<高度経済成長と経済大国化>
 特需景気→神武景気→岩戸景気→オリンピック景気→いざなぎ景気
   =年10%の経済成長GNP世界2位(1968)

・ 特需景気(50年)、神武景気(55〜57)、岩戸景気(59〜60)、オリンピック景気(64)、いざなぎ景気。
特需景気は朝鮮戦争で必要なアメリカの軍需物資の生産で起きた。 1949年の輸出総額は5億$。これが16億2000万$になる。
・繊維製品が売れ、「ガチャマン」「コラセン」景気 となる。
神武景気によって食糧難は解消し、バラック生活も終わった。1956年 の「経済白書」で「もはや戦後ではない」と記される。
・この間に賃金(1956→65)は2.2倍。年率 10%成長の奇蹟。同時期にアメリカは5.1%、西ドイツ4.3%、イギリス3.2%。
・1968年にGNP世界2位となる。1960年の 段階で1位=米、2位=西ドイツ、3位=英、4位=仏、5位=日本だった。しかし、一人当たりGNPは20位。
・海外では日本論が盛んになり、マクレーの「日は昇 る」では、日本の成功のカギを計画経済、高等教育の普及、設備投資、余剰労働力の活用、独特の銀行制度、集団的な忠誠心、優秀な官僚にあると指摘した。
・日本人がよく働いたのも事実。1960年は年間 2425時間。2004年は1840時間。年間600時間の短縮は1日2時間ずつの時間短縮。
・日本が経済大国になったことを自覚し、自信を持つ ようになったのもこの頃から。明治以来の欧米に追いつき追い越せの目標が達成された。

   ∴所得水準の向上=個人消費の拡大 cf)三種の神器、

モノの豊かさ=三種の神器と呼ばれるテレビ、洗濯機、冷蔵庫が1960年代に普及する
・テレビは1953年には18万円していた。教員の 初任給は1万円の時代なので、給料1年分。一生に一度のお買い物とされた。これが1956年には8万円、1959年には6万円となる。中所得層の年収は 40万円ほどになっていたため、月給2ヶ月分で買えるようになる。
・耐久消費財(1957→65)=テレビ:8% →95%。洗濯機:20%→78%。冷蔵庫:3%→69%。
・情報伝達手段であるテレビの普及が著しい。皇太子 ご成婚や相撲、プロレス人気が後押し。このため、宣伝を通じて家電ブームとなる。東京オリンピックを機会に普及した。
・洗濯機は家事労働を著しく軽減した。回転するのを 見ていると飽きない。盥と洗濯板からの脱皮。脱水機はないのでローラーの中を通した。
・冷蔵庫は上段に氷を入れるものが元。毎日氷屋が届 けにきていた。

      3C

1970年代には3C=自動車、カラーテレビ、クーラーの普及
・カラーテレビの本格生産は1964年。ほとんどは アメリカへの輸出品。1970年には白黒テレビの生産量を上回る。1971年には都市世帯の48%に普及。1965年の生産台数は10万台。1970年に 640万台になる。
・カラーテレビは真空管を使用した大型のもの。家具 のようなもので布をかけて置いてあった。メキシコオリンピックに日本はサッカーで3位になり、これをカラーで見ようということで普及した。新聞のテレビ欄 には「カラー」と記載。
・1965年の四輪乗用車の生産は69万台。 1000ccクラスが大衆車として売り出されることで普及。日産のサニーとトヨタのカローラ。
・カローラは1966年に発売開始。42万7千円。 大卒初任給は2万5千円で17倍。1970年には318万台になる。保有台数は毎年30%〜50%伸びた。1965年末が218万台。1970年末は 878万台。
・東京オリンピックに際して名神高速道路が一部開通 する。大阪万博の時に東名名神が全通し、自動車で万博に行こうというのが売りだった。

[高度成長の背景]
1 民間設備投資拡大(技術革新、重化学工業化)


・ 技術革新は外国技術の導入で促進される。1950〜54年に446件、1955〜59年に577件、1960〜64年に2039件、1965〜69年に 3926件、1970〜72年に4792件。自前の技術ではない。企業からたくさんの視察者が欧米に飛び、新製品の発表ではスライドが変わる度に日本人が カメラで画面を撮影していた。
・規模の利益を追求する。製鉄の高炉は1000立方 メートル、年産35万トンが、5000立方メートル、年産450万トンになる。造船では溶接工法の進歩で4.5万トンの船を造るのがせいぜいだったのが、 50万トンの船もできるようになる。
・材料革命により、合成繊維、プラスチック、合成ゴ ムが天然素材を凌駕する。
消費革命で作れば売れるし、オートメーション化で生産コストは下がった。
・この中で、ソニー、積水化学、吉田工業、本田技研 など著名企業になるものもこの時期に出現する。

