人は子供を取り上げていたという。昭和 30年代の終わりからは、半田や河和の病院に行くようになった。
 出産の時にはハイブトンを使った。これはワラで作った灰を布の中に入れたもので、座布団くらいの大きさであった。渋紙を敷いた上にハイブト ンを載せ、そこで出産した。なお、昔は座産で、天井から命綱を下げてこれにつかまり、誰かに後ろから腰を抱いてもらって出産をしたという。T4さんやK3 さんの時は寝て出産をし、アネサ(兄嫁)が手を引いてくれたという。
 産湯のための湯を沸かすのは女の仕事であり、盥を出してそこで産湯をつかわした。使った産湯はションボケに入れ、フタをしてその上に後産を 吸わせたハイブトンを紐で縛ってのせ、ゴザンステバに捨てにいった。ゴザンステバは、駐在所の裏を上がっていったヤマにあり、深い穴が掘ってあった。これ を捨てに行くのは実家の母や産婦の姉妹など、嫁の実家の女の人であった。出産の時は、男は外に出て行けといわれていた。ゴザンステバは、現在は廃棄物の処 分場になっている。
 出産の祝いは、昔はきちんとできない人の方が多かったという。婿方、嫁方の叔父さんや叔母さん、知人、ギリのある人などは、一つ身のウブギ をくれた。これに対しては、ヒャクトオカまでにウブギ返しをしたが、ここで返すのは何でもよく、相手がもらってうれしいものを考えた。また、産見舞として 玉子を持ってくる人もいた。初の男の子が生まれた時、タイの塩焼きに赤飯を炊いて出産の祝いをしたという人もあった。

産のケガレ・月経のケガレ
 篠島では、かつては産のケガレに対する意識が強く、産後50日間は仮屋で飲食をする習慣があったという(注4)。産後の仮屋をウブヤと称し ていたらしいが、現在、この伝承を聞くことは難しいと思われる。大正10年生まれの話者によれば、産後、神さんに参るなということは、特に何日の間という ようには決まっていないといい、風呂に入ることができるようになればお参りもできるということであった。また、漁に出てはいけないというような禁忌もな かったという。産のケガレに対する意識は比較的早くに薄れていたのかも知れない。
 これに対して、月経のケガレについては、正月の祭りと関わって伝承が残されている。明治から大正の初めくらいまでは、お祭りがある正月に月 経が来るとカイヤ屋敷で寝泊まりをしたという。元は、月経のたびにカイヤ屋敷での寝泊まりが行われていたらしい。カイヤ屋敷は納屋みたいな建物で、トナリ 組くらいの単位で持っていたようで、各地区にあったらしい。当時はすでに、ここで煮炊きをするということはなかったようで、正月の食べ物は前もって煮て用 意をしておくので、これをカイヤ屋敷に持っていって月経の人同士で集まって食事をしたという。西区のカイヤ屋敷は西方寺の下あたりにあって、K3さん(大 正10年生まれ)の若い頃には建物が残っていた。この時にはすでに使っていなかったが、建物はケガレているので孫子の代まで人は住まわせるなと言い、納屋 にしてあったという。カイヤ屋敷で寝泊まりしなくなってからも、月経のことはカイヤといい、正月の時に月経となれば、ザシキでご飯を食べさせてもらえず、 ニワで食べたことがあるという。ただ、食事の内容はみんなと同じもので、別火ということではなかった。また、正月3、4日のお祭りには出られず、鳥居の前 を通ったりくぐったりするのも駄目であったという。なお、カイヤ屋敷で出産をしたという伝承は確認できなかった。

出産にまつわる俗信
 へその緒は、産婆さんが綿にくるんで桐の箱に入れてくれた。タンスにしまっておいたがそのうちどうにかなってしまう場合が多いという。病気 の時に飲むなどということは聞いたことがないといい、へその緒を特別視することは一般的でなかったようである。
 乳がよく出るようにと、産婦にはオコゼをおつけ(味噌汁)の中に入れて鯉こくのようにして食べさせた。オコゼは奇妙な顔をした赤い魚で、漁 師が穫ってきた。また、精力がつくからといって、産見舞にとろろ(長イモ)を持ってきたくれた人もいた。概してなんでも食べたが、初めのうちは栄養のある ものは駄目で、お粥か軟らかいご飯に梅干し、白身の魚くらいの食事だった。また、青菜は赤ちゃんの便が緑色になるので駄目といった。
 四十二歳の厄年に産まれた子は、ビク(百姓が苗などを運ぶのに担っていったワラ製の入れ物)に入れて四つ角に捨て、幸せにやっているイエの 人(トナリなど)に頼んで拾ってもらった。拾うのは、頼んだ家のおばあさんやお嫁さんなど女の人であり、拾うのを待っていて子供を渡してもらった。拾った 人は拾い親ということであるが、この人のことを指す言葉は特に伝えられていない。拾ってくれた人とは死ぬまで親子の縁であり、ヨメドリの時でも招いた。ま た、正月には年始として鏡餅を持っていった。

(2)成長の儀礼

七夜と名付け

 一般には七夜の祝いはやらなかったようである。ただ、この時には、産婆さんが赤ちゃんの産毛を頭頂部を残して丸く回りを剃ってくれた。額に 点を付けたりはしない。
 占いによって名付けをするということもなく、親が好きな名前を付けていた。親の一字をもらったり、家によって付け方はいろいろである。今は 字画を気にしたりするが、昔はそんなことも言わなかった。初めの子で「初子」、終わりで「留子」「留夫」「末子」「末次」とつけたり、「まあ済みだ」とい うことで「真澄」などという名前もあったという。

ヒャクトオカ
 生後110日に宮参りをして氏子に入れてもらう。このことをヒャクトオカと称した。この行事は嫁方の手によって行われ、夫方のものは関わら ない。赤ちゃんをお宮に連れて行くのは、子供の母親の他には嫁の実家の母か姉(ネエヤ)であり、夫方のものは来なかったという。この時は、子供には嫁方で 作ったちょっといい着物を着せ、親は半纏を着て負ぶって行く。お参りに行くのは八王子社、神明社、観音様(神明社の前の六兵衛観音)、テングン様であり、 医徳院にも参る人があった。お宮にはオタロを持っていって供えた。ヒャクトオカは氏子になったしるしであるが、お祝いは特になかった。なお、クイゾメの習 慣はなかったという。

初節供
 女児が生まれた場合の三月節供は、旧の三月三日に祝った。実家の親がお雛様をくれるのでこれを飾り、餅、ボロ、磯モン(磯で拾ったアサリ、 シリダカ(サザエの小さいもの))、押しモンを供える。押しモンは鯛、亀、桜の花などの型があるので、米の粉を挽いて練って中に入れ、色を付けて蒸す。お 雛様は今は段飾りになっているが、K3さんたちが子供の頃(大正時代)は瀬戸物のお雛様(お内裏様、お雛様)で、これも段飾りになっていた。人形は長女に 対して贈られるので、次女以下には、一つずつ買い足していった。人形は呉服屋さんが頼んで仕入れていた。初節供にお祝いをもらったときは、五つや七つな ど、奇数の数の押しモンをお返しに配った。なお、篠島では、子供が各家のお雛様を見て回る習慣はなかったという。
 男児が生まれた場合の五月節供には、嫁の親や夫方から鯉のぼり、大幟、座敷飾りなどをお祝いにもらった。この時は、婿方、嫁方の家で贈るも のが重ならないように相談をした。大幟は嫁の実家で用意し、元は実家の紋を入れていて、これが本来の姿であると解されているが、現在は嫁ぎ先の紋が入って いる。柏餅は昔はなかったが、粽を作った。粽は米の粉を挽いて練り、俵の形に丸め、中に餡を入れた。これをススキの葉で縛り、釜に沸かした湯で煮た。スス キの匂いがついておいしかったという。なお、粽は神棚や仏壇にも供えたが、そのためのものには餡を入れなかった。

