「トッ クリコロガシと両仲人」
服部  誠


はじめに

 結婚の約束を違えぬ証拠として、婿方が嫁方に対して結納を納める習慣は一般的である。現在の結納は、金品の贈与の色彩が強いが、この本来の 意味は、新たなシンセキ関係の創設に際し、互いに食事を共にするところにあったとされる。その際、婿方から酒を持参する事例は広く分布しており、これをオ ミキ入れとか決め酒、手締めの酒、袂酒、徳利酒、済み酒などと呼んでいる。ともに酒を飲むことは、聟方・嫁方を結びつける行為として重要なものと考えられ ており、この酒を持参することは、結納の品として金品を贈る場合でもそれに先だって行われ、以後は破談ができないことになっていた。ここから、婚約に際し て婿方が嫁方に酒を持参するのは、金品による結納の盛んになる以前の婚約式の姿であったと考えられている。しかしながら、婚約の証として結納の品を贈るの が一般化すると、婚約式は第一次のオミキ入れ、第二次の結納品の贈答と二段階で行われるようになり、さらにオミキ入れが第二次の婚約式に吸収されることと なって、婚姻儀礼における酒の持つ拘束力は薄れてゆく。
 西三河を中心とする地方では、婚約に際して持参した酒を、婿方嫁方の者で飲み干すことをトックリコロガシとかトックリコロバシと呼び、現在も婚約に際し ての酒の拘束力の強さが語られている。また、このトックリコロガシに際して活躍するのは、オチュウニンとかオセワニンなどと呼ばれる仲人であるが、三河地 方では多くの場合、この仲人を婿方、嫁方の双方から立てる、いわゆる両仲人のしきたりが守られている。本報告では、主として西尾市南部地区における婚姻儀 礼を取り上げ、トックリコロガシと両仲人の習俗の持つ意味について記したい。

1 配偶者の選択と仲介者

娘遊び
 現在の西尾市の中でも、海に近い南部の地区では、比較的遅くまで若い衆の娘遊びの習慣が残っていて、これによって配偶者が見つける場合も あった。
 行用町では、昭和8年生まれの男性でも、娘遊びを経験している。この場合、初めは先輩に連れていってもらい、そのあとはムラの同級生3人くらいで娘遊び に出かけたという。娘のいる家を探して三和村米野や、一色の松木島あたりにも出かけ、距離は8キロ先のところもあった。娘遊びに行くのは18,9歳くらい の青年で、2〜3歳年下の娘のところに行ったという。この地方では、娘がひとところにたくさん集まっている場所はあまりなく、家で娘一人で縄を綯ったり、 手織筵を織ったり、針仕事などの夜なべをしているところを訪れた。娘遊びに行く時刻は夕飯後で、「こんばんは、娘さんおいでるかね、遊ばしてもらえるか ね」といって上がった。娘はそのまま針仕事をしているので、若者は1〜2時間話して帰る。一軒の娘の家だけではなく、あっちこっちを回ることもあったが、 昔の人はきちんとしていたので10時くらいには帰っていったという。互いに気が交わされるようになると若者は一人で遊びに行くようになるが、娘の親は、こ の場合でも遠慮して出てこなかった。
 昭和の初期になると、娘遊びは下火になっていったところが多い。ある話者(斎藤町、大正6年、女性)の家では、親が厳しかったので、若者が娘遊びに来て も大戸を閉めてしまったという。中には入れてやる家もあったが、そういうおおらかな家は少なかったという。ここでは、娘遊びは一部の人がやっている特殊な ものという見方がされている。「娘遊びといっても、話をして帰ってくるだけのことであり、昔は遊ぶところがなかったので、女の子のところに行ったものだろ う」(熱池町、大正9年、男性)ともいう。また、「夜遊びにいったところ断られ、嫌がらせに地蔵を持っていって置いておいたということがあった。どこから 持ってこられたものかわからず、返すのに大変だった」(熱池町、大正11年、女性)という事例もあり、娘遊びを正当な配偶者選択の機会とは見ず、悪しき習 慣のように考える風潮が出てくる。
 それでも、若い男女が知り合いたいという気持ちは当然あった。2月の饗庭のお不動さん(吉良町)や、4月8日の西尾の西野町のお釈迦さんの時、娘同士で お参りに行くと、若い衆が後をついてきたという。お不動さんの場合、娘同士でキャアキャアいってお参りに行くと、山の上にもいっぱい若い衆がいて、これで 恋が芽生えることもあったという。しかし、恋愛と結婚は別という考えが強く、全体的に見ると、恋愛結婚は珍しかった。娘遊びが元で結婚する人も中にはいた が、数は多くはなく、親の反対にあう場合も多かったようである。子供の結婚相手は、親と親、シンセキとシンセキが、盆や正月などに会った機会に、話をして 決めてしまうことが多かったのである。
 なお、相手の娘が寝ているところに忍んでいくことをヨバイといった。大正初めの生まれの話者でも、ヨバイについては話で聞いているだけであり、実際に あったのは明治時代であろうという。夏は暑いので雨戸を開けて寝ているので、ヨバイは冬よりも夏に行ったらしい。「あそこにヨバイに行った」「何度も行っ ているうちに慣れさせた」「相手が根負けして許した」などという話もあったという。また、娘遊びとヨバイは同じ意味であるという話者もあり、肉体関係を 伴った恋愛によって結婚に至ることが、古い時代では珍しくなかったことがうかがわれる。
 なお、娘遊びが元で結婚することになった場合でも、正式に婿方、嫁方でオチュウニンを立てたのは言うまでもない。

