「製 糸と機屋−機械化以後の生業の「民俗」−」
服部 誠  

はじめに

 製糸業と織物業は、ともに明治以降の日本の発展を支えた産業であり、愛知県はこれら軽工業が栄えた土地である。桑は高燥な土地での栽培が適しており、渥 美半島や豊川流域の河岸段丘、犬山扇状地など、特に地下水位が低く水田を開けない地域では、養蚕はほとんど唯一の現金収入源であった。これら養蚕地帯で生 産される繭を用い、東三河や尾張北部で製糸業が盛んであった。一方、木棉は、近世から尾張西部の島畑地帯や知多半島で栽培され、これを用いた綿織物業が盛 んとなった。明治以降は外綿を用いるようになり、また、一宮・尾西地域は、第一次世界大戦後に毛織物への転換を図っているが、形を変えたとはいえ、織物業 が、現在でも愛知県の重要な産業の一つであることに間違いはない。
 従来の民俗学においては、機械化以前の座繰製糸や手織機に関しては調査・研究がなされ、資料の蓄積も図られている。しかし、本報告で扱うのは、機械が導 入されてからの状況であり、従来の民俗学が研究対象としてきたものとは異なっている。機械化以後のこれら産業を「民俗」として扱うことには、いろいろな意 見があるだろう。しかし、昭和20年代くらいまで、これら産業を支えた機械の扱いにはかなりの熟練を要し、勘に頼った技術が求められた。そして、その技術 はマニュアル化できるものではなく、口承と実地によって伝えられていた。この点では、従来民俗学で扱ってきた農業や漁業などの生業の技術伝承と同じなので ある。また、いずれの産業も若い女性労働力によって支えられていたが、一般には住み込みのスタイルをとっていたため、寄宿舎内の生活には一定の形式の文化 伝承、すなわち「民俗」が生じる素地があった。もちろん、若い女性がこれらの産業に従事することで農家の経済は潤い、その収入は嫁入り仕度を調えるために 費やされることが多く、これら産業は様々な民俗に影響を及ぼしている。この点だけをもってしても、製糸業、織物業の動向を取り上げることは、民俗学にとっ て意味のあることである。
 本報告ではこのような視点に立って、主として昭和初期から20年代くらいにかけての豊橋の製糸業と尾西の織物業の技術伝承、および女性労働者の生活ぶり について紹介し、技術伝承から見た両者の差、およびそこから生じる雇用慣行の差を考えたい。

1 豊橋地方の製糸業

 豊橋は諏訪や岡谷と並んで、戦前には蚕の町、蚕都と称され、愛知県における製糸業の一大中心地であった。しかし、その歴史についてみると、信州の製糸が 幕末期にまで遡るのに対し、豊橋は明治以降の発展である。もともと、水がなくて十分な作物が作れない渥美半島地域で、生糸輸出の増加に合わせて養蚕が始 まったのがきっかけで、製糸業が根付いている。明治初期の製糸業は、木炭コンロを使用して繭を煮て糸口を出し、この糸を繰り枠に手で巻きとってゆく座繰り が主流であった。やがて、巻きとる動力に蒸気を使う器械製糸が移植され、明治15年に上細谷に開業した細谷製糸が、東海地方の器械製糸の先駆けとされてい る(注1)。日清戦争の頃には器械製糸が座繰製糸を上回り、第一次大戦期には急成長する。大正14年の製糸業要覧によれば、豊橋には84工場、3867釜 があり、このほか、玉糸工場が63、593釜あった(注2)。工場数、釜数ともに愛知県内の市郡ではトップである。女工数は2万5千といい、豊橋の家庭で は、必ず1人か2人は蚕糸関係に携わっていたとされている(注3)。
 豊橋の製糸を特徴づけるのは玉糸である。蚕は、普通は1匹で1つの繭を作るが、まれに2匹がくっついてもつれるようにして一つの繭を作ることがあり、こ れをタママユ(玉繭、ダママユともいう)と呼んでいる。タママユは糸が絡んでいるため、糸を引いてもすぐに切れてしまう。そのため、元は売り物にはなら ず、多くは叩いて伸ばして真綿として利用されていた。ところが、上州の出身で二川に来た小渕しち氏によって、明治の初めに座繰でタママユから糸を引く方法 が開発され、この地方で玉糸製糸が根付くことになった(注4)。タママユの糸は、所々に節ができ、精繭から引いた生糸に対して玉糸と呼ばれた。これで織る と紬のような風合いが出るのが特徴で、昭和初期には全国生産の5〜6割を豊橋で作っていたとされる。
 ここでは、大林製糸の事例を紹介する。大林製糸は、大林宇吉氏が小渕しち氏の協力で、明治21年に開業したもので、同44年に市内花中町に移転して操業 を続けてきた。大正から昭和初期の最盛期には、女工だけで600人を擁し、太平洋戦争中は従業員は50人ほどに減ったが、パラシュートや防弾チョッキの原 料を生産するため操業が続いていた。戦後は玉糸の製糸が盛んとなり、従業員も200人くらいに増えた。特に景気が回復した昭和25年には、50人を新たに 募集して試験で選抜するほどで、蚕都・豊橋の復興を支えたのである。化学繊維の登場は製糸業を徐々に衰退させ、廃業する製糸工場が相次いだが、大林製糸は 最後まで操業を続けた工場の一つであり、機械が止まったのは平成7年6月30日であった。最後は16〜20人くらいの少人数による操業だったという。以下 の事例は大林美枝さん(大正11年生まれ)、白井茂(しげ)さん(昭和3年生まれ)、深井須磨子さん(昭和8年生まれ)からの聞き書きによるものであり、 戦中から戦後にかけての製糸業の様子である。

(1)製糸の技術

糸を引く工程
 生糸と玉糸では糸の引き方が異なり、それぞれの手法を身につける必要があった。以下、特に断りのない場合は、玉糸の製糸技術である。
 大林製糸の工場には様々な部署があり、分業によって仕事がおこなわれていた。仕入れた繭の中には不良なものも混じっているため、撰繭部でこれを選り分け た。繭はあらかじめ煮ることで糸口が出やすくなる。この仕事は煮繭部でおこない、糸を引く繰糸の人に繭を配った。配られた繭はお湯で煮ながらホウキで糸口 を出し、小枠に巻きとってゆく。これが繰糸部の仕事で、製糸業の中心をなすものであった。この後、小枠にとった糸を大枠に巻きとる再繰の仕事を経て、糸は 検査に回され、出荷される。糸を検査するのが糸部であった。

