<日本国憲法と民主化の推進>
[日本国憲法の制定]

  1 制定の過程
     マッカーサーの改憲指示→憲法問題調査委員会案

・五大改革指令を受けて、幣原は憲法問題調査委員会を設置した。21年2月1日、この 松本案と呼ばれるものが新聞に漏れる。
・内容は保守的であり、「天皇は神聖にして侵すべからず」を「至尊にして侵すべからず」で焼き直しているだけのものだった。

     but保守的で不許可
       ∴マッカーサー案を修正して憲法草案要綱作成

・2月3日、マッカーサーは民政局にGHQ案を作らせることにし、3カ条の方針を出し た。
1天皇は国家元首。皇位は世襲、憲法の枠内で動く。2戦争の放棄。紛争解 決のみならず、自己の安全を保持する手段としても放棄する。3封建制度の廃止。華族の廃止。
・できたものを13日に提示し、「命令ではないが、この線に 沿って憲法案を作ることを要望する」。
・憲法の作成を急いだのは極東委員会の開会が2月26日に迫っていたため。憲法はここで意見を一致させる取り決めだったので、その前に思い切った民主化憲 法を出して主導権を確保する必要があった。天皇を戦犯にしようという動きがあったため、これを封じるために戦争放棄を入れたとされる。
戦争放棄の条文に対して日本側はショックを受けた。従わないと天皇制の存 続自体が危ないと言われ、受け入れることにする
・GHQは議会での修正なしでゆこうかとも考えるが、極東委員会に配慮し、3カ月かけて国会で審議した。憲法は口語で表記することにし、修正点は86箇所 にのぼった。

     =1946.11.3公布(1947.5.3施行)

  2 民主主義原理に基づく内容
     主権在民、基本的人権の尊重

・国会での審議を見ると、日本の政治家が何を意図したかがわかる。
・主権在民は明確となった。天皇の地位について「国民至高の総意に基づく」を「主権の存する日本国民の総意に基づく」として、わざわざ国民主権であること をうたっている。

     戦争放棄(天皇制存続と引替え、解釈改憲の道開く修正)

・戦争放棄は曖昧とされた。国会で、共産党の野坂参三は「戦争には2種類あり、侵略戦 争は不正の戦争であり、侵略から自国を守るのは正しい戦争である。正しい戦争は認めるべき」と主張した。これに対して吉田は「近年の戦争の多くは国家自衛 を名目におこなわれている」とし、「自衛権の発動としての戦争も放棄し、いかなる戦力も保持しない」と議会答弁していた。

Q1 憲法9条で「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争 を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の 戦力はこれを保持しない」と謳っているのに、どうして自衛隊は憲法違反ではないのか。

A1 国会で抜け道が用意されたからである。

・芦田均は、国会での修正論議で「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行 使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の第一項の後、第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を入れた。この後は、「陸 海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と続く。

Q2 「前項の目的を達するため」が入るとどういう意味になるのか。

A2 「国際紛争を解決するための手段」としての「戦力を持たない」と解釈され、自衛を目的とする戦力はよいことになる。自衛のための戦争を認める布石で あった。

・国会ではその意図が分からなかったが、極東委員会では意図に気づいて問題になった。 しかし、自衛の戦争は当然の権利として承認された。その代わり、将来、日本は再軍備されるものとして、66条に「国務大臣は文民でなければならない」を入 れさせ、文民統制の徹底を図っている
・このいきさつで、GHQが日本の再軍備を認めたということではない。1954年までは再軍備に反対を続けている。

   cf)男女平等、労働基本権、生存権保障
   =押付け憲法としての批判

・現憲法を否定する意見として押し付け憲法論がある。しかし、日本人の意見も採り入れ られている。

  but「憲法研究会」案の影響大

・高野房太郎の弟・高野岩三郎が社会、共産、自由党につながる学者、評論家を集め、憲法研究会を発足させ、「憲法草案要綱」を作っている。主権在民、天皇 は儀礼だけ、 男女同権、民族人種差別禁止、健康で文化的な生活を営む権利を盛り込む。これをGHQは分析して案を作り、「戦争放棄」を加えたのである。
・草案を出して選挙をおこない、そのメンバーによる国会で十分な審議をおこなっている。このような点で国民が作成に関わっているので、押しつけではないという意見がある(家 永三郎)。