アシカケ
 古い時代には恋愛結婚が多かったとはいっても、全ての結婚が恋愛によって成立したものでないことはたしかであろう。したがって、若い男女の 結婚を仲介する者が必要となる。西尾市南部地域では、この仲介者をアシカケと称している。
 アシカケは、「あそこにいい人がいるが・・・」といって、結婚の最初の口利きをした人のことであり、商売ではないが世話好きな人がやっていた。嫁が欲し いときは、この人に親が頼んで相手を探してもらったり聞いてもらったりする。化粧品屋や呉服屋さんなどが娘をたくさん知っているので、アシカケをしている 場合もあり、「何人話をまとめた」といっては自慢にもなっていた。誰かを紹介するときも履歴書や写真を持って行くわけではなく、口約束だけである。アシカ ケは男の人がやるときも女の人がやるときもあった。
 なお、娘遊びで相手を見つけ、事前交渉をしてもらうときは友人に相手の意向を聞いてもらうこともあった。いきなり向こうに結婚話はしづらいので、友人に 聞いてもらったのである。これは実際にはアシカケの仕事をしているのではあるが、アシカケと呼ぶことはなかった。アシカケは、あくまでも一から相手を探し てくれる人を指した。
 アシカケはあくまでも男女の仲を取り持つだけの役割であり、婚約の成立から婚礼までを取り仕切り、新夫婦のその後の生活の相談者となる仲人(オチュウニ ン)とは明確に区別されている。西尾市南部地域では、アシカケはどのような人でも務まるもので、重きを置かれてはいなかった。一方、オチュウニンはシンセ キの近い人が務めるものに決まっていた。たまたまこういう身内の人がアシカケならば、アシカケがオチュウニンになることもあったが、友人やトナリ、他人な どがアシカケの場合、オチュウニンをする資格はないとされていた。もっとも、アシカケは結婚の第一歩を作った人であり、それに対してのお礼はおこなわれ、 また、結婚式の時は、オチュウニンの次の席に座る場合もあった。

見合い
 アシカケが話を持ってくれば、見合いがおこなわれることになった。見合いは、一般には娘の家でおこなわれ、アシカケに連れられて若者が一人 で行く場合と、親と一緒に行く場合があった。
 大正12年生まれの話者(男性)によれば、見合いの時はちょっとしたよそ行きを着て一人で娘の家に出かけた。先方では父親が挨拶に出て部屋に通され、母 親がよそ行きを着た娘を連れてきた。娘はお茶を出してくれ、ここで少し話をして帰ってきたという。後日、アシカケのおばさんが男の側の気持ちを聞き、先方 に話を伝え、双方がいいとなって結婚の話を進めた。
 終戦後、養子を迎えた昭和2年生まれの話者(女性)によれば、見合いの時は、相手が父親と話をしているところに、着飾りもせず「こんばんわ」と言いに 行っただけで、顔もよく見なかったという。2〜3日してからどうするか聞かれ、黙っていたら「娘もいいと言った」ということにされて結婚が決まってしまっ た。結婚は親が決めるもので、終戦後は男の人が少ないときでもあり、心で他に秘めた人がいても娘の意見は通らなかったものだという。また、正式な見合いは なく、若者が娘の姿をこっそり盗み見て話を決めてしまうこともあった。安城市根崎から天竹町に嫁いできたある話者(明治34年生まれ、女性)は、ミカン畑 でミカンをちぎっているところを若者が見に来て、それが見合いの代わりだったという。
 一般に、世話をしてくれる人が若者を連れて来ても、娘はお茶出しをするだけで相手の顔をじっくり見ることはなかった。中には、式の時に初めて相手を見た り、結婚相手をその弟と間違えていたりということもあったという。結婚相手は親が決めるものであり、見合いは、親の方から強くいわれてするもので、むしろ 嫁の親が初めて若者と顔を合わせる機会であった。したがって、見合いは双方の親が結婚話を了解してからおこなうものであり、ここまでゆけば結婚に至る場合 が多かったのである。
 なお、相手の人柄や家柄がどういうものかが分からない場合は、見合いの前に聞き合わせに行くこともあった。ほとんどは親が行くか身内のものが行き、相手 のムラに心安い人があればそこを訪ね、また、相手の家の近所の出身者が近くにいれば、その人に聞いたりした。聞き合わせには手拭いか羊羹1本くらいを持っ て行く。あるいは、話がまとまって式が済んでからお礼にいった。道で行き会って聞かれたときは、「あの人がくさしたからダメになった」といわれるので、た いていはほめてやることになった。

2 オチュウニン

愛知県下の仲人の諸類型
 白井宏明は、仲人を社会的機能によって分類し、親方的代表者的仲人と仲介者的仲人に分け、さらに前者を、親方型仲人、親戚型仲人、近隣型仲 人と分けた。第1図は、県下の仲人の慣行について、この類型に片仲人、両仲人の指標を加味し、その形態差の分布を示したものである。これによれば、尾張西 部には仲介者的仲人(注1)、三河山間部では親方的仲人(注2)が見られ、三河平野部で親戚型仲人が広がっていることがわかる。また、仲人を双方で立てる 両仲人の慣行は、三河地方から尾張東部に見られる(注3)。
 西三河平野部は、親戚型の両仲人が卓越する地帯であるが、以下、西尾市南部地域の仲人の事例をあげ、その性格をみてゆきたい。

