<ベトナム戦争と戦後の終了>
[アジア情勢の変化]

ベトナム戦争は20世紀の世界の歴史の中で、国際関係を変化させたという点で重大な意 義を持っている。この戦争を振り返ることの意義は、基本的には(1)世界最強の軍事力を持つアメリカがどうしてベトナムに負けたのか、とい うことを探ることにある。
・ 日本人について言えば、この戦争と日中戦争がよく似ていることから、日本がやったことがどういう意味を持っていたのかを知ることができる。自国のやった戦 争は冷静に見られない。日本は正しかったと言いたくなる人もいる。アメリカのやったベトナム戦争を見ることで、太平洋戦争を振り返ることができる。

・ 日中戦争とベトナム戦争の共通点は次の通り。
・ (1)民族解放と帝国主義の戦い=ホーチミンのベトナム独立宣言はフランスの人権宣言を冒頭に提示。地上の全ての民族は自由、平等、博愛の権利を有する。 しかし、フランスはベトナム人のそれを汚しているとした。孫文は三民主義を掲げ、中国民族の独立、民権の確立、民生(平等)を主張している。これを植民地 的に支配しようとした国との間で起きている。
・ (2)植民地的支配のために傀儡政権を作っている=アメリカはゴ・ジン・ジェム政権という傀儡政権を作ってベトナムを抑えさせようとした。汪兆銘政権を 作った日本と同じ。民族的支持を得られずに失敗しているのも同じ。政権に抗議して焼身自殺をする僧侶に対し、大統領の弟の妻が「僧侶の一人をバーベキュー にしただけ」とうそぶいた。その5ヵ月後に傀儡政権は倒れている。いかに国民と一体感がなかったかである。
・ (3)民族ナショナリズムの過小評価=アメリカはベトナム人のナショナリズムを過小評価したため、戦争が泥沼化した。日本が盧溝橋事件を起こし、2,3ヵ 月で中国を叩きのめすと言って失敗したのと同じ。

・ その上で、(2)ベトナム戦争が日本に与えた影響、(3)ベトナム戦争と日米安保の関連、を考えると、日本がとるべき道が見えてくるはず。

A ホーチミンによる民族解放戦争

・ 太平洋戦争直前、フランスが持っていたベトナムに対し、日本は援蒋ルート寸断のために軍隊を送って事実上占領した。日本は初めは解放軍として歓迎された が、フランスの植民地統治に介入しない代わりにセメントやボーキサイト、米などの供給を要求。ベトナム人のフランスからの独立を応援しなかった。1943 年のインドシナ米の輸入量は日本の輸入量の56%を占めた。このため、現地の物価は4倍になり、1944年末から翌年にかけ、数十万から200万人が餓死 したという。これでベトナムではベトナム独立同盟(ベトミン)が力をつけてくる。
・ フランスのドゴールは戦後の復興のためにもインドシナは必要だとし、日本降伏後もベトナムを手放す気はなかった。
・ アメリカは反植民地主義をとっていたが、盟友のフランスのかたくなな態度に妥協することになる。

 1 インドシナ戦争(1946〜54)
    ベトナム民主共和国建国(1945,9)

・ インドシナ共産党、ベトナム独立同盟(ベトミン)を率いるホーチミンは、 1945年9月2日(日本降伏の日)、ベトナム民主共和国を作る。アメリカや国連に承認を求めたが無視される。
・ フランスは日本撤退後のベトナムに軍隊を送り、主要都市を占領した。ベトミン軍と戦い、第一次インドシナ戦争が起きる。
・ アメリカはマーシャルプランでフランスに援助を与える。
・ ソ連は東欧の足場固めに追われ、ベトナム援助には積極的ではなかった。フランス総選挙で共産党が第一党になったこともあり、敵に回したくなかった。
1949年6月、フランスはバオダイを担ぎ出して傀儡政権を樹立し、ベトナム国を作っ た

       =中ソの承認(1950,1)

