5 第一次世界大戦と大正デモクラシー
<政党政治の進展と大正政変>
・明治から昭和初期にかけての政治史は、政党勢力がいかに藩閥勢力を抑えてゆくかの歴史である。
・第1期のイクヤマイマイは、薩長藩閥が交互に内閣を組織した時期。
・第2期のオヤイカサカサでは、初めての政党内
閣が出現す
る。伊藤は政党の利用を考えて立憲政友会を作り、山県有朋は藩閥官僚内閣を組織して対抗する。この二人の後、後継者の桂と西園寺が交互に内閣
を組織する。藩閥と政党の妥協と均衡の時期。
・第3期のカヤオテでは、政党勢力によって藩閥
内閣が倒され
る第一次護憲運動が起きる。その後、政党との歩
み寄りが図ら
れるが、藩閥の寺内内閣は米騒動で倒される。政党の力が藩閥をしのぐ時期。
・第4期のハタカヤキでは、米騒動を受けて国民
の批判をかわ
すため、初の本格的政党内閣の原内閣が誕生す
る。以後、海軍
軍縮を進める関係で海軍の内閣が続くが、政党を無視した清浦内閣は第二次護
憲運動でつぶれる。
・第5期のカワタハワイでは、政党内閣が常識となった。しかし、犬養内閣が五・一五事件でつぶれて政党内閣はつぶれる。
・第6期のサオヒコヒコトコスはファシズムの時代。
[明治末期の政治]
A 政党勢力の成長
政党(地主、資本家の支持)=資本主義の発達で成長
→藩閥政治の打破目指す(∴藩閥の政党との妥協)
1 第2次伊藤内閣
三国干渉→板垣(自由党)との結合で軍備増大
・政府は、解散と買収では政党を押さえることが不可能だと悟る。三国干渉に屈
したた
め、伊藤内閣は国民から政治責任を追及されていた。しかし、1895年自由党党大会では、「三国干渉による遼東半島返還では政府を咎めない。
その協力の代
わり、政府も政党に歩み寄れ」と主張した。自由党は伊藤内閣と
取引を
する路線をとる。
・第二次伊藤内閣はこれを歓迎。自由党党首を辞めるなら板垣退
助を内務大臣と
して入閣させるとし、予算と重要法案もあらかじめ自由党に示して同意を得ることを約束する。これで伊藤は日露戦争に向けた軍備増大政策をとる
ことができ
た。
・伊藤は大隈を外務大臣、松方を大蔵大臣に迎えて補強を図ろう
とする。
しかし、大隈のライバルの板垣はこれに反対し、閣論不統一と
なって総辞職し
た。
2 第
2次松方内閣
大隈(進歩党←改進党)との結合(松隈内閣)
・松方
は大隈と組んだ。結びつけたのは三菱である。三井が井上馨との関係で長州閥と結んでいたのに対し、三菱は薩摩閥と結ぼうと
し、岩崎弥太郎の
娘が松方家に嫁いでいた。大隈と三菱は前からくっついていた。大隈は協力の代償として進歩党のメンバーに内閣書記官長などのポストを用意させ
た。
・しかし、大隈と松方はもともとが仲が悪かった。大蔵大臣としては大隈が先輩だが、インフレ抑制に失敗して松方財政をおこなわせている。
・翌年に喧嘩分かれして松方内閣は総辞職した。
3 第
3次伊藤内閣=地租増徴で軍備拡張目指す
・伊藤は大隈との提携を図るが、内務大臣と3大臣のポストを要求したため決裂
した。仕
方なく板垣を誘うが、内務大臣のポストを要求されてこれも決裂。結局、政党
の力を借りない超然内閣とした。
・政党の協力がないと国会運営は厳しい。地租増徴による軍備拡
大を目指すが
つぶされる。伊藤自ら政党を組織しようとしたが、政党内閣制に危機感を持つ山県の反対で失敗。この間、板垣と大隈は対立を
やめ、憲政党を結成したため、国会運営に自信を失って内閣を投
げ出す。
自由党+進歩党の団結=憲政党の出現で退陣
・伊藤は山県対策もあって大隈に内閣を組織させた。長続きはしないという読み
である。
4 隈
板内閣
→初の政党内閣 but派閥抗争で分裂
・政権が転がり込んできたが、旧自由党、旧進歩党でポスト争いを始めた。大隈が外務大臣兼務であった
が、星亨が外相を要求して対立する。