オチュウニンになる人
 結婚話の仲介者に終始するアシカケに対し、婚姻に際しての責任者の地位にある仲人のことをオチュウニンまたはオセワニンといった。アシカケ の仲介で見合いが行われ、結婚しようということに話がまとまると、その後2カ月くらいが調整の期間であり、ここで婿方、嫁方の双方がオチュウニンを立て た。
 西尾市周辺地域では、オチュウニンは、たいていはシンセキの人が務めている。第○表は、明治から昭和初期生まれの話者11名について、オチュウニンの関 係を示したものである。わずかの事例であるが、片仲人の例は一つもなく、また、関係を見ると、21人のオチュウニンのうち、イットウが2例、トナリが1例 ある他は、いずれもシンセキであり、2〜4親等に集中している。また、どちらかといえば父系のシンセキを指向する傾向はあるが、限定的ではなく、姉夫婦と いうものも3例ある。次に、この地方の仲人に対しての一般的な考え方について示しておきたい。
A 百姓どころなので、3親等、5親等以内のシンセキに頼む場合が多い。できるなら、自分の身近の血を引いている人にオチュウニンは頼む。また、兄や姉な どが務めることもある。アラヤホンヤであれば、アラヤはホンヤの弟なので、一番濃いということになってお互いに仲人をしたりする。オチュウニンがムラの中 の人である必要はない。仲人は話のわかりのいいくだけた人、世の中のことがよくわかっている人である必要がある。20代、30代では格式がないので、40 過ぎの人を立てる。(鎌谷町、大正6年)
B オチュウニンは一番のシンセキに頼む。(行用町、大正6年)
C シンセキの近い人や身内の人に頼み、ホンヤ、兄弟、おじさんなどが務めた。(斎藤町、大正6年)
D オチュウニンは身内から出したり仕事上の人を頼むが、近親者が多い。夫婦揃っていることが条件である。たいていは父方の兄弟(オジかオバ、一番上の兄 弟の場合が多い)がやる。(寺津町、昭和3年)
E チュウニンは近親者でやる場合が多い。イットウのアラヤが嫁をもらえば、ホンヤの人が務めたり、この逆であったりする。イットウと兄弟では、兄弟の方 に頼むことが多い。(鎌谷町、大正14年)
F 主人の兄弟かごく近い懇意な人、あるいは母親の身内などに頼んだ。もらいに行くお話中は一人でもよいが、最終的には夫婦で務めることになる。(天竹 町、大正4年)
G 頼む相手は本人から近い人、血のつながりのある人である。(斎藤町で大きな結束力を持つ)Iイットウでも、血のつながりの強い人に頼んでいるのではな いか。婿方、嫁方ともに、たいていは親の兄弟か本人の兄弟がやることになる。片ナコウドは今でも多くはない。シュウゲンの場合は8割方は両ナコウドであろ う。(斎藤町、大正11年)
 ここからもうかがわれるように、仲人に要求されるのは、庇護者としての実力や地位ではない。一番のポイントとして、血の近さが挙げられるのである。この ような点から、この地方の仲人は、親方子方的色彩の乏しい、かなり平準化された親戚型に分類されるものと考えることができる。

オチュウニンとのツキアイ
 結婚後、それぞれの家で立てたオチュウニンのところにお礼を持参した。あるいは、婿方で両方のオチュウニンにお礼をしたり、婿方嫁方で4分 6分に分けてお礼をするということもあったようである。
 盆正月には、年頭の挨拶、お歳暮を持って行く。この期間も、オチュウニンが死ぬまでツキアイを続けるという話者と、少なくとも3年間という話者がおり、 家の事情によってまちまちであったようである。中には、3代も4代も代がかわっても、昔、仲人をしたということで、葬式の時などには香典を持って行ってツ キアイをしている人もいるという。また、婿の親元と嫁方のオチュウニン、あるいはその逆のツキアイは3年間であり、自分の側で立てたオチュウニンとは一生 つきあうという話者もあった。オチュウニンのところで葬式があればサタが来たし、オチュウニンをやってもらったところでも、親が死んだりしたらオチュウニ ンを呼ぶのが普通であったという。オチュウニンはシンセキである場合が多かったのであるから、当然のことではあるが、ツキアイ関係は比較的長く続いている といえよう。近年は、いわゆるタノマレナコウドが増え、結婚話が出来てもオチュウニンが婚家におもむかず、また、オチュウニンへのお礼も昔くさいこととし て取りやめにする事例も増えている。

