<太平洋戦争の勃発>
[南進と日米交渉]
A 南進
 1 北部仏印進駐(1940.9)

仏印 からの援蒋ルート寸断のため、ビシー政権と交渉。フランスはインドシナの領土保全を条件として、進駐を認める。拒否して攻撃されることを避 けたものであり、軍事的圧力の結果である。1940年9月23日から北部仏 印に進駐。アメリカは太平洋の現状維持を定めた四カ国条約違反だと非難する。
南進を進めるにはソ連とぶつかることはできない不可侵条約を結んでおく必要がある。しかし、日本はソ連を仮想敵国にし ていたし、ソ満国境で戦っているのだから、すんなりとソ連が締結するとは思われなかった。
・三国同盟締結の際、ドイツは日ソ提携に労を執るといっていた。松岡洋右はソ連との提携のため、ドイツに仲介を頼みに行く。途中、モスクワに寄ると、ス ターリン自らが会談にやってきた。
・松岡がベルリンに行くと、ヒトラーは日ソ提携の斡旋はできないと言い、逆にイギリスを降伏させるため、日本がシンガポールを攻撃するように依頼してく る。
・ソ連はドイツとの関係悪化のため、日本を敵に回すと挟み撃ちの可能性が出てくる。独ソ不可侵条約で東欧の勢力圏を決めていたが、実際には取り合いになっ た。ソ連もフィンランドを攻撃したりバルト三国を併合している。このため、ド イツは対ソ戦の準備を開始していた。


    →日ソ中立条約(1941.4)=北方の脅威除いて南進

・スターリンが日ソの提携に前向きだったため、松岡はモスクワで日ソ中立条約を締結。第三国との戦争が生じたとき、中立を守るという ことを約束した。日本はイギリスを想定し、ソ連はドイツを想 定している。スターリンは上機嫌で駅まで松岡を送り、「これで日本は南進できる」といった。1941年4月。

     cf)独ソ戦の開始(1941.6)=ドイツの形勢有利、
                    南進推進+北攻視野(関東軍特種大演習)

1941 年6月22日、ドイツは不可侵条約を破ってソ連攻撃。松岡は三国同盟を発動して対ソ参戦を主張したが、陸軍上層部はノモンハン事件の後遺症 で反対する。
北が完全に安全となったので南進を推進する一方、関東軍特種大演習(85 万人動員)で臨戦態勢をとり、機を見て北攻することにした。

 2 南 部仏印進駐(1941.7)

・北部仏印進駐の頃、タイと仏印との国境紛争が起きていた。タイは大戦でフランスが敗 れたため、かつてフランスにとられた領土の奪還に乗り出す。日本がこれに介入し、仏印の共同防衛のため、南部仏印に進駐することをフランスに提案し、武力によって認めさせた。 実際には、蘭印の石油資源確保の基地とするもの。
1941年7月28日から南部仏印に進駐開始。これは蘭 印、シンガポール攻撃の布石と見られるため、日米関係は決定的に悪化。

    ∴日米対立の激化
     cf)日米通商航海条約破棄→対日石油禁輸(1941.8)
       (ABCD包囲陣による経済封鎖)

1939 年7月26日、日米通商航海条約の廃棄を通告され、半年後に発効していた。以後は条約によらない不安定な貿易で、1940年7月、航空機用 ガソリンの禁輸措置がとられる。北部仏印進駐後は蒋介石に借款を供与し、屑鉄の輸出禁止。1941年8月1日、南部仏印進駐をおこなったため、対日石油全面禁輸となる。
ABCD包囲陣により、南方からの物資輸入もできない状況。 Aはアメリカ、Bはブリテンでイギリス、Cはチャイナで中国、Dはダッチでオランダである。
・資源輸入ができないなら、南方に出て腕づくでとろうという議論が出てくる。

B 日 米交渉
   野村吉三郎駐米大使(親米)派遣
   戦争回避への努力

・時間を1940年9月の北部仏印進駐、三国同盟結成後まで戻す。松岡外交の裏で、アメリカとの妥協を探り始めていた。親米派の野村吉三郎元外相(海軍 大将)を駐米大使として派遣。1941年4月、ハル国務長官との間に下交渉が成立した。
日本が武力南進を放棄し、枢軸国から離脱すれば、日本軍の中国からの撤退 を条件に中国が満州国を承認するよう、アメリカが斡旋するというもの。
・日本がどうして南進したか=日中戦争に勝つため。どうして日中戦争をしたか=満州の利権を確保するため。したがって、満州国が認められるなら、すべてが 解決する。

     but松岡洋右外相(親独)の反対で難航

・近衛は喜んで交渉を外交ルートにあげようと考えるが、松岡外相が反対する。アメリカが中国を説得しても、満州国は承認されな いかも知れない。実際には、自分がまとめたドイツの交渉が水の泡となるのを嫌ったもの。

       →松岡罷免(第3次近衛内閣)で交渉

・同盟離脱と南進否定を削除して日米交渉を継続することになる。松岡がいては日米交渉 がまとまらない。罷免をすると登用した近衛の責任が追及されるため、7月16日、内閣総辞職。すぐに近衛に大命再降下となり、18日、第3次内閣発足。外相を豊田貞次郎として日米交渉を再開。

   but南部仏印進駐で妥協絶望、総辞職

・しかし、この直後の8月1日に南部仏印進駐をしたため、アメリカは対日石油禁輸で報復し てきた。近衛は平和進駐なので大丈夫と甘く判断していた。

Q1 対日石油禁輸はどのような事態を日本にもたらすのか。

A1 中東の石油が開発されていないため、日本の石油輸入はアメリカから80%、蘭印から15%。いずれも禁輸とされた。石油備蓄は940万バーレルで、 国内産の不足分が毎月40万バーレルあり、2年ちょっとでなくなってしまう。早く戦争をしないと戦うこともできなくなる。

9月 6日、御前会議が開かれ、事態をどう打開するか話し合われる。軍の見通しでは、速戦即決ならば勝つ見込みはある。しかし、持久戦になれば物資が足りず、これを確保しないと戦えないとする。しか し、そのうちに国際情勢の変化で何とかなるかも知れないと判断

