<朝鮮戦争と日本の独立>
[朝鮮戦争]
A 韓国、北朝鮮の内戦(1950)
・1950年1月、アティソン国務長官「アメリカの防衛線はアリューシャン−日本−沖 縄−フィリピン」。韓国がないため、北朝鮮が全面攻勢に出たという説がある。実際には最初に手出しをしたのは不明だが、全面的内戦に拡大させたのは北だっ た。金日成はスターリンに武力統一計画を説明している。

   ソウル陥落→国連軍(米軍中心)派兵・仁川上陸で攻勢

・1950年6月25日、勃発。28日にソウル陥落。アメリカは共産主義勢力の武力侵攻として韓国を支援。6月27日、国連 安保理は北を侵略者として撤退を要求した。このとき、ソ連は中国の代表権を台湾が持っていたことに反対して欠席していたため、理事会は9対0の多数決で決 まった。フルシチョフは後に、スターリンの失敗だったと述べている。
・7月7日、国連軍組織。マッカーサーが総司令官。しかし、国連軍は連戦連敗。8月に釜山を除いて北の手に落ちる。
・9月15日、アメリカ軍が仁川に上陸。9月26日、ソウル 奪還。10月1日、38度線を越えて北に入る。国連はこれを追認。

    →中国人民義勇軍の参戦・戦線膠着

中国 国境に迫ると毛沢東が人民義勇軍として参戦した。人海戦術で戦車もジープもなしで勝つ。11月末から国連軍総崩れ。38度線で膠着。

    =東西対立激化(第三次大戦の危機)

・マッカーサーは満州爆撃、大陸反攻を進言して解任される。原爆使用も考えたとか。 71歳。「老兵は死なず。ただ消えるのみ」。第三次世界大戦の危機。

・どうしてソ連はこの戦争に直接介入しなかったのか。中国は積極的に介入したのか。
・スターリンの関心事は(1)ナチスドイツの解体、(2)ポツダムで獲得した戦後国際秩序=社会主義国の容認、(3)拡大した国境線の維持=東欧への関 与・衛星国家作り。アジアはどうでもよかったのであり、朝鮮を確保するために第三次大戦をしようとは思わなかった。世界で唯一の社会主義国は、第二次大戦 までは自国の存亡に対して危機感を持っていた。
・ソ連の工業地域は意図的に内陸に作られている。資本主義国からの攻撃を避けるためである。

・太平洋戦争中、ソ連は日本の敗戦後の東アジアを構想した。宗谷海峡封鎖でソ連船が日 本海に閉じ込められるのが問題。樺太南部を取り戻し、太平洋への出口として千島を取れればそれでよいと考え、火事場泥棒のようにしてそれを実現した。これ でスターリンは満足し、朝鮮や中国に社会主義国家を作ろうとは思っていなかったのである。ソ連の東アジア最大の友好国は中華民国で、蒋介石と日本を仮想敵 国とする同盟を結んでいた。

・一方、ソ連は北朝鮮という社会主義国家建設には一定の手助けもしている。アジアがどうでもよいのなら、ほかっておけばよいのに。
・スターリンはアメリカの広島への原爆投下でパニックになっていた。日本敗戦後、アメリカがソ連の20都市に核攻撃をするという情報もあった。スターリン は1945年8月20日の段階で核兵器開発を命じている。
・問題はウランがなかったこと。これはブルガリアとルーマニアにあった。このウランを確保するため、ソ連は東欧を手放せない。スターリンは北海道東部を割 譲させ、日本海から太平洋への出入りを安全にしようとアメリカと交渉していてたが、最終的には引き下がっている。それはブルガリア、ルーマニアへの影響力 行使と取引したもの。
・ウランは北朝鮮にもあった。これが北朝鮮建国を手助けした理由。
・ソ連は1949年には核開発に成功。しかし、突貫工事のために他にまわすお金を全て投入し、この間に100万〜200万の餓死者を出す。中国も1950 年代に核開発を急ぎ、2000万〜3000万の餓死者を出したという。北朝鮮では1990年代に餓死者が急増しているが、その背景として核開発を指摘する 声もある。
・ソ連は北朝鮮が社会主義の国になるとは思ってなかった。完全な農業国であり、社会主義国はある程度は世の中が進歩し、資本主義の矛盾がでたところで成立 すると考えられていたからである。とりあえず傀儡国家を作ることにしただけ。トップは誰でもよかった。
・金日成は抗日ゲリラとして満州にいた人。初めから社会主義の国を朝鮮半島に作る気はなく、ソ連軍の将校になりたかった人。

