<金融恐慌と対華強硬外交>
  1926年〜 昭和時代

・1926年12月25日、大正天皇崩御。「百姓昭明、万邦協和」から昭和の年号とす る。

[中国の民族解放運動]
A 日本経済の中国依存

・日本の貿易相手国の第1位はアメリカである。生糸を輸出し、綿花・機械を輸入する。
・第2位は中国で、機械・綿製品を輸出し、食料・原料を輸入する。

Q1 どちらの貿易が儲かるのか?

A1 製品を輸出した方がよい。中国貿易である。

中国 向け輸出の中心は綿糸や綿布が中心。日本は紡績業中心の軽工業で あり、重化学工業は欧米の競争相手ではなかった。
・大戦中に中国進出し、戦後は生産力が伸びたが、国内市場が狭いため、依然 として対中貿易拡大が必要だった。

   原料輸入=鉄鉱石、石炭
   製品輸出=綿糸、綿布(総額の1/4)

中国 への輸出額は5億2400万円で日本の輸出総額の4分の1。中国の全輸入品の中で、日本商品の比率は36%。関税障壁がなく、有利な市場 だった。
・不平等条約に頼って中国への輸出を伸ばすことが、重化学工業化を進めるための欧米からの機械輸入に欠かせない。しかし、対中輸出は英米と競合し、独占し ようとすると英米とぶつかる関係。

   資本輸出=在華紡(11億ドル)

Q2 日本企業が生産拠点を中国に移したのはなぜか?

A2 日本人は深夜業が廃止され、賃金も上昇し始めた。中国人の低賃金、長時間労働を利用するのである。

日本 の資本輸出は綿紡績、炭鉱などの分野でおこなわれ、総額11億ドルはイギリスに匹敵する額だった。中国への外国の投資額の50%、日本の海 外投資の90%を占めていた。
在華紡績資本は東洋紡、日清紡、鐘紡など。上海、青島に進 出し、1927年には中国の紡錘総数の37%を在華紡が占めた。

 ∴中 国市場の確保必要
   but中国民族資本の台頭で日本後退 cf)日貨排 斥、五・三○事件

・中国もいつまでも市場に甘んじていたくない。近代化を進めるため、最初に軽工業が起 きてきて、中国人の経営する企業(中国民族資本)が育ってくる。 欧米が輸出する重工業製品とは競合しないが、日本が輸出する軽工業品とはぶ つかる関係。
・中国では対華二十一か条要求以来、反日感情が高まり、日貨排斥が激しくな る
・1925年、青島の内外棉紡績で中国人従業員のストライキが発生。低賃金・長時間労働に抗議して3万人が参加した。上海に飛び火し、イギリス警官が発砲 したことで反帝国主義運動に発展。5月30日のデモを租界警 察が鎮圧したことから全土に運動が展開した。五・三○事件と いう。

B 国民政府による中国統一の動き
   中国情勢(1920年代後半)

独裁 政権を作ろうとする北方軍閥、民主制を目指す広東の国民党(孫文)、社会主義を目指してゲリラ戦を展開する中国共産党(1921年に結成。毛沢東)の勢力 が三つ巴になっていた。これは日本にとっては都合がよい。

   軍閥の割拠・・・

・1922年頃は軍閥同士がつぶし合いをしている。北京の直隷派、その南の安徽派、満州の奉天派に分かれていたが、最初は 安徽派の段祺瑞による統一政権ができていた。日本はこれを援 助していた。
・統一が崩れて安徽派と直隷派の間に安直戦争が起きる。安徽 派の段棋瑞は追い出され、直隷派の徐世昌が北京を制圧した。大総統として執政し、実権は軍閥・呉佩孚が握る。これを英米が応援していた。
・段棋瑞が失脚したため、日本は奉天派の張作霖を応援してい た。
・この後、2度の奉直戦争の結果、1926年4月には張作霖が直隸派を追い 出し、北京を制圧した。軍事援助は幣原が拒否したため、関東軍が政治工作で応援。

     北京=張作霖政権(日本の援助)
   国民政府復興(孫文→蒋介石)・・・南京占領→張打倒目指す(北伐)

孫文 はソ連に接近し、共産党も認めて中国統一を考える(第一次国共合作)。孫文死後、国民党は共産党を認める左派(汪兆銘)と右派(蒋介石)に 分かれる。
・蒋介石が勢力を増し、1926年7月、北伐によって統一を目指す軍事行動 を開始した。共産党の助けもあって、12月には揚子江以南を制圧し、武漢に首都を移して武漢政府を作る。
南京占領し、1927年4月から北伐再開。

Q3 このまま国民政府で統一されると日本はどうなるのか?