・進歩党の尾崎行雄(文相)の共和演説事件で危機を
迎える。
帝国教育会の夏期講習会で絶対にあり得ない話として「仮に日本が共和制になれば、三井・三菱が大統領になるだろう」といった。これは金儲け主
義を批判した
ものだが、藩閥は政党は天皇制をつぶして共和制に持って行こうとしていると宣伝した。
・尾崎文相は辞職したが、その後任で自由、進歩党が抗争することになった。結局、自由党が憲政党本部を乗っ取って進歩党を追い出す事件が起きて板垣は辞
表を出した。内閣も総辞職する。追い出された進歩党は憲政本党
を作った。
B 藩閥による政党の抑圧と利用
1 第
2次山県内閣(長州陸軍閥)
文官任用令改正(政党員の官僚への道閉ざす)
軍部大臣現役武官制
・伊藤
は政党を利用しないと議会運営ができない考える。これに対し、山
県は政党内閣は民主政治につながり、天皇制を覆すものとして警戒していた。
・山県は憲政党と提携するが、ポストは与えなかった。逆に文官
任用令を改正
して高級官僚から政党員を閉め出した。
・文官任用令は官僚をどうやって採用するかを決めたもの。試験任用が原則だったが、勅任官は自由任用が認められ、隈板内閣では政党員が入り込
んでいた。山
県は、勅任官も一定の有資格者にして、事実上、試験に受からない政党員は官僚になれなくなった。
・軍部大臣現役武官制を導入し、軍部大臣は現役の大将、中将に
限るとした。
Q1 この制度の狙いは
何か。
A1 気に入らない政党内閣は軍部が大臣を引き上げればつぶせる。非現役の軍人を軍部大臣に任命してしのぐことができなくなっ
た。
|
(軍部による内閣打倒可能)
・治安警察法もこの内閣で出している。地租増徴(2.5%→3.3%)もやっ
てのけ
た。
cf)伊藤による旧自由党系議員の組織化→立憲政友会結成(1900年)
・憲政党は山県に用いられないために離れて行った。この結果、議会運営がたい
へんに
なってゆく。
・憲政党は伊藤に接近し、伊藤を党首にしようと申し出る。伊藤は山県よりはましで、藩閥勢力では開明派である。しかし、伊藤は新党を作るとい
い、結局、憲政党は解散し、伊藤の作った立憲政友会に合流し
た。伊藤は政友会総裁
となったが、この時、板垣は放り出されてしまった。
・山県内閣は総辞職し、伊藤に首相を譲る。実際には、発足直後で体制が整わないうちに譲って失敗させる腹だった。
2 第
4次伊藤内閣
藩閥と政党の合体
・伊藤の巧みさはビスマルク以上だった。三井とつながる井上馨を大蔵大臣、三
菱とつな
がる加藤高明を外務大臣として財閥を味方に取り込んだ。155名の絶対多数で議会も牛耳る。
・自由党は地主の利益を代表する。地主が農村の生活に結びついていた時代は、地主は農民の利害を代表し、自由を叫ぶ政党を応援していた。しか
し、日清戦争後の米価騰貴でいよいよ寄生地主化してゆけば、自由民権を叫ぶ政党よりも、地主・小作関係を守ってくれる藩閥政府の味方になる政
党の方がよ
かった。これにより、自由党は路線を変えたのである。
・幸徳秋水は「自由党を祭る文」を出し、嘆く。政党が藩閥に利
用されたと
いうのである。
・星亨に言わせれば、政党が政権にすり寄ったと
いうこと。藩
閥と政党のどっちが得をしたのかは歴史が証明している。
3 桂
園時代
西園寺公望、桂太郎が交互に内閣組織
西園寺(伊藤ライン)=政友会中心、政党政治推進
桂(山県ライン、長州陸軍閥)=藩閥、軍部中心、政党政治抑圧
・山県、伊藤の後継者として、桂(長州陸軍閥)、西園寺(政友
会総裁)が交
互に内閣を組織する。伊藤や山県は第一線を退き、元老として内閣を作る立場になる。
・第1次桂内閣では日露戦争、第2次日韓協約の締結をしている。日比谷焼打ち事件の責任をとって退陣した。
・第1次西園寺内閣は日露戦後の恐慌の時代。1908年の赤旗事件(仲間の出獄祝いに赤旗を掲げ、革命歌を歌う)によって、社会主義に寛大で
