「尾 東・尾北地域の通過儀礼」
服部 誠  

はじめに

 民俗の地域性を考えることは、個々の事象がなぜその地域に存在しているのかという、文化伝承の根源の問題を考えることにつながる。広範な地域を扱う県史 で民俗を取り扱う際、このことは一大命題であるに違いない。
 地域性の検出のためには、初めに民俗の地域差に着目し、同一の民俗事象の分布領域を重ねてゆく作業が必要となる。その際、通過儀礼は重要な意味を持つ。 多くの通過儀礼は、それを保持する社会組織によって伝承されてきた。この社会組織は、通常はイエの範囲を超えるものであり、場合によってはムラの領域を超 える。産育・婚姻儀礼は婿方・嫁方双方の慣習が混交して執行され、ムラを超えた社会の相互作用によって形成されている。葬送儀礼はムラの中で完結するもの であるが、実際には仏教宗派の展開に左右され、宗派分布に地域性があることから一定の地域的特色が認められる。通過儀礼の一つ一つの事象は、このような社 会環境(場合によっては歴史環境の他、自然環境も作用するであろう)によって形成され、地表面で一定の広がりを持って分布している。同一の通過儀礼を保持 している地域は比較的均質な社会環境を持っていると考えられ、反対に地域相互間で通過儀礼の中身がダイナミックに変化している場合は、そこには社会環境に も比較的大きな懸隔が存在していると見てよい。儀礼の地域差は、社会環境の地域差をも表現しているのである。
 地域差を指摘するに当たっては、基準となる地域が必要である。本稿では、尾張西部を比較の基準とし、尾東・尾北の通過儀礼の地域的特色を示す事象を中心 に報告する。したがって、通過儀礼のうちでも尾張地域全体に広がる事象については概略するにとどめることにする。

1 婚姻

(1)結納まで

娘遊びと夜なべ
 男女が知り合うきっかけとして、以前は若い衆が娘のいる家を訪問して世間話をしてくる娘遊び、夜遊びの習慣があり、この地域ではほとんどの ムラでおこなわれていた。娘遊びは、明治後期からの地方改良運動の中で衰退に向かうが、その存続は、受け入れる娘側の夜なべ仕事の事情によっても左右され ていたと思われる。例えば、早くから機屋奉公が盛んとなった一宮・尾西地域では娘遊びは早く廃れ、刺繍の内職の多かった海部郡中部では、娘遊びは若者が娘 の集まる業者宅に出かける形で昭和初期まで残っていた。したがって、娘遊びを通じて地域性が読みとれる可能性がある。
 尾東・尾北地域は、尾張西部地域のような軽工業の発達は見られず、現金収入と言えば蚕か山の生産物、あるいは亜炭、陶器などの地場産業に依存していた。 したがって、遅くまで一定量の自宅での夜なべ仕事が残り、娘遊びも娘の個人宅を訪問する形で慣行が保持されていた。青年団ではオヒマチといって、春と秋の 農閑期に若い衆が集まって宴会を開くところが多く、青年団の新入りが、先輩に連れられて初めて娘遊びに行く機会になっていた。
 西春日井郡から東春日井郡にかけてのムラでは、農閑期にムシロや陶器を包むコモ、亜炭を運ぶビクを作る夜なべが盛んであった。師勝町六ツ師では、12月 から翌年3月くらいまで夜なべでムシロを織る家が多く、岩倉や比良(名古屋市西区)に売りに行った。娘もムシロ織りの夜なべをしていて、こういうところに 若い衆が訪れた。中には、自分の仕事は放ったらかしで日中に訪れ、気を引くために娘の代わりにムシロを織ってやる若い衆もあったという。娘遊びは3、4人 くらいのグループで出かけ、一人で行くということはなかった。中若い衆と呼ばれた年長者が先頭になり、自転車で出かけたが、行った先のムラの若い衆にヤキ モチを焼かれ、自転車のチューブの虫を抜かれてしまうようなこともあった。出かける先としては豊場や青山(豊山町)、多気(小牧市)、大蒲(名古屋市北区 楠町)などの近郷で、西向きには出かけなかったという。豊場とその南の楠には娘遊びに理解のある家が多かったといい、「豊場女に如意男」という、もてる男 女の言い回しもあった。名古屋市西区比良でも、娘遊びの先としては楠、豊場、青山の名前が挙がる。この辺りから如意(名古屋市北区)、味美や勝川(春日井 市)にかけては陶器を包むヒゲムシロ作りの盛んなところであり、若者の訪問を受け入れる夜なべの環境が作られていたのである。
 春日井市松河戸でも娘遊びは戦後まで続き、「娘遊びはお針や農作業の副業として縄ないをしているところに行った」という。松河戸では、夜なべでジョリか ヘナワ(コマイ縄)を作り、戦後は勝川方面の影響を受け、ヒゲムシロ作りが盛んになった。「セイダシの人であれば夜なべをしていた。親が仕事をすれば、子 供も一緒にやることになる。ラジオのある家も少なかったし、仕事をやるしかなかった」といい、夜なべと娘遊びは対になっていた。
 娘遊びでは、若い衆がアキ(脱穀調製)の夜なべ仕事を手伝うこともあり、娘のいる家では手間が多くなったものだという。瀬戸市山口のある話者によれば、 戦前は若い衆が娘遊びに来て、冬であればトウスヒキを手伝ってくれた。トウスヒキの唄や米搗きの唄などを歌って仕事をし、娘の方も気が紛れて「ユウナビ (夜なべ)がたくさん出来てよかった」という。その後、農協で精米をしてくれるようになると、夜なべのトウスヒキの仕事はなくなり、若い衆は世間話をして ゆくだけになった。
 娘遊びでは、「結婚相手を見つける機会でもあったから、娘のいる家では離れに娘を入れ、お針の夜なべなどをさせておき、青年たちが来ても見て見ぬふりを していた」(春日井市下市場)という。親は遊びに来る若い衆を気にしていて、相手が小作であれば縁側で対応し、自作であれば家に入れるというような、露骨 な待遇差もあったという。しかし、時代が下がるにつれて、娘遊びは正当な配偶者選択の機会であると認識されなくなってゆく。
 戦後は、この地区の娘遊びも下火になった。春日井市下市場のある話者は、青年会のオコモリの際に先輩に連れられて娘遊びに出かけたが、障子に穴を開けて お針をしている娘を眺めてきただけだったといい、「これが娘遊びか」とがっかりしたという。

仲人慣行の混交
 仲人慣行は社会を映す鏡であり、家族や親族組織の違いを反映している。尾張平野部では婿方からだけ立てる片仲人、三河では婿方嫁方双方から 立てる両仲人が一般であった。また、前者は「セケンを知っている」ある程度の専門家、後者では両家の親族代表が仲人を務めることが多かった。境界地域であ る尾東・尾北地域では両者が混交している。尾張における仲人慣行の分布を示したのが第1図である。
 尾北地域から春日井市近辺までは、尾張平野部の仲人慣行が広がっている。岩倉市北島のある話者によれば、昔はどこのムラにも1人か2人、仲人が好きな人 がいたものであるといい、北島の場合はセワヤクと呼ばれた男の人が務めていた。犬山市塔野地でも、仲人は専門でやっている人がムラにいたし、他に、行商な どの商売をやっている人も仲人を務めていた。春日井市木附でも、呉服の行商をしていたおばあさんがセケンの人をよく知っていたため、仲人をしていたとい う。いずれも、半ば専門家である他人を仲人に頼み、婿方からだけ立てている点がポイントである。
 これに対し、瀬戸市南部から豊明市にかけての地域では、両仲人の事例が卓越する。瀬戸市本地では、仲人はたいていはシンセキの人を両方から立て、その理 由として「片方の仲人だと、片方に有利になってしまうので両方から立てる」「ごたごたがあるといけないため」と説明される。尾張旭市稲葉でも、仲人は婿方 嫁方の双方から立て、ちょっと遠いシンセキの人、縁故の人を頼んでいた。豊明市本郷では、「昔はオバゴやオジゴが法事や正月などの際に寄って、甥や姪に話 を勧めた」のが始まりで結婚することになり、相手方もオジゴやオバゴに話を持っていって双方で仲人を務めたという。オジ、オバなどを仲人に立てる場合と他 人を立てるのとでは半々くらいであったという。
 異なる仲人慣行の境界は、瀬戸市北部から名古屋市守山区、名東区あたりに求められる。この地域では片仲人と両仲人事例が混在しているのが特徴で、片仲人 地帯からこの地域に嫁がせた場合は片仲人、両仲人地帯から嫁がせた場合は両仲人となる。この地域から他出した場合は、両方の事例が混在してくる。下水野で は、かつての仲人は婿方からの一組だけということが多く、ムラ内で通婚した場合でも片仲人であった。それが、後になって両仲人の事例が出てきたという。隣 の中水野では、仲人はそれぞれの家の事情によって片仲人と両仲人のいずれの場合もあったと語られ、その東の上水野では、ごく近いシンセキを双方で立てる両 仲人の慣行であった。両仲人を立てる理由としては、「もしももめた時、両方いないとだめだった」と説明されている。いずれにしても、この地域では通婚先と の話し合いでいずれかの仲人慣行を選択するという曖昧さがある。それは確固とした伝承が存在しないということでもあり、事象分布の縁辺地域の民俗の特徴の 一つである。
 仲人に対してのお礼としては、3年くらいの間、盆や正月に贈答をすることが多い。両仲人地帯では、それぞれの側で立てた仲人に対してお礼をし、シンセキ が仲人であった場合は、3年が過ぎればシンセキとしての付き合い方に変わった。仲人への歳暮は、太いゴボウに決まっていたという地域は春日井市から名古屋 市東部、瀬戸・尾張旭市に広がっている。春日井市松河戸では、「仲人のところには、正月前に大きなゴボウを束にしたものを持っていった。太いゴボウはなか なか作れないので、ゴボウの本場で生産された形の揃ったものを、お歳暮用として注文した。親指くらいの太さで、70〜80センチ、7〜8本入っているもの だった」という。このゴボウは縁起の良いものであったといい、八百屋から買ってきた。この地域向けにかなりの量が流通していたと考えられる。

見合と結納
 見合は「昼間だと目につく」という理由から夜におこなわれることが多く、小さな電灯の下での見合では相手をよく見ることもできなかった。犬 山市塔野地のある話者によれば、「娘の家まで仲人に連れられて見に行った。娘は恥ずかしいので顔は見せず、話もできなかった。娘はお茶を出してくれるだけ で、シュウトと話をしてきた」という。見合には、若い衆と仲人の2人で出かける場合が多かったようであるが、青年団の若い衆付き合いが強固だったところで は友だちが付き添うこともあった。この場合、「娘もお茶を持ってくるだけなので、どちらが見合の相手かわからないようなことになった」(岩倉市北島)とい う。
 結納は、片仲人地域と両仲人地域とで参加者の差があるものの、全体的な儀礼の内容は変わらない。三河部では、トックリコロガシといい、結納では酒一升を 飲み干す結納酒の儀礼があり、尾東地域でも、一部にこの習慣が取り入れられている。豊明市本郷では、結納には仲人と親が行き、向こうでも嫁方の仲人と親の 他、ホンヤか兄弟などがいる。酒一升を婿方から持って行き、「トックリがころばにゃいかん」と言ってこれを飲み干した。

地勢による嫁入り先の好悪
 娘にとっては、結婚相手はもとより、どんなムラに嫁ぐかということでその後の生活ぶりが変わってくる。生活が豊かで仕事の楽なところに嫁が せ、苦労をさせたくないというのが親心である。一方、婿方にとっては、かつての嫁は「手間」であり、間に合う労働力を確保することが関心事であった。こう いうところから、自ずと通婚相手地が定まることもあった。尾東・尾北地域は尾張西部のように単純な地勢ではなく、ムラによる労働条件の差が大きかったた め、嫁を出す先やもらう先についての好悪がよく語られてきた。
 犬山市塔野地では、鬼門に嫁を出すのはよくないといい、善師野が悪い方角であった。実際には、「塔野地は、大八で物を運ぶことができたところであるが、 善師野は肩ばかりなので大変だった」といい、山がちな善師野を避けたものである。反対に、善師野から嫁いでくる嫁は「丈夫いのでよい」と言っていた。犬山 の町へは、嫁に出すことはあってももらうことはなく、町場の娘は百姓仕事ができないので、役に立たなかったという。
 現金は使わず、食糧は自給することが当たり前の時代では、嫁の身分にとって、現金収入の豊かさは意味のないものであった。それよりも、食生活の貧しいこ とが苦労の一つになる。日進市本郷から瀬戸市美濃池に嫁いだある話者は、親から「米が食べたかったら南の方に嫁げ」と言われていた。本郷から見て北の丘陵 地は畑百姓の地帯であり、麦飯の麦の混合率が高くなり、そばや粟、キビまでも食べなくてはいけないと心配された。しかし、現金収入という点で見れば、本郷 ではカワキ場(亜炭鉱)のビク編みくらいしか仕事がなかったのに対し、美濃池では野菜の栽培でお金が入って豊かであった。
 尾張旭市稲葉から瀬戸市山口に嫁いだある話者は、父親から「稲葉から川越しするところにはやらん」と言われていた。実際には、瀬戸川を越えて夜遊び(娘 遊び)で来ていた山口の人と結婚した。山口は「男の人は瀬戸に稼ぎに行き、百姓はオンナゴの仕事だった」という山がちな土地柄で、現金収入はあっても田畑 は十分ではなかった。ここで食べるのは「米を探さなくてはならないような麦ばかりのご飯」であり、里帰りすると、「山口が来たで、五目飯を食わせてやれ」 と言って、父親がご馳走してくれたという。
 一般には、同じような土地柄のところに嫁げば、さほどの生活の変化はない。春日井市下市場で、「志段味・出川・明知・吉根など東北の方角のムラとの通婚 が多く、西の方との縁組みは少なかった」などと語られるのも、西方の新田地区を避けたものかも知れない。

