「尾張平野 の田植え慣行と農業の地域性」
服部 誠  

1 尾張平野の田植え

(1)ヒヨに頼る田植え

尾張平野の田植え慣行
 甚目寺町上萱津では、田植えはムラ中一斉に7月1日におこなうことに決まっていた。6月30日、農家では苗取りをして田へ配り、7月1日に ヒヨ(ヒヨウともいう。日傭、田植え人足)の応援を頼んで田植えをした。どこの家の田も、ヒヨを頼めば1日で植えられるくらいの規模であった。田植え後 は、ヒヨに酒、ご馳走を振る舞い、7月2日は仕事を休んだ。3日には苗田ジマイをおこない、苗代に残った苗を取って土を起こし、残った苗を植えた。この日 は、苗が足りない人には残った苗を融通してやり、遅い人には手伝いをしてやって、昼までには仕事は終了した。この後、太鼓をたたいて農上がりの合図をし、 7月10日までを休みとしていた。ミョウガ饅頭を作ったり、若い衆は名古屋に遊びに行ったりし、楽しい期間だった。これが、機械化が進む以前、尾張平野の 農村に見られた田植え時期の典型的な姿である。
 米どころである尾張平野の大部分を潤しているのが、木曽川から取水する宮田用水である。ここでは、田への配水は下流の南部地域から始まり、順次、北部へ 配水されてゆく。かつての配水慣行では、最下流の蟹江町、南陽町(現・名古屋市港区)と北部地域での配水期日は60日も開きがあった。このため、田植えも 当然ながら南部から始まり、順に北部へ移ってゆき、その時期も、南部と北部では20日あまりも差があった。
 第1図は、『宮田用水史』に基づき、大正4年の各ムラの田植えの期日を地図に示したものである。この年、もっとも田植えの早かったのは蟹江新田で、6月 10日であった。この後、6月24日までの2週間に田植えをおこなった地域は50箇所で、ほぼ用水の末端に位置するムラであった。6月25日から29日の 5日間では、その上流に位置する63箇所のムラで田植えがおこなわれており、この頃から田植えの最盛期に入る。そして、30日には26箇所、7月1日には 48箇所、2日は31箇所で田植えがおこなわれ、宮田用水掛かりのムラの全ての田植えが終了する。最後の3日間には、宮田用水掛かりのムラの約半数、 105箇所で田植えがおこなわれている。いかに短期間に集中していたかがうかがえよう。これは、7月2日頃が半夏生であり、「田植えは半夏生までに済ませ なくてはならない」と言われていたことから生じた現象である。また、同一日に多くのムラの田植えが集中していたことと合わせ、上萱津の事例でも明らかなよ うに、尾張平野の田植えは1日、2日で済ませてしまう慣行であり、たいへん忙しい。この田植え慣行を「大植え」と称したりする。こうした短期決戦型の田植 えを可能にするためには、十分な労働力を集約的に投下できることが必要であった。
 シンセキが用水の上と下に分かれていれば、田植えの日にちがずれるため、シンセキの農家同士でテツダイッコで田植えができる人もあった。しかし、こうい う事例は多くはない。そのため、大植えを可能にするためには、たくさんのヒヨを雇って植える必要があった。そして、田植えのヒヨは、早く田植えの済んだ南 部地域の人たちが務めたもので、だんだんと北のムラに上がっては田植えをおこなったのである。6月から7月にかけて、尾張平野ではヒヨの人たちの大量移動 が見られ、初夏の風物詩でもあった。