仕入れ
 繭にはタチのよいものと悪いものがある。タチがよいというのは糸がほぐれやすい繭である。繭は季節によってもタチが異なり、春繭は糸口が太 い上、タチがよいので糸目がとれた。タママユであっても、春繭であれば糸がしゅうしゅうとれるものだったという。反対に秋繭は糸口が細いため、たくさんの 繭を集めて糸にする必要があった。糸を引くときは、それぞれの繭のタチを見て引き方を変えなければならなかった。繭を仕入れるときには、試験員が100目 くらいの繭を引いてみて、タチのよさと糸目(糸の量)がどれだけとれるかを調べた。
 繭は、最盛期には田原、渥美から仕入れていたが、戦後、この地域の養蚕が廃れたのを受け、新城、南設楽方面から繭を入れるようになった。韓国産のものも 仕入れたが、日本産に比べれば格外だったという。

煮繭
 撰繭された繭は、目方を量って茶筒を大きくしたような缶(直径20センチくらい)に入れて煮られる。缶には穴のあいた蓋が付いていて、これ を中に押し込んで缶の下に繭を固定し、サナに入れて蒸気が出るトンネルを通した。煮えた繭はコンベアのようなものに載って出て来る。煮繭された繭を出すの は煮繭長の仕事で、温度を見て、煮え具合を点検していた。煮方が足りなければ繭から糸口が出にくくなり、煮過ぎると繭がぶよぶよになってしまう。
 この後、煮繭部の人が煮繭車という押し車に繭を載せ、一日中、繰糸の人のところに配って歩いた。繭を量る仕事、お湯を差す仕事、缶の繭をサナに入れる仕 事、煮繭された繭を出す仕事、配る仕事などは、力仕事でもあるため男の人がやっていた。昔は、20人以上の若い衆が本宅に泊まり込み、工場の仕事に来てい たという。
 繰糸部は、ゼンダイと呼ばれた鍋を煮る台(繰糸台)が2列に並び、この真ん中を煮繭車が通れるようになっていた。繰糸の鍋の中に繭が少なくなっている と、煮繭部の人が繭の入った缶を置き、数を数えるソロバンの玉を繰っていった。

繰糸
 元は繰糸の人が1人で2口の鍋について糸をとっていたが、その後、いろいろ工夫して、3口、4口とれるようになっていった。
 配られた繭は、ある程度柔らかくなっている。タママユは、繰糸台の鍋の中で繭自体が3分浮き、7分沈むくらいの加減になっていれば糸をとりやすかった。 繭を煮る鍋の湯の温度は一定だったが、煮繭された繭があまりこわいと(硬いと)糸がとれないので、繰糸の人が蒸気ガランのコックを開き、温度を上げた。反 対にぶよぶよであっても糸はとれず、全体が沈むような繭の場合は、水に入れて冷やして軽く絞り、また鍋に入れて糸をとった。
 タママユは、糸をとっているうちにすぐに切れるため、タママユだけで糸をとるのは大変であった。このため、精繭を3割くらい入れた。精繭は途中で切れる ことなく、最後までからからと糸がとれた。

繰糸の手順
 鍋に入れた繭を20センチくらいの箸で真ん中に寄せると、初めにケバが出てくる。これを手で手繰り、すぐりながら鍋の反対側のテクズカケに かけた。
 絹糸の太さはデニル(デニール)という単位で表し、繭からケバみたいに出ているのが3デニルである。出来上がりの糸の太さで「60中」というのが玉糸の 場合の標準の太さだった。「60中」の太さの糸の場合、タママユと精繭を合わせ、12ツボ(粒)分くらいを揃えて1本の糸にするのが普通である。終戦後は 輸出ばかりとなり、「110」〜「225中」という、絨毯にする太いものをとっていた。
 最初の糸は、棒ですぐって12,3粒分の糸端を持ってきてツヅミにかける。ツヅミは回転することで糸にヨリをかけるもので、ここを経て糸が上に上がり、 小枠に巻かれていった。この時、アヤフリが動いて、枠に均一に糸が巻き取られるようになっていた。この後は、糸が走っているところにホウキを使って糸口を 付けてゆく。

糸をとる技術
 糸をとるには熟練した技術が必要であった。繭から糸口を出して、それらを合わせて1本にするとどの太さの糸になるかということを考えながら 糸をとってゆく。糸にする繭の数が途中で変わるようであれば、糸に太い細いが生じてしまうので、いつも同じ粒の数で糸が引けているように調節しなければな らない。糸を巻き取る小枠は動力で回転し、足で下駄を踏んで速度を調整した。繭に残る糸がなくなりかければ小枠の回転をゆっくりにして、煮ている繭を寄せ 板でよけておき、空いた場所に缶から新しい繭を入れた。そして、前の繭の糸がなくなるのに間に合うように、次をすぐりながら糸をつけてやる。手を使い、足 を使うのが繰糸の仕事であった。
 鍋の中の繭を上げるタイミングも難しかった。早くから鍋の外に上げてしまうと目(糸目=量)がとれないので、蛹を薄紙くらいに繭が包んでいる程度(薄く なって蛹が見えるくらい)になってから拾い出した。このため、常に鍋の中の繭の状態に注意していなくてはならない。
 手早さは、繰糸にもっとも要求されたものである。タママユは普通でも切れるものであり、手が遅くて煮すぎてしまうとよけいに切れてしまった。このため、 手早くとることでよい糸になったのであり、腕が悪くて遅い人はよい糸がとれなかった。手が早くて、新しい繭をどんどん鍋に入れるようであれば糸は切れない が、それには、両手で「鍋整理」がきちんとできないとだめであった。「110」の糸になるとたくさんの粒の糸をつけるので、拾い出しと繭を入れるのとでた いへん忙しかった。
 煮すぎて「とろけさせた」繭、傷ませてしまった繭をアガリ繭といい、こうなると、糸口が5本も6本も「だーだーとついてくる」ので、太くて汚い糸にな る。時間がかかるとどんどん切れるようになるので、手が遅くていつまでも繭を煮ていたりすると、ベテランの教婦さん(操糸の指導者)が手伝ってくれた。
 このように、繰糸には一定の数の繭から糸が引けるよう、小枠の速度を調節して糸をつける技術、繭を上げるタイミング、煮えすぎないような手早さが要求さ れた。それは工場や先輩からの指導を受けながら、結局は実地で身につけるしかないものだった。後述するように、このような技術を持った女工さんの引く糸は 質・量ともに優れていて、その報酬にも格別のものがあった。
 一般に機械化の進展は、このような個人的技術の有無による生産量や品質の格差を少なくする。繰糸は後には機械どりになり、一人で6口までとれるように なった。機械どりだとタチの悪い繭でも糸をとることができ、機械についたホウキが糸口をとるので、これに間に合わせるようにして繭を入れればよくなった。