・ 1949年に統一を果たした中華人民共和国は、1950年、南の国境を安定させるためにベトナム民主共和国を承認する。スターリンも同調し、東側は全て承 認。これでベトナムは東西冷戦のぶつかる場となり、西側はフ ランスの後押しをしなければならなくなった。

    but仏がベトナム国を建国して対抗(1949,6)
       ベトミン(北)×仏(南)→仏敗退

・ フランスは経済的に行き詰まり、国内では厭戦気分が蔓延。外人部隊を雇って戦い、9万人の損害。
・ ラオス国境のディエンビエンフー盆地をとる作戦をとる博打を打つ。ラオスからベトミンを援助するルートを遮断し、背後からベトミンを叩く。山岳地なので、 ベトミンは大砲を運び上げることができないと判断。フランス軍1万6千が要塞を作って立て篭るが、ベトミンは自転車、水牛、馬を使って人海戦術で物資を運 び、500門の大砲で攻撃。ベトミン軍5万の前に総崩れ。アメリカに泣きつく。アメリカは原爆使用も視野に入れるが、議会に支持されず、1万3千人が降 伏。
・ 戦いが終わった翌日に休戦討議が始まる。

 2 ジュネーブ協定(1954,7)
    北緯17度線で南北分断

・ 1954年7月、ジュネーブ協定でベトミンの独立闘争(第一次インドシナ戦 争)終結。17度線の南北に分断。2年後に選挙によって南北統一を図ることになった
・ 中ソは戦争継続でアメリカが軍事介入することを恐れた。自分のところの足元を固める時期。ベトナム北部がアメリカにとられてベトミンが中国南部に逃げてき たら困る。北ベトナムを説得して協定を結ばせている。17度線だと200万人の国民を南にとられ、カンボジアやラオスとの交通路も失う。
・ バオダイは国土分断に反対。後継者はゴ・ジン・ジェム。ホーチミンは国土の4分の3を支配していたのでこれも不満。アメリカは中国に接するトンキン湾が北 側なので不満。

     but南のゴ・ジン・ジェム傀儡政権の選挙拒否

・ 南ベトナムは民衆の支持を得ていなかったため、共産主義の国になろうという人が多かった。これに対しての弾圧で、80万人が逮捕され、9万人が死ぬ。
1956年が選挙の年のはず。北ベトナムによって統一される可能性が高く、南は総選挙 を拒否する。

       →民族解放戦線結成(1960,12)、北主導の統一の可能性

1960年、南に民族解放戦線が作られ、ジェム政権打倒のゲリラ活動を始める。国土の 6割は解放戦線が支配。
・ ケネディは1年経たずにベトナムは共産化すると心配。ベトナムはソ連共産主義の手先であると考えた。
・ 1957年、ソ連はスプートニクを上げ、1960年にはガガーリンが飛んだ。フルシチョフはソ連経済は10年でアメリカを追い越すと豪語していた。
・ 43歳で大統領になったばかりのケネディはフルシチョフに負けられないと思った。ミュンヘン会談でヒトラーに妥協したチェンバレンの弱腰がナチス台頭を許 したとし、ベトナムは試金石となった。ケネディは経済援助を拡大し、民主主義体制を建設し、自立経済を発展させれば南ベトナムをつなぎ止められると考え た。

      =アジアの共産化の恐れ(ドミノ理論)
         ∴アメリカのジェム政権援助


ベトナムが共産化すれば他国もそれにならう恐れ。「ドミノ理論」。イン ドシナが共産化するとマレーやビルマが防衛できなくなり、インドは包囲され、インドネシアの資源は保持できなくなる。
・ 中国が共産化して日本の市場ではなくなったため、アメリカはアジアでの同盟国の日本をつぶさないため、東南アジアを日本市場として確保しておく必要があっ た。太平洋は「アメリカの湖」であり、日本が東南アジア市場を失って失墜し、国内左派勢力によって中ソにくっついたら、太平洋は「共産主義の湖」になる。
・ ケネディはサイゴン政権に軍事顧問団1万6千を派遣してこれを抑えようとした。

 3 ベトナム戦争の勃発(1965)
    トンキン湾事件で軍事介入(北爆)

・ 1964年8月、トンキン湾で哨戒活動中のアメリカ駆逐艦がベトナム軍に魚 雷攻撃されたというトンキン湾事件が起きる。上院は88対2で戦争遂行の白紙委任をジョンソン大統領に与え、北爆を決断した大統領支持率は 4割から72%まで上がる。9.11後のブッシュの時に似ている。
・ 事件は米軍のでっち上げという。ベトナム主張の領海は12海里、アメリカは3海里としていたので、挑発は戦争になる可能性があった。盧溝橋事件と似てい る。魚雷攻撃はソナーとレーダーの誤読だったとされている。
・ 1965年3月からは地上軍展開。1968年には50万人投入。のべ250万が投入されている。
・ 1972年の南ベトナムの航空機数は2000機を超えて世界4位、兵力は80万人で世界10位。