尾張平野中南部の田植え人足
 名古屋市中川区下之一色は漁村として知られているが、集落北にはかなりの面積の水田があった。ここでは、戦前から昭和30〜40年くらいに かけては、5反から1町くらいの田を持っている農家の場合で、7、8割の家が田植え人足を頼んでいたという。人足の手配は3月くらいにはおこなったとい い、かなり早くから予約をしておく必要があった。このときには田植えの日取りが決まっていなくてはならない。人足を務めるのは、田植えの経験があり、この 時期に恒常的な仕事のなかった人たちで、田植え仕事を副業としていたものである。下之一色では、中川区東起、富田町、港区南陽町あたりの人を頼み、人足マ ワシという元締めの人に「何人ほしい」と頼みに行った。人足マワシは近所で人足を探してくれ、自分も作業に加わった。手間賃は人足マワシに払い、人足マワ シは、紹介料の分、他の人よりも取り分が多かった。人足は下之一色から順に北の方の農家を渡り歩いて仕事をしていたため、どんなに土砂降りの日でも一日で 田植えを済ませてしまい、次の日には他に行って作業をした。下之一色の田植えは6月24,5日で、枇杷島や新川、西春の方の田植えは7月1日から2日くら いと遅かったため、人足は10日くらい続けて田植えをしていたことになる。
 甚目寺町甚目寺の西部の田植えは6月29、30日であった。この2日間で田植えをしなくてはならなかったので、自家の労働力だけでは無理であり、小作の 人であっても田植え人足を頼んでいた。6月28日の午後になると、甚目寺の観音さんのところに人足がいっぱい集まってきた。ある話者のところでは、人足の 元締めに頼み、茶屋後新田の人を3人手配してもらっていた。田植えの時は家の人は苗取りに追われてしまい、人足の人を中心に植えていった。それでも、一人 当たり一日で7、8畝しか植えることはできなかった。頼むのは2日間で、朝4時くらいから始まって、初日は3時くらいにあがり、二日目は昼にはあがった。 二日目は半日であがれるので、人足は一日ヒヨウを嫌っていた。お金は相当払っていたが、これは人足の元締めに渡した。
 三重県の長島町や木曽岬村は田植えの時期が早く、自分たちの田植えを済ませてからしばらく、尾張平野の田植え仕事に従事する人がかなりいた。十四山村 鳥ヶ地では、多くの田を持っている人は田植えや稲刈りの際、よそから人足を頼むことが多く、人足マワシに日にちと必要な人数を依頼し、手配をしてもらっ た。人足は木曽岬村から来ていて、自分の田を植えた衆と、百姓仕事のない人であった。木曽岬村から来た人たちは、十四山村の田を済ませると、その後は中島 郡の方にまで出かけて田植えを続け、1週間くらいは泊まって歩いていた。ある話者の家では、田植えの時は苗取りを2、3人、田植え人足を15〜20人頼ん でいた。この時は、田植えが一日で終わるように、人数を考えて頼んだ。田植えに必要な人足の数は家によって違うため、人足マワシは依頼の人数に応じて翌日 の働き先を割り振った。
 津島市神守の田植えは、かつては6月24,5日頃におこなわれた。1町1反〜2反の田を持っていたある話者の場合、田植えの時はヒヨウとして、植え手を 8人、苗取りを2人頼んでいた。田植えのヒヨウを頼む場合は人足をまとめる人がいて、近くの莪原町の人に依頼をした。神守でも、多くは木曽岬村の人が植え 手として来ていて、植え手は男も女もなく、夫婦で植えて歩く人もいた。ここでもヒヨウさんは前日から泊まり込みであり、植え終われば、日のあるうちに次の 依頼先に自転車で飛んでいった。
 長島町や木曽岬村から来る人足は、「(植える)手が早い」ことで知られていた。七宝町伊福では、田植え人足は近くでは津島市神尾、遠くでは飛島村、長島 町から来ていた。神尾の人はもちろん、飛島村の人も、午前2時に自転車に乗って田植えに来たというが、長島から来る人は前日からの泊まりであった。当然、 宿泊させる分の手間がかかるのであるが、長島の人は「植えるのが早くて上手で、この人たちは一人で1反は植えてしまう」と言われ、重宝されていた。
 三重県鳥羽市など磯仕事の多い地域から、海女仕事前の賃稼ぎとして、女性が尾張平野の田植えに回ってくる例もあった。七宝町鯰橋のある話者のところで は、太平洋戦争中、田植えには鳥羽から若い女性を頼んでいた。人数は12,3人で普段は海女をしており、か細い女の子でも普段から海で鍛えているため、大 きなものも平気でかついで運んでいたという。鳥羽のムラでは、田植え仕事で稼げない子は嫁のもらい手がなかったといい、このため、村長の娘のような子まで 賃稼ぎに来ていた。この子たちは近在の人足マワシを通じて依頼したものでなく、知り合いを通じて直接依頼していた。そのため、12,3人の中の一人が世話 焼きとなり、この子にいろいろと交渉をして田を頼んだ。あとは自分たちで工面をして田植え仕事をしてくれ、家の者はもっぱら苗配りをしていた。彼女たちも 長期にわたって尾張平野での田植えを請け負っていたもので、鯰橋の田植えが済むと北上していった。鳥羽に帰るとき、仕事をした家を訪ねてくるので、この時 にヒヨ賃を支払った。先にもらってしまうと、大金を持って歩かなければならず、物騒だったためである。田植えの日にちは毎年決まっているので、翌年も同じ 頃に来てくれた。
 このように、尾張平野中南部では、田植えを早く済ませた最南部の人たちや、三重県からの労働力をあおぐことで、短期集中型の田植え作業をこなしていたの である。一方、中南部のムラの人たちも、自分たちの田の田植えを済ませると、自らがヒヨとなって北の方のムラの田植えに出かけて賃稼ぎをしていた。
 津島市神守では、自分のところの田植えが終わると、青塚から北の稲沢方面に田植えのヒヨウに出かけた。そうして稼げば、自分のところで雇ったヒヨウの元 が取れることになる。この時は神守の人がヒヨウのとりまとめ役となり、人を集めては植えに行った。国府宮あたりであれば、田植えは7月7、8日頃で遅かっ たため、出かけるのは田植えが済んで3日くらい経ってからで、期間は4〜5日間であった。このように、人足に田を植えてもらった人たちが次には人足とな り、田植えの遅い北の地域へと順に上がって行ったのである。

尾張平野北部の田植え人足
 こうして最北部の一宮市近辺ともなると、田植えの人足は尾張平野最南部の鍋田付近の人から、中部の佐織付近の人まで、各所から人が集まって くることになる。また、このように南から上がって来る植え手の他、岐阜県方面から来る人足も混ざっていた。
 一宮市中島では、かつての田植えは遅く、ハンゲ(半夏生、7月2日頃)を標準としておこなった。ちょうど栗の花が落ちる頃で、「栗の花を踏んで田植えに 下りよ」と言った。田植え人足は「田植えさん」と称され、鍋田方面から来る場合と岐阜県羽島市竹鼻方面から来る場合があった。竹鼻の田植えは1週間がかり であったが、中島では普通は2日、長くても3、4日で植えてしまった。竹鼻の人は、前日の晩に自転車で来て泊まっている。ある話者の家では、5反の田を植 えるのに3人の田植えさんを頼み、2日半で植えた。竹鼻から来る人は男の人で、一軒植えると帰って行き、三重県の人足のように長期にわたって仕事に回るこ とはなかったという。遅くなると木曽川の渡し舟がなくなるため、早い時間に引き上げた。一緒に来た人で他の家に田植えに行っている場合があれば、遅ければ 手伝いに行き、一緒に帰るようにしていた。一方、鍋田から来たのは女性が多く、手が早いので中島の人ではついてゆけなかったという。
 田植えは、水稲栽培をする上で、もっとも労働力を集約させなければならない作業である。広い尾張平野のそれぞれのムラで、この作業がわずか1、2日で済 ませられた背景には、以上のような田植えのプロ集団の渡り歩きがあったのである。

