<国際社会からの孤立と軍部の独走>
[ファシズム化への動き]
A 軍政権樹立の動き
Q1 日本のファシズム は軍部によって担われていた。軍部が独走することについて歯止 めをかけられなかった理由は何か?

A1 「統帥権の独立」があるため、憲法上、軍は内閣によって統制できない。

・この制度を導入した時は、こんなに大問題になるとは思われなかった。事実、山県有朋、大山巌という重鎮がいる間、日本の軍部は無茶はしなかった。 山県は大隈内閣が対華二十一か条を出したときもとんでもないことをするとして文句を言っている。日本の軍事力と英米の力の差を冷静に分析して いたのであ る。山県は自分の後継者として長州陸軍閥を作って陸軍全体を抑 えていた。
・長州陸軍閥の最後である田中義一は、予備役に退いて首相を目指したため、軍内部での力を失い、外交の失敗で失脚してからは抑えが効かなく なった。長州閥が力を失い、新たな権力者として宇垣一成、荒木 貞夫、真崎甚三郎が出るが、これ らは小粒であり、石原莞爾が満州事変を成功させたことで、功 名心に走る若手を統制できなくなる。
・ワシントン体制のもとでの軍縮の実施で職業軍人はリストラの対象だった。行き場がなくて 学校に派遣されて軍事教練を指導する状況。学生からも疎まれて肩身が狭い。活躍の場が欲しかった。
・職業軍人を目指したのは、頭はよいが家が貧乏だった者。中学に進学できず、陸軍幼年学校から士官学校に進んだ。学費がタダだからで ある。エリートのなり損ないであり、政治家となったエリート連中に対しての妬みを持っている。無能なため景気をよくできず、賄賂をも らっているような腐敗した政党政治家を倒し、軍部による政治改革をしたいと思うようになる。
・国民も、軍人は政治家に比べて清廉潔白で、日本のために一途に動いてくれるという期待を持っていた。


   無能、腐敗の政党政治打倒

・大川周明が北一輝の思想を軍部の青年将校に宣伝。勉強会を通じて右翼思想が拡大する。
・軍隊は階級によってまとまる。将官、佐官、尉官からなる。統制力を失った将官級に変わり、陸軍の佐官級青年将校によって桜会が結成される。中心は橋本欣五郎中 佐。クーデターで軍部政権を作り、日本改造を目指す。上層部を 無視して下剋 上の動きが出始める。
・軍縮は軍人たちにとって死活問題であり、これを進める政党政治家は敵となる。

 1 三月事件、

・1931年3月、大川、桜会によるクーデター計画が立てられる。3月20 日、民間右 翼1万人のデモで国会を包囲。政党本部、首相官邸を爆破する。国会保護名目に軍が駆けつけて中に入り、幣原首相代理に政権を渡すよう迫る。西 園寺を動かし 大命は陸軍大臣の宇垣一成にするというもの。
・この計画に対して陸軍首脳も同意していた。しかし、宇垣が心変わりして未遂となる。宇垣は陸軍全体の信頼を失って退役する。

   十月事件=未遂

・桜会中心に中堅将校だけで計画したもので、首相を殺し政権を奪い、荒木貞夫 に大命降 下させようというもの。関東軍の板垣、石原とは連絡したが、陸軍首脳には知らせなかった。
・ばれてしまい、検挙される。十月事件という。 しかし、若槻内閣はテロの危機のため退陣し、犬養内閣で荒木貞 夫が陸軍大臣に就任した。事実 上、クーデターを成功させたようなもの。テロを企てた佐官級が影響力持つ。

 2 血盟団事件(井上日召)(1932)(井上準之助、団琢磨 暗殺)

井上 日召は満鉄に入り、後に大陸浪人となった者。帰国後、日蓮宗に帰依して仏門に入る。日本精神に基づく国家改造の信念を持 ち、海軍の一部青年将校と結んで「一人一殺」のテロを計画
・リストには犬養毅、若槻礼次郎、井上準之助、幣原喜重郎、団琢磨、西園寺公望、伊東巳代治らの名前。
井上は1932年2月9日、選挙の応援演説中に狙撃されてほ ぼ即死。 3月には三井合名理事長の団琢磨が狙撃されて死亡。 ピストル の出所を調べると海軍かららしいとされる。ここで井上が自首したため、海軍にまで手が回らなかった。五・一五事件は血盟団事件の延長線上にあり、ここで海軍を捜査すれば食 い止められたかも知れない。