    以後、北ベトナム人民軍+南ベトナム解放戦線(ベトコン)と交戦、泥沼化

・ ベトコンのゲリラは農村で生活して農民に紛れる。支持者の農民も敵となり、ナパーム弾、枯葉剤を使う。泥沼化。
・ 北ベトナム軍はジャングル戦に引き込む。地雷を敷設し、トンネルを掘って神出鬼没に登場して攻めた。「今どこにいるかさえわからない。精神がふらふらに なって気が狂いそう」。アメリカ兵は戦意が低かった。当時は徴兵制をとっていて、戦いたくない兵がたくさんいた。
・ 「よいベトナム人は死んだ者だけ」。南ベトナムの米軍基地内にもゲリラがいたりする。ジャングルではブービートラップや落とし穴、毒虫や毒蛇がわんさかい る。兵士の2人に1人はマリファナを吸い、4人に1人はヘロインに手を出し、10人に1〜2人は重症。1967〜71年の脱走者の数はのべ35万人。10 分に1人が脱走。曽我ひとみさんの旦那のジェンキンスさんは韓国にいて、ベトナムに連れて行かれそうだからということで脱走している。
・ ベトコンや北ベトナム軍は戦意旺盛。1967年、ホーチミンは「独立と自由ほど尊いものはない」と声明。毎年20万人が徴兵される。アメリカ兵とベトナム 兵の差は、日中戦争の日中の兵の差と同じ。
・ アメリカは新兵器を開発して使う。10数万個の鉄球が飛び出すボール爆弾。釘か飛び出す釘爆弾。地面すれすれで爆発して周囲の人の下半身を直撃するデイ ジーカッター。いずれもクラスター爆弾と呼ばれるもの。800度の高温を出すナパーム弾や嘔吐ガス、催涙ガス。枯葉剤はジャングルを消滅させるためのも の。9万トンを撒き散らし、ダイオキシンは数百キロ含まれていた。
・ 枯葉剤を撒いたところで生える草は、今も動物が食べられない。食物連鎖でダイオキシンが人間の体内に入り、二重胎児が生まれる。ベトちゃんドクちゃんの分 離手術は日本でやったが、枯葉剤を作ったのは日本だった。泥沼化により毒ガスや生物化学兵器を作った日本と同じ。
・ 膠着状況になったのを見て、1968年1月、ベトコンは旧正月を期してテト攻勢に出る。アメリカは北爆を停止して妥協を図る。しかし、1970年3月、カ ンボジアで外遊中のシアヌーク元首がロン・ノル首相に追放され、シアヌークが北京でカンプチア民族統一戦線を作ると、アメリカは北ベトナムへの補給路を断 つとしてカンボジアに侵攻。
・ ソ連は戦車や重砲を北ベトナムに提供。8000人の軍事顧問を送る。

B ベトナム戦争の影響
 1 ベトナム景気
    後方基地としての日本の協力

・ 佐藤はアメリカを支持し、沖縄返還を目指す。
・ 沖縄と本土からB52が出撃。ベトナム戦争の軍事基地となる。枯葉剤なども日本で調達。羽田利用航空機の40%は米軍チャーター機。国鉄も米軍物資輸送。 ベトナム戦争では嘉手納基地からB52が出撃。沖縄がなければベトナム戦争はできなかった。ライシャワー駐日大使は「沖縄は100万人が住むアメリカ植民 地」と言っている。
・ 空母6隻、700機の基地は横須賀や佐世保。修理や補給をする。医療保養基地として、30万の負傷者の75%は日本で治療。肉塊がついたままの戦車がその まま日本に送り込まれる。
・ ベトナム戦争特需=輸出総額の1〜2割。トイレットペーパーからミサイルまでベトナムに供給した。
ベトナム景気で儲かるが、加害者の一部。国際世論は日本をアメリカに次ぐ戦犯とした。
・ 実際には韓国が最大の利益享受国になる。輸出は6倍、2万人が南ベトナムに出稼ぎに行き、
外 貨の2割を稼いだ。「漢江の奇跡」はこれで実現した。

      cf)反戦運動の高揚(べ平連)

・ 反戦デモ=1965年には東京で30日、100万人参加。「ベトナムに平和を!市民団体連合」結成。
・ フォーク集会がいたるところで開かれる。フォークソングは反戦歌として広まる。サイモンとガーファンクルなどが代表。良心的徴兵忌避として、ヒッピーなど が登場。