ホウキ
 鍋に浮かしたタママユから糸口をとるときは、ホウキを使った。ホウキの使い方が乱暴だと繭が傷むことになる。そのため、初めて繰糸の仕事に 就く際には、ホウキ使いをみっちりと習うことになった。昔はモロコシホウキといって、紫色の実が生るモロコシの穂を使った。根を残して実をとるが、この時 は先を歯で噛んで少しだけ残すようにしておいた。そうしてとがった先で繭をそーっとなぜると、糸口がついてきた。これは江比間で専門に作っていて、1カ月 に5本くらいが工場から支給された。 その後、モロコシホウキの先にホウキ草(工場ではホウキ草といっていたが、標準和名はわからない)を20本くらい束 ねて縛り付け、ちょうど筆のようにして糸口をとるようになった。実を取った穂のところにぎざぎざの部分が残り、これが糸口を取るのによかったのである。ホ ウキ草は、田の裏作で作る麦の合間に生える野生の草で、麦を刈った頃に実が色んだ。まだ青いものは「実がこけない(実がとれない)」し、赤らむと使えな かった。この筆の先は、開いてくると他の繭を傷つけることになるし、つぼんでいると糸口の付きが悪かった。このため、歯で噛んで先の具合を調節した。ホウ キ草は1日でだめになることもあったし、3日も使う人もいて、どれだけもつかはまちまちであった。
 ホウキ草は、働いている人たちが、それぞれ自分用のものを準備した。穂が出たちょうど頃合のものは、年に5〜6日間しか採れず、麦を刈ってから田植え前 の田起こしまでに採取した。痩せたところでは10センチくらいの丈で、肥えたところでは50センチくらいになる。長さとしては30センチほどのものがよ く、3〜5つに切って使った。長い方が実がたくさん付いているが、あまり長いものは硬くてだめだった。ホウキ草が出る初夏になると、工場を休みにしてみん なで1年分を採りに行き、干して使った。採った草は紐で縛り、部屋の廊下で実をこいだ(とった)が、この作業では手ががさがさになった。束ねてレンにつな ぎ、部屋の中に陰干しした。日が当たるとぼろぼろになってしまうので注意が必要だった。
 そのうち、工場の周辺の田ではホウキ草を採り尽くしてしまい、白井さんは、草取り休みの時に西尾のシンセキに泊まり込みで採りに行ったこともあるとい う。また、朝鮮の人がホウキ草を採る内職をしていて、あっちこっちの製糸工場に売りに来ていた。

生糸
 大林製糸では、玉糸の他、精繭から生糸もとっていたが、玉糸をとるタママユと生糸をとる精繭では、鍋に入れる繭の状態が異なっていた。精繭 は蒸してから水に入れて冷たくし、桶に入れたものが配られた。精繭は鍋に沈むので、これを稲の穂を束ねたものでなぜて糸をとった。穂は米粒を取った後のも のを人差し指くらいの太さにしたもので、これを2本使って沈んでいる繭をかためて糸口を出し、手ですぐって、一粒ずつ糸をつけた。糸口がかたまるところに は、12,3粒分の糸が通る皿があり、ここで糸が撚られ、上の枠に巻かれていった。

成績
 製糸工場では、それぞれの女工さんの成績によって賃金が違ったことはよく知られている。この成績は、どんな等級の糸をとったか(とった糸の 品質)、どれだけのマスをとったか(とった糸の絶対量)、1缶5合のワタシ目で、どれだけ糸目が出たか(繭からどれだけ無駄なく糸をとったか)によって決 まった。マスもとって糸目もとり、品位もよければ最良である。
 ワタシ目というのは、缶で入れた繭の量のことで、缶2つの繭が小枠一つ分であり、1升になる。缶から繭を入れるたびに繰糸台のところにある数取りに玉を 置き、鍋にどれだけの繭が入ったかをカウントした。この数は、ベテランの人が教婦さんとして1時間ごとに見廻り、帳面につけていった。
 糸目はワタシ目に対して引けた糸の量で、クズ(アガリ繭)を出さなければたくさんとれたことになった。また、まだ糸がとれる繭を途中で鍋から捨ててしま えば、マスはとっても糸目が出ないことになる。
 糸の検査は糸部(糸場)でおこない、再繰で大枠にとった糸を、黒い布の上で広げて検査した。濡れている間はわからない悪い箇所も、乾けば一目でわかっ た。糸部での検査対象は、糸目と等級である。ここでは、ワタシ目で缶8杯、4升分を秤にあげ、これでどれだけ糸目があるかを見た。
 等級には「上」「中」「下」「格外」の区別があった。引いた糸にはその人の番号が紙縒りでつけてあるので、これを検査して読み上げ、その向かい側にいる 人が目帳につけていった。糸は同じ太さでとられていればよいが、下手であれば太い細いができる。いいものは節がなく、きれいでピカピカしていて、つやがよ くてムラがない。これは煮た繭の取り上げが早いかどうかにかかっていて、遅ければ、鍋のアクで糸の色が悪くなった。また、糸の鮮度がよいと(手早くあげる と)、切れないで大枠にもよくあがった。
 等級が「下」になったものは、その理由として印をつけて示した。「フシ」はタママユの破れから生じた節が大きなもので、「・」で示した。「ズル」は糸に 繭のケバが一緒について来たもので、糸の本口がきちんと出ないまま、引いたものである。また、繭が煮えすぎてとろけてしまってもズルが出てきた。ズルは 「−」で示した。長いものでは1メートルもズルがついてくることがあって「大ズル」といい、「−」の上に「大」の字を記した。「キレハシ」は糸が切れ、つ ないだ跡が長いもので、楕円の「○」に斜め左上から右下に斜線を入れた印だった。糸部では検査の他、ズルを取り、いい糸につなぎなおす作業もした。糸を歯 で切ってつないだので、歯が減ってしまったものだという。
 等級では「中」を標準とし、「上」なら点数がプラスされ、「下」ではマイナスとなる。1升1点とすれば、「上」なら5分のプラスがあった。「格外」をと ると、糸をとらなかったのと同じ扱いで、糸を20升とったとしても、ここから格外の分を差し引かれた。
 また、工場の平均の糸目が出るので、これよりも多いか少ないかでも点数がつき、これより多ければプラスされ、糸目が切れれば(平均以下であれば)引かれ ることになった。このため、「みんな競争で頑張ったものである」という。毎日の成績は目帳に記され、これを1カ月トータルして長い紙に書き、「総試験」と いって貼り出された。