    貯蓄率の高さ

・ 設備投資に必要な資金はどこから来るか。一番よいのは株を発行して直接資金を到達すること。しかし、この時期、外部資金への依存率が60%。このほとんど が銀行から借入だった。
・どうして銀行がこれだけ資金を持っていたか。これ は日本人の貯蓄率の高さによる。貯蓄率は20%を超え、米英の2倍。
・社会保障が充実していず、老後や住宅資金として貯 めていたものだった。実際にはインフレの進行で目減りしていった。

2 公共投資によるインフラ整備(道路・港湾)

社会資本を充実させる政策が成功した。道路、港湾、鉄道、空港。新幹線や高速道路。 60年に政府支出の35%だったものが70年は52%。大企業による技術革新、企業合併も相次ぐ。

    臨海工業地帯の建設

1960年の所得倍増計画の中で、太平洋ベルト地帯構想が出される。10年間で四大既 成工業地帯をつなぐ臨海工業地帯の建設を目指すもの。中心は鉄と石油化学。
・川崎製鉄が千葉に銑鋼一環の生産体制を作るために 高炉を建設。住友金属は和歌山、神戸製鋼は灘に高炉を造る。
・石油化学コンビナートとして日本石油は川崎、三菱 油化が四日市、三井石油が岩国に開業。
・地元が企業を積極的に誘致した。「中京に製鉄所 を」をスローガンに富士製鉄を今の東海市に持ってきて、名古屋南部工業地帯を作っている。

3 国内市場の拡大
   労組が春闘で賃金上昇へ

・ 当初、アメリカの指導のもとで作られた日本労働組合総評議会は、1951年に路線を転換し、再軍備反対、全面講和、中立堅持、軍事基地反対という反米的主 張をするようになる。「ニワトリからアヒルへ」。
・この後、破防法反対、労働法規改悪反対など政治的 主張を前面に掲げる政治闘争をおこなった。しかし、結果は組合側の敗北に終わる。
・1955年、総評は路線を転換し、労働組合運動の 基本を賃上げや時短という経済闘争中心に据えることにした。
・日本の労組は企業ごとに作られているため、一つの 労組が賃上げを求めてストをすれば、他の企業の利益になる。このため、同一業種の企業同士が結集し、同一時期に要求を出して争議をすることにした。これが 春闘であり、1960年の参加者数は440万人になった。
春闘は効果があり、労働者の賃金の上昇が消費を支えた。このためにか えって政治闘争も有効におこなわれるようになる。それで総評は安保闘争の主役となった。しかし、政治闘争への回帰に批判的な勢力は分裂し、最終的には全日 本労働総同盟(同盟)を作ってゆく。

   生産者米価引き上げで農業所得拡大

米は政府が一括して買い取る食糧管理制度のため、農村票を確保するためにも米価の引き 上げがおこなわれた。これによって農家の所得は増え、農業の機械化も進んだ。
・耕耘機の普及が目覚ましい。1955年で6万台だったものが、1960年には52万台となった。水田の3分の1は機械で耕す。

・1955年、米は1240万トンの大豊作。戦前の 水準を40%上回る。これが1960年には1290万トンとなり、史上空前となった。
・しかし、日本人の米消費はこの頃から下がり始め る。戦前のピークは米騒動の頃で、一人当たり年間171キロ。これが戦後最大の1962年でも130キロ止まりだった。
・勤労者所得はさらに伸びていたため、農家所得はそ の7割にすぎなかった。

    cf)農業基本法による農業構造改善(農薬、圃場整備)

・ 1961年に成立。工業優先の経済成長の中、農業をどうやって振興するかということからこの法律ができた。農家と勤労世帯との生活均衡を確保。畜産3倍、 果樹2倍に拡大。農業所得だけで食べられる自立経営の育成しようとした。そのためには、小規模な農家に撤退してもらい、土地を集積して大規模農家を育てる 作戦だった。
・ 農業基本法は前文のついた宣言法であり、直接的な規制力はない。そ のため、実際には小農は土地を手放さずに兼業化を進め、農業 は「三ちゃん農業」「日曜農業」の形態で続けられたため、農家規模の拡大は 実現しなかった


      but規模の拡大につながらず=兼業化、労働力の都市流入

・ 1町の農地に機械を入れ、農薬を撒くと、労働生産性が高まり、農家は暇になってしまう。この分で兼業ができるようになる。工業が農村の余剰労働力を吸収し、都市移住が進んだ。