 2 アメリカの経済的・政治的後退
    長期化して経済破綻

・ 1年分の国内総生産にあたる5000億ドル以上を投入。一人殺すのにいくらかかるかの計算では30万$。当時は1$=360円なので1億800万円。物価 を考えると今なら5億円以上。毎年20万人増えるベトナム兵を皆殺しにするにはいくらになるのか。100兆円である。北爆経費は1回で8万$。B52は遅 いのでよく落とされ、空中戦では互角だった。
・ 金準備が底をつく。大戦後の世界経済は、世界の金の3分の2を持つドルを基軸としていた。ドルだけが金との兌換可能。
・ 復興のためにドルをばらまくが、立ち直った国がアメリカの製品を買うのでドルは戻ってくる。しかし、これらの国が生産を再開すると戻らなくなり、戦費をつ ぎ込むと苦しくなる。

     =ソ連との軍縮交渉が必要となる

・ ソ連はアメリカに匹敵する核兵器を持つまでに成長。ニクソンは、ソ連と緊張 緩和をおこない、軍事的均衡を保つ作戦に出た。核軍備管理交渉=SALT
ソ連との交渉を有利にするために、ソ連と対立している中国と手を結ぶことにした。 敵の敵は味方。

      →中ソ対立を背景に米中接近、

中国とソ連の間では「中ソ論争」が展開。中国は帝国主義との対決を掲げてソ連の態度が アメリカと妥協的だとして批判。ソ連は中国への援助を打ち切り、技術者を引き上げる
・ 中国は土地共有と共同労働の主体である人民公社を建設。経済が混乱して毛沢東は退く。トウ小平らの右派が主導権を握る。毛沢東は文化大革命で巻き返し。資 本主義に走る右派を吊し上げるために大衆運動を組織。紅衛兵が右派を駆逐。混乱の時代となる。
・ 1969年にはウスリー川沿いの中ソ国境で軍事衝突。ソ連が中国に対して核攻撃するという噂も立つ。

       ベトナム放棄

・ ジョンソンの次に大統領になったニクソンは、ベトナムからの「名誉ある撤退」、アメリカ経済の立て直しを使命とした。ニクソン・ドクトリンは逆転の発想。
ベトナムの共産化を認めても、他に広がらなければよい。中ソを分断して中国と手を結べ ば、東南アジアの共産化を防げる。
ニクソンは沖縄返還も考える。ベトナム戦争が終われば当面は用がない。統治費用がかか るので、返してほしい日本に恩を売り、経費節減にもなる一石二鳥

C 米中国交回復
   ニクソン訪中=米中共同宣言(1972.2)
    →米:中華人民共和国を唯一の合法政府と承認
     中:ベトナム支援の停止

・ 1972年2月、ニクソン訪中。アメリカは台湾から撤兵し、以後は独立を支持しない。北ベトナムに対して南ベトナムとの交戦をやめて統一交渉を呼びかけ=アメリカがベトナム戦争から手を引くことを約束。

   ∴ベ トナムから米撤退(1973.1)、サイゴン陥落(1975)

・ 1973年1月、パリでベトナム和平協定。米軍撤退。
・ 1975年3月からの攻撃で北ベトナムがサイゴンを陥落させる。アメリカがベトナム戦争終結宣言。1976年、北ベトナムによって統一される。

[戦後の終了]
A 佐藤栄作内閣(1964〜72)

・ 1964年9月、池田勇人は入院。喉頭ガン。オリンピック開会式には出席したが、閉会式には出られず。後任には佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎が名乗りを 上げ、池田の裁定で佐藤になる。岸信介の実弟、妻のオジは松岡洋右。東大卒。戦後、吉田茂に認められる。池田路線の継続を約束して総裁。
・ 7年8カ月、内閣制度始まって以来の長期政権。有力ライバルがいず、派閥内には人材豊富。社会党が低迷し、公明党ができるなど野党勢力が分裂。

    対 米協力で沖縄返還目指す

・ 沖縄返還を政治目標=1965年、首相として初の訪沖。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わっていない」。そのためには徹底した対米協力 が必要。
・ アメリカは多額の対韓援助をしていたが、日韓国交によってアメリカの肩代わりをすることができ、恩を売って沖縄返還にこぎ着けられると読んだ。

