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俗学的恋愛指南−その2−>
答志島はどこにある?
ここでは三重県鳥羽市答志島の恋愛慣行について紹介しましょう。
三重県鳥羽市答志島は、鳥羽市沖2.5knの伊勢湾に浮かぶ、周囲26kmの細長い島です。集落は答志、和具、桃取の3つがあり、全体で人口は
3000
人。漁業と観光の島と言ってよいでしょう。答志島に行くには鳥羽の佐田浜港から市営定期船に乗ることになります。一番近い桃取まで15分、遠い和
具と答志 には30分かかります。
伊勢湾に浮かぶ三重県側の島としては神島が有名で、やはり佐田浜港から船が出ています。答志島までは内海なので波はさほど気になりませんが、そ
こから神 島へは秋から冬は荒れることがあり、船に弱い人はある程度の覚悟を持って行く必要があります。答志島は大丈夫ですな。
答志島のネヤコ(寝屋子)制度
答志島にはネヤコ(寝屋子)という若者宿の習慣が今も残っていま
す。
これは、中学校を卒業した男の子が同年齢の子を集めて仲間を作り、どこかの家をヤド(宿)に頼んで毎晩そこに寝泊まりするものです。島を出て外で
働く子も いるので、ネヤコに入るのは島に残った者だけで、人数は多くて7人くらい、10人にもなると2つに分けたりしていました。
宿を提供する家の主人をネヤオヤ(寝屋親)と呼び、寝泊まりする子がネヤコです。ネヤオヤになるのは土地で信用のある人でした。金持ちでなくて
も、真面
目で若者を監視することが出来、6畳一間をネヤコのために提供することが出来る人です。そういう家は周りから一目置かれていて、何代も続けてネヤ
コを寝泊
まりさせることもありました。ネヤオヤになると、ネヤコのために畳を替えて部屋を提供しなければならず、費用もかかりましたが、いざというときは
ネヤコを
何かの手伝いに頼むことが出来ました。ネヤコはネヤオヤ夫婦を「オヤジ」「オバサン」と呼び、本当の親と同じ扱いをしてゆきます。結婚するとネヤ
コはヤド
を抜けてゆきますが、ネヤオヤとのつき合いは一生続いてゆきます。全部のネヤコが結婚していなくなると部屋が空くので、その家ではまたネヤコを迎
えること にもなります。
自分の子供がネヤコになる適齢期を迎えると、その親がネヤオヤになってくれと頼みに行きます。ネヤコになるのは島で漁師の跡を継ぐ者で、漁の
後、自分の
家で夕食を食べ、その後でヤドに集まってきます。ヤドでは、冬ならばカッテバのイドリ(囲炉裏)の火に当たりながら漁の話などをして過ごします
が、後で述
べるように娘のところに遊びに行ったり、時にはヤドに娘を連れてくることもあったといいます。他に人がいなければ、娘を泊めることもできました。
ネヤオヤ は、ネヤコが余りに無軌道であれば怒ったりしますが、たいていのことは許してくれました。
ネヤコと青年団の違い
ネヤコの仲間は若者の仲良しグループです。島での
生活は互 いに助け合うことが必要で、特に危険を伴う海の仕事をする漁師にとって、い ざというときにネヤコの仲間がいることはとても頼りになることでした。ネヤコ同士のつき合いも一生続いて
ゆきます。
調査をした1997年の段階で、和具集落にはネヤコの習慣が亡くなっていましたが、私より5つ年上でその頃中学生の子供を持っていたお母さん
は、何とし
てでもネヤオヤを頼んで子供を引き受けてほしい、和具でだめなら隣集落の答志の人に頼むと言っていました。答志島で漁師として生きてゆく上でネヤ
コのつき 合いは欠かせないものであり、また、年頃の子は家に置いておくよりも、ヤドで集団生活をさせることが必要だと理解されているのです。
若者の組織には、ネヤコと並んで青年団があります。ネヤコが仲良しグループなのに対し、青年団はもっとかっちりとした組織で、15歳から25歳
までの者
で構成されていました。入退会式は正月4日に公民館か寺でおこない、初めて入るときは青年団OBの中老の人を頼んで連れていってもらい、酒2升を
出して挨
拶をしました。役職には団長、副団長、会計などがあって上下関係が厳しく、「1月2月に上の者に泳いでこいといわれれば泳がなければならなかっ
た」といい
ますし、「浜の岩に正座させられたりもした」そうです。ある人は上の者に「菓子屋でヤトナを買ってこい」と言われ、ヤトナの意味が分からないまま
に菓子屋
に行って「ヤトナをくれ」と言ったところ、「その辺にいる好きなのを持ってけ」と言われたことがあったといいます。後から聞くと、ヤトナは娘の意
