「尾 張の嫁入り−西部地域の婚姻儀礼」

服部 誠   

はじめに

 名古屋を中心とする尾張地方、特に西部地方の結婚式は、とかく「派手」であると喧伝されてきた。奥三河・津具村のある話者は、新城に嫁を嫁がせることに 対し、「新城は城下町であり、結婚式も尾張めいていた。嫁入り道具の箪笥を開けて中からものを出して見せるなど、尾張と同じやり方であり、娘を嫁がせると たいへんであった」と語っていた。新城の事例を出しながらも、ここでは派手な結婚式は「尾張めいた」ものと理解されている。遠く奥三河の人にも尾張の婚礼 が派手なものとして聞こえていたのである。
 尾張の婚礼が派手であるとされるのは、結納品や婚礼道具の多さ、出立ちと入家の儀礼として嫁菓子を撒くことなどに集約される。現在でも、東京や大阪に比 べ、名古屋の婚礼で用意される家財の多さは、よく指摘されるところである。婚姻儀礼は年代や階層による差が著しく、かつての尾張地方の結婚式があまねく派 手であったなどとは言えない。しかし、多くの人が、尾張の婚礼が派手であり、この地方で娘を持つことが親にとって大きな負担になると考えていたことは確か であろう。「嫁をもらうなら名古屋から」とか「名古屋へは嫁に出すな」、あるいは「娘三人持てば屋根棟落ちる」という口碑は、つい最近になって生まれたも のではなく、少なくとも明治時代以降、語り伝えられてきたものである。本報告では、尾張西部地方の婚姻儀礼の実態を紹介し、「派手」とされる要素について 検討を加えてゆくことにする。そして、それらの事象が、どのようなことを背景に形作られていったのかについて考察することにする。

1 娘アソビとオチュウニン屋さん

(1)娘アソビと恋愛

夜なべと娘アソビ
 古い時代には、恋愛から婚姻に至ることが多かったであろうことは想像できる。恋愛の契機として、大正生まれの話者たちから聞くことのできる のが娘アソビである。娘アソビは、夜、若者が何人かで年頃の娘が夜なべをしているところを訪れ、雑談をしてくるもので、夜アソビとも称された。退屈な夜な べ仕事をしているとき、若い衆と話をしていると気が紛れたといい、時には若い衆が仕事を手伝うこともあったという。
 娘アソビの典型を、立田村山路の事例で紹介する。大正2年生まれの話者(女性)の家には、女の子が6人いたこともあり、よく若い衆が遊びに来ていた。若 い衆は目当てとする娘よりも2つ3つ年上であり、年が似ている人同士で訪れた。娘はダイドコロ(四つ間取りの場合、ニワから上がった南側の部屋)で夜なべ をしている。寒い時期であれば、火鉢の縁に丸くなれる、3人くらいで訪れるのがいい加減の人数であったが、多いときは5、6人くらいで来た。若い衆は、晩 ご飯を食べて風呂に入ってから来るもので、近隣の人ばかりでなく、佐屋の方からも歩いてきた。当時は、自分の着るものは夜なべで仕立てるのが普通で、若い 衆が来ても、娘は浴衣を作ったり冬のマワシ(準備)をしたりなど、黙って針仕事をしていた。若い衆は「どこぞに連れてったろか」などと言ったりもしたが、 たいていは自分たちで「賑やかして」しゃべっているものだったという。「若いモンの中に親がいるのはいいことではない」ので、若い衆が来ると、親はキタデ (ダイドコロの北側の部屋)に引っ込んでいた。この間、親は若い衆と娘がいるダイドコロを通ることができず、風呂にも入れなかったという。若い衆は9時か 10時には帰っていった。話者の姉が「好きでもない人が遊びに来るので嫌だ」と親に言うと、「兄が青年会で遊びに行くのだから向こうもお互い様で来てもら わないと駄目だ」とたしなめられた。娘アソビは親が認めた慣行になっていたのであり、古くは、これが元で結婚することもあったという。

南部の娘アソビと刺繍屋
 娘アソビは、夜なべという若い娘の労働と密接な関係にある慣行である。尾張東部地域では、娘アソビは、娘が夜なべで縄綯いやトウスひきをし た冬に多く出かけたと語られている。単調なトウスひきを若い衆も手伝ってくれ、娘のいる家庭では手間が増えたものという。娘アソビ慣行について見てゆく場 合、それぞれの地域の娘たちの夜なべの形態とその変遷を考慮する必要がある。
 第1表は、今回の尾張西部の聞き書き調査で得られた娘アソビの話をまとめたものである。愛知県史の合同調査では、話者の年代はおよそ明治末から昭和初期 生まれまでの人を対象にしており、主として大正後期から昭和20年代までの民俗の事例を得ている。第1表で示した各地区の事例も、だいたいその頃のもので ある。これを見ると、娘アソビの経験は南部で多く語られ、海部郡で比較的遅くまで残されていたのに対し、北部では希薄であり、中島・葉栗郡方面では太平洋 戦争以前の早い時期に廃れていることがうかがえる。
 名古屋市西部から七宝町、蟹江町、津島市にかけては、話者個人の体験として娘アソビが語られ、伝えられる内容も豊富である。この地域は、若い娘がハンカ チや半襟に刺繍をする夜なべ仕事が盛んで、縫い屋、ハンカチ屋、刺繍屋と呼ばれる業者に娘がたくさん集まっていた。若い衆は、こういう場所に娘アソビに出 かけていたのである。
 例えば七宝町伊福では、昭和10年頃まで、頻繁に娘アソビがおこなわれていた。七宝町では伊福や下之森にハンカチ屋があり、近隣では名古屋市中川区戸田 や千音寺、蟹江町須成などに業者があった。縫い物は個人宅でおこなっている場合もあるが、個人の家を訪れると断られることもあり、大きな部屋に何人も娘が 集まっている業者を訪ねた方が効率が良かった。若い衆は「おもしろいから行こう」といって友だちと一緒に出かけ、「遊ばしてちょーよ」といって入って行 く。中には娘がいるだけなので、業者に咎められるようなことはなかった。顔馴染みになればすっと入って行くことができ、これで結婚した人もあった。娘アソ ビに出かけるのは、日が長くてゆとりのある夏が多く、冬は、遊びというよりも、親しくなった人が行くくらいであった。ご飯を食べてすぐ、7時頃に出かけ、 10時くらいなると場所が閉まるので帰ってきた。
 現在は名古屋市港区となっている旧南陽町の西福田でも、太平洋戦争以前は娘アソビが盛んであった。若い衆は16歳くらいから兵隊検査の前にかけての者 で、多いと5、6人で、歩きか自転車で出かけた。訪問先は個人宅の場合と、刺繍屋などにたくさん娘が集まっているところに行く場合があったが、個人の家で は、遊べるところとそうでないところがあり、家に上げてくれるのは10軒のうち2軒くらいだったという。刺繍屋は西福田にあった他、旧南陽町では新茶屋、 春田野などにあり、近在では蟹江にも出かけた。特に蟹江には刺繍屋が多く、半襟の刺繍をやりにたくさんの娘が集まっていた。娘アソビにはご飯を食べてから 出かけ、遅いと12時過ぎまで遊んでいた。刺繍屋によっては固いところもあり、遊ばせてくれないところもあったが、そういう業者は、娘からは人気がなかっ たという。若い衆は一晩のうちに何軒も訪れ、だいたい3軒で終わりになった。あとから違う若い衆が来ると、先に遊びに来ていた者は出ていった。若い衆の中 で娘と仲良くなった者ができれば残しておき、その間に、他の仲間はよそに行った。この場合も、帰りの時刻は決めておき、待ち合わせて一緒に帰るようにして いた。娘アソビに行くと、他の若い衆に嫌がらせをされ、自転車の空気を抜かれたりということもあった。よそムラから来る若い衆に悪さをしたり、喧嘩をした りということもあった。途中では柿をちぎったり、スイカを盗ったりの悪さもしていたという。
 娘アソビは、新しい出会いを求めるためか、他のムラに出かけることが多かったようである。近くに刺繍屋がたくさんある蟹江町蟹江新町でも、娘アソビに出 かける先は戸田などの縫い屋であることが多かった。初めて行くときは先輩に連れられて行く。5、6人で出かけ、季節的には、暑くて寝られない夏が多かっ た。橋の上で若い衆同士で話をして、「戸田へ行こう」といって出かけたりしたものである。戸田にはどこのムラからも遊びに来るので、先方で若い衆がかち合 うようなこともあった。縫い屋さんでは、娘さんのまわりを囲んで世間話をしてくる。早い時刻に行ってしゃべっていると手が「オタラク」になるので、縫い屋 に追い返されることもあり、終業の9時に近い頃に行くのがよかったという。中には、菓子を出してくれる縫い屋もあった。帰りがあまり遅いとそっと戸を開け て自分の家に入ったが、見つかると叱られることになった。好きな子ができて、これが元で結婚する場合もあった。個人の家に娘アソビに行くこともあったが、 数としては少なかったという。
 この地域の娘アソビは、娘のたくさん集まっている業者を訪れる形態が多く、業者の側でも、単調な縫い仕事の効率を考えてか、節度があれば、若い衆の訪問 を認めていたふしがある。刺繍の夜なべ仕事があったことが、娘アソビを遅くまで残存させることにつながっていたことは確かであろう。
 佐屋町から立田村、弥富町、飛島村方面になると、刺繍屋に娘が集まるということはまれであり、娘が夜なべで針仕事をしている個人宅を訪れる事例が多くな る。弥富町寛延では、夜、「賑やかし」でムラの中の組のツレが3、4人集まり、鍋田方面の娘の家に自転車で出かけたという。冬でも暇があれば行ったが、戸 が閉まっていて入れないことが多く、涼みがてら行ける夏の方が娘アソビの季節であった。娘が一軒の家に集まっているということはなく、一人でお針をしてい ることが多かったという。後から他のグループが来ると代わってやった。娘アソビが元で一緒になる人はかなりいたといい、先述した立田村の事例も含め、娘ア ソビ本来の姿を遅くまでとどめていたのはこの地域であると言える。もっとも、遅い時期まで娘が夜なべでお針仕事をしなければならなかった地域は、衣生活の 面では豊かでなかったと言えるかも知れない。これらの地域でも、娘アソビは太平洋戦争を境に廃れ、戦後に復活する例は少なかった。

北部の娘アソビと機屋
 これに対し、一宮市、尾西市、稲沢市などの北部では、話者個人の体験としてではなく、先代からの伝聞として娘アソビが語られることがほとん どである。一宮市東宮重から隣りムラの中島に嫁いだ明治43年生まれの話者(女性)は、個人の体験として若い衆の訪問を受けたことはないが、ムラの中には 娘アソビの事例があったと語っている。これに対し、中島の大正9年生まれの話者(女性)によれば、娘アソビは一つ前の世代のことであるという。この付近の 娘アソビ慣行は、大正後期には衰退に向かっていたのであろう。
 娘アソビを衰退させる要因となったものは何だったのであろう。尾西市鞆江では、昭和初期までは養蚕が盛んで、春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕と4回飼ってい た。養蚕の期間中は夜でも蚕に餌をやり、蚕座の下を替えてやらなくてはならず、その他の夜なべ仕事はできなかった。一方、起町には機械織りの工場があった ため、その残糸を持ってきて内職で反物を織らせる業者があり、冬にはほとんどの娘が夜なべで機織りをしていたという。この形態の機織りを出機といってい る。若い衆が娘アソビに来るとすれば、蚕の忙しい夏は難しく、夜なべ仕事をしている冬の機織りの季節の方が気安かった。しかし、鞆江では、若い衆を家に上 げることはほとんどなかったという。出機の夜なべ仕事が、納期に追われるたいへんなものであり、若い衆の相手をする余裕が娘の側になかったためかも知れな い。
 機業地の木曽川町玉ノ井の大正12年生まれの話者は、「娘アソビは聞いたこともない」と語っていた。機屋を経営していた別の話者によれば、玉ノ井でも出 機は盛んで、一宮の三八市で仕入れた糸を縞にする業者があったため、機屋(織元)はここから糸を買い、経て織るばかりにして自転車で内職先に運んでいた。 大正の頃、玉ノ井近在では「寺と警察以外はどこでも機を織っていた」といい、ほとんどの娘が手織機による機織り内職に従事していたという。娘アソビがおこ なわれていたとすればこの時代までであろう。
 この地方の織物業は、大正末から昭和初期にかけ、それまでの綿織物生産から力織機を用いた毛織物生産へと転換した。出機に替わり、自分の家に数台の力織 機を入れ、娘を雇って機を織らせる業者が増えてゆく。こうした機屋では、雇った娘は年季を決めて住み込みで働くことが原則であり、玉ノ井では、同じムラの 娘を雇った場合でも住み込みであった。尾西の起町でも、大正12年頃から工場の規模が拡大し、女工労働力として織物工場に働きに行く娘の数が増えていった という。ここの女工さんも、たとえ近所に住んでいたとしても全て寄宿舎への住み込みであった。こうなると、若い衆が遊びに行けるような状況にはない。
 第2表は、大正期から昭和初期にかけ、機業に従事した労働者数を示したものである(注1)。これを見る限り、一宮市、葉栗・中島郡の地域が有数の機業地 として発展していたことがうかがわれる。機屋の女子労働者には、他地域出身者も多数いたことは当然であり、また、この地域のすべての娘が機業に従事してい たわけでもない。しかし、南部地域のような若い衆の訪問を受け入れられるような夜なべ仕事はなくなっていたのであり、それが娘アソビを比較的早くに廃れさ せた原因の一つと考えてもよいだろう。
 以上、若い衆を受け入れる娘側の状況から、娘アソビ習慣の衰退について見てみた。娘アソビを衰退させた要因としては、この他にも青年団などを通じての行 政やムラからの指導、若い衆仲間の衰退などが考えられる。多方面からの検討が必要であろう。