 1 日韓国交正常化
     cf)韓国併合の歴史認識問題で対立

・ これまでの交渉は厳しかった。1952年、一方的に日本海に李承晩ラインという漁業ラインを設置して、入る日本漁船を拿捕するなど強硬姿勢。陸地から遠い ところで199カイリ。国際常識は領海3カイリ。日本人漁民4万人が打撃。越境漁船を拿捕して交渉取引の材料とする。
・ 1952年2月の日韓会談では、韓国併合をどう捉えるかで激論が戦わされた。韓国は一方的に日本が軍事圧力によって併合したもので、国際法上認められない とした。そのため、謝罪+賠償を求める。日本は韓国併合は韓国皇帝が調印したのであり、国際法上、違法ではないので、謝罪も賠償も必要ないとした。これが この後もずっと尾を引いてゆく。
・ 基本条約の文言をめぐる問題では、韓国は(1)併合条約は当初から無効という文言を入れよ。(2)日本人の在韓財産は没収する。加えて22億ドルの賠償を 求める。(3)在日韓国人は「特殊外国人」とし、全てを韓国籍としろと主張した。実際には、韓国の軍事政権を嫌い、北朝鮮国籍を求める人がかなりいた。こ の人たちは生まれは朝鮮半島南部でも、当時は北朝鮮が地上の楽園と言われ、民主的で工業も発展していたとされたため、かなりの憧れがあった。
・ 日本は基本条約の文言について、(1)韓国併合は韓国も納得の上でやったことなので有効である。併合条約が無効になったのは戦後とした。これは、当初から 無効であれば、それに対しての賠償請求をされるのを嫌ったものだった。(2)日本人の朝鮮に持っていた財産没収はハーグ条約違反とし、46億ドルの返還を 要求。(3)全員を韓国籍にするのは無理。
・ 折り合いがつかず、日本は韓国側要求を拒否し、4月に打ち切り。
・ 1953年10月、第3回会談。久保田貫一郎の発言で決裂。日本統治は朝鮮の近代化に寄与したとした。「鉄道や港湾を作るのに年に2000万円も出した」 「それは韓国人のためではなく、日本人のため出したのであり、警察や刑務所も作ったのだろう」。韓国は軍国主義、植民地支配を正当化していると反発。

    日:韓国への経済進出、韓:経済援助、米:援助の肩代わり望む

・ 李承晩は1960年に失脚。ユン・ポ・ソンの第二次共和制となる。1961年、朴正熙がクーデターで軍事政権。政権不安定であるため、経済五カ年計画のた めの資金を日本に出させたかった。失業者数百万、労働者の賃金は日本の3割、農村にはほとんど電灯がない。
・ アメリカはベトナム戦争に韓国兵を出させるため、日本に韓国経済援助を実行させたい。

       but対日請求権、李承晩ライン撤廃で難航

日韓正常化交渉は韓国の対日請求権、日本側の李承晩ライン撤廃で難航。対日請求権取り 下げの代わりに経済援助の方針で話し合われる。
・ 1964年、ソウルで学生デモ。36年の植民地支配の補償を6億ドルで取り引きし、漁民の生命線を開放することに反対。中断。
・ 1964年12月、交渉再開。日本側首席の高杉晋一は「日本は支配していいこともした。あと20年支配していたらよかった。工業や家屋も置いてきた。創氏 改名もよかった。謝れというのは勝手だ」。「メガトン級の妄言」とされた。韓国の反日感情が高まる。
・ 2月、椎名悦三郎外相が渡韓。金浦空港で「深く反省する」。反対デモは「伊藤博文の代わりに椎名が来た」。椎名は必死で説得して仮調印。

