<第二次世界大戦と枢軸国の形成>
[第二次世界大戦]
A ヨーロッパのファシズム国家の台頭
1 ドイツ(ヒトラー、ナチス)
ベルサイユ条約破棄(1935)→再軍備、オーストリア併合(1938)
・ヒトラーは1935年にベルサイユ条約を破棄し、再軍備を進めていた。オーストリア
の併合を目指し、ナチスを作って勢力拡大。オーストリアは反ナチス宣伝、過激なナチスを逮捕する。
・1936年、独墺協定を結んでオーストリアはドイツ人の一国家とし、反ナチスの動きを防ぎ、合併を持ちかける。オーストリアは国民投票にかけようとする
が、各州でナチスが蜂起し、1938年、オーストリア政府はドイツ軍が進駐
してくる中で合併を認める。
→チェコ、ズデーテン地方占領(ミュンヘン会談で英仏妥協)
・チェ
コのズデーテン地方はドイツ人の多い地域で、ヒトラーは「これがヨーロッパにおける最後の領土的要求。世界戦争も辞さず」といって併合
を迫る。
・1938年9月、ミュンヘン会談で英仏伊が併合を認める。
チェンバレン英首相は「戦争は避けられた」と言ったが、この工業地帯をとったことでドイツの生産力は飛躍的に向上する。
・1939年、チェコ大統領をベルリンに呼びつけ、チェコ全土の引き渡しを
要求し、チェコを占領した。
2 イ
タリア(ムソリーニ、ファシスト党)
エチオピア侵攻(1935〜)
=日独伊防共協定(1937)で「新秩序」主張
B 日本のドイツ接近
平沼騏一郎内閣
・近衛
は汪兆銘の脱出を機に首相を辞める。口癖は「ああ嫌になった。早く辞めたい」。後継は何度も候補に挙がった平沼となる。西園寺は第一次近衛
内閣を作ったのを最後に後継首班指名をしないこととしていた。
ソ満国境での紛争 ex)張鼓峰事件、ノモンハン事件
・陸軍は満州国を維持するためにソ連と戦うことを考えていた。
・張鼓峰事件は1938年7月、豆満江流域・ソ満の国境不分
明地区で起きたもの。ソ連軍を撃退しようと現地陸軍が独断で攻撃。圧倒的なソ連機械化部隊にやられる。
・ノモンハン事件は1939年、満州・外蒙古国境地帯で勃
発。小規模な紛争をきっかけに日本側が130機の飛行機で外蒙古の飛行場を爆撃した。ソ連はモンゴルとの相互援助条約によって反撃。戦車、重砲、飛行機を
繰り出す。日本軍は戦車に対して火炎瓶で立ち向かう有様で、圧倒的な物量の
ソ連機械化部隊の前に関東軍精鋭の第23師団が壊滅した。
Q1 関東軍はショックだった。ソ連に対抗するためにどうしたか。
A1 細菌兵器の開発に乗り出す。軍医からなる731部隊。 |
・捕虜
となった中国人を実験台にしてペスト菌やコレラ菌を注射する。人間相手の実験だと気が引けたのか、マルタと呼ばれた。体温や脈拍の推移を記
録。あるところでデータが途切れて「処置」と記される。
・兵器として使う場合は陶器の弾玉の中に封入する。撃った場合、体に直接当たるとそのために負傷したとすると効果が分からない。前に胸当てをして弾を撃
ち、体に菌を付着させた後、これを隔離して病状を見ていった。
・細菌兵器は国際法違反。戦後の東京裁判で裁かれて当然だったが免罪と
なる。膨大なデータを取っていたため、アメリカがこれを欲しがっていた。対
ソ戦に備えるためにデータと引き換えに無罪としたという。
→ドイツと結び、北進を企図
・ドイツはアジアでイギリスをけん制するため、日本にイギリスを仮想敵国とする三国軍
事同盟の締結を持ちかける。日本はソ満国境での紛争があるため、外務省はソ
連を仮想敵国にする軍事同盟を持ちかけた。ドイツは防共協定を結んでいるため締結できると考えたがヒトラーは難色を示す。
・ドイツは第一次世界大戦後、支配地の中からポーランドを独立させていた。この時、ポーランド領内に飛び地として東プロイセンが残されることになった。これを併合した
かった。ポーランド侵攻をすればソ連とぶつかる。したがって、ソ
連とは手を結ぶことを考えていた。
but独ソ不可侵条約締結(1939.8)で混迷(辞職)