初誕生
 初誕生の時は、子供にちょっといい着物を着せてお宮参りに行く。ヒャクトオカと同じく八王子社、神明社、観音様、テングン様にお参りをする が、これも夫方では関わらず、母親と子供の二人だけでお参りに行った。初誕生は、ヒャクトオカほど誰でもする行事ではないという。餅をついたり背負ったり することはやらないという。

カミオキ(カミオケ)
 カミオキは子供が3歳になった祝いで、現在は七五三と称して11月中旬の日曜日に行われている。元は旧暦の11月15日に行っていた。この 時には、カヨイの時期が終わり、嫁が子供を連れて婿方にひき移っている場合も多い。カミオキは篠島の成長の儀礼の中では大規模なものであるが、これに中心 的に関わるのは婿方である。カミオキの時は八王子社・神明社に詣った後、神詣りの道を通り、観音堂、城山の松寿院・水天宮、正法寺、西方寺、医徳院の薬師 様・金比羅様に詣った。この日にはシンセキやトナリなどから着るものや足袋、モモヒキ、下駄などをお祝いにもらった。お祝いとしては下駄が一番多かった。 現在はシンセキや兄弟が祝いをくれるだけで数は少なくなっている。カミオキの時は、嫁の実家から男の子には紋付き、袴、女の子には柄の縮緬の四つ身の着物 が贈られるので、これを着てお宮参りをした。着物をもらうのは初の子だけで、以後はお下がりを着ていった。この時の子供の着物の紋は、婿方の紋ではなく、 嫁の実家の紋を付けるのが本当であったという。
 お祝いのお返しとしては、婿方で5合ボタモチを作ってシンセキなどに配った。ボタモチは蒸篭に3つ入れるといっぱいになる大きさで、餅米1 升でこし餡、粒餡、黄粉の三つを作った。多い家では100軒分くらいを配ったが、このため、婿の家では1〜2俵の餅米を用意する必要があった。この準備の ため、嫁さんのシンセキや自分のところのシンセキなど、10人くらいに手伝いに来てもらい、ボタモチを握ってふきんに包み餡をつけてもらった。手伝いに来 るのは30代から50歳くらいまでの人で、ボタモチは11月の日柄のいい日にロジに入れて配った。配るのはシンセキやトナリであったが、現在は、嫁さんの 友達(中心は夫の同級生の奥さん、このほか、嫁さんのツレも入る)が配ることが多い。昔は夜中からシンセキが集まってボタモチを作ったが、今は南知多町大 井で買ってくる。ボタモチは1個が600円のものを箱に3個詰めてもらっている。
 なお、5歳や7歳の時に祝いをする習慣は本来はなかった。

子守
 おばあさんがいればおばあさんが子守をし、分家だと母親が面倒を見ることになる。また、子供が大きくなって兄弟ができれば、上のものが面倒 を見た。赤ちゃんを入れておく入れ物は、大昔はカワゴという楕円形の竹で編んだ篭だった。これは子供専用の入れ物で、布団を敷いて座らせておいた。「かわ いやカワゴに入れられて」という歌があった。おんぶばかりしていると大変なので、これに入れて仕事をしていた。

子供に対しての嫁の実家の地位
 篠島の産育儀礼は、あまり派手に行われているという印象はない。シュウゲンをあげる事例も多くはなかったのであるから、産育に関わる儀礼が 低調であるのも当然かも知れない。その中で、比較的大々的に行われるのは五月五日とカミオキである。そして、そのいずれもボタモチがシンセキに配られてい るが、これを用意するのが婿方である点は興味深い問題であろう。
 産育儀礼における積極的な関与は、尾張地方では嫁方において著しいが、篠島では、費用のかかる儀礼に嫁の実家が一方的に関与するということ がない。むしろ、その子供を育ててもらっているという意識からか、婿方が積極的に関わっている。カヨイ婚のもとでは、特に一人目の子供は嫁の実家の庇護の 元で大きくなる場合が多いのであるから、ことさら、儀礼に際しての贈答で嫁の実家が前面に出て、その存在を示す必要はないのであろう。反面、宮参りである ヒャクトオカや初誕生などが、嫁の実家のみが関わる儀礼となっていることが注目される。
 篠島では、母親の方のイトコは関係が近いが、父親の方のイトコは関係が遠いという。カヨイ婚の習慣を温存している篠島では、男は結婚すると シュウトヤに通ってくるが、子供ができても引き移りが早くないときは、子供は小学校くらいまで母方の叔父、叔母、イトコと一緒に住むことになる。したがっ て、引き移ってからでも、女兄弟は子供を連れて実家によく行き来をすることになり、また、子供にとっては、母方の祖父、祖母の方が気安いことになる。すな わち、個人的なツキアイ関係では、母方、妻方という女性を基軸としたものが、男性を軸としたものに優先するのであり、このことは、一般に「女の身の方が濃 い」と称せられている。カヨイ婚という婚姻形態が、親族関係に一定の影響を及ぼしていることは想像に難くない。篠島では、娘の産んだ子に対する嫁方親族の 力が、婿方に比較して相対的に強いと考えてよいだろう。


3 篠島の葬送儀礼

 一般に、ケガレを克服し、死者をあの世に送る霊的な力は、男性よりも女性の方に伝えられてきた。伊勢湾内の島嶼や、志摩地方では、葬送儀礼 に際して念仏婆さんと称される老女の集団が重要な働きを演じるところが多い。彼女たちは、単に念仏を唱えるだけではなく、湯潅を施したり死装束を着せたり という仕事を務め、死者をあの世に送る役割を担っている(注5)。その中でも篠島の念仏婆さんは、比較的古い形態を残し、また、独自な発展を遂げたものと して注目される。
 篠島の葬送儀礼には、イグラノメイと称される死者の実家の姪が供養のために重要な役回りを演じ、また、葬儀における手伝い手としての女性の 存在が大きいなど、注目すべき点が多いが、ここでは、女性の関わりということを軸に、篠島の葬送儀礼について報告をしたい。

(1)遺体の安置から納棺まで

念仏婆さんと葬式の「世話焼き」
 篠島では、葬式とそれに続く死者供養に際し、念仏のおばあさん(念仏婆さん)と称される老女の集団が喪家に集まる。念仏は枕経、トギ(通 夜)の日のトギ念仏(百万遍)、葬式の日の朝の朝念仏以下、繰り返し行われ、昔は初七日までは毎日、その後も四十九日までは七日目ごとに念仏を行ってい た。以後、年忌供養のたびに念仏婆さんの念仏が行われる。念仏に出るのはおおむね60歳を越えた女性であり、その家のシンセキや知人など、何らかの関係が ある人が集まってくる。その数は、通常でも60人以上、多い場合は80人以上になっている。
 念仏婆さんの先達の人は鉦叩きと呼ばれ、葬送儀礼を指図して取り仕切る「世話焼き」を務めている。「世話焼き」は、必ず夫に先立たれた未亡 人(後家さん)でなければならない。現在、この役にあるのはSさんであり、葬式があると、島中の人がSさんのところへ葬式のやり方を聞きに来る。元は特別 に「世話焼き」が決まっていたのではなく、集まってきた念仏のおばあさんの中で自然と指図がなされ、また、何人も指図ができる人がいたようである。鉦叩き と「世話焼き」も、それぞれ別の人が務めたりもしていた。遺体を安置して湯潅を行い、納棺するまでの死者の取り扱いは、以前は全て葬式の「世話焼き」を中 心とするおばあさんたちの管理下にあった。現在は葬儀屋が何もかもやってくれ、また、葬式のやり方も簡略化が進んでいるため、Sさんが指図をしなければ葬 式が執り行えない状況ではないが、古い習慣なので続いている。ただし、現在はこれらの人たちが実際に死人に触るわけではなく、葬式の段取りについて指示を するだけとなっている。
 なお、葬儀委員長は施主(喪主・跡取り)の兄弟や姉婿さんなどが務めた。

