8 民主主義国家の建設
<占領政治の開始>

[日本の敗戦処理]
A ポツダム宣言の受諾

・1945年7月26日、米英中がポツダム宣言を出した。日 本を占領して平和政府を作る。領土は4島のみとする。軍隊の武装解除などを示して無条件降伏を迫る。「右以外の選択は迅速且つ完全なる壊滅あるのみ」。
・東郷茂徳外相は無条件降伏と言っても交渉ごとは入るので、受け入れるべきと言う。しかし、陸軍は不都合を宣言すべきと首相に迫ったため、拒否とも受諾と も言えない鈴木は「黙殺」すると声明を出した。
・これは拒否と受け取られた。米英はソ連を通じて日本が講和工作をしていたことを知っていたため、どうして受け入れないのか疑問だった。
・原爆投下とソ連の参戦を経て、8月9日、国体護持を条件にポツダム宣言受 諾を表明。その後、天皇も制限下に置くと言われ、14日にあ らためて降伏を申し出る。アメリカはスイス政府を通じて日本が取るべき事柄を指示した。

 1 軍国主義、軍隊、軍需産業の駆逐(戦犯処刑)
 2 領 土の削減(カイロ宣言による、4島と小島)
 3 連 合国による占領→民主平和政府樹立後、撤退
     cf)降伏文書調印(9.2)=占領軍来日

マッ カーサーが連合国最高司令官となり、8月28日、コーンパイプを片手に厚木飛行場着。30日から占領軍が来て9月2日に降伏文書に調印(東京湾入港のミズーリ号上)。日本側代表は重光葵(まもる)外相。
・占領軍への恐怖は大きく、男は皆殺し、女は強姦されると噂されていた。一部には事件も発生し、神奈川県だけでも、年内に1900件の殺人・強盗事件が発 生したとされる。性犯罪の防止のため、日本側は米軍向けの慰安施設を建設した。

B 軍隊の武装解除

・アメリカ側の最大の懸案は軍隊の武装解除が容易におこなわれるかどうか。
・ドイツの兵隊は、1人戦死させれば4人が捕虜になる。日本兵は勝てないとわかっていても「天皇陛下万歳」と言って突撃してきた。北ビルマ戦線の日本は 120人戦死させてやっと1人が捕虜になる状態。この調子で、兵隊が武器を持って戦い続けると思われた。

   東 久邇宮稔彦内閣(皇族の権威で容易におこなう)

・鈴木は8月15日に総辞職。皇族内閣が誕生する。
・8月16日、天皇は全軍に対して停戦命令を出す。これにより、頑強に戦っていた740万の日本軍は武装解除。
・アメリカは軍による直接支配を考えていたとされる。しかし、皇族内閣の権威で武装解除が速やかにおこなわれたことに驚き、日本政府を通じた間接統治に方 針転換させる。

Q1 唯一、例外で武力衝突が起き たところがある。どこか?

A1 ソ連が全千島の領有を宣言して北方領土を勝手に占領したた め、軍事衝突が起きている。


・海外にいる700万人の引き揚げが必要であり、そのうち350万人は軍人だった。陸 海軍省を引揚省にして引き揚げをおこなった。ソ連占領地帯を除いて21年秋までには引き揚げ完了。ソ連・満州ではシベリア抑留があり、遅れる。
・2年以内でほぼ完了するが、その後も帰れない人は存在した。毎日、舞鶴港で帰りの船を待つ「岸壁の母」が話題となった。戦死誤報が届き、奥さんが再婚し たところに元の旦那が引き上げてきたこともあった。満州からの引き揚げで連れ帰れなかった子供は中国残留孤児となり、1970年代になるまで帰国できてい ない。

   but一億総懺悔で非難集中

・戦争の責任が皇族に降り掛かるのを警戒。一億総懺悔を言い出した。これに対しては、国民から不満の声が出され た。

[占領初期の政治]
  急速な民主化の推進
A 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の設置
   マッカーサーの着任、日本政府を通じた間接・単独統治

Q2 単独統治のメリット、デメリットは何か?

