<日中戦争の勃発>
[準戦時体制の確立]

・二・二六事件の後、ただ1人の元老・西園寺が上京する。国内的には立憲君主制、国際 的には協調外交を望み、松方が死んだ後はただ1人の元老となっていた。二大政党制下の「憲政の常道」を作った人物。
後継首相候補は近衛、平沼、宇垣。平沼は天皇機関説排撃を したため反感が募っていた。宇垣は民政党内閣の陸相で軍縮をしたので好感を持っていた。しかし、三月事件の裏切り者として陸軍内で反発がある。
・残るは近衛文麿。五摂家筆頭で、若くして貴族院議長を務め る。一高、京大を出て志賀直哉、武者小路実篤らの「白樺」派と交友がある。第一次大戦後、英米 による世界制覇に対し「英米本位の平和主義を排す」という論文を出し、人間の平等と日本人の生存権を主張した。これが軍部に好感を与える。一方、軍国主義 排除のため参謀本部制度改革やファシズム反対を述べる。これが自由主義、政党勢力に好感を呼ぶ。要するに広がりを持つ人物だった。しかし、それぞれの人間 が自分の好きなところを取り出して近衛に期待したもので買いかぶりであった。
西園寺は近衛を推薦し、天皇の大命降下となる。しかし、健 康上の理由で辞退。本当は皇道派粛正に対して近衛が不満を持っていたためだった。皇道派は共産主義を敵視していたため、ソ連を仮想敵国とする。したがっ て、近衛は皇道派を英米中には自重する勢力と見ていた。
・この時に首相を引き受けた方が彼のためだった。この後、政治は陸軍統制派によって操られて抜き差しならなくなり、近衛が首相になる時は取り返しがつかな かった。
近衛がダメなので広田弘毅が候補となる。内田康哉が満州国 承認をし、列強との摩擦を生じた後の外相で、国際的孤立を緩和し、「和協外交」を唱えていた。
・広田は基本的には無力な人間。城山三郎は「自分で計らわない人」として小説に描く。しかし、時代の曲がり角にあって方針を明確化できないのは困る。
・広田は東京裁判で絞首刑となった7人のうち、ただ一人の文官。起訴されそうになった文官のうち、近衛は自殺し、松岡は審理中に死亡している。軍部の暴走 を止めることができなかったという点で責任がある。しかし、自分で侵略をそそのかしたことはなかった。文官から一人は戦争責任者を出す必要があった。この 意味では最大の犠牲者。

    広田弘毅内閣(陸軍の干渉)

・陸軍は広田が作った閣僚リストを点検し、自由主義的なメンバーとして、内務、外務、 商工、司法、文部、農林、拓務などの大臣を替えさせる。広田内閣は陸軍統制 派によって作られたと言える。

   cf)軍部大臣現役武官制復活

・粛軍で皇道派を予備後備役に投入。これらが復活しないようにという名目で軍部大臣現役武官制を復活した。「粛軍」の名の下に政治に関与する体制を確立している。

  →大陸権益の固守図る=ソ満国境での対立
    ∴対ソ戦の準備必要

・ソ満国境のソ連軍は14個師団、24万。航空機は950機。日本は5個師団8万人。 航空機220機。戦争になったら勝てないと言われた。

 1 広義国防政策(国策ノ基準)

・陸軍が軍拡をしたなら、対抗上、海軍も求めてくる。日本の陸軍と海軍はライバル関係 にあった。国際連盟脱退のため、南洋諸島の返還を要求されることが心配。海軍はこれを守るために増強を求める。
陸軍と海軍の軍備拡大要求を調整するため、五相会議による「国策ノ基準」 を決定。大陸と南方を日本を中心にブロック化する。そのために広義国防が必要というもの。東京裁判では侵略のための共同謀議とされ、広田A 級戦犯の根拠とされた。

    増税による軍備拡張(ex)大建艦計画)

・国防の責任を国民にも負わせ、国民精神を戦争に向けて統一するとした。
・軍備増大により、歳出の43%が軍費になった。対して国民生活安定費はわずか1.6%である。6億円の増税と8億円の公債を発行。ワシントン条約がなくなったので、大建艦計画を立て、「大和」「武蔵」を含む73隻を 5年間で作る。