4 低廉で優秀な労働力

・ 「金の卵」と呼ばれる中卒者が集団就職で都会に出てくる。紡績会社では企業内に高校を作り、若年労働力を集めた。
・1958年に鹿児島から大阪まで就職列車が走り、 中卒の子供たちを運んだ。以後18年間、ピーク時には8万人がこれで東京、大阪、名古屋の都会に出ている。

   終身雇用、年功序列、企業内労働組合による忠誠心労働生産性の高さ

・ 高度成長期にはどうして今よりも600時間も多く働いたのか。さぼろうという者はいなかったのか。日本的な雇用体系に鍵があった。
・「金の卵」を雇えば、会社で教育に力を入れて人材 育成をしなくてはならない。一人前にするにはカネがかかる。そうして育てた人材は手放せない。そのために終身雇用が原則になる。
・働く側が途中で辞めたいといい出すと困る。長く働 ければその分だけ給料が上がる賃金体系にする。
・働く者が辞めないので労働組合も企業別に作られ る。
・同じ釜の飯を食った仲、運命共同体になってゆくの で会社に対しての忠誠心は高い。一生懸命に頑張って働いて会 社を儲けさせることが自分たちの生活を豊かにすることにつながる。これでよく働いたのである。
・OECD調査団から三種の神器と言われる。実際に は中小企業では存在しなかった。

5 自由貿易体制の利用

・ 自由に貿易できる体制は、他の国と同じ条件で輸出競争すれば、あとは儲けたもの勝ち。日本はこれで勝ち残った。

   貿易自由化(FA制→AA制、輸入制限撤廃)

・ 民間に勝手に貿易をやらせてモノを輸入し続けると、カネが出て行ってしまう。
・そのため、初めはほとんどの品物にFA制がとられ ていた。これは外貨割当制。FAだとその品物を輸入するのに使ってもよい外貨が割り当てられていて、それを超えては輸入できない。
・これが徐々にAA制に切り替わる。これは自動承認 制。AAだと輸入してしまっても承認される。
・1960年の貿易・為替自由化大綱によって多くの 品物の輸入制限が撤廃されてゆく。AAの割合を自由化率と呼び、1960年は41%、1962年は88%となり、自由化されていないのは農産物だけとな る。

   IMF(国際通貨基金=貿易赤字補填)の8条国へ(1964)
      →貿易赤字で資金移動制限不可

・ 1964年、日本もIMF8条国になり、貿易赤字が起きても資金の移動に制限できなくなる。IMFは世界の自由貿易を推進するための機関。貿易赤字が生じ たとき、自国経済を守るために資金が海外に流れ出ることを制限する場合がある。しかし、これを勝手にやられると貿易が沈滞してゆく。そのため、加盟国がお 金を拠出しあい、赤字になった国にお金を貸してやるのがIMF。
・IMF加盟国はお金を貸してもらえるので、自由貿 易を阻害するような資金の移動を制限してはいけない。しかし、発展途上国は貿易赤字が続くため、永久にIMFからお金を借りることになってしまう。このた め、IMF14条で途上国は資金の移動制限が認められていた。日本は、それまでは、外国からたくさんモノを買えば円が流出して赤字。この時に円を支払うな と命じられた。しかし、経済発展のお蔭で、普通の貿易の際に資金移動を制限してはいけない8条国の仲間になった。
・この年まで、日本人の海外渡航も制限されていた。 一定額以上の円の持ち出しも禁じられていた。

   OECD(経済協力開発機構)加盟(1964)

・ OECDは1961年に欧州18カ国と米・加によって結成され、貿易や金融で協力して発展途上国の経済発展に協力する。先進国クラブとかお金持ちクラブと 呼ばれ、これに入ると資本の自由化に務めなければならない。外国が日本国内に企業を設立するのに拒否できない。

      →資本自由化
   自由化圧力に耐える
      →1$=360円の有利な為替相場で輸出拡大(対米比率30〜40%)