A2 単独統治であるため、ドイツのように体制の違う国に分裂することはなかった。ソ連は司令官2人制、分割統治を要求。具体的には北海道がソ連支配とな る案を出していた。蒋介石の強い反対でボツになったとされる。反面、ポツダム宣言の目的を忠実に履行するのではなく、アメリカの都合のよい国にされること になる。

・マッカーサーは極東通で日本研究者だった。これがその後の日本にとってはよかった。 マッカーサーは軍制を布く予定であったが、天皇を利用して間接統治すること のメリットを考える。「天皇は20個師団に匹敵する」といい、これを利用しなければ日本支配のために100万人の兵力が必要と考えた。
・天皇制を統治に利用しようという考えは、戦前からの日本研究の成果でもあった。ルースベネディクトは1944年6月から在米日本人や捕虜などを調査し た。ドイツ人はヒトラーを悪く言うが、日本人は天皇を悪くは言わず、ダマされて戦争をしたという。そして、日本人が捕虜にならずに玉砕するのは、捕虜にな るのが恥だと思うからとし、「菊と刀」を著わした。ヨーロッパは「罪の文化」、日本は「恥の文化」であり、ヨーロッパ人が泥棒をしないのは罪だからだが、 日本人が泥棒をしないのは見つかると恥だからであると説く。戦陣訓によって、捕虜になるのは恥だから最後まで戦ったのであり、誰かが恥ではないというお墨 付きを出す必要がある。その役目は天皇がするものだとした。

   天皇制存続

・アメリカ世論は天皇の戦争責任を追求していた。昭和20年のギャラップ調査では、死 刑(苦痛を与えて餓死)36%、国外追放24%、戦犯として裁判18%など。これを抑えて天皇制を残さなければならない。
・9月27日、天皇のマッカーサー訪問を演出することになる。ここで天皇は「全ての責任は私にある。自分はどうなってもかまわないので国民の生活を守って 欲しい」といったとされ、マッカーサーはそれに感動して天皇制を残そうとしたと伝えられる。
・最近発掘の資料では、天皇制を残すことは既定路線であり、天皇がマッカーサーに敗者の礼をとり、美談を作ることでアメリカ世論をなだめる意図があったと いう。
・マッカーサーとの会見の際に写真撮影がされた。日本政府の検閲では掲載不許可としたが、GHQの命令で新聞発表された。軍服で腰に手を当てたマッカー サーの隣に、礼服で直立不動の天皇が並ぶもので、背も低いし、みすぼらしく、神がアメリカ軍人よりも下というように見えてしまった。

   東久邇宮辞職→幣原喜重郎内閣

・アメリカは「政治的自由の制限除去」を指令し、治安維持法、特別高等警察の廃止、 内務省の解体と内務官僚の罷免を要求した。東久邇宮内閣のメンバーは治安維持の目的からほとんどが内務畑の人であるため罷免対象となる。大臣がクビになるため総辞職せざるを得ない。
・後継は木戸内大臣と平沼騏一郎が幣原とし、GHQの許可をもらう。

 1 五 大改革指令
    男女同権、労働者団結権尊重、教育自由化、専制廃止、経済の民主化

・幣原内閣に対し、10月11日、マッカーサーが五大改革指令を出す。アメリカはどこまで民主的な国ができるかを実験す るつもりであり、理想が打ち出されている。これを具体化するには明治憲法を 改正する必要があり、実際にはその後に実施されることになる。

 2 占領政治機構の整備
    極東委員会(ワシントン、連合国11カ国)
      ↓
    アメリカ政府
      ↓
     GHQ対日理事会(東京、米英中ソ)
      ↓
    日本政府

・極東委員会が最高決定機関であるが、不一致の場合、アメリカは中間指令権を獲得した ので、実際にはアメリカが占領政治を独占できた。
・GHQは配下に厚生局、民政局、経済科学局などを持ち、いずれもアメリカ人が局長となる。日本政府の省庁に直接指令をして政治をおこなう。勅令542号 が出され、GHQの指令は全ての法律に優先された。
・対日理事会はマッカーサーによって完全に無視されて情報が流されず、口を入れさせなかった。

B 政 治の民主化
 1 軍国主義者の公職追放

・公職追放=軍国主義に関わったものとして、中央で1000人、地方では数万人。小学 校の校長などは追放される。

 2 戦 犯処理 

・連合国が日本の戦争責任を追及して来ることは確実。連合国の手で裁かれる前に日本人 の手で裁こうとするが茶番で終わってしまう。
・天皇に責任追及がされる可能性が高まる。近衛文麿は、天皇を出家させて裕仁法皇とし、皇太子に位を譲らせることを考えていた。
・アメリカは利用価値のある天皇擁護の立場を貫く。GHQの フェラーズ准将は、米内光政に対して「天皇は占領政治の最前の協力者。ソ連は天皇を戦犯として処理しろと言っているので、天皇を守るためには東条に全責任 を負わせろ」と指示。

