6 政党政治の確立と資本主義の行き詰まり <恐慌と階級闘争の激化>

 大戦景気の反動で、1920年代は不況が深刻化した時期であり、繰り返し恐慌に見舞われている。1920年、それまでの過剰生産によって価格が暴落し、 最初の恐慌である(1)が起き、その痛手から立ち直りかけた1923年には、(2)に見舞われて京浜地区が壊滅し、ここから(3)と呼ばれる恐慌が引き起 こされた。この時、企業の連鎖倒産を防ぐために銀行による大量の融資がおこなわれたが、これが焦げ付いて金融不安が生じ、1927年には[4]が起きてい る。日本は、好況に沸くアメリカ向け輸出を拡大することで景気回復を目指し、金解禁政策をとったが、1929年にはそのアメリカが過剰生産から恐慌に見舞 われ、これが世界に波及して[5]へと発展している。日本では1930年、昭和恐慌と呼ばれるもっとも深刻な事態に陥っている。この間、倒産や失業が拡大 し、企業が少数の財閥のもとに集積され、独占資本が形成されている。
 不況の長期化は、生活を脅かされる人々の階級闘争を激化させた。日露戦争後の不況と政府の弾圧により、明治末期に労働運動は下火となり、1912年に (6)が組織した[7]も労資協調を目的とする団体であった。しかし、大戦景気の時期に低賃金を強いられ、その後の不況で生活が脅かされるようになると、 (7)は争議の指導に重点を置くようになり、1921年には[8]へと発展している。一方、米価高騰で潤った地主たちに対し、小作料の引下げを求める (9)が頻発し、1922年、その指導のために(10)の手で[11]が設立されている。部落差別の撤廃を要求する解放運動の全国的組織として、1922 年には[12]が発足しているし、婦人参政権の獲得を目指す[13]が、(14,15)によって1920年に作られている。その前身は、文学を通じて女性 の解放を目指した(16)であった。そして、もっとも盛り上がった階級闘争が無産階級の参政権獲得を目指す[17]運動であり、無産政党として(18)な どが作られている。このような階級闘争をリードしたのが1922年に秘密裏に作られた[19]であった。その前身は1920年に発足した(20)であり、 (21,22)らがコミンテルン日本支部として革命による社会主義体制の樹立に向けて活動した。しかし、日本の左翼運動は常に内部分裂の様相を呈し、弱体 化したところを抑圧されている。社会主義体制の確立の手法をめぐって対立が生じた(23)はその例で、(11)もより過激な闘争を目指す左派が分裂して新 たに(24)を作るなど分裂していった。
 一方、右翼や軍部の中には世界的大富豪のアメリカやイギリスに対し、植民地という富の再分配を求めて不況を克服しようという意見が現れた。これは戦争に つながるため、上からの改革で国内の階級差を是正し、日本国民を結束させる必要がある。これが[25]という考えである。(26,27)は(28)を組織 したが、(27)の著わした「(29)」には華族など特権階級の廃止、私有財産の制限、大企業の国営化などを実行し、米英と戦ってこれらをアジアから排除 し、日本を盟主とする大アジアを作る構想が述べられている。階級闘争の激化は革命の危機であると捉えられ、(2)の最中、無政府主義者の(30)が暗殺さ れ、1928年に(19)の活動家が検挙された(31)などは、暴力的に革命を封じ込める(25)の動きの顕在化であった。

<解答>
(1)戦後恐慌 (2)関東大震災 (3)震災恐慌 (4)金融恐慌 (5)世界大恐慌 (6)鈴木文治 (7)友愛会 (8)日本労働総同盟 (9)小 作争議 (10)賀川豊彦 (11)日本農民組合(12)全国水平社 (13)新婦人協会 (14,15)平塚雷鳥、市川房枝 (16)青鞜社 (17) 普通選挙 (18)労働農民党 (19)日本共産党 (20)日本社会主義同盟 (21,22)堺利彦、山川均 (23)アナ・ボル論争 (24)日本労 働組合評議会 (25)ファシズム (26,27)大川周明、北一輝 (28)猶存社 (29)日本改造法案大綱 (30)大杉栄 (31)三・一五事件


