<第一次世界大戦と中国進出>
[第一次世界大戦]

A 大戦前の状況
 1 ヨーロッパ
    三国協商(英仏露)×三国 同盟(独伊墺)

・この対立軸を分析すると、(1)3C政策×3B政策、(2)独仏のアルザス・ロレーヌ国境争い、(3)トルコが 弱体化したことにより、それまでトルコが支配していたバルカンをめぐり、汎ゲルマン主義×汎スラブ主義が戦う。

      cf)バルカン半島=ヨーロッパの火薬庫

・バルカン半島はもともとはトルコ支配地であり、ゲルマン、スラブの民族が入り乱れて 居住していた。
・露土戦争が勃発する。ロシアはオーストリアの介入を恐れ、ボスニア・ヘルツェゴビナの占領を代償に中立を守るよう要請した。
・戦後、バルカン諸国は次々に独立することになった。

    (独、墺、露が支配目指すvs民族独立運動)

・ロシア、オーストリアは、この地域に支配権を確保しようと、独立した諸国に介入して ゆく。
・ロシアは独立させたブルガリアを足場に勢力を伸ばす動き。オーストリアは ボスニアを手に入れ、さらにセルビアに手を伸ばす動きを見せた。セルビアはオーストリアによる占領を警戒してロシアを頼った。
・オーストリアのバックでは同じゲルマン民族のドイツが後押ししていた。
・一方、バルカンの国はこれらの国の力を利用しつつ独立を維持しようとしてゆく。

 2 中国
    孫文の活動(三民主義=中国民族の独立)

孫文は 日露戦争の勝利で勇気づけられた。「アジア民族がヨーロッパに対して勝ったことは数百年来なかったこと。ヨーロッパ支配からの打破を目指そう」。
・1905年、東京で中国革命同盟会を結成した。三民主義は民族独立、民権伸張、民生安定(土地に対する権利の平均化) で、民族資本家、華僑の支持を受ける。
・清は憲法制定の準備を開始し、軍隊の近代化と工業の発展を図る。しかし、外国からの借金と増税でやろうとしたため、かえって反発を生む。1907年4月 から11月にかけ、ストや暴動は132回に達する。

    →辛亥革命(1911)

・1911年10月10日、革命派が武昌で蜂起。革命の火の手が北部を除いて拡大し、14 省が清からの独立を宣言した。

    ∴中華民国建国(1912)、清の滅亡

孫文 は帰国し、臨時大総統となり、1912年1月、南京を首都と する中華民国ができる。
・清は袁世凱を派遣してこれを鎮圧しようとした。しかし、袁世凱は清を裏切り、孫文に対して皇帝を退位させることの引替に大総統の地位を与えるよう要求す る。孫文は共和制移行を条件にこれを認める。

       but袁世凱が革命勢力一掃し軍事政権樹立(政権不安定)

清朝 最後の皇帝・溥儀は退位して清は滅びた。しかし、大総統と なった袁世凱は独裁を強め、議会を停止、国民党員を弾圧した。国民党は袁世凱と対立し、各地でも軍閥が割拠し、相互に抗争を繰り広げ、事実 上分裂状態になる
・中国がふたたび統一されるのは、太平洋戦争後に中華人民共和国ができてから。40年近くの内乱の時代になる。

 3 日本 日露戦争後の不況

日本 は日露戦争後の不況が続いていた。借金を返せず、11億円の債務を残したまま。

B 第 一次世界大戦 1914〜
   墺皇太子暗殺事件により各国出兵、開戦

・1914年6月28日、オーストリアは陸軍大演習をボスニアのサラエボで実施。オー ストリア皇太子夫妻が出席した。スラブ民族にオーストリアの力を示そうというもの。
・セルビアはオーストリアに狙われていたため、7人の暗殺者を送って皇太子夫妻を暗殺しようとした。車に爆弾を投げつけ、皇太子がこれを放り出す。従者が 吹き飛び、その見舞に車で向かう途中、曲がり角で減速したときに今度は狙撃される。妻は即死、夫は重体で間もなく死亡した。このオーストリア皇太子夫妻暗殺事件により、ヨーロッパの火薬庫に火がつく。
・オーストリアはドイツをバックに頼み、最後通牒をセルビアに送って攻撃態勢に入る。セルビアは同じスラブ民族のロシアをバックに頼み、ロシアはフラン ス、イギリスに応援を頼んだ。
・7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告。ロシアは総動員開始。ドイツは8月1日にロシアに宣戦布告、3日にフランスに宣戦。4日にドイツがベル ギーに入ると、イギリスはドイツに宣戦布告した。あっという間に第一次世界 大戦が勃発することになったのである。