あったことが
責められて辞職した。この内閣は社会党の活動も認めていた。
・第2次桂内閣は、戊申詔書、地方改良運動、大逆事件、韓国併合など、やはりコワモテ政策。財政難となって西園寺に譲る。
cf)維新の功臣=元老として影響力
・元老
は天皇政治の顧問。1889年の伊藤、黒田が最初である。1892年から、次期首相を誰にするかの答申をおこなうようになる。この時以降、山県、
井上馨、松方、西郷従道、大山巌が加わる。大正期に桂、西園寺が加わる。
[大正初期の政治]
・明治天皇は腹心の伊藤博文が暗殺されたことで意気消沈し、一気に衰える。
1912年
7月20日、天皇重態の号外が出た。株は下がり、皇居近くを走る電車は徐行。二重橋前は天皇の全快を祈る人たちが土下座。29日からは3時間
おきに病状が
発表される。
・天皇が亡くなるときはたいへん。昭和天皇の場合、63年の秋から様態が悪くなる。まったくの寝たきりだが宮内庁病院で手厚い看護を受けた。
毎日1リット
ルに
近い下血があり、大量に輸血。体中の血が入れ替わっても生きていた。毎日のトップニュースは今日の天皇のご様態。熱が何度、下血がどれだけ。
これが半年近
く続いた。芸能人の結婚披露宴は遠慮。秋祭りなども中止。「陛下がご病気なのにとんでもない」とされた。
・亡くなったときがまたたいへん。テレビは1週間に渡って昭和天
皇を振り返る特別番組。葬式の時も全てのテレビが中継。唯一別番組を流していたのは教育テレビ。生徒はレンタルビデオ屋に殺到。官庁や学校は
休み。会社も
休むことが望ましいとされる。店を開いていると右翼が糾弾に来るという噂が立ち、どこもお休み。年中無休24時間営業のコンビニのシャッター
が閉まったの
はこの時だけ。
・明治天皇は7月30日、死去。60歳。「これで日本がつぶれるような気がした」というのが多くの人の感想。漱石の「こころ」には、「明治の
精神は天皇に
始まり、天皇に終わった」と記される。1ヶ月間、小学生は喪章をつけて登校したという。
・乃木大将と妻が殉死した。乃木は首の頸動脈を切って死に、妻は心臓を一突き。志賀直哉は、「下女が無分別に何かをしたのと同じ」と述べてい
る。
1 藩
閥の横暴
第2次西園寺内閣の瓦解
財政再建×軍備拡張(陸軍2個師団増設、八・八艦隊要求)
・西園寺内閣は日銀総裁・山本達雄を大蔵大臣にして、日露戦争後の財政赤字を克服するため、財政再建を目指していた。
軍事費
は削減しないといけない。
・軍部は帝国国防方針を出し、軍備拡大を求める。
1907
年、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランスを仮想敵国として策定。陸軍は17個師団から25個師団へ。海軍は2万トン級戦艦8隻、1万8千トン
級巡洋艦8隻
の建艦計画。
Q2 陸軍の2個師団増
設要求は急を要するとされた。なぜか。
A2 朝鮮支配のために必要だとされたのである。
|
増師拒否→上原勇作陸相辞任(帷幄上奏)
=陸軍が後任を出さず総辞職
・西園寺は拒否したため、陸軍大臣上原勇作が帷幄上奏で辞任した。天皇直属なので首相の許可はい
らない。直接辞表を出したのである。陸軍は後継を出さなかった
ため、内閣総
辞職した。軍部大臣現役武官制があるため、陸軍に拒否されると内閣に必要なメンバーが揃わないのである。
→第
3次桂内閣成立
「宮中と府中の別を乱す」=世論の憤激
・このやり方がまかり通れば、以後、軍部が気に入らない内閣はすべて大臣を引
き上げて
つぶせる。
・桂は内大臣の地位にありながら、首相となる。天皇を政治抗争から守るため、内大臣は政治活動を禁止される存在だった。後継首相は天皇が内大臣に諮問し、内大臣が元老に相談して決め、それを
天皇が任命す
る。だから自分で自分を推薦して首相になったととられる。これが「宮中と府中の別を乱す」とされた。