 2 日 独防共協定 1936
    ∴ナチスドイツと協力してソ連共産主義防衛

・孤立した日本は同じようにヨーロッパで孤立しているドイツ手を結ぶことにした。ヒト ラーも反共、ファシズム体制を目指す。日独防共協定は 1936年11月、ベルリンで調印。コミンテルンの破壊活動を防ぐために情 報交換、協力をするとし た。秘密協定で対ソ戦の場合は援助することも約束している。
・駐ドイツ陸軍武官がナチスのリッペントロップと結んだものを追認したもので、広田の意志ではない。
・米英はファシズムブロックの形成だと非難した。1937年にイタリアも参加。ヨーロッパの火中に巻き込まれることになり、次に三国軍事同盟に発展する。これも広田がA級戦犯とされた理由。待っ たをかけなかった点では悪いが、広田が結んだものではない。

    but陸軍の横やりで総辞職

・陸軍の横暴に対し政党は不満。1937年、議会で政友会の浜田国松が軍部批判をし、 「軍が独裁をしようとしている」と言った。陸相が答弁し、「軍人を侮辱する発言があったのは遺憾」。浜田は「どこが侮辱か。速記録を点検し、侮辱していた ら腹を切るが、なければそっちが腹を切れ」と見栄を切った。これが「割腹問 答」で、陸軍はあんな議員がいる議会は解散しろと迫り、解散 のできない広田は総 辞職する。

   cf)宇垣一成の組閣流産→林銑十郎内閣

・病床の西園寺は後継に宇垣を指名して天皇の大命降下とな る。しかし、陸軍は宇垣に反対。統制派にとり、重臣と結ぶ宇 垣は思い通りに操れない。陸相を出さなかったために組閣はできずに流産し てしまう。天皇が命じたのに組閣できないのであ る。これというのも軍部大臣現役武官制のため。
・西園寺は第一候補平沼、第二候補を陸軍の推す長老・林銑十郎と した。
・結局は林内閣となる。林は満州事変のときに勝手に朝鮮から軍を率いて満州に行った人物で越境将軍と言われた。彼は祭政一致が政治目標だと述べて神がかっ ていた。軍の傀儡で国民からは人気なし。予算だけ通して理由 もなく解散。無産政党の当選を増やしただけで総辞職する。

  ※ 陸軍の政治的発言力の増大
   国民の強い不満→近衛文麿内閣による民心掌握

国民 の心をつかむため、西園寺は近衛しかいないとする。46歳と若く、国民の大きな期待を集める。今回は断れずに引き受けた。しかし、外務大臣 に広田を入れたのがネックとなる。中国問題で消極的。

[日中戦 争の勃発]
  中国の状況
   関東軍による満州支配(塘沽協定)

・満州事変は停戦になっていた。1933年、関東軍と国民政府北平分会が塘沽停戦協定を結び、万里長城の南に非武装地帯を設置することになっ た。
・事実上、国民政府が日本の満州支配を認めたもので、ここで止めておけば泥沼の戦争には至らなかったとされる。日本は国際的に孤立はしていたものの、満州 利権は確保できる。

   国民党と共産党の内戦拡大
    ∴内戦に乗じ華北分離工作

・国民政府と共産党の提携が崩れ、内戦が再発。日本は天津の日本人殺害事件に際し、北 平分会に対して国民党中央軍の撤退を要求し、非武装地帯に傀儡の冀東政府を 発足させた。統治権を与えて華北に自治運動を起こし、華北分 離を進める。
・国民政府はこの動きに対抗するため、共産主義防止に協力するとして河北省一帯に冀察政務委員会を作る。
・陸軍省の方では拡大したくなかった。関東軍がどんどん進める。西園寺は、「満州は日本の利権のある土地で、歴史的関わりもあるので満州事変は仕方なかっ た。しかし、将来に禍根を残すかも知れない。いわんや北支に手を伸ばしたらとんでもない」と言っていた。これに対し、力の及ぶ範囲を拡大したいというのが 軍部の根底にある考え。功名心もはたらいて勝手に華北分離を 進めてゆく。
・満州よりも華北の方が資源、市場ともに魅力的。日中交渉で華北の日本権益を求める。この間、関東軍は内蒙古に独立運動を組織して国民政府に対して挙兵さ せようとして失敗。交渉は打ち切られる。内蒙古の独立運動を画策したのは田中隆吉と武藤章。武藤はA級戦犯である。
・中央の言うことを聞かないで実行しようとしていることに対し、関東軍から中央の陸軍参謀に出世していた石原莞爾が止めにゆく。「石原さん、あなたが満州 でやったことを我々もやっているだけ」と言われて返す言葉がなかった。