(2)田植え仕事とノアガリ

田植えの一日
 田植えの時は、時間を惜しんで、作業は早朝からおこなわれる。遠方からのヒヨウさんであれば、前日夜の7時か8時頃に来て、この日は寝ても らうだけであった。早く来れば、翌日に備え、ヒヨウさんが苗取りをする場合もあったが、それよりも、家の者で事前におこない、苗を田ごとに割っておくこと が多かった。
 田植え当日、家の者は苗取りと苗運びに回り、植えるのはヒヨウさんに任せる場合がほとんどであった。昔は畦道も狭く、一輪車もなかったので、苗カゴに苗 を入れて天秤で担いでいった。
 津島市神守では、田植えの当日、ヒヨウさんたちは、朝4時くらいに田に行く。家の人は田への道案内、苗の配置をする他は、もっぱらオカッテ仕事をしてい た。朝出が早いので、普通は10時のオヤツも、この時は8時半か9時には出す。この時は、饅頭屋に注文して、小麦粉で作った小麦饅頭を買ってきた。田植え の際は、饅頭屋はかきいれ時であった。昼飯は11時で、神守の中にあった仕出屋に頼んだ。たくさんのヒヨウさんの食事を用意するのはたいへんであり、手近 に仕出屋がある場合は、頼んでしまった方が早かった。オカッテではご飯を炊いておつゆを作り、あとはナスやキュウリの酢モミを作った。昼飯を食べてから、 一枚くらい残っている田を植え終わると1時か2時になり、作業は終了して田から上がってくる。田植えは重労働であり、午後の早い時刻に切り上げなければ体 が続かなかった。2時に田から上がれば、風呂に入ってご飯を食べる。夕飯も仕出屋に頼み、焼き魚、煮魚程度をつけた。ヒヨウさんは、日のあるうちに次の依 頼先に行きたかったので、5時には出て行った。
 普段の風呂は、湯を少しにして沸かしている場合が多かった。燃料がもったいないこともあったが、「藁の燃料では10把焚いても沸かず、灰ばかりがどんど んたまってたいへんだった」ことにもよる。しかし、田植えの人足を頼んだ場合だけは別で、たっぷり水を入れて沸かした。田植え人足はお客さん扱いだったの である。人足の方も、手当がよくてご馳走が出て、酒が飲める家の田植えをするのを喜んでいた。このため、人足の食事には気を使ったものだったという。
 七宝町鯰橋で、鳥羽の若い女性を人足に頼んでいた家では、ご飯には魚をつけていた。戦時中は配給になって魚が買えなかったが、わざわざ名古屋市中川区の 下之一色や港区船入に出かけ、統制外の小魚を買ってきては調理して出した。漁村から来る人足にとって、魚はご馳走でも何でもなかったが、精いっぱいのもて なしをするものだったのである。
 それでも、時には田植え人足にすっぽかされた場合もあったという。前日に泊まる予定が、夜の8時過ぎても来ずに大騒動になり、まとめ役の人に頼んで一日 遅れで連れてきたなど、田植えをしてもらう側のたいへんさがうかがえる話も多い。

田植えの仕方
 田植えには、植える方向によって後下がりと前植えがある。多くは後下がりであるが、そうすると足の跡ができるため、苗を植えるのに支障が出 る。そのため、時代が下がると前植えに変わったというところが多い。
 後下がりの場合も、ヨコウエ(ヨコバイ)とタテウエがある。ヨコウエは綱植えともいい、畦の両側で綱を張り、印のところに苗を植えてゆくものである。畦 の両方から2人で田の内側に向かって植えてゆき、田の真ん中で落ち合うと一列後ろに下がり、田の外側に向かって植えてゆく。そして、目印の綱を後ろに下げ てゆく。これに対してタテウエは、10人くらいが田に並び、手の届く範囲を植えてゆくものである。綱を張らないため、沢山の人数が田に並ぶ必要がある。こ の時、6尺の竿を使い、1尺ごとに苗を植える目印にしたりする。タテウエの場合、手の早い人と遅い人がいると、早い人は早く終わりたいため、遅い人の先に 回って、例えば一つおきにその人の分を植えてしまう。田植えの時は、とにかく早く植えて、腰を伸ばしたいものだった。このため、中で挟まれた人が植えるの に追われてしまうことになり、ここから追い植えとも称された。手の早い人はよいが、頼まれたときに「追い植えだとよういかん」という人もいた。ヨコウエは 綱を下げなければならないため、必ず2人以上が必要であるのに対し、タテウエは一人でも大勢でも植えられ、歩く分が少ないので早かった。単位面積当たりに 大量の人手を投入できるときには、タテウエが向いているとも言える。また、田が広く、畦と畦の間隔が長いと「綱がえらい」(長さが足りない)ので、タテウ エでなければダメだった。
 もっとも、田植えのプロであれば、田植えの仕方は選ばなかったのかも知れない。一宮市中島に来ていた人足のうち、竹鼻から来る人はタテウエであったが、 鍋田から来る人は二人組で、綱を張って1条ずつ植えるヨコウエであった。しかし、人足はその家の植え方にしたがって、どのようにも対応したという。植えな がら下がるタテウエの方が歩く距離が短いので早かったため、中島でも、しまいには下がって植えるようになったという。

田植えの悩み
 田植えのヒヨは競争で植えるので早かったが、どこの家でも依頼する日にちが重なるため、賃金はかなり高く、食べさせるものにも気を使わなく てはならなかった。また、昔は稲につく害虫が多く、早く苗を植えると、その分だけ虫害に悩むこととなった。
 一宮市中島では、田植えの前に畦焼きをして、ニカ(二化螟虫)の親(二化螟蛾)を焼き殺した。しかし、全てを駆除することはできず、焼き残したところか らニカが飛んできた。特に、隣村の西御堂境にあった3尺の堤防からは、朝植えの田に虫が散ってきた。「田植えを早くやるとそっちに飛んできて虫が付いてし まう。そうすると、他の田には虫が付かない。一刻早いだけで虫が付いてしまい、同じ日でも午後に植えたところは虫に悩まないで済む」と言われるほど、二化 螟蛾は苗が植えられるのを待っていた。このため、田植えは「遅く植えた方が得」であり、そうすれば虫につかれず、また、サイメタグイもしなくてよかった。 昔の田はメクラジといって田の畦道がなく境がはっきりしていなかったため、田植えの際に隣の家の田との境をはっきりさせる必要があり、これをサイメタグイ と称していた。遅く植えれば、すでに植えられている隣の田にあわせればよく、楽だったのである。しかし、苗場ジマイやノアガリの日は決まっていたし、何よ り、他から「まだ植えている」と言われることだけは避けたかったという。田植えが先を争っておこなわれた背景には、こういうかつての農家が有した特有な意 識もあったのである。