死から納棺まで
 人が亡くなると、息子などの身内のものに連絡をし、やがてテツダイテ(手伝い手)の人が集まってくる。遺体は仏壇の前に安置され、末期の水 を与え、枕元には御霊供膳を供えた。膳の内容はご飯、おみおつけ、ナカヂョク(豆など)、煮物(エンドウ、ダイコン、ニンジン、シイタケ、アブラゲなどを さっと煮て青みを散らしたもの、仏さんのおかずはおいしくなくてもいいと言い、さっと煮ておしまいだった)であり、ツレの妻やシンセキの女の人が作った。 また、人が死ぬと、目には見えないが無縁者(餓鬼)が来て御霊供膳を食べてしまうので、これを防ぐために御霊供膳の横にも一膳飯を供える。
 遺体が安置されると、枕経をあげる。この時は、お寺さんが先に拝み、次いで、念仏のおばあさんのうち関係の濃い人が来てお経をあげる。
 ガンが用意されると、遺体は湯潅をし、白装束を着せた。湯潅は、元は「世話焼き」のおばあさんと身内の女性で行い、タライに水を入れ、カシ オケ(米を研ぐときに使う桶)に湯を入れてきてそこに注ぎ、遺体を入れて手拭いで洗った。現在は病院で亡くなる場合がほとんどであり、そこで処置をするの で湯潅はやらなくなっている。昔は、湯潅のときに、亡くなった人の頭を家の人が剃刀で丸めていた。
 死者には、襟を左前にして白装束を着せた。これを縫って着せるのは後家さんでなくてはならず、そこの家のシンセキや友人のおばあさんの仕事 であった。白装束は晒を使って初めから作るか、白い着物があれば、少し裾を切って使った。結ぶ紐は晒を3つ折にして真中だけを糸で縫って作り、糸の最後は 玉留めを作るが、後さがりに縫うこと(同じところを逆に縫うこと)はしてはいけない。現在では、白装束はガン屋(葬儀屋)が持ってきたものを使っている。
 湯潅の後、遺体をガンに納める。元はガン(棺)は大工さんが作った。昔の土葬の時は1メートル四方くらいのスワリガンだったが、後に寝ガン になった。
 死者の納棺に際してもSさんが指図をしている。ガンに納めた遺体には手に大きな数珠を掛け、手ぬぐいで頬かむりをさせ、足袋と藁草履を履か せてハバキをつける。また、遺体には、西国さんや本四国、新四国などの帷子を被せる。遺体の首からは晒で作った頭陀袋を下げさせ、ハンカチ、はな紙の他、 お金を6文(5円玉6枚)とお米(おにぎり)を白紙で包んで入れる。棺の中にお金を入れるのは、極楽に行くまでに亡くなった人が回る六道の辻で、一文ずつ 払ってゆくためであるという。ガンは下にムシロを敷いて安置した。

(2)葬式の互助

葬式の互助
 葬式のテツダイテは、連絡を受けたシンセキやトナリが中心であった。手伝いに来る場合は、ツキアイの濃いところでは夫婦で来るし、ホーバイ (若い衆宿の仲間)などの関係であれば男の人一人で来る。手がなくて用事があるからと言えば、ホーバイの奥さんも手伝いに来る。男の友人関係がこのように 手伝いに訪れるのに対して、女の友人は送りの時に行くくらいであり、概してツキアイ関係は弱い。
 男の人は診断書を役場に届けたり、行列の飾りものを作ったり、家具などをトナリの家に移動させてトギができるようにした。かつての篠島の家 は手狭なものが多かったため、箪笥や家財道具を分散してトナリに預けないと、家でヨトギ(通夜)ができなかった。したがって、トナリとの関係はいつもよく しておかなければ、いざというときに困ったものであるという。一方、女の人は御霊供膳を作ったりタベゴト(食事)などの手伝いを行っていた。
 土地のシンセキや友人、知人などへの死の連絡は、お手伝いの女の人によって行われた。連絡は通夜の日の朝、二人で回って行い、これをシニブ レといっている。二人で行くのは、死んだ人に連れられてゆかないように、また、大切なことを伝えるからであるという。触れて回るのは、元は濃い身内の者の 役割であったが、今はそのうちの嫁や息子の友人(宿のホーバイ)の嫁などに頼んでいる。
 なお、篠島には、曹洞宗の正法寺、松寿寺、浄土宗の西方寺、真言宗の医徳院があり、葬式の時は、このうちの本寺(檀那寺)が中心となり、 4ヶ寺すべてが参加をする。本寺を除く島の中の寺に対しては、葬式の朝、檀那寺から出された回状を持って男の人が二人で回り、正式な葬式の通知を行った。

トギ

 通夜のことをトギとかヨトギという。トギの晩にはおばあさんたちの百万遍の念仏がある。年寄りが亡くなったときは棺を真ん中にして棺の4隅 にシンセキのおばあさんに座ってもらい、正面に鉦叩きと線香焚きが座った。念仏のおばあさんたちは棺を囲んで丸くなり、寺から借りてきた数珠を回して念仏 を唱えた。なお、若い人が死んだときは四隅に人が座ることはしない。百万遍では、念仏の他に三十三観音と善光寺のご詠歌をあげている。百万遍は、葬式の朝 に行われる朝念仏の時にも行われている。
 トギの時には、大工が作ってきた二つの白木のお膳に飾り物をお供えする。一つの膳には、木で作ったタイマツとクワの作りもの、もう一つの膳 には、水ムケと、その左の方にテショに入れたお菓子を4つ供える。また、水ムケのそばには底に穴をあけた缶を置く。これは、餓鬼が水を飲みに来るので、水 ムケの水を汲まれても缶の底に穴があいていて水が漏れ、飲めないようにするためであるという。
 年寄り(おおむね70代以上)が亡くなった場合はお祝いであり、トギ念仏のキリ(最後)の時に食事を出し、集まった人たちで食べる。昔はニ ンジンの入った五目御飯を炊いた。このほか、大きな鍋で豆腐の吸物、イモ汁(とろろ汁)、小豆の入ったぜんざいなどを作る。食事の準備のためには喪家か、 そこが狭ければトナリの家を借りた。食事の材料は女の人が二人で買いに行く。この時は、買い物帳を作ってツケにしてもらい、葬式の翌日に清算する。食事は お膳で食べないで飯台に用意し、一度には食べてもらえないので2〜3回に分けて出した。茶碗は、普通の家では30くらいしかないので兄弟、親子などで持ち 寄った。なお、葬式の日には食事は出さない。