 3 五・一五事件(1932)
Q2 テロの効果は何 か。

A2 テロやクーデターの意義は、政権担当者に恐怖感を与えて政策の転換を迫るもの。

・しかし、軍部も明確な主張があったわけではない。クーデターを起こした中堅・下 層将校も、空想的な改革案を出すだけで実現性がない。とにかく政権担当者を倒せば、あとは誰かが何とかしてくれるだろうという無責任体制。軍部首脳がこれに便乗して政治的発言力を強め、軍部による政治操作態勢が作られるが、いざ政権を 取ってみると、 どうしてよいか分からなくなってゆく。それでも国民を引っ張ることができた点が日本ファシズムの特徴である。

Q3 ドイツはヒト ラー、イタリアはムソリーニが、不況克服の国民的英雄として大衆に 支持されて登場。合法的に政権を獲得してファシズム体制を確立してい る。日本はファシズムの英雄もナチス党やファシスト党のような組織もないままでファシズムへ向かう。国民結集の求心力たり得 たものは何か。

A3 天皇である。天皇の名をかたることで軍部ファシストが国民を引っ張っていったと言える。宗教じみたファシズムなのである。

B 挙 国一致内閣の成立
   軍・政・財・官界の協力必要
   =斎藤実内閣(海軍穏健派による陸軍統 制)

・犬養暗殺後の首相候補は2人。(1)平沼騏一郎=陸軍と政友会の強硬派が推 薦。枢密 院副議長として台湾銀行救済やロンドン条約で憲政会・民政党を攻撃した人物。(2)荒木貞夫陸相=陸軍革新派が推薦。
・唯一の元老の西園寺は興津から上京。海軍の斎藤実を首相に推 薦す る。朝鮮総督として文化政治への転換をおこなった人物。軍部を 抑えるのには 穏健な軍部がよいという判断だった。
軍・政・財・官界の協力を得るため、あらゆるところから人材 を集めて強力 な内閣を作ろうとするが、これをまとめるのは大変である。挙 国一致内閣とは言うが、寄せ集めガタガタ内閣だった。斎藤は74歳。あだ名は「スローモー」。これでは声の大きな者の言い 分が通る。荒木陸 相がリーダーシップをとることになった。

    but陸軍の独走許す

C 日 本の孤立
    cf)中国の国際連盟提訴→リットン調査団派遣

・満州事変後、中華民国は日本の侵略行為であるとして国際連盟に提訴し、理事会が第三 者による調査団を派遣することになる。
・1932年1月、イギリス人のリットンを代表とするリットン 調査団が満州 に渡る。米・仏・独・伊のメンバー。3〜6月にかけて徹底調査。10月に報告することになった。
・満州事変については、中国の強引な利権回収政策に対して起こされたものとして、列強の中には日本に同情的な意見もあった。明日は我が身だか らである。こ のため、リットン報告書では「満州国で実権を握っているのは日本人」だが、日本の満州における権益も認め、日中間で満州に関する新しい条約を 結ぶように勧 告することになる見通しだった。
・これなら日本の満州の利権は確保できるが、関東軍が作った満 州国は否定さ れる。

   満 州国承認

・元満鉄総裁の内田康哉が外相となり、リットン報告書を牽制するために満州国承認を主張した。 軍とつながり強 硬になっていて、軍の意向を受け、満州国を既成事実化することを考えた。西園寺はこの動きに失望する。
・ジュネーブの国際連盟日本代表からは承認は待てと連絡が入る。満州国は承認されない見通しなので、事前に承認してしまうと日本は引っ込みが つかなくな る。
・内田は「国を焦土としても一歩も譲らない」と見得を切って承認を強行した。焦土演説というが、そのために本当に日本が焦土になるとは思って いなかったの だろう。こういう人物が戦争責任を負うべきだと思うが、1936年に死んでいる。
・1932年9月15日、日満議定書を結んで承認し てしま う。この2週間後にリットン報告書が出た。

    but国際連盟は満州国不承認、日本軍撤兵決議採択(42:1)