(2)婚礼

嫁入り道具と荷送り
 尾東・尾北地域の嫁入り道具は、通常はタンスと長持の2釣りで、「オオヤさんで3釣り」と語られる。「オダイ衆は7釣り」という尾張西部地 域に比べれば、家格による差は小さかったようである。昭和9年、尾張旭市稲葉に嫁いだある話者は、嫁入り道具と一緒に保有米といって、米1俵を持ってき た。これは嫁が1年間食べるもので、「百姓屋の人は、みんなこの保有米を持ってきた」という。嫁は、1年経ってからはじめて婿の家の者になったという。
 嫁入りの荷送りの慣行には、嫁方の者が婚家まで運び入れるものと、途中で婿方から嫁方への引き渡しをおこなうものがある。尾東・尾北地域では後者が多 かった。犬山市楽田二ノ宮では、荷物は嫁入りの午前中に運び、ニツギといって、お宮などを引き渡しの場所に選んで婿方から荷物を取りに行った。ここでは、 嫁方の人と婿方の人とが酒を一杯飲み、この酒は残してはいけないので通る人にも振る舞った。荷はニツギの場所で積み替えていたが、後にはあらかじめ婿方の リヤカーを嫁方に持って行き、そのまま車を受け取って引いてくるようになった。

婿入り儀礼
 婚礼当日の婿入り儀礼は、尾張西部では廃れており、単に婿が嫁を迎えに行く儀礼となっているところが多い。これに対し、尾東・尾北地域の婿 入り伝承は比較的豊富である。
 岩倉市北島では、婚礼当日、イチゲンといって婿、婿の父親、兄弟、仲人の4人くらいが嫁方を訪れた。嫁方ではご馳走でもてなされ、風呂敷を持って近所の 家を廻って「嫁をもらって行く」と挨拶した。婿は先に帰ってきて、嫁と同行してくることはない。嫁が婿方に来るときは、お返しとして兄弟などがついてき て、これもイチゲンといった。人数は互いに同じくらいになるように取り決めをしておいた。
 犬山市楽田二ノ宮でも、婚礼当日の朝、婿、仲人、婿のオジなどが嫁方を訪れる。ここでは親は行かなかった。嫁方では、オジが新客としてもてなされ、その 間、婿は風呂敷を持って嫁方の隣の家をまわり、「隣の娘をもらう」と挨拶してくる。嫁入りの時は、反対に嫁方のオジが新客としてやってきた。
 犬山市善師野でも、婚礼当日の朝、荷物が婿方に来るまでの間に、婿と仲人、シンセキ1人が嫁の家を訪れた。シンセキの人は親代わりで新客といい、仲人が 婿について嫁の近所の家に挨拶廻りをした。この時はナビロウとして風呂敷を渡し、「いただいて行きます」といった。嫁方では昆布茶に饅頭が出るくらいで、 特にご馳走を出してのもてなしはなかったという。
 このような婿入り儀礼は、春日井、瀬戸から豊明にまで広がっている。この儀礼は、本来、婿が嫁方の人たちと関係を築く機会として重要なものであり、嫁入 りに匹敵する重みを持っていたと推測される。ただ、奥三河のように婿と嫁の親との間で盃ごとがおこなわれるようなことは、この地域ではなかった。
 儀礼としての婿入りの古い姿を留めるものに「婿紛い」がある。春日井市木附では、婚礼の日の午前中、新客といって婿と仲人、婿と同じくらいの年の人がア イムコとして嫁方を訪問した。アイムコは婿と同じところに座り、いわゆる「婿紛い」として出かけたものである。尾張旭市稲葉でも、嫁が家を出る前に婿と仲 人、シンセキが嫁方を訪れ、この時には婿と同じくらいの年格好の人がムコマガイとして同行した。名東区高針でも、婚礼当日、婿に同行する同年代の者をムコ カクシといっている。これらは、花婿を擬制し、花婿に魔がつくのを防ぐための存在であったと解釈されている。
 「婿入り」は「嫁入り」と対になる儀礼である。瀬戸市下水野では、婚礼当日、婿方から嫁方を訪れることをデイリといった。デイリは婿と親か兄、母方の兄 弟などが来るもので、仲人夫婦が入ると9人ほどになる。「むこうは何人がデイリで来たで」と言って、嫁入りの際の嫁方のお客もこれに数を合わせた。瀬戸市 山口では、婚礼当日、婿、兄、オジ、仲人(1人)が嫁方を訪れた。嫁方にはそのシンセキが10人から20人くらい来ており、顔合わせとなる。このあと、婿 方での式の時は、嫁方からは兄、オジ、嫁方の仲人が2人で来た。これでミチアケが済むと言った。「カタミチは向こうから来るだけで、リョウミチが開けると 行き来ができる」という。
 日進市岩崎本郷から瀬戸市美濃池に嫁いだある話者の場合、婚礼当日には婿入り儀礼がなく、翌日におこなっている。この日、新嫁はミチユキといって在所に 戻ったが、嫁と両方の仲人、髪結いの他、婿とムコカクシが新客として嫁方を訪れたという。この時、婿一人で行くことはよくないといい、ムコカクシは婿の付 き添いであった。婿より格好がよいとそっちを見てしまうので、オジなど年上の人がついて行くものだったという。在所の方では「嫁入りよー」と叫び、そうす ると婿がどんな人か近所から人がいっぱい見に来たといい、婿のお披露目であった。婿が嫁方の玄関に入るときは、大きな盃でたっぷりの酒を飲まされた。婿は ザシキに通され、ムコカクシが「昨日は無事に終わって、今日はこうして新客に来ました」と挨拶した。嫁方でも父の兄弟や母の在所元、隣近所の人など5、6 人が招かれ、昼をもてなされた。婿方の婚礼だけだと、「婿方に嫁方が訪れるだけのことなのでカタミチである」といい、これを済ませて帰ってくると「リョウ ミチがあく」といった。

出立ちと出棺儀礼の相似
 嫁の出立ちは、離婚されて二度と戻ってくるなということから葬式の出棺に比べられる。このため、両者であい通じる儀礼が存在することにな る。禅宗の檀家の多い尾北地域では、この時にまじないに類する儀礼が目につく。
 キタハンジョウは、ムシロの折り目の輪を南側にして、北向きに端を合わせて敷いた上に花嫁が座り、両親に挨拶をして家を出る儀礼である。葬式の際、北向 きに敷いたムシロの上に盥をのせて湯潅をし、納棺後はそのムシロの上に棺を置いたところから生じたものである。普段、ムシロをこのように敷くことは忌み嫌 われ、二つ折ではなく、四つ折にするものだったという。
 犬山市楽田二ノ宮では、仏壇のあるザシキにキタハンジョウにムシロを敷き、嫁はここに北向きに座って両親に挨拶をした。嫁は亡くなった人の出棺と同じ く、ザシキの縁側から外に出た。外には藁一つを丸く結んだものを用意した。葬式の時はこの藁を燃やしたが、嫁が出るときは火は付けなかったという。嫁が家 を出るとムシロを竹と木で叩いたが、これも葬式の出棺時と同じまじないである。
 ムシロを敷く場所はザシキというところの他、瀬戸市本地のようにダイドコロとオカッテの境の敷居の上というところがある。また、花嫁はムシロの上に座っ て挨拶するだけでなく、両親と水盃を交わしたり(春日井市松河戸、小牧市大草など)、ご飯を食べたりすることもある(瀬戸市上半田川など)。縁切りの気持 ちをいっそう込めたものであろう。ムシロを叩くのには鎌を用いるところもあり(瀬戸市下水野・中水野・上水野曽野・山口、春日井市神屋など)、これらの地 域では、出棺の際にムシロを叩く場合も鎌を用いている。出立ちの際、実際に藁に火をつけるところは瀬戸市の下水野、上水野曽野、本地などである。上水野曽 野では「ムシロを畳んで、畳んだ方を北にして、お世話になったと挨拶をして出てきた。カドでは藁に火をつけ、これをまたいで来た」といい、火をまたぐこと で縁が切られたのである。
 第2図で示したように、葬式のムシロ叩きとキタハンジョウの習慣は対でおこなわれているもので、尾北・尾東の禅宗地域の特徴である。
 出立ちの際に菓子を撒くのは、この地域でも一般的である。この菓子の呼称は、嫁の菓子や嫁菓子と呼ぶところが多いが、豊明市本郷ではカヤと呼び、三河部 での呼称を用いている。

入家と盃ごと
 入家の際のまじないとしては、ワラゾウリの鼻緒を切って屋根に上げることが一般的におこなわれていた。大口町余野では、婿の家に入る際、婿 方で用意したワラゾウリの上に花嫁が足をのせた。婿方のシンセキがこの鼻緒を切って屋根に上げ、もう帰らないようにという意味だった。犬山市楽田二ノ宮で は、ワラゾウリは仲人の女の人が持参し、切ってもすげられるといけないため、鼻緒の横を切って屋根に上げた。
 瀬戸市上水野曽野では、花嫁はオトグチから入り、ここにはムシロ一枚を長く敷いた。花嫁はこの上でワラゾウリを履いた。ここではワラゾウリを屋根に投げ あげることはせず、これを拾うと幸せだと言って、みんなが取り合った。同様のしきたりは瀬戸市山口でも語られ、待っていたみんながすばやくゾウリを取ろう として、花嫁が転びそうになるくらいだったという。
 三三九度は隠れておこなう場合と、みんなの見ている前でおこなう場合がある。この地域では後者の事例が多く、オチョウ・メチョウの子供を仲立ちとし、盃 を干すときはシンセキの者がスルメを箸でつまんで「オサカナこれにー」と叫んだ。

披露宴
 婚礼の宴は、本来は嫁を披露するものであるため、婿の席は設けないという地域が尾張西北部には多い。今回の調査地域でも、豊明市本郷では昭 和40年頃まで婿の座を作らず、婿は居場所がなくて襖を開けてのぞいているくらいだったという。しかし、その他の地域ではザシキの仏壇の前に花婿・花嫁が 着席する場合が多い。この両側に仲人夫婦(両仲人の場合は、婿・嫁のそれぞれの側に仲人夫婦が座る)、ザシキ北側に嫁方新客、南側に婿方シンセキが座っ た。キタハンジョウの儀礼で縁を切ってきた地域では、嫁方の両親はこの場にいないのが普通である。瀬戸市上水野曽野では、婿の南にムコマガイが座ったとい う。
 披露宴の最中に若い衆が祝いに来る事例は、尾北地域に散見する。犬山市塔野地南組や楽田横町などでは、青年会の人が地蔵を持ち込む事例があった。
 岩倉市北島は、独特の青年団組織を持っていたムラである。青年団は予備団、中年団、壮年団の3つの組織からなり、予備団は小学校2〜6年、中年団は高等 科1年〜卒業後3年までの者、壮年団はその上5年間であった。それぞれのグループは固定していて、小学校2年生になっても、すでに予備団があれば、予備団 のメンバーが中年団に上がるまでは青年団には入らない。したがって、5歳違いのグループ(5段のトモダチ)で仲間を作っていたのである。このトモダチの結 束は強固で、「シンセキよりもトモダチ」といって、冠婚葬祭時はもとより、病気の時や農作業が遅れたりしていたときには手伝いをしたりした。婚礼の際は、 トモダチがハヤシコミにやってきて、伊勢音頭を歌った。トモダチは多ければ15人以上になるが、ザシキに上がるのは代表の3人だった。ドンブリ酒を振る舞 われ、「ギザが悪いので残すな」と言われ、3人で一斉に飲んですぐに出てこないと、またつがれてしまうことになったという。これとは別に、青年団からも予 備団の代表が3人来て挨拶をした。このような若い衆による祝いは、師勝町六ツ師などでもおこなわれていた。
 犬山市善師野では、木遣で祝い込みに来たのはムラの人であった。婚家ではムラに祝儀として酒、米、お金を出し、これで味ご飯と煮物(コンニャク、チク ワ、里芋、菜っぱなど)などを作って一杯やってもらった。祝い込みは、祝儀に対しての返礼であった。