A 内戦の中断

・1934年、中国共産党は蒋介石軍との決戦を避け、「抗日北上」の方針を出す。瑞金 を捨て長征に出る。1年2カ月かけて1万2000キロを戦いながら移動。北京の西の延安に着く。この戦いで10数万の共産軍は3万人に減る。
・コミンテルンは内戦停止と抗日統一戦線結成を呼びかけ、1935年12月、日本の華北分離に反対する学生運動も広がる。

   西安事件(張学良による蒋介石軟禁)

・延安を攻略する張学良軍は、西安に陣取る。張学良は共産軍攻撃に消極的。「抗日」に共感し共産軍の周恩来に接近し 始めていた。
・張は督励に来た蒋介石を3時間にわたって説得。抗日のため内戦停止を要求。 「共産党にだまされている」と叱られ、蒋介石の逮捕監禁に踏み切った。 周恩来が釈放を促し、蒋介石は抗日容共を認め、共産軍との停戦を命じる。 以後、張は長期軟禁に置かれ、台湾に連行される。

     →容共、抗日に転換
   ∴日中対立激化

・中国には満州事変以来の日本に対しての反感が積もりに積もっている。至るところで日 本人に対しての攻撃も起こる。

B 日 中戦争
   盧溝橋事件 1937

・日本は北清事変の駐兵権で、北京・天津近郊に北支駐屯軍を置いていた。1937年、北支駐屯軍が盧 溝橋東の豊台で夜間演習。中国は警戒を強め、盧溝橋付近に兵力を増強した。
・7月7日、7時半から日本軍が夜間演習を始める。終了時の 10時40分、どこかから数発の実弾が撃ち込まれ、点呼をとると兵隊1人が行方不明だった。日 本側は中国軍が発砲してきたものとして中国軍に対して攻撃を開始。 盧溝橋を占拠した。不明者は実は用便中で後から出てきた。こいつが下痢をしなければ日中 戦争はなかったとも。
・東京裁判では、柳条湖事件が日本の謀略とされたのに対し、盧溝橋事件は特定できなかった。最初の一発の主は現在もわからない。

    日中両軍の衝突

政府 も軍も事態を拡大しない方針で一致した。作戦部長は石原莞爾だった。ただ、抗日運動に釘を差すため、事態は拡大しないが内地から軍隊を派遣 して圧力をかけることとし、師団派遣と謝罪要求の声明を出すことにする。しかし、現地軍は中央を無視して拡大の方針をとる。
・中国は宣戦布告と判断して兵力を増強。戦火を拡大させたい現地日本軍といざこざが発生する。7月28日、増援された内地師団を使って全面戦争に発展し た。北京周辺を占領してしまう。石原は「不拡大の方針に従う振りした連中にダマされた」と嘆いた。
・日本は局地戦で一撃を加え、中国に謝罪させて停戦に持ち込む考えで和平案 を準備していた。しかし、8月9日に上海で日本士官が射殺され、戦争は上海に飛 び火する。第2次上海事変といい、中国軍12万に対して日本陸戦隊2500人が上陸した。3万人の居留民保護のために艦隊も集結。中国はこ れに対して共同 租界を盲爆し、千人以上が死ぬ。日本は報復として渡洋爆撃をおこない、不拡 大方針を放棄して華中で全面戦争に発展してしまう。