   →日韓基本条約締結(1965)
     併合条約「もはや」無効、経済協力、

・ 最大の争点は、併合条約が国際法上、有効なのか無効なのかを明記すること。日韓基本条約(1965年6月調印)では、「1910年8月22日以前に結ばれた条約は「もはや」無効。」とし た。
・ 韓国は1910年8月22日という併合条約締結の日を入れることで、併合条約は無効だと主張したかった。日本はこれを受け入れる代わりに「もはや」を入れ させたのである。
・ 併合条約以前の条約は無効だというのだから、具体的には日朝修好条規や日韓協約などと併合条約を指す。
・ 「もはや」無効とは、「今となっては無効」と解釈できる。それであれば、かつては有効だったことがあると言える。日本は8月22日の併合条約は国際的に合 法であり、この基本条約締結で無効になったものと文言を解釈することができる。
・ これに対し、韓国は「もはや」を無視し、初めから一連の条約は無効だったと解釈し、韓国併合は違法だったとする。それぞれこの見解で国民に説明したため、 両国民間で意見が対立することになった。これがそれぞれの国の反目の理由である。日本は併合は合法だったのだから謝罪する必要はないとし、韓国は違法だったのだから謝 罪すべきだとする。
・ 日本は併合は合法なので、謝罪や賠償はいらないとし、経済協力の名目で無償 供与2億ドル、長期低利2億ドルを出すことにした
・ 北朝鮮と対立する韓国は、半島における唯一合法政府であることを認めろと要求した。そうすると、日本は北朝鮮とは国交を結べなくなる。条文では「国連決議 で明らかにされた朝鮮の唯一の合法政府」とした。国連決議は朝鮮戦争の停戦ラインを示し、韓国統治権は38度線以南とされている。このため、国連決議で明 らかにされていない北の政権の存在を暗示するものとなった。
・ 李承晩ライン撤廃。漁獲量などを規制した。
・ 「謝罪」と「賠償」は拒否した。植民地支配の責任を曖昧として経済成長路線 をとる。「請求権問題は完全かつ最終的に解決」とし、強制労働などの未払い賃金を請求できないとした。

     在日韓国人の法的地位決定

・ 在日の朝鮮半島出身者は、終戦となっても半島に帰る手段も行き場もなかった人たち。もともと土地を取り上げられたりして生活できなくなっていた小作人が日 本に来たりしたものなので、200万人いたうちの60万人はそのまま日本に住むことになった。「朝鮮」籍であるため、様々な点で日本国籍を持つ者とは異な り差別される。
在日韓国人は、戦前からの在住者の孫の世代まで永住権(1991年に在日3世以後も永 住認める)。選挙権はなく、公務員への就職も原則として拒否。
・ 「朝鮮」籍の人は韓国籍に変えた方が有利なので国籍を変更する。しかし、故国の分断を認めない人は「朝鮮」籍のまま。
・ 差別をされないためには日本国籍になる必要がある。しかし、日本は二重国籍を認めていないため、韓国・朝鮮籍を捨てなければならない。日本にいても文化的 には朝鮮民族という誇りがあり、帰化申請はあまりされなかった。

  ※分断固定、韓国軍事政権援助への批判

・ 日韓ともに反対運動が激しく起きる。韓国→謝罪・賠償が必要。日本→分断を固定し、朴軍事政権を経済的に助け、米・日・韓の軍事同盟ができる。

 2 沖縄問題
    米軍の沖縄支配(琉球政府による間接統治)

・ 中国は沖縄の所有権を主張したが、蒋介石はカイロ会談で所有権を辞退し、米中共同信託統治に同意した。
・ 戦後、米軍は信託統治することを主張したが、国務省は財政負担が大きいとして日本返還を主張していた。沖縄は、アメリカ政府にとってはどうでもよかったの である。
・ 日本本土に対し、沖縄はアメリカ占領下でも民主化の対象外であった。民有地が軍用地に囲い込まれて生活難となる。
・ 沖縄では沖縄民主同盟、沖縄人民党が結成され、日本復帰より独立を唱えるようになる。一方、天 皇は、1947年5月、講和後の日本の安全を守るため、アメリカが沖縄の軍事占領を続けること、日本の主権は残して長期貸与の形をとることを提案してい る。
・ 1948年の対日政策転換により、沖縄をアメリカの軍事基地とする方針が出された。5000万ドルを投入して基地拡充。住民を基地に雇用して基地に依存さ せる作戦。朝鮮戦争でアジアの東西冷戦が激しくなったため、中国を牽制するためにアメリカとして は手放せなくなった。これがサ ンフランシスコ平和条約で米軍の直接支配とされた理由である。
・ 1952年、長期保有に備えて琉球政府を置く。行政府、立法院、上訴裁判所からなる。行政主席は米軍極東軍司令官が任命。立法院の法律も拒否できる。
・ 1953年、ダレスは奄美の返還を行う一方で、極東に緊張関係が続く限りは沖縄を保有すると声明。

    →軍事基地化、土地収用で基地に経済依存

・ 1953年、土地収用令立ち退き拒否の農民の目の前で、ブルドーザーで家を押しつぶす。地代は1坪でタバコ1箱の値段。
・ 「ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない」。
・ 産業がなくなり、基地が雇用の場となる。

      cf)基地被害、

・ 少女暴行殺人や強姦事件が相次ぐ。
・ 1959年6月、石川市の小学校にジェット機墜落。17人死亡、121人負傷。
・ 1963年2月、下校途中の中学生が横断歩道を横断中、米軍のトラックが突っ込み、死亡させる→沖縄側には米人の逮捕・裁判権がないため、米軍が逮捕。 「夕日で信号が見えなかった」の言い訳で無罪。賠償金を要求したが、支払いは約束の4分の1。