ノアガリ
 忙しい田植えが済むと、ノアガリ、ノヤスミとなる。一宮市中島では、ノヤスミの日は4セコの区長が集まって相談して決めていた。日にちが決 まると貼り紙が出され、2日の休みがあった。この時は小麦饅頭を作った他、ササギの五目や、センゴク豆を炊いた。
 立田村山路では、昔の田植えは、6月10から20日、遅くとも24、5日くらいまでに済ませ、村方が日を決めてノアガリの休みとなった。青年会も共同で 休み、津島に遊びに行った。ノアガリのときは小麦饅頭、ミョウガ饅頭、アンコロ、ボタ餅などを作って食べた。田植え開始のウエツケとノアガリには、子供が お地蔵さんの横に小さい赤白の提灯を山形に吊した。この行事を提灯トボシと言っている。子供は一軒一軒をまわってお金をもらって歩き、これでロウソクと花 火を買った。
 ノアガリの時、子供が提灯祭りをするところは海部郡中南部に多かった。甚目寺町石作では、ノアガリから盆までの間、津島さんのお札を受けてきて、大人は お宮さん、子供はお地蔵さんで提灯トボシをした。昔はノアガリからは一週間ずっと、あとは週に一度ずつ提灯を灯した。七宝町伊副でも、田植えが済んでか ら、子供がお宮の中に提灯を灯し、農家ではご馳走を食べ、小麦団子を作ったし、津島市高台寺でも、田植え後、神社の拝殿に一軒一軒の名を記した丸く白い提 灯を灯した。
 規模の大きかったのは蟹江町蟹江新町である。ここでは、田植えが済むとウエツケ祭りと称し、本町通りに子供が提灯をつけて祝った。子供は仲間の中の一軒 をヤドに頼み、ナヤを借りて提灯を貼り替えたりして準備をした。当日は学校から帰ると、浴衣姿で鉢巻をして、提灯を持って「ワッショイワッショイ」とムラ の中を練り歩き、これをオマントといった。提灯は、男の子ができると白い家紋の入ったものを用意した。この後、ヤドではカキマワシを作って菓子を用意し、 子供をもてなした。「田植え祭り」の言葉もあるように、田植えの期間は一種の祭りであり、提灯祭りも、稲の生長を祈願する神事が原形であったのだろう。

(3)大植えの背景

 以上、尾張平野の田植え慣行について見てきた。大量の人足を投入し、1日で済ませる大植えの慣行は、尾張平野の特色であると考えられるが、このような慣 行はどうして成立したのであろう。その理由はいろいろ考えられようが、大切なのは、大植えは海部郡南部の多数の人々が田植え人足として中南部以北に渡って 行けたことによって初めて可能となったものであり、それは、南部の田植え時期が北部に対して20日も早かったことによってもたらされたものであるというこ とである。
 第1図で示したように、大正4年の場合、宮田用水の水掛かりでもっとも早い田植えは蟹江新田の6月10日であった。湿田でクリークの多かった南部では、 田の塩抜きのために通常よりも早い時期から引水する必要があった。そのため、早くても収穫時期が5月末からという小麦を田の裏作でたくさん作ることには無 理があり、それよりも早く田植えを済ませ、あいた時間で田植えの賃稼ぎに出た方が高収入につながった。また、この地域で裏作をするとすれば、小麦よりも収 穫時期の早い菜種が選択された。
 一方、北部では裏作の小麦栽培が普通におこなわれていたため、小麦の収穫からムギタコワシ、引水、田植えまでの期間が切迫してくる。例えば甚目寺町甚目 寺では、6月は農作業のもっとも忙しい月で、10日の批杷島祭りの頃が大麦の取り入れの最盛期、15日頃からは小麦の刈り入れに追われた。太平洋戦争前 は、「甚目寺町で1万俵以上の小麦を出していた」という。小麦は2日くらい干して納屋に積み上げ、この間に田をすぐにこわして(ムギ田の畝を壊して田打ち をする作業)米作りの準備をした。水は24日くらいから入ってくるのでたいへんであった。28日までに田をならしておき、29、30日で甚目寺の西半分、 7月1、2日で東半分の田植えを全ておこなわなければならず、相当な日当を払ってもヒヨを雇わなくてはならなかった。
 第1図で見たように、北部の田植え時期は6月30日から7月2日までに集中していた。小麦の刈り入れを済ませて田を起こしてならし、そして半夏生までに 田植えを済ませようとすれば、この時期に田植えが集中することはやむを得ない。そして、こうした短期集中の田植えでは、どうしてもヒヨを頼む必要が出てく る。このように、大植えは、尾張平野地域の南部、北部それぞれの農業形態の差違から可能となった田植え慣行であったと言える。

2 尾張平野の農業

(1)農業の地域性

尾張平野の南と北
 尾張平野の南と北の農業形態の差違とは何であろう。今回調査対象とした尾張平野は、地形的には海部郡南部の低湿地域と、海部郡北部から中島 郡・西春日井郡・葉栗郡にいたる自然堤防地域に分かれる。前者の大半は海抜ゼロメートル地帯で、17世紀以降の干拓地であったところが多い。かつては田の 間に水路が縦横にめぐらされた水田単作地帯であり、裏作をする場合は高畝を作らなければならなかった。後者は、五条川や三宅川、日光川に沿った地帯で、近 世から野菜栽培が盛んとなり、かつては水田の合間に畑が交錯する島畑地形に特徴があった。
 第1表は、昭和25年の農業センサスを元に、尾張平野各地域の農業を比較したものである。また、第2図では水田率、第3図では小麦栽培の状況を示した。 海部郡北部以北では二毛作田の割合が多く、裏作での小麦栽培が盛んであるのに対し、南部は一毛作が卓越している。また、海部郡以北は畑地での野菜栽培、特 に大根やネギ、ホウレンソウなど、秋冬野菜の栽培に特色があることがわかる。
 七宝町南部の伊福のある話者は、「(七宝町)沖之島など北の方に行くと、野菜が主であったので田植えは二の次となり、ヒヨを入れておいて自分たちは市場 に野菜を出しに行ってしまった。ヒヨ賃を野菜を売った金で出しているようなところだった」と語っている。稲作を柱とする南部と、現金収入源としての畑作物 を柱とする北部との差が、はっきりとうかがわれる。