    国共合作(2次)により抗日 民族統一戦線結成

・共産党軍は第八路軍に編成されて国民政府の指揮下で戦争をおこなうことになる。こう して日本を共通の敵とする第二次国共合作ができ、9月には抗日民族統一戦線 が結成される。

     →短期中国制圧目指す

・中国はクリークを使って防御線を構築。日本軍は突破に3カ月かかり大いに苦戦。1日 に100メートルしか進めないこともあった。寄せ集めの予備役、後備役兵(20代後半から30代)を投入していたため、士気も低かった。
・突破後、指揮をとっていた中支那方面最高司令官の松井石根は、南京を落と せば降伏するだろうと読む。陸大を主席で出た人物で、同期は荒木貞夫、真崎甚三 郎、阿部信行など。その中で松井は出世できず、早くから予備役に出ていた。日中戦争勃発で司令官として復帰し、手柄を立てるチャンスで功名心が働いた。こ れに対して陸軍中央は待ったをかけるが、ここでも現地軍が独走す る。
・400キロを一日30キロほども前進。補給追いつかず、補給なしで進撃することにする。物資は全て現地徴発=掠奪で確保。抵抗すれば敗残兵狩りとして一般人に 対しての虐殺が許されることになる。
・兵隊は上海戦が終われば帰国できると思っていたのが駆り立てられて不満。それを中国人に向けて強姦や略奪、虐殺を働くことになる。これを監督する下士官 も急に集められた者で無能なものが多く、自分より年上の兵をうまく扱えなかった。
・南京に着くまでにどっちが先に中国兵100人を殺すか賭けをした奴がいた。「100人斬り」と称して新聞でも報道される。本来は捕虜として扱うところを 殺している。どっちが先に100人になったかわからず、上官の命令でもう一度100人斬りをすることになった。この2人は戦犯として処刑されている。こう いう報道に対し、日本人はおかしいと思わなかった。中国人に対しての気持ちはそんなものだったのである。

      首都南京占領
       cf)南京大虐殺

・12月10日から南京攻撃にかかる。周辺を合わせて人口は150万人。国民政府は降 伏せず、漢口に逃げたため、13日に日本軍7万人が南京城に入城する。陸軍中央は入城をやめるように言うが、現地指揮管は無視した。無理な 戦いをさせたた め、将兵に対する兵隊の不満を解消する必要があった。日本軍にも食糧がなく、ご 褒美として市中での略奪や強姦が黙認される。
捕虜は投降してくるが、食べさせられないために虐殺を開始す る。苦戦後の一種の興奮状態で片端から殺戮。15日の夜だけで2万人を殺したとされる。敗残兵と一般市民との区別つかず、市民も虐殺される。
・ドイツによる国際救済委員会は4万2千人が虐殺されたとする。南京までの間で30万人が虐殺されたと推計される。
・強姦事件が激発。金陵女子大学に女性は逃げ込むが、そこで難民キャンプを開設したフィッチというアメリカ人は、一晩で1000人の婦人が強姦され、気の 毒な人は37回も被害にあったとしている。また、5ヶ月の赤ん坊の泣くのがうるさいとして殺し、母親が強姦される場面もあった。安全区国際委員会委員長の ドイツ人・ラーベは、最終的には2万件の強姦事件が起きたとしている。
中国人に対しては差別意識を持っていたところに、反日運動などで腹を立 て、何をしてもよいという感覚だったと言える。
・南京大虐殺は教科書検定でいつも問題になる箇所。本多勝一は「中国の旅」で中国側の証言をとって大虐殺があったとしたが、「文芸春秋」などが「なかっ た」「虐殺があったとしても人数は少ない」などと主張してきた。「こばやしよしのり」などもこの路線。
・中島今朝吾という師団長が、何万という捕虜を持て余して殺したと日記に記している。これが1984年に中央公論から出たことよって、虐殺があったことは間違いないとするのが定説となっている。
・陸軍士官学校同窓会誌が「証言による南京戦史」をまとめる。初めは虐殺はなかったとする本にしたかったが、証言が集まってみると虐殺をやったり見たとい う話ばかりになってしまった。
・人数の問題はわからないが、何人以上だと虐殺という定義もない。20万人というのが妥当な数字というが、これからの研究待ち。南京大虐殺の用語を嫌う教 科書では南京事件と記している。どちらがよいかは受け手の判断であろう。