(2)オチュウニン屋さんと見合

尾張の仲人
 娘アソビの早く廃れた地域はもちろん、これが比較的遅くまで残っていた地域でも、現在の話者たちから得られる話では、結婚の契機としては恋 愛よりも見合の方が多かった。若い男女の仲を取り持つ仲人は、尾張西部ではオチュウニンと呼ばれることが多い。この地域では、仲人をシンセキなどに依頼す ることももちろんあるが、それよりも、オチュウニン屋とか商売チュウニンと称される専門の人が、結婚話を持ってくる事例が多かった。これは、普段は農業を していても世話好きであったり、あるいはセケンを歩いている人、刺繍屋を経営して娘をたくさん知っているような人であった。特に看板を掲げているわけでは ないが、何十人も話をまとめたということを自慢にしている人が、どこのムラにも1人や2人はいたものだという。こういう人に「息子の嫁さんがいないか」と 頼んでおくと、年回りや財産を見て釣り合う人を探してくれた。
 稲沢市片原一色では、ムラに商売チュウニンと呼ばれる人がいて、結婚相手を探すときはこの人に頼む場合が多かった。話があれば、こことここならば釣り合 いそうだと考えて、写真を風呂敷に持って話をしに来た。婚礼の時、最初に話を持ってきた人とは別人を仲人に頼むこともあったが、その時は、口聞きをした人 の了解を求める必要があった。
 オチュウニン屋は男性の場合も女性の場合もあったが、話をまとめるまでは1人で活動し、式の時にだけ夫婦で出席したという。また、夫婦揃っていない人が 仲人をするときもあり、その場合は、式の時には年齢の釣り合うような知り合いを夫婦役として頼んだ。
 木曽川町玉ノ井では、オチュウニンはゴッサン(女の人)がやることが多く、式の時は夫婦で並ぶが、それまでは1人で動いていた。夫を亡くした人がオチュ ウニンの場合は、式の時は誰かを頼んできて夫婦のようになって出席した。ここでも、話を持ってきたオチュウニンが式まで務めるのが普通で、式の時だけ人を 替えるようなことがあれば、オチュウニンに怒られてしまうことになった。好き同士で一緒になったようなときは、シンセキをオチュウニンに立てるときもある が、これを仮チュウニンと呼んでいることから、オチュウニンは、結婚話をまとめることこそが仕事であると考えられていたことがうかがえる。
 何十組も話をまとめた仲人の専門者は、婚礼の際のしきたりに精通することになり、式の時には中心となってとりまわしをおこなうことになった。この地域の 婚礼を「派手」であると特徴づけるのは、物質的な面での格式の重視であるが、そのような方向に流れやすかったのは、婚礼がこのようなオーソリティによって 主導されていった結果とも言える。
 一方、半ば専門家である仲人へのお礼は、家の格によって異なるが、結納のどれだけ、あるいはツリモノ(婚礼道具)の数によっていくらと決まっていた。通 常は結納金の1割がお礼であると言われる。結納金はツリモノの半額が目安とされるため、この3つの金額は、それぞれ関連しあうことになる。後述するよう に、ツリモノの数は結婚する家の格によって差があり、少ないと破談になったし、多いとその後のツキアイがたいへんとなった。このため、道具をどれだけ持参 するかを決めるのは難しく、仲人が両家の間に入って調整することになる。「道具の数はナコウドの言うことにしたがっていた。素人はそうかと言ってるだけで ある」(七宝町伊福、大正2年男性)ともいい、ツリモノの数は仲人主導によって決められたと言える。嫁の実家でも、婚礼道具は「平均より少し上」を目指し たこともあり、また、ツリモノの数が多いほど、仲人の礼金はかさむことになるため、仲人が、道具の充実を誘導してゆくことはありがちなことでもあった。尾 張の婚礼が「派手」であると言われる背景の一つをここに認めることができる。
 婚礼後のツキアイは、商売チュウニンの場合はもめ事の時などに相談に行くくらいで、長い期間は続かなかった。一宮市中島では、結婚後、オチュウニンとの ツキアイは3、4年くらいで、盆正月に何かを持って挨拶に行く程度であった。固いオチュウニンであれば、子供が産まれれば一枚着せる分を持ってきてくれた という。
 以上で見てきたように、尾張西部では、仲人にはその道に関してのかなりの専門家を依頼するのが一般的であった。これは、西三河の仲人が必ずと言ってよい ほどシンセキから立てられ、三河山間部では、ムラの有力者や同族団の本家が仲人にふさわしいと考えられてきたのとは対象的である。結婚の際には家の釣り合 いをとる必要がある。尾張西部は、早くから商品作物栽培が進展するとともに、軽工業が発達し、釣り合いの基準となる家格、土地、収入などの要素が複雑に絡 み合った地域であった。例えば、名古屋という市場があり、多くの土地を持っているよりも、狭い土地で集約的に商品作物を育てた方が収入がある場合も多々あ り、外見だけで家の格を判断することが難しいのである。こういう社会であったからこそ、「田畑を1畝も持たない水呑百姓などでも、そこの家の格を見てうま く相手とくっつけてくれた」(甚目寺町甚目寺、明治44年男性)と言われる、セケンを渡り歩く専門の結婚仲介者が、重要な地位を占めるようになったのだと 考えられる。

聞き合わせ
 オチュウニンから話があると、見合をする前に聞き合わせをすることになる。見合は結婚の最終確認であり、実際にはこの前に結婚話がまとまっ ていることが多かった。聞き合わせは、相手の家の近所に行き、結婚の相手としてふさわしいかどうかを確認する行為である。たいていは手拭いなどを手土産に 持って、親が聞き合わせに行った。北部のあるムラでは、聞き合わせにはモンダテ屋と称された旧家を選んで入った。旧家であれば、いろいろなことに通じてい るからである。シンセキの家に入らないように注意して、3軒くらいを聞いてみて、結果がよければ話を進めることになった。実際には、聞き合わせに来られた 家でも、変なことを言えば知れてしまうので、よい話しかしなかったという。話がまとまると、聞き合わせに行った先には土産を持って挨拶をすることもあっ た。
 太平洋戦争以前の適齢期は、女性は20歳前後、男性は22,3歳くらいが多く、上限は27,8歳くらいであった。女性が年上ということはあまりなく、 3〜5歳は男性よりも年下を選んだ。「釣り合わないのは不縁のもと」で、家の釣り合いをとることは、一番に考えなくてはならないことであった。嫁方の家格 が高い場合、「頭が上がらない」とか「尻に敷かれる」など、セケンではあまりよくは言わなかったという。

見合
 見合は娘の家でおこなうことが多かった。太平洋戦争前、甚目寺町石作や立田村山路では、見合は夜おこなわれたという。出かけて行くのは若者 とオチュウニンの2人ということが多いが、若者一人で行くこともあった。場合によっては女親がついて行くこともあり、津島市高台寺では、見合には姉がつい ていったという。美和町二ツ寺では、女親が見合に付き添うことについて、「女のものは女が来る」と語られている。嫁を迎える場合の主導権は、本来は女性に あったのかも知れない。
 見合と言っても若い二人が言葉を交わすことはなく、娘は途中でお茶を出しに来るだけであった。この時、互いに顔をちらっと見て終わりである。そして、も う一度顔を見たいときは、頼んでまたお茶を持ってきてもらうようにした。しかし、これでは、相手がどんな人かを判断することは容易ではない。夜に見合をし た甚目寺町石作の話者は、「電気も暗かったので昼のようにはよく見えなかった。鴨居のところまで背がどのくらいだから身長はこのくらいかと、一瞬見ただけ のことで相手についていろいろと判断をした」という。したがって、「もらった後でこんなはずはない」ということもあったのである。「結婚式をやっても行灯 の火で明るくはないので、朝になって、考えていた男と違うものが夫だったということもあった」などという話も語られている。それどころか、「替え玉で妹を 見合に出し、姉が嫁いでいったということもあったと聞いている」とか、「兄の歳がいっている場合、見合いのときは弟を替わりにしたという話も聞いた」など とも語られ、真偽のほどはともかく、若い者にとっての見合が心許ないものだったことだけは確かである。結局、「本人が知らん間に親が話を進めとる」とか、 「本人が何か言っても、親が決めてまった」という場合が多かったのである。
 見合い後、相手が気にいれば、オチュウニンが間に入って話を具体化させていった。これから式までは、現在のようにデートをするわけでもなく、互いに顔を 合わせる機会はなかった。

結納
 結納の品が充実してきたのは太平洋戦争以後であり、一般庶民が多くの品を用意できるようになったのは古いことではない。近年の結納飾りは5 品、または7品で、水引で作った松竹梅などの他、呉服細工が用意されることもあり、この地方の特色となっている。呉服細工は、女のものは鯛などで、紅白の 生地を着物の裏地にしたり、絞りの絹布であれば着物に仕立てる他、帯揚げや腰紐になるものもある。男のものは富士山や夫婦岩に仕立て、ヘコ帯に使ったりす る。しかし、これらを用意できたのは、かつてはオダイ衆と呼ばれる経済的に豊かな家に限られていた。結納の品は結納金の額によって変化するものであるが、 太平洋戦争後は、ツリモノの充実にしたがって結納金の額が増え、あわせてたくさんの結納品が用意されるようになっている。
 かつての稲沢市片原一色では、結納にはオチュウニンと婿方の父親の2人、場合によっては婿方のシンセキ代表が紋付姿で訪れた。持参したのは結納金(小袖 料)の他、結納飾りであるが、昔は簡単なものであり、末広、鯣、鰹、共白髪(麻)、紅白の真綿程度であった。このほか、親兄弟への土産、ご先祖さんへの土 産(線香)なども持参した。これらは半長持に入れ、嫁方でオチュウニンが飾り付けて目録を渡し、「○○家から結納を持ってきました。幾久しくよろしくお願 いします」と口上を述べた。お目出たいことはお昼前に済まさないといけないといい、結納は午前中におこなった。娘はお茶を出しにきて挨拶をし、嫁方ではご 馳走を出して酒を飲んだ。
 立田村山路では、結納の時は仲人と婿方の父親が出かけた。この時は、結納金と昆布、鯣などの他、迎え下駄といって、嫁さんを迎える意味で下駄一足を持っ てきた。結納の品は昭和35,6年頃になると派手になってきたが、それまでは簡単なものだったという。結納の客には嫁の両親が応対をし、娘はお茶を汲んで 出した。結婚式の時は嫁の父は出席しないため、結納の客は「お父さんのお客」として大事であった。結納のご馳走は結婚式の通りに用意し、仕出屋を頼んで本 膳で出した。結納酒は嫁方で用意し、これを酌み交わした。また、引き出物として蒸し菓子やガス菓子(ラクガン)、寒いときはタイとハマグリなどのカゴ盛り を出した。
 結納の品が届くと、近所の人に披露をする場合もあった。飛島村元起之郷では、結納が来るとザシキに並べ、2、3日飾っておいた。「見に来たって頂戴」と いうと、近所の人が見に来たが、普通は招待しなくても、結納の翌日、「見せてもらおうか」と連れだって来てくれるものだった。この時はお茶を出してもてな した。
 結納返しは、結納の小袖料に対し、袴料として嫁方から婿方に持参するものである。婿方からもらった結納飾りには赤い水引がつけられているが、これを緑に 替え、荷物送りの時に持参するものと説明されることが多い。この時にも親兄弟への土産をつけた。しかし、結納返しは古くは一部の家に限られておこなわれた もので、しきたりとして広まったのは、比較的新しいものとして語られている。
 結納後の破談は、娘の方から言い出したときは結納の倍返し、男の方から言い出した場合は結納金は戻らなかった。仲人が間に入って、中には3倍返しなどと いうことも話し合いで決められた。