  →民主的法制整備
    ex)戸主制度の廃止(新民法)、地方自治権の拡大(地方自治法。警察法)

・憲法が変われば民主的な法律に出し直される必要が出てくる。
・民法が代わり、戸主制度が撤廃された。男女同権はここで示され、子供も20歳になれば親から離れて結婚も自由 にできる。
・地方自治は戦前は内務官僚が天下って来ていたが、地方住民が選挙で首長を 選び、リコールもできるようになった。
警察は市町村の自治体警察と国家地方警察の二本立てとされ た。

[経済の民主化]

・どこまで民主的な国ができるかということでも、共産主義の国にはしない方針だった。共産化する前に民主化して先手を打つ。

   軍国主義の温床
A 財閥解体
    少数財閥の経済独占→政府、軍部と結合し戦争へ誘導
 1 財閥解体指令(1945)
    15財閥の資産凍結、株式放出(持株会社整理委員会による)

・持株会社を解散し、財閥家族に近い者は役職に就任することを禁止した。
・15財閥は三井、三菱、住友(金融+産業資本)、安田、川崎、野村、渋沢(金融資本)、浅野、大倉、古河(産業資本)、日産、日窒、理研、中島、日曹 (新興財閥)。
財閥家族の持つ株は持株会社整理委員会に譲渡させ、この半 分が社員に売却され、残りは一般に売りに出された。
・三井物産は220社、三菱商事は130社に分割され、もとの三井や三菱の名前も使わせないとした。三菱銀行は千代田銀行となる。

 2 独 占禁止法、過度経済力集中排除法(1947)
    カルテル、トラスト、コンツェルンの禁止

将来の独占の防止には独禁法
財閥以外の大企業については過度経済力集中排除法が出る。 325社指定。

   but占領政策の転換で財閥系銀行は残る→新たな独占の温床

・しかし、アメリカの方針が変わり、過度経済力集中排除法は骨抜きに され、14社が分割されただけで終わる。特に財閥系銀行が解体されず、これを中心に企業集団が形成されることになる。

B 農 地改革

Q3 農村における封建的制度とは何か?

A3 寄生地主制である。

   寄生地主→封建制、軍国主義の温床

・小作人は地主から土地を借りて生活している。このため、小作人は地主を「旦那様」と呼び、出入りと称して日常の手伝い仕事に使われていた。土地を仲立ち とした主従関係と言える。
・1町の土地を借りる小作人が10石の米を収穫したとする。5石は小作料。1石6万円として、販売価格は30万円。海部郡には100町規模の地主がいた。 地主が100町の土地を貸していたら年収3000万円。新潟の1000町地主であれば、3億円の年収。
・小作の生活は5割の現物小作料+肥料代を支出する。肥料を投入すれば収穫が増すことはわかっていても、借金で投入しなくてはならない。しかも、収穫増の 半分は地主がただ取りしてゆく。地主から土地を借りないと食べられないため、地主の個人的使役にも使われる。

    but食糧管理法(1942)による食糧供出の徹底
   →強権発動(1946)、事前割当制による強化(1948)で地主に打撃

・戦後は寄生地主制をつぶす条件が揃っていた。
・1940年に米は国家の管理下に入る。地主は小作米を売って儲けられなくなる。他に麦や小麦粉、イモや大豆にも拡大して1942年には食糧管理法が出される。戦後も食糧難が続いたため、法律 は残る。
1946年に食糧緊急措置令が出て供出ができなかった者には強制収容を する。さらに1948年には事前割当制が出されてとれてもと れなくても供出しなくてはならなくなった。このため、不作の時は買って供出することになる。農地を持っていると大損害になっていたのである。

 1 第 一次農地改革(1945)
    小作地の小作人への譲渡
     →小作地:不在地主=なし、在村地主=5町まで

・幣原が第一次農地改革を実施。ポイントは不在地主だった。在村地主はある程度の土地を残さないと食べてゆけないとして小作地5町を限度にしている。

      but不徹底で実施されず

・マッカーサーは農地改革を「過激な思想圧力に対抗する防壁」と位置づけていた。これを徹底させることで共産主義が台頭することを防ぎたかった。農民の経 済格差が5倍というのでは認められなかった。
小作料の金納化以外は実施されず