Q1 この大戦に日本は参戦する。敵はどこか?。参戦する理由は何か?

A1 ドイツを敵とする。戦地はヨーロッパであるため、簡単に勝てるし、中国利権が獲得できる。

・大戦の勃発を井上馨は「大正の天佑」という。戦争が起きれば景気が良くなり、不況から脱出できる。

    →日本の参戦(日英同盟の情誼)
      ∵対外勢力拡大目指す(大正の天佑)

・8月4日、イギリスは香港、威海衛がドイツに攻撃されたら、日本に守って欲しいと要 請してきた。
・ドイツがイギリス本拠地を攻撃することはなかったが、加藤高明外務大臣は これを受け、「現在は日英同盟の義務で参戦しなくてはならない状況にはない。しかし、イギリスの依頼に基づく情誼と、ドイツの根拠地を東洋から一掃して国際的地位を高める ために参戦すべき」と主張した。
・日本の考えをイギリスに伝えると、中国に戦争が波及して日本が火事場泥棒をする恐れが出て、依頼を取りやめた。しかし、加藤外相はあくまでも参戦で進 み、戦闘地域を限定することと山東権益を中国に返すことでイギリスを説得し、「日本は領土的野心はない」と付け加えた。
・日本は、8月15日にドイツに最後通牒を突きつけた。内容 は、(1)日本・中国海域からのドイツ艦艇の即時退去、(2)膠州湾租借地 の中国返還を条件とした日本への引き渡し。

     =東洋ドイツ勢力の一掃(青島、山東半島、南洋諸島の占領)

・9月2日、山東半島北岸に5万の兵で上陸し、9月28日、青島を包囲する。ドイツ守 備軍は6000人。攻撃準備に1カ月をかけ、10月31日の天長節を機に攻撃。余裕の戦いだった。11月7日、青島のドイツ軍降伏。山東半島に侵入して鉄道を獲得。
・中国側は青島の引き渡しを要求。しかし、日本はドイツが勧告を無視して戦争になり、日本も戦費と人員を費やしている。だから山東半島を中国に引き渡す義 務はないとして占領を続けた。
・南洋諸島は赤道以北に1400の島が散らばるもの。マリアナ、カロリンはスペイン領、マーシャルはドイツ領だったが、米西戦争でグァム島がアメリカ領と なり、残りはドイツが買収していった。これらは10月上旬から1週間で占領した。
・イギリスはヨーロッパへの軍隊派遣について、陸軍について3度、海軍について4度要請してきた。これに対し、日本軍は国防のための軍隊であり、参加でき ないと断る。
・1917年4月、山東半島の権益と南洋諸島の領有保障を英仏から取り付け て9隻の艦隊を地中海に送る。「領土的野心」そのものであった。
・ドイツ人捕虜の扱いはよく、名古屋では陸軍病院などがあった旭丘の地に収容された。パン作りなどを伝授し、シキシマパンの元になった。

[中国への進出]
   ヨーロッパの大戦に乗じて勢力拡大
A 対華二十一カ条要求 1915

・中国は山東半島からの日本軍撤退を要求してきた。日本は逆に21ヵ条要求を出す。最大の懸案は満州権益の延長で、これは1922年 に満期になるはずだった。したがって、関東州の租借期限を99年延長するこ とを最優先要求として突きつけた(2号要求)。これについてはイギリスも了解済みだった。ロシアの原契約年を99年延長すると、1898+ 99=1997年となる。
・しかし、軍部や実業界からの要求が殺到する。日本国内では日露戦後の不況以来、国民の政治への不満が高まっていたため、侵略的な要求を出しておけば人気取りになる。整理して絞るべきところ、 諸要求をてんこ盛りにしてしまい、結局は21カ条に膨れ上がった。加藤高明外相の政策の失敗であり、元老たちも批判していた。

