<占領政治の転
換>
[右回りの占領政治]
A 対日政策の転換
GHQ路線=非武装、経済集中排除、アジアへの賠償
・占領政策を担ったGHQのマッカーサーは非武装、経済力集中排除、アジアへの賠償の
路線で占領政治を展開。この方向で占領政治を立案する民政局を動かしていた。
・非武装はマッカーサーの持論。一種の理想主義であるが、天皇制を守るための取引でもあった。
・経済集中排除も理想主義の現れ。日本は軽工業中心の経済小国とされる予定。
・1945年末、ポーレー使節団の計画では、東南アジアの戦争被害国に対し、賠償金が払えない日本は現物で賠償するとして、残っていた産業設備を解体して
運ぶこととしていた。「日本人の生活水準が、日本が侵略した国のそれよりも
高いものであってはならない」。
・重工業、化学工業設備の半分は国外に持ち出される計画。日本の企業にある機械類はフィリピンなどに搬出されていた。
→アジアの「大工場」として再建、小規模の再軍備、賠償計画中止
※「民主化」見直し、強力な同盟国として復興させる
・1948年1月、米陸軍長官のロイヤルは「日本は共産主義の防壁」とサンフランシスコで演説。アメリカはドイツ
と日本の占領に対して膨大な費用をかけている。日本経済の自立に成功すれば何億$もの援助が不要になる。GHQの路線で日本に現物賠償をさせれば、日本は
戦争遂行能力どころか日本経済も破壊される。そんなことより、今後、極東で
台頭するかもしれない「全体主義」への抑制力として、強力で安定した日本国家の再建が必要。
・1948年3月、占領政策の見直しのためにケナン、ドレーパーが来日。ケナンはソ連関係の外交の専門家で国務省政策企画部長。ドレーパーは陸軍次官でロ
イヤル演説の起草者。
・「小規模の軍備」「大工場」のための企業分割中止。賠償縮小でマッカーサーを説得。再軍備は新憲法をないがしろにするとして反対。企業分割中止と賠償縮
小には応じる。
・ドレーパーは帰国後、賠償中止の報告書を出す。
・この結果、過度経済力集中排除法が骨抜きになって巨大企業の解体が見送ら
れる。
・日本はアジア諸国への賠償金支払い義務もうやむやにしてもらった。
cf)ガリオア・エロア資金の供与
・ガリオア資金は占領地に食糧や医薬品を与える資金。エロア資金は工業原料などを与え
て産業復興させる資金。
B 中
道政治から保守政治へ
・実際には、GHQ・民政局ラインは自らの理想を貫くため、米政府と対立する。中道政
治をよしとしていた。このような動きの中で、日本国民は右にも左にも寄らない中道政治を選択していた。それがアメリカ寄りの政治へと変わってゆく。
・それまでの選挙制度は大選挙区連記制だった。これだと保革両方を書く傾向があり、革新勢力が勝つのは確実だった。吉田は解散・総選挙を前に、選挙制度を
中選挙区単記制に変えて社・共を抑えようとした。
・進歩党はもっとも保守的とされたため、選挙に負けることを恐れ、「社会党の右、自由党の左」を掲げて小党を集め、145人の民主党を作った。自由党から
変わった芦田均が総裁となる。
・総選挙の結果、社会党143、自由党131、民主党121、共産党4。社
会党が第一党になる。昭和初期に社会民衆党から当選し、社会党の中心だった西尾末広は「そりゃ、えらいこっちゃ」と困惑した。
1 片
山哲内閣(社会党)
・片山哲が首相となる。キリスト教社会主義者で、最初の社会党政権として国民の期待を
集めた。
・単独過半数はなかったため、片山哲は民主党と組んで組閣することになった。ここで蔵相を民主党にとられたため、最高裁判所人事で弁護士出身者を入れるな
どの他は、社会党色を出せなくなる。
民主党と連立、炭鉱国家管理に失敗し社会党分裂
・片山は炭鉱国家管理、すなわち国営化を視野に入れた改革を目指し、これは社会党色の
強い政策だった。しかし、経営者が反対して実現せず。民主党も修正を次々に迫り、骨抜きにされる。このため、社会党内部で左派が分裂。8カ月で総辞職した。
2 芦
田均内閣(民主党)
社会党右派の支持、民主自由党結成で少数与党へ
・芦田は民主党と社会党右派の支持を受けて首班指名を勝ち取って組閣した。しかし、参
議院では吉田が首班指名された。吉田は民主党から抜けた幣原派を入れて民主自由党を作り衆議院第一党となったため、芦田内閣は少数与党内閣に転落する。こ
れでは力は出ない。
※
経済安定本部による傾斜生産方式(鉄鋼、石炭)
復興金融金庫の融資→インフレの進行
・吉田内閣からの傾斜生産方式を踏襲して石炭、鉄鋼に資材・資金を重点的に投入した。生
産再開につなげようというもの。資金は復興金融金庫から出す
が、これはバラマキとなり、また、賃上げ圧力が強かったためにインフレが進
む。
昭電疑獄事件で芦田退陣
・昭和電工が復興金融金庫の資金を手に入れるため賄賂。副総理・西尾末広、芦田にまで
追及の手が伸び、64人が逮捕される。このため、芦田内閣は7カ月で倒れる。
・しかし、大物有罪は2人だけであり、現在ではフレームアップされたものという説があ