Q2 国際情勢の変化とは何か。

A2 ドイツの勝利である。

・戦争に踏み切るかどうかという判断が、他国の勝利への期待によってされている。軍上 層部は無理を通して軍備拡張に努めてきたため、今さら勝てないとはいえない。
「帝 国国策遂行要領」を決定。10月上旬まで日米交渉をおこない、めどが立たないときは米英と開戦する。
・国際情勢を冷静に判断すれば、勝てないのは当たり前。連合艦隊司令長官・山本五十六は、「半年か一年は暴れられる。しかし、2年3年となればわからな い。戦争を避けて欲しい」「飛行機と軍艦では日米はトップだ。しかし工業力の点では比較にならない。絶対に戦うべきではない」。
・近衛はルーズベルトとの直接会談でまとめようと考えたが、アメリカは日本が時間稼ぎをしていると判断。交渉に乗ってこなくなる。
10月上旬となったが、近衛は開戦を言い出せない。陸軍も 開戦して負ければ責任を問われるため、単独で開戦を叫ぶ自信はない。海軍はやりたくないが、戦争反対を唱えれば弱腰と叩かれる。首相は外相に判断を委ねる が外相はわからないという。16日、近衛内閣は総辞職する。
・国の行く末を預かる立場の政治家たちのこの態度に注目したい。総無責任体 制の中で開戦に向かっていたのである

C 東 条英機内閣成立

・東条は、海軍に開戦の自信がないなら9月6日の御前会議をご破算にするしかないと考 え、それができるのは臣下にはいないので、皇族で軍人でもあった東久邇宮を首相にすることを提案した。しかし、内大臣の木戸は、東久邇宮を首相にして開戦 となれば、責任を皇室が負うことになる。東条に御前会議の決定を白紙に戻し てもよいという考えがあるのなら、強硬に開戦を主張する軍部を東条に抑えさせようと判断した。天皇は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とたと える。
・首相となった東条は、9月6日の決定を白紙に戻した。しかし、対処策は「臥薪嘗胆」でじり貧とするか、即開戦とするか、開戦を念頭に準備を進めて外交交 渉を継続するかしか選択肢がない。
・最終案として、12月1日を交渉のめどとした。9月6日の決定を先延ばししただけ。

   ハル・ノートの提示=交渉決裂

・日本側の外交指令暗号電報は全て傍受されて解読されていた。日本は、三国同盟からの 離脱はせず、中国撤兵も華北では25年間駐屯を続ける案を出して交渉を継続。しかし、これが認められなければ時間稼ぎをすることがばれている。
11月26日、ハル・ノートを提示してきた。三国同盟離脱と満州事変以前の姿に戻すように要求。満州は「十万億の英 霊の眠る土地」なので手放すことはできないというのが国民の認識。軍の一部は開戦を決定させると喜ぶ。
12月1日の御前会議で8日の開戦を決定。天皇は「予定の 通り進むように」とゴーサインを出した。

[太平洋戦争の勃発]
  真珠湾攻撃(1941.12.8)→米英に宣戦

・12月7日、日曜日の朝、アメリカは日本政府から駐米日本大使宛の14通の暗号長文 電報を傍受した。解読したところ、午後1時にこれをハルに渡すようにという内容。これで戦争開始時刻を知る。
日本の対日宣戦布告について、アメリカは事前に知っていたというのが定説。 アメリカ政府は対日戦争を見据えていたが、民主主義の国であり、国民の反対を押して開戦はできない。ギャラップ調査では国民の半分以上は戦争反対だった。国民を戦争賛成に導くには、日本に最初の一発を打たせる必要
・日本大使館は前日の土曜日に転勤する職員の送別会をしていた。この日は日曜日で職員の多くは出勤せず、当番の職員だけが出てくる。慣れない長文暗号電報 の解読に手間取る。宣戦布告の通知がアメリカ側にわたったのは2時をまわってから。この時には真珠湾では攻撃が開始されていた。1時間20分のずれで奇襲 となった。
アメリカ側の制海権を奪い、陸軍の行動がやりやすくする目的で山本五十六 がハワイ真珠湾の攻撃を計画。択捉島単冠湾を出た機動部隊は、11月26日には発進。途中は一切無電を使わずに極秘に接近。6隻の空母から 183機の艦載機が真珠湾に向かう。
・ハワイ時間12月7日午前7時50分(ワシントン時間12月7日午後0時50分)に上空に来る。予想された防衛体制はなし。ト連送の暗号で突撃。ホイ ラー飛行場と艦船を空爆。日曜日なので兵員も休暇で応戦できず。初めは演習と間違えたぐらい。2次攻撃171機。戦艦5撃沈、3大破。飛行機188機撃 墜、291機使用不可。戦死者2400人。第一次大戦の被害者数を2時間で上回る。
・狙っていた空母は演習中で港におらず無傷。これが以後の作戦に影響を与えることになる。
アメリカではだまし討ちをされたという気持ちが浸透する。「リメンバー パールハーバー」。国民を戦争でまとめることになる。
・イギリスは対独戦にアメリカの応援が欲しかった。しかし、アメリカは中立法があり、ルーズベルトが選挙公約で参戦しないと言っていた。真珠湾攻撃で日米 開戦となり、チャーチル「我々は勝った」と言う。これで米独戦争が起きることが予想されたからである。ヒトラーは真珠湾攻撃の3日後、アメリカに対して宣 戦布告をしている。アメリカは大西洋と太平洋で戦い、勢力が二分されると踏んだからだという。

A 南 方占領地の拡大
   香港

・真珠湾奇襲の日には東南アジア各地で戦争が開始されていた。香港は12月8日〜25 日で攻略。香港島の貯水池をとって給水をとめて降伏させる。

   フィリピン

・12月8日から攻略。26日にはアメリカ軍はマニラを撤退。翌年3月、マッカーサー 極東軍司令官はオーストラリアへ脱出。「フィリピン人よ、私は戻ってくる」。この時、バターン死の行進がある。捕虜を収容できる場所がなかったため、炎天下 を60キロ歩かせ、多くの死者を出した。

   マライ

・12月8日から南進、自転車で南下し、1月31日、ジョホール水道に出る。
・マレー沖海戦ではプリンスオブウェールズ、レパルスの不沈戦艦を航空機の攻撃で撃沈。イギリス東洋艦隊はつぶれ、チャーチル「今日ほど落胆した日はな い」。

   シンガポール

・シンガポールは「東洋の真珠」と言われ、長年イギリスの根拠地だった。2月15日陥 落。山下・パーシバル会談。「イエスかノーか」で無条件降伏させる。
・多くの華僑が住んでいて日本に対しては反抗的。大量に虐殺している。