・1932年12月から国際連盟で審議される。一度認めた満州国を国際連盟が 認めな かったからと言って承認を撤回することは格好悪い。日本代表松岡洋右は「満州国承認と矛盾する案は受け容れない」と宣言。イギリスは「現制度 は承認できな いが、満州事変以前の状況に戻せとは言わない」と言って日本をなだめにかかったが、松岡は妥協案を蹴る。
・1933年2月20日、国際連盟は賛成42、反対1、棄権1 で委員会案を 承認し、満州国は認められなかった。松岡は退場する。

      →国際連盟脱退(1933)(代表=松岡洋右)

・3月28日、日本は国際連盟を脱退を通告。日本の脱退で国際連盟は弱体化した。 1935年にはドイツ、イタリアも脱退し、世界でもっとも侵略的な国のレッテルを貼られる。
・宇垣一成は「軍の青年将校が言いそうなことを唱えて、何の見通しもなく無理押しをしたものであり、無策外交の極致」と感想を漏らす。

 ∴軍 権力強化し満州固守必要=米・英と対立激化

・外交によって「満州国」を守れないため、実力で守る路線を進むことになる。軍部にとっては立場を強化できるので 好都合である。これで華北侵略がおこなわれる。

D 思想・学問の自由抑圧

軍部 の政治に対しては批判が出てくる。これを封 じ込める必要。 共産主義思想の封じ込めは簡単なので、これと同じことにして自由主義、平和主義、国際主義にも拡大させる。

 1 滝川事件(1933)
    滝川幸辰京大教授の休職処分(「赤化思想」と批判)

滝川 幸辰は京大の刑法担当教授。自由主義的な法解釈をしていた。
・文部大臣鳩山一郎が赤化教授として処分を図り、京大総長に罷免を要求する。「姦通罪は妻にだけ適用され、夫に適用されないのは差別」という 主張に対し、 妻に姦通を奨励するもの。「政治の変革を求めて内乱を起こそうというのは、よりよい社会の建設を目指したもの。殺人や強盗のような破廉恥な罪 と同列では裁 けない」という説に対しては内乱を奨励するものと決めつけた。国家が定めた法律を批判すること が許し難かったのである。
「刑法読本」が発禁となるが、半年前には大審 院長が良書と して部下に勧めていたような本。
京大教授会は学問の自由を脅かすものとして一斉に反対文部省は一方的に滝川を休職処分にした。京大法学部教授 は全員辞表を出 すが、政府の切り崩しで戻るものも現れ、分断される。
・滝川は京都法学校(立命館)に移る。

   cf)岡田啓介内閣成立

・斎藤内閣の高橋蔵相は軍部が要求する軍備拡大に対し、財政難を挙げて消極的 姿勢を示 す。
・この時に帝人事件が起きる。帝国人絹は鈴木商 店傘下の会社 で、鈴木がつぶれて株式は台湾銀行が保有していた。その買い取りを進める動きがあり、鳩山文部大臣たちが便宜を払っているという噂が出る。国 会で攻撃され て辞職。斎藤内閣もつぶれる。
・裁判では全員無罪であり、軍部が内閣打倒のためにでっち上げたものという説が強い。裏で動いたのは平沼騏一郎であり、自分のところに首相の 座を持ってき たかった。
西園寺は岡田啓介を推薦。もう一度、海軍穏健 派で軍部を抑 えようと考えた。元老は西園寺だけになっていたため、自分の死後を考えて首相経験者からなる重臣会議を開いて決定する方式を提案する。
岡田は斎藤以上に無力。海軍艦隊派の主張するワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約からの離脱を認める。 両条約は延 長せず、両方とも1936年に満期廃棄。