る。米ソの冷戦が始まり、日本の反共基地化が必要とされるようになったため、GHQの中に中道内閣をよしとしない軍部勢力(参謀第二部)が力を持つように
なっていた。民政局は中道政治をもう一つ続けようとしたが失敗した。
3 第
2〜5次吉田茂内閣(民主自由党)
・第一党は民主自由党だった。しかし、総裁の吉田は第一次投票ではトップだったが過半
数はとれず、決選投票でも吉田185、白票213(総数399)という有様だった。とても長期政権を担えるような状況ではないはずだったが、第2〜5次にわたる6年間の長期政権となり、GHQの指令通りに動いて独立と経済復興
を成功させる。
・吉田茂は土佐出身で、牧野伸顕(大久保利通の子)の娘婿。外務省入り。中国での日本権益の維持を主張したが米英との戦争には反対していた。このため軍部
から排斥され、昭和20年、早期終戦をしなければ革命が起きると主張し、憲兵によって逮捕されたことがある。終戦時67歳。
対米協力 cf)ワンマン、イエスマン
[独占資本の復活]
A 経済安定9原則(1948)
経済自立政策への転換=米の援助に頼らぬ均衡予算の樹立
・日本経済はアメリカの対日援助で支えられる。
・日本は労働人口が増えたのに、仕事がない状態が続いていた。このため、政府やアメリカの財政支出で仕事を作って無理に雇用していた。これだとインフレに
なるが、これを徐々に抑えて生産をゆっくり回復させる方針だった。これだと経済自立に時間がかかる。
・アメリカは国内の景気低迷のため、日本の援助が無駄に思えてきた。アメリカと政府の財政支出を抑えて均衡予算を組み、徴税強化、貸出制限などで早急なインフレ抑制を迫った。
インフレが収まれば、輸出で日本は稼ぐことができる。輸出で稼がせることが日本経済自立の第一歩とした。
ドッ
ジによるデフレ予算(行政整理)=ドッジライン(1949〜)
・ドッジはデトロイト銀行頭取。財政顧問として9原則の具体化を示唆した。「日本経済
は竹馬に乗っている。片足はアメリカの援助、片足は国内の補助金。竹馬が高くなると転んで首を折る」。歳入が歳出を上回る完全均衡予算を組み、復興金融金庫の融資は打ち切り。
シャ
ウプの税制改革(所得税に重点)
・シャウプはコロンビア大学教授で、直接税中心の税制改革をした。所得税の源泉徴収な
どを導入している。
→インフレ抑制、単一為替レート(1$=360円)設定
・日本と外貨の交換のためのレートは、インフレが激しいために設定できなかった。商品
ごとにレートが異なり、輸出は1ドル=500円、輸入は1ドル=100円というように日本保護のレートになっていた。
・これを1$=360円に固定する単一為替レートで国際経済につなげた。
これによって輸出で儲けることができるようになる。
=国際経済につながる
but 不況深刻化、失業者増大、労働運動激化
・イン
フレは急速に収まったが大不況となる。ラジオメーカー86社中68社倒産。民間企業の人員整理は40万人。池田蔵相は「中小企業の5〜10
人は死んでもしょうがない」と言い、実際に小工場主の一家心中が起きたりした。
・不況の中で失業者が増え、労働運動は激しくなる。
B 労
働運動の抑圧
・公安条例を出してデモ・集会を届出、許可制にした。
政府の行政整理→日本国有鉄道発足(1949.6、運輸省から分離)
=国鉄職員の大量解雇 ∴国鉄労組の反発
・激しく労働運動をおこなっていたのは国鉄労働者だった。海外から引き揚げてきた鉄道
関係者を雇っていたため、人が余っている状況で、政府は29万人の行政整理を発表した。7月1日、国鉄9万5千人の首切りを提示し、4日に一次分の3万7
千人の首切りを通告した。これに対して反対闘争が計画される。
下山、三鷹、松川事件の発生→共産党の指導として圧迫
・この中で下山事件が起きる。5日、国鉄総裁下山定則が行方不明になる。6日、常
磐線綾瀬駅付近で轢死体で発見。監察医は自殺としたが、共産党や国労による他殺説が流れ、国労は首切り反対のストができなくなった。この中で、12日、第
二次整理の6万3千人の首切りが通告される。
・この事件後、三鷹事件が起きる。15日に三鷹駅で無人電車
が暴走して民家に突っ込み、6人が死亡したもの。警察は共産党の仕業として国労内の9人を検挙。首切り反対闘争はますますできなくなる。
・さらに、8月17日に松川事件が発生。福島県の東北線松川
駅付近でレールが外され、列車が転覆。これも国労の共産党員の仕業とされて20人が検挙。
・下山事件は自殺説優勢のうちに時効。三鷹事件は非党員一人の単独犯行と確定。松川事件は5人に死刑判決が出るが、後に逆転無罪となる。
・労働運動はこれらの事件で下火になり、争議参加率は半減、組合組織率も50%を切
る。産別の組合員も半分になった。あまりにタイミングがよく、GHQや政府の謀略説もあるが真相は不明。
cf)レッド・パージ開始(1950.7)
・後に、共産党への弾圧はさらにエスカレートしてゆく。
※旧財閥系大企業が独占資本として復活
・不況でつぶれた企業は大きなものに吸収合併される。過度経済力集中排除法が骨抜きに
なったため、企業は大きくなることが可能。もとの財閥系企業が復活してゆく。