   ビルマ

・仏印からの援蒋ルートが断たれたため、ビルマからのルートが作られた。これを遮断す るために北ビルマに侵攻する。3月8日、ラングーンが落ちる。タイとビルマをつなぐ泰緬鉄道建設で多くのイギリス人捕虜に強制労働させる。映画「戦場に架 ける橋」の題材となる。

   蘭印

・石油基地を破壊される前に占領する必要があり、スマトラ島のパレンバンに落下傘で降 下。3月8日、占領。
・3月9日に一段落する。天皇は「あまりに早く戦果があがりすぎる」と歓喜。予定作戦を終了したので、次にどうするかで悩む。海軍は長期化すると勝てないと考えて短期艦隊決戦主義を説き、オーストラリア侵攻を主張したが、陸軍は占領地の確保のために現状維持を求める。間を取って米豪遮断 作戦をとる。

   ニューギニア

・1942年7月、1人5升の米を持って4000m級のスタンレー山脈越え。9月に ポートモレスビーまで50キロに迫り、灯を望めるところまで近づくが撤退。高地人に襲撃されて食べられる者も出る。

   ソロモン

・サンゴ海海戦。空母同士の戦いとなり、引き分け。このあたりから旗色が悪くなってゆ く。

     →軍政施行、軍事基地建設、資源開発

占領 地では軍政を施行。軍事基地を作って軍需物資の徴発をおこなう。このための給料は日本紙幣を軍票として発行し、経済混乱を生じさせる。

       cf)大東亜会議(1943)=日本の指導による大東亜共栄圏建設

・占領地住民に対し、戦争協力を求めなければ勝てない。1942年1月、東条は大東亜各国・各民族が白人支配を脱するのが目的とし、「アジアの解放」を主張し た。
・1943年11月5日、東京で大東亜会議を開催。中国、満 州、タイ、フィリピン、ビルマが参加。インドはオブザーバー。大東亜宣言で 共存共栄、独立親和、文化高揚、経済互恵、人種差別撤廃の五原則をうたう。
東南アジア植民地に独立を約束し、日本に協力させる政策を 採る。フィリピン、ビルマの独立はすぐに実行。しかし、重要資源のあるマレー、インドネシアは帝国領土とする方針だった。「南方占領地行政実施要領」で は、資源調達のために軍政を布き、独立運動は積極的に支援しないことを確認。白 人に替わる新しい支配者として君臨することを目指した。

       but圧政により民心離反

・当初の日本軍は解放軍として迎えられた。しかし、労働力として戦争協力させる必要が あり、そのための方法として皇民化政策がおこなわれた。
・東南アジアは欧米諸国の植民地だったため、それらの国から工業製品が入ってきていた。しかし、日本はその代わりをすることができなかった。
・域内では米が大量に生産されていたが、運ぶための日本の船が撃沈されたりして不足し、東南アジアの人々は生活に窮するようになってゆく。
・石油を持つためもっとも重要視されたインドネシアでは、日本語教育が徹底される。3A運動「アジアの光日本、アジアの指導者日本、アジアの擁護者日 本」。天皇崇拝強制、労務者としての強制労働。支払いは軍票のため、インフレが昂進する。反日分子は処刑。
・反日感情が出てくるにつれて、マレーやインドネシアにも独立をちらつかせるが手遅れだった。
フィリピンでは抗日人民軍、ビルマでは反ファシスト人民解放連盟、ベトナ ムではベトナム独立同盟が作られる。これらは植民地支配に反対するとともに抗日勢力となり、日本の敗戦後に独立を勝ち取る運動母体になる。

B 連 合国の総反攻
 1 ヨーロッパ
    イタリア降伏(1943.9)

・イタリアは1940年6月に参戦していたが、1942年には経済が崩壊。配給は1日 にパン150 グラム。北イタリアで労働者のストライキが頻発するようになり、11月にはアメリカ軍が北アフリカに上陸。1943年7月にはシチリアに上陸し、ムソリー ニは国王によって逮捕される。9月8日、イタリアは無条件降伏し、 10月にはドイツを裏切って宣戦する。

    ドイツ=ソ連の反攻、

・1941年6月、対ソ戦開始。ヒトラー「300万人の兵を動員し、3カ月で勝つ」。 ソ連は焦土戦術を採ってロシア平原にドイツ軍を引き込む。ナポレオンのロシア侵攻の時にも採用した作戦。
・10月20日、モスクワ目前でドイツ軍は立ち往生。11月 には氷点下22度で凍傷続出。氷点下30〜40度になると機銃や戦車も動かず。戦車の下で10時間火を焚いて暖めてようやくエンジンかかる。
・1943年1月、スターリングラードの22万人のドイツ兵が100万人のソ連軍に包囲されて孤立。司令官のパウルスはヒトラーに撤退を求めるが拒否され る。9万人が捕虜としてシベリア送りとなり、5000人が生き残っただけ。

     米英のノルマンディー上陸

・1944年6月6日、300万人での上陸作戦を計画。この日はDデーと言われ、ヨー ロッパでは記念日になっている。上陸場所はフランスのノルマンディー海岸と される。
・上陸戦は攻める方が不利。成功の条件は夜陰に乗じて接近し、明け方に上陸するのがよい。上陸直前には日光が差し、40分間は艦砲射撃がしたい。上陸時に は干潮でなければならない。パラシュート降下のため、飛行機が接近するのを探知されないよう、月の出は遅くなければならない。このため日にちは限定され、 6月5〜7日の3日間しか候補はない。
・6月のノルマンディーは悪天続き。5日は風雨で上陸戦ができなかった。6日の天気予報は朝のうちは天気回復。その後、昼からは悪天となる。ここで上陸戦 をおこない、もたもたすると後続が上陸できず、さきに上陸した部隊が孤立する可能性。次まで待つと士気が下がると考えたアイゼンハワー将軍は決行を決断。
・前夜、英BBC放送が「秋の歌」を放送。フランスにいるレジスタンスに上陸戦の実施を知らせる暗号。鉄道サボ、電話線切断の撹乱工作を始める。
・2万5千機、7000隻、17万人が上陸。ドイツのロンメル将軍は、天気が悪いので上陸戦はないと判断し、ベルリンに戻っていた。「上陸戦は24時間が 勝負」と言っていたが、その間に戻れず。
8月25日、ドゴールがパリ奪還