3 婚姻儀礼と仲人

(1)トックリコロガシ

第一次婚約式としてのトックリ
 オチュウニンが、婚姻儀礼において最初に活躍するのがトックリコロガシである。トックリコロガシ、あるいは単にトックリという儀礼は、結納 のしきたりが広まる以前の婚約式であったと見られるが、現在、伝承で確認できるのは、結納に先立つ酒宴、すなわち第一次婚約式として位置づけられるもので ある。この名称を用いる地域は、第○図で示したように、西三河地方を中心に、尾張東部にまで広がっており、愛知県下の代表的な婚姻儀礼の一つと考えられ る。
 現在でもトックリの儀礼はおこなわれているが、面倒なのでトックリと結納を一緒に済ませることが多くなった。しかし、明治生まれの話者を中心に、トック リと結納は、本来は全く別のものであったという伝承が得られる。「トックリが転ぶ」というのは結婚の話がついたということで、結納のことではなかったとい い、トックリの後の結納では、婿方から酒は持って行かなかった。結納の時に、嫁方で会食することもあったが、その時の酒は嫁方で用意されたという。
 トックリと結納が別の場合、トックリの日は、嫁方に婿方のオセワニンが一人で出かけた。嫁方には先方のオセワニンが来ているので、結納金をどれだけ持っ て行くかなどを決めた。また、嫁さんの荷物もこの日に決めたが、荷物は結納の10倍といわれていた。
 トックリの時は重箱に3つくらい肴を持っていって、酒1升を飲まないといけなかった。飲み干した一升瓶は、ザシキで、みんなの前で転ばした。オセワニン は婿方に帰ってから、トックリを転ばせて見せ、内容について報告をした。「トックリが転んだ」「まあ転んだでね」「ようやくおつもりになる」などといい、 これで婚約が成立することになった。
 この後の結納オサメは、トックリの日からあまり日をおかないで、大安を選んでおこなった。結納は、昔は飾りもなくてお金を袋に入れて持って行くだけだっ たという。
 その後、トックリは結納と同じ日におこなわれるようになり、第一次婚約式と第二次婚約式の区別はなくなってゆく。大正中期生まれ以降の話者のほとんど は、トックリは結納のことであると解釈し、結納を「トックリの式」と称したという人もいる。これは、結納の形式が定まり、飾りものなどが普及していったこ とにより、トックリが結納に吸収されていったことを意味する。しかし、第一次婚約式における酒の持つ拘束力と、トックリでのオチュウニンの働きは、結納の 儀礼に受け継がれている。以下、結納の中でおこなわれるトックリについて、そのしきたりと、オチュウニンの役割について記したい。

トックリに行く人
 結納は大安の日の午前中に持って行き、嫁方で昼御飯を呼ばれてきた。嫁方に結納を持参するのは、婿方のオチュウニンである。これは、オチュ ウニンの夫婦である場合もあり、男の人だけ一人という場合もあった。また、男のオチュウニン一人の時は、他に近いシンセキが一人、一緒に行く場合があっ た。このシンセキは、オチュウニンが一番親しくしているような人で、「お前行ってくれ」と頼んで来てもらうが、たいていは、婿の父親の兄弟などであった。
 第○図のように、尾張地方では、結納に際して、仲人とともに婿の父親が同行する事例が多い。しかし、西尾市周辺では、「トックリが転ぶまでは親は口出さ ない」といい、結納を済ませてから初めて婿の父親が顔を出すことが多かった。「トックリの時は女は出て行かず、足カケとオチュウニンで行く。親も婿も行か ない。全部オチュウニンに任せている」といい、今でも、正式な結納はオチュウニンだけの舞台であるという。婿方のオチュウニンは、紋付姿の正装で嫁方に赴 く。先方では、嫁の父親と、嫁方のオチュウニン夫婦が待っている。また、嫁方でも、オチュウニンに加えてシンセキの近い人がいる場合もあった。ここで、結 婚の日取りを決め、それぞれの家のお客の数などを打ち合わせたが、話をするのは双方の家のオチュウニンであり、嫁の父親は口をはさまなかった。実際には、 結納以前に親が結婚の話をつけていることはあるが、結納の時は、あくまでもオチュウニンが表に出ることになっていた。

結納飾り
 結納の品物の数は、2で割り切れない奇数に揃え、予算に合わせて7,9,11,13品となった。飾りには鶴、宝船、真綿などがある。この 時、嫁の兄弟の土産も持参した。戦後は一時、結納品の数が減ったが、のちに豪華になると並べるのに箱を用意した。婿方のオチュウニンから嫁方のオチュウニ ンに目録が渡され、中味を確かめて飾った。
 しかし、このような結納飾りは、古くはあまり一般的ではなかったようである。結納金は持っていったが、他には酒1升と肴(重箱3つ重ね)、手みやげを 持っていったきりで結納飾りもなかったという事例が多い。結納においては、金品の授受よりも、次に述べるトックリのしきたりの方が盛んに語られている。

トックリの次第
 結納には、婿方からお祝いの酒一升と重箱に詰めた肴を持って行く。これを嫁方の人とともに食べ、カラにするのがトックリの次第である。ここ で飲む酒は固めの盃の意味でもあったという。酒は、「トックリに使うから」と酒屋にいうと、酒瓶に紅白の水引をつけたり、のし紙をつけてくれた。特定の銘 柄がよいということはなかったが、今であれば上撰くらいのものであった。現在のトックリでは、特級の「松竹梅」、「月桂冠」がよいという人もいる。肴は家 で用意するのではなく、年代的にかなり早い時期から仕出屋に頼んでいたようである。使用する重箱や器まで仕出屋で支度してくれたという。
 結婚の話は、「トックリが転んで納めるものである」といい、婿方から持参した一升瓶と重箱はカラにしなければならなかった。瓶が空くと、「めでたくきれ いにいただきました」といってトックリを倒し、「トックリが転んだ」といった。持参した酒瓶は婿方に持ち帰り、無事に飲み干してきたことを示す必要があっ たため、酒を飲みきれない場合は、嫁方のオチュウニンが残っている酒を別にして空瓶を返し、「確かにいただきました」といった。しかし、「酒が飲めないよ うなチュウニンはうまい話ができない人である」ともいい、酒が飲めることがオチュウニンの条件の一つにもなっていたのである。
 婿方のオチュウニンは、婿方に戻ってきて婿の親にカラドックリを示し、「めでたくひっくり返りました」「トックリを転ばしました」といって報告した。こ れは、結婚話の全てが円満に終わったということを意味した。このことを「トックリコロガシ」「トックリが終わった」といい、この後は、結婚話が隣近所に広 まってもよかった。このように、結納で金品を授受することよりも、トックリで酒を飲むことの方に、正式な婚約儀礼としての地位が与えられていたのである。

