2 現代の日本<「雪ど
けと国際社会への復帰>
[冷戦の進行と「雪どけ」]
1 米
ソ冷戦
核開発競争(米ソの原水爆保有)
・広島型原爆は小型戦術核、TNT
火薬2万トン分。
・アメリカはソ連が原爆
を保有するまで5〜20年かかると見ていたが、1949年8月、原爆実験に成功した。このため、1950年、トルーマンは水爆製造を指令。
オッペンハイマー博士は「原爆は制御できるが、水爆は手に負えない」といって反対した。原理的にはいくらでも威力を高められる。原爆は核分裂で破裂させ
る。ウラン235を一定量以上にすると臨界が起き、ほかっておくと一挙に爆発する。235に中性子1個がくっつくと236になり、核が重くなって不安定と
なる。これがバリウム141とクリプトン92に分裂する。中性子が3つ余るので、これが隣の235にくっついて連鎖反応を起こす。
・水爆は核融合を用いる。一定温度を与えると水素がくっついてヘリウムになる。この時に熱を出す。核融
合を起こさせるには原爆を爆発させる。
・アメリカは1952年
末に水爆実験成功。ソ連は1953年8月に実用可能なものの実験に成功。アメリカは驚き、1954年3月、ビキニ環礁で水爆実験をした。
but経済負担の拡大
・ソ連は原爆開発に国力を傾けた結
果、100万〜200万の餓死者を出したという。アメリカと張り合うスターリンの政治姿勢に対して反対の動きが水面下で起きてくる。
2 「雪
どけ」=フルシチョフの平和攻勢
cf)スターリンの死
・ソ連のスターリンは独裁体制を強
化し、政治上のライバルとなりそうな者を片っ端から粛正してシベリア送りにしてきた。1953年3月2日、午前4時まで会議をおこない、「昔の功績がある
からといって生きてゆけると思ったら大間違いだ」と言って、古くからの共産党幹部を震え上がらせた。その後、奥に引きこもり、19時間経っても出てこな
い。勝手に入るなと言われていたため、みんなが尻込みしていたが、夜11時になって意を決して入ってみた。スターリンはパジャマ姿で脳溢血で倒れていた。
意識はあったが言葉は出ない。部下のベリヤは「スターリン同志はぐっすりと休んでいる。眠りを妨げるな」といって放置。医者が来たのは10時間後で、まっ
たくの手遅れだった。
・それまで一の子分だったフ
ルシチョフが第一書記となる。スターリン批判をし、無実の人の大量粛正(中央委員と候補139名のうち7割を処刑していた)、個人崇拝の強要、戦争指導の
誤りを指摘した。これで雪解けムードが高まる。
・このために東欧では反政府デモが起きる。ハンガリー暴動などのため、フルシチョフはスターリン批判を
自粛する。
ジュネーブ四巨頭会談(米英仏ソ)(1955)
・ソ連はアメリカとの核開発競争に水をあけられ、フルシチョフは平和共存を掲げる。
・4カ国首脳で軍縮、東
西交流を協議。冷戦勃発後、初の東西の会談になった。アイゼンハワー大統領の出席に対し、ダレス国務長官はヤルタ会談の二の舞になる=ソ連
のペースに巻き込まれるとして反対を表明。アイゼンハワーは「平和のためなら誰とでも会う」といって出席。会ったことに意味があった。
3 新
興国家群の台頭(←植民地の独立)
・独立の波は3波。最初は1947
年のインド独立を受け、1949年に中華人民共和国ができるまでのアジアの独立。インドネシア、ベトナム、ラオス、フィリピン、セイロン、ビルマ、朝鮮が
独立する。
・次は1952年のエジプト革命を受け、中東や北アフリカで独立が相次ぐ。
・最後は1957年のガーナの独立を受けたアフリカ諸国の独立で、1960年は「アフリカの年」とな
り、17国が独立した。この年、国連加入国は100を超える。
・ネルー、ナセル、チトーなどの有能な新興国指導者は、東西陣営に属さず、中立を守る第三世界を提唱。
平
和五原則(周・ネルー、1954)、AA会議(バ
ンドン、1955)
・平和五原則は領土主権の尊重、不侵略、不干渉、平等互恵、平和共存。
・第一回アジア・アフリカ会議が開かれる。世界人口の56%、14億を擁
する29カ国が参加し、反植民地、平和共存のバンドン10原則を掲げる。ネルーは「もはやイエスマンではない」と宣言。