 2 第 二次農地改革(1947〜49)(自作農創設特別措置法)
    小作地の国の強制買上げ、小作人への譲渡(農地委員会による)
     →小作地:不在地主=なし、在村地主=内地1町、北海道4町まで
      小作料の軽減、金納化
    ∴小作地の80%が自作地化

・吉田が第二次農地改革を実施。そのために自作農創設特別措置法が作られる母体は各地に作られていた農地委員会。もともとは地主と小作の間のもめ 事を調整する役割だった。戦後、委員は各階層から出す ことにし、地主、自作、小作から5人ずつとされたがGHQが反対。地主3、自作2、小作5となった。農地には肥えた土地もあればそうでないところもある。 どこの土地を買収するかを調整した。
小作地の80%が無償に近い金額で国に買収され、小作人に分配さ れたのであり、一種の社会主義革命だったと言える。
・地主が失った土地は膨大。その後、訴訟になって1965年に農地補償をするがわずかな金額だった。

Q4 農地改革が日本の経済、政治に与えた影響は何か?

A4 利益を得た農民が、保守政権の支持者となる。

  cf)農民→食管法による保護=保守政権の支持者

・食糧管理法は1995年まで残っていた。米の安定供給のための法律だったが、政府が高価格で米を買い上げ、国民に安い金額で販売する制度になった。この ため、食糧管理法は米を作る農家の生活を保障するためのものに なった。
・1975年の政府買い入れ価格は60キロで15,570円。売り渡し価格は12,205円。差引3300円は赤字。逆ざやの赤字は3兆円になる。
・米作農家を支えるこの政策は自民党政権によって維持された。このため、農 民は保守政権の支持者となった。一昔前まで、自民党の大票田は地方だったのである。

  日本農業→国際競争力の低下

・自作農は増えたが、経営が零細化する。1町の土地は手作業 で米を作るにはちょうどの面積だが、機械を入れたら狭すぎる。これだけでは食べるのが難しい。このため生産性が低下し、日本農業が国際的競争力を失ってゆく温床となる。

   ∴農民が高度経済成長の労働力に転化

・兼業化しないと生活できない。農民は都市に働きに出て高度経済成長を支え る労働力に転化した。


[労働の民主化]
   低賃金による国内市場の狭さ→海外侵略の原因
A 進歩的労働立法
   労働組合法=団結権、団体交渉権、団体行動権
   労働基準法=8時間労働
   労働関係調整法

Q5 労働者の権利を確立するのに大きな役割を果たしたのはどの法律か?

A5 労働組合法である。

B 労 働組合の結成
   全国的組織=日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業別労働組合会議(産別)

・労働三法のために組合の力は増大した。戦前の組合員は40万人、組織率7%だったが、戦後23年には667万人、53%の組織率となっている。
・日本労働総同盟が日本労働組合総同盟となり、労働組合主義を とった。
全日本産業別労働組合会議ができ、共産主義・階級闘争的な活動を した。この2つで3割を組織した。台風の目は産別で、163万人を抱えている。


[教育の民主化]

・地理、歴史、修身→授業停止、教科書回収。軍国主義に関わる教材の墨塗り。
・戦前は義務教育6年で、それ以後はエリート教育だった。
・昭和初期の名古屋近郊農村では、高等科まで進む男子は多かったが、女子は半数。中学進学はクラスで1人か2人。お金がなければ教育は受けられず、将来の 進路は小学校6年生で決まった。中学校に行かなければ、そこから上の高等教育は受けられない。

   教育基本法、学校教育法(1947)
   →6・3・3・4制、教育委員会制度

・憲法の理想の実現は教育の力に待つべきものとされた。教育基本法が公布さ れ、国のためになる人作りから、個人の人格の完成を教育の目的と した。「個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成」がうたわれる。教育勅語と両立するという意見もあって、勅語の失効は1年後になる。
学校教育法で単線型、男女共学が決まる
教育委員会は教育の地方分権のために作られた。地域住民が 教育委員を選挙することとした。
・教育基本法は安倍晋三内閣のもとで改訂された。もとの条文の「教育は不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接に責任を負っておこなわれるべきも の」の中に、「この法律および他の法律に定めるところにより」が挿入された。つまり、「法律」によって「不当な支配」がおこなわれる可能性が出てきたので あり、戦前のように「国のために命を捨てて戦え」ということが教え込まれる恐れが発生した。

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