<第二次護憲運動と政党政治の確立>

 原敬が暗殺されたあと、政友会総裁となった[1]が首相となった。この内閣はワシントン会議に代表を送り、国際協調路線をとったが、閣内不統一で総辞職 する。この後、ワシントン会議に基づく海軍の軍縮を実行するため、海軍の[2]、ついで[3]が首相となった。(3)内閣の時には(4)が発生し、デマに よって朝鮮人や社会主義者が虐殺される事件が起きている。また、摂政宮が社会主義者に狙撃される(5)が起き、(3)は引責辞任した。この後、選挙管理内 閣の思惑で組閣したのが枢密院議長の[6]である。衆議院に基盤を持たない(6)は(7)中心内閣を作り、国民が求める普通選挙に反対の方針を明らかにし た。協力を求められた最大会派の政友会はその対応をめぐって分裂し、半数が政友本党となって与党を形成した。
 (6)は山県有朋直系の官僚であり、大正デモクラシーの風潮とは相容れなかった。このため、野党となった政友会、同志会から改名した(8)、国民党の流 れを汲む(9)が倒閣運動を展開した。これが[10]である。そのスローガンは[11,12]であり、窮地に立った(6)は衆議院を解散して総選挙となっ た。結果は(13)と呼ばれた野党の圧勝であり、(6)内閣は総辞職し、第一党となった(8)総裁の[14]が首相となり、三派連立内閣を組織した。これ 以後、衆議院第一党の党首が組閣するルールが確立し、国民にとって念願の政党政治が実現する。このしきたりは[15]と呼ばれ、犬養毅が五・一五事件で暗 殺されるまで続いた。
 (14)は、1925年、いわゆる[16]法を実施し、衆議院議員選挙権の財産制限を撤廃した。これにより男子(17)歳以上に選挙権、(18)歳以上 に被選挙権が与えられた。ただ、女子には選挙権は与えられず、その解決は太平洋戦争後に持ち越されることになった。一方、(16)法の実施は、大衆運動の 拡大を招く懸念があった。この時期、ソ連が世界革命の路線を転換したこともあり、日本は(19)を締結して国交を樹立したが、それが社会主義者の流入を招 き、無産政党と結んで革命運動に発展する恐れもあった。こうして、(16)法と抱き合わせで[20]が成立する。これは(21,22)を目的とする結社を 禁じたもので、無政府主義、共産主義を取り締るものだったが、(21)は広義に解釈され、ファシズム体制の強化の中で政府の政策に異を唱える自由主義思想 の弾圧に利用された。
 このように見てくると、この時期の政党が真に国民全ての利害に応えようとする存在ではなかったことが確認できる。事実、政友会は財閥では(23)、階層 では(24)の利害を代弁し、財政では地方に利益をもたらす(25)、外交では(23)が投下した在華紡績資本の市場を守るための(26)を展開した。一 方の(8)は、財閥では(27)、階層では(28)の利害を代弁し、輸出拡大のため財政ではインフレにつながる(25)を排除して(29)をとり、外交で は安定した原料輸入を図るため、中国問題で列強と衝突を避ける(30)を展開している。これらは超然内閣、大衆運動に反対するブルジョア政党であり、政権 をめぐる政争の連続で国民の政治不信を招く結果となった。これもファシズム台頭の要因である。

<解答>
(1)高橋是清 (2)加藤友三郎 (3)山本権兵衛 (4)関東大震災 (5)虎の門事件 (6)清浦奎吾 (7)貴族院 (8)憲政会 (9)革新倶 楽部 (10)第二次護憲運動 (11,12)普選断交、貴族院改革 (13)護憲三派 (14)加藤高明 (15)憲政の常道 (16)普通選挙  (17)25 (18)30 (19)日ソ基本条約 (20)治安維持法 (21,22)国体の変革、私有財産制の否認 (23)三井 (24)地主  (25)積極政策 (26)強硬外交 (27)三菱 (28)資本家 (29)緊縮財政 (30)協調外交