麦作に見る南北差
 南と北の地域差をはっきりさせる指標としてクネ田がある。麦は湿気を嫌うため、高燥な土地ではダイマキといって田に直接麦が蒔けるが、冬で も水が完全に落ちない湿田で裏作しようとする場合、田の土を起こして高畝を作り、ここに種を蒔く必要がある。これをクネ田と称し、「くねる」と言えば、高 畝を作ることである。また、タムギと言えば、そうした田に蒔かれた麦のことであるが、タムギは耕地そのものを指す名称としても用いられる。高畝は稲刈りの 後に作るが、その高さによって四本クネ田、五本クネ田、六本クネ田などの種類がある。これは、稲株何本分を使って高畝を作るかということから生じた種類で あり、本数が増えるにつれて畝は高くなり、くねる労働の負担は激しくなる。そして、この本数が、田の湿潤度を示すことになる。圃場整備がおこなわれる以前 は尾張平野北部にも湿田が多く、高畝を作ることがあった。しかし、その規模から見て、クネ田は尾張平野南部を特徴づける農法と捉えてもよいだろう。
 海部郡中部のムラの事例で、南と北での田の湿潤度の推移を示してみよう。甚目寺町甚目寺はダイマキのできた土地であり、11月の新嘗祭の頃、収穫前の稲 の中に麦を蒔いた。この時は稲株3列おきに蒔き、畝がないので、米を刈り取ったあとで畝を作ることになる。早く米を刈り取ったところでは刈り取り後に麦を 蒔くが、このときは芽吹いた麦に対して稲株2本分の土を起こして両側から寄せ、稲株4つで1本の畝を作った。
 南隣りの七宝町に行くと、北部と南部とで、また、自然堤防で砂地が多いかどうかによって、ダイマキが可能な地域と高畝を作らなければならない地域が異な るようになる。伊福ではダイマキができ、収穫が多い上、作業が楽なのでうらやましがられた。また、高畝を作る場合でも四本タムギであった。これに対し、隣 接する鷹居では四本タムギが普通で、場合によっては五本タムギを作ることになった。タムギクネは冬に霜柱が立つ中での作業であり、足先だけのワラジ(ワラ グツ)を履き、藁のハバキを臑に巻いておこなった。鍬によるたいへんな手作業で男の人の仕事とされ、「腰の曲がった人は、クネ田を一生懸命やっていた人」 とも言われる。伊福では、四本タムギを作るのに、ベテランであれば1日に5畝も起こす人があったという。しかし、タムギクネは土質によってたいへんさが異 なり、「ねちっこい土質(粘土質)」の鷹居では、同じ四本タムギでも「一日びっちり作業をして、2畝がせいぜい」だった。五本タムギともなれば、四本タム ギの上にもう一度土をのせることになるため、作業はもっとたいへんになった。
 一方、蟹江町蟹江新町など、これより南の低湿な地域では、クネ田と言えば六本クネ田が当たり前であった。また、前述したように麦作よりも菜種栽培が卓越 するようになる。第4図は、尾張平野の菜種栽培の状況を示したものである。海部郡南部での作付けが圧倒的に多く、第3図の地域とは全く対照的である。例え ば、輪中地帯の立田村石田では、冬期に六本クネ田を作っておき、5月半ばから田ならしを始めて6月10日頃にウエツケとなった。しかし、麦を作っている場 合は5月半ば時点では刈り入れが終わっておらず、そういう田の田ならしはできるだけ遅くすることになった。時期が合わなければ、クネ田の両側の土を取り除 くビンカキの作業を先にして、刈り取り後に田ならしをしたが、これは二度手間の作業であった。これに対し、菜種を作れば刈り入れ後に田ならしをすることが でき、楽だったという。
 クネ田の規模は、大きくなればなるほど労働力が割かれるのであるから、ダイマキ地帯と六本クネ田地帯では、稲刈り後の時間の使い方が全く異なってくる。 立田村石田のある話者は、「一日3畝をくねれば一人前と言われたが、それだけはなかなかできなかった」という。仮に1町の田をくねるとすれば1カ月を要す ることになる。この間、北部の農民は現金収入源となる蔬菜栽培に力を注いでいるのであり、ダイマキか六本クネ田かという差は、農家の収益という点にも差を もたらすことにつながった。海部郡南部で、乾田化をもたらす圃場整備事業が農民の念願であったことがうなづける。
 
(2)南部の堀田、クネ田

堀田
 南部農業は、水田単作に特化していたが、その特色として、堀田と泥上げ、クネ田について触れておこう。
 低湿地域では、上流から流れて来る水に加え、満ち潮によって上がってくる水の始末も問題である。用水路に海水が入ってくるのを防ぐため、川に入るところ に杁が作られ、満潮になると閉じるようになっていた。それでも、海から上がってくる水を完全に防ぐことはできず、塩害に悩む田は多かった。名古屋市中川区 下之一色では、新川や庄内側沿いの田が川よりも低く、満潮の時は塩が噴いてきた。このため、収量は通常(反あたり6〜7俵)の半分くらいであった。名古屋 市港区小碓でも、満潮になると荒子川から田に水が入り、稲苗を植えたところがノレルようになった(苗が水に浸かってドロドロになること)。水が深くなると 米がとれず、10年のうち半分はダメだったという。このような状況であるから、収量を少しでも上げるため、田に土を入れて高くする作業が欠かせないことに なる。堀田は、このようにして土を田に上げた結果、田の周囲が水路になったもので、海部郡南部を特徴づける耕地の形態である。
 佐屋町大井では、昔の低い湿田では苗が水をかぶって腐ってしまうことがよくあった。このため、田の一部の土を掘り、この土で周囲の田をかさ上げしていっ た。そうすると、土をとった部分には水が溜まり、池や川になったが、こういうものを掘りつぶれと称した。掘りつぶれをつないだ水路は、田に行くときの交通 路として利用された。米を一作取ると水を落とすので、このときに田のかさ上げの作業をした。