   =中国の徹底抗戦(重慶遷都、仏印からの米英ソの援助)

・蒋介石は世界戦略を立て、近い将来に第二次大戦が起き、日本はソ連とアメリカと戦っ て負ける。その時に満州、華北の失地を回復し、中国の統一を図ろうと考えた。したがって、それまでは焦土戦術で戦争の長期化に耐えることになる。このた め、国民政府は重慶に移って仏印からの援助を受け、徹底抗戦を続ける。

     ∴戦争の泥沼化(点と線の確保のみ)

・日本は16 個師団70万人を中国に投入したが、点=都市と線=鉄道を確 保できたのみだった。十五年戦争における最大の相手は中国で ある。

Q1 日中戦争以後の日本の軍事行動には2つの見方がある。多数派は「侵略戦争」と見 る見方だが、右翼などは「植民地解放のための聖戦」と言っている。日中戦争から太平洋戦争に至る戦争の性格はどのようなものだと考えるか? その理由は?

A1 ファシズム理論には、それが正しいかどうかは別として、「アジアの解放」で日本がアジアの盟主となる発想があったのは事実。

・実際の日中戦争では、日本は初めから「侵略戦争」とか「アジアの解放」などを目指し たのではない。中国に対して差別意識を持ち、ナショナリズムを過小評価していたため、ちょっと威せば屈服すると思って軍事行動を起こした。 侵略とかアジア 解放などという大それたこと、日中全面戦争などは考えてもいなかった。
戦火が拡大したため、その場を取り繕おうとして、全面戦争を収拾するため に次には太平洋戦争をやることになってしまう。大きなことになってしまったので 格好付けに「アジアの解放」や「東亜新秩序」を声明として出してゆく。功名心に走る陸軍の若手をおさえられなかった陸軍中央と、軍部を恐れ て手出しできな かった政治家のいい加減さが悲劇をもたらしたと言える。

Q2 日本の政治制度が無責任体制で済ますことができたのが問題。どうしてこんなこと が起きたのか。泥沼戦争にはまっていった理由は何か。その理由を見つけて繰り返さないことが歴史を学ぶ意義であろう。

A2 (1)統帥権の独立で、軍部に対して政府は責任がとれなかったし、言うことを聞かせられない。(2)陸軍内部の統制力のなさが現地軍の暴走を許し た。抑えれば監督不行き届きで、上の者が責任を問われる。やったことはよかったとして流しておくのが保身になる。

Q3 しかし、これだけの理由では現地軍は暴走できなかったはず。どうして暴走できた のか。支持者がいたのではないか。

A3 国民世論が戦争を支持していたのである。

・「東京朝日」「大阪朝日」「大阪毎日」「東京日日」の四大紙は、満州事変前年から 「満蒙の危機」を訴えていた。この頃、満州での排日運動が盛 んで、中村大尉事件、万宝山事件などが相次いでいた。柳条湖事件が起きたときは、これを中国側 の計画的犯行として、新聞は武力行使を支持した。「東京朝 日」は「今日まで事なきを得たのは日本の辛抱強い我慢のためであった。堪忍袋は切れた。日本軍の 強くて正しいことを徹底的に知らしめよ」と記す。この強硬論が軍部を後押しし、若槻内閣を総辞職に追い込んだ。満州は「十億万の英霊」が獲得した土地だと 宣伝されていた。
・全ての国民が満州事変を支持していたのかというと、そうとも言えなかった。石橋湛山は「東洋経済新報」で、満州をとることで得られるものと、英米と対立 して失うものを比べ、満州をとりにゆくことは損だと言い切っている。しかし、多くの国民は不安を抱きながら、声を出さずにヨーヨーをしていたのである。 「声を出さない民主主義」「他人任せの民主主義」がファシズム台頭の原因である。
マスコミの影響は大きい。現在、日本人の対中国感情が悪化 している。日中国交回復の時は8割の人が中国人に対して親しみを感じていた。現在は4割を切っ ている。中国人の対日本人意識も同じような状況にある。両国の対立の原因の一つが尖閣列島問題であり、靖国問題である。これをネタに反中国人感情を煽るマ スコミ論調もある。しかし、日本の貿易相手国で中国はアメリカを抜いて一番となった。圧倒的な輸出超過でもある。尖閣や靖国にこだわって中国貿易が先細り になると、日本の経済発展はありえないものとなる。冷静な判断が必要である。