味だった とのこと。
青年団は今風に言えば部活動でしょうか。もっと年の差はありますが、先輩の言うことは絶対です。ネヤコはその中で同年代の者。今の若い子が使う
言葉だと 「タメ」ということになるし、とりわけ仲のよい親友ということです。このことを指して、ホーバイ(朋輩)と呼ぶこともありました。
娘のホーバイ
若者に対して娘の方でもホーバイという仲間関係を持っていました。気
の合 う者同士で集まっては、一緒にお針をしながら世間話をする関係です。話の内容は「男と女の話が中心だった」といい、いつ
の時代 も若い子が集
まると話す中身は同じになります。ただ、娘の仲間は一緒に寝泊まりするようなことはなく、仲良しの家に集まっていても、9時か10時には自宅に
戻ってゆき ます。
志摩の漁村の女性は、海女として海に潜り、アワビなどを採っていたというイメージで理解されています。しかし、答志島の娘が海女仕事をしたのは
8月だけ
で、それ以外のときは針仕事をして過ごしていました。漁はもっぱら男の仕事であり、女性の海での仕事は大したことはありません。8月の海女仕事の
時期にし
ても、「海が嫌いな娘もいて、着物だけちょっと濡らして、あとは浜でさぼっているような人もいた」というので、娘の稼ぎは当てにならないようなも
のだった ようです。
娘遊び
「娘遊び」と字に書くと、なんだかいかがわしい雰囲気です。しかし、これは若 者が年頃の娘のところを訪れて世間話をしてくるもので、ごく普通の恋愛のしきたりとして、恋愛が忌避される風潮
が幅を利かせる まではどこで
もおこなわれていたものでした。答志島では、ネヤコの仲間が集まって娘のところに出かけて行きました。この場合、一軒に何人もの娘が集まってお針
をしてい るところに行く場合と、特定の娘の家を訪れる場合があります。
年頃の娘のことを答志島ではアネラと称しました。気になる女の子が出てくると話をしてみたくなるものです。そうするとネヤコのホーバイで「ア
ジョ、あそ こに遊びに行こうかい」と話をまとめ、娘に「今晩遊びに行っていいか」と都合を聞きます。今風に言えばナンパですが、原則として訪ねてくるのを断ることはできないしきたりだった
ようです。
だって、全く見ず知らずの女の子に町で声をかけるのとは違いますからね。狭い島の中のこと、どこの誰が訪ねてきたいと言っているということは丸わ
かりで
す。あそこのあの子なら、ちょっと喋ってみようかとか、あいつは気に入らないけど、断るのも気の毒だからとりあえずは来てもらおうか、ということ
になりま す。
娘遊びには初めはネヤコの4〜5人で出かけます。夜になって娘のところに出かけて「遊ばして」というと、親も「遊べ遊べ」と言って上げてくれ、
自分は気 を利かせて2階に行ってしまったりしたといいます。
4〜5人の若者と1人の娘さんとの空間というのは、なかなか気詰まりかもしれませんね。娘さんは多分、黙っているしかなかったでしょう。黙々と
針仕事を
する。それに対して、間が持たない若者は、今日の漁の話とか、時には今度は鳥羽に映画を見に行こうという話とかを織り交ぜて気を引こうとする。そ
れも、
4〜5人いれば、黙っている者、一生懸命場を取りなそうとする者、いろいろだったでしょうね。それは今も昔も変わらない光景かも知れませんよ。
そうして、時間が来れば若者は帰ってゆきます。楽しい時間を過ごすことができて、また来たいなと思えば娘さんにまた来たいといって話をするし、
そうでな ければ遠慮して他の家を訪れるし…。
ナジミになる
そんなこんなの繰り返しの中、一人の若者と娘とが何となくお互いに意識するようになります。そうすると、ネヤコのホーバイは気を利かせてその一
人を残し
て他の娘のところに行ってしまいます。ホーバイが帰って二人だけとなると話題も変わりますね。将来の夢を語ったりもするかもしれません。そうして
恋が芽生 えますね。『新明解』の言うところ、「一緒に居たい、合体したい」(おいおい『新明解』やばいぞ)でしょうか。好き同士になった二人のことをナジミといいます。
その後の展開はいろいろでしょう。ある女性によれば、「二人で仲良くなると、浜に出ていったりした」といいます。誰もいない夜の海。潮騒を聞き
ながら何 を語り合ったのでしょうねぇ。はぁ…。
小説「潮騒」に見るナジミの関係
三島由紀夫の小説「潮騒」は、答志島の隣の神島を舞台にした話で
す。以下は、好き同士になった新治と初江が逢引をする有名な場面です。あなたは読みましたか?。名作なので一度は読んでおきましょうね。