(3)婚礼翌日と里帰り

女衆への披露
 婚礼翌日、近所の女衆を招いてボタモチでもてなすのは、尾張西部に顕著なしきたりである。今回の調査地の中でも、尾北地域から春日井市付近 までの伝承は豊富である。
 師勝町六ツ師では比較的派手に実施され、ヨメゴヨビといった。嫁さんの披露としてオハギを作り、近所と婿方のシンセキの女衆を招いて振る舞った。また、 これとは別にお膳も用意し、手土産として紅白の饅頭を20個くらい箱に入れたものを持ち帰ってもらった。披露の最中、嫁の親が紅白の饅頭を持って挨拶を し、これをヘヤミマイといった。新嫁は一番下の座から両方の親と仲人とで、「お世話になるでお願いします」と仲間入りの挨拶をした。この挨拶の後で食事に なり、済んでからお客は嫁の荷物を見ていった。これはエリカザリとかエリイワイといい、昔は引き出しを開けて中を見たり、着物の生地を触ってみるようなこ ともあった。ヨメゴヨビに招かれるのは各家の年輩の女性が多く、黒の紋付、絵羽織でやってきた。
 岩倉市北島でも、婚礼の翌日、シンセキのオナゴ衆を呼んでボタモチを振る舞った。これは嫁の在所が持ってくるのが本当とされ、シンセキの数を聞いて用意 し、お櫃に入れてきたという。ボタモチは「丸くゆくように」という意味だった。
 江南市宮田町四ッ谷でも、婚礼翌日の朝、ボタモチを作った。これはあまり甘くするといけないといった。この日は、エリゾロエとしてトナリの女の人たちを 呼び、箪笥を開けて道具を披露したが、ボタモチはこの人たちに振る舞った。
 犬山市南部から小牧、春日井市方面でも女客を招く習慣は見られる。春日井市松河戸ではこの習慣をボタモチヨバレと呼び、女の人を招いた。女の人ばかりな ので、男の人が来ると体裁が悪かったという。招くのはムラの講組の人と親しい人、シンセキであり、総勢50人くらいになった。ザシキとダイドコロを通しに して座を設け、式当日より人数が多かった。ムラ内であれば、何代も前の昔のシンセキも呼んだ。ご馳走はボタモチと味噌汁で、他に里芋、レンコン、チクワ、 コンニャクなどの煮物を丼で出した。ボタモチは濃いシンセキの人が手伝って作り、シリスエボタモチと呼んだ。普通の大きさの餡と黄粉のボタモチで、よそへ は出してはならず、その場で食べるものだった。また、仲人と嫁の在所(里方)の母が来て、「これから心安く仲良くやってもらいたい」といって挨拶をした。 この時はヘヤミマイといって、紅白の饅頭などを持参する。ボタモチヨバレは、日常世話になってツキアイをする女の人に、嫁さんと心安くやってもらうために おこなうものだった。また、ボタモチヨバレが済むと、エリカザリとして嫁入りの荷物を見せた。ボタモチヨバレに招かれた人は、足袋や半襟などを祝いに持っ てきた。
 春日井市木附でも、嫁入りの翌日には女客がよばれ、ボタモチを振る舞われた。ボタモチはシリスエボタモチという餡と黄粉のもので、シンセキと近所の人が 来て作った。嫁と婿もボタモチを分けて食べることになっていて、大きいほど据わりがいいと言ったので、2人が食べる分は特に大きくした。食べ残すことはで きず、実際には嫁はそんなに食べられないので、婿が一生懸命食べることになったという。最後に嫁が、お客の一人ずつにお茶を汲んで出した。嫁入りの荷物 は、この日に来た人たちが見ていった。
 この習慣は、瀬戸市域を境にしてその南では稀薄になってゆく。春日井市域と通婚が多かった沓掛では、婚礼翌日の朝、近所の女の人が来て、大きなお皿に餡 と黄粉の大ボタモチを作り、これを食べて嫁の荷物を見に行った。しかし、水野地区ではやったりやらなかったりであり、上水野のようにシリスエボタモチを婚 礼当日の儀礼食として出すこともある。南部の幡山地区では、荷物を披露することはあっても、嫁が挨拶をすることもなければ、ボタモチを振る舞うこともな かった。本地では、婚礼の翌日に嫁の荷物をダイドコロとザシキに並べて披露したが、嫁入りのお菓子を持っていってもらうくらいであった。この地域では、シ リスエボタモチの呼称もなくなっている。
 ヨメゴヨビやボタモチヨバレは、新嫁が女衆に仲間入りする儀礼であり、尾張平野に特徴的な慣行と言える。これがおこなわれる地域とおこなわれない地域で は、仲人慣行の相違と同様、社会環境に差があると見るべきである。

カヨイ
 婚礼直後の里帰りは儀礼的色彩が強い。犬山市から日進市周辺にかけては、婚礼翌日にカヨイなどと称し、日帰りで里帰りをするしきたりがあ る。宿泊を伴う里帰りは初遊びといって、この後、日をあらためておこなわれる。新嫁の他の同行者には様々なパターンがあるため、この習慣の意義付けは難し い。
 春日井市木附では、新嫁と姑の2人で嫁の在所に赴いた。オサトカヨイといい、輪帽子は取るが嫁さんの格好で出かけ、在所でちょっともてなされてそのまま 戻ってきた。
 瀬戸市山口や尾張旭市稲葉では、婿方の女性ばかりが新嫁とともに里方を訪問した。山口ではオカヨウといって、新嫁は嫁方の仲人(女性)とオトモ(嫁方の 仲人の娘)、婿方の仲人(女性)、兄嫁などと一緒に戻り、女ばかりの客であった。里方ではお茶を飲んで帰ってくるだけで、新嫁は家の奥には入っていっては いけないと言われた。オカヨウから帰って、初めて新嫁は婿の家の者になると言われた。本地から稲葉に嫁いだある話者も、オカヨイには義姉、義母、おばあさ ん、本家の嫁など女の人4〜5人が留袖を着て行ったといい、新嫁は丸髷姿であった。里方ではお昼のもてなしを受け、これが済むと婿の家の人になった。
 カヨイの客に婿が加わる事例もある。春日井市下市場では、婚礼の翌日にはカヨイといって、新婿と新嫁、婿方のシンセキ(新客)が嫁方に出かけてもてなさ れた。新婿は嫁方の近所に対してトナリアルキをした。この日は新嫁は泊まることはせず、すぐに婿の家にもどってくる。なお、婚礼当日の午前中に新客として 婿入り儀礼がおこなわれている場合は、カヨイの時は新嫁と仲人、シュウトで里方に行っている。先述したように、日進市岩崎本郷から瀬戸市美濃池に嫁いだ女 性の場合も、婿入りと一体化した里帰りをおこなっていた。
 婚礼翌日の里帰りは、これによって、はじめて婚姻関係が成立するという意識があり、本来は婿方と嫁方の相互訪問を形にした儀礼であると考えられる。

初遊び
 婚礼から数日後、宿泊を伴う里帰りが初遊びであり、この地域では広くおこなわれていた。春日井市下市場では、初遊びは1週間くらいたって日 柄の良い日におこない、髪結を呼んで髪をこしらえ、姑に送られて在所に行った。嫁は2〜3日泊まってから帰った。
 なお、結婚して落ち着いてからの嫁の里帰りの機会としては、盆正月の他、節供、祭り、農休みなどがある。初の正月の里帰りは特別な意味があり、在所に帰 るときに大きな餅を持って行った。瀬戸市下水野では、両親が健在であれば二飾り持参し、帰りに一つをもらってきた。片親だけであれば一飾りだけ持参する。 これは尾張地方に広く分布する習慣である。
 瀬戸市山口など、盆に初めて里帰りする際、単衣物を婚家で作ってやり、これを着せて里帰りさせたというところも多く、ボンハダギの名前で呼ばれている。 また、岩倉市北島のように、五月節供にも単衣物を作って里帰りをさせるところがある。里帰りには土産を持参するのが普通で、アキアゲであればボタモチを重 箱に詰めて行った。


2 産育

(1)妊娠と出産

妊娠・帯祝い
 初の子を妊娠したとき、ババサダノミやタノミツギといって在所が嫁ぎ先に挨拶に来る事例は尾張西部で多く語られていた。この時、一宮市中島 のように「頼みのコワイ」という赤飯を持参するところもある。これらは、婚家に対する里方の関係を考える上で、気にとめておくべき事象である。しかし、尾 東・尾北地域では、このようなしきたりの民俗語彙は語られず、どちらかというと低調である。
 帯祝いは腹帯を巻く際の祝いであり、小豆入りの餅を用意する。師勝町六ツ師では、里方で持ってきた1升餅2個ずつを、婚家で講中、隣近所、シンルイなど 20軒くらいに配った。これは嫁さんの在所で持ってくるので、婿の家の人が配る。餅をもらった家では、「チャット、マメに産まれるように」ということか ら、お茶と豆をお返しにくれた。餅を切って小豆が切れれば女の子、切れなければ男の子が産まれるといった。その後、餅に代わって餅米を持参するようにな り、現在はお金を持ってゆく。この餅をもらうと祝いとして産着を贈らなければならないので、「怖い餅だ」などと言う人もあった。
 尾張西部では、帯祝いの餅を用意するのはほぼ里方に決まっている。このため、里方の負担の大きさが強調されるのであるが、尾東・尾北地域では、婚家のシ ンセキの分は里方で、里方のシンセキの分は婚家で用意したというところがある。この場合、尾張西部に比して里方の負担は半分で済む。瀬戸市本地では、オブ 祝いは7カ月目におこない、餅は婿方の分を在所で、在所方のシンセキの分は婿方で用意する習慣だった。したがって、お互いに餅が行ったり来たりすることに なった。ここでも、お祝いを持ってゆくと熨斗袋に入った小豆を器の中に入れて返してくれる場合もあり、家によっては茶が入っていることもあった。尾張旭稲 葉では、腹帯の時のオビイワイノモチは、里方は里方のシンセキの分、婚家は婚家のシンセキ分を用意して配った。「財産家だと、在所で全てを用意して、両方 のシンセキに配ったということも聞いたことがある」といい、そのような事例は特殊なもののように捉えられている。
 腹帯は、妊娠5ヶ月目か7ヶ月目の戌の日に巻く場合が多く、里方で晒を用意した。初の子は里方で出産するしきたりであるため、里方の近くの産婆さんに巻 いてもらったという。

産育に関わる信仰
 妊娠中の禁忌として一般的に語られているのは次のようなものである。「葬式を見ると黒い痣、火事は赤い痣ができる。痣は手でなぜたところに できる。葬式の時には帯か懐のところに外に向けて鏡を入れておいた。柿は冷えるので食べなかった。手を伸ばして上のものを取ると、お腹の子が乳を放すので いけないと言った。お釜の蓋か何かの上で包丁でものを切ると、グチョウの子が生まれると言った」(春日井市松河戸)。語られている事柄には、地域的特色は 見られない。
 子供の神として、この地区では犬山の尾張富士(浅間神社)、小牧の大山(児神社)、日進市岩崎本郷のおカタ様(香良洲神社)などが知られている。しか し、それぞれの信仰圏はさほど広くなく、むしろ名古屋市天白区八事の塩竈神社に参拝する人が広範囲に認められる。産育に関わる信仰は流行神的性格があるた めの現象であろう。小牧市間々の間々観音には乳もらいの信仰があり、乳型をつけた絵馬を奉納する習慣が現在でも見られる。