 1 山東省ドイツ権益継承

・4ヵ条。膠州湾租借権、鉱山経営権、鉄道敷設権。

 2 南満、東部内蒙古の権益拡大

・7ヵ条。租借期限の99年延長。土地賃借権、鉱山採掘権、新たな鉄道管理権。

 3 漢冶ヒョウ(草冠の下にさんずいと 「平」)公司への経営参加

・2ヵ条。もともと興業銀行が融資をして支配をしようとしていたもの。鉄鉱石の安定供 給に欠かせない。鉄山、炭鉱、製鉄のコンビナートへの経営参加。乗っ取り企てる。

 4 中国沿岸の他国への不割譲

・1ヵ条。福建省沿岸を想定。

 5 日本人政治軍事顧問の登用

・7ヵ条。日韓協約と同じ手口。
・袁世凱には日本の要求を極秘にするよう求め、また、英仏露については、5号要求を隠して提示した。しかし、袁世凱は「日本は平等の友邦として中国を遇す べきなのに、なぜ豚狗のように奴隷扱いをするのか」と激怒する。袁世凱は5号があることを強調して列国に知らせ、アメリカは中国を保護国化するものとして日本を非難した。加藤外相は5 号は希望事項であって要求ではないとごまかした。
・大隈という自由民権運動のリーダーが、ここでは中国侵略者になっていることに着目。感覚が麻痺しているのである。

    →袁政権に武力で承認させる(5以外)

・中国とは2月2日から交渉を開始し、20数回におよぶ。中国は時間稼ぎをして列強の 干渉を期待したが、大戦でそれどころではなかった。
・日本は満州、天津などに兵を送り、5号を除いて2日以内の返答を求める最後通牒を出した。
中国は5月9日、21カ条要求を受諾した。

Q2 中国では何が起きるのか?。

A2 反日運動である。

  =中国国民の反日運動起こる

5月 9日は国恥記念日として、中国では反日運動が翌年末まで続いた。中国民衆の排外運動は、それまではヨーロッパ列強に向けられていたが、この 後、中心は日本になる。これは日中戦争まで継続してゆく。
・日露戦争に勝った日本への賞賛から、アジアの中の侵略者としての厳しい目に変わる。日貨排斥が本格化し、大隈内閣には日中対立を加速させた責任がある。

B 列強の日本非難
   協調策をとる

・連合国の一員でありながら、日本は列強から完全に孤立してゆく。これは火事場泥棒の せいで、列強と協調する方策を探す必要が出てきた。

 1 ロンドン協約、

・1915年10月にロンドン協約を締結。ロンドン宣言ともいう。英仏露との間に、単独不講和と講和条件の相互協議を約束する。

    第4次日露協約

・ロシアは戦況が思わしくないため、1916年1月、ロシア皇帝の特使が日本に来て、 軍需品の供給と同盟締結を求めた。代償として満州鉄道を日本に引き渡すとする。
・このため、7月に第四次日露協約に調印(秘密協定)。今ま では満州蒙古で日露両国の勢力範囲を定めていた。今回は中国全土で勢力範囲 を話し合う。仮に第三国が中国を取りに来て日露どちらかが戦争になった場合、相手国はその戦争に参加することを定めた。この第三国は表面上 はドイツのことであったが、日本はアメリカを想定していた。
・これにより、ロシアは背後から日本に攻められることがなくなり、ヨーロッ パ大戦に集中できる。日本はアメリカをけん制して満州支配を固められる。
・ロシア大蔵省証券が日本で売りに出され、3億4千万円を得る。しかし、ロシアは約束の満州鉄道を引き渡さず、そのうちにロシア革命になる。もっとも、日 本がロシアに送った缶詰も石入りのものだったという。

 2 石井ランシング協定=日中間の特殊事情、中国三原則を相互に容認

・1917年11月締結。アメリカに日本の中国権益を認めさせようとした。しかし、ア メリカは領土保全と門戸開放を尊重する共同宣言を発表するように持ちかける。特派大使となった石井菊次郎とランシング国務長官との間で協定が結ばれる。
アメリカは日本が領土の近接する中国において、特殊の権益を持つことを認 めた。両国は中国三原則を支持すると声明した。

Q3 この協定はどこがおかしいのか?