泥上げと肥料
 低湿地域の田の周りの水路は、泥が堆積して埋まっていってしまう。このため、この泥を浚い、堆肥として利用することがおこなわれた。水路の 泥は肥料分に富み、金肥を簡単に購入できなかった時代では貴重な資源であって、この地域の農業生産を支えた大きな要素になっていた。
 七宝町伊福では、水路の泥上げは秋の終わり頃から冬にかけておこなった。この季節は、田の水を落とすので川も浅くなっていたし、藻も枯れているので泥が 取りやすかった。泥はジョレンで取って、田の中に用意した場所にあげて乾かした。川泥は麦を蒔くときに肥料として使った。その際、泥をそのまま使う人と、 半年くらいかけて堆肥にして使う人がいた。堆肥にする場合は、泥に干し草、枯れ草を入れ、人の背丈くらいの高さに積んでおく。堆肥が早く腐るように人糞を かけたりもした。
 七宝町下田でも、田から流れた細かいヘドロを、水路の土手の上から10メートルくらいの長い竿についたジョレンで掻き取り、泥と道草とで一段ずつ順に積 み上げて腐らせ、堆肥にした。これを土ゴエとかツミダメといい、麦や菜種を蒔くときに入れた。
 立田村石田では5月半ばの田ならし前、エブチと呼んだ水路の泥をジョーレンを使って掻き上げ、これをビンドロヒキと称していた。ビンドロヒキのジョーレ ンは柄の取り付けの角度が深く、泥を引き寄せやすいようになっている。水路の向こう側に他の家の田があれば、互いに削り合いになったという。こうして田を 15〜20センチ、水路より高くして田の水を保つようにした。
 弥富町寛延では、田の周りの水路の泥は、タムギのある時、2〜4月に取った。これをドロコギといい、ジョレンを使ってすくい取った。寛延は水路が縦横に めぐっていたところであり、舟を通すために胸くらいの深さを維持するようにしていた。泥は、タムギの高畝の間や田の低いところに放りあげた。

寛延のドロコギ
 低湿地域では田の周りの水路の泥ばかりでなく、大きな川の泥を取りに行くことも珍しくはなかった。寛延では木曽川の支流・鍋田川まで泥を取 りに行くこともあり、この作業もドロコギと称された。鍋田川は昔の木曽川の流路であり、水路の泥を取るのとは異なって、舟で出かけて川に入って泥をすくわ なければならなかった。このため、冬は寒くてできず、田植えが終わってから8月末くらいまでの夏の仕事であった。また、舟には大量の泥を積んだため、喫水 が舷から10cmくらいのところまできて、風が吹いて波が出ればすぐに転覆する危険があった。したがって、ドロコギは風のない夜に出かけることが多かっ た。寛延では、農作業には大小二つの舟を使い、小さいものは肥料や米を運ぶテンマであり、大きなものは全長4〜5mもあってハンダと呼んだ。ドロコギに用 いるのはハンダであり、1tの泥を運ぶことができた。
 寛延の水路から鍋田川に出るときは、堤防下の杁を抜ける。満潮になると鍋田川の方が水位が上がるため、杁は閉じられている。このため、潮が引いて寛延の 水路と川の水位が同じくらいになってからでないと、川に出て行くことはできなかった。また、水位が下がっていなければ、川中の泥を取ることも難しかった。 ドロコギに行くときは、近所の人同士で誘いあい、川が一番干上がる時刻を計算して一緒に行くことになる。多いときは、10〜20パイで出かけた。川での作 業は一人ずつでおこなうが、途中で舟がひっくり返ったりすると困るので、どうしても大勢で行くことになった。潮の加減では、夜中の1時2時に起きて出かけ ることもよくあった。夏の2カ月間は、風がなければ毎日のようにドロコギに行ったという。闇夜の夜中であれば、明かりは何もないが、薄明かりの中で砂を 取った。鍋田川には、森津と加路戸の間にいい泥があり、堤防から200mほどのところで泥を取った。ここの水深は、浅くて腰くらいまで、深いと胸くらいま でもあった。砂はお皿のようなものに柄がついたハグチでかき集め、柄を手繰って皿のところを手で持って舟に放り上げた。片側ばかり泥を積んでゆくと舟が傾 いてくるので、途中で入れる側を変える。舟にあげた泥は水を含んでいるので、半分コイデ(すくって)からバケツで水をかい出した。泥が乾いて砂山になり、 これはコンクリートにも使えるようなよい砂であったという。ドロコギの作業時間は家を出てから3時間くらいで、これを超えると水位が上がってきてしまっ た。
 鍋田川で取ってきた泥は、川の水草と藁と交互に積んで発酵させ、翌年の春になってから使った。この時は、川泥、水草、藁の順に4メートルくらいの高さに 畑に積んだ。この泥は、ハウス栽培にも適した菌のないものであり、タムギでのジャガイモ栽培に使うと出来がよかった。
 ドロコギの時期には、田ではコマザラを使った草取りを3〜4回おこない、遅いときは夜8時頃まで作業をしていた。家に戻って夕食を取り、寝るのは11時 頃であったが、夜中にドロコギに行けば睡眠時間は3時間もなかった。ドロコギから戻れば朝で、また草取りに出かけた。