産婆と出産
 昭和の初期では、ほとんどの地区では免許を持った助産婦、いわゆる産婆さんが活躍していたが、一部では前代からのトリアゲバアサンが子供を 取り上げていた。山間のムラである瀬戸市上水野余床では、付近では水野か品野に行かないと産婆がいなかったため、戦後まもなくまで、手慣れたおばあさんが 取り上げをしていた。お礼は下駄一足くらいのことで、茶碗に一杯の飴をで終わりということもあったという。下水野でも、元は近所の手慣れたおばあさんに 「世話かけるが頼む」と依頼し、取り上げたもらった。上手にへその緒を切って後産を離してくれ、湯を遣わしてくれたという。大正末期から昭和初期にかけ、 学校を出た産婆さんが現れるようになると、取り上げはその人に頼むようになっていった。
 出産の姿勢は座産から寝産へと変化した。座産は産婦側にとっては自然な体位である。日進市岩崎本郷で初の子を出産したある話者(大正10年)は、産気づ き、産婆さんを呼びに行く前に生まれてしまった。その際、姉から「生まれるなら座れ」と言われ、しゃがんで四つん這いに手をつくような格好で出産したとい う。「座って生む方が安産だった。座っていると踏ん張って力が入る。寝ていると力が入らない」といい、産婦本位の出産の体位は座産であったことを語ってい る。しかし、座産の姿勢は子供を取り上げる際には不都合であるため、職業人として産婆が出産に関わるようになると敬遠され、寝産が奨励されてゆく。
 現在、座産の伝承はだんだんと語られなくなり、大正末期から昭和初期の事例は尾張西部ではほとんど得られない。尾東・尾北地域の一部でまだその経験を聞 くことが出来るのは、トリアゲバアサンが遅くまで活躍していたことと関連がある。
 瀬戸市上水野曽野のある話者(大正13年)によれば、「前のおばあさんの話では木から下げた紐にとまってすがって産んだ」といい、大正年間には座産がお こなわれていた。同じく余床のある話者(大正6年)は、戦後の出産でもシュウトさんが取り上げ、座産であった。「寒い時期でコタツを股に挟み、座って産ん だ。正座して、出るときはお尻を上げる。頭が出たときに卵を飲むと楽に出ると言った」という。下水野のある話者(大正6年)の母親も座産であった。「ナン ドで出産したが、子供には様子を絶対に見せず、部屋に入るなと言われていた。小学校に入る前、産後になにかの都合でナンドに入り、出て行けと言われて走っ て出てきたことがある。そのとき、お母さんは足を投げ出して布団にもたれていた。畳はそこのところだけをどかし、ムシロを敷いて座っていた。七夜までは ずっとその姿勢だったらしい」といい、古い時代の産褥での過ごし方も記憶されている。
 なお、初の子は里方で出産し、産の場所としてナンドをあてることは共通している。里方に戻っている期間は三月またぎにならないようにし、肥立ちが悪くて 3ヶ月目に入るときは「在所に一度着ているものを持って帰って、それから戻るとよい」(大口町余野)などという。
 出産時の汚物を吸わせるため、藁灰を詰めた灰布団を用意することは一般的である。瀬戸市本地では、「灰布団の口を締めると生まれない」といって、出産間 際になって閉じることになっていた。
 後産は、春日井市松河戸では屋敷内のハンヤ(灰屋)の隅に穴を掘って埋め、またがないようにしていた。家を移転した際、知らずに後産を埋めた場所に家を 建ててしまうとよくないとされる。この地域全体では墓地に埋めることが多く、汚物の捨て場所として穴が用意されている場合と、その都度掘って埋める場合が ある。いずれにしても、「日に当たるともったいない」といって、薄暗くなってから男の人が埋めに行くものだった。

出産祝い・イゾメと食べ物
 帯祝いの餅をもらった家では、出産祝いとして産着を贈った。生児の死亡率が高かった時代では、「生まれた子が早く死ぬといけないので丈夫に 育つことが確認されてから、少し遅れて贈った」という。
 産後に餅を贈る習慣はイゾメの儀礼と関わって語られることが多い。イゾメは生後三日目の祝いで、里方で出産した場合は婚家で、婚家で出産した場合は里方 で餅を用意して持参する。この習慣は三河平野部などでも顕著に見られるが、尾張西部では希薄で、イゾメは「産婆が来て湯浴みをさせてくれる日」という程に しか理解されていないところが多い。尾東・尾北地域ではイゾメは一般的な儀礼で、イゾメの餅、ハラワタ餅などと呼ばれる餅が用意される。瀬戸市沓掛では、 初の子のイゾメの時は里方に婚家から餅をついて持ってきた。丸い餅二つでイゾメの餅といい、この餅を食べると乳の出がよかったという。産婆さんが来てくれ るとともに赤ちゃんを洗ってくれ、また、産婦の乳を熱いタオルでもんでくれた。春日井市松河戸では、産婦の体力が回復しないイゾメまでは乳を与えず、アマ モン(砂糖水をガーゼで含ませた)を飲ませていたといい、イゾメは産婦にとっての区切りでもあった。
 なお、乳がよく出るようになる食べ物としては、餅の他にはボタモチ、赤飯、鯉などが語られる。反対に乳が出すぎてねまって(腫れて熱を持つこと)しまっ たときは、ウキンスを生で飲むとよいとされた。ウキンスはメダカのこととも、メダカとは少し種類が違う小魚ともいう。
 古血をおろす食べ物としてはズイキとスルメがあげられ、豆と一緒に砂糖醤油で煮たりした。

七夜・名付け
 生後7日目の七夜では、大がかりな祝いはおこなわれない。尾頭付きと赤飯などを用意し、産婆をもてなすとともに床の間に供えるくらいであっ た。床の間にはウブの神がいるといったが、実体のないものであった。
 命名は七夜におこなうというところが多く、付けた名前を紙に記して貼っておく。春日井市松河戸では、おコシン様月(お庚申さま月。庚申がある月)に生ま れた子には金偏の名前を付けなければいけないといい、そうでないと泥棒になると伝えていた。子供がたくさんいてもういらないという時、女の子であれば「は ぐり」と付けたという話は春日井市、瀬戸市などで聞かれる。
 松河戸では、父親が42歳で産まれた子供は育たないというため、四つ角に箕に入れて捨て、シンセキを頼んで拾って連れてきてもらうということがあり、そ ういう子には「捨松」と付けたりした。

(2)産の忌み

産の忌み

 かつては出産をケガレと考えることがあり、三河山間部では別屋、別火の生活を送るムラがあった。尾張平野でも、古くは別屋、別火の習慣が広く分布してい たと思われる。西部地域では産の忌み明けは生後33日目前後とされ、これをカリアガリと称するのは、かつて「仮屋」で出産していた時代の名残であろう。し かし、伝承でそれを確認するのは難しく、かなり古い時代に産の忌み観念は薄れているようである。真宗の力の強い地域であることとも関係があろう。これに対 し、尾東・尾北地域のうち東春日井郡を中心とするムラでは、産の忌み観念が遅くまで残っていた。生児の忌みが33日前後で明けるのに対し、母親のそれは 110日にまで及ぶとされる。
 名古屋市守山区川村では、「死んだ人は火が汚くなるが、産の汚れはそれ以上である」と伝えている。このムラでは、毎月15日、報徳さんといって伊勢神宮 を祀る講をおこなっているが、家でお産があった場合は出席を遠慮する習わしであった。不幸があったときにはその定めがなく、産のケガレが強く意識されてい たことがうかがえる。
 瀬戸市上水野曽野のある話者(大正13年)は、お産はコヤの道具を片づけてそこでおこなったという。コヤはオモヤの東に3尺離れて建ち、中は3部屋に分 かれ、物置とコナシベヤとして使われていた。ナンドは夫やシュウトが寝るので出産に使えず、コナシベヤの縁の張ったところで出産した。出産の時は油紙を敷 き、ツヅレ(布団のトケ=綿を取った外のカワ。ボッコにしていたもの)を敷いた。コヤには33日のヒアガリまでおり、この日、タキモンのススで真っ黒に なったヤカンやお釜の下を丸めた藁できれいに磨いて炭をとり、ヒアガリになったという。これで初めて井戸の水を汲むこともできるようになった。それまで は、日に当たってももったいないと言い、井戸の縁にも立てず、おしめを洗う水も誰かに汲んでもらわなければならなかった。この事例では別火はおこなわれて おらず、奥三河の産小屋の習俗に結びつけるのは早計であろう。しかし、「火が汚くなる」と言ったり、忌み明けの際、産の忌みがかかった期間の火をきれいに する(炭をとる)行為は、火によってケガレが伝わってゆくという古い時代の観念を伝えている。
 瀬戸市山口では、出産後はイゾメまで起きてはいけないといい、ヒチヤまでは日の当たるところに出られなかった。また、ヒチヤからヒアガリまでの間は、日 に当たるのはもったいないので笠をかぶって外に出た。ヒアガリはお産の忌みが明けるときで、女の子は産後12日くらい、男の子は20日くらいだったとい う。ヒアガリの日には、「お産の時は汚れているので、お釜、ヤカン、鍋など、火を焚いて底が煤けているものの炭を包丁や鎌でこそげてとって洗い、きれいに した。お産をしたところにはお神酒を供えた」という。ヒアガリが済めば、オビタテ前でも隣の家に行ったりしてもよかった。
 日進市岩崎本郷では、出産後、女の子は2週間、男の子は3週間でヒアガリになった。それまでは身体を清めていないので、家の外や隣などには出られなかっ たといい、ナンドの中で暮らした。ヒアガリまでの間、産婦のご飯を別に炊くということはなく、ヒアガリで火を清めて元の生活に戻った。この時に残っていた ご飯は塩で清め、クドにも塩を振って火を浄めてから新しいご飯やおかずを炊いた。このご飯はオブの神さんや仏壇、神棚に供えた。オブの神さんは子供の神さ んで、ナンドの枕元にご飯を供え、「今日はヒアガリだで受け取ってください」と拝んだ。産婦はお風呂に入り、これで神様の前に行けるようになったという。 ここでも、火に関する忌みが強く意識されている。
 産の忌みは戦後になってからも意識されていた。瀬戸市中水野のある話者(昭和3年)は昭和27年に出産したが、この時は「1カ月くらいはヒがけがれると いって外へは出られなかった」という。また、「クドがだめなのでオカッテはできなかった。水を汲むのはよかったが、在所の母親が水を汲んできてくれて顔を 洗い、7日くらいは産んだところを動かさないようにしていた」「産後は楽ができた。体を休める期間でやかましかった」といい、忌みの期間は骨休めの期間 だったと意識されている。
 ヒアガリの時期はムラによってまちまちであり、1週間から33日くらいまでの幅がある。忌みは徐々に薄れてゆくものであり、本来はある日を境に完全に元 の生活に戻るということはなかった。偏差が生じているのはこのためであろう。ヒアガリの後、産婦が完全に元の生活に戻る区切りとしては百十日が意識されて いる。

月ごとの忌み
 産の忌みが顕著である地域は、当然ながら女性の生理の忌み観念も強い。春日井市松河戸では、女の人が月のものの時は「ヒが悪い」といい、月 のものが済めば、クドを掃除して新しい火にした。夏の祇園祭の時にオマント(飾り馬)を出すヤドになると、ヒの悪い女の人は家にはいられなかった。また、 御嶽さんの行事でおにぎりを用意する際も、ヒの悪い人が握ったらだめだと言われていた。正月のドンドで焼いた餅はキヨメの餅になるといい、1年中とってお き、何か不浄のことがあれば少しずつ食べて浄めをおこなった。家族に生理の者がいてヒが悪いとき、男の人が神様のところに行く際にはキヨメの餅を食べて行 くとよかったという。
 月ごとに対するケガレの意識は、聖なるものへの畏れの観念と裏腹である。春日井市下津では、火事の時、初潮の時の腰巻を振ると火災ヨケになるという話が 伝えられていたという。

オビタテ・ウブアガリ
 オビタテ・ウブアガリは、里方で出産した場合、婚家に戻る日である。この日は婚家の氏神に宮参りがおこなわれる。
 岩倉市北島では、ウブアガリは女児30日、男児31日におこない、母子を長く里方に置いておくことはできないので、雨が降っても戻ったという。この日は 乳母車、子供ダンスなどを里方から持参し、婚家のシンセキを招いて祝った。お宮へは姑と里方の母親が赤ちゃんを連れて行き、神酒を供えてくる。シンセキか らはシラガにお金をつけた犬張り子をもらった。
 尾張平野部では、宮参りの際は母親も一緒にお参りし、この日で産の忌みが明けるとする場合がほとんどである。しかし、春日井市、瀬戸市、尾張旭市のムラ などで産の忌み観念の強いところでは、この日はまだ母親には忌みがかかっているとし、神参りを避けている。この場合、母親は参加せず、赤子を姑が連れてお 宮に参る場合と、境内に入ることもはばかり、お宮の下から遙拝する場合がある。
 春日井市下市場では、オブスナマイリは女の子は生後32日目、男の子は生後33日目であった。女の子が一日早いのは、大きくなって月のものがあるように なるとお宮に参れないため、その分を早く参るのだという。在所で出産した時は嫁の母親、婚家で出産したときは姑が連れて行った。出産をした母親は、出産後 100 日はお宮に参れなかったため、この日は留守番をしていることになった。
 瀬戸市下水野では、「親はヒがあたらしい」ため宮参りについて行くことができず、姑がオブギを着せた赤ちゃんを抱いていった。しかし、ここでは赤子も神 前まで進むことはできず、お宮の下で参ったため、これを三十三日の坂参りと称した。
 瀬戸市美濃池でも、お宮参りはオビタテの日かその翌日におこなったが、姑が赤子を抱いて鳥居の前でお知恵をもらってくるといい、拝殿の前までは行けな かった。
 このように、宮参りと称しても境内に入らない事例が多い。この地域の宮参りは、後述するように百十日におこなうのが本来の姿だったと考えられる。ここに 尾張平野部の三十三日の宮参りの習慣が混交し、二度に分けて宮参りがおこなわれるようになったものであろう。三十三日は、元は初外出の儀礼として坂参りの おこなわれる日であったと思われる。
 坂参りは、母親がけがれているため、お宮の坂下で参拝をするものと解される場合もあるが、本来は赤子の忌みが明けたことで、坂などの境の箇所を越える儀 礼であったものだろう。瀬戸市山口では、生後33日にオビタテして婚家に戻るとき、産婦はどこでもよいので坂に行って戻ってきた。これを三十三日の坂参り と言った。尾張旭市稲葉のある話者は、瀬戸市本地の実家で出産し、オビタテで婚家に戻ってくるとき、里方で坂参りを済ませてきた。これは子供を抱き、お宮 を向いてお参りをするものであった。春日井市木附では、里方で出産した場合、男の子は31日、女の子は32日で婚家に戻った。この日は初めて子供が外に出 る日であり、辻参りをした。四つ辻の角に紙に包んだお金と米を供えるもので、ついてきた子供がそのお金を拾っていった。辻もまた境であり、奥三河でおこな われる初外出儀礼のハシコシ、ハシワタシなどと通じるものと言える。辻参りの辻は必ず四つ辻でなければならなかったといい、疱瘡送りに三つ辻が選択される のとは対照的である。何かを送るための境と、ケガレを克服し、何かを迎える側に立つ境とは別のものであったのだろう。