・ 1ドル=360円の有利な為替相場、貿易の自由化の風潮で輸出が伸びる。
・1958年を境に対米比率がアジア向けを追い越 す。これと日米安保が続く限り、対米追随・依存の構造は変わらないことになる。
・1990年代に入って対アジアがアメリカ向けを追 い越す。2004年に日中貿易が対米貿易を上回った。

6 エネルギー革命(石炭→石油)

・ 1952年、石油の販売が自由化され、炉用燃料市場で重油への転換が図られる。
・石炭産業は需要減から貯炭量が増加し、生産制限を 繰り返す。このために高炭価となり、余計に需要が落ちる。

      cf)三井三池争議

・ 炭鉱では10万人の大量解雇が出ると噂。1959年末に発表された三井三池炭鉱の1200人解雇により、三井三池争議が起きる。

    安価な石油(メジャーによる原油支配)

・ 石油はアメリカを中心とする国際石油資本(7大メジャー=エクソン、モービル、カリフォルニア・スタンダード、ガルフ、テキサコ、BP、シェルなど)が採 掘権や販売権を握り、中東の原油を安い値段で買い占めていた。
・石油は1バレル当たり2.74$=約1000円。 1バレルは159リットル。このうちの4分の1くらいがガソリンの成分。現在の1バレル当たりの原油価格は45〜46$=約5000円。

[高度成長の結果]
1 経済力強化=国民生活の向上
   都市中産階級の登場(核家族、
専業主婦)

・ 1960年代の核家族率は6〜7割。
・ 男は仕事、女は家事の家庭内分業が形成される。

2 六大企業集団の形成=財閥系企業の再結集
    cf)独占禁止法の緩和(1953)
   三井・三菱・住友・芙蓉・第一勧銀・三和

・ 企業が経営してゆくためには資金が必要。これをどうやって調達するか。欧米は株式を発行して広く調達するのが普通であるのに対し、戦後日本の企業は銀行か ら借り入れることが多かった。
・旧財閥系の銀行が解体されずに残っていたため、旧 財閥系企業がここから長期低利融資を受けることができた。

     =銀行を核、株の持ち合い、主要産業網羅(法人資本主義)

・ 四大財閥五大銀行を核として鴻池銀行が加わる。
・三井グループ25社=三井銀行、三井物産、三井不 動産、三井生命、東芝、東レ
・三菱グループ28社=三菱銀行、三菱重工業、三菱 商事、三菱電機、明治生命、キリンビール
・住友グループ20社=住友銀行、住友金属、住友化 学、住友生命、日本電気
・芙蓉グループ27社=安田銀行、安田生命、日立製 作所、サッポロビール
・第一勧銀グループ48社=第一勧銀、伊藤忠商事、 川崎重工、清水建設、昭和シェル石油、富士通
・三和グループ44社=三和銀行、神戸製鋼、日商岩 井、シャープ、コスモ石油
・戦前の財閥は得意なジャンルがあり、三菱は造船な どの重工業と海運、三井は石炭と貿易などと分かれていた。戦後は新分野に積極的に乗り出したため、どの企業集団も新興産業をワンセットずつ支配するように なる。自動車であれば、三井→日野自動車、三菱→三菱自動車・本田技研、第一→いすゞ自動車、住友→東洋工業、三和→ダイハツ工業であり、トヨタ、日産、 富士重工は興業銀行が資本提供していた。
・系列企業は株を持ち合い、財閥がピラミッド型のコ ンツェルンを作ったのに対し、マトリックス型の資本系列を作る。
・今は銀行の合併が生じたため、状況が変わりつつあ る。三井住友、東京三菱(三菱+東京)、みずほ(安田+第一勧銀)、UFJ(三和+東海)。

3 経済の二重構造
   農工間格差(農業人口減少、

・ 農業人口は1950年の1610万人が1965年には1086万人に減った。1980年には600万人になってしまう。就業人口に占める農業人口は 1950年に45.2%、1960年30%、1970年18%、2000年は5%。
新 卒の農業従事者は1955年に26万人いたものが、1960年には13万人になっている。農業の近代化のため、1町の農地しかないところだと働けなくなっ てしまった。裏作の麦価が安いため、「麦を作るより弁当持ちで働きに行った方がまし」となり、町に出てゆくことになる。
・第二種兼業農家が倍増する。じいちゃん、ばあちゃ ん、カアちゃんからなる「三ちゃん農業」。