(2)嫁入りの荷物

嫁入りの荷物
 嫁入りの荷物は結納の金額によって決まるとされ、結納金の10倍の支度が必要だとされる。このため、オチュウニンが中に入って結納金の金額 を抑えさせたり、「結納金は、当日に使う化粧料である」として、10倍でなくてもよいようにした。このあたりは、オチュウニンの才覚である。結納金の額、 それに対応する嫁入り道具の数を決めるのは、双方のオチュウニンの役割の一つであった。
 嫁入り道具については、西尾市周辺は派手であるという。家や格式によっても異なるが、道具のことをツリモノといい、昭和初期で二吊り、三吊りが普通で あったらしい。戦後の物のない時期が過ぎると、箪笥2本、長持2本、鏡台、下駄箱、盥、ハンゾ、針箱、裁ち台などを用意し、これに自転車がついたりミシン がついたりした。蚊帳や座布団も必需品で、座布団は藺草の夏用のものと冬用のもの、それぞれ20人分を長持に入れていった。布団も夏、冬の客用が3組くら い、オオヤさんであれば7組くらいを持っていった。
 これらの嫁入り道具の支度には、かなりの部分、娘の奉公による稼ぎがつぎ込まれていた。奉公で儲けないと、お嫁の支度ができなかったといい、小学校6年 を卒業して、製糸や紡績の工場に奉公に行く人が多かった。岡崎の三龍社(製糸)、西尾の鈴木工場(機屋)、豊和(機屋)、石八綿布、中島町の杉浦製糸など が主な奉公先で、杉浦製糸には300人くらいの女工がいたという。ムラの中にも、3〜4台の機械を持つ小規模な機屋さんは随所にあった。娘時代の稼ぎの大 きさが、嫁の持参する道具類を充実させていたのであり、このような傾向は、尾張西部と似通っている。また、シンセキがはなむけとして、鏡台、下駄箱、箪 笥、長持などをくれることもあった。

荷入れ
 嫁入り道具は、結婚式の前の大安、友引などの日を選び、嫁方のオチュウニンが先達となって婿の家に運んだ。場合によっては、婚礼当日の午前 中に運ぶこともあった。荷物を持ってゆく人はオトモといい、シンセキか兄弟が務めた。大八車、リヤカーなどの荷車の数によって道具の内容が分かるといい、 車の数も奇数で、3、5、7台で運んだ。荷物は、外から見えるように婿の家の居間、ナンド、ヨコヤ(ハナレ、新婚夫婦の家であった)などに飾り、隣近所に 披露した。見に来た人には嫁菓子を配ったが、菓子は嫁方で用意し、婿方の人が配る。荷物を披露する行事には特定の名称はなかったようである。荷物の中身は 目録に書いてあるので、嫁方のオチュウニンが婿方のオチュウニンにこれを渡し、荷物と照らし合わせた。1年やそこらで離婚ということになったときは、目録 を元に嫁入りの道具をオチュウニンが引き上げることになるため、照合の作業は重要であった。もっとも、このような格式張った荷入れの儀式は経済的に豊かな 家だけであったともいう。オトモの数は、あらかじめ婿方に知らせてあるので、前膳という、本膳の三分の一くらいのものを出してもてなした。また、オトモの 祝儀として2升分の大きな重ね餅がもらえるので、オトモに行きたい人が多かった。披露宴の時はオトモも末席でご馳走になり、ここでも本膳を呼ばれた。

(3)婚礼

婿入り
 結婚式当日朝の婿入りの習慣は、話者によって伝承がまちまちである。「結婚式当日の朝、婿に男の仲人がついていって婿入りをおこなう。嫁さ んの家では正式な膳ではないが、ご飯を呼んでくれる。この場には、嫁方のシンセキも来ていて、一緒にご飯を食べた。嫁は婿さんが一緒に連れてきた」(鎌谷 町、大正6年)、「婿入りは嫁を迎えに行くときであり、オセワニン夫婦と婿が紋付姿で昼御飯過ぎ(1時頃)に嫁方を訪れる。嫁方のオセワニンと近いシンセ キが来ているので、ここで婿の紹介をする。婿入りの時はオチョウ、メチョウはつかないが、婿と嫁の親とで盃を交わす」(行用町、大正6年)、「昔は婿の迎 えはなく、戦後になって迎えをやるようになった」(斎藤町、大正6年)、「婿が嫁を迎えにゆくことはない。オセワニンが行くこともあるが、向こうの人が連 れてくる」(熱池町、大正9年)。ほぼ同年代で、地域的にも隣接している地区の話者であるにもかかわらず、婿入りはこのようにまちまちにおこなわれてい た。この地方において、婿入りは本来的な儀礼ではなかったのかも知れない。