<金融恐慌と対華強硬外交>

 (1,2)という商品を輸出し、鉄鉱石や石炭という原料を輸入する中国貿易は日本にとって有利であった。また、労働運動の高揚で賃金が上がり深夜業が廃 止された日本から中国への資本輸出が進み、特に(3)と呼ばれる紡績業での現地生産が拡大していた。一方、対華二十一か条要求を押し付けた日本に対する中 国人の反発は強く、日本製品の不買運動である(4)が盛んとなり、(3)で働く中国人労働者のストがもとで、上海租界では(5)と呼ばれる大規模な武力衝 突事件が起きたりしていた。
 当時、北京には軍閥の(6)の政権があり、日本の援助を受けていた。これに対し、国民政府の孫文は共産党と提携し、共同して北方軍閥と対決する第一次国 共合作を画策した。後継の(7)は北に向けての軍事行動である(8)を開始し、(9)を占領したが、(6)が打倒されれば日本は中国市場を失う恐れがでて きた。
 これに対し、憲政会の(10)内閣は外務大臣に(11)を迎え、中国問題に武力介入しない協調外交を展開した。一方、不況克服の切り札としては、第一次 大戦時に停止していた金による手形決済を再開する(12)を考えていた。大戦時には多くの国が金本位制から離脱し、日本もそれに倣ったが、戦後、ほとんど の国が金本位制に復した。しかし、日本は関東大震災の復興のため、正貨に対して通貨発行量を増大させており、金本位制に復せなかった。そのため、日本はイ ンフレ基調で製品が割高となって輸出が伸びず、為替は円安に動いて輸入価格が高騰していた。貿易振興には(12)が欠かせず、そのためには緊縮、増税が必 要となる。ここで問題となったのが不良債権化していた関東大震災時の緊急融資である(13)の処理であった。しかし、これが国会で話題となると銀行の不良 経営が暴露され、取り付け騒ぎが発生する。植民地の発券銀行だった(14)も大戦期に成長した(15)に対して膨大な不良債権を抱えていたことが判明し た。(10)は(16)を発して(14)を救おうとしたが、協調外交に不満を持つ(17)はこれに反対し、内閣が総辞職に追い込まれる。こうして、銀行、 企業の倒産が拡大する(18)が発生するのである。
 次いで組閣したのは政友会総裁で長州陸軍閥の(19)であった。大蔵大臣の(20)は(16)による(21)を発し、この間に銀行に対する大量融資をお こなって金融不安を解消した。一方、(19)は中国問題について(22)を開催し、(8)に干渉するため(23)と呼ばれる軍事行動を開始した。ここで は、日本軍が(8)軍と衝突する(24)が起きている。しかし、日本の干渉は失敗し、(6)は満州への撤退を余儀なくされる。反日に転向した(6)の勢力 拡大を恐れた(25)は、これを奉天郊外で爆殺する。この(26)により、日中の対立は激化し、日本は列強の非難を浴びることになった。これにより、 (19)は天皇の不信任によって辞任するのである。
 この内閣は国内の階級闘争を徹底弾圧したことでもファシズム的であった。初の普通選挙で無産政党からの当選者が出たことで(27)の最高刑を死刑とし、 (28)を全国に設置して共産主義者を検挙した。共産党に対する(29,30)の弾圧事件もこの内閣で起きている。

<解答>
(1,2)綿糸、綿布 (3)在華紡 (4)日貨排斥 (5)五・三○事件 (6)張作霖 (7)蒋介石(8)北伐 (9)南京 (10)若槻礼次郎  (11)幣原喜重郎 (12)金解禁 (13)震災手形 (14)台湾銀行 (15)鈴木商店 (16)緊急勅令 (17)枢密院 (18)金融恐慌  (19)田中義一 (20)高橋是清 (21)モラトリアム (22)東方会議 (23)山東出兵 (24)済南事件 (25)関東軍 (26)満州某重 大事件 (27)治安維持法 (28)特別高等警察 (29,30)三・一五事件、四・一六事件