[国内戦時体制の確立]
   近衛文麿内閣
A 日中戦争の解決失敗

・発足間もない近衛内閣は、宇垣を外相にして和平を模索。満州独立承認、蒋介石下野の 路線で和平交渉をする。長期戦を考える蒋介石は受けるはずがない。水面下での折衝で難しいと回答される。

 1 近衛声明
   「蒋介石を対手とせず」、東亜新秩序建設(1938)

・1938年1月、近衛は第一次近衛声明を出し、国民政府との和平を放棄して「相手とせず」と突っぱね た。
・汪兆銘は反蒋介石の人物で、和平実現を考えていた。陸軍は重慶から汪兆銘 を脱出させて傀儡政権を作るめどを立てる。これを受けて1938年11月には、 日満支三国の新秩序=東亜新秩序を作るのが日中戦争の目的だとした。 蒋介石政権は一地方政権として無視することにし、近衛は国民性の中で蒋介石は浮いてい ると甘く見て、事態を収拾できると判断してしまう。
・この時は、戦争の指揮をとる陸軍参謀の方が和平交渉の継続を主張し、政府に押し切られている。近衛の先見性のなさを示している。無視をすると言ってしまっては、この 後、交渉ができない。外交のやり方としては最悪である。

 2 汪 兆銘による南京傀儡政権樹立 1940

・汪兆銘は1938年12月にハノイ・香港経由で脱出。1940年になって日華基本条約を締結する。日本軍の防共駐留、満州国承認、新政府に日本 人顧問を派遣することなどを認めさせる。
・しかし、汪兆銘には国民政府軍もついてこず、中国国民の支持なし。 南京政権は日本占領地でのみ存立。国民政府軍との戦争は継続した

B 国民生活の統制

日中 戦争に勝つためには日本の国力をすべてここに投入する必要が出てくる。国民生活が破壊されてゆくのは日中戦争になってから。満州事変から日 中戦争の期間は景気もよく、安定していた。結婚式などでも今まで通りの形をとっている。
・日中戦争勃発により、急に召集が多くなる。犬山市の50軒ほどの町内会の日誌を見ると、一カ月に3人も4人も出征し、その都度、日の丸で送り出してい る。生活も全てに統制がおこなわれてゆくようになる。結婚式もモンペ姿でおこなわれる。

 1 国民精神総動員運動
    戦争目的達成のための思想の画一化

・1937年10月、国民精神総動員中央連盟が創立される。「パーマネントをやめましょう」 という呼びかけがされ、節約と愛国精神高揚のため日の丸弁当の日が決まり、国民服、モンペ姿などが町に溢れる。「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」の時代となった。
・戦争が身近なものとなる。1937年春の新聞広告では「春のお嬢さん、チョコレートのように」などという文句があった。これが1938年になると、この 菓子メーカーは「皇軍が折紙をつけた軍用乾パン」という広告を載せている。戦争玩具、「一億一心」標語の羽子板が出回る。洋酒、化粧品の輸入禁止、木綿の 制限も始まる。

     cf)自由主義的思想の弾圧

戦争 に批判的な思想・集団の弾圧も徹底される。文部省は「国体の本義」を出して個人主義、自由主義を排し、「天皇に絶対随順する道」が「国民の 唯一の生きる道」とする。

       矢内原事件(1937)

矢内 原忠雄は内村鑑三門下のクリスチャンで東大教授。信仰に根ざした平等意識、正義 感の学説を展開していた。東大で植民政策を講義し、軍部の政策を搾取だと批 判する論文を「中央公論」に出す。これに対して国家主義的教授が辞職を要求。文 部大臣からも総長に圧力がかかり辞職させられる。

       人民戦線事件(1937〜38)