荷造りと検査場
 玉糸は結束箱という箱に、大枠で24本を入れた。竹箸で枠の糸の両側を広げて綿糸で縛り、箱に2列に入れ、これを12段重ねて押し板で押 し、爪をかって縛った。上に、金象印の商標を貼った。商標は、糸の等級によって種類が違った。生糸の場合は糸ネジさんがねじって頭を揃え、結束箱に入れ た。
 輸出のものは横浜、国内向けは豊橋の検査場に持っていった。豊橋の検査場へは、戦後は荷造りをする人が来て、リヤカーで5行李くらいを出した。検査場で は抜き取り検査をし、デニル(デニール)がきちんと調べられた。

(2)工場の生活

女工さんの出身地
 大林製糸で働く女工さんは、豊橋、渥美の他、静岡県の富士の方からもたくさん来ていた。後には鳳来町海老など、山の方からも人が来た。工場 では全員が寮に入り、地区ごとに部屋を与えられて寄宿していた。

工場の一日
 昭和20年代の工場では、午前7時30分から午後5時までが就業時間で、途中、12時から40分間の昼休み、10時と3時に10分間ずつの 休憩があった。労働時間は8時間30分となる。仕事の途中でトイレに行くと、その間に繭が「とろける」ことになるため、休憩の時は、みんなでトイレに走っ たという。
 寮は2つあり、「愛」と「誠」という名称が付けられていた。いずれも2階建てで、20畳くらいの部屋に7〜8人が居住していた。出身地別に部屋割りされ たため、富士から来た人たちは互いに別れたくないと言って、一つの部屋にぎっしり詰まっていたという。女工さんの荷物は着物と帳面、櫛、履物程度で、柳行 李一つくらいであったため、押入の段の上にしまっておいた。「愛」の押入は共用だったが、「誠」は個人ごとに戸棚があった。
 布団は会社から支給され、「誠」ではそれぞれの戸棚にしまい、「愛」では1間の押入に順に積んでいった。布団は早く起きた人から上げていった。天気のい い日を見て、廊下の窓に布団を干したが、場所が狭いので、2人くらいずつ交代で干さなければならなかった。
 朝食は7時からで、味噌汁とタクワンだけだったが、ご飯はお鉢から好きなだけよそって食べられた。ご飯は押麦の入った麦飯だった。昼や夜は魚、揚げ物な どがおかずに出た。漬け物は飯台に一つ盛りで、一人2切れ分くらいだった。戦時中は食糧事情が悪くなり、ご飯も目方で丼一杯ずつになり、昭和19年頃から は千切り大根の雑炊になった。昭和24年頃でも食事には苦労したが、ご飯は白米が食べられたといい、概して恵まれていたと言える。
 製糸の仕事は蒸気で身体が濡れるため、仕事が終わるとすぐに風呂に入った。繭を煮る臭いが身体につくため、「製糸工場の人はすぐにわかる」と言われてい た。また、普段、外に出ることがないため、紫外線を浴びる部屋が作られ、風呂の後、全員交代で10分くらいずつ入ることになっていた。眼鏡をかけ、上半身 裸で肩に手拭いくらいをかけて入った。中では立っていたが、雑誌を読んだり編み物をしている人もいたという。
 風呂の後、夕食を食べ、それから夜学があった。専門に教えに来る人がいて、算盤、修身、習字、洋裁、和裁、お作法などを講堂で教えていた。
 自分の部屋は自分たちで掃除をしたが、寮の共同の場所(風呂、トイレ、洗面所、廊下)の掃除は当番制で、掃除当番の札がまわってきた。当番になったら 「今日は大廊下の掃除だよ」などといって、朝か夕方(夕方の方が一般的だった)に掃除をした。

休みと給料
 戦前は1日、15日が休みで、洗濯をして、町に行って買い物をするくらいが楽しみだった。昭和24年の頃には日曜休みに変わり、映画などを 見に行った。
 長期休暇は正月と盆の2回で、半年分の給料をもらうとともに、故郷に帰る機会であった。大晦日は昼前まで仕事をし、ご祝儀をもらって帰った。この時に は、銘仙などの反物を1反ずつもらえたという。また、賞与として、戦前でも若干の現金がもらえ、精算書の下に記されていた。正月明けは三が日過ぎて仕事が 始まるが、日柄を見て、大安などのよい日から操業したので5日か6日になった。旧盆は「13日に仏さんと帰るな」と言っていたが、実際にはこの日に里帰り することが多かった。盆の時は浴衣地をもらい、4〜5日間休んだ。
 給料は成績によって差がある。昭和16年、高等科1年を出てすぐに就職した白井さんの場合、初めて盆に帰るときには88円の給料がもらえたという。 13,4歳の少女が稼ぐ金額としては破格と言えるだろう。戦後になると、日給分を月末に精算してくれ、精算書がもらえた。普段はお金は事務所に預けてお き、必要分だけを申し出て経理の人からもらうようになっていた。
 普段、工場で小遣いがもらえるようなことはなく、家からもらったお金で生活をしていた。戦前、白井さんは家から小遣いを5円もらってきたが、これで半年 は生活ができたという。買うものといっても20銭のちり紙くらいで、夕方から開く工場内の売店で買うか、休みの日に小田原町の「江戸ちり」で買ってきた。

年中行事と福利厚生
 製糸工場特有の行事というものは特に見られず、合間に行事食が出された程度である。節分の時は豆を撒いてくれた。町内の氏神・中郷神社の祭 り(4月15,16日。現在は日曜日)は工場が一日休みになり、お参りに行ったりした。5月の節供にはおカシワが2つくらい出たし、エビス講の時はミカン の他、ご馳走が出た。また、イノコの時は、イノコのボタモチとして黄粉と餡のものが、大きな丼に二つ出た。
 大林製糸は、福利厚生に力を入れていたことで知られている。11月15日は、初代社長が天皇陛下に単独拝謁がかなった日で、これを記念して工場記念日に なっていた。この日は、出身地ごとに女工さんたちが講堂で演劇を発表し、家族や近所の人、取引先の人たちを招待し、ご馳走も出された。演劇の練習は、他の 人に知られないよう、夜にみんなでおこなった。
 秋には、市営グランドで製糸工場合同の運動会があり、工場対抗のリレーなどがあった。戦後は陸上部や野球部など、工場内でクラブ活動も組織された。
 慰安旅行として、春は日帰りで犬山や三ヶ根山、舘山寺などに行き、秋は泊まりがけで熱海、三谷などの温泉に行った。

結婚退職
 結婚時に、工場からお祝いを贈るような決まった取り決めはなかったようである。戦後、ガチャ万と呼ばれた時代には、「蒲郡の機屋に行けば、 嫁入り道具にタンスや反物を何反もくれる」という噂があり、製糸よりも機屋に働きに行く人も多かったらしい。