A3 中国市場を手放さざるを得ない。

   ∴日本の中国市場の動揺生ず

[若槻礼次郎内閣(憲政 会)]

・1926年1月、加藤高明の死去によって若槻礼次郎が組閣。政治課題は中国問題にどう対処するかと、不況の克 服。外交の看板は協調外交。

A 協 調外交(幣原喜重郎外相)
   中国への武力介入せず

幣原 喜重郎外相は、機械を輸入する必要から英米との協調が日本経済の高度化のために欠かせず、したがって、対中国問題では、英米と対立する結果となるような内政干渉は避けるのが得だ と考えた。
・1924年9月、張作霖と呉佩孚の間で第2次奉直戦争が起きた。呉佩孚のバックにはアメリカがいて借款を与えていた。この勢力が満州に入るとまずいた め、張作霖を軍事援助すべきと軍部は主張した。しかし、加藤内閣の幣原外相は拒否した。
・1927年3月、国民政府軍は上海、南京を占領し、南京では外国領事館、居留民に対する掠奪をおこなった(南京事件)。これは、敗走する軍閥の張宗昌の 軍がおこなったという説もある。
・イギリスは日・米・仏・伊に共同出兵を呼びかけ、責任者の処罰と武漢政府の謝罪を求めようといった。しかし、幣原は協調外交をタテに拒否した。幣原はいずれ中国は国民党が統一すると見越していたのであり、軍事介入しても泥沼にはまると判断していた。これは幣原の先見性であ る。

    but軍部、財閥(三井)、政友会、枢密院に強い不満

協調 外交に対しては、軍部、財閥(三井)、政友会、枢密院が不満を持った。三井は軽工業中心なので、中国に資本投下を多くしていたからである。

B 不況の克服の失敗
   金 解禁の準備(大戦時に金による手形決済禁止)

・日本は日清戦争の賠償金で金本位制を確立していたが、1917年に金の輸出を禁止していた。大戦のごたごたで金が流出するこ とを防ぐため、他の国が禁止したのにならったものであった。
金本位制から離脱したため、正貨準備高に縛られることなく通貨を発行する ことができた

Q4 この頃の内閣は政友会の原である。金本位制から離脱していたおかげでできた財政 政策は何だったか?

A4 積極財政である。金をばら撒いたので通貨量が増える。これはインフレをもたらすことになる。

・1919年にはアメリカが金解禁。日本は戦後不況にかかり、タイミングを逸する。

Q5 1923年になると、日本は全く金解禁ができなくなった。どうしてか?

A5 関東大震災で財政出動をしたためである。この結果、通貨量が金の保有量を超えることになった。

金本 位制では、物価、通貨量、為替相場、国際収支が調整される金 本位制の自動調節作用といい、物価上昇→輸入増加→正貨減少 →通貨縮小→物価下落→輸出増加→正貨増大→物価上昇というメカニズムである。
・アメリカから日本へ輸出が拡大すると、日本は円を代金として払う。アメリカはこれを金に交換してくれというので、日本からアメリカへの金送付が拡大す る。アメリカは大量の金を持つので通貨量が拡大する。そうすると物価が上昇する。そうすると、アメリカ製品の値段は日本に対して高くなり、日本への輸出は 減少する。反対に物価の下がった日本からアメリカへの輸出が拡大する。アメリカは代金としてドルを払い、これを金と交換するために日本への金送付が拡大す る。日本の正貨準備が拡大し、通貨量も拡大。日本の物価が上昇するのでアメリカ向け輸出は減る。
・これは「火の発見」以来の発見と言われる。

Q6 日本だけが金本位制でないと様々な問題が起きる。積極財政を展開すると物価はど うなるのか?

A6 上昇する。インフレである。

・(1)恐 慌を防ぐために財政出動ができたので、政友会は積極財政をとった。通貨膨張政策であり、インフレになる(1926年=日本は1914年に比 べて1.7倍、アメリカは1.3倍)。

Q7 日本がインフレになると、貿易では輸出輸入はどうなるか?。その結果、為替相場 はどうなるか?