デタチと入家
 結婚式の当日、嫁の家ではシンセキを呼んでご馳走を出し、夕方くらいまでオタチの宴を行った。この後、嫁は玄関から出たが、この時には嫁菓 子を撒いた。菓子の中身は今でいえば300円程度のものであり、キャラメルか駄菓子程度であった。以前の嫁入りは、近くの場合は歩きであったという。しか し、明治30年代生まれの話者で、安城から西尾に嫁いできた人は人力車、大正一けた生まれで一色町から嫁いできた話者の場合は、すでにタクシーに乗っての 嫁入りになっていて、歩いての嫁入り行列を見たという伝承はあまり得られない状況である。行列の先頭は嫁方のオチュウニン、次いで嫁、この後にシンセキが 続き、嫁の親も同行したという。
 嫁が婿方に近づくと、婿方のオチュウニンが迎え提灯を持って出迎えに出る。嫁が家に入るときは、入口で婿方のオチュウニン(女)に引き渡され、この人が 手を引いたり着物の裾を持ったりして世話をした。嫁は玄関から入って、最初に仏様に参った。この後、椅子を出してザシキに30分ほど外を向いて座らされる 場合もあり、この時に近隣の人たちが嫁さんを見に来たという。この人たちに対しても菓子を配ったが、この数をどのくらい用意するかはオチュウニンが聞い て、嫁方で用意した。菓子は、三三九度の盃が終わってから、見に来た人に渡す場合もあった。

盃ごと
 夫婦の盃ごとは、奥の部屋(ナンド、キタザと呼ばれる)で唐紙を閉め切っておこなった。奥の別室がなければ、仏間で三三九度をおこなった が、ナンドでこっそりとおこなうのが古い形であったようである。
 寺津町での聞き書きによれば、盃ごとの座順は、ナンドのカミ(西側)に婿、シモ(東側)に嫁が向かい合って坐り、真ん中に酒器を置いた。手前(南側)に 婿方のオチュウニン夫婦、奥(北側)に嫁方のオチュウニン夫婦が座った。盃を扱うのは婿方のオチュウニンであり、初めに婿が酒を飲み、次いで嫁というよう に3回繰り返した。盃の受け渡しをオチョウ・メチョウと呼ばれる子供がやるのは、格式が高い場合であるといい、また、新しいしきたりであるという話者も あった。聞き書きの中では、オチュウニンが盃を受け渡した事例の方が圧倒的に多かった。基本的には、夫婦の盃ごとはオチュウニンの仕事であったと見てよい だろう。
 子供が盃の受け渡しをする場合は、10〜15歳くらいまでのシンセキの女の子二人が引き受けた。この場合も最後に、婿方のオチュウニンが大きい盃をとっ て酒を飲み干し、嫁方のオチュウニンが大きな盃を納めて終わった。この時、婿方のオチュウニンは「盃が納まりました」といって三三九度が終わったことを宣 し、オチュウニンは盃ごとで大きな役割を果たしている。この場には、両親がいない場合が普通で、したがって親子盃はなかった。親子盃をする場合は正座に婿 の両親が座り、花嫁と親子の盃をおこなったが、この時はオチュウニンは関係なかったという。

宴の座順
 第○図で示したように、聞き書きで得られた披露宴の座順は、まちまちであった。いずれも大正中期から昭和初期までの話者からのデータであ り、一部、太平洋戦争後の事例も含まれている。婿やその親が披露宴に出ない傾向にあるのに対し、婿方のオチュウニンは正座につく事例がある。また、嫁方の オチュウニンも必ず出席しており、嫁の両親が臨席しない事例とあわせて考えれば、披露宴は、親に代わって、両家のシンセキを代表するオチュウニンによって 取り仕切られていたと言ってよいであろう。
 なお、披露宴の始めにシンセキの盃が回るときがあり、シンセキの中のおもしろい人がスルメを箸で摘んで、「オサカナコレニー」と唱えた。
 宴の料理は仕出屋が来て調理する場合が多く、隣近所からも手伝いが出ることがあった。宴は戸を閉めて朝までやっている場合もあり、オオヤさんであれば芸 者をあげたりしたという。

新客とトナリまわり
 婚礼が済むと、オチュウニンの公式な役割はなくなってしまう。婚礼の翌日は、手伝ってくれた人たちを招いてイタナガシをした。この時は、婚 家のものやシンセキがもてなしをした。
 トナリマワリは、宴の最中に姑が連れておこなう場合も、婚礼翌日の場合もあった。宴の時におこなう場合は、2度目の着替えの時くらいで、手軽なシルシと して名入りの手拭いなどを持っていった。これをナビロウともいった。回るのは向こう三軒両トナリくらいで、5〜6軒である。婚礼翌日の場合は新客から戻っ てからで、姑が花嫁を連れて神社とお寺にお参りをし、ついで部落の中のセコに挨拶をした。
 式の翌日、婿の両親が婿、嫁と一緒に嫁方を訪れるのが新客(初客ともいう)である。この時もオチュウニンは来なかった。ご馳走が出て一杯飲んでくるが、 新客では泊まってはいけなかった。泊まるならば、一度戻り、あらためて里に行った。新客は両方の親の挨拶のようなものであったという。新客は3日後、1週 間後ということもあったようであるが、嫁の初めての里帰りが宿泊を伴う尾張地方とは違い、泊まってくるなどというのはとんでもないことだという。