 2 天皇機関説問題(1935)
    美濃部達吉の憲法学説否定

・美濃部は統治権は国にあり、天皇はその機関として統治権を行使するものとし た。した がって、天皇の権限は憲法に従って発動されるものであって無制 限ではない天皇機関説は明治憲法を民主的 に解釈したもので、天皇の権限を抑える学説だっ た。大正デモクラシーの時期は一般的。
・天皇機関説は統帥権の独立を盾に取って好き放題をしたい軍部 にとって邪魔。 天皇=神、絶対の権限を持てば、天皇直属の軍は天皇の名前で何でもやれる。
・平沼が動いて貴族院で美濃部批判。美濃部は国会で自説の正しいことを主張して拍手も受けるが、外では「謀反人」のレッテルが貼られて民間右 翼、政友会な どが攻撃。美濃部達吉は著書発禁、議員辞職の処分と なる。

     →国体明徴声明(天皇の尊厳強調)

・天皇機関説を完全否定するため、国体明徴声明が出される。天孫降臨以後、万世一系の天皇が統治する国が 日本だとし、天皇神格化を進めた。以後、日本の 社会(国体) を論じることはタブーとなった。
・天皇機関説は、国民の声を代弁する政党政治を支える学説だった。第一次護憲運動の際、天皇といえども公党である政友会を抑えられないと言っ たのはこのような学説があったからである。しかし、機関説が否定されたことで、政党政治は思想的にも否定されることになった。

 3 転向の時代(無産政党→国家社会主義)

・無産政党は弾圧や路線争いで分裂。右派は国家社会主義へ向かう。極右と極左の目指すものは似ていた。革命 ではなく、国家を通じて社会主義を実現しようという主張に 転 換する。富の公平な分配のため、国民生活への国の干渉を許す。

    日本国家社会党(赤松克麿)の結成

赤松 克麿は吉野作造の影響で東大新人会を創設した人物。新人会は思想運動団体で労働運動を擁護し、日本労働総同盟に入って労働 運動の第一線に立 つ闘将となる。一時は共産党にも参加。社会民衆党書記長を務めた。1932 年、日本国家社会党を作り、国家社会主義に走る。「労働者、農民、市民、軍人の結合」のスローガン。戦争に協力。
・共産党も四・一六事件後、有能な党員を失い反社会的な暴力に訴えるようになる。このため、獄中から佐野学たちが転向声明を出した。「天皇制打倒、帝国主義戦争反対を叫ん だのは誤り。天皇を戴く一国社会主義を目指す」。
・このような従来の主義主張の転換を「転向」と呼ぶ。

  ※自 由主義抑圧され、国家主義、皇国思想高まる

[軍部主導体制の確立]
A 陸軍の分裂
   統制派(永田鉄山)=官財界と結んで軍の 力拡大

・桜会は十 月事件で陸軍内の実権を握るという目的を達成。以後、佐官級 は直接行動を主張せず、官財界と結んで軍部の影響力を行使しようと考えた。これが統制派で、中心は永田鉄山軍務局長。理論派だが若い将校には人気がない。
・統制派は料亭などで会合を繰り返していたため、腐敗した軍閥 とレッテルを 貼られる。

   皇 道派(荒木貞夫、真崎甚三郎)=天皇権力を仰ぎ軍が国政改革
    cf)北一輝「日本改造法案大綱」の影響

・さらに若手の尉官級の青年将校は北一輝と結び、あくまでも国政改革を主張した。皇道派という。腐敗した軍部上層部を批判し、農村の窮状を救えと訴える。
・尉官級は陸軍士官学校を出てすぐに任官した若者。田舎で勉強ができる者のうち、家が貧しい場合は大学に進学ができず、学費のかからない陸軍 士官学校に行 く場合が多かったが、農村恐慌を肌で感じている分、政治を糾したいという正義感が強い。
・石原の成功を見て、自分たちもああなりたいという功名心から下剋上の風潮も出てくる。乱れた世の中を変える「昭和維新」と銘打ち、自分たちを幕末の志士気取りで あった。
荒木貞夫は青年将校の面倒見がよい。酔って荒 木の家を訪 れ、泥靴で入って「荒木はおるか」と来ても、「若い者は元気がいいのお」と歓迎するので「荒木閣下」と慕われる。しかし、荒木は政治に無知で 精神主義の 人。米英と戦争になったら竹槍3000万本があれば日本は守れると言ったりしていて、人気を失い、真崎にとって替わられる。真崎甚三郎は士官学校校長で若い者に人気が出る。
・この時に士官学校事件が起きる。皇道派がテロ を計画したと して検挙されたもので、皇道派の勝手なテロ計画は統制派に邪魔だった。皇道 派は粛正され、真崎教育総監は更迭される。
・皇道派はこの事件を統制派のでっち上げだとした。士官学校事件で台湾に左遷された相沢三郎が日本刀で永田を斬り殺す。軍務局長室に勝手に入 り、部下から 報告を受けている永田の後ろから「天誅」。翌年、死刑。
・この相沢事件後、皇道派の青年将校は相沢に続けと二・二六事 件を計画。