        島ぐるみ闘争、

・ 1954年、米軍接収地の41%は民有農地を奪ったもの。借地料が安いので値上げの闘争がおこなわれる。これに対し、米 軍はその16年分を払い、代わりに永代借地権を設定しようとした。問題のすり替えだとして一斉に住民大会開かれる。琉球政府はアメリカに撤回求めるが、米 下院のプライス委員会は勧告を出して押し切ろうとする。
・ 1956年、アメリカのこのやり方に対して島ぐるみ闘争が発生する。日本でも反対運動が起き、衆院は施政権返還を決議した。ア メリカは琉球大学への援助を打ち切るなどして抵抗。デモが起きるとオフリミットを出し、米人が民間地に入ることを禁止する。表向きはデモから身を守るとい うことだが、実際には沖縄の人が経営する店でものを買うことができなくし、経済的に困らせるもの。
・ 結局は借地料を2倍に引き上げて妥協した。

        祖国復帰運動

沖縄の人たちは、基地被害をなくすには本土復帰しかないと考えた。1960年4月28 日、沖縄県祖国復帰協議会発足。サンフランシスコ条約発効の日で、「屈辱の日」=沖縄デーとなる。4・ 28沖縄デーは定着し、北緯27度線で海上集会が開かれるようになる。

  施 政権返還(1972)
     米=ベトナム戦争失敗で維持できず(核抜き、本土並)

・ アメリカはベトナム戦争の失敗で経済的に追いつめられ、沖縄を維持するのが大変になっていた。日本に軍事的分担をさせた方がよいし、日本政府も祖国復帰運 動を無視できなくなった。このため、日米政府間で返還に向けての話し合いがされた。
・ 沖縄住民は即時・無条件・全面返還→「基地のない平和な島」を希望していた。しかし、この条件での返還は難しい。政府間では基 地を維持して施政権だけ返還する話し合いがされた。「太平洋の要石」として残すのである。この際、外 務省は核兵器撤廃も無理と考えていた。しかし、アメリカはICBMと韓国に核を持っているため、沖縄の核抜きは認めるのではないかと佐藤は判断した。佐藤 は非核三原則を掲げて交渉をおこない、これでノーベル平和賞をもらっている。
・ 最終的には1969年に日米共同宣言が出され、「核抜き、本土並、72年返 還」でまとまった。基地使用はアメリカの自由ではなく、本土と同じ扱い。核兵器は撤去するというもの。し かし、実際には水面下で緊急時の核持ち込みと通過を認める書類を取り交わしている。1972 年5月15日返還。

    but米軍基地残り、本土資本による乱開発

・ 返還日程が決まって沖縄の人たちの運動は下火になったが、基地が残ることが明らかになって反発が再燃した。
・ コザ暴動=1970年12月19日、米兵の車が日本人をひく。群集が事件の検証に来たMPに不当な取り扱いをしないよう要求したのに対して小競り合いと なって発砲。5000人が外人車両などに火をつけた。
・ 1975年、政府は沖縄振興のために沖縄海洋博を開く。山を崩した赤土で珊瑚礁を埋め立ててリゾートホテルを建設した。本土資本がホテルを建て、従業員と して安価に沖縄県民を雇用する構造が作られる。
沖縄には今も日本全体の米軍基地の7割以上が集中している。その後も基地 返還を求める運動は続いていて、沖縄の戦後は終わっていない。

B 田 中角栄内閣(1972〜74)

・ 佐藤は1969年に沖縄返還を決めて総選挙大勝。1970年の大阪万博の時期が絶頂期。沖縄返還まで首相を務めたいとして総裁四選。公害問題が深刻化して 人気が落ちてくる。
・ 日中貿易は年限を切った契約で実施。毎年金額が伸び、1960年代後半には、中国の対外貿易第一位の国は日本となる。経済界には、日中国交正常化を求める 声が出てくる。
・ 佐藤は中国についてはアメリカに気を使って接触しなかった。しかし、蜜月のはずの日米関係が、佐藤に事前通告なしにニクソン訪中がおこなわれた。佐 藤は沖縄返還の翌月に引退表明。
・ 佐藤後は三角大福中と呼ばれる。田中と福田が次期総裁を争い、田中がかろうじて当選。戦後最年少首相の54歳。新潟の農民の出で高等小学校卒業後、苦学し て夜間の専門学校を出る異色の人物。「今太閤」「コンピュータ付きブルドーザー」。
・ 2大目標=列島改造。日中国交正常化。