・構成は多様。反共産主義のタイヤフィリピン、西側大国と友好関係の南ベトナムや日本、社会主義国の中
国、北ベトナム、非同盟のインドやエジプト。多数決で何かを決めることができず、全会一致を探る。その結果、反植民地と平和共存でまとまったのであり、欧
米諸国に動かされていた国際政治に新しい動きをもたらした。
4 東西冷戦の進行と緊張緩和
第三世界への米ソの関与
・第三世界は貧困のまま残されてい
た。ソ連は第三世界に対し、技術開発、経済援助をおこない、経済成長をさせて自陣に取り込むことを考えた。社会主義の開発モデルを提示する。
・中国は、本来は資本主義の行き詰まりで社会主義に入るはずが、農業国でも社会主義化して成功する例を
示した。工業・農業の生産額は10倍になっている。
・ソ連はエジプト、インド、インドネシアなどに援助を増やし、1954年から1958年にかけ、援助額
は100倍になる。これで第三世界でソ連に好意を抱くところが増える。
・アメリカは親米政権を軍事的に支えるだけで、経済援助はしてこなかったが、ソ連の動きを見て真似をせ
ざるを得なくなった。これにより、第三世界で米ソの綱引きがおこなわれるよ
うになるのが1950年代後半からの動きである。
核開発競争の再開(ICBM、ABM)
・運搬手段の開発が大切。途中で飛
行機が撃墜されては仕方ない。ドイツのV1、V2が基本で、1957年8月、ソ
連がICBMを開発。30分以内で8000キロ以上を飛ぶ。モスクワ・ニューヨーク間である。20メガトン級水爆が弾頭にあれば、爆心から
60キロは壊滅し、ニューヨーク800万人のうち600万人が死ぬとされた。
・フルシチョフはアメリカに対して優位に立ったとし、1959年8月にキャンプデービッド会議を開き、
国際紛争の平和解決を話し合う。
・10月には人工衛星スプートニクを打ち上げてロケット技術を証明した。アメリカはショックを受け、すぐにICBMを開発する。
・アメリカは1958年にエクスプローラーを打ち上げる。互いにICBMを持つと、これは使えない武器
となる。報復があるからである。
・しかし、今度はABM(弾道弾迎撃ミサイル)を開発。迎撃することで核使用が可能となった。しかし、
MIRVの開発でABMをかいくぐることができるようになり、SLBMの開発でさらに複雑化。キリがない。
・報復能力を高めることで奇襲を避けることが必要となった。アメリカはボラリス潜水艦からICBMを発
射できるようにし、常に水爆を積んだB52を巡回飛行させなければならなくなる。
→キューバ危機(1962)=核戦争の危機
・1959年1月、キューバではカ
ストロに率いられた社会主義革命が起き、バティスタ独裁政権が倒れる。アメリカの裏庭に社会主義国ができたことで、アメリカは亡命者を組織してキューバ侵
攻を図るが失敗する。
・キューバはアメリカの
敵視政策に対抗するため、ソ連製ミサイルを配備することにした。これをCIAが察知する。それまでは北極海をはさんでソ連と対峙していただ
けだったが、のど元に刃を突きつけられたようなもの。アメリカの都市のほとんどが射程距離に入る。
・1962年10月、資材運搬のソ連船に対し、アメリカは海上封鎖。激突する一歩手前まで行き、世界は核戦争を覚悟し
た。アメリカでは要人を疎開させる動きもあった。フルシチョフはキューバの内政干渉をしないなら、ミサイル配備をしないとし、危機は回避された。
・翌年、米ソ間にホットラインが開設される。
∴部分的核実験停止条約(1963)
・キューバ危機で核戦争の恐れがで
たため、1963年8月5日、部分的核実験停止条約を米・英・ソで締結。大
気圏内外と水中での核実験を停止。
・しかし、核を開発していたフランスと中国は参加せず。中国は地下核実験をすることができるアメリカに
有利で、核の独占による世界支配であると非難。104カ国調印。
→核拡散防止条約(1968)
・現在の核保有国以外の核開発・保
有を禁止。締約国は核軍縮をおこなう。核を独占するねらいだとして中国、フランスの非難。
[国際社会への復帰と安保闘争]