    =極東国際軍事裁判(東京裁判、1946.5〜48.11)

 ・極東国際軍事裁判所が発足し、アメリカ他10カ国が原告となって戦争犯 罪人を起訴する。A級戦犯=戦争の計画・遂行、平和に対する罪、B級戦犯=捕虜虐待など通常の戦争犯罪、C級戦犯=非戦闘員の虐殺など人道に対する罪。
・A級戦犯として28人が起訴される。東条はピストル自殺を図って失敗、近衛は服毒自殺。近衛は日中戦争勃発の時の首相。初めは太平洋戦争に対してだけの 裁判だと思っていたため協力的。満州事変にさかのぼって裁かれると知って自殺している。21年〜23年4月までで公判終了。

    天皇制擁護が前提=昭和天皇免責、東条・広田らに責任限定

・天皇制を守るために日本の保守派は徹底的にこの裁判に協力している。東条たちに責任 をなすり付けるという点では日本政府とアメリカは同一歩調を取ったと言える。その点ではきわめて政治的な裁判
・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判と違い、敗戦から占領軍到着までの2週間で、日本は機密文書をすべて焼却していた。このため、裁判の証拠となる書類が なく、尋問中心で裁判がおこなわれた。アメリカと日本政府は意図的に好ましい尋問をさせることが可能。
・尋問では、米内光政、岡田啓介、東郷茂徳などが東条が戦争をやろうとしたといい、天皇は政治的判断をすることが許されてなかったと説明。彼らは穏健派と 呼ばれる政治グループであり、この中から戦後の日本を決定づけた政治家・吉田茂も出てくる。占領政治に協力してアメリカに気に入られ、次の日本の政治をお こなってゆく者たち。
・彼らも実際には、満州事変から日中戦争の対アジアの軍事行動には加担していた。対米英戦争に反対し、陸軍に抑えられただけ。吉田茂は外交官時代、田中内 閣のもとでの東方会議で張作霖援助を主張している。
・公判では、起訴されたほとんどの日本人が太平洋戦争は正当な戦争ではなく、自分は反対したと説明。東条と島田繁太郎だけが大東亜共栄圏建設のために戦っ たと言う。起訴されて後に発狂して不起訴となった大川周明は、「A級戦犯は恥さらし。東条一人で戦争を始めたことになってしまった」。
・ウェッブ(オーストラリア)裁判長は天皇を裁きたかった。英ソもこの立場。キーナン主席検事の東条尋問で、「国民は天皇の言うことには逆らわない」とい う言質を取った。この調子で行くと、天皇が戦争をすることを決め、国民がそれに従ったということになる。キーナンは裏から手を回して東条に撤回させる。 「国民の感情としてそうなのであり、責任問題とは別」。これに対して天皇は「結構であった」としてジョニ赤を東条に下賜している。その後、ウェッブは本国 で別の裁判があるとして解任された。
・天皇の証人尋問も計画されていたが阻止される。証人尋問されて東条が悪いと言えば責任転嫁と受け取られて天皇の人気が下がるし、自分が悪いと言えば訴追 されてしまう。どちらもマイナス。

     →A級戦犯7人死刑

・判決では広田弘毅、東条英機ら7人が絞首刑。広田以外はすべて陸軍。
・東条=日米開戦時の首相、広田弘毅=日中戦争勃発時の外相、土肥原賢二=満州事変時の奉天特務機関長、板垣征四郎=満州事変時の関東軍参謀、木村兵太郎 =近衛・東条内閣の陸軍次官、松井石根=日中戦争開戦時の現地最高指揮官、武藤章=日米開戦時の陸軍省軍務局長。
・荒木貞夫、橋本欣五郎、木戸幸一などが終身刑となる。BC級=5700人起訴。934人死刑、358人終身刑。
・日本が戦争中に起こした出来事を総決算し、その責任者を確定したことに意味がある。