2 尾西地方の織物業

 尾西地方の織物業は、すでに江戸期において、一部にマニュファクチュア経営がおこなわれていたことでよく知られている。当時の主産品は結城縞、桟留縞な どの縞木綿であり、幕末期の開港後も、輸入綿糸の導入によって生産が継続された。しかし、バッタン機の導入が明治20年代、手織機の足踏み式への改良が明 治40年代とされることや、広範な出機の存在など、尾西地方の織物業は、手工業的な巧緻な製品が生産される反面、資本主義的な経営への転換が遅かったこと が指摘されている。これは、白木綿を生産し、大工場の製品と競合することになった知多郡で、力織機への移行が急速におこなわれたのとは好対照となってい る。大正2年の、全織機中の力織機の使用状況は、中島郡が6.6%であったのに対し、知多郡は97.6%となっている(注5)。
 第一次世界大戦による毛織物輸入の減少は、国内の毛織物需要の高揚をもたらした。尾西地方では、この間、綿織物から毛織物生産への転換を図っている。当 初は着尺セルの生産に始まり、昭和初期には洋服用セルが主流となり、広巾を織る力織機も普及した。セル地は縞柄を特色とし、縞木綿産地としての尾西地方の 伝統技術を生かすことができたのも、毛織物への転換を容易にしたことが指摘されている(注6)。織機も国産化が進み、昭和9年の尾西織物同業組合員使用の 四巾織機では、半数が平岩、大隈、豊田などの国産織機が7〜8割を占めている。しかし、中島郡の場合、一工場あたりの織機の数でいえば、10台以上、50 台未満の工場が全体の50〜60%の織機を使用しており、比較的零細な工場が多かった(注7)。
 機械化後の織物業は、製糸業に比べれば技術の伝承量自体は多くない。注目すべきは、出機に見られる近世以来の問屋制家内工業のシステムや、工場生産がお こなわれてからも続いた家内工業的な分業のあり方であろう。しかし、かつての力織機の扱いは、現在のものに比べればはるかに繊細さが要求され、一種の技術 伝承が存在したことは確かである。ここでは、木曽川町玉ノ井の岩田猛男さん(大正12年生まれ)、葛谷時廣さん(昭和3年生まれ)、岩田道一さん(大正 14年生まれ)、および尾西市鞆江の吉田きよ子さん(大正4年生まれ)からの聞き書きを中心に、昭和初期から戦後にかけての、機械化後の機織りについて報 告する。

(1)機屋の経営

大規模な機屋
 尾西市起は大規模経営の機屋が建ち並んだ地域である。ここでは、近在の娘は一定年齢になればほとんどが機屋に奉公したという。女の子は、小 学生のうちから学校の帰りに機屋に行き、3時から6時か7時頃まで、かせ繰りで稼いだりしていた。
 吉田さんが昭和3年頃、13歳で奉公した田内工場は、100人くらいの人を使う大きな工場で、九州や秋田などからも、小学校をおりて、あるいは高等科を 卒業してから10人〜15人で集団で働きに来ていた。地元の女工さんは3分の1くらいいたが、機屋の仕事は「時間があってないような」ものなので、通って いては間に合わず、近所の者であっても住み込みで奉公していた。
 入りたての子の仕事は下前といい、織るための準備をした。機械が動いている間はそのそばについて仕事を教えてもらい、半年もすれば織機につけるように なった。
 昭和初期の工場では、まだ年季奉公の形態をとることもあった。年齢は、上は21歳までで、男の人は検査の時までだった。戦前は、「飴玉をもらって小学校 1年生で連れてこられ、21歳まで機屋に売られた子もいた」という。年季期間は給料の支給はなかったが、ボーナスに当たるセイボウはもらうことができた。 もちろんネンが明ければ、盆正月に給料がもらえるようになった。

零細な機屋
 尾西地方の機屋は、このように大勢の女工さんを住み込ませた大工場から、数台のハタゴで小規模におこなう家内工業的なものまで様々であっ た。比較的大資本を必要とした器械製糸に比べると、一般農家でも力織機を導入すれば機屋経営が可能であったためで、零細業者が多かったことは一つの特徴で もある。夫婦だけでやっているような機屋(ハタゴが2台くらいのところ)では、女工さんを使わなくてもよいため、女の子が生まれると喜んだものという。
 木曽川町玉ノ井は、小規模な機屋が軒を並べたところであり、多くは終戦後、ハタゴを入れて経営するようになったものである。大正時代は、百姓屋の娘に内 職で綿布を織らせる出機が主流で、「当時は、寺と警察以外はどこでも機を織っていた」という。玉ノ井には、一宮の三八市で糸を仕入れる業者があり、ここか ら糸を買って機を経て、織れるばかりにして自転車で内職先に持っていった。出機は半期勘定であり、その間に値段が暴落すれば大損となり、反対に高騰すれば 大儲けができる。その点、「機屋は勝負事」であったという。
 ハタゴを入れて機屋を経営するようになると、部屋を改造して女工さんを住み込ませて働かせるようになる。ちょっとしたところで5〜6人、大きいところは 10人くらいを使っていた。女の子は個人でシンセキなどの手ヅルを頼って探してくることもあったし、小学校を卒業したばかりで、九州や東北から働きに来る 人もあった。戦前は、やはり年季奉公の制度をとることがあり、昭和14,5年頃で、近在の女工さんは5年で200円だったという。これに対し、東北などか ら来る人の場合、5年で150円とするなど、いわゆる足元を見る場合もあった。「年季が明けてクニへ帰ると、途中で吉原に売られてしまうといって、戻りた くないといっている人もあった」といい、口減らしで出稼ぎに来る人は多かったのである。
 年季奉公の間は給金はなく、小遣いがもらえるだけであった。それも女の子にはなく、男子だけが休みの時に25銭もらえた。セイボウは今で言うボーナスで あり、盆と正月に支給された。きちんと働いてネンが明ければ、女の子であれば嫁入り支度として箪笥がもらえた。男も紋付羽織、袴がもらえ、箪笥をもらうこ ともあった。奉公中は食べるものはただであったが、待遇が悪いところはオカユゾウスイばかりであり、いいところでも外米の食事だったという。
 戦後になると、女工さんは中学校を出てから住み込みで働きに来て、結婚するまで働いていた。織機一台につき、織り子が1人と下前という準備の者がつき、 昭和30年から35,6年にかけての儲かった時期は、織機一台が月に7〜10万円を稼いだ。織物業は、織るものによって価格差が大きい。ウチコミ1本がい くらと計算し、1インチで何本打ち込めるかで差が出てくる。一般には女物は安く、紳士物は8〜10万と高くなる。婦人物でも、ウチコミが少なくて能率の上 がるものはよかった。この時期でも女工さんの給料は安く、下前で3000円くらい、織り子で5000円くらいであった。盆と正月のセイボウは1万円くらい が支給された。
 小規模な機屋では、繊維産業が衰退する昭和40年代以降、家内工業の色彩を強め、女工さんを置くところは少なくなっていった。