     食糧自給率低下)

・ 1960年代後半は天候不順もあって米が不足し、1965年には105万トンを輸入している。しかし、その後は豊作が続き、1400万トンの収穫が続い た。一方では米の消費量は一人当たり100キロを割り、古米の在庫が1年分を上回るようになった。このため、1970年から米の生産調整=減反政策が実施 されてゆく。
・一方では、小麦の輸入は倍、飼料用トウモロコシの 輸入は6.4倍になった。米を食べずにパンを食べ、肉を食べるようになったためである。このため、食糧自給率は1960年の83%から、1970年には 47%に下がった。

   過密と過疎、大企業と下請け

・ 東京の人口は1962年に1000万人を超える。年間30万人ずつ増えていた。一方、25の県で人口減少が起きる。1945年の都市人口比率は28%、 1970年には72%となる。
・都市は過密となる。通勤通学の混雑を防ぐため、始 業時刻はずらしている。工場は8時、学校は8時半、会社は9時。しかし、都市に通う人たちは自宅が遠くなり、時間差が効かなくなる。乗車率250%で身動 きとれず。300%はモノ。これを超えることもあり。アメリカが100年かけて成し遂げた都市化を25年で達成した。
・住宅は高狭となり、ウサギ小屋に住む日本人と揶揄 される。東京では2時間通勤はざら。100キロ圏の高崎や小田原あたりからも通勤している。名古屋で言えば彦根、浜松、伊勢あたりからの通勤ということに なる。
・一方、経済の二重構造は激しくなる。中小企業は大 企業の80%賃金。

4 環境破壊と公害
    cf)四大公害病=水俣病、第二水俣病

・ 水俣病は不知火海に臨む漁村で発生。1953年から猫がよだれを垂らしてキリキリ舞いして死ぬ事例が続出する。次いで、1956年、チッソ水俣工場付属病 院に4人の子供が入院。四肢の筋肉の硬直、目はうつろ、奇声を発してよだれを垂らす。この後、視野狭窄、言語障害、手足の感覚麻痺が起き、動作不自由に なって死ぬ人が出現。
・1959年、熊本大学の調査により、新日本窒素肥 料水俣工場の排水に含まれる有機水銀が原因とわかる。アセトアルデヒドを作る過程で出た有機水銀が水俣湾に流れ込み、それを蓄積した魚を食べることで発症 する。チッソは原因は他にあるとして調査結果を認めない。工場は廃水処理施設を作るが不十分。国も原因がチッソにあるとは認めず、正式認定が1968年と 遅れたため、この間にも魚は食べ続けられる。妊娠中の母親が魚を食べて胎児性水俣病も発症。
・138人が1969年に訴訟。73年勝訴。9億 4000万円の補償。
・同様の病気は阿賀野川流域でも起き、昭和電工が汚 染源と判明する。67年訴訟。

      イタイイタイ病、

・ 神通川流域で大正時代から中年以上の女性が関節の痛みを訴え、歩けなくなり、体を動かすと激痛が走るようになる。咳や寝返りをすると骨が折れ、脈を取られ ても折れたりする。多くの患者は「痛い痛い」と叫んで衰弱死。
・1957年、開業医が神通川の鉱毒によるものと発 表。三井金属神岡鉱山が亜鉛精錬の過程でカドミウムを放流したのが原因とする。
・1968年に訴訟。72年原告勝訴。

      四日市ぜんそく

・ 三菱油化、三菱化成の大規模石油コンビナートが1959年から操業開始。急に喘息患者が増え、学校の授業も窓を閉め切っておこなう。亜硫酸ガスの放出が原 因。
・1967年訴訟、72年勝訴。

      →公害対策基本法(1967)、環境庁設置(1971)

・ 名古屋などでも光化学スモッグがよく問題になった。夏の暑い時に大気中の汚染物質が紫外線などで変化して目などを刺激するもの。警報が出ると小学校も体育 は中止だった。
・2002年の段階で6万人の公害病認定患者がい る。トップは東京都区部で2万3000人。2位は大阪市の1万人。3位が名古屋市の3000人。いずれも大気汚染によるもの。

5 自民党政権の長期継続

・ 政治的には中流化による労組離れ。政治への無関心が進んだ。農家を味方につけたことで、票を獲得してゆくことができた。




目次に戻る   トッ プページに戻る

Copyright(C)2006 Makoto Hattori All Rights Reserved