結納イチゲン
 結納の際、両家のシンセキが揃って宴を開く事例が、一宮市、尾西市、稲沢市、祖父江町など北部の地域にあり、これを新客とかイチゲン、結納 イチゲンと呼んだ。イチゲンは、婚礼の式以前に婚姻の成立を両家のシンセキで確認するものであるが、本来は、婚礼当日、婿・嫁方双方のシンセキが顔を合わ せないしきたりのところでおこなわれていたと理解される。
 一宮市中島では、結納の時に婿方のシンセキが嫁方に行くことを結納イチゲンといい、ここで招かれれば婚礼当日は出席しない習わしだった。中島では、婚礼 当日の宴はオンナヨメイリで男性客は呼ばなかったため、結納イチゲンが男性客の宴として重要だったのかも知れない。
 尾西市鞆江でも、結納の時、シンセキのおじさんなどがついて来ることがあり、イチゲン(結納イチゲン)といった。結納を確かに渡したということを確認す る人であり、嫁方ではイチゲンの客が何人来るか聞いてご馳走を準備していた。この際、嫁方からの客はホンヤが来る程度であり、イチゲンの客の人数自体は多 くはなかった。
 稲沢市片原一色では、結納イチゲンは「普通の家では出来ないことであり、五釣り以上のツリモノを持参するような家の場合である」という。場所は嫁方の 他、持ち出し(料理屋)でやることもあった。これはシンセキ代表の挨拶の場であり、お返しとして、荷物を入れるとき(婚礼の前日、結納返しのとき)に婿方 で嫁方のシンセキを招くことがあった。

2 婚礼の準備と披露

(1)嫁入り道具

嫁入り道具
 尾張の「派手」な婚礼の事例としてよく引き合いに出されるのが、嫁入り道具である。嫁入り道具の中心は、衣類を入れる箪笥と布団を入れる長 持であるが、これらは油単を掛けて釣ってゆくもので、ツリモノと称される。嫁入り道具の規模は、このツリモノがいくつあるかで「何釣り」と表現され、ま た、それぞれの家の格によって、ツリモノの数が異なっていた。普通は箪笥1〜2棹、長持1棹の二〜三釣りで、オダイ衆と呼ばれるところでは五釣り以上と なった。ツリモノは奇数で揃えるものともいい、琴を一釣りで数えるなど、いろいろなしきたりがあった。家の釣り合いがとれるように、それぞれの家の格に よって数を決め、仲人が仲立ちをしてどれだけの道具がいるかを婿方に聞き、嫁方にそれを伝えた。布団も長持一つなら一流れ、二つなら二流れとなる。嫁入り 道具として持参する布団は客用のものであり、自分たちで使うものは婿方で用意したというところもある。他には夏冬の座布団が10枚程度用意された。
 稲沢市片原一色では、普通の嫁入り道具は二釣りで、少し豊かになると三釣りであった。三釣りになれば、茶箪笥などの小道具が増えた。土地をすべて小作に 出しているようなオオヤさん(オダイ衆)であれば、五釣り、七釣りということもあった。鏡台、下駄箱、盥、裁ち台、ハンゾ、火鉢などはつきものであり、ツ リモノには数えない。式で着る晴着の数は婿方からの注文もあり、仲人が間に入ってその数や内容を伝えた。
 片原一色では、よそ行きの着物は呉服屋に任せて作ってもらい、普段着るものは娘が縫って準備した。立田村山路で昭和10年に結婚した話者によれば、白無 垢や色物、黒などの晴着は呉服屋さんで買っても、縞モンや絣モンなどの普段の着物はもちろん、よそ行き、銘仙などのお召しモンも自家製であった。糸は「母 親がビービーととった」といい、娘が縫って仕立て、箪笥と両掛けにいっぱいにしたという。
 嫁入り道具が充実するようになるのは、さほど古い時代ではない。一宮市中島の大正9年生まれの話者によれば、「親の世代は四角い箱に手鏡くらいで嫁いで くることもあった」といい、また、「長持の方が『よーけ入る』と言って、箪笥ではなくて長持で持ってくることもあった」という。昭和10年、愛知県教育会 の依頼を受けた甚目寺町の丹羽清一氏がまとめた「甚目寺町誌資料」(注2)は、太平洋戦争以前の風俗習慣を記したものとして貴重であるが、ここには、「派 手」になってゆく婚礼道具について次のように記されている。
 「昔は、普通の農家では風呂敷包みが多く、知らぬ間に嫁さんが来ているという有様で、翌日、牡丹餅で近所を招くくらいで、嫁入りらしいのは少なくとも地 主以上であった」「十数年くらい前は、地主兼自作(農村の中産者)でも三荷を普通とし、したがって自作農は二荷、自小作農は一荷、小作農は風呂敷包みの程 度であった」「今ではだんだんと派手になって、ほとんどの家で風呂敷包みということはなく、箪笥や長持を持たせてやる」
 このように見てくると、一般庶民の嫁入り道具は、大正前期くらいまではさほど派手ではなく、その後、次第に充実していったことが推測される。この背景に は、軽工業の発展によって、若い女性がその労働力として吸収されていったことがあげられよう。

嫁入り道具の充実と娘の稼ぎ
 尾西市鞆江の大正4年生まれの話者は、小学校6年をおりると近所の機屋に住み込みで働きに行った。その後、名古屋に女中奉公に出たが、20 歳の頃、ふたたび尾西の機屋に住み込んで働いた。これは、女中の給金が年に100円程度であったのに対し、機屋の場合は半期で170円くらいをもらうこと ができたためであるという。実際には一反織っていくらであるので、人によってばらつきがあり、収入は自分の腕次第であった。一番の人は一等工女として特別 にお金がもらえたともいう。給金のよさに加え、盆と正月の半期に一度もらえるセイボウは、若い娘にとっては貴重なものであった。セイボウは今でいうボーナ スのようなもので、お金でもらうところもあるが、この話者の勤めた機屋では嫁入り道具になるものを支給し、1年経つと「箪笥」と書いた紙がもらえた。実物 は嫁入りの時まで預かってもらうことになる。5年も勤めれば、箪笥、長持、下駄箱、布団、着物というように、嫁入りに必要なものはセイボウで全て揃ったと いう。
 立田村山路の大正2年生まれの話者は、小学校をおりてからお針を習いに行き、その後、昭和3年から米屋に女中奉公に行った。しかし、昭和6年、数え19 歳になるとき、「機屋で儲けさっせるで来い」と言われ、近所にできた機屋に勤めるようになった。女中の仕事は炊事、掃除、買い物、子守などで、半年勘定の 給料で、初めは65円、最後は70円だったのに対し、機屋では月に25円から30円、夜通しやれば40円はもらえたという。機業に従事する娘の収入の多さ がうかがえる話である。ちなみに昭和8年(1933)の『愛知県統計書』によって、機業に従事した女工と女中奉公の者について平均賃金を比較すると、毛織 物力織機に従業した女工の日給が98銭(賄費を含む)、女中の月給が10円(賄付)となっている。ここからも、機屋の賃金の高さがうかがえる。
 もちろん、全ての娘が機業に従事して嫁入り道具を仕度したわけでもないし、娘の収入だけで道具が全て揃えられた事例ばかりではない。しかし、親が揃えて やる場合でも、このような娘の収入があることは、心強いものであったことは確かである。「昔は女中奉公や機屋さんの奉公に出たときでも、給料は安くして 盆・正月に銘仙を一枚ずつ作ってもらい、道具の足しにするというのが多かった。娘のいる家でも、下々の方は働きに出せるので、ある程度は本人が準備できた が、ちょっといい家では娘を外に出せないので、道具の準備がかえってたいへんであった」(稲沢市片原一色、大正10年、13年)といい、機屋などへの奉公 が、道具の充実に寄与したことは事実であろう。
 ところで、「(道具は)嫁さんが使う嫁さんのものである。タライなどは新品としてとって置き、嫁さんのものをすぐに使ってしまうとよくは言われなかっ た」という。嫁入り道具は嫁の財産として、決して婿方に贈与されるものでなかったことは確認しておきたい。

荷送り
 嫁入り道具は、婿方と嫁方との中間で引き渡しをする場合と、嫁方の者が婚家まで運び込む場合とがある。
 北部では、荷物は受け渡しを伴い、そこで両家の者が酒を飲む事例が多い。稲沢市片原一色では、嫁入り道具はヨメリ当日の朝、大八車で引っ張っていった。 途中の地蔵さんの前などで両方のシンセキが出会って引き継ぎとなったが、この時は「女の方が少し控える」ことになっており、中間点より少し嫁方寄りで引き 渡した。荷物を運ぶのは呼び衆のシンセキやトナリの人たちで、荷物を載せる車は、前日に婿方から嫁方に届けておいた。昔は道具は吊っていったが、それが大 八車、リヤカー、馬車、トラックへと変遷した。荷持ちの車は奇数になるように揃え、二釣りの場合で、箪笥、長持、その他の小道具の分で3台必要であった。 引き渡しの時は、ついてきた男のオチュウニンが目録を示し、婿方の者に荷物の確認をさせた。ここでは、婿方が持参した一升酒と重箱に詰めた煮物で両家の者 が酒を飲み、道行く人にも振る舞い酒をして菓子を手渡した。荷物を運ぶときは、形式的に青竹の杖を2本持ってきて、荷物を婿方に入れたとき、オチュウニン が「もうこれを使ってはいけない」といって叩き割った。
 一方、南部では、荷物は嫁方から直接婚家に運び込む事例が多かった。立田村山路では、荷物は式の前日か三日前に出した。シンセキの濃い人を頼んで運び、 大八車の前後に一人ずつは人が必要であった。かつては水路が縦横に走っていて、道順がよければ舟で運んだが、家まで水路が通じていない場合は、いずれは車 に積み直すことになった。運んでくれる人足の人には桃色の布を買ってきて手拭いに切り、鉢巻きにしてもらった。荷物は車にロープで縛り、上の方には飾りと して赤と白の布を巻き付けた。中の方は白い布だけを使ったが、これは白だと染めかえができるので、向こうに行ってその家の色に染めてもらうためだと言って いた。荷物の受け渡しは普通はやらず、婿方まで運んで家の中に入れた。

(2)婚礼当日

迎え新客と花嫁の出立ち
 この地方では、婚礼当日の朝、婿が嫁方に赴く儀礼が知られている。いわゆる婿入りに当たるものであるが、尾張西部では、これを婿入りと称す る事例は少なく、新客、イチゲン、迎え新客など、招客を意味する言葉で呼ばれることが多い。また、三河山間部のように、嫁の親と婿との間で盃を取り交わし て親子関係を作るような儀礼はほとんどおこなわれておらず、嫁方のシンセキに対する婿の披露としての色彩が強い。第1図は、婚礼当日の朝、婿が嫁方に出か ける地域を示したものであるが、尾張一円に分布するものではなく、どちらかと言えば北部から東部に顕著で、北西部では希薄である。
 海部郡北中部あたりでは、嫁入りの午前中に新客がある。七宝町伊福では、婿とシンセキ代表2人くらい、それに仲人が嫁方に赴き、嫁方でシンセキに紹介を された後、御馳走でもてなされて帰ってくる。これを迎え新客ともいうが、実際には、シンセキと婿は帰ってきてしまい、婚家で嫁を迎えた。甚目寺町上萱津で も、婚礼当日、婿とオチュウニンが嫁方を訪れ、嫁方でもてなしを受けて帰ってきて、これを新客とかイチゲンと呼んでいた。
 海部郡南部では、嫁方に赴いた婿が花嫁を連れ帰る事例が多い。蟹江町蟹江新町では、婚礼当日の朝、紋付、羽織袴姿で婿とオチュウニンが嫁を迎えに行き、 これを迎え新客と称した。先方では酒が少し出てもてなしを受け、嫁を連れて行列を組み、菓子を撒いて一緒に婚家に向かった。佐屋町大井や名古屋市港区西福 田などでも同様の事例が見られた。
 一方、一宮市、尾西市、木曽川町などの尾張北西部では、婚礼当日の新客は本来の儀礼ではなかった。「婚礼当日の朝、婿が嫁方に迎えにゆくのは息子の代か らである。昔はなかった」(一宮市中島、大正4年)、「婚礼当日、婿が嫁の家に行くことはなかった」(一宮市宮後、明治44年)、「昔は嫁迎えはなかっ た。今は迎えに行っている。昔は、婿は嫁が入ってくるときはクドをつついているものだった」(尾西市鞆江、大正4年)、「婚礼の午前中、婿が嫁方に迎えに 行ったりすることはなかった」(木曽川町玉ノ井、大正12年)、「婚礼当日に婿が嫁のところに迎えに行く習慣は戦後に始まった」(稲沢市片原一色、大正 10年)などと語られ、婚礼当日、婿が嫁方を訪問するのは新しい習慣と言ってもよさそうである。