    ベ ルリン陥落(1945.5)

・1944年には空襲が激化し、地下鉄駅に避難した人たちが「戦争はもうたくさん」と 叫ぶようになった。
・連合軍がベルリンに迫り、1945年4月30日、ヒトラーは地下室で自殺する。5月7日、ドイツは無条件降伏

 2 日本

・1942年4月18日、16機で東京初空襲がされる。日本近海まで空母で来て発進しても、B17爆撃機 では航続距離の関係で空母には戻れない。したがって本土空襲はあり得ないと思っていた。
・アメリカは裏をかき、発進後に空母はすぐにハワイに戻り、空襲を終えた飛行機が中国に着陸することで可能にする作戦を立てた。東京、名古屋、福岡などを 空襲。爆弾を積むと航続距離が短くなるため、機銃掃射が中心。名古屋では熱田のガスタンクがやられている。
・被害の大きさよりも心理的不安。次の空襲を防ぐため、ハワイとの中間の ミッドウェー島を占領し、制海権を広げる必要。

    ミッドウェー海戦敗退

・6月4日、11戦艦、6空母、350隻、兵員10万でミッドウェー島の占領を実施し た。暗号がすべて解読される。
・ミッドウェー島近海にアメリカ機動部隊を発見できず。第一次攻撃でミッドウェー爆撃をおこなう。機動部隊攻撃のため、艦船攻撃用の魚雷を装填。機動部隊 は発見できず、急遽、第二次攻撃。魚雷を爆弾に装填し直す。ここで敵艦隊を発見。爆弾では攻撃できないため、急いで魚雷に装填し直す。一番機が飛び立つ頃 に敵機の来襲。飛行甲板上に並ぶ飛行機めがけて急降下爆撃をされて壊滅。4空母、322機、3500人を失う。ミッドウェー海戦の敗北で、残りの空母はあと2隻になる。優秀なパイ ロットの戦死で航空戦ができなくなる。

    ガダルカナル

・ソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場を建設して米豪遮断を考える。補給戦。船の消 耗甚大。夜陰に乗じて輸送船で補給。
・サボ島沖海戦では日本の得意の夜の海戦で大敗した。アメリカはレーダーを開発して正確に日本艦船に対して砲撃を加える。
補給がおろそかであったのが日本軍の最大の欠点とされる。 ガダルカナルは餓島になって撤退。叔父の話によれば、夜に歩哨に立っている時に攻撃され、米兵を殺すと衣服をはぎ、鍋で煮て食べたという。食料は完全に尽 きていた。
・山本五十六は前線の視察で士気を高めようとする。白麻の軍装でラバウルからブーゲンビル島へ。この暗号も解読されていた。ノックスは真珠湾の敵討ちとし て待ち伏せすることにした。4月18日、陸式一攻に乗ってきたところを撃墜。アメリカは暗号解読していることがばれぬよう、発表しなかった。
・アリューシャン占領はミッドウェー海戦の裏で成功していた。アメリカ本土にもっとも近いため、取り返しに来る。アッツ島は2500人の守備兵。5月12 日からの戦闘で壊滅。残り150人は「天皇陛下万歳」を叫んで突撃して玉砕。「玉砕」という言葉が最初に使われた。
・隣のキスカ島には5600人。7月29日、濃霧に紛れて撤退した。アメリカは8月15日から総攻撃を加えて3万人が上陸。無人だった。
・インドからの蒋介石援助ルートを断つため、ビルマ・インパール作戦を 計画した。3000メートルの山を越えて3週間かけ、300キロ進んでインパールを侵攻しようという無謀な計画。食料欠乏で孤立。8万人を投入したが戦死 3万、戦傷病4万2千。

    サイパン

・アメリカは飛び石攻撃で島を攻略。サイパンからは日本領への侵攻になる。サイパン維 持のため海軍はマリアナ海戦を挑む。5戦艦、9空母、73隻、450機。Z旗を掲げる。アメリカは15空母、775機。
・6月19,20日の海戦で3空母、400機を失って壊滅。マジックヒューズにより至近弾でも破裂して撃墜できる。
7月9日、サイパン占領。兵3万人、一般市民1万人玉砕。万 歳クリフからの飛び降り。兵は戦陣訓のため、捕虜になれない。一般市民はその巻き添え。捕虜はわずか1000人。
・ドイツは1人戦死させれば4人捕虜になる。北ビルマ戦線の日本は120人戦死させて1人捕虜になる。日本兵はなかなか投降しなかった。

    フィリピン陥落

・マッカーサーは取り戻しにこだわる。レイテ海戦で巻き返し図り、残っている艦船(戦 艦武蔵)を航空機の援護なしでレイテ島近海に囮として出動させる。アメリカ機動部隊を引きつけて戦艦大和などがレイテ湾に突入、アメリカ上陸部隊を砲撃す る作戦。成功はおぼつかない作戦。おびき出せたが突入見合わせで失敗している。
・比島内では「自活自戦」で戦えとされ、飢餓状態。20年2月にマニラ陥落。マッカーサーは「フィリピン人よ、私は帰ってきた」。