(2)機織りの技術

織物を織る工程
 大規模な機屋では、経糸を準備するかせ繰り、緯糸を巻く管巻き、経糸をオサに通すオササシなどは、下前という雑用係の若い子がおこなった。 この後、糸をハタゴにかけ、織り子が織機で織ってゆく。織れた反物は、縞掃除といって糸抜けがないか点検し、セイリ屋で蒸してから縞屋に渡り、洋服屋の小 売りに流れていった。

織る前の準備
 糸は茶染め屋から1マル、2マルの単位(ねじったもの)で持って来た。経糸にする糸はかせに巻きとり、このかせ繰りの仕事は下前がおこなっ た。かせ繰りは、一度にいくつものかせを用意しておこない、1巻やっていくらと計算された。一方、緯糸は管に一つずつ巻きとって準備した。
 かせ繰りの後、整経して柄を作るが、これは男の人の仕事だった。整経された糸は、下前がオサに通す(オササシ)。オササシは2人でおこない、糸分けをし てヘトオシ(糸を穴に通すこと)をする。この後、ハタゴに50〜100反分の経糸をかけ、チキリで巻いた。織りかけの経糸に糸を接ぐ場合をタテツギとい い、チキリに巻いてある糸をオサの手前でつないだ。この仕事は1本間違ってもたいへんなことになるため、機を織る女工さんが自分でおこなった。

機織り仕事
 給金は織った反物の値段と数で決まり、高いものを織ればその分、高くなった。織り機には10、11というように番号がついていて、何番には 何をかけるというように、女工さんが織るものは機屋の主人が決めていた。女工さんの腕がよければ、いいものをかけてくれることになる。新米のうちはハタゴ 1台に1人がついて織ったが、普通は1人で2台を受け持った。10年もいるようなベテランになれば4台のハタゴを持つことになり、それだけ生産量は伸びる ことになる。10反分の長さが織れるとそこで切り、これを1本として出来高の単位になった。織り易ければ1日1本は折れたが、難しければ半分は次の日に回 すことになった。ハタゴにかけた経糸は1週間くらいはもった。
 力織機での機織り仕事は、一見機械任せのように思われるが、実際には運転のかけ方で機械の動きが違ってくるもので、その微妙な加減で上手下手が決まっ た。機械には運転棒がついていて、これを入れると機械が動くが、上手にスタートをかけないと糸が切れることになった。棒を半分引くと機械はゆっくり動き、 これで速さを調節し、その加減は自分自分で覚えてゆくものだった。遅いと織れる量は少なくなるし、速ければ糸が切れる恐れがあった。上手に扱う人の場合は 機械が狂わないといい、狂えば糸が切れ、機械を止めることになるので、その分だけ織る量が減ってしまった。狂ってしまった機械を直すのがテナオシの仕事 で、これは男の人の仕事だった。
 普通は糸は切れないはずのものであるが、何かの拍子で切れることはよくあった。例えば、かせ繰りの時、糸が切れたところはつないで結び目ができている が、この時の結び方がハタ結びだとよいが、トンボ結びだと隣の糸に引っかかって糸が切れた。状況により、機械を止めてばかりのこともあれば、一日全く止め ないこともあり、機械との駆け引きが必要だった。
 織る品物によって機械の扱いも変わった。ウールの大きなものなどは機械を止めないで織ることができるので、朝から始めれば晩には1本織れてしまう。袴地 などは糸が切れやすいので、頻繁に機械を止めて糸をつながなくてはならなかった。
 たくさんの糸が切れて、つないでもきれいな縞にならないものをキズ反といい、これは売り物にはならなかった。キズ反を作っても給金から引かれることはな く、主人が損害分を持ってくれたが、たくさんキズ反を出すとクビになってしまった。赤糸、白糸と交互に緯糸が出て行くべきところを、一緒にサス(杼)が出 てぶつかってしまうと糸が切れた。こういうものをサスクイといい、切れたところを結ぶとキズ反になってしまう。オサの向こうのカザリのところで経糸がご ちゃごちゃになり、ここにサスが通ってもキズになった。
 力織機のメーカーには豊田、大隈、平岩などがあったが、使い方はそれぞれで異なっていた。運転棒を操作して動かすものを「棒運転」といい、機械を止める ためにはそばについていないといけない。この後、ハタゴ一杯の長い棒を使って操作する「横運転」の機械が入り、これは機械から離れていてもよかった。

男女の分業
 工場の中では、機織りと縞掃除は女性、整経とテナオシは男性というように役割分担がおこなわれていて、夫婦で経営するような小さな機屋の場 合でも、だいたいはこのような分業形態がとられていたという。100人の女工さんがいる工場では、男の人は10人くらいの割合だった。男の人も、下っ端で 入って、だんだんとテナオシの仕事を教えてもらい、覚えてゆくものだった。女工さんと同じく寄宿で生活していたが、女工さんのように途中で退職することは なく、一生働き、甲斐性があれば独立して自分で機屋を始めていった。また、男の人の給料はセイブン(出来高払い)ではなく、テナオシの仕事はたくさんもら えたという。

縞掃除と糸抜け
 織れた反物を点検するのが縞掃除の仕事である。力織機は、緯糸が切れれば止まるが、経糸が切れてもそのまま縫っていってしまった。トラブル があっても機械が止まらず、そのまま織っていってしまうため、糸が切れたところは糸抜けとなり、反物にキズがついてしまう。縞掃除は、電気を下から当てて 糸抜けのところを見つけてゆき、その箇所にエフを付けて織り子に返した。このための部屋が別にあり、縞掃除専門の人が3〜4台の作業台で点検していった。 長い糸抜けは経糸タテが多かった。緯糸は切れれば機械が止まるので、たまにはあっても長くは切れない。
 糸抜けの箇所は、織り子が細い糸を使って縫って直した。これは夜の仕事で、長い糸抜けを作ってしまうと朝までかかってしまい、そのまま寝てしまったりと いうこともあった。糸抜けを直すときは、友達同士でおしゃべりをしながらの仕事となり、工場で、この時にレコードをかけてくれたりということもあった。糸 抜けを作ると後がたいへんなので、織機をきちんと見張ってなければならなかったが、一人で2台くらいを持っているため、なかなか難しかったという。
 反物によっては、糸抜けが気にならないものもあった。アムゼンのようなものは24枚のカザリを使うので、糸が切れてもわからなかったし、糸が綾になって いるものは少しくらい糸抜けがあっても平気だった。これに対し、平地のものはすぐにわかってしまった。