嫁の出立ちから入家まで
 尾張北部から東部にかけての聞き書き調査では、花嫁の出立ちの際のまじないとして、キタハンジョウや筵叩き、門で藁火を焚くしきたりなどに ついて聞くことができる。いずれも葬式の時のまじないでもあり、嫁が在所(この地方では嫁の実家を指す)と絶縁することを意味している。しかし、西部地域 では、これらのまじないが早く廃れたのか、今回の調査の話者たちからは聞くことができなかった。尾張西部は真宗の勢力が優勢な地域であるが、この地域の葬 式で、上記のようなまじないがおこなわれることがまれであることとも関係があろう。
 嫁の出立ちの際は、嫁方にシンセキが集まり、小宴が開かれる。稲沢市片原一色では、これを「送り出しの膳」と称していた。昔の婚礼は夕方からおこなわれ たので、花嫁の出立ちも3時過ぎである。オチュウニンが紋の入った提灯を掲げて迎えに来ると、花嫁はザシキから直接外に出た。
 嫁の出立ちの際、菓子を撒く習慣は尾張西部地域全域で見られる。菓子は一斗缶や風呂敷包みから直接ばら撒き、シンセキの男の人たちの仕事であった。この 時は、「ヨメ、ヨメー」とか「ヨメイリヨー」と叫んだ。嫁入りで撒いたのは、カメノイチという茶色の細長い固い菓子が多かった。立田村山路の話者によれ ば、「菓子は嫁入り用の、米の粉を練った小さいラクガンであった。子供が5、6個拾って喜んでいた。収入がなかったので、菓子を撒くといってもこの程度の ことであった」といい、この地方の婚礼に「派手」な印象を与えるいわゆる嫁菓子の習慣も、かつてはさほどのものでなかったことがうかがえる。現在は袋入り の菓子を投げたり手渡しするようになり、金額も「少なくとも20万円」(一宮市中島)とか「場合によっては50万円」(尾西市鞆江)などと語られている。
 嫁菓子は、もともとは嫁入り道中の際の儀礼的な妨害に対して振る舞われたものと思われる。佐屋町大井では、行列の途中で、嫁さんの顔を見せろといって、 何人かの人が前に立ってトオセンボをすることがあった。トオセンボをするのは婿の友人や子供ばかりでなく、知らない人であることもあったが、この時は菓子 を渡して通してもらった。このため、オチュウニンは赤と白の袋に嫁さんの菓子を入れて持っていったという。舟で嫁入りをすることが多かった十四山村鳥ヶ地 では、嫁入りの舟が来るのを橋の上で待っていて、通り過ぎるときに橋の上で棒でドンドン音を立てて驚かすことがあったという。これも嫁入りの妨害の一種で ある。現在の話者たちが結婚したのは、歩きで嫁入りする時代が過ぎ、人力車やハイヤーによる嫁入りが普通になった時代であり、嫁入り行列の妨害については 多くを確認できなくなっている。尾西市鞆江でも、菓子を風呂敷を4つに縛った中に入れて行き、嫁入り道中で会った人に配ったというが、本来はこのような妨 害に対して用意されたものであろう。
 嫁入り行列は、嫁方のシンセキなどが婿方での婚礼に出席するかどうかで規模が異なってくる。南部では、婚礼に出席する嫁方の客を新客と呼び、事前に人数 を打ち合わせて出かける。立田村山路では、婿の迎えがなかったため、嫁入り行列は仲人夫婦、嫁、姉など付き添いの女性、新客衆5〜6人の順で行った。新客 衆には嫁の親は入らず、嫁の兄弟などが加わった。婿の迎えがある佐屋町大井では、嫁入り行列は仲人(男)、婿、嫁、仲人(女)、嫁方の新客の順であった。
 海部郡南部の水郷地帯では、水路にかかる橋に人力車や自動車が通れないものが多く、かつては舟に乗っての嫁入りが見られた。花嫁衣装が汚れるので、舟に は大盥をのせ、筵を敷いたりしてこの中に座ってきた。花嫁とオチュウニン夫婦が乗り、新客衆は歩いてくる場合が多かった。婚家のそばに花嫁の衣装を整える オチツキを頼んだ場合は、ビジョウ(美粧、髪結い)さんにここへ来てもらい、衣装を付けた。仕度が終わると暗くなり、婚家には提灯を灯して行った。
 北部では、嫁方のシンセキは婚礼の宴に出ない事例が多い。一宮市中島では、オチュウニン夫婦、花嫁、ツキ女(髪結い)、稲沢市片原一色でも、オチュウニ ン夫婦、花嫁、髪結い、花嫁の父親だけの行列であった。
 婚家の玄関先では、シンセキの若い女性が裾模様の留袖で盛装して出迎え、これを待女郎と称した。待女郎に並んだ婿の姉などが、花嫁の手を引いてザシキに 招じ入れるテヒキとなる場合もあった。
 菓子は婚家に入るときも撒かれる。嫁方で撒く分は嫁方の負担、婚家で撒く分は婿方の負担とも言われるが、嫁方からの土産として、菓子の一部を婚家に持参 し、ここで撒くこともある。美和町二ツ寺では、花嫁が婚家について車を降りると、土産として嫁方で用意した菓子を渡した。この菓子はシチヤ袋と呼ばれる赤 いキンチャク袋(青い房のついた綸子のもの)に入れていった。婚家で撒く菓子の量が少ないと「嫁の人気が出ない」ため、たくさん撒かなければだめだとさ れ、嫁方で撒く菓子に対し、「派手」に流れてゆく要素があった。
 婚家には縁側から入った。入家の際のまじないとして、尾張北部から東部にかけては、草履の鼻緒を切るものがあるが、これも西部ではあまり聞くことができ なかった。嫁は婚家の仏壇に参り、その後、ムラの氏神に参拝するところもある。

盃ごと
 盃ごとの時は、オチョウ、メチョウと呼ばれる小さな男の子と女の子が盃の受け渡しをする事例がほとんどである。稲沢市片原一色では、盃ごと はザシキでおこない、仏壇の前に婿、その南側に嫁、それぞれの両脇にオチュウニンが座った。花嫁の父は南側の一番上に座り、婿の両親は婿、嫁と対面する位 置に座った。盃の時は兄弟くらいまでしか列席しなかった。オチョウ、メチョウは、片原一色では女の子ばかりでおこなっていたという。婿の姪などが着飾って 務め、一人が盃を受け渡し、もう一人が、蝶々の飾りのついた酒器で酒をついだ。三三九度の時は、シンセキの長老格の人が陰にいて、「オサカナココニー」と 唱え、スルメを巻いたものを箸で摘んで別の皿に移した。夫婦盃のあと、親子、兄弟の盃をおこない、それぞれの盃に酒をついで一斉に飲んだ。シンセキとの特 別な盃ごとはなく、このあとの宴の時に盃をやりとりした。
 三三九度の儀礼自体は、礼法の影響からか、かなり類型化されている。しかし、盃ごとの様子をムラ人に公開するのかしないのか、あるいはどこでおこなうの かということになると、いろいろなパターンがあるようである。一宮市宮後の話者によれば、夫婦盃はナンドかハナレでおこない、親子とシンセキの盃はザシキ でおこなった。これに対し、一宮市中島の話者は夫婦盃をザシキでおこない、その後の親子盃を内輪だけでナンドでおこなったと語っている。このような差異 が、盃ごとの持つ意味の変化によるものなのかどうかは、さらに多くの事例から判断する必要がある。

披露宴
 婚礼は、夫婦関係の成立を社会的に認知させるための儀礼であるから、披露宴にどのような客が出席するかは重要なポイントである。佐織町、美 和町、佐屋町、立田村などの南部では、新客として嫁方のシンセキが参加するのが一般的であるのに対し、木曽川町、一宮市、稲沢市などの北部では、この宴に 嫁方からの客が参加しないことが多い。これは、北部では結納イチゲンの習慣があり、この時に両家のシンセキの顔合わせがおこなわれていることと関係するの かも知れない。
 佐屋町大井の婚礼披露宴の座順は第2図のようである。仏壇の前に婿、その南側に嫁、その両脇にそれぞれオチュウニン夫婦、ザシキの北側に婿方の客、南側 (縁の側)に嫁方の新客が座った。親はオトリモチをしないといけなかったため、席はなかった。立田村山路や美和町二ツ寺の場合も同様で、床の間の前に婿と 嫁、両側に仲人が座り、婿方の客は奥、嫁方の新客は縁側に並んだ。
 第3図は、一宮市宮後の婚礼披露宴の座順である。上座には嫁が座り、両脇にチュウニン、座敷の北と南側には婿方のシンセキが座った。婿は接待でたいへん であり、盃を注いで回るので、嫁さんと一緒に並ぶことはなかったという。また、婿の親の席もなく、嫁方のシンセキも来なかった。一宮市中島では、嫁方のシ ンセキが新客として来る場合もあったが、人数は少なく、多くは嫁の親が挨拶がてら出席する程度であったという。やはり婿の席はなく、「婿さんは居場所がな く、オカマの下を突っついている」(大正9年他)ものだと言われた。
 北部では、婚礼披露宴に婿が座らない事例が多く、尾西市鞆江でも、「婿の席はなく、出てこない。クドをつついていた」(大正4年他)という。また、稲沢 市片原一色でも「宴の時は婿の両親と婿は接待に回ってしまい、その場にはいなくなる」(大正10年他)ものだった。しかし、同じ稲沢市の北島では「婿と嫁 も、ある程度の時間までは宴の座に座っていた」(大正12年)とされ、嫁方の新客も一定の人数が婚礼披露宴に出席していた。稲沢市西部の片原一色は祖父江 町、一宮市萩原など北西部との通婚が多く、南部の北島は南東の甚目寺に接する高重、中之庄方面との通婚が多かった。婿の席の有無、嫁方新客の有無について は、一宮市と甚目寺町でしきたりを異にしているが、両地域の間にあたる稲沢市あたりが遷移地帯であるかも知れない。
 婚礼披露宴の料理は、仕出屋を頼んで調理してもらったところが多いが、中には、シンセキや近所の女の人たちがトリモチをして用意したところもある。
 稲沢市片原一色では、太平洋戦争後も、手伝いの人たちが集まって婚家で料理を作った。ご飯はハソリを使って炊き、本膳を30人くらいは用意しなくてはな らないので、黒塗りの膳を個人で持っていた。おヒラには、鯛の塩焼きなどをつけるのが本当であるが、用意できなければ花形に切った蒲鉾などを盛った。他に ハス、イモなど野菜の煮物や切り身の甘煮をつけた。また、シマダイを一匹焼いて一皿に盛り、むしりにして小皿に分けて回した。大皿は七つ引きと称し、八寸 の皿に7種類のものを盛るもので、芯にリンゴなどの果物を置き、角寿司、巻き寿司、揚げ寿司の3種類の寿司、色物でいえばアカダイの子など、魚の切り身を つけた。これは一人ずつにつけたがそこでは食べられないので、折に入れて持ち帰るものであった。
 片原一色では、引き物として、膳に一つずつ篭ものをつけた。これは生ものの時もあるし、お菓子の七つ引きと称し、干菓子(オシガシ、落雁)の時もあっ た。生ものであれば、蛤、蒲鉾などで、魚はボラやイナをつけた。また、長イモなどの野菜も添え物にした。干菓子であれば、蛤やハス、尺か尺三寸の鯛、鶴亀 などを型どったものを用意した。
 披露宴は深夜におよぶこともあった。立田村山路では、この晩に泊まると縁起が悪いといい、酔って動けなくなった人も、シンセキの人が責任を持って連れ 帰ったという。
 婚礼の夜、山盛りのご飯を夫婦で食べた話は、北部ではよく聞かれる。一宮市中島のある話者は、婚礼の宴が12時くらいに終わると、花嫁はオチュウニンに 連れられ、コウエに座っている婿のところに行った。ここで初めて婿の顔を見て、どうしようかと思ったといい、この時、茶わん二つ分の山盛りのご飯を夫婦で 分けて食べた。このご飯は婚礼の宴で食べるときもあり、稲沢市片原一色では、宴の時に据え膳として山盛りご飯が置かれていたという。