     →本土空襲の激化

・昭和17年では「空襲が来たら押入に隠れろ」と言っていた。18年夏だと「縁の下か 防空壕を掘って隠れろ」。19年になると「逃げろ」。対処法がない。
19年秋にマリアナに基地ができ、空襲が本格化。B29は 超空の要塞。高射砲が届かない1万メートル上空を飛び、爆弾を落としてマリアナに帰れる。初めに偵察機が写真撮影。軍事施設や輸送機関、軍需工場が爆撃さ れる。関門海峡などには機雷投下。日本の戦闘機は1万メートルまで上昇できず。
軍需工場を焼きつくした後は、町工場で軍需物資が作られているとして、都 市部を無差別爆撃。
東京大空襲は20年3月10日。150機が来襲し、下町一 帯の周囲に焼夷弾を落として逃げられないようにし、その中を絨毯爆撃。死者7万2千人は長崎原爆に匹敵。東京の4割が焼失。合計150回の空襲で関東大震 災の2倍の焼失と死者。
・名古屋は航空機の一大生産地。三菱航空機の大江工場で本体を作り、大幸町の三菱発動機でエンジンを作る。38回の空襲で市街地の50%以上が炎上。死者 8000人。中心で残ったのは県庁、市役所、松坂屋だけ。
・1944年12月13日、東区大幸町の三菱発動機に90機で空襲。当時、国内飛行機エンジンの40%を生産してたことから第一級目標工場とされた。浜名 湖から侵入し、午後2時から3時半まで186トンの爆弾投下。死者330。鍋屋上野の浄水場も被弾し、水道も止まる。この空襲後、東山動物園のライオン、 トラ、ヒョウが射殺される。
・12月18日、三菱航空機大江工場に89機で来襲。死者334人。12月22日、三菱発動機に78機で来襲。1月14日、大江工場に60機来襲。1月 23日、三菱発動機に75機出撃。東、千種、瑞穂区方面にも無差別爆撃。2月15日、三菱発動機に117機。3月25日、三菱発動機に夜間空襲。照明弾を 投下して爆撃。
・4月7日、194機で三菱発動機壊滅。大曽根駅全壊。待避壕に直撃して駅員30人死亡。瀬戸線も土居下・小幡間の線路が破壊。三菱発動機空襲の際、隣接 していた愛知一中も被災。階段教室には空襲の際に止まった時計がある。
・市街地空襲は1月3日の西区が初め。大規模なのは3月12日の310機。午前0時に空襲警報、伊勢湾から侵入。上前津・東別院間が中心、桜通りから熱田 までが焼け野原。3時までの間に2万5千戸の家が焼かれ、12万人が被災。3月19日の大空襲は291機。午前2時空襲警報、5時まで爆撃。江戸時代から 続く城下町・栄の中心街が壊滅。4万戸が焼かれ、14万人が被災。5月14日は524機が8時から9時にかけて爆撃。名古屋城が炎上した。
6月9日、愛知時計電機と愛知航空機が爆撃される。警報解 除で戻ったところを落とされる。2068人死亡。学徒152人。
・明倫中学に通い、大隈鉄工に徴用されていた人の話によれば、5月の空襲では矢田川の堤防に逃げた。矢田には高射砲陣地があり、10台くらいの高射砲が設 置されていたが、本物は1つだけで、あとは電柱に色を塗ったダミーだった。本物も5発打ったら弾がなくなり、その弾もB29の遙か下で爆発していた。 B29が煙を引いて飛んでいたので落ちると思ったが、先生が「成層圏を飛んでいるから飛行機雲ができる。あそこまでは高射砲が届かない」と言っていた。
豊川海軍工廠は海軍兵器の7割を生産していた。徴用4万 人、学徒6000人。8月7日、124機来襲。死者2477。

   沖 縄陥落(1945.6)

・アメリカが本土攻略をする際、ルートは小笠原から北上するものと沖縄から九州に至る ものがある。硫黄島には陸海軍が18キロの地下陣地を築いて2万3千人が篭っていた。2月19日、7万5千のアメリカ軍が495隻で8000発の艦砲射撃 をおこなって上陸。3万発の砲撃を浴びて27日には日本軍は3500人に減る。1カ月間立てこもるが、3月27日、全滅。米軍は2万5千の犠牲を出す。硫黄島は、米軍最大の激戦地として記憶される。

・沖縄にも米軍上陸が予想され、非戦闘員は本土疎開がおこなわれる。しかし、疎開者を乗せて九州に向かった対馬丸は潜水艦によって撃沈され、学童800人 を含む1500人が死亡。逃げることも難しくなる。開戦時には45万人の沖 縄県民が残る。
・軍部は台湾にアメリカ軍を誘い込んで叩く作戦を考えていた。精鋭の第9師団は台湾防衛のために沖縄から移される。
・沖縄では17歳から45歳の男子は全員召集。兵力の3分の1は補助兵力。上 陸されたら、初めから見捨てる方針だった。1944年10月10日の空襲と艦砲射撃で那覇、首里は焼け野原となる。
・3月26日、本島上陸の停泊地にするため、慶良間諸島に上陸。守備軍はほとんどなく、住民には自決を強要した。兵隊は戦陣訓で捕虜になれないが、住民は 可能。それに対しての妬み。手榴弾を配って破裂させることを迫る。家族全員爆死するには足りず、生き残った家族の者をカミソリなどで殺す惨状。渡嘉敷島で 329人、座間味島で171人が集団自決。軍隊は決して国民を守らないと いう教訓。
・4月1日、米軍は1457隻、18万3千の兵力で上陸敢行。作戦には54万を投入。日本は8万人、男女中学生など2万5千人の県民義勇隊。上陸させて本土侵攻の時間稼ぎをする出血持久戦をとる。従軍記者のアー ニーパイルは「ピクニックのよう」と言うが、その後の抵抗は頑強。

・沖縄戦が展開している時期、特攻隊が知覧、鹿屋から出撃。 250キロ爆弾を抱えて2571機が出ている。ほとんどは学徒出陣した20代の者。撃沈は駆逐艦9などにとどまる。
・「大和」の特攻。全長263メートル、7万3千トン。2500人乗り。46センチ砲は42キロ飛び、40センチの鉄板を打ち抜く。大量の重油を消費する ため、動かせなくなる。
・「大和」は片道燃料で沖縄に向かう。学徒兵は特攻して「何のために死ぬのか」と聞いた。下士官は「国のため、君のために死ぬのでいいじゃないか」と言う と、「自分の死はもっと普遍的な価値に結びつけたい」と言う。鉄拳制裁を止めに入った哨戒長臼淵大尉は、「進歩のない者は決して勝たない。日本は進歩を軽 んじてきた。負けて目覚めることが大切。その先がけになって散る」。
・徳之島沖で潜水艦にやられる。魚雷15本以上、爆弾数十発。