シュウセイ屋
 縞掃除は、もともとは機屋の中でおこなっていたが、そのうち、それだけを仕事にするシュウセイ屋(縞掃除屋)に出し、糸抜けを見つけて縫っ てもらうようになった。シュウセイ屋では、初めはボツ(糸をつないだところの結び目)から出ているヒゲを切るだけの仕事だったが、少しすると、ボツを切っ て布の端のトモ糸を取り、これで糸抜けを縫うようになった。機屋から来る反物1本は10反分であるが、これを何本直したかでお金になった。手繰って糸抜け を見つけるだけであれば、30分もあればできるが、あとはどれだけ切れているかで手間が異なった。

給料とオセイボウ
 機屋の女工さんは、その人の腕によって給料が違い、これをセイブンといった。働いただけのお金をもらうことであり、毎日仕事が済むと、壁に 貼ってある紙に織った数を書いていった。紙には女工さんの名前が並び、その日の欄に数字を書いておくと、これを番頭が帳面に付けていった。
 給料はオセイボウと一緒に半年に1回、盆正月もらうだけであり、普段は小遣いもなかった。吉田さんによれば、20歳の頃(昭和15年頃)で半期170円 くらいだったという。下駄が12銭の頃である。もっとも、一反織っていくらであるので、給料は人によってばらつきがある。一番の人は一等工女と称され、特 別にお金がもらえたという。成績が貼り出されることはなく、給料の時の明細で判明するが、これは「通信簿みたいなもの」であり、互いに秘密にしていること が多かったという。
 オセイボウは今でいうボーナスであるが、女工さんの場合は現物支給されることがあった。反物であれば5〜7反くらいもらうが、腕のよさによってもらう品 物も違っていた。普通は木綿のところを、腕がよければ銘仙や大島などになった。キズ反を出せば、オセイボウが減らされることになる。毎回のオセイボウの反 物をとっておけば、仕立てて嫁入り道具にするのに都合がよかった。また、1年働けば、箪笥や鏡台など嫁入り道具にするものが支給された。実際には、その時 には証明の紙をもらうだけで、嫁入りが決まってから現物を支給された(注8)。

(3)工場の生活

工場の一日
 大きな機屋には、女工さんのための寄宿舎があった。機屋は製糸とは異なり、一斉に機械を動かす必要がない。織り子も織っただけが収入になる ため、「人が寝ているうちでも、我先に機を織っていた」という。住み込みの女工さんは、朝も早く起きて少しでもたくさん布が織れるように働いたのである。 戦前でも工場法の規定があって、長時間労働は禁止されていたため、巡視があるときは遅くから働くようにしていたという。
 女工さんのために炊事に来る女中さんも2〜3人いた。朝ご飯は8時くらいで、仕事をしていて呼ばれるとみんなで食堂に食べにいった。朝を食べるとまたす ぐに仕事になり、昼には1時間の休憩があった。夜は6〜7時には終わりになる。
 ご飯は麦2、米8くらいであれば上等で、どうかすると半々ということもあったという。おかずには野菜の煮物などがついた。ゾウスイにするとカサが増える ので、前夜の味噌汁が残っていれば、朝はゾウスイのことが多かった。
 寄宿舎には大きな風呂もあり、10人くらいずつ入ることができた。風呂から出ると洗濯をして、夜、干した。洗濯は朝起きてやっている子もいた。寝るとこ ろは大広間のようなところで、真ん中を通路にあけて各自で布団を敷いた。

機屋の休み
 休みは1ヶ月に2回くらいで、近在であれば、この時に実家に戻った。寄宿では食べるものが悪いので、実家では団子を作ってもらったりし、も らって帰ってくると仲間におすそ分けをした。イモをもらってきたりもした。
 盆正月には長い休みがあり、遠くの人でもこの時は里帰りをした。給料とオセイボウをもらうので、楽しみな時であった。正月は旧正月を採用し、旧暦12月 30日に荷物を持って家に帰った。短くても10日間くらいは休みで、中には1月24日のお地蔵様まで休む人もいた。

年中行事
 初午の行事は工場ではやらず、稲荷も祭っていなかったという。春秋には工場の旅行があり、汽車に乗って一晩泊りで伊勢に行った。
 盛大なのは旧暦10月のエビスコで、商売のお祝いであった。工場の主人が縞屋さんや糸屋さんを招待し、ご馳走を食べた。また、女工さんにも反物を1反ず つくれたりした。

3 製糸と織物業の差異

仕事の質的差異
 以上、器械製糸と力織機による織物業について、その仕事のあり方について述べてきた。ここで取り上げたのは、それぞれの産業の一部の工場の 事例である。軽工業の分野では、それぞれの工場の方針や規模、時代による差が大きく、この事例だけで両産業について一般化することは当然ながら無理があ る。ここでは、今後の研究の発展のため、これらの産業を「民俗」として取り上げる際の視点のいくつかを指摘するに留めておきたい。
 まず、両者ともに若い女工労働力に支えられた軽工業であり、出来高払いを基本とした給料の制度や、住み込みの業務形態などに、多くの共通点が見出され る。また、その技術は、職人同様、口承によって伝えられ、実地に体得してゆくものであった点も相通じている。ただ、出来高払いの元となる成績の基準を比較 し、女工たちにどのような仕事が求められていたのかを対照させると、この二つの業種の労働には質的な違いが認められるように思われる。
 製糸の場合、成績の基準となるものはマス、糸目、等級の3つである。マスは生産量であるが、糸目はいかに無駄を省いたか、等級は品質に関わるものであ り、この2つの基準によって成績に加減が加えられていた。製糸の場合、量はある程度要求されても、質が伴うことが絶対条件であった。そのため、製糸女工 は、総試験というような成績公表制度によって腕のよさを競わされたのである。また、器械製糸では、窯に石炭がくべられ、蒸気が出ているときだけが仕事の時 間であるため、生産量はこの一定時間内にのみ確保しなければならなかった。時間制限があり、質的な競争を迫られるところに製糸の難しさがあり、その分、女 工の技量の格差が大きかったのである。
 一方、本稿で取り上げた織物業における成績の基準は、生産量と織布の種類である。キズ反を出した場合でも、オセイボウは減らされても給料とは無関係で あった。そして、織布の種類は主人が決めるため、競争になるのは主に生産量ということになる。したがって、「人が寝ているうちでも、我先に機を織ってい た」のである。糸抜けを作ってしまった場合でも、夜なべで縫えば補いができるため、常に手早さが求められてやり直しがきかない製糸に比べれば、技術的な未 熟さはある程度の根気によってカバーすることができたと言える。
 このようなことから、仕事の中身を個人的な技量の差によって成績が左右される「職人」的な仕事と、普通の人であればある程度こなしてゆける一般の「労働 者」的な仕事に分けるとすれば、ここで調査対象とした製糸業は前者、織物業は後者の色彩が強いのである。もっとも、これは機械化の度合いの差でもあり、製 糸の場合でも、後に機械どりがおこなわれるようになれば、仕事をする者にかつてのような練度は要求されず、より「労働者」的な仕事に近づいてゆく。