・ソ連もドイツと日本の挟み撃ちは嫌なので、ヒトラーに応じる。1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印される。ドイツと結んでソ
連を叩こうとしていた平沼は外交の方針を見失うことになった。「欧州情勢は
複雑怪奇」として総辞職。
C 第二次大戦の勃発
ドイツのポーランド侵攻(1939.9)(ソ連と分割)
・1939
年9月1日、ドイツは150万の機械化部隊でポーランド回廊に侵攻。飛行機7分の1、戦車40分の1のポーランド軍は騎兵隊で抵抗するとい
う時代遅れ。すぐに壊滅して、27日にワルシャワ陥落。東からはソ連が攻め込み、独ソによって分割されることになる。ソ連にとっても、この地は民族自決
の考えによって、第一次大戦後に独立させられたところと理解していたので取り戻したかった。
∴英仏の宣戦
・英仏
は9月3日に対独宣戦をするが、実際には本格的な戦闘はなかった。ドイツはポーランド占領を認めさせる外交交渉に入り、事実上休戦。英仏がもたもたしている間にヒトラーは西部戦線への侵攻準
備を整える。
→ドイツの電撃作戦でフランス降伏(1940.6)
・1940
年4月、ドイツは西部戦線で電撃作戦を展開する。飛行機による爆撃、砲兵の砲撃、戦車による侵攻で、デンマーク侵攻、ノルウェー占領、オラ
ンダ、ベルギー、ルクセンブルクを攻撃。
・ベルギーでドイツ軍を迎え撃つはずだった英仏軍は、ドイツ国境付近の要塞・難攻不落のマジノ線を突破され、イギリス軍はダンケルクに追い落とされる。
・ドイツは6月5日からフランス総攻撃、14日にパリ突入。フランスは降伏
し、22日の休戦協定で国土の5分の3がドイツ占領下に入る。残りにペタン政権が樹立されるが、ドイツの傀儡政権だった。国内にはレジスタ
ンスが組織されて抵抗し、ロンドンにはドゴール亡命政権ができ、ラジオ放送で抵抗を呼びかける。
[第二次大戦への日本の対応]
A 阿
部信行、
・平沼辞任で、後継首相には近衛、広田、林、阿部の名が上がる。近衛は拒否し、広田は
陸軍が反対、林は落第で阿部になる。陸軍大将だが予備役。阿部信行は現役を
立てる自信のない陸軍が中継ぎとしたものだった。結局は政治を取り仕切る自信を持つ者がいなくて押し付け合いになったのである。
・1939年7月(平沼内閣時)に、アメリカは日中戦争をとがめて日米通商
航海条約の廃棄を通告してきた。これだと鉄鋼や石油が入らなくなる。阿部は新しい通商条約締結の交渉をするが、1940年1月に発効してし
まう。これでアメリカとの貿易は条約によらない不安定なものになってしまう。
・物資不足で物価高騰。ヤミ値高騰で阿部内閣の人気はがた落ちと
なる。陸軍が見限ってつぶれる。
米内光政内閣
・海軍
から米内光政が組閣。陸軍を抑えようという昭和天皇の意志があったという。対米英協調外交を展開した。
・海軍は陸軍に比べれば国際的な感覚がある。海軍兵学校を出て水兵になるが、卒業の時は練習艦に乗って外国に行く。3ヶ月間。日本、台湾、フィリピン、シ
ンガポール、オーストラリア。植民地や先進国などを廻って各地で現地の人と交流している。列強と戦争をするとどういうことになるかが分かっている。こうい
う点で海軍が期待されたのである。
・しかし、この内閣のもとで軍部専制はさらに強化される。斎藤隆夫は「一度戦争が始まれば、聖戦だといっても、結局は力の争いになる」と反軍演説。陸軍が
聖戦を侮辱するものとして攻撃して除名される。もはや政治ではない。
大戦への不介入
・阿部も米内も大戦には不介入の方針をとった。大戦に介入するということはドイツの味
方をすることであり、イギリスを敵に回す。その戦いは海軍がやらなければならない。アメリカも参戦するかもしれない。海軍は英米との戦争は勝てないと踏んでいる。とりあえずは大戦不介入で現状維持がよ
い。
