<第二次護憲運動と政党政治の確立>
[政党政治の確 立]

A 原内閣後の政治
 1 高 橋是清(政友会)=ワシントン会議

・原が暗殺された後、高橋是清が政友会総裁になってピンチヒッターで首相になる。専門学校を 大学に昇格させる問題で閣内不統一となって総辞職した。

    (以後、政党内閣中断=超然内閣)
 2 加 藤友三郎(海軍)=軍縮実施

・後継首相は元老が指名する。山県は死んでいるので、この時の元老は松方と西 園寺の み。政友会内閣が人気がなかったので、憲政会の加藤という考えが浮上。しかし、松方はワシントン会議に出席した加藤友三郎を首相にしようと考 えた。

Q1 どうして加藤なの か?

A1 ワシントン会議の後始末である。海軍の軍縮が必要なため、海軍のトップを持ってきた方がきちんと実行できる。

・政友会は引き続き内閣を保てると思っていたが、この事態のため、加藤友三郎 に接近し て閣外協力することになる。
加藤友三郎内閣はシベリア撤兵と軍縮を実施し、 戦艦「安 芸」「薩摩」以下14隻を廃棄するが、首相が病死して総辞職となった。

 3 第2次山本(海軍)=関東大震災(cf)朝鮮人大虐殺)、

・引き続き海軍の内閣とし、山本権兵衛が就任する。一週間後に関東大震災に見舞われる
・200人の朝鮮人が武器を手にして来襲とか、爆弾を投げ歩いているとか、井戸に毒を入れているというデマが出る。普段差別していたため、恨 みを晴らしに 来るという憶測から出たもの。警察でも朝鮮人来襲を触れて廻ったため、騒ぎが拡大し、これに社会主義者やロシアの革命勢力も加担という話にな る。
・政府としては、民衆暴動が怖い。朝鮮人や社会主義者を敵にすれば、自分たちは逃れられるという読みから、意図的にデマを流したという説もあ るが確証はな い。しかし、警察がデマに加担したのは確か。
・荒唐無稽の話、朝鮮人だけでそれだけの騒ぎを起こそうとすれば、どれだけの人間が必要なのか。どうやって震災の混乱時に連絡を取り合えるの か。
・住民は女子供を逃がし、男は武器を持って集合して自警団を結成した。尋問して言葉がおかしいとか、「君が代」を歌わせたりして、不審であれ ば朝鮮人であ れば殴る蹴る。東北出身者で訛りがあるため、暴行を受けた人も多かった。
・亀戸警察だけでも数百人の朝鮮人が逮捕されて殺される。朝鮮 人大虐殺事件と 呼ばれ、総数は6000人ともいう。

    虎の門事件

・大正天皇は脳病にかかり、おかしな行動をするようになる。国会の開会の時に 詔書を巻 いて覗く事件が起きる。このため、後の昭和天皇が摂政として仕 事を代行し た。
・1923年12月27日、国会の開院式に出席するための摂政 が狙撃される虎の門事件と いう。ステッキ式仕込み銃が使われた。お召し自動車の窓を破るが摂政は無事。難波大助25歳が犯人。親は衆議院議員だが、小作人に冷酷だった ことから、金 持ちに批判の目を向けた。大学に進学するために上京して貧民窟に住み、実状を見て社会主義に入る。しかし、貧しい人たちも天皇を崇拝してお り、皇室尊崇の 念を打破しなければ社会主義は実現しないとして反抗におよんだ。
・大逆罪で裁く。大審院で一回限り。大助が罪を悔いて摂政のはからいで無期に減刑というシナリオ。しかし、「やったことは正しく、支配階級が 天皇を利用し て貧しい人を圧迫しようとしたからやった」と述べて2日後に死刑にされる。
・父親は議員辞職、小学校時代の校長も責任をとって辞職。山本 内閣は摂政に 対して申し訳ないことをしたと、総辞職。

 4 清 浦奎吾内閣(山県ライン、貴族院中心内閣)

清浦 奎吾は枢密院議長で75歳。西園寺はワンポイントの選挙管理内閣のつもりで任命したらしい。山県直系の官僚で、陸海外相以外は貴族院から選ぶ。
・清浦は普通選挙は実行しない方針。464議席中、278議席を持っていた最大会派の政友会は、協力を求められる。与党になって次をねらう か、野党として 戦うかの選択を迫られる。ここで政友会は分裂し てしまう。 130人は政友会を名乗って野党となり、脱党した148名は政友本党として清浦を支持した。

B 第二次護憲運動 1924
   護 憲三派=憲政会(←同志会)、政友会、革新倶楽部(←旧国民党)の倒閣運動
    「普選断行」「貴族院改革」要求
   →解散、総選挙で護憲三派圧勝

「普 選断行」「貴族院改革」を求めて野党共闘が実現。清浦は議会 解散で臨む。結果は憲政会101→151、政友会129→105、革新倶楽部43→30に対し、政友本党149→109で護憲三派が圧勝。清浦は国会運営ができなくなって総辞 職。第一党の憲政会総裁・加藤高明が組閣するこ とになる。憲政会は長い間、 普通選挙実施を掲げていたのが支持された。

   ∴三 派連立内閣(加藤高明)結成

・連立内閣=憲政会→若槻内相、浜口蔵相。政友会→高橋農商務相。革新倶楽部 →犬養逓 相。外相に幣原、陸相に宇垣。

※以後、政党政治確立(憲政 の常道)