百十日
 生後33日前後に、母子が揃っての宮参りをおこなわなかった地域では、生後110日に本式の宮参りをおこなう。春日井市木附では、この日に ヒャクトオカと称し、氏神・白山社に参拝した。帯祝いは在所の負担でするが、お宮参りは嫁ぎ先で負担するものだった。在所ではお膳を作って送ってくるの で、おハシトリといって箸を取って御飯を食べさせた。春日井市庄名では、生後110日にウブスナ様に参り、赤飯のおにぎりを重箱に詰めて供えた。宮参りの 帰り道で誰かに会えば、おにぎりをあげた。ヒャクトオカに参らないと、また110日が過ぎないとお宮に参れないと伝えており、この日の宮参りは、産の忌み を終える節目として欠かせないものであった。
 ヒャクトオカの宮参りでは、110個の供え物が強調される。瀬戸市美濃池では、この日に1升の米の粉で110個のオカズ(米粉の団子)を作る。オカズは 真ん中を指で押して穴をつけた米粉団子で、紅白のものを作った。100の知恵より110の知恵ということで110個作るものといい、足りなくても余分でも ダメだった。米粉を蒸したものを大きく5つくらい分け、これをちぎってちょうど110個になるようにした。宮参りの時は、母親も付け下げを着て本殿の前ま で行って参り、オカズを供えた。子供がいっぱい寄ってくるので、帰りはオカズを2つくらいずつ配った。これは子供の仲間入りの意味だったという。
 ヒャクトオカでの宮参りは産穢を重視したものであり、出産後33日前後を産の忌み明けとする尾張西部の慣行とは異なる。第3図では、調査分の尾張地域で のヒャクトオカの宮参りの分布を示した。正式な宮参りを生後110日とする習慣は、知多半島南部、西三河北部の他、愛知三島、渥美半島などに広がってい る。忌みの意識を考える上での指標になるものであろう。

(3)成長の祝い

初節供
 三月の節供の際、女児に雛を贈る習慣は一般的であるが、男児にも人形を贈る地域が県内にも散見する。今回の調査地域では春日井市や小牧市で 伝えられていた。春日井市木附では、昔の雛人形は瀬戸物で、男の子でも濃いところからは天神様の人形が贈られたという。したがって、男の子は3月と5月の 2回、お節供があったことになる。下市場では、兄弟やシンセキ、トナリなどから男の子には福助、加藤清正、鯉を抱いた子供など、女の子には汐汲みなどの土 人形が贈られている。小牧市大草でも、男の子に金太郎や奴さんの人形が贈られた。
 三月節供の供えものとして、瀬戸市下水野では菱餅、ご飯、汁、串に刺したアサリ、昆布、イワシの開き、ツボとワケギを和えもの、お酒などを供えた。ま た、米粉を型に入れて抜き、着色して蒸したオコシモンをたくさん作った。型には鯛、花、桃などがあった。また、餅の軟らかいうちに枝のある笹竹に刺してア ラレを作り、ひき臼の穴や割木の束に挿してお雛煎餅を糸でぶら下げた。
 三月節供の時は子供がアラレをもらいに来る。春日井市松河戸では「オガンド打たしてちょー」と言ってくるので、初節供の家では特にたくさん出したとい う。豊明市沓掛町本郷では、三月節供の菓子は初節供の時だけに配り、カヤといった。昔はカタパン、アワジセンベイなどを手づかみでくれ、もらいに行くため の赤白紫の布袋もあった。三河部では嫁入りの際の菓子をカヤと呼ぶが、相通じる名称である。
 五月節供には地域的特色は見られない。かつての鯉のぼりは紙製で、すぐに破れたという思い出がよく語られている。

初正月・初誕生
 初正月には、里方やシンセキなどから破魔矢が贈られた。小牧・春日井・瀬戸地区で贈られたものは、50センチほどの幅の板に張り子の飾りが 取り付けられたものであり、特色がある。男児には弓矢、女児には羽子板や鞠がついていた。他にも鶴や花が飾られ、花輪のようなものである。もらった破魔矢 は鴨居に釘を打って飾り、これがいっぱいになった。破魔矢は小牧や鳥居松(春日井市)、瀬戸などの町で買い求めた。
 破魔矢についた小さな飾りものは、正月過ぎに隣近所に配ったほか、小牧市大山の児神社に納めに行く地域もあった。春日井市木附では、1月25日、大山の オチゴさんの行事の時に持って行き、児神社に納めてある破魔矢から、男児が欲しいときは男児の飾り、女児の欲しいときは女児の飾りをとってきた。これは神 棚に供えておいたという。
 初誕生には嫁ぎ先で誕生餅をつき、シンセキなどに配った。お返しとして下駄や長靴をもらった。餅は足の形のもので、紅白2つである。子供に持たせても、 昔は歩く子は少なかった。「がに股にならないように、巻おむつで足を縛っていた」からだという。

初七夕・八つ八月
 いわゆる七五三は、この地方では古くからの儀礼ではなく、マスコミの影響などで新しく盛んになってきたものである。7歳頃の成長儀礼として 地域的な特色があるのは、初七夕と八つ八月であろう。
 初七夕は、小学校1年生に上がった7歳の年におこなわれる七夕の祝いで、尾張平野部にはかなりの地域でおこなわれている。大口町余野では「1年生になる と、里方から七夕が来た」といい、2本の笹に長いひらひらの飾りのついた提灯をつけた。笹はカドに立てて真ん中に竹を渡して提灯をぶら下げ、野菜、果物を 供えた。後から七夕の竹は切ってシンセキに配り、もらった家では雷除けとして裏の戸のところに挿しておいた。瀬戸市山口では、1年生の七夕には、里方から 短冊が届けられ、一軒一軒で七夕を飾り、お祝いして供えものをした。短冊は一人や二人では書ききれないほどの数だったという。七夕飾りは大きな竹で、カド に1〜2本飾った。短冊の他、三角の提灯などもぶら下げた。翌日、子供が飾りもらいに来るので、一枝ずつ折って与え、ナスの畑に立てておくとよかったとい う。春日井市松河戸では、七夕の夜、子供たちが集まって1年生に上がった子の家を廻り、初七夕の飾りにお参りさせてもらった。この時は「南無徳天神様のミ コト、イチジーブツ十王大王、南無天神キョウのミコト」と唱えていった。初七夕では小さな天神様を祭ったという。
 八つ八月は、犬山を中心とする尾北地方独特の成長祝いで、数え8歳の年の8月におこなう。犬山の針綱神社や大県神社などに参拝することが多い。大口町余 野ではヤツ八といって餅を配った。これは男の子だけで、女の子はやらないという。江南市宮田町四ツ谷でも、男の子に烏帽子をかぶせて神社に参った。
 初七夕では農耕儀礼や天神信仰と関係する点、八つ八月では8歳の8月を節目とする点などが特徴である。単に幼児期から少年期に移行するための儀礼という にとどまらず、多角的な分析が必要であろう。

3 葬送

(1)死から通夜まで

死の予兆
 死の予兆を示す伝承には、地域的特徴はない。カラスが元気のない声で鳴くと不幸があるというのは、この地域でも一般的に語られていたことで ある。この時の鳴き声は長く引きずるようなもので、「カラスは葬式のお供えを食べられるため喜んで鳴く」のだという。死期の迫った人や家族にはカラス鳴き は聞こえないとされた。手でも足でも、魚の目が内側にできれば身内が亡くなるというのも、広く語られている。
 人が死ぬ時には人魂が抜けると言って、卵くらいの大きさで青や赤の色をしたものが、尾を伸ばして波をうってフワフワと飛ぶのを見たという話もよく聞かれ る。落ちたところにはドロドロしたものが残ると言った。「川を越えると長生きする」と言ったり、「寺の本堂の戸は、魂が入るために一番上の障子が切ってあ る」というのも、多くの地域で伝承されてきたものである。
 死期が迫ってもなかなか息が切れないときは、扇子の要を取って屋根に上げるまじないがあった。

遺体の安置
 春日井市下市場では、死者が出るとナンドにムシロを敷き、その上に蒲団を敷いて北枕で安置した。大昔はムシロの上に直接安置したという。魔 が来て死者を連れて行かないようにするため、遺体の上に鎌を置いたり、白い紙に包んだ剃刀、短刀を枕元に置いたりした。枕元には、一本線香、ろうそく、箸 を挿したご飯のお膳を置いた。神棚には白い紙を貼ってふたをし、火の用心のお札なども紙で隠した。また、遺体をまたぐことがあるといけないので、犬や猫は からげておいた。瀬戸市上水野余床では、猫が遺体をまたぐと死んだ人が踊り出すと伝えている。
 春日井市松河戸では、昭和初期の葬式では、糸枠の上にオサをのせ、枕元に置き、小皿に油を入れてトウスミを浸し、火をつけたという。古い時代のしきたり である。瀬戸市沓掛でも糸枠とオサを枕飾りに用い、枕元に糸の枠を二つ置いてこの上にオサを渡しかけ、そこにロウソクと線香をのせたという。
 通夜の日は、一晩、線香とロウソクを絶やさず、遺体とともに夜明かしをする。

湯潅から納棺まで
 湯潅の際にはムシロをキタハンジョウに敷き、ここに盥を置いて遺体を洗った。春日井市下市場では、タチガン(座棺)の時代では死後硬直が起 きる前に足を曲げておかなければならなかったため、納棺は通夜の前後におこない、湯潅をして死装束を着せ、足を折り畳んで紐で縛っておいた。死者の頭を丸 め、遺体は子供や嫁など女性が洗った。遺体には晒で作った白い経帷子を逆さまにしてかけ、衿は付けず、縫った最後は戻し針にして玉留めは作らなかった。ま た、遺体の額には梵字を記した三角の白い紙を付けた。棺の中には紙に丸を6〜7個描いたお金、新四国の朱印帳などを入れ、乾燥させたお茶の葉で顔だけが出 るように埋めた。このため、年寄りがいるイエでは、夏にとったお茶の葉をゆでて乾燥させ、藁の叺や南京袋に一杯とっておいたという。茶の葉や茶殻を棺に入 れる地域は、春日井市から瀬戸市周辺に広がっている。湯潅で使った湯はノバカに掘られた穴に捨てに行った。湯潅の水は不浄のものとされ、墓に捨てたところ が多い。瀬戸市美濃池では、屋敷内に捨てるとおコジンさんの祟りがあると伝えている。
 死者には白装束を着せ、瀬戸市山口では、2〜3人の女の人が晒を引っ張り合って縫った。着物は衿がなく、糸の玉を作らずに最後は切りっぱなしにしておい た。着物は上から掛けるだけであった。
 新四国などに巡礼に行っていれば、判を押したカタビラをもらってきているので、遺体の上にかぶせることもあった。 瀬戸市美濃池では「有り難い着物なの で、閻魔様のところも楽に通れる」と言っていた。足にハバキ、手には手甲をつけた旅支度で、ワラジを履かせ、杖を持たせた。額に三角のものをつけたり、三 途の川の渡し賃としてお金を入れる事例も一般的である。
 棺は一般にはタテガン、スワリガンと呼ばれる座棺が使用されていた。材料には松を用いる場合が多かった。

死の知らせ
 死の知らせはトナリや同行、講中の人などが2人組でおこなったところがほとんどである。この役割には、シニビンギ、シニビキャク、フギン、 シニヅカイなどの呼び方がある。犬山市塔野地では、電話がない頃はトナリが2人で自転車で知らせにまわり、江南市宮田町四ッ谷でも、同行が集まって葬式の 役割を決め、2人組で葬式の知らせをした。豊明市本郷では、シニヅカイはトナリの人と同行が2人で自転車に乗って出かけ、3里くらいまでは知らせに行っ た。瀬戸市上半田川などでは、知らせに来た人にはお礼に酒を沸かし、ご飯を出したという。