葬式の飾り・葬具の準備

 家の中に祭壇を飾るようになったのは、葬儀屋が来て家で葬式をするようになってからである。元は、朝念仏のあと、葬列を組んで寺に行き、こ こで葬式をあげたので祭壇などは不要であった。葬儀屋が来るようになったのは20年くらい前であろうという。
 葬列の道具はお寺に保管してあるが、紙を張り替えたりする必要がある。また、サントムライ(導師を3人呼ぶ盛大な葬式)の場合は道具をすべ て新調することになった。これらの道具を作るのは男の人であり、山へ行って材料の木を切ってくる。
 一方、ダイバナ、オシキ、オオイ、ドウギは大工さんが作った。ダイバナは竹筒の下に台を付け、モチの木の花(シャシャキ)を立てるようにし たものである。シャシャキは樒のような青い葉のもので、大工さんや家の人がヤマで切ってきたという。オシキはお供えをのせるお膳、オオイは土饅頭にかぶせ る屋根である。また、木の位牌に花の形の紙を貼った花位牌は、Wさんというおじいさんが専門に作っていたが、亡くなったため、現在はお寺のお庫裏さんが 作っている。
 葬式の時は野団子を飾る。この団子をヒノケドリの団子と称している。これはトギの日の夜12時を過ぎてからすぐに作り始める。洗米を石臼に 入れて杵でつき、粉にしたものをしゃもじで寄せて水で練って丸め、沸騰した湯の中に入れてゆで、イカケで水を切る。団子を丸めるのは後家さんに限られ、こ の時は10人かかりくらいで、一人が丸めると次の人に送って一つの団子を丸めてゆく。ヒノケドリの団子は、葬式の後でケガレを取り除くために会葬者が食べ るものであり、後家さんが何人も力を合わせることで、ケガレを克服する不思議な霊力が発揮されると考えられているのである。


(3)葬式とケガレ意識

葬列

 葬式の日の朝、死者の着ていたユカタを裾のほうを上にして、家の外の玄関の右側に釘を打って掛けた。また、この朝には、イグラノメイ(イグ ラは実家のこと、実家の跡取りの娘)が松寿寺の下のシュウドヶ浜に死人の着ていた着物を持って行き、海の水につけて浜に干し、そのまま放置しておいた。
 朝念仏がすんでから葬式行列を作って寺に行き、ここで12時くらいから葬式を行った。葬列が通るときに使用する道を葬式道という。葬式道は 喪家から松寿寺、西方寺、正法寺に向かうルートであり、神明社の前の道を通らないようになっていた。葬式道は各家によって道筋が異なっている。前浜から波 止場の方に横切るには神明社の西側の道を使った。葬式道は結納やシュウゲンの時に、結納を納めに行く人や嫁さんが通る道でもあった。この道は現在でも意識 されていて、埋め立て地が出来た際、そこに居住する人たちがどの道を通ったらいいかということで寺に相談に来たという。もっとも、現在は、昔ながらに葬列 を組んで葬式をあげる人は少なくなった。
 ガンはカド口(玄関)から出し、この時、石と瓦を家の中に放り込む、あるいは家の外に投げ出すまじないがあった。これは、今後、葬式が続か ないようにという意味であるという。放り込まれた石と瓦は、葬式の間、家で留守番をしている人が、また外に投げ出しておいた。葬列を組むとき、濃いシンセ キは白い裃、女の人は白無垢であった。また、男の人たちはワラゾウリを履いて行き、女の人でも堅い人はワラゾウリを履いた。現在は黒い服である。
 曹洞宗の一般的な葬式の行列は次の通りである。葬列の時に飾りものを持つ人は心安い人であり、シンセキ、トナリ、ツキアイをしている人など である。具体的にはSさんが指図をして決めた。
1 先提灯(前提灯・前灯篭) 男の人が一人で持った
2 赤白の旗2本 布製、白と赤の木綿の布を長く垂らした旗、おじいさんが持った
3 不通の旗(「仏法僧宝」の旗) 紙製、現在保管されているものは布製である。男の人が四人で持った。
4 竹筒の花(ダイバナ) モチの木の葉を花に見立てて6本挿す。おじいさんが6人で持った。
5 和尚
6 位牌 金紙の飾りが付いたもの、施主が持った。葬式後、喪家で祀り、本物の漆塗りの位牌ができてくれば寺に返す。
7 写真
8 花位牌身内の女の子(孫)が二人で持つ。葬式が済むとお寺においてくる。
9 杖 竹で出来ていて墓に立てる。小さい子が一人で持って行った。
10 善の綱 老人の死の時、念仏のおばあさんたちが引く。
11 棺 甥と孫が持った。
12 天蓋 長女の婿であるテンガイムコサが持った、棺の後ろ左横。
13 後提灯 棺の後ろ右横、男の人が一人で持った。
14 裃を着た男性 棺の後ろ、身内やホーバイの男性、戦前は刀を封印して指していった。
15 オヒツの蓋 イグラノメイが持った。
16 御飯持ち 盆に入れて行く。施主の妻や娘など女の人が持った。
17 水持ち 茶碗に水を入れて行く、嫁さんなど身内の女性が持った。
18 タイマツとクワ 二つ一緒に盆に入れて持っていった。
19 野布施 お寺に渡すお金であり、チンポンジャランの道具代、元は2文であったところから2銭、20円となって、現在は200円である。
20 白い着物を着た女性
21 一般の会葬者

 葬列で重要なものはガン、天蓋、オヒツのフタであるとされる。ガンを担ぐのは甥、孫など、男の人が二人である。いなければ、ツレなど、別に 誰が担いでもよい。担ぐ人は尻からげをし、草履を履き、肩にタオルを掛ける。ガンは輿にのせ、これに首から縄を掛けて担ぐ。
 天蓋をガンの左横にかざして持つのはテンガイムコサであり、長女の婿が務める。長女の夫になると一般に「テンガイ」と称され、葬儀委員長を 務めることが多い。
 オヒツのフタはイグラノメイが持つ。イグラノメイは死んだ人の浴衣の手を通すところ(左袖)を頭にかぶり、あとは体にかけ、オヒツのフタを 頭に載せていった。オヒツのフタは長方形の白木のお盆のようなもので、ここにロウソク立て、シカバナ立て、団子をのせる台が二つ入っている。オヒツのフタ は、葬式の時、トギの晩に菓子を供えた皿にご飯をのせ、水ムケを入れ、塩と味噌をおかずにして竹の箸をつけて大きなオシキの中に入れ、棺の前に供える。
 善の綱はゴクラクともいい、年寄りが死んだときに葬列に加わった。晒2反をガンに向かって右側に縛って綱とし、念仏に来たおばあさんたちが 引っ張るもので、善の綱を引いた人には、50円玉4つ、5円玉5つにこよりを通して縛ったものをあげた。
 いわゆるいいところの家で年寄りが死んだときは、葬列を組んだ際に菓子を撒いた。また、花籠にお金を入れ、辻つじでこれを振るって撒き、葬 式に来た人たちがみんなで拾ったりした。