・日本が国際社会に復帰するには国連加盟が認められないとダメ。そのためにはソ連と国交
回復をする必要がある。米ソ対立が厳しい時は実現しない。フルシチョフの平和攻勢で米ソの歩み寄りが起きた時点がチャンス。
・ワンマン、イエスマンの吉田は池田勇人、佐藤栄作という側近に支えられていた。いわゆる「吉田学校」
出身の官僚たち。しかし、公職追放が解除されると戦前からの大物政治家が復活してきて自由党の中が一枚岩ではなくなってきた。岸信介、鳩山一郎、石橋湛山
などである。
・吉田の自由党は240議席を持つが、自由党を吉田にとられた鳩山一郎が鳩山派を作って分派行動に出て
いた。鳩山は、かつて自由党総裁。戦後最初の選挙で自由党は第一党となったので、本当なら総理大臣だった。しかし、ここで公職追放されていた。鳩山は吉田
に首相の座を渡せと迫る。吉田の政治をアメリカべったりだと批判。
・吉田対鳩山の対立は根深い。1953年3月、野党の国会質問に対して吉田は「バカヤロー」と言ったた
め、野党連合は不信任案を出す。鳩山は自由党を飛び出て同じ名前の自由党を作って不信任に賛成したため吉田は国会を解散。鳩山は総選挙後に自由党に戻って
いる。
cf)造船疑獄で吉田内閣退陣
・1954年、造船疑獄が起きる。造船融資利子補給法の国会通過や計画造船の融資割当
に際し、海運・造船会社が政府与党の政治家に賄賂を贈ったというもの。自由党副幹事長の有田二郎が逮捕され、たくさんの政治家が取調べを受ける。
・吉田の片腕だった佐藤栄作自由党幹事長も汚職に関わったとして捜査対象となる。国会議員には不逮捕特
権があるため、最高検察庁は衆議院に対して逮捕許諾請求を出したが、吉田の意向を受けた犬養健法務大臣は検事総長に対して指揮権を発動して逮捕を阻止し
た。犬養は責任を取って法相辞任。これで吉田への風当たりが強くなる。吉田支持率は、講和前の58%から33%に低下した。
・鳩山派と岸派は自由党から出て改進党(元は民主党、芦田内閣与党)と結合し、日本民主党を作る。
121議席で第2党。野党と手を結んで吉田内閣不信任決議案を
出す。
・吉田の自由党は単独過半数がない。国会解散を考えたが負けるに決まっているのであきらめ、これで長期
政権は幕を閉じる。
・野党は鳩山新党に結集し、鳩山内閣を実現する。解散総選挙で185をとって第一党、自由党は112、
社会党左派89、社会党右派67。
A 鳩
山一郎内閣(日本民主党←改進党←進歩党)1954〜56
改憲再軍備、対米一辺倒から「自主外交」目指す
・鳩山内閣の方針は吉田の対米一辺
倒を批判するもので、自主外交、憲法改正再軍備を目指す。また、天皇を国家元首にし、国民の権利を制限、中央集権強化を図ろうとした。
・自主外交はアメリカの言いなりではないということ。国際社会に復帰するためには国連に加入する必要が
あるが、日本と国交のないソ連が安保理の常任理事国で拒否権を持つため、ソ連と国交を回復しないと国連に入れない。しかし、アメリカは日ソ国交回復を望ん
でいなかった。
1 55
年体制
社会党左右統一(1955,10、改憲阻止)
・社会党は講和問題をめぐって左右
両派に分裂していた。しかし、鳩山内閣の改憲の動きを見て、1955年10月に合併して第2党となる。社会党が勢力を持っている限り、改憲に必要な3分の
2の議席がなく、改憲は不可能だった。
保
守合同(1955,11、自由+民主=自由民主党、改憲目指す)
・鳩山は保守合同によって、安定政
権を作ろうと呼びかけ、1955年11月に自由民主党ができる。自民党は衆院298、参院115、社会党は衆院155、参院69。
・社会党は改憲阻止を掲げて対立。第24国会は大混乱となった。1956年の参院選で、鳩山は改憲を争
点として選挙戦を戦ったが、社会党などの革新勢力が3分の1以上をとり、鳩山は改憲を断念することになった。
=保守(改憲、対米依存)×革新(護憲、非武装中立)
cf)1、1/2政党時代
・以後、40年間にわたり、この体制が続く。国民は絶妙のバランスで社会党に改憲阻止ぎりぎりのラインの議席を与える。政権は取れ
ないので万年野党。自民党の行き過ぎをチェックする役割に終始する。