  but戦争責任は曖昧、勝者の罪は免責

・国のトップとしての天皇の戦争責任を曖昧にし、軍人にすべてをなすり付けて済ました。中国 侵略の当事者であり、日米戦争の責任だけを軍人になすり付けた者が次の日本のリーダーになったため、アジアに対しての戦争責任は曖昧なままで残されていった
・ドイツはナチスの責任についてはニュルンベルク裁判の後にも国民がそれを裁いた。天皇と違い、ヒトラーは一般人なので国民が裁ける。天皇は神だからでき ない。ナチス復活は法律で禁止されている。政治家がナチスを褒めれば政治的に抹殺される。
・南京大虐殺の事実は、この裁判で明らかとなった。現地司令官の松井石根はこれで処刑されている。しかし、日本は南京大虐殺はなかったと政治家が言っても 許される。
・東京裁判は勝者が敗者を裁いたものであり、勝った側に責任は全くなかった のかという疑問がある。原爆投下は無差別殺人であり、南京大虐殺とどこが違うのか、という疑問が出る。
・インドのパール判事は「一部のものにだけ適用される法律は、法律でなくリンチ」として全員無罪を主張した。
・アメリカの都合で免責されたものは、この他に満州の細菌部隊がある。日本は対ソ連の戦争のため、ペスト菌やコレラ菌を培養して撒くことを考え、731部 隊という特殊部隊が作られていた。ソ連と対立するようになったアメリカは、この実験成果が欲しいため、免罪にしたという。

 3 国家神道禁止→天皇人間宣言

・天皇制を残すと言っても神である絶対的存在ではダメ。GHQは軍国主義一掃のため、天皇の神秘性を自ら否定することを求めた
・1946年正月、「天皇と国民の間は、信頼と敬愛でつながる。神話と伝説に基づき天皇を神として、日本民族は優秀だから世界を征服するという考えは間 違っている」と宣言した。
・この後、地方巡幸に出る。今までは軍服姿だったが、背広にソフト帽。直接言葉を交わし、人間天皇をアピールする。

 4 特高、治安維持法廃止→労働運動助成、政治犯釈放

C 政党内閣制の復活
 1 政党の再建
   自由党(←政友会)、進歩党(←民政党)、社会党、共産党

自由 党=鳩山一郎。進歩党=町田忠治。社会党=戦前の無産政党の糾合。共産党=初めて合法政党として公認された。18年の獄中生活の徳田球一が 釈放され、3000人の同志と再建した。

 2 選 挙法改正(1945,12)

・幣原は旧秩序をある程度は維持する思惑だった。そのためにはGHQから具体的な指示 が来る前に、先手を打ってある程度、五大改革指令を実現させておく必要があり、第一次農地改革、労働組合法、選挙法改正をしている。


Q3 この選挙法改正では、選挙権有資格者が20歳以上になったことと、もう一つ大き な改正がされている。何か?。その目的としてはどんなことが考えられ るのか?

A3 婦人参政権が認められている。これは「穏健票」を増やそうとしたものという。女性は変化を嫌う傾向があるため、天皇制打倒ということは主張 しない。これで選挙をおこない、憲法改正をして天皇制擁護を図るつもりだったという。

    20歳以上男女に選挙権→総選挙(1946)

・21年4月に総選挙。全県一区制限連記制のため、466議席定員の6倍の立候補者が あった。
・結果は自由党140、進歩党94、社会党92、共産党5。女性の当選は39人。戦前の保守二大政党制は崩れ、自・進・社の三つ巴。共産が少なかったことで マッカーサーは喜んで「国民は中道を選んだ」といった。

第一 次吉田茂内閣(自由党)成立

・この内閣成立までの間、空白の40日と言われる政治抗争があった。
進歩党は幣原の与党になっていたが第2党に終わった。幣原 は延命を望んだが、自・社・共が内閣打倒に動いたため、後継は幣原が指名することとなった。今の憲法が出ていないため、国会による首班指名はない。憲政の 常道のルールならば第一党の自由党総裁の鳩山一郎が首相になるべきところだっ た。
・鳩山は「反共戦線」を唱えていたため、ファシズム復活につながると社会党が宣伝。GHQも原爆批判をしていた鳩山をうるさいと見た。GHQは社会党政権 でもよしと考えていたため、鳩山は公職追放される。
・幣原は社会党の片山に組閣を打診し、自由か共産との連立ができないかとする。これは実現不可能なのを知っていて話をしている。
・社会党内は共産と連立したい左派、自由との連立でもよいとする右派に分かれていた。右翼と左翼を一緒にする話なので無理であり、片山は連立をまとめられ ない。
・幣原は、裏で幣原内閣の外相だった吉田茂に話をもってゆき、吉田茂を鳩山 なき後の自由党総裁とし、自由・進歩提携で内閣を組織することにした。


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