<社会運動の発生>
[労働運動]

A 労働者の実態
  「口減らし」農民→極端な低賃金と強制労働

・明治時代は人口爆発の時期。江戸時代に3000万人の人口は、すぐに5000万人に 膨らんでいる。子供が5人、6人というのは当たり前だった。しかし、学校を卒業しても零細農家では働くことがない。遊んでいて食べさせている訳にもいかな いので、口減らしで働きに出すことになる。労働力過剰なので賃金は安くな る。
・女工の場合、製糸は15時間労働、紡績は12時間労働2交代。「日本之下層社会」に出てくる大阪平野紡績は、精紡部の女工の日給が最高20銭、最低6 銭。ここから食費8銭を取られる。日給15銭で月に28日働いたとして4円20銭。2円40銭は食費なので1円80銭残るのみ。米10キロが1円80銭な ので今なら5000円くらいか。 高校生が1日のバイトで稼ぐお金が当時の月収だったと言える。

    ex)飯場制、

鉱山 などは飯場制で、飯場で飯を出し、住み込みで働かせる。食料費が高く、酒なども高く売る。博打を奨励して金を巻き上げる。他に食べる場所が ないため、仕方なく賃金を費やしてしまう。

      15時間労働

紡績 の場合は昼夜二交代制なので、労働時間は12時間になる。これは夜業があるのでたいへん。製糸業は昼間だけの仕事なので、時間はもっと長くなる。
・製糸工場の労働者は12歳から働き始め、20歳以下の女工が全体の63%を占めていた。
・朝4時30分から仕事、6時から15分間の朝食、10時30分から15分間の昼食、3時30分から10分間の休憩、7時に終業、9時に就寝。これで13 時間50分の労働時間で、比較的楽な方である。
・食事は朝は菜と汁、漬け物。昼は漬け物。夜は青菜。一汁一菜以下だった。
・仕事は湿気と高温の中でおこなわれる。冬でも工場内は27度ある。信州であれば、外は朝なら氷点下。頭からべったり濡れているので、出入りしているとす ぐに風邪を引くことになる。蚕の臭いが強烈につき、白い服も一日で黄色く染まった。
・寄宿舎は10畳に26人押し込める。教室が30畳なので、ここに80人の計算。布団一枚に2人が寝る。紡績工場の場合は夜業があるので、ここでは昼夜交 代で一枚の布団を使う。衛生状態が悪いので、肺結核が蔓延する。
・大正2年「衛生学上より見たる女工の現状」によれば、毎年出稼ぎに出る工女は20万人だが、そのうち12万人は帰ってこない。渡り者になって身を売るこ とも多かった。戻ってきた8万人のうち、1万3千人は病気にかかっている。そのうち3千人は結核である。家族に移して悲惨なことになる。
・製糸工場の労働の実態を豊橋で聞いたことがある。糸引きは仕事が難しい。繭が煮えすぎないように糸口を出してまとめて引き上げなければならない。手が早 くないと駄目で、もたもたしていると煮すぎで糸口がたくさん出て、太くなってしまう。これをズルといった。煮すぎると色も黄色くなってゆくので検査をして はねられる。
・給料は出来高制で、マス(どれだけたくさんの糸を取ったか)、糸目(一定量の繭からどれだけ無駄なく糸をとったか。繭は高価なのである)、等級の勝負に なる。マスだけ多くとっても、糸目が出ないとダメ。繭の糸がなくなる前に次の糸口を出してつけてやるのだが、あまり早くつけるとその分が無駄だし、遅いと 間に合わずに糸が細くなって切れる。糸目は平均をとって多いか少ないかで賃金に差が出る。等級もペケを出すと賃金が引かれる。一人で2〜4つの鍋を受け持 つので休む暇がない。技術の差によって大きな差が出る。毎月、成績が貼り出され、成績不振の者には辛い競争。
誰でもできる仕事ではないのに、小学校を出たばかりの女の子にやらせ、失 敗すれば折檻をする。斡旋人は、誰が技術をもっているかなどは分からないので、とにかく集めてくる。1人でもうまくとれるものがいれば良 し。大多数の者は叱られるだけで苦労することになる。
・やめると前金をもらっているので損害賠償が必要。前金の20倍。3年契約なので、この間はやめられない。死ぬことも病気も不可能だった。寄宿舎には逃亡 防止の鉄条網があり、夜は外から鍵をかけられ、外出は禁止であった。工女虐待も頻繁だった。監獄のようなところである。