女客だけの披露宴
 ところで、一宮市中島の披露宴には、原則として男性は出席せず、女性のみの宴であったことが特徴で、これをオンナヨメイリと称している。 「夜の本膳は、トナリもシンセキもオナゴ衆がついた」という。その理由として、「嫁入りは女が来るので女の顔知り、顔ヒロメで女嫁入りになる」と説明さ れ、したがって、「嫁さんをもらえば女の人が本膳で、養子であれば男の人」になる。婚礼披露宴に招かれるのは、婚家のセコからはトナリづきあいの家5、6 軒と、他にジゲシンルイの家が来た。この人たちは女客ばかりであった。「ムラ一番の田地の家で婚礼があったときは、女の人は黒の裾模様に打掛を着てお呼ば れをした」といい、女性ばかりの華やかで宴であったことが想像される。昔は自転車で行き来したこともあって、シンセキの場合、2里も3里も遠くからだと女 の人が来るのはたいへんであり、男の人が来ることもあった。セコの男の人は、嫁入りの荷物を吊る(運ぶ)手伝いをするので、その際、昼に本膳でもてなされ た。ここで夜まで飲んでいるが、式場には入らず、夕飯は別の部屋で食べたという。同様のオンナヨメイリの事例は、一宮市西御堂などでも見られ、中島固有の ものではなかった。
 木曽川を越えた岐阜県側には、このような婚礼の事例が広く分布しており、男性は荷物を運び込んだ直後にもてなされ、花嫁が入家し、三三九度がおこなわれ た後の最も重要な披露宴では女客がもてなされる。その理由としては、中島同様、「嫁入りは女の仲間入りなので女を呼ぶ」と説明されている。また、婚礼当日 に女客を、婚礼翌日に男客をもてなすところもある(注3)。愛知県側では、「女の仲間入り」として、婚礼翌日に女客を招いて披露する事例が多く、ボタモチ ヨビとかヨメゲンゾと称される。中島では、婚礼当日に女客を招いた上で、翌日にも女客を招待している。岐阜県と愛知県の習慣が折衷されている感がある。

婚礼と若い衆
 尾張西部では、婚礼当夜、若い衆が祝意の表現として、地蔵などを婚家に持ち込む習慣がある。今回の調査範囲では、別掲資料で紹介したよう に、一宮市以南のほぼ全域で確認することができた。地蔵の他、墓場のガン台や大八車、釣瓶などを持ち込むことがあり、南部では舟を持ち込んだり、筵幟を立 てるという事例もあった。地蔵を持ち込むことは、子宝に恵まれるようにという意味とされ、翌朝、ボタモチを供え、ヨドカケを替えて返しに行った。また、ガ ン台は、死ぬまで婚家にいるようにという意味であったとされる。しかし、これらは後に付加された理由と思われ、本来、若い衆仲間が積極的に婚姻儀礼に関 わった時代の名残であろう。
 祖父江町拾町野では、新婚初夜の時、新夫婦がヨコヤで寝ているところに青年団の人が20〜30人で潜んで行き、クネ田のハサ杭を持っていって家の下から 土台を揺することがあった。家が揺れるだけでなく、壁が落ちてしまうこともあり、酒を出して許してもらったという。甚目寺町石作でも、新婚夫婦が寝静まっ た頃、青年団の人が縁の下にもぐり、下から床をこずいたりしたといい、若い衆による手荒な祝いは各地にあった。名古屋市港区西福田のように、婚礼の宴が終 わった後、ヘヤミマイと称して婿の友人が5〜10人ほど訪れたところもある。この時は化粧紙などを持ってきて夫婦の営みを実演し、紙はこうやって使うんだ と言って囃し立てたり、花嫁に酒をつがせ、名前を冷やかしながらくどくどと聞いたりした。盃も性行為を図案にしたものを使い、最後に花嫁が節目の盃として これを使って飲んだ。夜2時くらいまでわいわいやっていて、付き添っていた女のチュウニンが「このくらいで堪忍してくれ」といって終わったという。

3 婚礼翌日の儀礼と里帰り

(1)女衆への披露

女の仲間入り
 婚礼翌日、婚家の隣近所や婿方のシンセキの女性を招き、ボタモチなどを振る舞って新嫁の披露をする儀礼は、尾張西部の特徴である。第4図 は、婚礼に際し、特に近隣の女衆だけを招き、新嫁の披露をおこなう地域を示したものである。名古屋市を境にして、尾張西部から北部にかけての習慣であるこ とがわかる。
 婚礼翌日の動きを、稲沢市片原一色の事例で見てみよう。この日の儀礼はヘヤミマイ、寺参り・宮参り、新客、ヨメサンヒロウとあり、動きが複雑である。
 ヘヤミマイは、朝、嫁の実家から母親が饅頭を持って来るもので、「無事に済んだか」という確認の意味であったという。この時、ヨメサンヒロウのため、す でに婚家に近所のオナゴ衆(トナリやお講組の女性)が集まっていれば、「よろしゅうお願いします」といって挨拶をし、そうでなければ、近隣の家をまわって 挨拶をした。
 寺参り、宮参りは姑に連れられてムラの中の寺社に参るもので、新嫁は髪結さんを頼んで衣装をつけ、島田を結いなおして行った。新客に行く場合は、この後 で出かけることになる。
 新客は婚礼翌日の里帰りで、婿、嫁、婿の親が嫁方を訪問するものである。嫁方にはシンセキが来ているので、これに挨拶をし、簡単にお呼ばれをして帰って きた。婚家では、この間に嫁の荷物を広げて披露がおこなわれている。片原一色のように、婚礼翌日に新客で里帰りをする事例は尾張西部では少なく、多くの地 域では、婚礼後1週間くらいまでに帰っている。婚礼翌日は女客を招かねばならず、遠方との通婚であれば、里帰りは難しかった。片原一色でも、新客はどこの 家も全部おこなったわけではないという。なお、新客に際して新嫁が着る色留は、新嫁の母の実家で用意するものとされていた。祖父母が孫娘に用意することに なるが、亡くなっていれば、跡取りが姪のために準備をした。
 ヨメサンヒロウはシュウゲンミともいい、新嫁を婚家がツキアイをしている近所の女性たちに披露するもので、「嫁とオナゴ衆との初顔合わせ」であった。朝 は丸くやってもらうためにボタモチ、昼は長く続くようにとうどんを食べてもらった。この場合は一日かけてもてなしをするので、ボタモチなどが作られている ときに、新嫁は寺参り、宮参りなどを済ませることになる。また、ヨメサンヒロウは、新客から戻ってきてから、午後におこなう場合もあった。ボタモチは女客 が手伝いあって作り、婚礼の晩に持ち込まれた地蔵にもお供えした。トナリの人たちはヤウチで呼び、子供の分まで膳を用意したという。講組からは、各家一人 ずつ女客を招いた。いずれにしても、もらうヨメイリ(長男の嫁入り)は身上をかけてやったものであったという。ヨメサンヒロウに招かれた場合は、シュウゲ ン袋という絹製の宝袋のようなものに米を1〜2升入れて持参した。これはご祝儀に呼ばれたときには必ず必要になるため、嫁入り道具として持ってくるもので ある。婚家ではこれを床の間に置き、赤色の大きな袋がずらりと並んだ様子は壮観であった。婚家では、これにお菓子を入れ、「御大儀でした」と挨拶して返し た。この袋は大きいほどよく、建て前、祝言、お七夜などの時にも使った。
 女衆を招く儀礼について、もう少し事例を挙げてみよう。稲沢市北島では、婚礼翌日、近所の奥さん連中を招いて嫁の披露をすることをボタモチヨバレと称し た。招かれるのは、これから新嫁がおつきあいをするグループで、シンセキやトナリ組などであった。招かれた人たちは黒の羽織の正装で来たが、ここではお祝 いの手みやげなどは持ってこなかったという。昔はその家のお嫁さんは容易に外に出してもらえなかったので、ボタモチヨバレには姑さんが来ることが多かっ た。招いた人たちにはご馳走を出した。また、トナリの人たちが餡こを練り、黄粉をまぶして20センチくらいの大きなボタモチを二つずつ作り、折に詰めて帰 りに持っていってもらった。小さいと「あそこは小さかった」と言われてしまうため、大きく作るものだった。新嫁は「嫁さんの格好」か留袖で出席し、姑さん に紹介されて下座から挨拶をした。招かれた人たちは、この時に嫁入りの荷物を見せてもらい、このことをエリカザリと称した。
 美和町二ツ寺では、婚礼翌日、近所やシンセキの女衆を招くことをボタモチと呼び、お嫁さんを仲間に入れてもらう集まりだった。上座には隣近所の人が座 り、関係の薄い人ほど上座で、濃いシンセキは下の方に座った。この時に食べるボタモチは普通の大きさ2個で、持って帰ってはいけないといって、その場で食 べた。ボタモチは丸くおさまるようにという意味であった。ボタモチの時は、一軒の家に女性が二人いれば、若い方の人が出てきたという。ボタモチの他、料理 を取り、お酒も出された。
 七宝町下田では、この集まりをヨメンゾと呼んでいる。招かれた家では、次回の参考にするために記録を残すことが多く、ある話者は、昭和61年におこなわ れた事例を第4表のように記している。ヨメンゾの盛大さがうかがわれよう。
 木曽川町、一宮市、尾西市、稲沢市、祖父江町、平和町、七宝町、甚目寺町、美和町などでは、女客をもてなすためには、ボタモチは欠かせない儀礼食であ り、名古屋市北部から西春日井郡一帯、小牧市、春日井市でも婚礼翌日に作られている。ボタモチは「丸くやってもらうためのもの」といって、新嫁と女衆に親 和的関係を作るものと説明される。また、名古屋市守山区や春日井市などでは、シリスエボタモチといって、新嫁を婚家に落ち着かせるものと説かれる。女客を 招く儀礼自体をボタモチ、ボタモチヨビと称するのも、儀礼食としてのボタモチが強調されたためであろう。
 一方、海部郡南部では、婚礼翌日に女客を招く儀礼はあるものの、ことさらにボタモチを強調することはなく、ボタモチ自体を作らないところが多い。儀礼の 名称もヨメサンヨバレ(十四山村鳥ヶ地)、ナジミ(弥富町寛延)、ヨメゲンゾ(立田村山路)、オヒロメ(飛島村元起之郷)、チャブルマイ・ヨメヨビ(名古 屋市港区西福田)など、女客の招待と新嫁の披露を意味する語彙が用いられている。
 立田村山路では、婚礼翌日はヨメゲンゾで、トナリの若い嫁さんを招いた。この日は、ミツメといって嫁の在所のお母さんがオコワを重のエに入れて持ってき た。オコワはヨメゲンゾの客の数に合わせて用意し、人数が多ければ、5升櫃くらいの大櫃に2杯くらい入れてくる。この時は、新嫁は仲間に入れてもらわなけ ればならないので、一番いい着物を着て実家の母親とともに「よろしくお願いします」といって下座から挨拶をし、お客の嫁さんたちに一杯ずつお酒を汲みあわ せた。ご馳走は結婚式の時と同じようなものを仕出屋から取った。上座に誰が座るかは一番のオトナリサンが決めたが、たいていは年齢順であった。弥富町で も、ナジミにはヘヤミマイとして、在所から赤飯を持ってきた。
 新嫁を女衆に披露をする儀礼は、愛知県内では尾張西部に限られるが、前述したように、岐阜県西濃地方では婚礼当日に女客を招いて披露がおこなわれ、当日 か翌日かという差はあるものの、同性集団への仲間入りが「嫁入り」の中の重要な要素と捉えられている点は同じである。七宝町伊福の男性の話者は、「婚礼翌 日の昼、ボタモチで女の人を招く。シンセキ、ジキドナリ、在所のオッカサンなどで、宴に出なかったシンセキのバアさんなどが中心である。嫁がおつき合いを する人たちとの顔合わせであり、どうぞよろしく、こういう名前のこういう人、顔を覚えて下さいということだった。男は関係ないので出られない。シャットア ウトである」といい、女衆だけの集まりであることを強調している。この地域に、このような同性集団への仲間入り儀礼が濃密に分布している理由は定かではな く、ムラの中の女性の立場などを分析してゆく必要がある。しかし、女衆への披露儀礼は、婚礼自体を派手な方向に導く一つの要素であったことは確かである。