雇用形態の民俗慣行
 器械製糸も力織機による織物業も、明治以降に登場した新しい生産様式であるが、このようなものがスタートする際、従来からある雇用の民俗慣 行を踏襲してゆくことは充分考えられる。住み込み制や半期払いの給料の制度、オセイボウと呼ばれる賞与の制度は、いずれも、近世以来の伝統を持つ、商店の 従業員や職人の徒弟の場合に見られた雇用慣行である。このようなものが、軽工業の雇用に応用されているのである。
 反面、商家や職人には顕著な、生業に関わる年中行事的な民俗慣行は、寄宿生活の中にはあまり反映していない。そのような行事は工場を営む主人一家がおこ なう、商家で言えば「奥」の行事として展開したかも知れないが、「工場」では儀礼食の提供程度にしかおこなわれていない。むしろ、「工場」のハレの行事 は、民俗的色彩の乏しい旅行や慰安会の形をとっておこなわれているのであり、これは、寄宿生活を営む人たちの出身地がまちまちなことと合わせ、その構成者 が若い女性に限られていたことが背景にあると考えられる。
 雇用慣行の点で留意したい視点は、男女の扱いの差である。大正末頃から女子店員を雇用するようになった商店では、男子については従来通りの仕着別家制を 採用し続ける一方、女子については通勤給料制をとり、一時的雇用と見なす姿勢をとっていた。ここでは、女子はあくまでも補助労働力であった。これに対し、 製糸と織物業では反対に女子が主要な労働力であり、男子従業員は給料の仕組みも女子とは異なり、どちらかと言えば補助的な仕事をしている。しかし、雇用期 間という点から見れば、男子従業員は、いわば一生の仕事として働いていたのに対し、女子は結婚するまでの短期的な労働力であった。

雇用慣行の差異
 商家や職人の場合、伝統的な雇用慣行は仕着別家制であった。仕着別家制は、長期間勤続することによって見返りが多くなる制度であるから、雇 用者としては熟練労働者を確保しておくメリットがある。雇用期間は短いが、就業内容としては主であるという女子に対する雇用慣行は、伝統的な仕着別家制を とるのだろうか。
 織物業の雇用慣行は仕着別家制の流れを汲んでいると言える。機屋において、女子労働者が結婚する際、嫁入り道具を援助したのは、男子の場合の暖簾分けの 一時金と同じ性格のものである。このため、結婚までの長期間を勤め上げることの利点は大きかった。力織機を扱う仕事は、熟練してゆくに連れて数をこなすこ とができるようになるため、雇用主も熟練工を長く留めておきたかったのである。
 これに対し、製糸の場合は状況が異なっている。ここでは、長期間勤続のメリットはあまり感じとれず、結婚時に嫁入り道具が用意されることもない。優秀者 は毎回の給料に確実に金額が加算されているのであり、長く勤めるよりも、腕を上げることの方に重きを置くことになる。製糸の場合、織物業とは異なり、技術 習得には天性のものがある。必ずしも長期勤続者の腕がよいとは限らないのである。ここから長期勤続を誘導する仕着別家制をとるよりも、総試験に代表される 競争原理を導入した方が雇用者にとっては利があったと言える。製糸は「職人」的な仕事であると述べたが、職人は本来、組織的な仕事に馴染まず一匹狼的なも のである。これを組織化する器械製糸では、年功序列を柱に置く伝統的な仕着別家制は似合わなかったのである。

まとめにかえて

 本稿では、一定の形式を持った口承や実地の技術伝承を「民俗」として扱うことを前提に、豊橋地方の製糸と尾西地方の織物業について報告した。このような 視点を持つ場合、都市の様々な生業を「民俗」として分析することが可能となる。
 近年の「都市民俗学」はかなり雑多な様相を呈していて、果たして「民俗学」の範疇で論じるのがふさわしいのかどうか戸惑いを感じるものも少なくない。し かし、一つの方策として口承と実地の伝承に限定することは、対象範囲を整理し、「民俗学」として貢献できるジャンルをはっきりさせることになる。町場の生 業としては、商家の研究が従来は中心であったが、このような視点に立てば、膨張する都市の生業者の「民俗」のかなりのものを視野に入れることができる。小 商いや職人はもちろん、町工場などにも口承や実地の技術伝承は存在するであろうし、場合によっては、事務員や公務員、教員などにも、「民俗」を見出すこと は可能であろう。その場合、まずは聞き書きによって、これらの生業の直近の過去の姿を明らかにすることから始めるのがふさわしい。その中に伝統的な「民 俗」を受け継ぐものの姿を確認し、それがどのように転じてゆくかを見ることが、都市生活者の過去と現在をつなぎ、現代都市の「民俗」を考える材料になる。 今後の課題としてゆきたい。


(1)橋山徳市『糸の町』私家版、平成2年、3頁。
(2)愛知県蚕糸業史編纂委員会『愛知県蚕業史』愛知県蚕糸業振興会、昭和39年、277頁。
(3)前掲注(1)249頁
(4)前掲注(2)318〜320頁。
(5)玉城肇『愛知県毛織物史』愛知大学中部地方産業研究所、昭和32年、69〜72頁。
(6)前掲注(5)134頁。
(7)同上150頁。
(8)このような慣行は、どこの機屋にも見られたようである。昭和初期の大隈栄一氏の講演録には、「一ケ年以上の勤続女工に対しては、夫々嫁入道具を賞与 として与ふる風習があるが、それは例へば一年勤続者には反物一反、二年勤続者には鏡台一個、三年勤続者には箪笥一本尚成績優良者には長持一本と云ふが如く に区別して之を盂蘭盆と正月の二回に給与するのである」とある(前掲注(5)157頁)。


「愛 知県史民俗調 査報告書6 渥美・東三河」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書6 渥美・東三河」編集委員 会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部総務課県史編さん室
  平成15年刊行


Copyright(C)2007 Makoto Hattori All Rights Reserved