Q1 それでも、糸引きに行ってよかったという人は全体の90%になる。それはなぜ か?。

A1 いかに農村が大変だったかということである。とにかくご飯が食べられたという点で評価が高い。

・信州の糸引きは飛騨出身者が多い。安房峠はこの頃は通れない。飛騨の娘はその南の野 麦峠を越えて信州に行く。冬は雪道。野産み峠という説。糸引きの話を聞き書きした山本茂美が「ああ野麦峠」という本を書いている。
・宮村での聞き書きによれば、両親が亡くなり、おじいさんの生活を支えるため、孫娘が小学校を出てから岡谷に糸取りに出た。野麦はもう通らず、太田経由で 中央線で行っている。宮では普段はヒエ飯だったのが、工場では白いご飯でこれがうれしかったという。給料は正月前にまとめてもらい、これを持って帰ってき た。

   cf)「日本之下層社会」横山源之助

・1899年、毎日新聞記者の横山源之助が実態調査に基づき、東京の貧民窟、職人社会、機械工場の労 働者、小作人生活事情などを「日本之下層社会」に記す。
・もっとも悲惨な生活を送っているのは立ちん坊だとしている。坂道の下で待っていて、大八車を押す手伝いをしてチップを稼ぐ。

    「職工事情」、

「職 工事情」は政府による実態調査で1903年に出た。5巻のうち2巻が聞き書き調査。「どんな仕事がつらいか」「夜の仕事がつらい」「昼に寝 られないか」「寝られない」「なぜか」「明るいから」「工女が逃げることはあるか」「ある。給金をもらったときには塀の外に番人が立つ」。
・1週間の夜業で630グラム体重が減り、次の5日間の昼業で260グラム回復するという。

 「女工哀史」細井和喜蔵

「女 工哀史」は細井和喜蔵が1925年に記した紡績女工のルポルタージュ。

Q2 悲惨な状態で働いている人たちはどうやって労働条件の改善を図るのか?。

A2 ストライキ、労働組合の結成などの労働運動が必要になる。

B 労 働者の団結
 1 ストライキの発生、暴動
    ex)雨宮製糸争議(1886)、

・日本初のストライキは雨宮製糸スト(1886)。14時間労働を30分延長し、日給 32銭を22銭に下げると通告され、女工が反対してストをした。自然発生的なものである。

      高島炭鉱事件、

・高島炭鉱は長崎県の離れ小島の炭鉱。政府から三菱が払下げを受けた。元々は囚人を 使って採掘していた。宿舎には布団もなく、体を寄せあって寒さを防ぎ、家畜のような生活だった。
高島炭鉱事件(1888)は「日本人」に公表されて問題化 したもの。コレラが流行した時、海岸で生きたまま鉄板にのせて焼き殺す。このため、1500人の暴動が発生した。

      足尾銅山争議

・鉱山は飯場制のため、食費や酒代を差し引かれ、8時間働いても手取りは1銭という者 もいた。日露戦争の労働強化で危険作業が増え、1898年の鉱山災害件数は15件だったのに対し、1906年は1万3千件になっている。
・足尾銅山は国内銅の6分の1を産出する鉱山だったが、持ち主の古河は効率優先で働かせ、待遇が悪かった。大日本労働至誠会メンバーが労働者を組織し、坑 内に入る前に団結の必要を説いた。待遇改善を求めて会社と対立する足尾銅山 争議(1907)に発展したが、しばしば暴動になり、ダイナマイトを投げるなどエスカレートした。政府は軍隊によって鎮圧する。以後、これ を真似て幌内、別子、夕張などでも暴動が起きている。

 2 労 働組合の結成
    車会党(1882)・・・日本初

日本 初の労働組合は車会党。人力車夫の結社(1882)で、馬車鉄道ができるため、対抗するために組織化した。「社会」の名をつけた点でも日本 初。

    職 工義友会労働組合期成会(1897)による 組合育成(高野房太郎、片山潜)