・中国で革命が成功するため、東欧で忙しいソ連はアジアは中国に任せることにした。建国間もない中国にとっては朝鮮半島は死活問題。100万の志願兵が集 まる。

     →1953年、休戦協定(板門店)

・1953年7月、板門店で休戦。160万人の戦死者と300万人の民間死者を出す。

B 日本への影響
 1 経済復興
    軍需物資の注文殺到(特需)→戦前水準の回復

・米軍の特別発注があった(麻袋、毛布、トラック、砲弾、トラックや戦車の修理)。支 払いがドルのため、これで原料を輸入し、加工して輸出することができるようになる。
・アメリカの特需は戦争中で30億$。経済成長率は12%。鉱工業生産は2倍、戦前水準を超える。

 2 再 軍備への動き
    米軍の出動で軍事的空白→警察予備隊の設置

・在日米軍4個師団を朝鮮戦争に投入したため、穴埋めのため、勃発2週間後に7万5千人の兵力を持つ警察予備隊を創設。武器は全てアメリカ製。初め は警察なので旧陸軍関係者は排除されていたが、追放が解除されて入隊するようになる。1950年代半ばには自衛隊の半分は旧陸軍将校になる。

 3 「左」 への攻撃
     共産党員の職場追放(レッドパージ)

・反戦運動が起きることを警戒し、「アカハタ」を無期限停刊し、マスコミ関係でレッド パージがおこなわれる。新聞・放送で704人が追放。これが一般企業に波及し、1万2千人が職場から追放される

     cf)日本労働組合総評議会結成(産別の弱体化)、公職追放解除

・産別に対抗させるために総同盟などが参加して総評が作られる。産別はレッドパージに よってトップが抜かれていた。軍国主義者のレッテルを貼られていた者も公職 追放が解除されて帰ってくる

 4 講 和への動き
    中途半端な状況を脱し、西側陣営の一国として早急な独立必要
     →反共基地として役割分担させる目的 

・1948年の段階で、日本は戦略上重要なので、ケナン国務省政策企画部長が寛大な条 件で対日講和をおこない、日本を友好国にしようと提案。朝鮮戦争勃発で、日 本の戦略上の重要性が証明される
・アメリカの軍部は占領を続けた方がよいというが、国務省顧問のダレスは日本人の対米感情が悪化しており、東側陣営に追いやってしまうとし、独立後も米軍が駐留することを条件に講和条約を結ぼうと説得した。
・1950年9月、極東委員会に「対日講和七原則」を提示。賠償放棄、日本の工業生産力や再軍備に制限を加えないという寛大な内容。ソ連は全面的に反対 し、英仏も日本の軍事的復活を警戒して難色。
・日本側では吉田が動く。1950年5月の段階で独断かつ極秘に独立後も米 軍駐留を受け入れると表明。腹心の池田勇人にアメリカ側に伝えさせる。独立後は再軍備の負担を避け、米軍駐留で安全を守り、経済復興を目指 す路線。
・吉田は急ぎすぎた。最初にこれを言ったため、アメリカは米軍を駐留してやるという態度になり、駐留費用は日本持ちになってしまう。日本が駐留させてやる という形をとった方がよかった。
・軍備がないので米軍駐留。しかし、それならソ連は独立に反対するので片側講和しか認められない。片側講和+米軍駐留の線で話が進む。

     but 東側陣営、国内革新勢力の反対

・社共は全面講和、米軍駐留に反対し、再軍備反対。

[サンフランシスコ講和会議](1951)
   日本代表=吉田茂
A サンフランシスコ平和条約
   西側48カ国と調印=独立回復

・1951年9月4日〜8日。招請国55。インドは米軍駐留に抗議して欠席。ソ連は民 主化・非軍国主義化を提案したが拒否され、調印時にチェコやポーランドなどと欠席。日本を入れて49カ国が調印。
・批准について自由党は賛成、社会党は分裂、共産党は反対。衆議院で賛成307、反対47。