通夜
 師勝町六ツ師では、通夜にはシンセキ、近所、講中(講仲間)の人が訪れ、講仲間は食事の支度をした。通夜の時に手伝いを頼んだ人は、葬式の 後、喪家でもてなされた。
 通夜には、シンセキは淋見舞を持参する。春日井市下市場では、淋見舞はお金だったり、夜食の饅頭、揚げ寿司や巻寿司、菓子だったりした。米を持参するこ ともあり、葬式の食事用にも当てられた。瀬戸市上水野余床では、子供が赤(餡)か黄(黄粉)の大きなボタモチをお鉢に一杯作って持ってきた。ボタモチを用 意するところは多い。瀬戸市菱野では、不幸があると、一番血の近い人はチャメシをたくさん炊いて持ってきた。チャメシは割れたような大豆(豆を打ったも の)を入れて炊いたご飯であった。

(2)葬式の互助

 葬式の互助は、地縁集団であるシマや組が前面に出る場合と、宗派ごとに組織された講組や講仲間が中心となる場合とがある。
 宗派縁集団が葬儀の互助をおこなう事例は、第4図のように真宗門徒と禅宗檀家が混交している尾張西部に多く見られる。宗派の混交地域で宗派縁集団が前面 に出るのは、この集団が念仏組を組織するためであろう。もっとも、これらの地域でも地縁集団が全く葬儀に関わらないということはなく、例えば組が食事の支 度、講組が仏に関する手伝いというように役割分担をしていることが多い。
 尾東・尾北地域は、ムラ内の1か寺がほとんどの家を檀家に持っていたり、ムラ内の各家がばらばらの檀那寺を持つ場合でも、禅宗を中心とする同じ宗派の寺 と寺檀関係を結んでいる事例が目につく。比較的単純な寺檀関係であるため、葬儀の互助組織は地縁的な自治組織と一体となっている場合が多い。
 一方、長久手町岩作や師勝町六ツ師、江南市宮田町四ツ谷、岩倉市北島などには宗派縁集団が葬儀の互助集団となっている事例が見られる。
 葬儀の互助における宗派縁集団の問題は、宗派勢力が地域に根を下ろしてゆく歴史的過程や、普段の信仰活動と合わせて考えなければ理解ができない。ここで は、地域性分析の視点として、今回の調査地の状況を挙げるにとどめる。

●シマ・組が互助をおこなう地域
<犬山市(楽田二ノ宮)>
 二ノ宮は下、北、中、上の4つ組に分かれ、戸数は下が23軒、北が12,3軒、中が11軒、上が14軒である。町会長とは別に、大県神社祭 礼などムラの行事に関わる大年行司2名が置かれ、各組には小年行司が置かれている。小年行司は町内会の班長を兼ねていて、この組(班)が葬式の互助集団で あった。二ノ宮は臨済宗常福寺の檀家と神道の家が半々くらいであり、組には神道の人も仏教の人も一緒に入っている。葬式の時は組の人たちがトリモチの相談 をおこない、炊事、買い物、穴掘りなどを分担した。
<犬山市(善師野)>
 善師野は、上切、中切、向野、寺洞、伏屋、清水の6つの組に分かれている。自治のトップは区長であるが、6つの組に町会長が置かれ、この下 に班が設置されて班長がいる。元は町会長は組長、班長は伍長と呼ばれていた。
 伏屋組を例に取ると昔は30軒ほどの戸数で、上と下の2つの組(班)に分かれ、ほとんどが臨済宗妙心寺派の禅徳寺の檀家である。葬式の手伝いは上と下の 組を単位にしておこない、葬儀委員長は町会長が務める。手伝いには1軒から夫婦で2人ずつ来るので、全部で30人くらいになり、料理を運ぶ接待係、煮方、 竹細工、穴掘り、寺係(寺に曲録を取りに行ったり、僧侶を迎えに行く)、役所係などを決める。
<犬山市(塔野地)>
 塔野地の旧地区は250戸ほどで、北浦、中東、中西、寺田、中浦、南東、南中、南西、杉の組に分かれている。元はそれぞれに組長がいた。現 在は16の町内に分かれ、それぞれに町会長が置かれ、その下に班が設置されて班長がいる。寺檀関係は真宗大谷派と臨済宗妙心寺派が多く、真宗は60〜70 軒を数える。葬式の手伝いは15,6軒の班単位でおこなった。葬式の前日に喪家に集まり、トリモチの寄合をした。シンセキの範囲を聞いてオトキの人数を決 め、茶わん、皿などを持ち寄って用意した。役割はオツカイ(死の知らせ)、寺迎え、寺送り、配膳係、買い物(町行き)、オカッテなどである。トリモチの人 数はトナリは2人ずつ、一般の組の人は1人である。
<大口町(余野)>
 余野の組は東、西、南、北の4つに分かれる。寺檀関係は苗字によって分かれ、臨済宗徳林寺と全徳寺の檀家が多い。葬式は組で手伝い、お通夜 の時に役割を決める。当日は組の中の年上の人が指示をして、受付、配膳、買い物などを手伝う。
<小牧市(大草)>
 大草は曹洞宗福厳寺の檀那家がほとんどである。八田川を境に東と西に分かれ、それぞれが区となって区長が置かれている。現在は19の常会に 分かれ、それぞれに常会長がいるが、元は6つのシマが単位であった。西は大洞、西上、東は東上、中島、切畑、芝崎の各シマである。このシマの中がさらにい くつかに分かれ、葬式の手伝いの単位となっている。例えば、大洞島の場合、上島と下島に分かれ、さらにこれが二つに分かれて手伝いをする。組の戸数は11 軒のものが3つ、12軒のものが一つであり、大洞島全体では4つの互助組織があることになる。
 人が亡くなると、一番近い両トナリに連絡し、組の人が集まって葬式の段取りを相談する。仕事の指示は、よくわかっている組の男の人がおこない、寺への知 らせ、医者から診断書をもらってくる仕事、買い出しなどを分担する。土葬だったので、組の中で順番で3人くらいで穴掘りの仕事もおこなっていた。
<春日井市(木附)>
 木附は塚穴、向(ムカエ)、中、西(上、下)、宮後(ミヤウシロ)の組(シマ)に分かれ、各シマに組長が置かれている。組の下には5軒くら いの家を単位に伍長が置かれている。外之原の臨済宗林昌寺の檀家が多い。葬式の時はトナリの家に伍長の仲間が加わり、足りなければ組全体が手伝いをした。 組長とシンセキの一番濃い人が指図をした。
<春日井市(松河戸)>
 松河戸は河戸、門田、中島、八ツ家、河原の5つのシマに分かれ、ほとんどが曹洞宗観音寺の檀家である。元は区長、区会議員という体制で、区 会議員は各シマから2人ずつ出されていた。シマの中は10軒くらいを単位にして、いくつかの講組に分かれ、組長が置かれている。葬式の時は、元は講組から 2人ずつが手伝いに出て、講組の長老が指図をして食事の準備や穴掘りなどを分担した。
<瀬戸市(中水野)>
 中水野は三沢、中水野、小田妻の3つのシマに分かれていた。三沢と中水野はさらに細分化され、三沢は山の神、七郎左、中島の3つ、中水野は 新田西、新田東、新田中、中郷ジマの4つに分かれて、これもシマといっていた。中水野の全体には区長がおり、この下のシマに組長がいた。シマは自治組織で あり、葬儀の互助、供養の組織であった。シマでは毎月14日に念仏講を開き、この時に、区やシマの自治について相談した。臨済宗東光寺の檀家が多い。
 葬式の時は、前日の朝からシマの人が集まって葬具を作り、食事の支度をした。土葬の時はシマで順に4〜5人で穴を掘ったが、奥さんが妊娠している場合、 その夫は穴掘りを避けていた。
<尾張旭市(稲葉)>
 稲葉はほとんどが臨済宗少林寺の檀家である。郷、西の野、北山の3つのシマに分かれ、このシマの中がさらに細分されており、例えば北山は、 西、南、中、北、東の5つになっている。シマを単位にして念仏講があり、葬式の取り持ちもしている。念仏講の人は、通夜と葬式後に念仏を唱え、四十九日ま でのお勤めもしている。
<日進市(米野木)>
 米野木は、ほとんどの家が曹洞宗本亮院の檀家である。かつては西浦、寺島、東中、川原、西川、小原、柿ノ木、白山の8つのシマに分かれてい た。全体には区長がおり、シマ(組)には組長が1人置かれた。元はシマの軒数が少なかったため、葬式の時はシマ全体で手伝いをし、トナリの家は夫婦でトリ モチに出た。区議員か長老が中心になって指図をし、食事の支度、葬具の製作、穴掘りなどを手伝った。
 葬具は全てをトリモチの人たちで作り、このため、手伝いはたくさん必要だった。知っている人が指図し、提灯、花篭、杖、旗、草履などを用意した。棺も材 木屋から板を買い、四角いものを作った。穴掘りはトリモチの中で若い人が5〜6人で掘りに行った。
<豊明市(沓掛町本郷)>
 本郷は昭和18年まで、北屋敷同行、根古屋同行、石の塔同行、市場同行の4つに分かれ、それぞれが葬式の手伝いの単位であった。本郷には浄 土宗、禅宗、浄土真宗の3つの寺があり、同行にはいろいろな宗派の家が混ざっていた。戦時中、隣保班の制度ができて10軒ずつで8つの班を作り、これが同 行になって葬式の手伝いをするようになった。全体では町内会長(元は組長)がトップで、班には班長が置かれている。
 亡くなると、班長を通じて同行に死の知らせがされ、班からは1人ずつが通夜の念仏講に集まった。ここで班長か長老が指図をして、昼飯の準備、穴掘り、飾 り作り、お寺行きなどの仕事の割り振りをした。コシ(棺)も板を買ってきて作り、釘を打って紙を貼り、金銀の飾りをつけた。班の宗派がまちまちであるた め、念仏講では他宗のお経を読むことにもなった。

