<民
俗学的 恋愛指南−その1−>
民俗学に関心を持ってくれた人のために、ちょっと恋愛の話をしてみ
ましょう
若い人の最大の関心事は恋愛かもしれません。大昔からこれは人々を悩ませる問題であり、自分でいろいろと困ったとき、先人の知恵を借りることが
できるの はありがたいものです。
私のもともとの研究テーマは婚姻に関することだったので、当然ながら多くの人たちから昔の恋愛について話を聞いてきました。その一端を紹介する
のも何か の役に立つことになるかと思い、手当り次第にまとめてみることにしました。
「恋愛」を岩波書店の『広辞苑』で引くと、「男女間の恋い慕う愛情。愛する異性と一体になろうとする愛情」とあり、「ふーん」という感じです。
これが三省堂の『新明解国語辞典』になると、「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ち
を持ちな
がら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態」とあり、「なるほど、これだ」と思います。(ち
なみに 『新明解』は読んでいておもしろい辞書で私は好きですね。編者の金田一京助は偉い)。
いずれにしても、「恋愛」は一緒に居たい、合体したい(おいおい)と思いながらかなえられないところが大事なところであり、最初からかなえられ
たら 「恋」でもなんでもないということがわかりますね。若者よ、
多いに 心を苦し められてください。それが正しい「恋」みたいです。
そして、私が話を聞いてきた明治30年代から昭和初年生まれの人たちも、そんな恋で悩んでいました。
民俗社会の恋愛に対するイメージ
さて、一昔前の日本では、恋愛は悪いもののように見られることが
ありまし た。可児市中恵土の大正7年生まれのおじいさんは、「恋愛をすると叱られるような風潮で、女の人も首筋か足首しか人
目にさらさ ないようにし
ていたし、胸も小さくしていた。男の人も、娘の前は恥ずかしくて通れないようなことだった」と言っています。今の大胆な服装の女の子たちとは大違
いです ね。
もちろん、デートなんて出来ません。吉良町吉田の昭和2年生まれのおばあさんは「若い娘が男と歩くと大評判になってしまう。口をきくこともだめ
だった」 と言っています。
そして、一宮市中島の明治43年生まれのおばあさんによれば、恋愛で一緒になったりすると、「あそこの子はしくじりゃあした」などと言われたと
いいま す。恋愛はふしだらなことであり、それで結婚するなんていうのは失敗だったんですね。
実際、結婚相手は親の言いなり、形式的に一度お見合いをしただけで結ばれたという話は多いですね。これはこれでおもしろいテーマですが、今回は
恋愛の話 なので、お見合いのことはまたどこかで扱いましょう。
ところで、恋愛を悪いものと見るのが日本の伝統だったと思ってはいけません。恋愛や結婚の自由が剥奪されたのは明治民法が出されて家制度が庶民に押し付けられた結 果であり、それまでの日本で
は恋愛結婚が普通だったし、明治から昭和の初めにかけてでも、今までのしきたりどおり、恋愛が認め られていた地
域はかなりあるんです。そして、その社会での恋愛は、一つのルールに基づいておこなわれていたのであり、今の世代が参考にすべき点もたくさんある
と思いま す。
家制度によって否定された恋愛
家制度というのは、「家」の継承を第一に考え、そのためには個人がある程度犠牲になっても致し方ないという制度です。「家」を継承させなければ
ならない
のは、「家」に家産が付属しているからです。先祖が家産を築いてくれたおかげで自分たちは生活できる。そして、その家産は間違いなく次の世代に伝
えてゆか なければならない。だから、結婚は「家」を継承する次の
世代を作る 行為であ り、結婚相手に求められたのは、家産をきちんと守ってくれる人かどうかということでした。
その見極めは親世代がおこないますから、子の世代には結婚の自由はなく、恋愛なんていうものも許されません。
男の側にとり、恋愛で一緒になった女性が「家」を守ってくれる人だとは限りません。見た目はとってもかわいくても、実はとんでもない浪費家であ
り、わが
ままいっぱいで手に負えないような子かも知れません。せっかくの家産を台無しにする相手だったら一大損害です。子供には恋愛など許さず、親の眼鏡