・これに対して陸軍は不満を持った。陸軍は日中戦争でしんどい。早くやめるには大戦を利用するのがよいと考えた。
butド
イツと結んで南進の主張強まる(陸軍)
Q2 どうして南進するのか。
A2 蒋介石は重慶で徹底抗戦。ベトナムからの援蒋ルートを寸断しないと戦争に勝てない。ベトナムはフランスの植民地だが、ドイツがパリを占領しているの
で、ドイツと提携すればベトナムに軍隊を出せる。
|
=援蒋ルート寸断し中国孤立化、南方資源確保目指す(対米英開戦)
・マレーシアにはゴムやボーキサイト、スズがあり、さらに南に出た蘭印には石油があ
る。日本は石油をほとんど産出しないのでこれが欲しかった。オランダもドイツに占領されており、圧力をかければこの石油も手に入る。南方資源を確保すると長期戦が可能になる。
Q3 この政策を進める上での問題は何か。
A3 南進政策は東南アジアの資源を押さえ、英仏蘭植民地を獲得するチャンスでもある。 |
・しかし、英米は敏感に反応するはずなので戦争になる可能性もある。日中戦争を終
わらせることができるか、次の戦争になるかの博打である。
・戦争
したくない海軍の米内は対米英協調外交を展開していたので、この内閣では南進を進めるには不都合。陸軍に言わせれば、海軍はあれだけ軍艦を
増やしたのに戦争できないというのは無責任で弱腰だと非難した。こんなときに近衛は新体制運動を始めたのである。
cf)新体制運動(近衛)
強力な指導力を持つ新党結成で軍部統制企図
・1940年6月24日、近衛は「未曾有の変局に対処するため、強力な政治体制を確立したい」と声明を
出していた。
・軍部、官僚、政党の思惑が異なり、林〜米内の内閣はそのバランスの上で政治をせざるを得なかった。このため、はっきりした政治の方向付けができなくて何
をするのでも中途半端だった。
・政治を軍部が左右していることに対し、近衛はこれを抑えるためには大衆組
織を基盤に国民を統合しないとダメだと考えた。軍部を抑えて日中戦争を収拾し、大東亜共栄圏の名の下で各民族の自主と共同をうたい、国内で
は財閥独占体制の是正などをおこなうことを目指そうというのである。
・しかし、表立って軍を抑えるための運動だとはいえない。何かをやってくれ
ようという近衛に対し、国民も政党も、抑えられるはずの軍もそれを期待した。
・国民は戦争の長期化と政治腐敗に嫌気がさしていたため、新体制に期待した。
・政党は新体制運動に合流することで政治主導権を奪還したかった。
そのため、政党は「バスに乗り遅れるな」と言って、新体制ができる前に解党
してしまった。
・軍部はナチスのような一国一党を実現し、対米英戦をおこない、これに勝っ
て中国を屈服させたい。ドイツの勝利にあやかりたかった。
・近衛内閣のもとで南進をしようと考えた陸軍は、1940年7月16日、畑
俊六陸相を辞任させ、後継を出さず米内内閣を倒した。こうして近衛内閣を実現するのである。
but軍部に利用される
B 第
2次近衛内閣
広範な国民の支持
・米内の後継指名を頼まれた西園寺は一抹の不安を持った。「この奉答だけは御免蒙りた
い」。結局は重臣(内大臣と首相経験者)が近衛を指名した。
・陸軍は陸相に東条英機を推薦。頭の回転が早く「カミソリ東
条」と言われ、主戦派の代表だった。外相には松岡洋右。軍部を抑えるどころ
ではなく、「ぴったり一緒にやってゆく」路線となってしまう。
・強力な組織はどういうものにするか、それぞれの勢力がばらばらの主張をしてまとまらなかった。一国一党はナチスの真似とかソビエトの真似という批判も出
て、近衛はやる気をなくしてしまった。
1 大政翼賛会(←新体制運動)1940
全政党の吸収
but利害対立し政治組織とならず
・全政
党を吸収した大政翼賛会が発足する。首相が総裁、全国に支部を設置して道府県知事が支部長となる。首相兼翼賛会総裁となった近衛は大政翼賛会の目的について「大政翼賛の臣道実践以外に綱領も宣言もなし」と言い、政策