・自民党の路線はアメリカの軍事力の傘の下で経済大国を目指すものであり、高度成長がこの体制のもとで
実現する。
・これを可能にしたのは中選挙区制。一つの選挙区で2〜3人の議員を選ぶため、自民2、社会1で選出さ
れることが多かった。
・鳩山は小選挙区制への改定も図ったが与党内で異論が出て引っ込めている。
2 日ソ共同宣言(1956)
日ソ国交回復
cf)北方領土→平和条約調印後、二島返還
・日ソ国交のネックは北方領土問題
である。太平洋戦争早期終結のため、アメリカが千島をソ連に与えることを提案。スターリンも、戦争の早期終結を求める国民を納得させるには、千島領有を条
件とするのが得策と考えた。
・鳩山内閣成立で、ソ連のグロムイコ外相は日ソ交渉開始の用意ありと声明を出した。
・1955年6月3日、松本俊一元外務次官とマリク駐英大使が全権として会談。松本は領土問題として南
樺太、千島、歯舞、色丹を協議したいという。マリクは解決済みと拒否。8月4日、態度を変え、歯舞・色丹は引き渡してもよいと回答してきた。松本はこれで
妥結すべきとしたが、外務省は国後・択捉も要求せよと伝えて決裂する。
・鳩山は政治生命と引替に日ソ国交回復を表明。アメリカは日ソ国交で沖縄返還の声があがることを恐れ、
国後・択捉をソ連領と認めるなら、沖縄はアメリカ領とすると圧力をかけてきた。
・10月19日、鳩山は
反対派を抑えて日ソ共同宣言を出す。国交が回復し、平和条約締結後、歯舞、色丹は返還すると明記した。
・日本は国後、択捉は継続審議のつもりだった。
日本=四島返還主張
ソ連=新安保条約により、米軍撤退まで返還せず
・その後、1960年、
新安保条約調印に際し、ソ連は米軍が撤退しなければ歯舞・色丹は返還しないという。
・日本が択捉以南の返還を求める理由=近藤重蔵の領有宣言、日露和親条約の国境画定、南千島は一度もロ
シア領となっていない、侵略で獲得した土地ではない。
・ソ連が南千島の領有を主張する理由=ヤルタ協定で千島はソ連が引継ぐと取り決められた。
・日本の反論=ヤルタ協定は秘密協定であり、日本は認めていない。
・ソ連の反論=日本はサンフランシスコ講和会議で「千島列島」の領有を放棄している。
・日本の反論=ソ連が持っていってよいとは言っていない。ソ連はサンフランシスコ条約に調印していな
い。
・ソ連より日本に分があるが、領有放棄をしてしまったのは事実。それをどこが受け継ぐのかは話していな
いので、ソ連が持っているのも不当。また、択捉以南は千島ではないというのは無理。
・歯舞、色丹は地形から見ても北海道に付属する島嶼であり、千島列島ではない。これを返還しろというの
には十分な根拠がある。
→国際連合加入(1956)
・ソ連が日本を認めたことで、国連
加盟可能となる。1956年12月、全会一致で認められる。
cf)石橋湛山内閣
・鳩山は日ソ共同声明を出したこと
で辞任。高齢で健康に不安があった。73歳。自民党総裁選となった。この時は石橋と岸が競る。第一回は岸223、石橋151。決選投票で石橋258、岸
251。
・石橋は戦前から自由と民主の論陣を「東洋経済新報」で張る。満州放棄、日中戦争早期終結など。戦後は
吉田内閣蔵相となるが、ケインズ論者としてインフレ政策をとり、占領軍の費用削減を言い出して公職追放されたりした。
・完全雇用政策で神武景気を支える。中国との国交樹立を目指し、改憲に反対して軽武装の路線をとった。
・しかし、肺炎で倒れ、65日で総辞職。「浜口は狙撃後、総辞職しなかったために国会を混乱させた」。
引き際がよすぎた。
B 岸
信介内閣(自民党)1957〜60
重武装、親米反共路線
・岸は「愛国心」の高揚、「国防の
基本方針」を掲げる。重武装、親米反共路線。安保条約の双務的改訂を目指し、合わせて改憲をして海外派兵を可能にする計画を出す。
1 強権的性格(教員勤務評定実施、警職法改正問題)
・中国との関係改善を訴える総評の
支柱・日教組を抑えるために教職員の勤務評定を導入。校長を脅して勤評反対闘争を封じ込める。教員の管理の徹底。
・警察官職務執行法の改正案。警官による職務質問や所持品調べの権限を拡大する。これで戦前の治安警