にかなっ た相手と結婚させる。これが「家」を守るためにはベストでしょう。
女の側にとっては、どうせ結婚して相手の「家」を守るために働かされるなら、資産のたくさんある家がよいに決まっています。わざわざ苦労する必
要などな
い。目先の恋愛感情にごまかされ、ハンサムでもグータラな男をつかんだりするより、親がしっかりと相手の家を見極めてしかるべき家に嫁がせてやる
ことが幸 せな人生を保証することになるでしょう。
こうして、恋愛はふしだらなものとして否定され、親の言うなりの結婚がまかり通っていったのです。
もっとも、江戸時代までは次代に継承すべき家産を持っていたのは武士か大きな商家に限られていました。一般の農民が家産を持ち、それが保証され
るように
なるのは、明治の地租改正によって土地所有権が認められてからのことです。それまでの農民が持っていた土地は、実際にはお殿様の土地であり、それ
を借りて いるだけのことできちんとした所有権はありませんでした。
だから、「家」のための結婚なんていうのはあり得ず、お見合いなんてしないで恋愛で一緒になっていました。恋愛結婚こそが長い間の日本の伝統だったんですよ。
万葉の昔、歌垣というしきたりのあったことを聞いた人もいるでしょう。若い男女のグループが、互いに歌を取り交わし、好きになった者同士でカッ
プルを 作ってゆくあれです。今なら合コンというところでしょうか。
時代が下がると、盆踊りなどが男女交際のきっかけに
なりま
した。設楽町の山奥のムラで、大正生まれのおじいさんからこんな話を聞きました。「昔は奥さんを指して『盆踊りでできたオッカアだ』という人がい
た。盆踊
りの時は朝まで踊り続けであり、娘を桑畑に連れ込むということがあった。盆踊りは天下御免の無礼講であり、そういうことが公然とできた」。
今でも奥三河のムラでは、小さな舞台を囲んで地唄で盆踊りをしているところがたくさんあります。盆踊りはあの世から帰ってきた先祖の霊を慰める
ものです
から、歌も哀愁を帯びています。鳴りものは使わず、名古屋辺りで賑々しくおこなっている踊りではありません。盆の十五日の満月の明かりだけで踊る
もので す。
豊橋の製糸工場に働きに行っていたあこがれのあの子も、盆の休みでムラに帰ってきて踊りの輪に加わっています。女の子は、小学校を出るとすぐに
働きに行
くのが普通でしたから、あこがれの子は10代後半でしょうか。当然、浴衣姿ですね。製糸工場に行った子は踊りがうまかったそうです。都会に出て、
しばらく
見ない間にきれいになっているんでしょう。休みが終わるとまた会えない。そうしたとき、踊りのあとにこっそり誘って桑畑で想いを語るなんていうこ
とはあり がちなことだったんですね。うん、頑張れ。
こういう恋愛のしきたりがふしだらなものとされるのは、明治の民法が出て家制度が確立するからです。明治政府にとって地租収入は重要な財源でし
たから、
その土地を維持するためには「家」の継承を第一にする家制度を一般の人々にも拡大することが必要でした。子供は30歳になるまで、親の意思を無視
して結婚 することは出来ないという明治の民法の定めはそこから作られたものなんですね。
子供は親の言いなりで、「家」のための結婚を強いられます。結果として恋愛は忌避され、お見合い結婚が幅を利かせてゆきます。だけどそんなの
は、たかだ か100年くらいの歴史しかありません。
人を好きになる、恋をするという気持ちも、国が定めた一つの法律によって否定されてゆくというところに怖さを感じませんか?。我々を取り巻く社
会の仕組み、例えば家族制度なども、知らず知らずのうちに国家権力によって規定されているんですよ。民俗学では、そういう国家の功罪を庶民レベル
の慣習の変化から探ることになります。
漁村に残る恋愛慣行
さて、家制度が土地所有権の認可によって裏打ちされたものならば、漁村のように土地に家産としての価値をあまり認めないところでは、家制度の浸
透は緩や かであったと考えられます。そのため、漁村には家制度が
忌避した恋 愛のしき たりが残されることが予想されます。そしてそれは、家制度が入り込む以前の日本人の恋愛の姿を彷彿させ
るもののはずです。
こんな視点から、次からは私が聞き書きをした三重県鳥羽市答志島、愛知県南知多町篠島、日間賀島、一色町佐久島、そして渥美半島の恋愛慣行を見
てゆきた いと思います。