クネ田の作り方
 低湿地では裏作をしない場合でもクネ田を作っていた。それは、高畝にすることで湿った土に冬の寒風を当て、土質を向上させる必要があったか らである。
 クネ田の作り方について、立田村山路での聞き書きを中心に紹介しよう。昔は晩稲を作っていたため、米作りは11月までかかり、それからがクネ田作りの季 節になった。ここでは、クネ田を作ることを「田ァクネ」と呼んでいる。山路は鵜戸川を境にして東と西に土地があったが、西の方は、東側よりも30センチは 低く、八開村の方からの水が常にたまっているようなところであった。ここの田は「ドブロクの田」と呼ばれ、昭和25年に排水機が設置されるまでは裏作は出 来なかった。田を維持するために周囲の土をかさ上げし、土をとったところが水路になる掘り田は西の方に広がっていて、舟でないと自分の田に行くことが出来 なかった。一方、東の方は佐屋川の堤防に当たり、掘り田もなく、裏作が出来た。それでも、「田刈りをしてちょっと雨が降るとどぼどぼ」なので、そのままで は裏作ができなかった。麦や菜種を植えるためには、一鍬一鍬、15〜20センチくらいの土塊を畝の上に上げ、1メートルくらいの高さにしたが、これは「百 姓で一番エライ(たいへんな)仕事」であった。土を取って溝になったところには水がついたが、藁を敷いておけば肥桶を担って行っても大丈夫だった。
 山路では、稲株6本分の六本クネ田が普通で「一人前」であり、五本クネ田は「小さいウネ」であるとされる。冬になれば田ァクネの請負仕事もあり、7〜8 人の仲間でおこなっていた。「大きいのでくねってくれ」と言われれば六本クネ田にした。それだけ、作業はたいへんだった。最初に稲株6つ分のうち、真ん中 の2つ分の両脇に地切り鎌でジを引く(線を引く)。この部分がシンになる。このあとシンを鍬で起こしてゆくが、力が必要であるため、女の人ではうまくでき ず、男の人の仕事であった。次に、シンの両側の一株分のところを横に切り、これをシンに寄せるウチカブセをおこなう。その人その人のコツでウチカブセる が、ジが切ってあるので、土を寄せるときれいに一本のウネのようになる。これも男の人の仕事であった。さらに、その両側の株の外を地切り鎌で引いて、この 土をシンの上にあげた。これをキリアゲと称し、ここからあとは女の人の仕事であった。この時、地切り鎌で筋を入れない場合はコジアゲといった。最後にコツ チヒロイと称し、細かい土をウネの上にあげ、キリアゲたりコジアゲた土を砕いた。土を砕く作業はキリカクと称され、土を砕かなければ、ころころしていて麦 や菜種などを作ることができなかった。
 山路では、裏作には小麦を作り、菜種の作付けは排水機が設置されて以降のことであるというが、第4図で見たように、海部郡南部全体では菜種の作付けが多 い。弥富町寛延では、昭和20年代後半の二毛作では、菜種、ジャガイモの作付けがほとんどであった。それでも、高畝のことを六本タムギと称し、高い畝を作 るのは、本来、麦作のための工夫であったことをしのばせる。
 海部郡南部では昭和30年代に耕地整理が実施され、以後は田ァクネの苦労はなくなっていった。

(3)北部の蔬菜栽培

蔬菜の特産地
 水田単作に特化した南部に対し、北部農業の特色は蔬菜栽培に見出すことができる。ここでは、近世以来、様々な特産品が作られてきた。明治、 大正時代には、野菜産地名を品種名とすることが多かったが、そのうち、尾張平野北部の地名を関したものを少し挙げると次のようになる。萱津なす(甚目寺 町)、越津ねぎ(津島市)、宮重だいこん(春日町)、方領だいこん(甚目寺町)、二ツ寺だいこん(美和町)、阿原だいこん(新川町)、萱津かぶ(甚目寺 町)、大治かぶ(大治町)、萱津かぼちゃ(甚目寺町)、砂子かぼちゃ(大治町)、土田かぼちゃ(清洲町)、清洲かぼちゃ(清洲町)、治郎丸ほうれんそう (稲沢市)、赤池いも(稲沢市)。この他、尾張節成(きゅうり)や愛知白菜など、地域名、県名を付したものも含めれば、その数はきわめて多くなる。このよ うな蔬菜類は、名古屋市場を念頭において生産され、近世から枇杷島市場を中心に出荷がおこなわれてきたものである。鉄道輸送が発達すると他地域にも出荷さ れるようになったが、蔬菜生産は、この地域の農家の現金収入源として大きな地位を占めていた。
 方領大根、橘田茄子などで有名な甚目寺町は、典型的な名古屋近郊農村である。このうち大字甚目寺では、葉菜類の生産が多く、正月菜が特産であった。正月 菜は雑煮に入れる葉菜で、餅菜ともいう。名古屋では、たまり仕立ての汁に切り餅と正月菜を入れて煮て、鰹節をかけて食べる雑煮が一般的であり、多くの需要 があった。正月菜は季節商品であり、10月15〜20日までに播種し、正月に間に合うように生産した。春作には小松菜、蕪菜などを作り、麦からを編んで日 除けを作り、丹念に栽培した。5月10日くらいからは甚目寺夏大根を取り、この後、旧暦7月の七夕の需要を見越して、トウモロコシを作った。夏は茄子の栽 培が忙しく、盆の18日を過ぎると蕪菜などを作った。

大根の栽培
 様々な蔬菜の中で、尾張平野北部で圧倒的な作付け面積を誇った大根について取り上げよう。第5図は、尾張平野での大根栽培の状況を示したも のである。一宮市から稲沢市にかけてが生産の拠点であったことがわかる。大根の二大ブランドは、先太の宮重大根とすらりとした方領大根であり、これを改良 した品種も多く登場した。美和町二ツ寺の二ツ寺大根は方領大根の改良種で、太くてすらりとした方領に対し、二ツ寺大根は先端が曲がっているところに特徴が あった。これは「尾が張っている」といって、縁起がいいとされ、大正4年の大正天皇即位記念大演習に際し、献上品となったことで有名になった。「ほろふき 大根」や煮物用に珍重され、報恩講の時は、各家庭で二ツ寺大根を2本くらいずつを出して炊いたという。生大根で出したほか、種を取って種屋に売ることもお こなわれ、他の大根と交配するといけないので、ムラの中の青首大根は全て抜いてしまい、主の保全に心がけていた。二ツ寺大根の種は、一宮の大和町や甚目寺 の方領から種屋が来て買っていった。昭和30年頃で、1升300〜350円して相場がよく、5畝も作れば田植えのヒヨ賃が出るほどだったという。大根の種 を取る場合、田の裏作でクネ田を作って栽培し、これを刈ってから田植えとなった。ちょうど麦と同じ時期になるが、ここでは値のよい大根栽培が選択されてい た。
 稲沢市井之口でも、かつては大根の栽培が盛んで、宮重大根や宮重系の長太などを栽培した。大根は8月に種を蒔き、稲刈り後、11月から12月の冬至にか けて収穫した。多い人で3反くらいは作っていたといい、かなりの作付けがおこなわれていたことになる。生大根で出荷するためには器量のよいものを作る必要 があり、そのためには大量の施肥を必要とした。マツチで作ると大きいものができるが器量が悪く、高くは売れなかったという。
 尾西市鞆江では、冬の畑はほとんどが大根作りに当てられ、萩原駅から貨車で大阪方面に出荷していた。大根は青首の長いものを作り、葉の付いたままで互い 違いに絡げて藁で15本くらいに束ね、大八車を牛に引かせて運んだ。萩原には周辺農村から大量の大根が集まり、ここから「大根列車」が走っていたのであ る。
 前述したように、生大根は「器量のよいもの」が求められ、そのためには大量の施肥が必要であった。畑の肥料には主として下肥を用い、町場に近いところで は都市住民宅に出入りして下肥を汲んでまかなった。
 稲沢市井之口では、金肥としては豆カス、ニシンカス、味噌カスなどを用いたが、ニシン粕は高いのであまり使えなかった。味噌カスは名古屋の味噌工場まで 行って働き、労賃としてもらってきたもので、どこの家でもあったものではない。作物によってはワラ灰、木灰なども肥料として使い、風呂を焚いて出た灰はハ イビヤ(灰部屋)に入れて蓄えていた。しかし、一番重要であったのは下肥であった。下肥は鉄道用地の方に開けた新開地の借家に汲みに行き、遠くでは、名古 屋の練兵場まで肥汲みに行ったこともあった。朝早く、大八車やリヤカーに肥桶を積んで出かけ、半日仕事であった。それでも、肥料が十分でなければ大根の出 来が悪く、儲けは薄くなった。蔬菜栽培は相場の変動による経営の不安定さに加え、売れるものを作るためには積極的な投資が必要だったのであり、激しい産地 間競争にさらされていた。