A7 輸出が減って輸入が増える。為替は円安である。

・(2)日 本製品は高くなり、輸出が減って輸入が増える。加えて、震災復興のために資材を大量に輸入する必要。1923年からの半年で6億円の輸入超 過となり、国際収支は大幅赤字である。
・(3)金本位制ではないので、アメリカ国内の円は$に交換される。この時、外国為替相場が立つ。円がだぶついて売りたい人が多ければ、円相場は下がって円安になる。そ れまでの100円=49.85$が100円=38$になる(1924年)。円の価値が下がったということ。

Q8 円安は日本の貿易にどのような影響を与えるか?

A8 輸出は有利だが輸入は不利。

・(4)円 安は輸出には有利。100円=100$が100円=50$になったことを考える。これは今風の表示では100$=100円が100$= 200円になったということ。だが、もともと日本国内の物価が高くなってい るので効果は相殺されてしまう。特に主要輸出産業の紡績業の 場合は、原料綿糸を輸入しているので効果は相殺される。生糸は輸出で儲かるが、為替相場が不安定なため、アメリカは大量輸入に躊躇する。そ のために輸出は伸びない。
・(5)円安は輸入には不利。それでも日本は輸入をしないと いけないので、ものを買うにはたくさんの円を支払わなければならない。そうすると円相場はさらに下がるという悪循環になる。
円安を認めていたら、日本はずっと国際収支が赤字なのであ る。

Q9 もとの100円=49.85$にするにはどうするのか?。

A9 金本位制に戻すのがよい。

  →金本位制に復し、貿易拡大目指す(アメリカの好況に期待)

金解 禁をするならば、国内の通貨量を減らす必要がある。

Q10 どうやって通貨量を減らすのか?

A10 緊縮、増税である。

・実際には、現金としてよりも債券という形で通貨量が膨張していた。債券も一種の通貨 である。大量に出回っている債権回収が必要だが、ここで不良債権処理が問題となった。最大のものは震災手形である。

   震 災手形の処理(関東大震災時の緊急融資)

・関東大震災の経済的損害は45億7千万円。一般会計予算が14億7千万円だったので その3倍に当たる)。銀行は本店138のうち、121が焼失。モラトリアムを公布して1カ月の支払猶予をおこない、銀行に融資をして営業できるようにして いた。被災した銀行は日本銀行から借金をし、不良経営となっていた。そこに 震災手形も抱えさせられることになる。
・震災手形は、支払人が地震の損失を受けて支払ができなくなった銀行手持ちの手形のこと。企業間の決済は手形でおこなわれるが、震災前に振り出され、地震で割り引けなくなったもののうち21億円が流通困難になり、 5億円は決済困難となった。このままだと手形を抱えた企業が連鎖倒産するため、9月1日以前に銀行が引き受けた手形は取り立て期間を2年として銀行に割り引かせ、そ の分を日銀が融資した。銀行は2年以内に資金を回収して日銀 に返すこととする。総額4億3千万円。
・しかし、2年経ってもだめで4年たっても返済できず。震災手形が2億円分 残っている。
・若槻内閣は「震災手形損失補償公債法案」「震災手形善後処理法案」の2つを国会に出した。震災手形を抱える銀行に対し、日銀が公債を貸し付けるという法案で、銀 行は10年以内に企業から債権を回収し、日銀に公債の貸付金を返済することになる。公的資金を投入し、返済を先送りするというものである。野党は無駄金だ と応酬し、震災手形を持っている銀行の名前を挙げる必要が生じる。

    but銀行の不良経営暴露で取り付け騒ぎ

・1927年3月14日、片岡直温蔵相が国会で失言をする。「破 綻したものを整理したら、そのあとの引き受け手を探す必要がある。今日の正午に渡辺銀行が破綻した。預金者を救済するには、財産を整理する引き受け手を探 さなくてはならない」。昼前に同行が破綻したと知らされたので言ったが、実際には資金のやりくりがついて営業が続けられた。
・失言のあと、渡辺銀行には預金引き出しの人が殺到したため休業に追い込まれた。これを見て、実際につぶれたものとして、他行でも取り付け騒ぎが起きる
・銀行はお金を借りてこれを他に貸し、利息をとって儲けている。預金者が全員引き出しにきたら手元に金がなくなるのは当然。
・預金を引き出されたため営業ができなくなる。渡辺銀行を始めとして東京の二流銀行6行が破綻し、2億円の預金が戻らなかった。

     cf)台湾銀行(鈴木商店の不良債権)