婚礼後の仲人の機能
 オチュウニンは、結納、婚礼の日取りを決める他、式場でも主体的に仕事をする。そして、結婚後は、新夫婦の世話焼きもやることになる。嫁が 辛抱しないようなときには、里帰りの時にお灸を据えたりしたが、オチュウニンがオジ、オバであれば意見がしやすかったという。
 昔は、家の中での嫁の立場が弱かったということはよく聞かれる話である。「相手がどんな人であっても辛抱するようにと親から言われていた。離婚などとい うことは考えられない」「西を向いて泣いても東を向いたら笑えと親が言い聞かせていた」「家から出ていけば人目が悪いし、恥であった。今の世の中とは違 う。女の人の方が辛抱したものだった」など、嫁には辛抱が求められていた。シュウトさんや夫との折が悪ければ、嫁はすぐに家から出て行けといわれることに なった。そんな時は、嫁は在所か友人のところに行ったが、在所では「曲がっていても親のいうことは聞かないとダメだ」と言われ、中に入れてもらえないの で、ホンヤではなく、ナヤ(コヤ)で暮らし、「子供が心配しておにぎりを持ってきてくれた」という話者もあった。嫁ぎ先でも、嫁が出ていってしまっては、 オカッテができない、お風呂ができないということになって困ってしまう。夫が嫁を迎えに行くのも間が悪いので、子供に頼んで母親を連れて来てもらったとい う話者もある。
 このような状況が昂じると、オチュウニンの出番となる。「もめたときは当人同士や親が出て行くとダメになることが多いので、親の意見も聞いてナコウドが 立ち回ることになる」といい、オチュウニンには、上手にもめ事を解決する役回りが期待されていた。「夫婦がもめたときは一番に仲人のところに相談に行く。 そうすると、仲人同士で話を付けた。このためにも、仲人を両方の家で立てるのは普通のことであった」とされ、もめ事の解決のためにも、両仲人である必要が あったとされる。
 このように見てくると、この地方で両仲人を立てることには、婚姻関係を維持するための相談役、もめ事を解決する仲介役の働きが第一に期待されているとい える。
 刈谷市高須町でも、結婚の際の仲人は婿方、嫁方の双方で出した。たいていはシンセキであり、後に知人、先輩、顔役の人などを夫婦で頼んだ。このムラは明 確な同族団が存在し、年一回の同族祭祀もおこなっているが、仲人にイットウを頼むということはなかった。実際に主となるのは婿方の仲人であり、嫁方の仲人 は従であった。ただ、不縁になってもめたとき、片方のナコウドだけだとそれぞれに味方をするため、両方でナコウドを立てると説明されている。
 このように、三河地方では、婚姻関係を維持してゆくために、両仲人であることの必要性を説くところが目に付く。話者の中には、尾張地方が片仲人であるこ とに対して、「そんなことでもめたらどう解決しているのか」と訝しがる人もいた。
 実際には、夫婦間のもめ事を解決するため、第三者の仲介が必要になるという事例は多くはなかったであろう。また、両仲人を立てておかなければ、どうして ももめ事の解決ができないということもないであろう。例えば、一色町佐久島では、仲人を両方で立てる場合はあまりなく、婿方だけで立てている。仲人は、シ ンセキ、昔からのシンヤホンヤ、知り合い、顔ききの人などに頼むが、シンセキに頼む場合は「ミウチ」はダメだといった。これは、夫婦関係が悪くなり、もめ た時、片方の身内だと片方の側についてしまうからであるという。このため、「ちょっと先っぽの人」「血の薄いつながりの人」を立てたのである(注4)。こ こでは、 不縁でもめたときに問題が生じない方策として、両仲人にする以外の手段が説明されている。