大根の加工
 利益を得るためには、生大根で出荷するよりも、加工を施して付加価値を付ける手段がある。尾張大根で重要なのは生大根での出荷ばかりではな く、切り干しなどの加工品を大量に生産していたことであろう。これには二股や形の悪い大根が使われたが、一宮市中島のようにキメが粗い土質のところでは、 大根は切り干しでなければ出荷できなかったといい、初めから加工目的で大根を栽培していた地域も多かった。
 稲沢市井之口の大根も、ほとんどは切り干しに加工されていた。切り干しには千切り干し(細かいもの)とおカイコ切り干し(太いもの)があったが、ここの おカイコ切り干しは自家用であり出荷されなかった。この切り干しは、なかなか乾かなかった代わりに味はおいしかったという。大根は収穫後、畑に建てたワラ 作りの大根小屋に蓄え、寒の頃に切り干しにした。これは、寒いとよく目が落ちる(乾く)ためであった。大根は切り干しのショウジキ(正直)でついて細かく し、切り干し棚で干した。切り干しは目方で売るため、乾きすぎると軽くなって損をすることにもなったという。切り干しは寄せ屋に出荷したが、日によって1 銭で何匁というように相場が立ち、毎日値段が動いていた。
 しかし、よそと同じ切り干しを作っていては、結局は産地間競争に敗れてしまう。そのため、加工の仕方を工夫することでさらに付加価値を付けることもおこ なわれた。その一つが割干しである。突いて作る切り干しが大根の繊維が短く切れているのに対し、割干しは縦に切れ目を入れてゆくので繊維が長く残り、歯触 りが全く異なってくる。稲沢市片原一色は、割干しを特産にしていた。その加工方法は、次のように手が込んでいる。大根は11月から12月、1月にかけて収 穫し、桶で洗って青色部分の皮をむき、頭と尾を落とす。次に刃の広い菜切り包丁にコの字型の型をはめ、刃と型との間に5ミリくらいの透き間を作って大根を 薄く横に剥いでゆく。これを板上げといった。大根は薄く板状におろされるので、今度は縦割りといって、縦に5ミリくらいの幅で包丁を入れてゆく。この時、 尻尾の部分は完全に切り離さないようにして、真ん中の部分を長めに切れ目を入れる。これをざるに入れて一晩置き、次の日、畑に立てたハサ(2メートルくら いの高さの杭、4本を並べて立てた)まで運び、4段に張ったワラ縄に掛けてゆく。包丁を使う作業はもっぱら男性がおこない、女性は大根をハサに掛けたり取 り込んだりの仕事をしていた。西風が吹く寒い時期に夜通し1週間くらい干せば完成で、1月いっぱいが割干しを干す時期であった。途中で雪にあたるとカリカ リになってしまうので、雨や雪が降ると大八を引いて取り込みに出かけ、まだ生乾きのときは、べたべたにならないように菰を掛けておいた。干し上がったもの は束ね、一度水に漬けてその水分をよく切り、台の上で手で撚って(もんで)一本一本をのばした。そうすると、油が出てきてスルメイカのようになった。干し 上がった割干しはきれいに引っ張ってのばし、長さを切りそろえ、藺草で元を縛って枇杷島の問屋に出荷した。このように、割干しへの加工はたいへん手間のか かるものであるが、漬け物原料としての需要も多く、値は高かった。

まとめにかえて

 本報告では、大植えという、田植え人足に頼った短期集中型の田植え慣行を通じ、尾張平野の農業の地域性を考えてきた。かつての尾張平野の農業は、水田単 作に特化した南部と、蔬菜栽培に代表される経営の多角化によって現金収入獲得の道を追求した北部とで大きく異なっていた。前者には、耕地を確保し、高畝を つくる困難な労働が伴い、後者では、蔬菜価格の変動と産地間競争の難しさがあった。大植えと称される尾張平野の田植え慣行は、農業構造の差から田植え時期 が南北地域で異なっていたことを前提に、家庭内労働力を稲作に集中させることができなかった北部農村に対し、現金収入を獲得したい南部農村の思惑が一致し て成立したものである。尾張平野は農業先進地とされてきたが、その農業を支えてきたメカニズムは、このような南北地域で補完しあう農業構造に求めることが できる。
 現代においては、名古屋都市圏の拡大によって北部農村の都市化、兼業農家化がいっそう進み、南部農村では、圃場整備事業によって様々な蔬菜栽培が可能に なっている。尾張平野の農業をとりまく環境は大きく変化しているが、生活基盤として重要であったかつての農業の様子を記録しておくことは、この地域の民俗 の基盤を理解する上では欠かせない事柄である。いっそうの資料の蓄積が今後の課題である。


「愛 知県史民俗調 査報告書4 津島・尾張西部」所収論文
  編集/「愛知県史民俗調査報告書4 津島・尾張西部」編集委員 会・愛知県 史編さん専門委員会民俗部会
  発行/愛知県総務部総務課県史編さん室
  平成13年刊行


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