講組・講仲間が互助をおこなう地域
<師勝町(六ツ師)>
  六ツ師では、ムラの中がヤシキと呼ばれる地域で区分されている。ヤシキは大きく上と下、あるいは上ヤシキ、中ヤシキ、下ヤシキと分かれ る。しかし、このヤシキは、単に「番地を表すもの」であり、ムラの人の生活とはあまり関わりのないものであった。大切なのはセコである。
 六ツ師には、日蓮宗の長栄寺と普門寺、曹洞宗の観音寺の3つの寺があり、寺檀関係はこの3か寺でほぼ完結している。セコは日蓮宗、曹洞宗の宗派別に組織 されたもので、上法華、上禅宗、下法華、下禅宗の4つがあった。上法華の場合、戸数は60〜70戸ほどで、その中は中島講、東講、西講、乾講、北屋敷講、 昭和講の6つの講中に分かれている。それぞれの講中からは2人ずつの年番(年行司)が出され、この中から大年番を一人決めた。年番は、お祭りや番神堂の行 事を取りしきるセコ年番、お寺の行事を取りしきる寺年番、葬式の時など一切の講中の行事を取りしきる講年番の役職に分かれる。六ツ師では、曹洞宗の檀家の 場合も同様の講中を結成し、年行司を定めて生活上の互助協同をしていた。
 葬式は、セコの中の講中(講仲間)が単位となって手伝いをする。上法華のように、セコの有志で祭壇組合を作って基金を出し合い、セコで葬儀の祭壇を持っ ているところもあり、セコは葬祭互助組織になっている。一つの講中は15軒ほどの規模である。不幸があった時は講年番に連絡し、講仲間が喪家に集まって打 ち合わせをし、寺との調整、葬式の段取りなどを決めた。この時、喪家ではご飯、味噌汁を作って食べてもらい、以後は仕事の一切を講中に委ねた。講中からは 1軒から1人ずつ、たいていは男の人が手伝いに出た。
 葬式の時は、講中がハソリでご飯を炊き、味噌汁を作った。講中ではそのための道具を持っていて、講年番が保管していた。葬式の食事は、通夜、葬式当日の 昼、その夜の3回を出すが、最後の夜の分は、シンセキ、トナリ、講中の人を喪家の人が主体でもてなすものである。葬具や棺は葬具店で購入したため、講中が 作ることはなかった。
 葬式は寺でおこない、家から行列を組んで寺に棺を運んだが、この時も講中が先頭で旗を立てて行った。寺では菩提樹の周りを3回廻り、墓に埋葬した。六ツ 師は土葬であったが、穴掘りは専門の人に委ねていた。
 葬式後は、講中の人に七日ごとに講を開いてお詣りをしてもらった。四十九日には前夜にトイアゲの講をしてもらい、以後は一周忌にお詣りをしてもらった。
 このように、六ツ師では、宗派別に組織されたセコが葬儀の際の重要な互助組織になっていたが、その他の村落生活でもセコは要であった。各セコでは寄合が あり、1戸から一人ずつ出席してムラの行事について話し合われた。上法華の寄合は長栄寺の番神堂でおこなわれた。若い衆もセコ単位で組織され、定期的にセ コの行事を司っていた。
 セコは祭礼の単位でもある。上法華と下禅宗には神楽のヤカタがあり、豊年の年にはセコの若い衆が中老と相談し、ヤカタを出すかどうかを決めていた。ヤカ タのないセコでは、祭りの時は飾り馬を出していた。
 嫁入りの際は、ウタイコミといって、セコの若い衆が酒3升くらい持ってお祝いに行き、木遣りや伊勢音頭を歌った。また、嫁をもらうと、セコに酒や金一封 を出すことになっていた。
<江南市(宮田町・四ツ谷)>
 四ツ谷には栗本組、森組、八橋組、小島組、岡崎組の5つの講組(同行)があり、同じ寺の檀家同士で組んでいる。寺檀関係は苗字と関係が深 く、小島姓は川島町の浄土真宗本願寺派長光寺、栗本姓は一宮市の真宗大谷派来徳寺、森姓は真宗大谷派上宮寺と深妙寺、八橋姓は深妙寺、岡崎姓は曼陀羅寺内 の浄土宗光明院である。同姓であっても、檀那寺が異なる場合などは別の講組に所属することになる。また、同姓の家が少ない場合、他姓の組に加入しているこ ともあり、例えば7軒で構成している栗本組には、山田姓、堀場姓、森姓の人も入っている。
 「葬式の時は組の人がみんなやってくれる」もので、食事の支度などは7、8年前までおこなわれていた。葬式の時は白飯で、ネブカの味噌汁を作る。ハソリ は古い家は持っていて、これを借りるか、公民館のものも借りた。調理の場所は、多少無理をしても喪家でおこなった。四ッ谷は土葬で、穴掘りは初めは専門の 人がやっていたが、後には組で掘るようになった。穴を掘ると水が出てくるため、棺の上に乗って沈めて、それから埋めなければならず、埋めたら格好のいい石 を拾ってきて並べ、ロウソクを立てた。
 元は亡くなってから初七日までは毎日、講組のお勤めがあった。無常講の人へのお接待はシンセキが一晩ずつ交代で受け持ち、最後の日には茶飯が出た。香ば しくておいしかったという。
 講組では各種の行事があり、森組では11月にお仏事がおこなわれる。毎年交代で年行司を務め、ここがヤド元になってお経を上げ、元は会食をしていた。
<岩倉市(北島)>
 北島は北、西、南の3つのシマに分かれ、組ともいっていた。これとは別に、行政の単位として15の組があるが、葬式の時はこれとはまったく 別に講組が組織されている。
 講組は昔からの組で、近所の10〜15軒で組んでいて、7つくらいが機能している。講組は同じ宗派同士で組んでいる。北島はムラ内の曹洞宗向陽寺の檀家 が多く、他に天台宗檀家、真宗大谷派の門徒がいる。真宗門徒は17,8軒で一つの講組を組んでいるが、天台宗檀家は向陽寺檀家と同じ講組に入っている。
 葬式の時は講組が全て命令をして取りしきった。葬式の昼にはオトキを準備し、白いご飯と味噌汁の他、カクフや一丁揚げ、コンニャクなどの煮物を作って皿 付けにした。食事は喪家で作り、昔は大きなクドがあってハソリで炊いた。飯台は講組で持っているものを借りてきた。
 野道具は葬具屋が持ってきたし、土葬のための穴掘りは専門の人に委ねていたため、講組で仕事をすることはなかった。葬式後は、初七日まで講組で無常講を 勤めた。
<長久手町(岩作)>
 かつての岩作には自治の単位として8つのシマがあり、これが7つの分会に再編された。分会では「分会寄り」が年に1回あり、分会長の取り回 しで氏子総代、区会議員、実行組合長などの役職を決めて自治をおこなっている。寺院は曹洞宗安昌寺、真宗高田派教円寺があり、両寺の檀家が多い。
 葬式の手伝いや死後の供養は念仏講によっておこなわれた。これは宗派ごとに組織されたもので、例えば下島の場合、真宗は北、南、中講に分かれ、禅宗は東 西二つの講に分かれている。念仏講からは年行司の人が1〜2人出され、寺との連絡や葬式のとりまとめをしている。
 葬式の時は講の中から1人ずつと、隣近所から2人ずつが手伝いに出たが、隣近所は食事の支度が中心で、講の人は葬式全般を取り仕切り、穴掘りをおこなっ ていた。また、禅宗では、毎月14日、27日に集まってお勤めをしていた。

葬式の食事
 葬式の昼に会葬者に出す食事はオトキと呼び、内容は白いご飯と煮物、味噌汁というのが一般的である。膳を組む場合も一部には見られたが、た いていは飯台を使って皿付けで供した。
 豊明市沓掛町本郷では、オトキの準備はホンヤシンヤとか喪家の隣の家を借りておこなった。たくさんの食事を用意することをオオゴミといって、女の人の仕 事であった。オトキはモリゴミで、コンニャク2切れ、チクワ2切、ゴボウ2切、サトイモなど、5つ盛り、7つ盛りというように奇数で準備した。料理は一人 一人にお皿に作って出し、味噌汁は豆腐とアゲのものであった。
 オトキの煮物には魚のダシを避けたり、チクワは入れるものではないというところも多い。煮和えといったりケンチャンと呼ぶところもある。瀬戸市中水野で は、葬式のケンチャンは一番のご馳走で、大根、ニンジン、昆布などを一度にたくさん煮たのでおいしかったという。酢、砂糖、醤油、みりん、酒を入れて煮付 け、甘酸っぱい味付けであった。
 オトキの味噌汁にはいろいろな伝承がある。小牧市大草では、味噌汁にネギを入れると次に亡くなるのが近いといって嫌っていた。また、豆腐は包丁では切ら ず、手で揉みつぶして入れることになっていた。臭いからという理由でネギを避けたところは尾北地域に多いし、「豆腐を賽の目に切るのはめでたい時だ」とも 伝えられている。瀬戸市美濃池では「包丁で豆腐を切ると後が続く」と伝える。大口町余野では、味噌汁には白菜、豆腐、アゲなどを入れ、砂糖を加えて甘くし た。これは、普段とは逆にするためであると説明される。いずれも、オトキは特別な食事であるという意味が込められている。
 オトキにつきものの食べ物として、瀬戸市域ではボタモチが作られる。瀬戸市中水野ではオイダシボタモチといって霊を送る意味とされ、出棺の前の昼食に食 べた。

葬具
 葬具は、材料が葬具屋によって提供されたため、竹を切ってきて旗や灯篭に取り付ける程度の手伝いだったところが多い。多くの地域で用いられ たのは四旗、先灯篭、後灯篭、提灯、天蓋、四ヵ花などである。年寄りが亡くなった場合に花篭が作られ、年の数だけのお金を撒くという地域も多い。葬式の規 模により、禅宗ではカタハチならば花篭が1つ、リョウハチでは2つとなる。拾ったお金はその日のうちに使えと言われていた。

(3)葬式と墓

喪服
 古い時代の喪服は白装束であり、これが昭和初期頃、黒の喪服に変わったいったことはよく知られている。その背景として、戦死者の葬儀が国家 管理でおこなわれ、その中で黒の喪服への統一が図られたことが指摘されている。
 昭和10年、尾張旭市稲葉に嫁いできたある話者は、葬式の着物として白無垢を持ってきた。嫁いですぐに在所のおじいさんが亡くなり、この時の葬式には白 無垢で参加し、墓場に置いた棺の周りをまわる時、頭に白い寒冷紗のような着物をかぶったという。これは雑に縫ったもので、嫁入り道具の中に入っていた。昭 和12年に日中戦争が起きると、戦死した兵隊のための葬式が村葬でおこなわれたが、この際の喪服は黒を着なくてはならず、白は着られなかった。黒の喪服は 京都から売りに来たので購入したが、買えない人は留袖を染めて喪服にしたといい、前に模様があるので困ったという。喪服は夏冬全て、帯まで白無垢で揃えて 嫁いできたため、黒の喪服に変わったのは迷惑な話であった。この後、普通の葬式でも、喪服には黒を着るようになっていった。
 葬式の被りものについては、瀬戸市山口や菱野でも用いられていた。オカブリといって、絹のべらべらの短い着物で、片袖を苧で縛ってこの袖を頭にかぶった という。親や仲人が亡くなったとき、嫁や娘がかぶって送るものであった。古い時代のカツギの名残である。

出棺と葬式
 出棺の際には、棺の下に敷いていたムシロを魔除けに使った鎌などで叩き、藁に火をつけるまじないが多くの地域でおこなわれていた。このた め、普段は「一枚筵を叩くな」とか、「一把藁を燃やすな」という禁忌が語られていた。出棺は、「もったいないのでお日様が傾き始めないと出ない」とも語ら れる(瀬戸市美濃池)。
 葬式は墓でおこなうため、葬列を組んで行く。豊明市沓掛町本郷では、葬列の順序は先燈ロウ、一旗、二旗、菓子、四化花、団子、タイ松、御香、覆布、御仏 供、御影、位牌、棺、天蓋、三旗、四旗、後燈ロウとなっていた。棺は甥と孫、天蓋は姉婿など、持つ役割が決まっていた。先頭に鉦叩きが歩くところは多く、 春日井市下市場ではシマの長老が務めたが、「今度は俺が鉦叩きだで、次は俺の番だ」などと言って嫌われたりもした。
 葬式がいくつも続くときは、身代わりとして箕や横槌を引いていった。江南市宮田町四ツ谷では、箕の中に槌や箒を入れて引いた。
 墓には棺を乗せる台があり、左回りに3回廻って棺を置いた。これは迷って戻るなという意味だった。禅宗であれば読経の後、いわゆるチンポンジャランがお こなわれ、埋葬される。大口町余野では、埋葬の時は会葬者が線香に火をつけて土葬の穴の中に入れ、上から石を投げて埋めた。帰りは道を変えて喪家に戻り、 桶の中に藁を入れたものを用意してこれで手と足を洗ってから中に入った。

土葬
 第5図で示したように、真宗門徒の多い尾張西部地域は火葬、禅宗檀家の多い尾東・尾北地域は土葬というように、葬法は尾張地方でも東西地域 によって異なる。
 犬山市善師野では、穴を掘るのは野の衆と呼ばれ、一番たいへんな仕事とされ、伏屋組では4人で掘った。役割を決めるとき、葬式の家から遠い家から頼んで いった。トングワ(ツルハシ)、スコップなどの道具は喪家のものを使った。掘り終わると、穴の上にムシロをかぶせ、魔が入らないように鎌をぶら下げておい た。穴掘りの人には酒一升を持参し、これを飲みながら掘ってもらった。また、食事の時は上座に座った。埋葬の際にはシンセキが石を入れ、続いて土をかけて ゆく。最後に野の衆が埋め、真ん中に墓標を立てた。葬具の旗や提灯は土盛りしたところに刺しておいた。この時、葬具の竹は、弓状に土盛りに刺し、犬が来た り魔物が来たときにはじけるようにしておいた。
 穴掘りは、シマの中で順番制にしたり、特に若者に頼んだりする。奥さんが妊娠している人は避けることもあった。また、専門の人に頼んで掘ってもらうとこ ろも多かった。

墓地
 尾北地域では、埋葬地と石塔を建てて詣る場所が異なる場合が多く見られる。いわゆる両墓制である。
 小牧市大草では、ヒキハカとウメハカの2種類の墓があった。ウメハカはノバカともいって3カ所あり、六地蔵が立ち、葬式をして埋葬する場所であった。埋 葬後は土饅頭に幟などを立て、四十九日を過ぎると片づけた。花筒は残すので、その後も埋葬場所は確認できた。それぞれの家の分は、だいたいこのあたりと決 まっていた。一方、個人ごとの石塔は、しばらくしてからヒキハカに建てた。お盆の時には両方にお参りをしたが、火を焚いて先祖を迎えるのはヒキハカの方 で、ウメハカは草を取ってお参りするだけだったという。
 岩倉市北島では、一軒の家がノバカとテラバカの両方に墓を持っていた。ノバカはイットウ単位で持つ埋葬地で、草ぼうぼうのところであり、テラバカは向陽 寺にあって石塔を建てるところである。ここはオガミバカとも言った。
 犬山市楽田二ノ宮では、組の共同墓地に埋葬し、ここに石塔を建てる例がほとんどであるが、臨済宗永泉寺の檀家は寺に石塔が建ち、ヒキハカと呼んでいた。 ウメハカからは、土か石をヒキハカに持っていったという。参拝はウメハカにもヒキハカにも同じようにおこなった。
 普段はウメハカをかえりみず、そこから土などをヒキハカに移して詣り墓とする習慣は、両墓制に典型的に見られる習俗である。両墓制と単墓制の先後関係に ついては定かではないが、近年では単墓制への変化が顕著である。この習俗は春日井市南部、名古屋市北区から名東区あたりまで広がり、瀬戸市や尾張旭市域に は見られなくなるが、単墓制への変化は縁辺部では近代の比較的早い時期から進行していたようである。
 春日井市松河戸では、埋葬墓であるノバカと、詣り墓であるラントウバ(観音寺境内)がある。ラントウバにも石塔を持つのは古い家であり、ノバカだけの家 も多かったといい、早くから単墓制をとる家が出現していたようである。ノバカでは石を置いて墓標としていたが、昭和になってから石塔を建てるようになる。 詣る際は両方に行くが、どちらかと言えばノバカの方を強く意識し、年忌の時の塔婆もノバカに立てていたという。ここでは、両墓制の観念は完全に薄れてい る。隣接する名古屋市守山区川村も長命寺の境内墓とノバカの2つを持ち、古くは両墓制であったことが考えられる。しかし、近年ではともに埋葬地として使わ れていたといい、現在は2カ所ともに石塔が建てられ、両墓制の観念は早くから見られなくなっている。
 火葬が広まると両墓制の埋葬地は必要がなくなる。このため、区画整理などの際、埋葬地を廃して詣り墓と統合する形で単墓制に移行したり、ともに埋葬地と して利用したりする。大口町余野は後者の例で、両者を統合せず、2カ所ともに石塔を建てて墓地として利用している。余野には、元は土葬にする墓(ボチ)と 石塔の建つ寺の墓(ヒキハカ)の2つがあった。埋葬地には元は石塔がなく、木の墓標が立てられ、ここに屋根をつけることもあった。もっと昔は墓標もなかっ たという。現在では2カ所に石塔が建てられ、火葬になったため、骨を分骨して二カ所に納める場合もあるという。盆などにも両方に詣り、両者の性格の違いは わからなくなっている。