まとめ・両仲人の持つ意味

 西尾市域と佐久島の仲人の事例からは、仲人が婚姻関係の維持という機能を満たすためには、両仲人か片仲人か、誰を仲人に立てるかという点で一定の関係が 成り立たなければならないことが読みとれる。すなわち、近親者を仲人とする場合は両仲人である必要があり、近親者以外から仲人を立てるのであれば、片仲人 であっても構わないということである。どちらがより親身に相談に乗ってくれるかは、当然ながら近親者の仲人であろうが、片方の家の味方ばかりをするなら ば、それはかえって、婚姻関係を維持できなくさせることになる。このため、三河地方では両仲人が卓越しているのである。しかし、ここではそれ以前の問題と して、近親者を仲人として立てることが当然視されていることが重要であり、この地方のシンセキ関係の強さを見て取ることができる。
 三河平坦部の仲人の形態は、平準化された親戚型の両仲人である。その存在理由は次の二点にまとめられるであろう。一つは、トックリコロガシによって婚姻 を成立させる機能である。この地方の婚姻成立の儀礼においては、尾張地方のように、両家の親が中心的に関わるということはない。仲人は両家の代表として婚 姻成立儀礼を執り行っている。そして、この儀礼には、新しく成立する夫婦の関係を維持させるための存在として、互いの仲人が顔を合わせるという意味も含ま れている。
 二つ目は、婚姻関係を成立させた者として、その関係を維持する機能である。家制度下においては、夫婦の関係がこじれた場合、嫁に辛抱を強いることでその 関係を維持することがおこなわれてきた。しかし、これが高じて婚家と里方というイエ同士の関係のこじれに発展した場合、イエとイエは互いに対等であるか ら、関係の修復はたいへん難しくなる。この場合、こじれた両家の親が話をつけることが困難であろうことは容易に想像される。
 婚家と里方の関係維持のためには、様々な手段が考えられる。例えば、尾張地方のように、「麦の根元と舅元(里方)は踏むほどよい」という暗黙のルールを 作り、里方を常に劣位においてその妥協を強いることで、関係の維持を図ることもできるであろう。また、奥三河の場合のように、有力者を仲人に立て、その裁 定によって両家の衝突を解決することも可能であろう。三河平坦部では、これを両家の代表である両仲人の話し合いによって決着させることが期待されているの である。互いのイエで仲人を立て、この任務を依頼することができれば、両家の親が前面に出るよりも、はるかに容易に関係の修復が可能であろう。この地域の 仲人には、両家の間にあって緩衝剤としての役割が与えられていると言える。
 近年、結婚産業の台頭によって、婚姻儀礼の全国的画一化が進んでいる。この中で、仲人のように、その地域の社会関係に根ざした習慣にも変化がもたらされ ている。最近は、この地方でも、オチュウニンには会社の上司などを頼み、婿方からのみ立てるのが普通になりつつある(注5)。この場合の仲人は結納の時に もついていった りいかなかったりで、結婚式当日の仕事(儀式と宴会)が中心であり、披露宴の場で、新郎新婦の社会的な立場に一定の権威付けをするのがその役割になってい る。これに対しては、「片方からだけ立てる方が、お礼も少なくていい」という話者もいた。しかし、そのため、「片方のチュウニンがいないので、もめると チュウニン同士で話をすることができず、両方の親が難儀をする」とも言い、大きな戸惑いになってきている。緩衝剤としての仲人に対しての意識も変わりつつ あるのである。孫の結婚に際して会社の上司が仲人を務めたある話者は、「結婚の話が決まれば、一度くらいオ チュウニンが来てもよさそうなものだが、挨拶にも来なかった。後から(夫婦で)もめた時はどうするんだろう」と言っている。ここには、新しい仲人像に対す る疑念が感じられる。仲人と言えば両家のシンセキから立てるという従来の習慣は急速に変わりつつあり、この変化は、さらに進んで、家族関係、親族関係にも 影響を与えるに違いない。この点で、仲人の習慣の変化は、単なる儀礼の変化よりも大きな意味あいを持っているのであり、今後の仲人のあり方に注目をしてゆ く必要があると思われる。



(1)尾張西部地方では、仲人にはシンセキを頼むが、その場合でも双方から出すことはなく、婿方からだけ立てている。また、職業的な仲介者がそのまま仲人 を務める事例も多い。稲沢市片原一色では、仲人はオチュウニンといい、相手を紹介してくれた職業的な人に頼む場合が半数を占めたという。このような人は特 に商売チュウニンと呼ばれていた。
(2)奥三河地方では、仲人のことをオセワニンと称し、婿方、嫁方の双方から一人ずつ立てることになっていた。東栄町月では、オセワニンはある程度決まっ たムラの名士のような人であった。東加茂郡では、オキモリという、多くはホンヤシンヤからなる各家に固定的な関係の家が存在し、結婚の仲介と仲人をおこ なっていた。これらの地域では、仲人となる人物は必ずそのムラの者で、一定の実力を持つ庇護者としての存在、あるいは同族団内で頻繁な互助協力が期待され た人である点が特徴的であり、親方型仲人であるといえる。
(3)尾張東部、北部では、職業的な仲介者が仲人を務める事例は少なくなり、代わってトナリやシンセキの者が仲人を引き受けることが多い。豊明市では、仲 人は婿方、嫁方でそれぞれ立てる場合が多く、理由としては、互いの伝達がスムーズに行くためとしている。結婚の日取りなどは、この両方の仲人の話し合いで 決まった。長久手町でも、仲人は双方で立てるのが一般であったという。隣接する名古屋市名東区高針では、仲人は婿方からのみ立てる片仲人である。大府市で は、婿方からのみ仲人を立てる場合が多かったが、家によっては双方で仲人を立てる事例もあったといい、このあたりが、片仲人と両仲人の遷移地帯であると考 えられる。
(4)佐久島では、近年は三河平野部との通婚が多いため、両仲人が増えている。また、オジ、オバ、兄弟などの身内の者を仲人とするようになっている。ここ では、三河平野部の慣行が浸透してきていると言える。
(5)西尾市丁田町の西尾平安殿では、年間に約180組のカップルが挙式し、そのほとんどは西尾・幡豆地域の出身である。15〜16年前には、挙式する カップルの3〜4割は両仲人であったというが、現在は両仲人で挙式するのは年に1〜2組になっている。両仲人慣行は急速に衰退してきていることがうかがわ れる。


「愛知県史民俗調 査報告書2 西尾・佐久島」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書2 西尾・佐久島」編集委員 会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部県史編さん室
  平成11年刊行


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