 1 日 中国交回復

・ 1952年、日本は国民政府(台湾)と日 華平和条約を調印した。国民政府は 全中国の合法政権の立場で賠償を要求し、条約の適用範囲を全中国にしろというが、日本は反対した。結局はアメリカが中に入って調整し、無賠償となり、適用 範囲は「現に支配下にあり、今後はいる領域」とした。
・ 吉田は北京との交渉ルートを残しておきたかったが、国民政府との条約に対して中国は反発し、「日華条約は露骨な戦争挑発行為」と非難する。このため、断交 状態が続いていた。
・米中国交回復がおこなわれたため、日本はアメリカを気にせずに中国と接触できる可能性が出てきた。しかし、日本が中国と国交を結べば、台湾とは断交する 必要が出てくる。また、日 中国交正常化のための最大の懸案として、対日賠償請求問題が浮上した。
・大きな被害を受けた中国では、賠償金が入れば一軒に一台テレビが入ると期待されていた。しかし、「賠償、賠償」という話が出たことで、
自 民党内80人の親台湾グループが「賠 償を放棄した蒋介石への恩義を忘れるな」と、日中国交に反対の主張をするようになった。このままだと正 常化は遠のく。
・ 周恩来は、早急な国交回復を目指していた。対ソ関係が悪化していたため、日本と国交を回復することが押さえになったし、経済協力 もほしかった。そのため、中国は賠償放棄を宣言し、国交正常化のための壁を取り除くことにした。 これを国民に説明するため、(1)台湾の蒋介石も放棄したのだからそれと同じ度量を示すべき。(2)日本に台湾との断交を促せる。(3)日本人民も軍国主 義者の犠牲になったのであり、被害者である。彼等はすでに戦犯として処刑されたのだから、日本人民に負担をかけてはいけない、という理屈が立てられた。満 州での説明集会ではすすり泣きが漏れたという。

    日中共同声明(1972)
     中華人民共和国=唯一の合法政府(台湾はその一部)と承認
     中国の賠償放棄

・ 中国が柔軟であると見て9月に田中が訪中。共同声明を出す
・ 日本は、これで国際国家として歩む前提が整った。しかし、日本はGNP第2位の国だが、外交関係修復にはアメリカに依存していたことが分かる。また、中国 の状況につけ込んで過去の戦争への反省もないままで関係修復をしている。
・ 中国には「多大な損害を与えたことに責任を痛感し、深く反省する」と宣言には書いた。しかし、田中はレセプションで「迷惑をかけた」と発言したものの、外 務省は「マーファンニーラ」(足を踏んだときに言うゴメンネ)と約してひんしゅくを買う。
賠償金は支払わないとした代わり、政府開発援助(ODA)を出すことにした
・ 復興三原則=1、中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府、2、台湾は中華人民共和国の領土の一部、3、日華平和条約は不法無効であり廃棄する。こ のため、日本は台湾と断交することになる。「2つの中国」「1つの中国、1つの台湾」は否定された。
・ 「両国は覇権を求めるべきではない」という規定も盛り込む。ソ連を覇権主義として批判したもの。

      cf)日中平和友好条約(1978、福田赳夫内閣)

・ 福田内閣の時に平和友好条約締結。主権・領土の不可侵、内政不干渉などを約す。

 2 「列島改造」政策

・ 田中角栄は「日本列島改造論」を上梓。88万部を売る。地方への工場移転を 進めることとした。徳島や高知、沖縄に石油コンビナートを建設する計画。そのために高速道路1万キロ、新幹線1900キロを作ろうとした。 地方に25万都市を建設する計画。
・ 故郷の新潟に新幹線を敷くとして新潟選挙区では常にトップ当選。


     乱開発と金脈政治を生む

・ 開発予定地の土地が買い占められる。その面積は香川県に匹敵。地価は30%上昇、輸入物価指数も34%上昇した。「狂乱物価」と呼ばれる。
・ 1974年10月、雑誌に田中金脈問題として政治資金作りのカラクリが掲載される。これで辞任に追い込まれる。後任は副総裁の椎名裁定によって三木武夫。 「クリーン三木」を合言葉に田中金脈問題を追及。




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