A3 日中間の特殊事情を認めれば機会均等原則と矛盾する。その場しのぎの協定だった。

・日本は中国との間に結んだ条約をアメリカが認めたと考え、特殊の権益には政治的なも のを含むと解釈した。アメリカは日本が中国に地理的に近いということを認めたに過ぎず、特殊権益はそれに因む経済的なもののみと考えた。アメリカの日本不 信が増大することになる。

C 中 国支配権拡大の動き
 1 陸軍の武力進出計画

・袁世凱は皇帝に就任しようとする。日本は英仏露を誘ってこれに待ったをかけ、各地の 革命派や反袁世凱勢力を応援して挙兵させようとする。

Q4 この意図は何か?

A4 内乱を長引かせればそれに乗じて入り込める。

・満蒙独立計画を推進することになった。中国本土から満蒙を切り離し、日本が支配する構想。陸軍中堅層が中国全 土に軍事顧問、特務機関、諜報機関を置いて軍閥の動向を把握し、これを利用して軍閥を操り、勢力拡大を図ってゆく体制をとった。
・今までの山県は列強の圧力を避けつつ大陸進出。軍部中堅は欧米を無視して独走する冒険主義。中央の統制を離れて出先が勝手なことをする体制がこの頃から作られてゆくの である。

Q5 陸軍はどうして中央の言うことを聞かないのか?

A5 陸軍の宿命である。広域に展開して戦うため、中央の統制を離れて独自の作戦を立てる必要があり、現場第一主義となる。そのために中堅将校たちにはか なりの権限が与えられ、中央の言うことを聞かない気風があった。

・海軍は狭い艦内で一緒に戦うため、上官の命令は絶対で中央の統制がとれていた。

  =失敗(外交の混乱で大隈退陣)

・満蒙独立のやり方をめぐって陸軍内で対立。蒙古の馬賊・巴布札布(ばふさっぷ)を利 用しようという一派と、「満州の帝王」の張作霖を利用しようという一派に分かれ、それぞれがばらばらに応援していた。
・袁世凱が死ぬと、後継者の黎元洪を手なずけて手先にしようとし、これまでの反袁世凱政策は捨てる。巴布の軍隊は日本から見捨てられ、張と衝突して巴布が 戦死してしまう。二転三転しており、大隈外交の混乱ぶりがわかる。批判され て大隈は退陣する。

 2 財政援助による傀儡化の試み
    袁の死後、軍閥割拠→北京軍閥(段祺瑞)×広東政府(孫文)

袁世 凱の死後、軍閥が割拠して統一できない状態となる。中部の安徽派=段棋瑞。満州の奉天派=張作霖。北京の直隷派=呉佩孚。
・袁世凱の後継者である黎元洪のもとで南北両派が妥協し、北洋軍閥(安徽派)の巨頭・段棋瑞を総理兼陸軍総長とする協力内閣ができる。
・一方、1917年には孫文が広東に別政権を作って対立。

     =段に対する西原借款(寺内内閣) but失敗

・寺内内閣となると、大隈のように直接武力行使をするよりも、借款によって中国の政権を支配することを考える
寺内の私設秘書・西原亀三を通じて段政権に1億4500万円を貸す。 段政権は見返りとして満州蒙古の利権を日本に渡すとした。1918年締結の日華軍事協定だが、実際には守られなかった。
・軍閥政権は中国民衆からは嫌われていた。この金を使って孫文との内戦が拡大したとされ、日本は恨みを買うことになる。
・反段棋瑞、反日運動が起き、1920年、段祺瑞は直隷派軍閥によって攻撃される。段の下野で借款は回収できなくなってドブ金になった。この後、日本は張作霖の援助に切 り替える。


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