荷物の披露
 女衆へ新嫁を披露する儀礼には、嫁入り道具の披露が伴っている。ボタモチを振る舞われた後、目録を見ながら、嫁が持参した着物などを見てゆ くのである。荷物を披露することをエリカザリとかエリゾロエといい、衣装を衣桁にかけて見せたことに由来する。イショウミセという言葉もあり、嫁入り道具 の多さを自慢するものでもあった。
 もともとは「シンショウのないところはやらないで、中以上の人だけであった。エリゾロイをやる家とやらない家では半々あるかないかくらいだったのではな いか」(祖父江町桜方、大正3年)といい、荷物の披露は、誰もがおこなったものではなく、オダイ衆と呼ばれた地主層などに限られていた。しかし、「たくさ ん持ってきたり自転車などを持参すると近所のうわさになった」(甚目寺町甚目寺、明治44年)のであり、女衆への仲間入り儀礼の中で道具が披露されるよう になると、道具の多寡は新嫁のステータスになった。「物が多いとかわいがられるのではないか。肩身の狭い思いをしないでいいのではないかと思われた」(稲 沢市片原一色、大正10年、13年)といい、親には、道具の多さが嫁いでから後の娘の幸せにつながるものと意識されていた。そして、「嫁がたくさんの荷物 を持ってきたときは在所でも見てもらいたいものであり、エリカザリをすれば荷物を持たせた甲斐があったと喜んだ」(甚目寺町石作、大正6年他)のである。 嫁ぐ娘がエリカザリができるようにという親心が、道具を充実させる方向に働いたと言える。このような状況のもと、見栄が働くと嫁入り道具は必要以上に「派 手」になる。機業地である一宮市宮後の明治44年生まれの話者は、「あそこは何枚持ってきたといって噂になるので、昔は無理をしてでかしたものであった。 競争のようにしていた。たくさん持ってきたことを自慢したいので、姉と妹が一緒に話が決まったような場合、一緒に荷物をでかして妹の分も姉の結婚式の時に 持って行き、婚礼翌日に積んでトナリを呼んで見てもらい、嫁入り過ぎると妹の分を引き上げるような人もあった。着もしないのに着物何枚、帯何本とやってい て、無駄なことだった。財産が傾くくらいに無理をした。どんなに貧しくても、荷物が何もないという人はなかった。風呂敷だけで行ったというような人はほと んどないといってもよい」と語っている。
 「シュウゲンミでは、20〜30人の人が来た。荷物を見て『人絹が入っている』というような声が聞こえた」(一宮市中島、明治43年)という悔しさは、 今も思い起こされるものであり、「見ればうらやましいし、悪口を言ったりする人もいた」(立田村山路、大正2年)のも事実であろう。ムラの中の人間関係 が、一筋縄のものでなかったのは確かである。しかし、そこに嫁ぐ女性にとって過ごしやすい状況を作るには、やはり嫁入り道具を充実させることが必要であっ た。娘の稼ぎがよくなったことが、庶民でも無理をすれば道具を充実させることを可能にしていたし、「エリゾロイは、オチュウニンさんがやった方がよいので はないかと言ってやるものである」(十四山村鳥ヶ地、大正14年)というように、仲人による誘導もあって、道具の多さに代表される「派手な尾張の婚礼」が 一般化していったと言える。

(2)里帰りと嫁の境遇

婚礼直後の里帰り
 婚礼直後の里帰りは儀礼的色彩が強い。その時期は、婚礼翌日という場合と、3日目、5日目、7日目などの場合がある。
 婚礼翌日の里帰りは、本来は在所に挨拶をするだけで婚家に戻ってくるもので、前述した稲沢市片原一色の新客がこれに当たる。一宮市中島でも、婚礼翌日、 新嫁が姑と婿に伴われて在所に行き、お茶を飲んですぐに帰ってくることがあった。そして、これとは別に、1週間ぐらいの間にあらためて里帰りをおこない、 その時は何日か泊まって帰ってきた。婚礼翌日におこなわれる宿泊を伴わない里帰りと、数日後の宿泊を伴う里帰りでは、それぞれ持つ意味あいが異なる。
 春日井市や瀬戸市、名古屋市東部などでは、婚礼翌日の里帰りは一般的で、カヨイとかカヨウ、新客と称している。日進市本郷から瀬戸市美濃之池に嫁いだ話 者によれば、婚礼翌日の里帰りを新客とかミチユキと呼び、新嫁の他に、婿、ムコカクシ、仲人が同行した。「式だけだと、婿方に来るだけのことなのでカタミ チである。これを済ませて帰ってくると、リョウミチがあく」といい、新客は、いわゆる婿入りの儀礼にあたるものであった。一方、名古屋市守山区から春日井 市下市場に嫁いだある話者の場合、いわゆる婿入りは新客として、婚礼当日の午前中に済ませていたため、婚礼の翌日のカヨイには婿は同行せず、新嫁と舅、オ チュウニン二人で嫁の実家に出かけている。新客の時には婿の親は嫁方に赴いていないため、カヨイは両家の親が顔合わせを儀礼として意味があった。瀬戸市、 春日井市のいずれの事例でも、婚礼後、しばらくしてから「初遊び」という宿泊を伴う里帰りをおこなっており、婚礼翌日の里帰りはかなり儀礼的なものであっ たと言える。婚礼翌日の里帰りは地域によるバリエーションが大きく、両家の者がどのように関係を構築してゆくかという観点から、婚姻儀礼全体の中で位置づ けないと理解できない。しかし、尾張西部では婚礼翌日の里帰りの事例がたいへん少ないため、背景がわからなくなっている。婚礼翌日に女衆への仲間入り儀礼 があるため、この日の里帰りは数日後におこなわれる里帰りに集約されたとも考えられる。
 婚礼数日後におこなわれる里帰り儀礼は、姑が新嫁を送って行き、何日か宿泊した後、里の母親が婚家に送ってきて完了する。この時、婚礼以後、婚家で何日 過ごしたかによって、里での宿泊日数が決まるとされるところに特色がある。美和町二ツ寺では、この里帰りをカヨウと称し、婚礼後、婚家に2日泊まっていれ ば、カヨウの時も在所で2日泊まることになった。ボタモチが済んだ翌日に、姑が新嫁を送って行く。嫁方では、嫁と姑の二人分の料理が用意されてもてなされ るが、新嫁の分のご馳走には手を付けず、姑にお土産として持って帰ってもらった。新嫁は2日泊まった後、婚家に戻った。
 尾西市鞆江でも、里帰りの時は、新嫁が婚家に5日いたら、里に戻って5日泊まってきたという。姑が送って行き、婚家に戻ってくるときは実家の親が送って くる。婚家に戻ったとき、近所に風呂敷などを持っていって挨拶をし、これを済ませて、嫁は初めて婚家の人になるといった。

嫁の境遇
 かつての嫁は、夫や舅、姑に仕え、農業や家事を切り盛りするかたわらで育児をこなすことが求められていたのであり、その負担は大きかった。
 「百姓屋の嫁さんは日中、全部野良仕事をやってきて、このあと、洗濯や縫いものなど家事をこなしていたので、男の倍は働いていた。嫁さんをテマガワリと いい、嫁をもらうということは労働者を入れるということであった。当時の女性はただ黙々と働き、ナマカワ(怠ける)ということは聞かなかった。それでも、 嫁いだ家から逃げ出したという人はいなかった」(甚目寺町甚目寺、明治44年男性)のである。
 「『嫁の年季は10年、礼奉公10年』といい、これで部落のことが分かってくる」(尾西市鞆江、大正4年、10年、14年、昭和4年女性)ともいい、家 庭内での実権を握るまでは、嫁は年季奉公をしているようなものだった。
 立田村のSさん(大正2年生まれ)の話は、かつての嫁の境遇を偲ばせるものである。Sさんは、昭和7年、同じムラに住むイトコ同士で結婚をした。イトコ が出征することになり、「戦争に行くとどんなことがあるかわからんで、かわいそうだで。世渡りをさせたいで」ということから話がきたものであった。Sさん は「もしものことがあったら私はキズモノになってどうするの」といったが、イトコの親は責任を持つといい、父親も「運命だぞ」と言ったため、数え二十歳で 結納を交わすことになった。出征前に足入れをし、昭和11年、夫が一時戻ってきたときに結婚式を挙げた。10月に長女が生まれたときに入籍したが、夫はふ たたび出征し、農業と家事、舅姑と8人いる義弟妹の世話に明け暮れ、「火の中に飛び込んだようなもの」だったという。夫の兄弟には、まだ学校に行っていな い子もいて、この子たちの面倒もすべてSさんの仕事であった。「ネエサン寒いよ」と言われれば、物資のない時は、持ってきた着物をこわして着せなければな らなかった。
 Sさんは、嫁として、夏であれば朝3時半に起き、ご飯を炊きつけ、義弟妹の弁当を用意した。午前中は昼までトモ(田んぼ)に出て野良仕事をし、昼飯は朝 の残り物を食べて済ませた。晩御飯のおかずとして、昼に二日おきくらいに行商で売りに来たサバやアジなどを煮付けておいた。この後はまたトモに行き、日が 暮れると食事のマワシ(準備)をした。洗濯は朝、弁当を作ってからか、起きてすぐくらいの仕事であった。
 Sさんの住む海部郡低湿地帯の農作業は重労働であった。二毛作の小麦を収穫し、クネタと呼ばれる高畝をこわして田植えをする時期と、稲を刈って秋仕事を こなす時期が特に忙しかった。田刈りは11月であったが、湿田では、刈った稲はすぐにハサに掛けないと芽が出てしまう。Sさんは嫁ぎ先に男手がなく、稲刈 りをしてハサに掛けるとき、仕事が山のようにあっても一人でやらなくてはならなかった。「死んだ方がいい」と在所に愚痴をこぼしに行くと、「死ぬほどエラ イことはない」と在所の兄に叱られ、翌日、田に行くと、ハサを掛けるための杭を兄が立ててくれていたという。立田村ではホンコさん(報恩講)が新正月だっ たので、これまでにアキ(収穫後の脱穀、調整作業)を片つけたかった。家の中にはカナドオシを使う場がないので、晴れた時に外で調整をやり、トウス挽きは 夜ォサリ(夜なべ)で家の中でおこなった。これも嫁の仕事であった。麦を播くためには田クネの仕事をしなくてはならず、稲株6つで一本の畝を作る6本クネ 田をくねった(作った)。
 Sさんの夫はときどき戦地から戻り、この間に3人の子供が産まれたが、いずれも女の子であった。当時は女の子が産まれても喜ばれず、「ケイキがない」と 称された。女の子が現金を得られるようになるのは工場ができるようになってからのことであり、それまでは男の子のように銭儲けができないばかりか、「仕立 てをしてやらなくてはならず、習い事も必要」で、女の子が多いと経済的にたいへんであった。姑さんからは「女の子三人だとつぶれる」とか「3匹盗人を飼っ ているようなものだ」と言われ、4人目にまた女の子ができたときは、「ひとつもんだ」と言われてたいへん悲しい思いをした。その分、5人目に男の子ができ たときは大喜びで、舅は出産の祝いに鯉を頼んできたという。
 嫁入りの着物は一生のものであり、Sさんは、今もその時に持ってきた着物を着ている。嫁いでから買ったものはほとんどなく、明石一つ買わないでもよいも のであった。普段着も仕立てなおして着るので買うことはなく、買うとすれば寝間着や簡単服くらいのものであったという。盆正月には小遣いをもらうこともあ り、嫁いですぐは盆には明石のような薄いもの、正月であれば一越かお召し、銘仙などを一枚ずつ作ってもらった。嫁の息抜きは、盆と正月に在所に帰ることだ けで、「昔は映画を見に行くようなことは、考えられないことだった」とSさんは言う。
 「主婦になるということは女としての実権を握ることであり、具体的には今晩の食事は何を作るかということを決められることである」(稲沢市片原一色、大 正10年、13年)という。したがって、嫁には食事の献立の決定権はなかったし、家のお金を使うことは許されていなかった。立田村のSさんも、献立は「何 にしますの」と姑に聞いて決めていたし、おかずを買うときのお金は舅からもらった。舅が「サイフを渡す」と言うと、後は家計のやりくりを全部やることにな るが、これはSさんが40代後半になってからであった。「サイフを渡した」ということは責任を渡したということであった。
 Sさんは、嫁ぐ時に「結婚して三日はいい。嫁さんになっている間、三日は一番極楽の世界だ」と言われたという。それからは「家の中に目が多いし、シュウ トに仕えるのが大変」だった。しかし、親が「この敷居をまたいだら二度と戻ってくるな」と言っていたので、どこまでも辛抱した。つらいときに助けてくれた のは、近所で同じ境遇にある嫁仲間であった。普通は嫁同士がおおっぴらに愚痴を言い合うようなことはできなかったため、つらい思いを竹薮の中で語り合い、 スイカを内緒で食べたりしたという。また、夫も「うちにいるとシュウトがおるで、田に行って一服しとれ」といたわってくれた。しかし、嫁にとって一番の心 の支えは、やはり在所であった。
 里帰りは、嫁にとっての最大の楽しみであるが、Sさんの場合、嫁ぎ先に女手がなかったため、里帰りの際も「早く帰ってこい」と言われていた。夕方になっ て在所から婚家に戻らなくてはならない時、ため息をついていると、在所の親は「ご飯を食べて行け」と言ってくれ、ご飯を食べてため息をついていると、「風 呂に入って寝るばっかりにして行け、今日の日だに、いいに」と言ってくれた。在所はありがたかったが、夜になって嫁ぎ先に戻り、「ありがとうございまし た」とシュウトさんに礼を言うと、「夜中にならにゃ帰ってこれんか」と怒られることになった。
 Sさんは身持ちの時、カツオダシの菜っぱの雑炊がどうしても食べたくなったという。婚家では味噌雑炊を作っていたが、これは気持ちが悪くなって食べられ なかった。このことを在所の母に言うと、「昼に炊いておいてやるから食べに来い」と言ってくれ、機屋に仕事に行くと嘘をついて在所に食べに行った。急いで 2、3杯食べて帰る途中、姑と出くわしてしまい、そのときは何も言われず、家に帰ってからびくびくしていると「お前の家は東の方だったな」と嫌みを言われ たという。「悪いことはできないものだ」とSさんは笑うが、嫁の立場の惨めさと在所のありがたさが伝わってくる話である。