・第一次護憲運動では民衆運動を組織して内閣を打倒した。今回は政党の幹部中 心。官僚は、普選は階級闘争を激しくすると考えたが、政党は、ある程度の妥協をしないから激しくなると考えた。しかし、民衆運動は階級闘争を 激しくするものとして警戒していたため、今回は組織しなかった。
・解散総選挙という民主的手続きによって内閣を倒した。選挙結果による政権交代はこれが初めて。民主主義が成熟してきている証拠。その後、戦 後も含めて選挙結果での政権交代は3回しかない。


[加藤高明内閣 (憲政 会)]

・美濃部達吉は「梅雨が明けて日が出てきたようなもの」と評す。しかし、階級 闘争を抑 えることを考えていたのであり、本当の意味での政治の民主化を進める意図はなかった。

   大衆の権利の拡大と抑圧
A 普 通選挙法実施 1925
   男子=25歳以上に選挙権、30歳以上に被選挙権
   女子=選挙権なし
    財産制限の撤廃で有権者4倍へ

・普通選挙には枢密院と貴族院が抵抗した。被選挙権を30歳以上に引き上げ、 親から経 済援助を受けているものを欠格とするなどの修正がされたが、とりあえず財産 制限は撤廃されている。有権者は330万人→1250万人。4倍となる。
女性選挙権はなし。英米は1920年頃には認 めていたが、 仏伊は認めていない。特に日本だけ遅れていたということではないかもしれない。

  but大衆運動、共産主義の拡大の恐れ
Q2 共産主義拡大の恐 れは、ある国と国交を開設したからである。どこか?

A2 ソ連である。

    cf)日ソ基本条約(国交樹立)(1925)→無産政党の国会進出の恐れ

・初めソ連は世界革命を目指していたため、資本主義国は警戒してた。しかし、 この頃に は一国社会主義の理論を採択し、世界革命の実現より国内を固め るというよう に路線を転換している。このため、資本主義諸国も警戒を緩め、貿易による利益確保のため、国交開設の動きが出てきた。1924年にはイギリスがソ 連を承認した。
・ソビエト代表のヨッフェが孫文に接近し、中国革命を応援するとした。中ソの提携は日本にとって好ましくない。先手を打ってソ連と国交を開設 し、ソ連領へ の経済進出をねらった。また、いつまでも北樺太を軍事占領しているわけにもいかなかった。
・1924年、カラハン・芳沢会談で北樺太からの撤兵を条件に 国交樹立。 北樺太の石油・石炭開発権を獲得した。
ソ連と国交を結べば社会主義者が自由に日本に入ってくる。 これは日本の社会主義者を元気づけ、選挙で当選することも予想される。

B 治安維持法 1925
   共産主義革命運動の弾圧

・3月19日、普選法の10日前に成立した。無政府主義者、共産主義者が活動 すること に対し、歯止めをかけようとするもの。「国体変革」と「私有財 産制」を否認 することを目的とする結社組織は10年以下の懲役。それまでは、共産党を作っても治安警察法で禁固10カ月以下だったので すごく強化されて いる。
・健全な労働運動、社会運動を取り締まるものではないとする。

    but後に自由主義思想弾圧に利用

・治安警察法は、結社などの具体的な行為を制限したものだが、治安維持法は「国体」変革という思想の取り締まり。しか も、「国体」は 何を指すのかが曖昧なため、濫用を恐れる声が出る。例えば、天皇制打倒は国体変革であろうが、天皇の諮問機関である枢密院改革は国体変革もな るかも知れな い。実際に拡大解釈されて自由主義思想も弾圧される。
・田中内閣は1928年、最高刑を死刑にし、1941年には予防拘禁制度が導入される。罪を犯す恐れがあるという者もとっつかまる。

※大正末〜昭和初期の政党
   政友会=三井・地主の利益代表、積極財政、強硬外交

政友 会の支持基盤は地主であり、財閥では三井であった。地主という地方の実力者は、地元の利益誘導を優先に考える。政友会は鉄道建設などで人気取りをする 必要があり、積極財政となる
三井は在華紡績資本として中国に資本を投下し ている。中国 市場確保のためには列強との関係がまずくなったとしても、中国 への強硬外交 を展開することになる。政友会は軍閥に乗っ取られたのでこの傾向が強くなる。

   憲政会=三菱・資本家の利益代表、緊縮財政、協調外交

憲政 会の支持基盤は資本家であり、財閥では三菱だった。都市の人間は地方へのバラマキには反対する。緊縮財政は物価を引き下げる効果がある。円安に誘導することで輸出を増やせる。
・都市の資本家は工業原料の輸入をきちんとおこないたい。 列 強と事を構えて経済封鎖でもされたらたいへん。協調外交がよい

     ∴超然内閣、大衆運動に反対するブルジョア政党
       →政争に明け暮れ政治不信招く

・このようにみてゆくと、戦前期の政党は金持ちの利益を代表するものだったことがわかる。労働者の利益という視点がないのである。それまで、選挙 は金持ちに限ら れていたのであるからこれは当然。小選挙区制なので二大政党制と なり、それ以外の政党ができたとしてもなかなか食い込めない。
・地主と資本家では考え方が違う。それを代表する正反対の考えの政党が交互に政権を担当したため、政策に一貫性がなくなる。権力争いのため、 お互いに足を 引っ張り合う。
・国民不在の政権争いと映り、政治に対しての不信感が募った。これもファシズムの背景である。


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