・海軍は問題ありとして大臣を出さない構えを示したが、桂は大正天皇に頼み、詔勅によって斎藤海軍大臣を留任させた。
cf)立憲同志会結成で対抗
・国会も紛糾することが予想され、憲政本党から変わった国民党を切り崩して立
憲同志会
を作って議会運営をしようとした。
2 第
一次護憲運動 1912
「閥族打破」「憲政擁護」の国民運動
尾崎行雄(政友会)、犬養毅(国民党←進歩党系)の指導
・天皇の陰に隠れる態度が国民の憤激を招き、第1次護憲運動起きる。「閥族打破」のスローガンは、藩
閥+軍閥を打破
するということ。
・2月5日、数万の民衆が国会を取り囲む中、白バラをつけた護憲派議員が登院。弾劾決議案を出し、尾崎が提案理由を説明した。「玉座を以て胸
壁となし、詔
勅を以て弾丸に代えて政敵を倒そうとしている」。後日、回顧して「ここで桂を指せば椅子から転げ落ちるだろう。全身の力をこめて桂を指すと顔
面蒼白になっ
た」。桂は議会を停会し、天皇に頼んで政友会の内閣不信任案を撤回するよう、詔勅を出してもらうこととした。
・西園寺が大正天皇に呼ばれて撤回を申し渡された。しかし、尾崎は反対した。「華族の西園寺は天皇の言うことを聞かなければならない立場であ
る。しかし、
政友会は公党であり、勅命であっても方針を変えるべきではない」。これは大正デモクラシーの真骨頂である。大正天皇の詔勅
が、明治天皇の詔
勅に比べて効果
がなかったことに着目したい。
・この間、山本権兵衛は桂を訪ね、退陣を要求し、その旨を西園寺に報告した。西園寺は、政友会総裁を辞めて、政友会が勅語に反しても咎められ
ないように手
はずを調えた。
・1913年2月10日、停会明け。民衆が議会を包囲し、
桂
は弾劾決議が撤回されなければ国会解散を考えていた。しかし、衆院議長大岡育造は「解散すれば
内乱が起きる」と桂に迫る。桂は、翌日に総辞職。
53日で崩
壊した(歴代最短命。別のカウントの仕方だと62日で2番目)。この後、桂は胃ガンで死ぬが、
「自分を殺したのは尾崎だ」といったという。
「内乱の危機」の中で桂退陣(大正政変)
3 藩
閥と政党の妥協
第一次山本権兵衛内閣(薩摩海軍閥+政友会)
・西園寺は違勅問題で組閣できなかったため、薩摩海軍閥の山本権兵衛と政友会が組んで組閣した。ポス
トのほとんどが
政友会で占めた。
軍部大臣現役武官制廃止
・軍部
大臣現役武官制を廃止し、妥協を進める。
butシーメンス事件(海軍贈収賄事件)で退陣
・この
内閣はシーメンス事件で倒れる。ドイツ・シーメンス社が契約独占のため、代金の一部をリベートとして海軍関係者に贈る。こ
れに関する機密書
類を社員が入手し、社長を脅したところ、逆に捕まったことがロイター電で判明した。山本内閣問責国民大会が開かれる。
・さらにイギリス・ヴィッカース社からも、戦艦金剛建造時に40万円をもらっていたことが判明して海軍は汚職まみれだったことがわかる。野
党・同志会は内
閣弾劾案を上程。数万の民衆が日比谷公園に結集して内閣総辞職した。
・2度に渡って国民のパワーで内閣がつぶされている。
→第
二次大隈内閣(立憲同志会)
・事態
収拾のためには、国民に人気のある大隈を首相にするしかない。同志会を中心に山県系官僚が結んで組閣した。この時は76
歳。
・大隈は国民からは人気がある。1915年の総選挙では、客車の展望車に乗り、停まる駅ごとに演説をした。演説のレコードも全国に配布。大隈
人気で同志会が圧勝し、政友会を第2党に転落させる。同志会には、改進党以来のメンバーがある程度戻ってきて、犬養の国民党
は退潮気味となる。
・二大政党のうち同志会は加藤高明、政友会は原敬が総裁となって切り盛りをすることになる。
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