・3月末に金融恐慌は収まる。しかし、4月初めに鈴木商店が破綻し、融資をしていた台湾銀行の経営も危機に瀕した。 台湾銀行は特殊銀行で、台湾の発券銀行だった。
・鈴木商店は明治初年にできた砂糖、樟脳を扱う商社。金子直吉が番頭となり、大戦景気の時期に積極的に事業を拡大した。取引高15億円の世界的商社とな り、神戸製鋼、帝国人絹、播磨造船、日本製粉などを傘下収めて三井、三菱に次ぐ企業となっていた。
・しかし、大戦景気後に台湾銀行への返済が滞る。政府も震災で大量の震災手形を台湾銀行に持たせていたため、台湾銀行は他から借金をして経営していた。鈴 木商店が倒産したことで、回収不能債権を持つ台湾銀行も共倒れとなる可能性が出てきた。

   ∴台湾銀行救済緊急勅令案出す

若槻 は日銀に台湾銀行への緊急融資をさせようとした。法律を通さなくてはならないが、国会閉会中のため、緊急勅令を出す方針を立てる。

      but枢密院の反対で辞職

伊東 巳代治枢密院顧問官が政府案に反対した。「緊急勅令は非常時だけのものであり、臨時議会を招集すべき」。しかし、若槻は議会を招集すれば、 政友会が反対するに決まっているため、面倒だった。枢密院本会議で採決し、否決される。

         (幣原外交への不満)
       →銀行、企業の倒産続出(金融恐慌)

・台湾銀行は休業し、他の銀行も取り付け騒ぎが起きる。
・華族が経営し、「預かってもらえるだけで家門の光栄」といわれた十五銀行破綻など、大きいところが20行破綻する。これが金融恐慌である。
・ここで若 槻は内閣を投げ出す。臨時議会を招集して法案を通せばよかった。しかし、東大出身の官僚で男爵、貴族院に議席を持つエリートの若槻は泥仕合 は好まなかった。

[田中義 一内閣(政友会、長州陸軍閥)]

若槻 内閣は総辞職なので、政友会は第2党であるが、ここから組閣するのが憲政の常道ということになる。
・若槻に代わって登場したのは政友会総裁の田中義一だった が、長州陸軍閥の大物だった。かつて2個師団増設を叫んで西 園寺内閣を倒したことがあり、原や山本内閣で陸相を務めた。野心家で総理大臣を目指し、予備役に退く。300万円の持参金で政友会に入り総裁となってい た。政友会は金で軍閥に乗っ取られたのである。

A 金融恐慌の収束
   緊急勅令による支払猶予令(モラトリアム)

Q11 取り付け騒ぎの原因は何か?

A11 大蔵大臣の高橋是清は、取り付け騒ぎは銀行がつぶれそうだという不安感から起きたものであるため、つぶれないことを見せてやるのが大切と考えた。

3週 間のモラトリアムを 出す。この間は銀行からの預金の引き出しができない。緊急勅令によるものだが、政友会内閣なので枢密院も反対はしない。この間、札束を柳行李に詰め、ト ラックで銀行へ運び込む。1日10億円。間に合わないので片側だけ印刷し、200円札も発行した。1000円で家が建つ時代。モラトリアム明けにはパニックは収まっていた
・議会を開き、台湾銀行に日銀が融資をする法案を可決している。

   高橋是清蔵相の積極財政(軍需拡大)

高橋 は財政出動で景気回復を目指す。公債を発行し、陸軍経費を増大させた。景気は回復したが借金は増えた。

B 対 華強硬外交

・国民軍は北伐を継続し、張作霖打倒目指す。
田中は協調外交を捨て、5月28日、居留民保護を名目に青島に2000人 を出兵(第一次山東出兵)した。8月に撤兵。

 1 東方会議

・この間、外務省・陸海軍省・植民地関係者を集め、東方会議を開いて中国問題を協議している。中心は森恪で、三井物産在華 支店の出身。後に政友会代議士となり、三井の利益を代弁して中国進出を企てていた。満州蒙古の権益を守るため断固とした処置を決定した。
・この会議で作成されたのが田中メモランダムとされる。太平洋戦争後の東京裁判で明らかとなったもので、満州をとり、中国をとり、アジアをとるという日本 の侵略の道筋が書かれていたため、以後の侵略がこのメモに基づいておこなわれたと主張された。今は偽文書とされる。