異常死の葬法
 出産で亡くなった人は血の池地獄に堕ちるという俗信があり、特別な葬法がおこなわれることは広く見られる。
 岩倉市北島では川セガキといい、お産で死んだときは、川のそばに竹を4本立てて棚を作り、位牌を置いて字を書いた布を掛けて供養した。桶と柄杓が置いて あって、道を通る人が布に水をかけた。布に書かれた字が消えるまで水をかけるものとされていた。場所はムラの北、現在の県立岩倉高校下の県道端で、川から すぐに水が取れるところだった。
 師勝町六ツ師では、産婦がお産でなくなったときは、合瀬川の中橋のたもとに、青竹を組んで棚を作って供養した。高さ50センチ程度の青竹の杭を1メート ル四方くらいに4本打ち、ここに青竹の棚を張り、三方に竹矢来をつけた。棚の上には、白い布に戒名を書いたものを置き、手桶と柄杓を添えて、道行く人に水 をかけてもらった。田へ行くときは必ずここを通ることになり、みんなで字が消えるまで水をかけた。
 春日井市高蔵寺では、ナガシミズといって、お産で亡くなった時は川のそばの石などの上に屋根を作り、戒名を書いたものを立てて供養した。お産をすると血 が出るので、水をかけてもらって洗い流してもらい、「迷わないように早く行けるように」と祈った。「この人は気の毒にな、かけてもらうと早く行けるところ に行ける。いつまでも苦しんでないで思うところに早く行ける」といってみんなで水をかけた。
 日進市岩崎本郷でも、お産で亡くなった時は竹で棚を作り、白い布に字を書いて付け、柄杓で水を掛けてもらった。こうすると極楽に行けると言って、人がよ く通る川端、道ばたに作ってあった。ここでは位牌などはなかったという。「お産で亡くなった人は身が汚れているので、血の池地獄に行かないよう、協力して やってもらうもの」だったとされる。
 出産による死の供養は、この他にもアライナガシとかナガシなどの呼称で、この地域全体でとりおこなわれていた。尾張地方における分布を見ると、真宗地帯 の海部郡や中島郡西部では希薄である。甚目寺町甚目寺では、「本願寺ではやらなかったが、真言宗などの余宗の場合、出産で死んだ人には川の中に竹を立て、 字を書いた布を張って施餓鬼をした」という。キタハンジョウや出棺の際のまじないと並び、宗派分布に関連する習俗である。

(4)死後の供養

死者の着物
 亡くなった人の着物には、四十九日までの間、魂が宿っているという信仰があり、特別な処理をされる。洗った着物は絞らずに干し、死者の魂が のどが渇くと、この雫を飲みに来るのだという。
 犬山市楽田二ノ宮では、三日の墓参りの後、四十九日までの間、亡くなった人の着物を干しておいた。亡くなったときに肌につけていたもので、女の人が「洗 わせろ」といって引っ張り合いをして洗う真似をし、竹に通して衿を北向きにして干した。袖は元から差し、最後はウラッポ(先)に抜いた。このため、普段の 洗濯の時は、洗濯物は元から通して元に抜けと言っていた。
 師勝町六ツ師では、亡くなったときに着ていた着物は、屋敷の一番北に外に向けて四十九日までの間、干しておいた。こういうところの裏を通ると、不幸が あったことがわかったという。
 瀬戸市沓掛でも、死者の着物は洗って家の裏に北向きに1週間干しておいた。洗濯ものは、普段は北向きには干すなと言っていた。死んだ人の魂は、干した陰 にいるとされ、この間には絶対に火を出すなと言っていた。
 死者の着物に対する信仰は、本来は四十九日の忌明けの観念と関わるものである。しかし、多くの地域では本来の意味が薄れ、例えば守山区川村では、「長く 干しておくと後が続くと言うので2〜3日で取り込んだ」というように、干す期間が短縮される傾向にある。

念仏講と四十九日
 葬式の互助集団である講組やシマが、葬式後、七日ごとに四十九日まで、念仏を唱えに集まったというところは多い。これをタノミネンブツとい うこともある。念仏に来てくれた人たちには「念仏の実」といって、砂糖や饅頭、マッチなどを出した。
 春日井市松河戸では、初七日の念仏には念仏餅という餅を出した。平べったい餅で、シンセキ、近所の人に配る。これを見て「とうとう餅にならしたわ」と 言った。
 禅宗では忌明けは四十九日である。尾北地域では、この日、四十九の餅を用意する。
 岩倉市北島では、四十九日の日、餅を49個作って盆にのせ、その上にフタモチという大きな餅をのせた。フタモチは鍋の蓋をまな板代わりにして包丁で切 り、四十九日に来た人みんなに分けた。餅は搗きたてでまだ軟らかく、塩をつけてその場で生のまま食べた。小さな餅は一つずつ分けて持ち帰り、これで忌明け になった。
 犬山市楽田二ノ宮では、四十九日に出す餅をヒザサラ餅という。5センチくらいの餅を49個作り、上に平たい大きな餅を一つのせた。大きな餅は、ザシキと ダイドコの敷居をまたいで、ガンを吊った人が切った。この時は包丁は使わず糸を使った。糸の上に餅を置き、ぐるりと回して切った。四十九日には30人くら いを招くが、ちぎった餅を分け、その場で生のまま塩を付けて食べてもらった。小さな餅は持ち帰る。
 春日井市松河戸では、四十九日の時は49にちぎった小さい餅をお盆にのせて出した。この餅は近親者のみで食べ、外に持ち出さないようにしてその場で生で 食べた。
 四十九の餅の伝承は、尾北地域から瀬戸市周辺にまで広がっている。兄弟など身内だけで分けたり、特別な切り方をする点、また、その場で生で食べる点な ど、亡くなった人の魂を餅になぞらえて共食するものと解される。

まとめにかえて

 本稿では、尾東・尾北の通過儀礼の中で、今後、民俗の地域性を考えてゆく上での素材を提示した。最後に、個々の事象を分析する視点として考えられるもの を挙げ、まとめにかえたい。

縁辺部の民俗と分布領域
 産育・婚姻儀礼に例を取れば、尾張西部地域は比較的均質な内容を伝える地域であり、民俗分布の中心を形成していると見なし得る。婚姻では、 商売チュウニンと称される専門家が仲人を務める片仲人慣行が広がる地域であり、釣りものと呼ばれる婚礼道具のしきたりも共通している。また、婚礼翌日のボ タモチヨビ、ヨメゲンゾという女客の披露儀礼もかなりの広がりを持っている。産育儀礼においても、里方で出産した後、婚家に戻るカリアガリ儀礼や、成長儀 礼において里方が多大な負担をおこなう慣行などが共通している。これらの民俗事象は尾張平野に均質に存在する事象であるが、その点で、尾東・尾北地域は民 俗分布の縁辺部と捉えられる。ここでは、あるものは共通するものの、中には大きく変形したり、存在しない事象があった。民俗分布の縁辺地域では、民俗の分 布領域を確定することが大切であり、それが一定地域における民俗の存在要件、すなわち地域性を考察することにつながってゆく。例えば、仲人慣行の場合、そ の境界は瀬戸市北部から名古屋市守山区、名東区あたりに求められた。

縁辺部と周圏論的観点
 別の角度から縁辺部の民俗を見る際、着目点として周圏論的観点がある。例えば、尾張平野的な婚姻儀礼の広がる地域を想定し、ボタモチヨバレ とカヨイという2つの儀礼の分布を見ると、尾東・尾北地域にはその縁辺部としての性格を見て取ることが出来る。第6図のように、ボタモチヨバレなどの女衆 への披露儀礼は、尾張平野一円に広がっている。一方、日帰りの里帰りであるカヨイはその周囲でおこなわれ、尾北・尾東地域に特徴的な分布のように見える。 しかし、誰もがおこなったものではないとしながらも、一宮市中島や稲沢市片原一色でも婚礼翌日の里帰りは語られているし、古くは、初通いやカヨイの名称 で、師勝町や甚目寺町でも婚礼翌日の日帰りの里帰りがおこなわれていたという。美和町二ツ寺や名古屋市西区比良などでは、数日後におこなわれる里帰りをカ ヨイの呼称で呼んでいる。このように見ると、カヨイの慣行も尾張平野のかなりの地域でおこなわれていた痕跡があり、女衆への披露儀礼とともに、尾張平野を 特徴づける婚姻儀礼であると思われる。そして、前者はより広く、後者はやや狭い分布域を持っていたと考えられよう。
 婚礼翌日、カヨイを済ませてから女客に対して新嫁を披露することは、通婚圏が狭かった時代であればともかく、遠方との婚姻関係が一般になるとかなり忙し いことである。披露儀礼を優先させようとすれば、当然ながらカヨイ慣行は廃れ、3日後などにおこなわれる宿泊を伴う里帰りと一体化してゆくであろう。一宮 市中島や稲沢市片原一色で、日帰りの里帰りである新客が、誰もがおこなった儀礼ではなかったというのも、女衆への披露慣行が盛んな地域であったことと関係 があろう。これに対し、女衆への披露慣行のない尾東地域では、そのままカヨイの習慣が残されることになる。春日井市方面では両者の儀礼が合わせておこなわ れているが、これはこの地域が女衆への披露儀礼分布の縁辺に当たっているところから、同儀礼の受容が比較的遅く、カヨイ慣行と両立したためとも捉えられ る。縁辺部では、このように、相対的に古い民俗が残される可能性がある。
 地域差を時代差に読み替える周圏論については様々な論議がある。しかし、小野重朗が指摘するように、限定的な地域の中で地域差を検証し、いくつかの民俗 の分布域を確定した場合、それぞれの民俗の重複を見て先後関係を考えたりすることは一つの方法として可能であると思われる。民俗分布の縁辺部には、そのよ うな材料がたくさん存在しており、尾東・尾北地域をこの観点でながめることは、民俗の地域性を捉える上で重要であろう。

宗派分布と通過儀礼
 尾東・尾北地域と尾張西部地域を比較すると、葬送儀礼については格段の違いが認められる。それは、葬儀の互助集団のあり方や葬法の違い、ま じないに属する部分を排除するかどうかなどに関するものである。これは、真宗とそれ以外の宗派の分布の差を反映したものである。もっとも、真宗卓越地帯の 余宗(この場合は真宗以外を指す)は真宗の影響下での葬送儀礼をとりおこない、その逆の地帯では、真宗門徒といえども余宗のしきたりを受容している。この 点では、宗派の力は絶対的なものではなく、地域的特色が優先している。
 第2図で見たように、出立ちのキタハンジョウの儀礼と出棺のムシロ叩きの儀礼の分布には密接な関係がある。各宗派がどのように地域に根付いていったかと いう問題は難しいが、地域性解明のためには欠かせない分析視点である。

 尾東・尾北地域は、低いながらも山を持ち、山野を活用する生活が営まれてきた点で尾張西部とは大きく異なる。また、三河や東濃との交流もあり、両地域と 尾張との民俗文化の境界地域である。ここには各地域の民俗が入り交じっている。本来であれば、西三河や東濃と、尾張の民俗文化の要素がこの地域でどのよう に混交しているかも明らかにすべきところであるが、現在のところ、そこまでのデータの蓄積をおこなっていない。本編に向けての大きな課題としておきたい。


「愛 知県史民俗調 査報告書5 犬山・尾張東部」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部」編集委員 会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部総務課県史編さん室
  平成14年刊行


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