<世界大恐慌と政党政治の閉幕>

 田中内閣の後、政権を担当した政党は憲政会と政友本党が結集した(1)である。首相となった[2]は大蔵大臣に[3]を起用し、好調なアメリカ経済に期 待し、膨張した通貨を(4)財政によって縮小させ、産業の合理化を進めて企業の体質を強化して金本位制への復帰を目指した。この結果、1930年に[5] が実施される。しかし、アメリカでは前年10月に[6]が発生しており、期待された輸出は激減し、価格の引下げでデフレが進行した。のみならず、(5)を 実施した際、実際の円ドル為替レートに対し、かつて金本位制を維持していた時のレートに基づく(7)解禁をおこなっていたため、将来の金輸出再禁止によっ て円安に動くことを見越した投資家は、手元の円を売ってドルを買う動きを強めた。このため、短期間に大量の金が流出し、通貨規模が縮小してデフレが深刻化 したのである。こうして起きた恐慌を[8]と呼んでいる。失業者は100万人を超え、特に工業製品に対して農産物価格の下落が激しい(9)と呼ばれる現象 が起きたことで、深刻な農業恐慌が巻き起こった。
 一方、(2)内閣は外務大臣に[10]を用いて協調外交を展開した。この中で、新たに建艦競争を招いていた(11)を対象とする軍縮会議が開かれ、日本 は全権に(12)を送って[13]条約を締結した。参加国は(14)の3つで、この順に保有総トン数を[15]の比とすることで合意した。日本の海軍軍令 部はこの調印を[16]と指弾して反対したが、(2)は世論を味方に批准にこぎ着けた。しかし、国会では内閣の責任を追及する声が強まり、(2)は狙撃さ れて命を落とす結果となる。
 次いで首相となったのは(12)であった。(5)の失敗で有効な不況克服策を失った(1)は、企業のカルテルやトラストを推進し、合理生産を徹底するこ とで輸出競争力を強化しようとして(17)を施行した。これは企業の集中を促進するものであり、財閥による日本経済の支配体制が確立される。国民の目には 財閥を利する政党の腐敗と映り、軍部は海外進出による不況克服を主張するようになる。この方針は、恐慌で没落してゆく中産階級、特に地主層の支持を得るこ とになる。(18)年、満州にあった(19)は奉天郊外で鉄道爆破事件をでっち上げ、満州全土を占領する挙に出た。これが[20]である。(12)は不拡 大方針を出したが無視され、軍部がこれを暗殺しようとした(21)が明るみに出ると、内閣は総辞職に追い込まれた。
 代わって首相となったのは(22)総裁となっていた[23]である。大蔵大臣となった[24]は通貨政策では[25]の措置をとって金本位制から離脱 し、日本は(26)制に移行した。(23)は軍需拡大による積極財政に転じて購買力の上昇をもくろみ、急激な通貨膨張によって為替相場は激しい(27)に 見舞われた。このため、デフレによる低価格と(27)の後押しで、大量の日本製品が海外に輸出され、日本は(8)の痛手から完全に回復するのである。しか し、列強はこれを(28)であると非難し、日本製品に高額関税をかける(29)で対抗した。(23)は外交では(19)の増援を認めたが、軍部は政党政治 家を「無能腐敗」と断じてこれを暗殺する事件を起こした。この[30]により、政党政治は幕を閉じることになるのである。

<解答>
(1)民政党 (2)浜口雄幸 (3)井上準之助 (4)緊縮 (5)金解禁 (6)世界大恐慌 (7)旧平価 (8)昭和恐慌 (9)シェーレ  (10)幣原喜重郎 (11)補助艦 (12)若槻礼次郎(13)ロンドン海軍軍縮 (14)米英日 (15)10:10:7 (16)統帥権干犯  (17)重要産業統制法 (18)1931 (19)関東軍 (20)満州事変 (21)十月事件 (22)政友会 (23)犬養毅 (24)高橋是清  (25)金輸出再禁止 (26)管理通貨 (27)円安 (28)ソーシャルダンピング (29)ブロック経済 (30)五・一五事件


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