新治は初江と観的所(大砲の射爆場があり、その効果を観測する施設です)で会おうと約束します。その日は豪雨になりました。先に到着した新治は
びしょぬ
れの服を乾かすためにたき火を起こしますが、その火を見つめているうちにうとうととし始めます。そこへ遅れてやって来た初江は、新治が寝ているの
を見て濡
れた服を乾かそうと脱ぎ出しますが、その時に新治は目を覚まします。「見てはいけない」と言う初江に、「それでは自分も裸になるから」と言って服
を脱ぐ新
治。それを見た初江は「そのたき火を飛び越えて来い」と言います。その言葉に従った新治は初江を抱こうとしますが、初江は「自分はもう新治と結婚
するつも りでいるから、だから、今はいかん」と、はっきり拒絶します。(ふー。おじさんには恥ずかしい話だな)。
ナジミになったら結婚が前提
ナジミになっても、うまく行かないと別れてしまうことはあったようです。ただ、「初めに好き同士になった人と一緒にならなければ、娘はキズモノ
といわれ ることになり、島の中では結婚しづらかった。そうなると町に出て行くことになった。昔はこういうことには厳しかった」と言われます。
これは一方的に娘さんの方にだけハンディが負わせられる話なので、家制度の考えが浸透した中でのことでしょう。好き同士になった者が嫌いになっ
たって、
それはよくある話だし、そのときに男の方にはキズがつかず、女の方にだけキズがつくというのは、もともと日本の社会にはなかったことでした。
一方、「娘が相手を二股かけるような場合は、それがわかれば誰からも相手にされなくなり、町に出て行くことになった」と言います。これはその通
りでしょ
うね。そしてこのことは若者にも言えることでした。何しろ答志島での恋愛は若者や娘仲間みんなの知るところです。一定の規範を外れる行為が許され
るはずが ありません。そんなことをすれば仲間外れにされて島では生きてゆけませんよ。
それに対し、ナジミになって子供ができてしまうことについては誰も何も言いませんでした。「好き同士で子供ができれば、結婚することが認めら
れ、親が反 対しても他の人が説得してくれた」と言われます。
そして、「結婚しようということになると、ネヤコのホーバイが娘の親元に行って話をつけてくれる。誰が行くかはネヤコの中で決まっていた。これ
で内々に 結婚の話が決まった」とされ、子供ができればゴールイン
というのが 一つのパ ターンだったのです。
答志島の恋愛と結婚
答志島では「男は15歳から娘遊びに出かける。10代での結婚はあまりなかったが、20歳を過ぎれば結婚する者も出てきて、たいていは24,5
歳までに 結婚した」といい、娘遊びからナジミの関係になり、20歳過ぎで結婚するというのが普通でした。
ネヤコという若者仲間によるグループ交際から恋愛が始まり、やが
ては一対 一の関係になる。そうして子供ができれば、若者仲間の応援によって結婚に至る。これが答志島での恋愛から結婚への道筋で
す。
ここでは、恋愛といっても勝手放題ではなく、一定のルールがあっ
たこ
とが認められます。二股かけたり相手を手玉に取るようなことはもってのほかで、そんなことをすれば島にいられなくなります。
そして、好き同士のナジミの仲になるということはお互いに相手と
自分に責 任をとるという意味でたいへんなことでした。ナジミになれば子供ができることが前提で、そうすれば結婚するのが当た
り前であ り、結婚に責任の持てない年齢でナジミになるということ
はあり得ま せんでした。
答志島の恋愛慣行で注目したいのは、ネヤコの仲間による協力体制で
す。答志島での恋愛は極めてオープンであり、恋愛で悩みがあれば一緒に娘遊びに行ったネヤコの仲間が相談に乗ってくれます。結婚にこぎつけるまで
にも協力 をしてくれ、ネヤコの仲間は常に最大の理解者になっていました。
恋愛は一人こそこそするものではなく、みんなの共通認識の中で進
展させる ものです。そうすることで困ったときには相談者も確保でき、一方では規範を守ることになります。
恋愛に悩むあなた。よき相談者は身近にいますか?。
そうい う存在がなくなってきているのが最近の若者社会の問題なんです。
答志島のような恋愛慣行は、決して珍しいものではありません。次には愛知県南知多町篠島の例を見てみましょう。
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