   無賠償原則→個別交渉

・サンフランシスコ会議の中で、アメリカは日本の経済復興を優先させるため、賠償請求権を調印国に放棄させようとした。 アジア各国は不満であり、占領された国は請求してもよいこととなる。しかし、原料を提供して日本に加工させる役務賠償に限定され、実際に賠償金を支払った のはビルマ(10年間に2億$、無償経済協力5000万$)、インドネシア(12年間に2億2300万$)、フィリピン(20年間に5億5000万$)、 南ベトナム(5年間に3900万$)のみだった。
・その他の国についてはラオス、カンボジアは賠償放棄したので施設供与で済ませる。ソ連は放棄。韓国は無償経済協力3億$、有償協力2億$。

     but 韓国・北朝鮮

・1949年、李承晩大統領は、日本に対して植民地支配の損害賠償と対馬の放棄を求め る。また、竹島の放棄、在韓日本人財産請求権を放棄せよとした。
・韓国が講和会議に出るともめるため、日英の反対で欠席。この後、個別に国交を開設することになる。
・韓国とも北朝鮮とも国交がないため、在日の朝鮮半島出身者は、これ以後、旧植民地名を示す「朝鮮」籍となる。今までは日本人扱いだったのに、急に国籍を 失うことになった。

        中国、ソ連、東側との講和不成立

・日本は戦前の国際貿易で、6割を中国に依存していたため、中国との関係は維持した かった。1950年には香港経由の貿易が認められる。
・朝鮮戦争により、日中貿易はアメリカによって禁止。代わりに東南アジア市場を日本に与えることとした。アメリカが東南アジアに与える軍事援助物資の生産 を日本に発注。朝鮮戦争後もこの特需が続いた→アジア資本主義圏の要、アジアの工場に仕立てられる。
・中国と台湾の国民政府のどちらと講和条約を結ぶかでもめる。アメリカは台湾を承認していたので、日本が中国と講和条約を結ぶのであればアメリカは条約調 印しないと伝える。吉田は中共とは国交を結ばないが、上海に事務所を置くとした。ダレスは撤回を求める。
・中国残留孤児が日本に帰ってこられなかったのは、アメリカが日中国交正常化を妨げ、日本もそれに乗ったため。

   領土、主権の未回復(奄美、沖縄、小笠原、北方領土)

・沖縄については、国務省は経費負担も大きいので日本に返すべきだとしたが、アメリカ 軍部は戦略上重要な地点であり、信託統治を主張した。1948年、冷戦の勃発でアメリカの対日政策は変更され、沖縄の恒久基地化を図る。琉球軍司令部独 立。5000万ドルを投入して基地拡充。住民を基地に雇用して生活を基地に依存させるようになる。
・天皇は、象徴になったにもかかわらず、政治的発言を繰り返していた。1947年5月、講和後の日本の安全を守るため、アメリカが沖縄の軍事占領を続ける こと、日本の主権は残して長期貸与の形をとることを提案。これでは、象徴天皇とは言えない。この発言は日本の政治家の意見を代弁してたと言える。
・結局、信託統治になるまでの間、アメリカが暫定的に支配すると した。選挙権も停止され、憲法制定の国会に代表を送れなかった。マッカーサーは、「沖縄人は日本人でないから、アメリカが基地を置いても反発はないだろ う」と述べている。日本が憲法9条、平和主義を謳歌したのは、沖縄に基地を 押付けたからである。
・千島について、ソ連は1946年2月2日、ハバロフスク州に併合していた。
・講和条約で、日本は千島と樺太の領有を放棄したが、吉田は講和受諾演説で、南千島と南樺太は日本が侵略によって奪った土地ではないとし、歯舞、色丹は北 海道の一部をソ連が不当に占拠していると述べている。

B 日米安全保障条約
   米 軍駐留認める→極東の平和と安全維持、日本の内乱鎮圧
    cf)日本の安全を守ることに寄与(片務的)

・8日の夕方に日米安保条約締結。
(1)日本は有効な自衛力を持たないため、米軍駐留を認める。(2)アメ リカは日本の自衛力漸増を期待する。(3)米駐留軍は極東の平和と安全を維持。日本の内乱・騒動を鎮圧。外部からの攻撃に対して日本の安全を守ることに寄 与。
・日本には防衛力増強を約束させる。アメリカは32万5千を要求。日本は財政難と国民感情に配慮して11万という。妥協して13万人規模となった。
・ここでは、米軍に日本防衛の義務を負わせていない。「守らなくてはいけない」ではなく、「守ってもよい」になっている。
・バンデンバーグ決議により、自衛力のない日本と双務的取り決めはできないとし、日本はアメリカに駐留権を与えるが、アメリカは日本防衛の義務はないとした=片務的形 式。
・有効期限が示されず、奇妙な条約だった。

    cf)日米行政協定(1952)=施設、駐留費負担

アメ リカは、基地を日本全土に無制限、無期限に無償で設置できる。関税などは一切免除。米兵とその家族に対しては米軍に刑事裁判権を与える(治 外法権)。しかも駐留費は日本にも負担を求めた(年間1億5500万ドル。防衛分担金。東南アジアへの賠償金と比べると巨額)。これは軍事的には植民地と同じ状況なのである。
・基地の新設、拡張、犯罪をめぐって基地問題が発生する。
・53年の改定で、米兵の犯罪には日本側が1次裁判権を持つこととなった。