嫁と在所
 結婚後も、嫁と在所のつながりは強い。稲沢市片原一色では、里帰りの機会としては、盆、正月、在所の祭り、農上がり、5月の節供などがあ り、婿も一緒についていった。盆、正月は3日くらい、お祭りでも一晩は泊まってきた。また、田植えの手伝いには里帰りをしてもよく、そうすると、在所の方 でもテツダイガエシに来ることになった。宮田用水の水系では、田植えの日にちは上と下でずれていたので、互いに手伝いあうことが出来た。また、嫁いだ年の 盆と節供にはヒトエモノを婿方で作ってやり、これを着せて里帰りさせた。
 初めての正月に里帰りする時、婚家から土産として餅を持たせるところは多い。美和町二ツ寺では、一升餅を2つついて持たせ、帰ってくるときには、そのう ちのひとつを土産にもらって帰ってくる。在所が片親であれば、餅はひとつしか持って行かない。尾西市鞆江では、餅をついて持って行く代わりに、餅米1斗を 持って行くこともあった。5升ずつを2つの竹篭に入れ、前と後ろで棒を通して担いで行った。これは「長い間育ててくれてありがとう」という意味であり、こ の後、嫁の籍を入れる場合もあったという。
 嫁と在所のつながりは、子供が産まれてからいっそう顕著となる。妊娠が確認されたときのタノミノコワイ、5ヶ月目の帯祝いの腹帯、7ヶ月目のオブイワイ のハライタ餅などは在所で用意するものである。初子の出産は在所でおこない、その後も、イゾメ、七夜、カリアガリ、ハシゾロエ、初正月、初誕生、初節供、 初七夕と贈答の機会が続く。特に、初子を在所で出産し、産後三十三日目に婚家に帰る時におこなわれるカリアガリの儀礼では、「小さな嫁入り」とも言われる ほどたくさんの子供の荷物を準備して持参する。以後も、外孫に対しては中元に麻裏、歳暮に下駄などを贈り、孫娘であれば、嫁入りの際の色留を用意しなくて はならない。
 婚家と在所とのツキアイは、嫁いだ人が亡くなるまで続く。稲沢市片原一色では、おばあさんが亡くなると、在所の跡取りの人が来て「一代お世話になりまし た」と、葬式の後のノウレイの時に挨拶をしたし、一宮市赤池では、おばあさんが亡くなった後、三十五日まで七日七日におこなう念仏の費用を、その人の在所 が持ったという。立田村山路でも、嫁いだ女性が死んだ時は「葬式だに、死なしたぜ」とサタが来てから、「三日じゃがなも」と言われるまで、在所がいろいろ と責任を持たなくてはならないといい、トギ見舞いや香典を始め、三日の時はコワイ(赤飯)を蒸して持って行った。海部郡には、火葬後、骨になって戻ってき た祝いとして赤飯を出す習慣があり、それを在所が負担するのである。このように頻繁な在所とのツキアイは、婚家で生活する嫁にとっては心強いものであった に違いなく、在所の負担は、婚家での嫁の地位の維持のためにも必要であった。
 在所は婚家に対しては、同族の本家と同じような役回りが期待されていた。それどころか、「シンヤに出した場合は、何も持って行かなくても姑がいないので とやかく言われることはない。娘の場合はそうはいかない。結局、娘がかわいいので持って行くことになる」(平和町東城、昭和8年)といい、分家した男の子 よりも、嫁いだ娘に対してのツキアイが重視される傾向にあった。そして、同じように緊密なツキアイが期待されていても、本家が分家に対して有力な立場にあ るのに対し、在所が婚家に対して常に劣位に置かれることは大きな相違点である。「在所は招客の時は一番末席である。しかし、法事などの手伝いの時は在所の 跡取りが一番一生懸命にやらないといけない」「在所は一番負担が重く、いろいろと頼まれることはあるが役はなく、発言権もないものである」「嫁が在所に帰 る場合でも、2、3週間前に挨拶をしておかないと『在所が悪い』といって呼びつけられたりすることもあった」「先方にアネサ(娘)がいる場合、苦労が分 かっているので嫁に出しても楽だといった。男の兄弟ばかりであれば、頭を下げてばかりになってしまう」(稲沢市片原一色、大正10年、13年)という話か らは、在所の置かれた境遇がうかがわれる。しかし、「もらったときは逆になるので、結局は同じことである」(平和町東城、昭和8年)といい、在所が様々な 負担をすることは当たり前のように捉えられている。
 このように、尾張西部地方では里方の負担の大きさが顕著に語られるのであるが、このことは、裏を返せば、嫁いだ娘に対し、嫁の在所が後見の立場を取り続 け、また、生児に対しても一定の権限を保有し続けていることを意味する。それは、尾張西部地方が、嫁がいつまでも在所に依存できる社会であったことを示唆 するものとも言える。そして、このように嫁方が多くの負担をするのが当然という社会観念の存在は、婚礼道具を始めとして、嫁方が婚礼に多くの費用をかけ、 儀礼を派手にしてゆくことにもつながってゆくのである。

まとめ

 本報告では、尾張西部地方の婚姻儀礼を概観し、この地方の婚礼がどうして派手と言われるようになったのか、その背景を検討してみた。婚礼の「派手」さ は、結局のところ、婚礼道具の多さに集約される。この地方で、一般庶民も婚礼道具を充実させるようになるのは、それほど古い時代のことではなかったと思わ れるが、大正期以降、その兆しが顕著になってゆく。その要素としては、次のようなことが指摘できるであろう。
1 織物業が発達し、娘の労働力が吸収された結果、たくさんの道具を準備することが可能になったこと。
2 道具と結納、仲人のお礼が連動しており、職業的・専門的な仲人が道具をたくさん用意する方向で誘導したこと。
3 女性に対しての新嫁披露(女衆への仲間入り)の儀礼があり、ここでは荷物の披露を伴ったため、道具の充実が必要であったこと。
4 娘に対して在所が大きな負担をするのが当然視される社会観念が認められること。
 この中で着目すべきは「4」であろう。女紋や位牌分け、男女別檀家など、尾張西部には家族・親族の在り方を分析するため、検討すべき事象が数多く存在し ている。今後の研究が待たれるところである。
 立田村のSさんは、「在所の人は嫁ぎ先に呼ばれたときはいつも隅っこに坐るものだ。最近は、娘の嫁ぎ先に招かれたとき、『いつまでも遠慮していないで上 に坐ってくれ』といわれるが、『習慣だでこれが普通だと思っている』といって、現在も一番下に坐っている」という。しかし、このような、在所を劣位に置く 古い社会観念が、現代の世の中では通用しなくなってきていることは確かである。女衆への仲間入り儀礼も廃れ、代わりに配りものを持参することで済ませる事 例が多くなっている。最近では、仲人を立てない婚礼も目立つようになり、婚姻儀礼に対しては、結婚する当人同士やブライダル産業が主導権を持つようになっ てきている。このような時代の変化の中で、「派手」と言われたこの地方の婚礼も、やがては過去のものになってゆくのであろう。


「地蔵様担ぎ」聞き書き資料

一宮市(築込)
 婚礼の夜、青年会の若い衆の人たち10〜15人くらいで、嫁入りのある家に地蔵さんを担ぎに行った。婚家では、若い衆たちに事前に酒を出し ておいた。若い衆たちは地蔵さんやお墓のガン台、石塔、ロウソク立てなどを持ってきたが、ガン台などはニワに穴を掘り、ワラを入れて簡単には出せないよう にしてしまった。お墓からムラまでは狭い一本橋を渡ってこなくてはならなかったが、ここを重いガン台を担ってくるので命がけであった。ツキアイがない家で は地蔵担ぎがなかったので、それもまた困ったことだった。地蔵などは翌日、シンセキの人たちで返しにいった。地蔵担ぎの若い衆たちには何か言うといけな かったし、花嫁は、夜、酔った若い衆たちががやがやと騒ぐのでこわい思いをしたものだったという。地蔵さんを担いでくる習慣は、結婚式場で挙式するように なってからなくなった。(昭和5年)

尾西市(鞆江)
 結婚したときはお地蔵さんを持ってきてもらわないといけないので、青年会長のところに酒1〜2升とお寿司を持って頼みに行った。そうする と、会長は青年団の人に何時に集合してくれと声をかけた。11時くらいに青年が集まり、飲み食いしてから作業が始まった。結婚式は春秋が多く、夜は酒を飲 まないと寒かった。酒が足りなければ、青年会長が一本出した。地蔵は、神社の参道の入口のものを3体持ってきた。秋葉山の台座に乗っているものは(大きい ので)負んできた。これに加え、墓場の地蔵、石塔も持ってきた。地蔵には番号をつけておき、どこにあったかを控えておく。川向こうの戸狩からも持ってき た。墓には提灯が立っていることもあったが、こういうものも持ってきて便所に入れておいたりという悪さもした。最後には、梯子を掛けて大八車を屋根棟にの せたりもした。
 地蔵には、朝、お祝いとしてボタモチを供えた。ヨドカケを替えたところもある。地蔵を持ってくることには、結婚したら別れない、子供を生むようにという 意味があった。
 コンクリートの地面になって、持ってくる途中で地蔵を欠けさせたり、どこから持ってきたものか分からなくなったりしたため、ムラから青年会に話があり、 この習慣は昭和30年代の終わりになくなった。また、青年も勤めに出るようになってできなくなった。(昭和12年)

祖父江町(桜方)
 婚礼の晩、夜中の1時、2時になると、桜方では、青年団の人がお地蔵さんや石塔をたくさん持ち込んだ。これは長男をもらうときだけであり、 次三男の時はなかった。朝になると、婚家で用意したボタモチをお地蔵さんに供えた。また、青年会に祝儀とお酒を持っていって、お地蔵さんを片づけてもらっ た。
 お地蔵さんを持ち込まれることを「祝ってもらった」という。ムラでハチベ(仲間外れ)になっているような家には持ち込まれないので、お地蔵さんが来れば うれしいともいっていた。経済的には中以上の家でなければ持ち込まなかった。そうでなければ、祝儀を出したりしないといけないので、困ってしまう。青年団 の方でも、祝儀の出せる家にしかお地蔵さんを担いでいったりはしなかった。(大正3年、11年)