・社会民主主義勢力を「仮面を付けた共産主義者」として治安維持法の対象にする。
日本無産党は鈴木茂三郎が結成。1937年総選挙で日本労働組合全国評議会と統一戦線を組み、反ファシズムを訴えていた。 これをコミンテルンの人民戦線戦術の宣伝であるとして弾圧し、 400名検挙。指導者の学者たち45名も検挙される。

       津田左右吉の処分(「神代史の研究」で神話否定、 1940)

津田 左右吉は古代史の研究家で早稲田大学教授だった。「神代史の新しい研究」などで、神代説話は史実ではないことを論証した。
・日本紀元は辛酉紀元説による。60年に一度の辛酉の年には革命が起き、その21倍の蔀(ほう)の年に国家的大変革。601年の辛酉の年から1260年さ かのぼったBC660年を神武紀元。推古は33代目の天皇なので、1260年間を33人の天皇で統治。1人あたり40年弱の在位でつじつまが合わなくな る。孝安天皇は紀元前392年に即位し、紀元前291年に退位。101年間も天皇の座にあった。100歳を超える長生き天皇が続出していた。
・津田は右翼から天皇の尊厳を冒すものとして攻撃される。著 書発禁処分で有罪となる。

 2 国家総動員法 1938
    戦時における国の人的物的資源の運用認める
     →軍需優先に資材、資金割り当て(企画院による)

国家 総動員法は、議会の承認なしに人やモノを国が使えるという法律である。法治主義の原則を無視し、議会を無力化し政府に独裁権限を与えるものだった。
・さすがに国会が抵抗する。委員会でへたな説明をした佐藤賢了中佐にヤジが出されたが、「黙れ」と一喝して通してしまう。話し合いでもなんでもない。国会 は慎重な運用を求め、近衛も事変中は適用しないと公約したが、1カ月後に施行される。
企画院は1937年にできていたもので、物資総動員計画を立てる。この統制経済により、原材料割り当てで軍需産業以外の工場は原料不足となり、労働者もひっ こ抜かれて倒産してゆく

    国 民徴用令(勤労動員)

軍需 工場で労働者が確保できない時、厚生大臣の徴用命令で強制的に引っ張られる。134の業種について、経験者と現業者を登録。160万人が徴 用される。
・太平洋戦争期には学校生徒も軍需工場に動員。明倫中、市一女子生徒は市電の運転手、車掌を勤めた。その後は軍需工場で飛行機作りをした。先生はときどき 廻ってくるだけで授業はなし。給料は出たがすべて会社に積み立てでどうにかなってしまったという。空襲があると市バスや市電も止まるため、歩いて帰ってき た。

    価格等統制令

・1939年から物価の値上げを禁止し、公定価格となる。

    ・切符制、

・軍需優先で作らせたため、日用品は不足になる。1940年6月、砂糖とマッチが切符制になる。以 後、石鹸、ロウソク、ちり紙、靴、地下足袋なども切符制とな り、割り当てられた切符を持っていかないと売ってもらえなくなった。マッチは一日5本。

     供出制

・1939年、米穀配給統制法によって米は政府が強制買い上げをする。一定量の食糧を 強制的に作らせられて、統制価格で買いたたかれることになる。これによって、寄 生地主の手元に米が残らず、地主制は打撃を受ける。
・1942年、食糧管理法で米の他に麦やイモにまで拡大。これで集めた食糧 を配給制で分配。

    ・配給制

・1941年4月、主食配給制で一日2合3勺の配給基準以上には購入できないことにな る。太平洋戦争中には2分搗きとなり、押し麦、コウリャン、トウモロコシなどの雑穀が混入される。少ない食料を公平に分配することを意図した施策だった。
・反対に山村などで今まで白米が食べられなかったところでは、これによって食べられるようになった。その意味でファシズムは確かに貧富の差をなくすもの だった。
軍部は大量に食糧を要求し、残りを国民に回す。実際には軍 部では食糧を持て余してしまい、これが闇に流れる。「世の中 は、星と碇に闇とコネ。正直者だけ馬鹿を見るなり」。

※戦争最優先で国民を支配(軍→政府→国民)

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