・沖縄は中央部で分断され、北部は20日までに占領される。日本軍は沖縄人が琉球方言でしゃべるのをスパイとして処刑。実際には食料略奪のためで、住民は米軍の攻撃の他、日本軍からの攻撃にもさらされる。
・主力は南の海岸地帯の洞窟を頼って撤退。本土決戦の時間かせぎのための出血持久作戦をとる。
・海軍は撤退をせずに壊滅。大田実司令官「沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世、特別のご高配をたまわらんことを」。
・牛島満司令官の陸軍は、南部に篭って3カ月間持ちこたえる。「馬乗り」作戦といい、火炎放射器で一つずつ虱潰しにしてゆく。
・日本兵は一般県民が避難している洞窟を乗っ取り、抵抗する者を虐殺。集団自決の強要。
ひめゆり部隊は師範女子部150人と県一高女50人。看護 婦として徴集され、南の戦地で壕生活。水汲み、飯上げをしていたが、解散命令がでたあと、別離の演芸会を開き、その後、手榴弾を投げ込まれる。
6月23日に組織的な抵抗は終わる。「最後まで戦闘し、悠 久の大義に生きるべし」。日本軍11万人、県民10万人の犠牲を 出す。この戦いのため、アメリカは1万3000人の犠牲者を出し、本土上陸作戦を控えるようになる。

[大日本 帝国の滅亡]
A 国民生活の崩壊
   言論・思想の弾圧、翼賛選挙(翼賛政治会)

・総選挙は1937年から実施されず。東条は戦争に全面協力する議会を作ろうと翼賛政 治体制協議会を作る。466名を推薦し、婦人会や隣組を動員して選挙を促す。翼 賛選挙という。
・投票率83.2%。推薦候補の当選者は381名。非推薦は613名のうち85名しか当選できず。旧共産圏の選挙と同じ。

   物資欠乏、勤労動員、学徒出陣、学童疎開、朝鮮人強制連行

開戦 前の日米の経済力の差は78対1だった。長期戦となると、絶対に勝てない。
・根こそぎ動員で兵員は16年に240万人だったものが19年には398万人。男子10人に1人の割合。その後、20年8月には719万人となる。軍事工 場などが人手不足になるため女子を動員。19年には中学生など300万人が工場に動員される。
朝鮮人にも国民徴用令が適用され、70万人が炭鉱に連れて こられる。半分は九州、4分の1は北海道。この近辺では瀬戸周辺の亜炭鉱で、1日12〜15時間労働だったという。反抗すると殺され、食料不足などから6 万人が亡くなっている。朝鮮からは女子挺身隊が20万人、従軍慰安婦が5〜7万人、徴兵が213万人という。
・敗戦時に日本に居住していた朝鮮人は200万人。これが現在の60万人の在日韓国・朝鮮人の存在につながる。
・農業人口の減少と外米輸入の途絶のために食料欠乏。配給は最後は1日2合1勺になり、2分搗きで押麦などが混ざる。

     cf)東条→小磯国昭内閣

昭和 19年7月、東条はサイパン失陥の責任を問われて総辞職する。首相経験者からなる重臣会議で小磯国昭朝鮮総督が首相となる。フィリピン戦で一勝して、ソ連に和平仲介を頼むことにした

B 連 合国の降伏要求
 1 カイロ宣言(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石) (1943.11)
    対日作戦、領土処分方針決定

1943 年11月、ルーズへルト、チャーチル、蒋介石が協議。戦争が終わったら、第一次大戦後に日本が獲得した地域を剥奪し、満州と台湾は中国に返 還、朝鮮を独立させることを確認する。ここで出されたのがカイロ宣言

 2 ヤ ルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)(1945.2)
    ソ連参戦決定

アメ リカは、本土上陸は出血が大きいので避け、ソ連参戦で日本降伏というシナリオを作った。この頃は日本にとどめを刺す兵器として原爆を開発し ていたが、それが成功するかどうかおぼつかなかった。ルーズベルト、チャー チル、スターリンがソ連のクリミヤ半島の保養地ヤルタで会談ドイツ降伏の3カ月以内にソ連が対日参戦することを確認し、見返りとして樺太と千島を ソ連に与えることを約束した。

      cf)小磯

・小磯は、ソ連に和平の仲介を依頼しようとした。その見返りとして南樺太と北千島の譲 渡を挙げた。しかし、ソ連は対日参戦を考え始めていて、乗ってこなかった。
・満州の現状維持と引き替えに、すべてを中国に譲歩して蒋介石と停戦することも考えたが失敗した。
・陸軍は和平案を認めず本土決戦論を唱えていたため、閣内不統一で総辞職

    →鈴木貫太郎内閣(ソ連に和平調停期待)

・重臣は陸軍を抑えて戦争終結に持ってゆける人物を首相にしたかった。しかし、はっきりした戦争終結派を首相にすると、陸軍が大臣を出さない可能性がある。
・鈴木は海軍大将で枢密院議長。東条英機は陸軍からの組閣を主張したが、重臣が鈴木を推す。陸軍は大臣を送る条件として戦争完遂を出し、鈴木はこれを受け入れた。 しかし、外相は和平派の東郷茂徳を起用する。
・ベルリン陥落を受けてソ連に和平仲介を依頼する。広田・マリク会談と呼ばれるもので、東郷は朝鮮領有以外は譲歩する考えだった。しかし、ソ連はヤルタ会 談で対日参戦を考えているため、時間稼ぎをする。
・陸軍は本土決戦を考え、特攻用ベニヤ作りモーターボート「震洋」など3300隻を作り、一般国民から2800万人を動員して義勇戦闘隊を作る計画を立て る。大本営は天皇ともども長野県松代に移転させるとし、地下基地を建設。しかし、南九州でも、弾薬は一回戦えば終わりという状態だった。

 3 ポ ツダム宣言(トルーマン、チャーチル、スターリン)(1945.7)
    無条件降伏の要求 but黙殺

自分 から負けたと言えない日本に対し、7月26日、米英中の名前でポツダム宣言が出された。ドイツのポツダムでまとめられたもので、実際に関 わったのはルーズベルト死去後に副大統領から大統領となったトルーマン、イ ギリス首相チャーチル、ソ連のスターリンである。会談は7月17日から始まり、8月2日までおこなわれる。
・ソ連は対日参戦をしていないため、スターリンの名は伏せられ、蒋介石の同 意を得て彼の名が入っている。チャーチルは総選挙でアトリーに敗れ、最終的にはアトリー首相の名で出される。
日本を占領して平和政府を作る。領土は4島のみとする。軍隊の武装解除な どを示して無条件降伏を迫る。「右以外の選択は迅速且つ完全なる壊滅あるのみ」
・外相は無条件降伏と言っても交渉ごとは入るので、受け入れるべきと言う。しかし、陸軍は不都合を宣言すべきと首相に迫る。鈴木は間を取り、受け入れると も拒否するとも言わないために「黙殺」すると声明を出した。
・この声明は拒否と受け取られた。戦争をやめたがっていた日本の反応に理解ができなかったという。