は作らないと宣言する。結局は軍部を抑える政治組織にはなら
なかったのである。
→政策の上意下達のための機関
・その後、大政翼賛会はすべての組織を飲み込んでしまう。1942年には産業報国会、大日本婦人会、部落会、町内会、隣組を指導下に収めた。こ
のため、あらゆる組織を使って国民に軍と政府の言うこと、戦争体制に従わせ
るための組織になる。「政府と表裏一体協力の関係に立ち、上意下達を図る」のが目的とされた。
=産業報国会、隣組通じ国民統制
・産業
報国会は労働組合を解体して作ったもので529万人の大組織。職
場の労働者はこれで管理された。
・隣組は国民生活を相互監視し、上意下達の組織として作られる。
金属供出、物資の配給、貯蓄の割当、回覧板、防空演習、出征兵士の見送りなど、いろいろな命令を出して守らせる。
・「贅沢は敵だ」のスローガン。指輪などの製造禁止、ダンスホール閉鎖、国民服・モンペの奨励、「翼賛美人は骨盤の広い女性」などが宣伝される。
・「滅私奉公」の名の下に不安や不平を漏らせなくなる。戦死すれば「軍国の母」「軍国の妻」として「うちの子は天子様にあげた子」と言わせる。反対者はア
カとして検挙。
※ファシズム支配体制の確立
cf)植民地への皇民化政策(創氏改名、日本語教育徹底、神社参拝)
・朝
鮮・台湾からも兵たん基地として資源を徴発した。人的資源として労働力を日本へ移し、鉱山労働や兵力などに充てる。
・創氏改名は1939年から実施。朝鮮民族は姓を父系で継承
するため、結婚しても妻の姓は変わらない。姓は祖先からのものとして大切にされ、族譜では先祖代々の系譜が記される。先祖の出身地(本貫)を同じにする者
は結婚できない。この家族制度を否定して「家」で継承する「氏」を新しく作らせ、ついでにそれを日本式にしろというのが創氏改名。届出制であり、届けのな
いものはもとの朝鮮姓を「氏」にした。応じなければ行政・教育で差別され、80%が従う。
・日本式の姓がないので差別をされると言って、朝鮮人が創氏を求めたという主張がある。一部にそういうこともあったかも知れないが、例外である。
・1938年、学校での朝鮮語使用を禁止した。歴史も日本国
史が教えられる。
・朝鮮では、1919年の朝鮮神宮を始め、1930年代に2000を超える神社が作られていた。1937年、学校現場や儀式の時に神社参拝が強制される。拒否者2000人が投獄される。参拝すると配給
手帳に押印され、これがないと食糧配給で差別されることもあったという。
2 日
独伊三国軍事同盟 1940
第三国からの攻撃に相互防衛(枢軸国)
→米英けん制し南進
・南進政策は、日中戦争の収拾のために援蒋ルートを断つのが目的である。だめでも長期
戦に備えて南方資源が確保できる。しかし、そのためには英米と戦争になる可
能性がある。したがって、これをけん制するためにドイツと手
を組む必要が出てきた。
・一方、ドイツはイギリス攻略に手を焼いていた。ドーバー海峡を渡って攻撃することは難しかったのである。また、イギリスはアメリカに援助を求めており、
なんとしてもアメリカ参戦を阻止したかった。日本と同盟を結べば、アメリカをけん制できるのではないかと考えた。
・日独の思惑が一致し、イタリアも交えて防共協定を軍事同盟に格上げす
ることになった。1940年9月27日、ベルリンで調印し、ベルリン・ロー
マ・東京枢軸で世界を回すと宣言した。しかし、実際には役立たずに終わる。
・同盟締結は米英を刺激し、逆に対米英開戦の恐れが高まることでもあった。事実、この後の歴史はその方向で動いてしまう。米英との戦いは海が舞台であり、
戦うのは海軍なので、御前会議では反対意見が強かった。しかし、海軍は軍備拡張を条件に妥協してしまう。どれだけ軍備拡張をしても米英相手に勝てる目算は
ないのに、目先の予算に飛びついたのである。
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