葬式−二度参りとヒノケドリ−
 寺の中庭にガンをのせる台を置き、葬式の行列を中庭で3回まわしてガンを据える。ここに、ダイバナなどを供えた。オッサン(お寺さん)は本 堂の前に座り、葬式が営まれ、この後、ガンをハカショに埋葬する。葬式後には、白紙に硬貨2枚を包んでチンポンジャランの道具代として和尚一人一人に渡 す。昔は10円玉2枚、20円だったが、現在は100円玉2枚、200円である。また、重箱にお米、おかずを詰めてアゲモノとしてお寺に持参する。
 葬式は二度参りをするものというが、この儀礼については本来の意味付けが曖昧となって、改変、形式化が進んでいる。元々は会葬者全員が葬式 道を通って喪家に戻り、ヒノケドリ(ケガレを取り除くという意味である)をしてハカショに戻るしきたりがあって、これを二度参りと称したようである。この 点では、二度参りで家に戻っている最中に埋葬したという話と、二度参りで墓地に戻ってから埋葬したという話があり、伝承が混乱している。おそらくは、元の 形は前者であり、引導を渡されて葬儀が終了し、ケガレを取り除いた後、埋葬され、仏となった死者に対してあらためて参るというものであったのではないかと 考えられる。それが二人の男女が代表してヒノケドリに戻るようになり、さらに、男の子と女の子を代表で喪家に走らせてヒノケドリを行わせるように変化して いった。子供は喪家につくと足を洗って敷居をまたぎ、塩を撒いてヒノケドリをしてから戻ってくる。子供には駄賃としてお菓子をやった。この間、一般の会葬 者はヒノケドリの団子を食べながら、ガンが埋められ子供が帰ってくるのを待った。葬式の団子は縁起がいいといい、みんなでとって食べ、走ってもらわないと いけないほどであったという。現在では、埋葬後に会葬者が二度、墓に参って焼香、水を手向けることを二度参りと称しており、この後、ヒノケドリと称して煎 餅などが配られている。それぞれの名称は残されているが、儀礼自体は大きく変容を遂げているといえる。

穴掘りと土葬
 ハカショはそれぞれの家の檀那寺にある。篠島は、元々は土葬であったが、伝染病で死んだ人は特別に火葬にしていた。火葬場は現在のゴミ焼き 場の近くにあり、囲いもなく、穴が掘ってあるだけのものだった。
 土葬の場合、棺桶を埋める穴は、初めに後家さんがスコップで泥をすくうことになっていた。あとは、輿を担いできた甥と孫、あるいは子供の ホーバイなどが浴衣姿になって穴を掘った。穴を掘った二人はケガレているので、喪家に帰ってきて敷居をまたぐ前に盥で足を洗い、塩をふってコップ酒を飲ん でもらう。これもヒノケドリといった。また、喪家からはお金でお礼を出した。
 死んで四十九日までを生仏といい、その後は普通の仏さんになるという。生仏の間は、土饅頭の上にドウギと杖を立て、オシキとダイバナを供 え、オオイをかぶせる。
 ドウギは戒名の書いてある3寸角くらいの大きな木の墓標であり、四十九日まで、あるいは、初の仏で石塔のないときは石塔ができるまでハカ ショに立てておく。
 オシキは木の小さいお盆で、水ムケ(茶碗に水を供えたもの)と白紙に包んできた少量のアライネ(洗米)をこれに載せてハカショに供えた。ア ライネは、埋葬したとき、土饅頭の上に木と竹の箸を使って二人で摘み合って供えた。これをアイバサミといった。なお、水ムケは四十九日までは大ぶりのもの を使い、以後は蓋のついた小さなものに替えた。

火葬と葬式の変化
 現在は土葬はほとんど行われず、火葬が主流になっている。火葬の場合、河和の火葬場まで遺体を運ばなければならない。この場合、多くの場合 は、自家用車に棺を積み、フェリーで海を渡ってゆく。火葬後、すぐに拾骨して帰ってくるが、お骨は全部もらってくる人と一部だけをもらってくる人とがあ り、拾骨については尾張のしきたりと三河のしきたりが混在している。島に帰ると、車はケガレているため、禰宜さんに頼んで祈祷してもらう。
 火葬の場合は、火葬後に島で通夜、葬式をあげ、墓に納骨することになり、かつての葬式のやり方は大きく変化せざるを得なくなった。また、大 人数を呼ぶためには家が狭いということもあり、寺を借りて通夜や葬式を行う事例も増えた。現在は、家で通夜と葬式をやる場合、寺で通夜と葬式をやる場合、 家で通夜をして寺へ移動する場合のそれぞれが、3分の1くらいの割合で行われているという。

篠島の葬送儀礼の具体例
 次に、1996年3月、98歳で亡くなったおばあさんの葬式の様子について記しておきたい。死去したのは13日夕方であり、14日に河和で 火葬し、15日に本寺の正法寺でトギ(この日は友引)、16日に同じく正法寺で葬式(告別式は13時、出棺は14時)、17日の9時から寺参りという日程 であった。
 葬式の日は、12時くらいから会葬者が寺に集まり始めている。受付は孫のホーバイが務めた。寺の中は本堂内に祭壇が組まれ、その前に火葬か ら戻った遺骨が安置された。遺骨の前には金紙の冠が付いた位牌、その両側に青地に椿を模した紙製の赤い花が一輪付けられた花位牌、その前の台にオヒツのふ たが置かれている。オヒツのふたは、四角い白木の盆で、二つのマスに団子が四つずつ入ったもの、ご飯、そのおかずとして味噌と塩、花立てに挿された花状に した半紙が載せられている。その右側に足の付いた白木の膳があり、ここには作りものの小さなクワ、削りかけ状のタイマツが置かれ、その後ろに、紙に包んだ お金(ノブセ、役僧への謝礼、中身は200円)が置かれている。
 この日は、正法寺住職を含めて8人の役僧がお勤めをしている。葬式の時は篠島の中の4ヶ寺はすべて集まり、このほか、互いに組を作っている 日間賀島や知多半島の寺を呼んでいた。なお、葬式を取り仕切るSさんは、本堂左手に座り、本堂内の右手には、白の裃と白の喪服を着た施主夫婦を先頭に、親 族が並んで座った。
 お勤めが始まると、本堂外の弘法堂から、会葬者に向けて菓子、お金が撒かれた。これは、年寄りの葬式の時に撒かれる。引導を渡し、施主の挨 拶があって焼香が行われ、葬式は終わり、ヒノケドリの団子が配られる。
 この後、初七日のお勤めが行われ、納骨が行われた。墓は正法寺内にあり、袴を脱いだ施主が遺骨を持って墓に行く。石塔の前の石の蓋が開か れ、会葬した親族の人で遺骨を手で中に入れてゆく。石塔の後ろには死者の戒名を書いたドウギが立てられ、このほか、青竹の杖、竹筒に入れられたモチの木の ハナを6本並べる。その後、茶碗に入れられた水を2回、笹の葉のようなものにつけて墓にかけ、洗米を供える。これは2度やるものとされ、順番に並んで一度 終わった人は、行列の最後に再び並んでもう一度同じことを繰り返す。お参りが済むと、手伝いの人から塩をかけられ、煎餅を渡される。この煎餅はヒノケドリ のものであるという。塩をかけ、煎餅を渡すのは二人一組でなければならない。
 納骨が行われる頃、本堂の中の祭壇はすでに取り除かれている。本堂内正面には位牌と花位牌、四七日までの塔婆が置かれ、その前にお供えが並 ぶ。これから、おばあさんたちの念仏が始まった。念仏は、この日は初七日、二七日、三七日、四七日の4回分を行っていた。おばあさんたちは納骨が行われて いる頃には本堂の回りに集まってきている。本堂に入ったおばあさんたちには念仏のミが渡された。一つ一つ名前が書かれたビニール袋に入れられていて、中身 はお菓子とジュース、お金が2000円であった。おばあさんの数は70人ほどであり、これは数としては普通であるという。念仏の鉦たたきはSさんが行い、 線香焚きが隣で線香を焚く。念仏のあとで三十三観音のご詠歌、善光寺さんのご詠歌があげられた。お勤めの時間は1時間半ほどである。