C 敗 戦
   原爆投下、

アメ リカは原爆開発に成功した。マンハッタン計画という。ウラン235使用のもの1発、プルトニウム239使用のもの2発を作り、プルトニウム 一つはアリゾナで実験する。
・投下対象地は京都、広島、小倉、新潟を想定。今まで空襲のないところが選ばれた。

Q3 空襲のないところに落とすとした理由は何か。

A3 原爆の威力を示すことが大切。それは大戦後のソ連けん制にもつながった。

・京都を破壊すると対日占領政治がやりにくくなるとして候補から外した。新潟は遠すぎ る。そのため、長崎が第3候補に入る。
8月6日朝、広島に原爆投下。囮の飛行機が去って空襲警報 解除のあと、B29が投下する。すぐに落ちると飛行機が爆発に巻き込まれるため、落下傘で投下。570メートル上空で爆発する。直径100メートル、表面 温度9000〜1万度の火球。爆心地から半径500メートル以内では96.5%が即死。20万人が死亡する。
8月9日、小倉攻撃のために出撃。上空が曇っていたために 長崎に変更される。長崎上空も曇っていたために帰ろうとすると、一瞬雲が切れて長崎湾が見えた。正午、長崎の浦上天主堂上空で原爆爆発。12万人が死亡。

   ソ 連参戦無条件降伏(1945.8.15)

ソ連 は8月8日、ドイツ降伏のちょうど3カ月後に参戦した。これで天皇は終戦を決意したという。日ソ中立条約を一方的に破棄しての参戦だった。
8月9日深夜、ポツダム宣言受諾か拒否するかの御前会議を開く。 阿南陸相は本土決戦で一撃を与えてから講和に持ち込むことを主張。外相と海相は国体護持の条件を出して受諾すべしとした。決着がつかないため、鈴木首相は天皇の裁断を仰ぐとした。これは立憲君主制国家としては異例 のこと。
・天皇は「予定と結果が違っている。本土決戦などというが、九十九里の防衛さえできていない。このままでは日本民族が亡んでしまう。民族を残すため、本土 決戦は避ける」とした。スイス、スウェーデンを通じて国体護持を条件につけ て受諾を連絡
・しかし、回答は天皇であってもサブジェクト・ツー(制限下に置く)というもので、陸軍の反対が生じる。
8月14日、最後の御前会議を開き、天皇は「忍びがたきを 忍んで将来の回復に期待するしかない」「自ら国民に呼びかけよう」という。無 条件での降伏を決断。午後11時に放送内容をレコードに録音。翌日正午に放送することとした。
・この後、陸軍の一部はクーデターを企て、レコード盤の奪取を図るが失敗し、8 月15日正午に玉音放送で終戦の詔が流れる。中身はよくわからず、後から戦争に負けたらしいという話が出回った。


「近現代史」私の考え

●歴史を学ぶ意味
 歴史を学ぶ意義は、今の我々が置かれた境遇が、どのようにして作られてきたかを知ることである。長い日本の歴史の中には間違いをおかすこともあったはず だが、それについてはどうして間違ったのかを反省し、同じことを繰り返さないようにするのが大切である。太平洋戦争については、「あれは正しい戦争だっ た」と主張する人もいるが、私は間違いであると断言したい。
 歴史を見る時は、歴史を動かした人の視点よりも虐げられた人の視点で見ることが大切だと思う。これは、社会的立場の強い人であるほど、備えて欲しい視点 である。対外的には朝鮮、台湾、中国人の目で日本の歴史を見ること。国内的には沖縄やアイヌ、戦中の一般庶民の目で見ることである。太平洋戦争では多くの 人が犠牲になっている。弱者に犠牲を生み出した歴史は反省すべき事柄である。

●戦争未亡人(大正4年生まれ)の話
 Yさんは尾西市に住むおばあちゃんで、22歳の時、昭和13年に結婚にした。当時は相手の顔も見ないで結婚することが多い時代で、結婚式までの間、ご主 人とは一回会っただけだった。それも50メートルも離れたところでお辞儀をした経験があっただけのこと。だから、結婚式の翌日、仕事に出た夫と駅で会って デートをするはずが、互いの顔がよく分からなかったので落ち合えなかった。あとから聞くと、それぞれ近くで待っていたそうである。
 二人の間には3人の子ができたが、結婚5年目の昭和18年にご主人は出征する。昭和20年7月に空襲で家を焼かれ、長男の嫁なので里に帰すことはできな いと言われ、Yさんは夫の両親と住むことになった。戦争が終わってもご主人は帰ってこない。戦死の報告もないため、実家に戻ることもできず、そのままずっ とご主人の両親に仕えて暮らしてゆくことになる。
 昭和27年頃、36歳の時にご主人が帰還するという知らせが入った。ラジオでも放送され、新聞にも掲載された。当時、シベリアに抑留された人たちの帰還 はこの頃であった。舞鶴まで出迎えに行こうという前日、ちょっと待ってくれという連絡が入る。調べたところ、同姓同名の別人が帰還してきたのであり、連絡 は誤りだったというのである。実は、この同姓同名の人の家族の元には戦死したという広報が入り、そのため、この人の奥さんは別の人と結婚してしまってい た。こういう悲劇が、当時の日本ではザラだったのである。
 その後も戦死かどうかの知らせもないので離婚することもできず、そのままご主人の両親に仕えて暮らしていたが、昭和34年、とうとうご主人は戦死してい たという知らせが入る。空の箱を遺骨としてもらっただけのことだった。この時、Yさんは43歳。もう再婚することもできない歳だった。この人の人生は、5 年間だけ結婚生活を送り、あとは3人の子供を育てて義父母に仕え、夫の帰りを待ち続けて過ぎていったと言える。
 それでも今、Yさんは「夫は靖国神社に祭られているから」と言って、遺族としてお参りに行き、「菊のご紋の付いたお菓子をもらってきた」といって喜んで いる。
 こういう事実を知ると、遺族のために首相が靖国神社に参拝するということを、完全に否定するのは心情的に難しい。しかし、靖国神社は戦死者を美化して戦 争に駆り立てた巧妙な装置であり、多くの人が捕虜になって辱めを受けるより、神として靖国に祀られて天皇に礼拝してもらう道をとるように迫られて死んで いったとすれば、そういう装置を開発した政治家を許すことはできないし、靖国の存在自体にも疑問を持たざるを得ない。