B 二・ 二六事件(1936)
   皇道派のクーデター、斎藤、高橋らの暗殺

・東京は30年ぶりの大雪。夜明けに決行。皇道派による政権奪取を目指すクーデター尉官級の青年将校によるもので、多くは20歳代だった。 近衛歩兵連隊な ど兵1400名を使う。
首相官邸は300名が重機関銃7、軽機関銃 4、小銃100 数十丁で襲撃。岡田は風呂場に隠れ、妹の夫が間違えられて殺される。岡田は女中部屋に潜み、兵士監視下の弔問客に紛れて裏門から脱出。
斎藤内大臣邸は150人が襲う。寝室から出て きたところを ピストルと機関銃で射殺。47カ所に弾丸。数十カ所に斬りこむ。夫人が「殺すなら私を」といってかぶさったのを引き離して一斉射撃。
高橋大蔵大臣邸は120名で襲う。寝ていると ころを布団を まくって射殺。
・鈴木貫太郎侍従長邸は200名が襲撃。ピストル4発を撃ち込み、とどめを刺そうとするのを夫人が「それだけはやめてください」と手を合わせ たので引き揚 げた。鈴木は終戦時の首相で、終戦工作を推進した人物。ここで死んでいたら日本の終戦はもっと後になっていたかもという説もある。
・新聞社、警視庁、陸軍参謀本部などを占拠。東京の中心部を 乗っ取る。 「決起趣意書」と「要望書」を出し、元老、重臣、官僚、軍閥、政党が日本をだめにしているので、それを取り除いた。以後、昭和維新を実行して欲しいと主張
・真崎は「お前たちのことはようわかっとる」といって取りなしをしようとする。川島義之陸相へ天皇に「決起書」を持参し、改革したいと言明す るよう迫る。 しかし、天皇は激怒。「岡田や高橋は朕の忠実な 部下である。 それを殺すとは何事か。反乱軍を鎮圧しろ
・斎藤、岡田という重鎮を殺された海軍は鎮圧の方向。「長門」以下40隻の軍艦を東京湾に並べて国会議事堂を艦砲射撃する態勢。
・陸軍がもたもたしているので、天皇自ら近衛師団を率いて鎮圧に行くと言い出す。やむなく真崎も投降の説得開始。原隊復帰の勅命が出る。
・28日夜、2万4000の兵で包囲網を敷き、住民に避難命令が出る。29日朝、最後の呼びかけで「今からでも遅くない」「抵抗すると逆賊」 のビラが撒か れ、ラジオ、アドバルーンでも投降を呼びかける。兵は上官の命令に従っただけなので罪にはならないと説得。昼にはほとんど投降。

    →反乱部隊として鎮圧
     岡田内閣総辞職

軍法 会議で17人が銃殺。北一輝もそそのかしたとして死刑。十字架にかけて正座させる。中心の一人は「栗原死すとも維新は死な ず」と叫んだと か。真崎は軍法会議にかけられるが無罪。

Q4 皇道派のクーデ ター失敗で一番得をするのは誰か。

A4 陸軍は統制派でまとまる。その中心人物が「カミソリ」といわれた東条英機になってゆく。

・「政治が悪いから起きた。統制派の言うことを聞かないと次のクーデターが起 きる」と 宣伝。軍の言うことを聞かない政治家は死を覚悟しなければいけ ない状態と なってきた。全面的に政治介入をし、広田内閣成立時には大干渉をしている。

※統制派による陸軍政治指導 体制が確 立


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