死の忌み
 人が亡くなったときはユミヤ(イミヤ)になっている(ケガレている)ので神さんには参らない。親子の場合は1年、孫だと80日くらいであ る。夫が死んだときや妻が死んだときは、血がつながっていないので忌みはない。忌中は神棚に紙を貼っておく。漁には葬式が済めばすぐにも出て行き、特に禁 忌はない。
 友引には葬式を出すのはさけるが、どうしても出すときは、夜7時からなど、時間を遅くして行うという。また、正月にも葬式を出すことは避 け、正月の祭りが終わるまで待ち、5日になったら葬式が出せる。
 なお、ドザエモンを拾ったときは、拾った人の責任で近いところのお寺に頼んだ。ドザエモンを拾うと縁起がいいという人もいるが、死人を積む のは船がケガレるのでいやであった。ドザエモンを拾ってきた船はテングン様で拝んでもらった。

(4)寺参りと念仏

寺参り

 葬式の次の日は寺参りが行われ、この日に葬式の後始末もなされる。お寺参りは9時からであり、家から本寺(檀那寺)までシンセキのものなど が行列を作って行く。この時は、死んだ人の着物(単衣か袷か一つあればよい)、草履、帯、白足袋にタオル、チリ紙をつけ、イグラノメイがお寺に持って行 く。また、死者の長女(テンガイムコサの妻)は100円玉を6枚、半紙に包んで賽銭として盆にのせて持参し、4つのお寺に供えてゆく。お寺では、金紙の飾 りの付いた死者の位牌、花位牌を本堂の前の方に祀り、ここに七日目ごとに塔婆を立ててゆくので、着物は箱に入れて四十九日まで位牌の前に飾る。お寺参りの 時は、一行は、本寺(ここでおばあさんたちの念仏が行われる)だけではなく、これに続いて島の中の他の3ヶ寺を巡拝する。なお、寺参りの時にも、おばあさ んたちに家に寄ってもらって五目ご飯などを食べてもらったことがあった。
 亡くなった人は四十九日までの間は生仏であり、軒にいるという。この間、四十九日まで毎日朝晩2回、喪家の人が誰でもよいのでお寺参りに出 かけ、寺と墓の水を換えてゆく。この時は、仏様に「負ばれやーよ」といって背中に負ってきて、本堂でおろし、本堂にまつられている位牌に対し、家からやか んで持っていった水を供え、ハカショにも供える。仏様は一日、お寺で遊んでいてもらい、夕方、迎えに行って負ぶって帰ってくる。この間の喪家には、白木の 位牌が祀られている。七日目ごとに立てた塔婆は全部で七つになるが、四十九日が済むとハカショに持っていった。
 次に、現在の寺参りの例について記しておきたい。事例は、先述した、1996年3月のものである。寺参りは17日、9時から本寺である正法 寺本堂で行われた。中央に位牌と花位牌、供えものがあり、また、死者の着物などが置かれていた。正法寺住職が中心に座り、後ろに親族が一列に並んで座る。 これを取り囲むように、念仏のおばあさんたちが70人ほど座る。お経ははじめに今日の分のお勤めがあり、次いでお供えをお餅に替え、初七日の供養がある (葬式後の念仏と重複する)。全体では30分くらいで終わるので、施主の挨拶があって解散となった。おばあさんたちは位牌の前に賽銭をあげてゆく。
 この後、シンセキとおばあさんたちは、墓に参り、水を笹の葉につけて手向け、洗米を供えたあと、篠島内の寺(西方寺、医徳院、松寿寺)にお 参りにゆく。それぞれの寺には亡くなった人の位牌が置かれ、重ね餅とお膳のお供えがあげられている。寺参りの道は葬式道と同様に決まっていて、お寺参り道 と称される。やはり神社の前を通らない道である。

葬式後の念仏

 葬式後の念仏の時は、1週間ごとにお寺にアゲモノを持って行く。今は、初七日、二七日、三七日、四七日、命日、五七日(三十五日)、六七 日、七七日(四十九日)にやっている。昔はその都度、餅をついていたが、現在は餅の形をした砂糖にしている。
 四十九日が葬式後の念仏の最後の機会で、お餅をついてオヒツに50個入れ、お念仏がすむとおばあさんたちみんなにくれる。この餅をエンキリ モチといい、葬式道を通って運ばれた。本堂に祀っていた花位牌は、四十九日が済むとお寺の方で処分するが、金紙の飾りのついた位牌は百か日まで位牌堂で祀 る。
 法事は百か日、一周忌、三周忌、七周忌、十三周忌に行い、以下17、23、27、33、37と続き、50周忌まで行う。この時は、シンセキ はもちろん、念仏のおばあさんを招いて念仏をあげてもらう。なお、年忌については、33回のトイジマイといい、33回忌で終わる人もいる。トイジマイの時 も普通の塔婆を立てるだけである。

念仏に訪れる関係と組織
 念仏に出るのは、その家と関係があるおおむね60歳を越えた女性であるが、念仏に出るかどうかはお互いの家のツキアイ関係によるものであ り、シンセキとは限らない。そして、念仏に出るかどうかによって持参する香典の額も異なってくる。何らかの関係があって香典をたくさん出す家は念仏に呼ん でもらうことになるし、念仏に招かれるような家の場合であれば、香典の金額も多くしなくてはならない。現在は、念仏に出るような家は5000円の香典では 不足であると言われ、10000円は持ってゆく。念仏の機会は法事の時なので、シンセキの男の人も来るが、念仏の中には入らない。
 念仏の先達は鉦叩きといい、現在はSさんの他、二人の人が務めている。念仏の時に線香を焚く線香焚きは死んだ人の在所の姪(イグラノメイ) である。いないときは血のつながりの近い女性が務める。念仏の時には先祖用に2本ずつ線香を焚き、お経に応じて観音さんは6本などと決まっていて、拝むと きには36本の線香を焚く。
 念仏の使いは、葬式のシニブレと同じく、元はそのうちのシンセキが二人で歩いて連絡した。「明日の何時にどこどこであるので来てくれ」とい うだけである。今はその家の嫁さんが触れて回ったり、電話で連絡する場合もある。
 次に、念仏に訪れる関係と組織の具体的な事例として、A家の場合を見ておきたい。A家の念仏には80人ほどが招かれ、お茶くみを入れると 100人くらいの規模になる。お茶くみは50代の人であり、お嫁さんの友達が多い。念仏で出すのはお茶菓子とお茶であるが、帰りにお金を500円とジュー スをつけている。
 平成7年の事例をまとめたのが第1表である。A家のおばあさんは、葬式や法事などで年間71件の念仏に招かれており、ほぼ5日に一度という 計算になる。このうち、葬式のあとなどは念仏が続くので、そのような複数回のツキアイ関係をのぞくと、年間で58軒のイエと念仏を通じたツキアイ関係を 持ったことになる。相手との関係をみると、シンセキ関係と認識しているイエはわずかに5軒であり、大部分はそれ以外のツキアイ関係、例えば商売上の取引と か、友人関係などによっている。また、58軒のうち18軒は、相手のイエにおばあさんがいないため、A家では念仏に招いておらず、念仏を通じてのツキアイ は片務的となっている。第2図は、A家の念仏に招くシンセキ関係を示したものである。A家で念仏に招くシンセキは26軒であるが、このうち4軒は島外のシ ンセキである。
 念仏をあげてくれたおばあさんに、喪家ではお金とお菓子をおみやげに出している。これを念仏のミといい、昔は饅頭10個であった。現在は、 トギ(通夜)の時と朝念仏(葬式の日の朝)の時は、念仏に来てくれた人に500円ずつ出している。また、この時は生仏なので菓子をつけている。初七日、二 七日、三七日、四七日と、命日、五七日、六七日、四十九日は一度にやってしまい、それぞれ4回分で2000円を出すことが多い。
 このあとの法事の念仏では、500円とジュースをつけるか、お金に300円くらいのお菓子をつける。二人の仏さんをまとめて行ったりすると 1000円になる。法事は寺でやったり家でやったりいろいろであるが、念仏に招く人数はだんだん減ってゆく。A家の場合では、十三回忌だと40人くらいで ある。
 念仏に来てくれた人に対してのおみやげは、だんだん派手になっていってしまうので、婦人会や老人会で取り決めをしている。それによれば、お みやげはお金500円とジュースであるが、これにお菓子をつける人が多く、今ではお菓子をつけないでお金を700円にしているところもある。また、最近は 人参ご飯を出したり寿司の折箱を出す人も出てきた。A家では、1回念仏をすると20万円くらいの費用がかかる。生活改善をやってもだんだん派手になって行 くのでギリがたいへんになってしまうという。
 なお、篠島では先祖を大切に思う気持ちが強く、漁に出ている男性に代わり、女性が毎朝、お墓に来て先祖参りをするのが普通である。婦人会で 規制をする以前は、お墓の花も毎日新しいものに換えられていた。