 2 山東出兵(第 1次〜3次、1927〜28)
    国民政府軍の北伐に干渉

第二 次山東出兵。民政党は反対し、田中も躊躇したが、外務政務次官の森恪(政友会)が強く主張して実行された。

     (cf)済南事件)

・3000人で済南を警備していたが、北伐軍とこぜりあいが起きる。第3次出兵で5月 8日、9日、済南の総攻撃をし、中国側に3600人の死者を出す事件に発展。済 南事件という。
・この前、蒋介石が来日し、国民党を認めれば、日本の満州に対する権益を認めるという取り引きをしたといわれる。しかし、済南事件は日本と中国の縁切りとなり、以後、国民党は日本に接近するの をやめた。

Q12 日本と対抗するため、蒋介石はどの国に接近するのか?

A12 アメリカに接近することとなる。

    but失敗、張作霖は満州撤退

・北伐軍は済南を迂回して北京へ向かったため、山東出兵は失敗に終わる。
田中内閣は、張作霖に満州への引き上げを説得した。北京で 戦い、負けて満州に逃げれば北伐軍は満州にまで追ってくる。無傷で撤退した方がよい。

     (反日へ転向、満州で勢力拡大の恐れ)

・一方、現 地の関東軍は張作霖を見限っていた。済南事件の後、日本に反 抗的となっており、別の傀儡政権を作ろうと考える。中央の言うことを無視して張の暗殺を企てる。

     →関東軍により張爆殺(満州某重大事件)1928

・計画は関東軍高級参謀の河本大作が立てた。暗殺は北伐軍のスパイの仕業とし、混乱に 乗じて南満州占領する計画だったという。
・1928年6月4日、特別列車で奉天に戻る途中、張作霖は列車ごと吹き飛 ぶ。日本では詳しく報道されず、満州某重大事件と される。
・中国人浮浪者を殺し、偽のスパイの手紙を懐に入れて転がす。しかし、爆薬の量が多く、スパイの仕業ではあり得ない。浮浪者1人が逃亡し、ことの経過を報 告したため、外国新聞は日本の仕業とスクープ。
張作霖の息子の張学良は、日本の仕業と見抜き、国民党に服属してしまう。

      =日中対立激化、列国の非難集中

・関東軍の独走でとんでもないことになったため、田中は責任者を厳重処分することに し、天皇にも誓った。しかし、陸軍が恥さらしになるといって反対する。結局抑えられず、臭いものに蓋で黙っていた。
・天皇は田中を呼び、「なぜ厳重処分にしないのか、もう話は聞きたくない」と叱る。これを天皇の不信任と感じ、田中は辞表を出した。天皇が直接政治介入し、内閣を倒した唯一の例であ る。

C 階 級闘争の弾圧
   無産政党からの当選

・田中内閣の時に最初の普通選挙がおこなわれる。無産政党の労農党は19万票を獲得 し、2人が当選した。無産政党合計では8人が当選し、田中は危機感を持っ た。

     →治安維持法の強化(最高刑死刑)

・1928年、治安維持法は強化され、最高刑は死刑となる。

  共産主義者の検挙
      cf)特別高等警察

・1928年、特別高等警察を全府県に設置(大逆事件後、警視庁内に特別高等課)。スパイを養成して共産党の検挙に乗り出した。

       →三・一五事件、四・一六事件

・1928年3月15日、ブラックリストに載っていた者の寝込みを襲い、1600人を 検挙する。警察は拷問で仲間の所在を知ろうとする。ファシズムには暴力がつきもの。三・一五事件という。
・小林多喜二「一九二八・三・一五」に拷問の仕方が記されている。小樽の労働組合の人に対する拷問では、竹刀で殴る、畳屋の針を刺す、警察医が脈を取りな がら窒息させ、気絶するとすぐに息を吹き返させるということを8回繰り返した。また、天井の梁から逆さ釣りにして、持ち上げて頭から床に落とすことを繰り 返す。
・1929年4月16日、339人を検挙。この四・一六事件で共産党はほぼ 壊滅する。
・これを書いた小林多喜二は1933年2月に虐殺されている。取調中に心臓発作というが、死体は悲惨だった。手の指が一本ずつ手の甲につく。太ももは倍に 腫れ上がり、錐で突いた穴があいている。急所には蹴りが入れられたようでソフトボール大に膨れる。

※ファ シズム体制の先駆となる

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