●誰が太平洋戦争を引き起こしたのか
 国内では300万人の犠牲者、中国では1000万人ともいわれる犠牲者を出した戦争なのに、その責任者を断定することはできない。この戦争は、政治家た ちの無責任体制の中で始まり、終わっている。日本は初めから「侵略戦争」とか「アジアの解放」などを目指したのではなく、中国に対して差別意識を持ち、ナ ショナリズムを過小評価していたため、ちょっと威せば屈服すると思ってやった軍事行動がどんどん大きくなってしまっただけでなのである。功名心に走る陸軍 の若手をおさえられなかった陸軍中央と、軍部を恐れて手出しできなかった政治家のいい加減さが悲劇をもたらしたと言える。

●どうして無責任が許されたか
 どうしてこんな無責任がまかり通ったのか。そこには天皇の存在が見て取れる。天皇は執政はしないものの、その権威を利用して政治がおこなわれ、「陛下の ために・・・」として政治がおこなわれていった。政治を動かしてる者は自分が最高権力者である責任を自覚せずに行動してゆくことになる。
 終戦時の政治家たちは、必死で国体の護持=天皇制を守ろうとしている。ポツダム宣言を受諾するのか拒否して壊滅するかの二者択一を迫られたとき、8月9 日深夜、御前会議が開かれた。阿南陸相は本土決戦で一撃を与えてから講和をしようと主張し、外海相は国体護持の条件を出して受諾しようと言う。結局、政治 家たちは結論を出せず、最後は天皇が判断をしている。「予定と結果が違っている。陸軍は本土決戦などというが、九十九里の防衛さえできていない。このまま では日本民族が亡んでしまう。民族を残すため、本土決戦は避ける」と天皇は述べ、結局、日本はスイス、スウェーデンを通じて国体護持を条件に受諾を連絡し た。この回答待ちのために終戦が遅れることになる。
 連合国の回答は、天皇であってもサブジェクト・ツー(制限下に置く)というものであり、陸軍は反発して決戦を叫ぶ。しかし、8月14日の最後の御前会議 で天皇は、「忍びがたきを忍んで将来の回復に期待するしかない」「自ら国民に呼びかけよう」と言ったという。ここで、天皇が天皇制廃止を覚悟していたもの とされている。

●天皇の戦争責任
 責任者が明確でないときは、トップが詰め腹を切るのが普通である。ここから、昭和天皇の戦争責任論が出てくる。しかし、戦後、多くの国民は天皇の戦争責 任は問わず、アメリカも天皇制を否定することは、日本の占領政治を円滑におこなうためにやるべきではないと考えた。では、戦争責任はどうなるのか。天皇の 戦争責任を問わないならば、責任は日本人全員で負う。これが一億総懺悔論だが、それは釈然としない。したがって、一部の「戦犯」に責任を押し付けるごまか しでしのぐことになる。ここでも無責任ぶりが発揮されているのである。
 天皇は戦争責任をとって譲位するべきだったという主張がある。私もこの主張を支持したいと思う。日本の歴史上の天皇は、その形で責任をとることが多かっ たからである。アメリカ側も、初めは譲位という形で責任をとらせ、天皇制自体は残そうという腹だったという。しかし、途中から、譲位をさせるということは 日本の中の左翼勢力を勢いづかせ、日本を右側陣営に残せなくなるとの判断が出てくる。この点で、昭和天皇は、今度はアメリカの占領政治のために利用された と言えるであろう。

●天皇制があるのが問題か
 天皇制は、政治家にとっては大いに利用できる制度である。しかし、このような負の側面の他、いざというときに国民の結束力をもたらすメリットも持ってい る。幕末の日本で、植民地化の危機を救ったのは尊王攘夷思想であった。民衆の結束ができなかった多くのアジアの国が植民地となったのに対し、日本は「一君 万民論」で結束することができた。そして、明治から昭和初期は小攘夷から大攘夷に発展させ、列強と張り合う「尊王攘夷」路線を取る。しかし、最後は政治の 無責任化を招くデメリットが吹き出し、侵略戦争で自滅したのである。

●政治家の責任の取り方
 明治維新をおこなった西郷や大久保は、自分のやったことについては、それがいいか悪いかは別にして責任を取っている。第二世代の伊藤博文や山県有朋にな るとかなり誤魔化しが入ってくるが、それでも政治家としては筋が通っていた。それに対し、第三世代の政党政治家や軍部の連中は、失敗を取り戻そうと何かを して失敗するくり返しだった。自分のやったことが失敗すると辞任という形で責任を取るとしているが、辞めることは責任を取ることにならず、もっとひどい結 果を招いている。若槻礼次郎、近衛文麿、石原莞爾などが典型である。昭和期の戦争は、これら無責任政治家が起こしたものであり、国を守るための戦争でも、 アジアを解放するための戦争でもなかった。言うならば、無責任政治家にとって都合のよい国家体制を守るための戦争であり、国民は無責任政治家の尻拭いをさ せられただけであると言える。
 侵略に対し、国を守る戦争というのは確かにあると思う。しかし、国を守るという美名の裏で、実際には無責任政治家が作った国家体制を守るために国民が引 きずり出されるということがありはしないか。これが太平洋戦争から学ぶ教訓である。
 しかし、どうしてこういう政治家が生み出されてきたのかということは国民の問題である。テロを野放しにし、民主的な手続きを軽んじ、植民地を維持して中 国を蔑視するという風潮が当時の日本にはあった。間接民主主義というのは難しいものである。政治家任せであれば、このようなことが今後も起こりうるであろ う。これが日本の近現代史から学ぶべき教訓である。

●あるべき天皇制の姿
 日本の天皇家はギネスにも載る長く続く家系であり、天皇制はその祭儀などを含めて一種の「文化遺産」として守るべきものだと思う。しかし、天皇を利用し ようとする勢力は常に存在する。政治の失敗が天皇を利用することでカバーできるからである。シビリアンコントロールがなければ軍隊が危ういのと同じく、天 皇は象徴に留めなければ危うい。天皇機関説を徹底したものが現在の象徴天皇制であり、それを維持することが大切になる。今の天皇は「象徴天皇制はよい。日 本の歴史の中で、多くの時代はこの形だった」と言っている。



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