(5)女性と葬送儀礼

 以上見てきたように、篠島では、死のケガレを克服する存在として、女性という性(その中でも特に後家)に死者をあの世に送る霊力を認め、葬 送儀礼は念仏婆さんを頂点とする女性が主になって取り仕切ってきた。このうちイグラノメイと念仏婆さんについて詳述しておきたい。

イグラノメイ
 篠島の葬式において、身内の中で重要な役割を演ずるものに、施主を務める跡取りの他、テンガイムコサ、イグラノメイがいる。
 このうち、施主と、葬儀委員長を務めることが多いテンガイムコサ(長女の婿)は、施主が喪家の代表、テンガイムコサが葬式の運営面での代表 であり、葬儀の執行にあたって家を代表するフォーマルな役回りであるといえる。これに対し、イグラノメイは死者を供養する儀礼の面での代表者となってい る。
 イグラノメイが葬送儀礼の中で前面にでるのは、葬列でオヒツのフタを持つとき、寺参りで死者の着物を持つとき、念仏の時に線香焚きを務める ときであった。死者の食事をのせたオヒツのフタを持ち、死んだ人の着物の袖を頭にかぶるイグラノメイは、それだけで死者と近しいものを感じる。また、寺参 りで持参する死者の着物は、死者の霊魂の依り代であるし、何より、イグラノメイは、死者が生仏の間はもちろん、トイジマイの年忌法要に至るまで、死者の供 養のために線香を焚き続ける点で、特異な宗教者であるといえる。
 イグラノメイについては、その意味付けに異論がある。イグラノメイは、普通、「イグラはホンヤの意味だから、女の人が死ねば在所の姪だが、 男の人が死ねばその実家の姪ということになる。ホンヤの男の人が死ねば、その弟の娘がイグラノメイだ」と解釈されている。しかし、中には、「イグラノメイ は自分の在所のアネサであり、嫁さんの本家のことだ。女の人が死んだら自分の在所の姪がイグラノメイであり、男の人が死んだら、奥さんの在所の姪がイグラ ノメイになる」と説明する人(明治生まれの女性)もあった。両者の違いは、男性から見て、姻戚関係にある娘(嫁の在所の跡取りの妻)が死者の供養をするの か、それとも、血縁関係にある娘が供養をするのかという点にある。これは、時代と共に解釈が変化した結果と考えてよいのかどうか、今後、他地域との比較が 必要になるところである。仮に後者の捉え方がよりプリミティブなものであるとすれば、現実の家を継承して祖先祭祀を行ってゆく父方の系譜に対し、妻方の親 族も祖先祭祀で欠かせぬ役割を演じている事例として興味深いものがあると考えられ、カヨイ婚の習俗と関連させて、篠島の親族組織の分析を進める必要がある であろう(注6)。
 もっとも、イグラノメイが線香焚きを通じて死者供養を行うというのは、あくまでも理想型である。イグラノメイがいなかったり年が若かったり した場合は、その他のシンセキの者が線香焚きを行うし、世代交代でシンセキ関係が更新されていった場合は、より新しい死者のイグラノメイが古い死者の法事 の線香焚きを兼ねたりする。第3図は、A家における線香焚きの状況であるが、2と3の人物は(W)BSWが線香焚きとなってイグラノメイの範疇でとらえら れるが、1の人物の最近の法事の場合、SWBSWの関係になる同一人物が線香焚きを務めている。
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念仏婆さん
 念仏婆さんは、現在の志摩地方の多くのムラでは任意の集団であり、その規模も10人以下というところが多い。例えば鳥羽市答志島和具の念仏 婆さんは、死者に白装束を縫ってやるほか、枕念仏、送り念仏、葬式後の念仏、初七日、四十九日、百ヶ日以下、1周忌、3周忌、7周忌、13周忌、17周忌 というように年忌に念仏をあげている。これは梅花講などの寺院主催の念仏講とは別であり(梅花講の講員は葬式には関わらない)、信をしている人が念仏に入 ることになっている。しかし、65歳で老人の仲間に入った人は、みんな念仏に入ってくれという依頼にも関わらず、現在は75〜80歳くらいの人が7〜8人 で組織しているに過ぎない。このような傾向は先述の今浦でも同じであり、1991年の加入者は6人に過ぎなくなっているという。今浦の場合、念仏講は寺院 の組織という色彩が濃く、年間の行事も大江寺によって定められたという(注7)。一方、愛知県南知多町日間賀島の念仏婆さんも特定の人によって構成されて いる集団である。ここでは、亡くなったときのお通夜(百万遍)、出棺前の朝、あとは七日毎にお勤めをし、春秋のお彼岸と年忌の時にも念仏をあげており、湯 潅や納棺も、念仏婆さんが主体で行われる。そして、念仏の仲間に入るのは信仰のある人に限られ、現在は70代以上の8人で組織されているに過ぎない。
 知多半島のムラにおける念仏は、シンセキやトナリ組などを単位にして行われており、家のツキアイ関係によって構成メンバーが異なる。そし て、ここでは、念仏に集まるのは年配の女性が好ましいものの、必ずしもそうでない場合が多いのである。南知多町の師崎では、葬儀の際にはトナリ組、シンセ キの女性が集まり、トナリ組の中に4〜5人はいるという先達の人を中心に念仏をあげている。しかし、現在では40代、50代の人も念仏の仲間に加入し、人 がいない場合は梅花講でご詠歌をあげられる人を頼んでいる。同じ南知多町の片名でも、葬儀の際の念仏にはシンセキ、トナリ組の女性が集まり、その数は 20〜30人くらい、ツキアイが広い場合は40人ほどにもなるという。しかし、年配の女性がいない場合は若嫁さんや男性も参加しており、年配の女性という 条件よりも、ツキアイ関係のある家からは、誰でもよいので念仏に出るということの方が優先されている。そして、南知多町豊浜では、葬式後の念仏に際して は、シンセキ、トナリ組からとにかく一人ずつが出ればよく、老若男女の差は問われていないのである。
 老女による、死者をあの世に送る念仏は、どちらかと言えば衰退傾向にある。篠島でも、実は念仏のミの負担が加重であるということから、念仏 の簡素化がしばしば話題になっているという。しかし、念仏婆さんの念仏をやめてしまおうという人は多くはない。
 一般には念仏婆さんは念仏の先達を中心とする葬送儀礼の執行組織として、重要なものと意識され、死者は念仏婆さんの念仏によって成仏するこ とができると考えられている。また、葬儀のテツダイテとなる女性たちは、念仏婆さんのメンバーか、あるいは、やがては念仏婆さんに加入する立場の人たちで ある。念仏婆さんにそっぽを向かれると、島では葬式ができないという意識は強い。
 例えば、現在、篠島では埋葬するスペースが乏しいということもあってほとんどが火葬になっている。この場合、葬列で運ぶべき棺がなくなり、 葬列で善の綱を引いたりするおばあさんの仕事がなくなることになる。しかし、家での葬式の後、遺骨を施主が一人で寺に持ってゆこうとしたところ、念仏婆さ んたちの中から、仕事がないのでもう葬式には来ないという声があがり、そのため、遺骨をわざわざ棺に入れて家から寺まで葬列を組んでいったことがあるとい う。これは、結局、篠島の葬式は、昔から関わってきたおばあさんの存在がなければ行い得ず、したがって、おばあさんたちを怒らせたくないという考えからと られた手段であるという。その後、寺を借りて葬式をあげるようになると、家から歩いてゆく手間がなくなり、葬列自体もなくなったが、念仏婆さんに対する善 の綱のお礼は、朝念仏の時に元のように行っている。
 篠島における念仏婆さんの組織力の強さは、「女の身の方が濃い」と称される社会関係の存在と無縁ではない。第2表、および第4図は、昭和 60年に亡くなったA家のおばあさんの香典帳を分析し、ツキアイのあったシンセキを示したものである。親等は死者から数えている。これによれば、夫方の関 係はおおむね4親等までのツキアイであるのに対し、5親等以上のツキアイ関係では妻方が圧倒的である。特に、この家の跡取りに当たる孫の嫁(DSW)の在 所との関係は、かなり広範囲に渡っており、妻方とのツキアイ関係の重要性を指摘することができる。このような女性を軸としたツキアイ関係の卓越は、女性の 結束をもたらすことにつながっている。また、葬式などに多数の念仏婆さんが参加する理由は、島全体を一つのムラとみて、ツキアイ関係が広範囲に及んでいる ことが関係している。念仏婆さんとしての葬送儀礼への参加は、一種のツキアイ関係であるから、これが一度ある家とある家との間で形成されれば、それは容易 に解消されない。また、拡大する血縁関係をたどって、交際範囲が拡大しやすかったのである。
 念仏婆さんは、やがては島の女性が必ず加入する葬送儀礼の執行組織として意識され、女性の年齢階梯の頂点に位置する。念仏婆さんがこのよう に位置づけられている限り、「女の身の方が濃い」とされる篠島では、この組織は容易には衰退しないに違いない。