察が復活するとされた。「デートもできない警職法」。600万人の抗議デモなど反対闘争が起こって国会を通せないと判断して引っ込める。非難の矛先が向け
られるのをミッチーブームでごまかす。
2 安
保改訂 1960
・従来の日米安保条約では、アメリ
カは基地の提供を受けていても日本を守る義務はない。日本にとってはただで基地を使われてカネまで負担することになりおかしい。
・期限がないので永久に基地を置かれてしまう。
・アメリカは自衛隊が増強されてきたのを見て、日本にも防衛負担を分担させる方針をとる。これは日本の
軍備増強につながるため、岸は歓迎。
自衛隊と米軍が相互防衛約す軍事同盟
(駐留米軍の日本防衛の義務化=双務的)
条約期限の明記
・安保条約は改訂され、アメリカの日本防衛の義務づけ。日本の自衛力発展の義務づけ。条
約期限を10年として明確化する。日本の内乱鎮圧の項目を消す。
・問題は(1)双務的に見えるが、アメリカは新条約で失うものは何もなく、基地も自由使用できる。
(2)旧条約は基地の提供義務だけだったが、新条約は協力して防衛する義務を持つ軍事同盟である。(3)共同防衛の範囲は極東と日本だが極東の範囲がわからない。米中戦争が起きて日本の米軍
基地が攻撃されれば、日本は戦う義務を負わされる。
but極東での米の紛争に巻き込まれる恐れ
=衆院強行採決、
・6月19日、アイゼンハワー米大
統領訪日。それまでに安保改訂したい。5月19日までに衆院通過。参院では自然成立でもよいと考えた。
・野党は引き延ばし戦術。5月19日深夜、500人の警官を動員して社会党の抵抗を排除し、自民党だけで単独強行採決。
・全野党が審議拒否。院外では560万人の交通スト。蛇行デモにかわるフランスデモで道路は通れず。連
日、国会には10万〜30万のデモが繰り出す。「安保反対、岸を倒せ」のシュプレヒコールは幼稚園児もまねる。
安保闘争激化(戦後最大の大衆運動)→自然成立
・6月15日は全国で580万人が参加する実力行動。全学連1000人が国会突入。警
官隊と乱闘。東大生・樺美智子が死亡。負傷者589。
・岸は警察力を総動員して大統領訪日を実現しようとし、自衛隊の幕僚長まで呼ぶが、「無理をすれば自衛
隊の存立に関わる」と言われ、大統領と天皇が会談すれば、天皇も危なくなると諭される。
・アイゼンハワーは沖縄訪問だけで帰る。「ヤンキー、ゴーホーム」。33万人のデモの中、自然成立。
岸内閣総辞職
・岸は総辞職。安保闘争の意義は戦後最大の大衆運動だったこと。安保改訂は、条約のお
かしな点を直したという点で、むしろ当然の改訂だったという意見が多い。それでも反対運動が起きたのは、岸の強引な手法に対し、議会制民主主義の危機とし
て、国民が拒否をしたものである。岸が東条内閣の閣僚だったことも反発を招いた。
・この後、安保闘争で動員された市民層を、保守がとるか革新がとるかで日本の行く末が決まることになっ
た。
C 池
田勇人内閣(自民党)1960〜64
・池田は大蔵官僚。1949年の総
選挙で当選し、第2次吉田内閣の大蔵大臣となる。吉田側近とされ、「吉田学校」の優等生。吉田の路線は「保守本流」と言われるもので、日本は軽武装にとど
め、アメリカの軍事力の傘のもとで経済発展を遂げようという政治。これを継承したのが池田だった。現実路線と言える。
「寛容と忍耐」=政治的対決の回避
「所得倍増」=安保下で経済大国を目指す路線への転換(高度経済成長政策)
・「寛容と忍耐」をスローガン。野党との対立を避け、憲法改正にも拒否の
姿勢を示した。むしろ解釈改憲を進め、安保があれば軍事費を経済発展に向けられるとして「安保効用論」を展開する。
・国民の目を政治からそ
らすためには経済発展が大切。「今後、10年間に所得を倍にする」「私は嘘を申しません」。選挙時にCMで流す。保守が市民層の取り込みに
成功。
・池田にとっての安保闘争は、アメリカの防衛力拡大圧力を跳ね返すのに役立ち、経済成長に邁進させるこ
とになる。軍備増強は国民の反発を招いて第二の安保闘争が起きるとしてアメリカを説得できる。安保を利用して経済発展しようというのである。