 ※アメリカへの従属、西側への帰属決定(厳正中立主義の否定)

[保守路線の強化(逆コース)]
 1 破壊活動防止法制定(1952)
    メーデー事件を契機→治安維持法の復活として反対運動

・共産党はレッドパージで幹部を引っこ抜かれ、残った連中が人民軍を結成し、従来の路 線の平和革命に代わって武力革命を考える。
・1952年5月1日、メーデー行進中の3万人のデモ隊が使用禁止の皇居前広場に入り、警官隊と衝突。火炎瓶が飛び、2人が射殺される。2300人が負傷 した。
・政府はこれを利用して破壊活動防止法を出す。暴力的破壊活動を主張し、活 動した団体を規制する。思想の統制につながり、治安維持法の再来とされ、広範な反対運動がおきる。しかし、成立することになった。裁判所は 「現在かつ明白な危険のない場合は無罪」という運用をすることとした。
・公安調査庁が作られる。共産党が指定団体となって監視される。特別高等警察の復活と見なされた。オウム真理教事件で適用されている。

 2 自 衛隊設置(1954、←保安隊←警察予備隊)

・1952年、保安庁が設置され、警察予備隊は保安隊になる。安保条約で防衛力増強を義務づけられていた ため。保安隊+海上警備隊で12万人。戦車やフリゲート艦をアメリカから借りる。
・国会では9条違反ではないかともめる。吉田は自衛のための戦力はいいのだと言って審議中断。発言撤回。

    MSA協定で防衛力強化義務づけ

・1951年10月、アメリカはMSA(相互安全保障法)を制定。被援助国に防衛努力義務づけた。
・日本はこれに応える必要。アメリカは陸軍32万を要求し、経済援助はいらないだろうという。日本は18万人で妥協。経済援助として余剰農産物5000万 ドルを買い、代金で日本製の軍需品を買ってもらう方向で1954年5月、MSA協定が結ばれた。援助がなければやってゆけない国だったのである。
・1954年には防衛庁が発足し、保安隊は自衛隊になる。保 守3党の協力で防衛庁設置法、自衛隊法が成立。外敵と戦う名実ともに軍隊だった。参議院では「自衛隊の海外出動をなさざることに関する決議」を可決してい る。
・7万5千人の警察予備隊は陸・海・空の15万2千人体制へ。その後も4次にわたって増強し、1973年の段階で世界8位の軍事力となる。

     but反基地・反核闘争の勃発

・これにより、平和憲法に抵触するものとして反対運動が激しくなる

       内灘闘争(1952)、砂川事件(1955)

・安保条約と日米行政協定で、米軍基地はどこにでも置けるようになった。1952年9 月、金沢市郊外の内灘海岸が射爆場として接収計画。地域住民座り込み、永久 接収できず返還された。内灘闘争という。
砂川事件は立川基地拡張に反対したもの。1955年、アメ リカは立川、横田、小牧、木更津、新潟の飛行場の拡張を求める。立川では6月から測量隊と地元民とでもみ合い。強制排除のために2000人の警官隊を投入 し、1000人の負傷者。57年、再測量に反対する労働者、学生が基地内に立ち入り、刑事特別法違反で起訴された。
・訴えられた者は米軍駐留は憲法違反で無罪のはずだと主張。1959年、東京地裁はこれを認め、米軍駐留が憲法違反なので無罪とした。
・慌てた日本政府は、飛躍上告により最高裁に判決を求める。駐留外国軍隊は憲法で禁止した戦力ではないとし、安保条約は統治行為論によって憲法判断しない とした。

       第五福竜丸事件(1954)→原水爆禁止運動

原水 爆禁止運動も起こる。第五福竜丸事件がきっかけ。マグロ延縄漁船がビキニ島東140キロの海上で操業中、1954年3月1日、ビキニ環礁で の米軍が水爆実験をしたことで2時間後に死の灰をかぶる。14日に焼津帰港。全員が原爆症。久保山愛吉氏が半年後に死亡。
・5月に杉並区の主婦が水爆禁止署名運動を始める。1955年8月6日に広島で第1回原水爆禁止世界大会を開くこととした。この日までの署名は日本で 3200万人、世界で6億7千万人。


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