注1)愛知県下では、知多郡南知多町日間賀島、幡豆郡一色町佐久島で、カヨイ婚の報告例がある(大間知篤三『大間知篤三著作集2 婚姻の民俗』1975)。

注2)社会学研究会(「志摩地方における一時的<つまどい婚>慣行」ソシオロジ38、1965)によれば、志摩地方のカヨイ婚(つまどい婚) を分析する指標としてはタルイレ(結納)と婚礼があげられ、妻の夫方への引き移りがいつ行われるのかという点から志摩地方のカヨイ婚の類型化が試みられて いる。とりわけ重要なのは、結婚成立の儀礼であるタルイレによってカヨイが始まった後、妻の夫方への引き移りに際して儀礼を欠く第1類型。この中のタルイ レを欠く第2類型。カヨイが始まった後、夫方で婚礼を行うものの、以後もそのままカヨイの期間が続き、後に妻の夫方への引き移りがある第3類型。カヨイの 期間が続いたあと、婚礼によって妻が夫方に引き移る第4類型の4つのタイプである。そして、第1〜3類型は、カヨイが当然であると考えて行なわれる「純粋 型」であり、第4類型は、カヨイは社会的に容認されてはいるものの、積極的に行なわれるわけではない「推移型」に分類されるとしている。地域的には、口志 摩に「推移型」、先志摩に「純粋型」のカヨイ婚が多く分布しており、僻遠地域に古風な習慣が残存するという立場から、「純粋型」をプリミティブな形態とし て説明している。この篠島の婚姻儀礼の類型を社会学研究会の類型に当てはめて見ると、A型は基本的には第1類型に分類でき、これに儀礼として足入れが付け 加わっている。B型は第3類型、C型は第2類型となる。いずれにしても、篠島の婚姻儀礼は、カヨイ婚が当然であるとして行われる、社会学研究会の分けると ころの「純粋型」に分類されることになる。

注3)社会学研究会による志摩地方のカヨイ婚の調査研究では、「婚家が狭いということだけをとりあげて、<つまどい婚>慣行の存在理由を説明 しようとするのはゆきすぎであろう」とし、住宅事情とカヨイ婚習慣を結びつけて考えることについては否定的である。

注4)出村「金史(一字)」『篠島史蹟』(1921)

注5)例えば、鳥羽市坂手島では、枕経までの間に死人の世話をするのは、オンボと称される特定の老女であり、枕飯や団子を準備するとともに白 装束を縫って着せていた。通夜や葬式、年忌の時には念仏婆さんたちが念仏供養に訪れ、これを33年忌まで続けていた。これは菅島や答志島などの離島でも同 様である(堀哲「志摩離島の民俗」(「中京大学大学院紀要2-2、3-1」)1967、1968)。また、志摩半島の鳥羽市今浦でも、60〜70歳の念仏 婆さんが葬式や法事、盆、彼岸などの時には念仏をして回り、この他、毎月、観音堂でお勤めをするなど、死者の供養のために大きな役割を果たした(肖紅燕 「葬送儀礼と両墓制」(「東洋大学大学院紀要28、志摩の文化伝統とその変容・鳥羽市今浦の社会人類学的調査」)1991)。これは鳥羽市石鏡などでも同 様であり、また、鳥羽市国崎では、老人の中で男性は神事を行い、女性は仏事を行うというように役割の分担がなされている(島本彦次郎「生活の組織と海女の 生活」(「海女のむら-鳥羽市国崎町」愛知大学綜合郷土研究所紀要)1965)。言うなれば、神事は「現世」の安穏を願い、仏事は「来世」の幸福を期待す るものであるが、死者は女性の力によって、この世からあの世への境界を越えることが出来るのである。

注6)なお、イグラの呼称については、瀬川清子氏の「日間賀島民俗誌」(1951)中に「嫁を出せん家や、嫁入りの仕度をするあいだ、娘が親 の家にいると聟が通う。嫁の在所をイグラ、またはシュウトヤという。」という記述があり、この言葉が嫁の在所を指し、またカヨイ婚と関連深いものとして紹 介されている。現在、日間賀島では、明治生まれの話者からもイグラの呼称について確認することはできなかった。

注7)東秀子「通過儀礼-厄落としとカネツケゴ-」(「東洋大学大学院紀要28、志摩の文化伝統とその変容・鳥羽市今浦の社会人類学的調 査」)1991


「愛知県史民俗調 査報告書1 篠島」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書1 篠島」編集委員会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部県史編さん室
  平成10年刊行


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