祖父江町(四貫)
 家で婚礼をやっていた頃、婚礼の晩、夜中にガサガサといって青年団がお地蔵さんや墓石、肥桶、大八車などを持ってきた。これは、この家に骨 を埋めろという意味だった。青年団には、事前に「嫁さんをもらうでお願いします」といって、金一封とお酒を出しておいた。この量によって持ってくる地蔵さ んの数が違った。酔っぱらってやることなので、石塔を傷つけたり、どこから持ってきたか分からなくなったりもした。翌日、お礼を渡して片づけてもらった。 (大正11年、昭和3年、5年、12年)

稲沢市(片原一色)
 昭和35年頃まで、婚礼のときにお地蔵さんを担いでくる習慣が残っていた。この習慣は「嫁入りのお取り持ち」と称した。お嫁さんをもらう日 に、ムラの若い衆が公民館(元は青年会場)に寄るので、婿の家のお手伝いの人が「よろしくお取り持ちください」と挨拶に行った。この時は、重箱3つくらい に煮しめを詰め、お酒を1升持って行き、若い衆に食べてもらった。若い衆は、嫁入りの日の夜中に集まってムラの中を回り、地蔵さんの他、お墓の石塔、ガン 台、大八車、肥桶などの道具類を嫁入りのあった家に持ち込んだ。持ってくるのは、ムラの中の家の表に置いてあるものはほとんどすべてであった。お地蔵さん は近くのものだけでも5〜6体はあり、お墓のものまで持ってくるとその数はもっと増えた。大八車や葬式のお輿を屋根に飾ったり、ニワを掘ってガン台を埋め たりした。また、ニワトリを家の中に放したり子豚を連れてきたりもした。
 翌朝、お地蔵さんにはボタモチをお供えして、ヨドカケを替えて返した。お地蔵さんに供えるボタモチは、朝早く、シンヤホンヤの人やシンセキの濃い人が 作った。大きさは普通のものであり、ボタモチといってもハンゴロシにしたオハギであった。重くて動かせないものについては、青年団に頼んで持っていっても らった。地蔵さんを持ち込むことは、若い衆が適当に野次馬でやったものであるが、たくさん持ち込まれた方が縁起がいいともいった。戦後、エスカレートして 非常に迷惑を掛けるようになり、話し合いで廃止になった。(大正10年、13年)

稲沢市(北島)
 婚礼があると、宴の最中に青年会の人がお地蔵さんをリヤカーで持ってきて縁側に並べた。この時は、別に頼みにいったりはしなかったが、楽し みも他にはない時代であったので、「あそこが嫁入りだで」といって向こうから持ってきた。これに対しては、お酒と肴の詰まった重箱を渡し、青年会の人たち は別のところで飲んだ。終戦後は、持ってくるものはお地蔵さんにほぼ限られていたが、戦前は釣瓶、大八車、リヤカー、洗濯物など、外にあるものを何でも 持ってきた。大八車は屋根の上にのせたりという悪さをしていた。「嫁入りがあるで隠しておかにゃあ」といって、この時は家の外にいろいろと出ているものを しまっておいたりした。お地蔵さんは北島の各セコ(宝田、六所、中切、上中)のものが4つ、これにお墓の六地蔵が2組加わり、他のムラからも持ってきたの で、全部で20個くらいにはなった。お地蔵さんの裏にはどこのものかをチョークで書いておいた。遠くから持ってきたものは、次の日、トナリの人がおさめに 行くのがたいへんであった。縁側のお地蔵さんには、次の日にオハギを供え、嫁が新しいヨドカケに付け替えた。そのため、嫁入りの道具には、この新しいヨド カケが含まれていた。(大正12年、15年、昭和5年)

美和町(二ツ寺)
 婚礼の時は、その夜、青年団の会所に嫁入りのあった家から酒とツマミ(レンコン、角麩、芋などを煮てキリダメに入れたもの)を持って行き、 オトリモチをしてもらった。青年団の人たちは、縁側にお地蔵さんを持ってきて並べたり、お墓の石塔なども運んできた。ムラにはお地蔵さんがたくさんある が、それを全部運んできた。屋根の棟には大八車をあげたり、筵にお嫁さんの名前を書いたものを用意して、これを幟のようにして立てたりもした。この日は何 を持って行かれても怒れないことになっていて、市に出すためのキャベツをとられ、柿の木に突き刺しておかれたりということもあった。また、肥桶をオトグチ 先のところにつけて、開けるとこぼれるように仕組んだりということもあった。
 お地蔵さんは一晩、縁側に置いておき、翌日、シンセキの人がボタモチを供えて返した。お地蔵さんは、子供がたくさん産まれるようにというまじないでも あった。(大正14年、昭和9年、17年)

甚目寺町(甚目寺)
 結婚式の宴にムラの若い衆が地蔵を持ってくることを「地蔵様担ぎ」と称した。墓場の六地蔵さんを持ってきてニワに並べたが、これは死んだ時 にこの地蔵様に世話になるからだという話がある。また、よそのムラのお地蔵様を持ってくることもあった。方領のお地蔵様が可愛かったので借りて行き、方領 では盗まれたといって大騒ぎになったこともあった。お地蔵様は若い衆が家の中に持ちこみ、床の間に置くこともあった。婚家では若い衆が来るのがわかってい るので、酒2升と重箱二つに肴を詰めて用意しておいた。若い衆はこれをもらって別の所で飲んだ。
 この酒を飲んだ後、悪さをしようかとなると、釣瓶や大八など、近所で外に出してあるものを婚家に持ちこんだ。これは、翌日、近所の人たちが持って行かれ たものを取り戻しに行く際、嫁さんが見られるようにやったのだと説明された。ニワに並べられたお地蔵様にはロウソクとオコワなどを供えた。
 地蔵様担ぎは大正時代にはなかったように記憶してい。昭和の初めから広まったのではないか。昭和15年頃には地蔵様を持ちこんだりということはなくなっ ていた。若い衆は兵隊にとられていたし、酒ももらえなくなっていたのでおこなわれなかったのだろう。(明治44年)

甚目寺町(石作)
 披露宴の時には、青年団の20歳前後の人が地蔵さんを担いできた。これを「地蔵さん担ぎ」といった。石作でこれをやっていた期間は短く、終 戦後から昭和30年代の半ばくらいまでではなかったか。持ってきた地蔵はだいたい2、3体程度で、石作のムラの中にあったものと小路にあったもの、ムラの 北側にあったものを持ってきた。石作には、お墓には石塔もなかったし六地蔵もなかったので、墓から持ってくることはなかった。
 地蔵さんは母屋の前のカド先に置かれ、持ってきた人にはお酒が振る舞われた。一杯飲んだ後は、家の人が寝てから、大八車とか肥桶のようなものも持ってき た。このため、どこかで結婚式があると、「外のものを持って行かれるのでしまっておけ」といわれたものである。大八車などは解体し、梯子を掛けて屋根の上 に上げ、てっぺんにのせてここで輪と台を組立てた。翌日、持ち込まれたものは家の人が片づけ、返しに行った。持ち主がわからなければそのままということも あったし、取られた家の方でも取りに来たりということはなかった。(大正6年、昭和2年、24年)

七宝町(伊福・鷹居・桂)
 嫁入りの時は、夜中に若い衆(青年団)がお祝いとしてお地蔵さんを持っていった。婚礼当日は嫁方と婿方が遅くまで宴を開いている。嫁方の新 客が帰るまでは持ち込めないので、この間、若い衆は段取りをしていた。お地蔵さんは大八車に積んで「ワッショイ」といって持って行き、門先(オトグチ)に 置いておく。そうすると、寿司を出してもらえた。また、墓のガン台を持っていったりもしたが、これは「所の墓に入れ」という意味であった。井戸の釣瓶を 持ってくる場合もあった。山羊を飼っていたところで、山羊を連れてきた場合もあった。桂では、夜中に若い衆のために門先に酒2、3升と一、二重のツマミを 用意しておいておき、若い衆は、この酒の勢いでまた物を持ってきた。こういうことは、やってもらわないと嫌われていることになった。この習慣についての行 事名はなかった。お祝いかたがたのいたずらである。
 翌日、物を持って行かれた家では、嫁さんの顔を見がてら、返しにもらいに行った。お地蔵さんは、翌日、若い衆に頼んで、一杯飲ませてから返しに行っても らった。この習慣は、20年くらい前まで続いていたが、物を持って行かれた家で、それが返ってこなくなったのでやめるようになった。(大正2年、6年、 13年、15年、昭和5年)

佐屋町(大井)
 結婚式の夜、お祝いといって若い衆がお地蔵さんやガン台を持ってきた。大井には青年団が4つあり、嫁をもらうときは「よろしく」といって、 若い衆のところにお金を出した。結婚しても青年団は抜けず、婚礼の時に地蔵さんを持ってくるのはこの仲間である。地蔵は墓場の六地蔵が多く、これは「六地 蔵の前を通るまでいてくれ」という意味であった。舟を入口に持たせかけたこともあった。若い衆は頬かむりをして黙って持ってくる。地蔵を持ってくるのはお 祝いなので、憎まれているような家には持って行かなかった。注連縄を張られたりすることもあった。(大正9年、13年、15年、昭和4年)

立田村(葛木)
 結婚式の夜、若い衆がムシロ2枚を縄で括って横につなげ、これを縦に3〜4枚つなげて幟を作った。ここには、「祝」と記すとともに、婿と嫁 の名前を書いた。姓はいずれも市川として、例えば市川太郎、市川花子というように並べた。氏神さんの幟の柱を1本持ってきて、穴を掘って杭を打ち、ここに ムシロを縛って立てた。ムシロの幟を立てたあと、若い衆は婿の家の隣などで飲んでいた。この酒は婿のところで持っていった。ムシロの幟はよく立てたが、地 蔵を持ってきても1体程度であった。地蔵は庭先か縁側に上げておいた。
 翌朝、幟はムラの人が起き出す前に柱に登っていって切ってしまう。いつまでも幟を立てていると「しみったれだ」と言われた。地蔵は家の人が返しに行っ た。(大正2年)

立田村(宮地)
 中には見向きもされなかった家もあったので、婚礼に地蔵さんを持ち込むのはやってもらった方がよかった。お墓のお地蔵さんではなく、ムラご とにあるお地蔵さんを持ってきた。舟を持ってくる人もあった。縄を張ることもあり、結婚式の翌朝、起きたらいっぱいに張られていて、片づけるのがたいへん ということもあった。酒一升を持ってお礼に行き、よくやってくれたといって始末をしてもらった。(大正2年)



(1) 『愛知県統計書』による。付け加えれば、大正後期から、知多郡域を除いて綿織物業が衰退し、一宮市、中島郡、葉栗郡域で、それに代わって毛織物業 が盛んになっていることがわかる。大正中期までの綿織物業は、かなりの部分が出機によるもので、内職(場合によっては夜なべ)で機織りがおこなわれてい た。
(2) 「甚目寺町誌資料」は、甚目寺町上萱津の丹羽清一氏が、将来の『甚目寺町誌』の刊行を目指してまとめたものである。「出産」に関する章の初めに、 「昭和10年、本県教育会の委嘱を受けた予が、当時在職の学校職員を煩わして資料を収集した。予自身も居村の70歳以上の老媼数名と産婆両三氏とについて 調査した資料を補正した」と記され、「葬祭」に関する章の初めには、「本章は昭和11年甚目寺小学校教職員各位に依頼して、当地方の民間伝承を収集したも のを整理して基礎とし、筆者が多年、伝聞し、また、実行してきた事柄を差し加えて筆述したもので、本町を中心とした尾張平坦部地方の葬祭に関する伝承であ る」と記されている。この資料の一部は、後の『甚目寺町誌』に掲載されている。いずれにしても、太平洋戦争前の甚目寺町の民俗を記したものとして貴重であ る。
(3) 服部 誠『婚礼披露における女客の優位−嫁社会への加入式』名古屋民俗叢書2


「愛知県史民俗調 査報告書4 津島・尾張西部」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書4 津島・尾張西部」編集委員 会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部県史編さん室
  平成13年刊行


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