職工 義友会(1897)は組合結成呼びかけのための組織。サンフランシスコで労働者生活をした高野房太郎が設立し、片山潜も加わる。間もなく労働組合期成会に改組した。鉄工組合を結成させ、工場法成立要請。

      ex)鉄工組合、日本鉄道矯正会

鉄工 組合は1897年、砲兵工廠、造船所の工員で組織。1900年には42支部、5400名を組織。
日本鉄道矯正会は1898年にできた日本鉄道の労働組合。 400人の火夫、機関方が加入。1000人になる。

      cf)社会問題の糾弾
         足尾銅山鉱毒事件

・足尾銅山は古河市兵衛が1877年に払い下げを受ける。銅さびは緑青で猛毒である。 鉱滓を野積みしたため鉱毒が流出し、渡良瀬川に流れ込んだ。1880年代になるとサケ、マス、アユは死に絶えてしまう。
・足尾は煙害で禿げ山になっていたため、大雨が降ると洪水が起きる。そのたびに田畑に鉱毒が流入。被害地6万町歩。30万人が被害を受ける。

           田中正造による反公害闘争(政府、古河財閥への攻撃)

・連続6期当選の田中正造が国会で糾弾した。将来は衆院議長ともいわれていた逸材。第2 議会で公害問題を政府の責任として訴えたが、農商務大臣の陸奥宗光は鉱毒はないと言う。次男が古河の養子になっていたため肩を持ったもの。田中は渡良瀬の 水を汲んだコップを出して無害なら飲めと迫る。
・1900年、34ヶ村、3000人の被害民は上京して大臣に訴えようとして動く。これを憲兵、巡査が鎮圧した。
・田中は農民の肩を持ちすぎるので批判され、憲政本党を離党。鉱毒問題を追求することが選挙運動であると噂されたため、1901年、代議士もやめる。
・天皇への直訴を敢行。直訴は死刑であるが、幸徳秋水に依頼して作成。田中は妻を離縁して実行した。政府は問題化を避けるために田中を狂人として処分せ ず。
・政府は1902年に鉱毒調査会を設置して対応を始める。渡良瀬川と利根川合流点に遊水池を作り、洪水を防止することとした。鉱毒問題を治水問題にすり替える。
・田中は水没することになった谷中村に団結小屋を作るが、1907年に強制排除され、残った19軒も破壊される。
・田中はその後に亡くなる。財産はすべて鉱毒問題解決のために費やし、信玄袋一つしか遺品はなかった。中身は笠、谷中村の小石、ちり紙、聖書、憲法のみ。

Q3 労働者の待遇をもっと良くするためには政治制度を変えるのがよい。資本家と労働 者という差があれば、いつまでも労働者は被支配階級である。労働者が生産手段を手にすればよいが、それを目指す考えは何か?

A3 社会主義である。

[社会主義の発達]
   労働者の政治的勝利目指す
A 政社・政党の結成
   東洋社会党(1882)

東洋 社会党(1882)は島原でできた民権運動期の数百人程度の小政党。樽井藤吉が作る。党則に平等、貧富世襲の破壊、天物共有などの社会主義 的な主張を盛り込む。5月にできて7月に禁止。

   社 会主義研究会(1898)→社会主義協会(1900)

社会 主義研究会(1898)は「社会主義の原理と、これを日本に応用するの可否」を研究するために作られる。月一回の例会。
・1900年、社会主義協会に発展。単なる研究会から社会主 義を広める活動に移る。これを母体として社会民主党ができる。

    →社会民主党(1901)(片山、幸徳、安部磯雄、木下尚江)but即日 禁止

社会 民主党(1901)は土地・資本・交通機関の公有、軍備全廃、普通選挙実施、貴族院廃止などを掲げる。当時は政党を作ると届け出が必要だっ た。2日後に治安警察法で禁止され、宣言書を載せた「万朝 報」も発禁処分。
・社会主義協会に戻り、全国に宣伝旅行に行く。これも1904年に解散させられる。

   平 民社(1903)=日露戦争で非戦論(「平民新聞」幸徳、堺)

平民 社(1903)は週間「平民新聞」を出して社 会主義の立場で非戦論を展開した。社会主義協会本部はここに 置かれ、提携して社会主義の宣伝活動をする。「共産党宣言」の日本語訳をのせて発禁となり、1905年1月、弾圧と財政難で廃刊。

   日 本社会党(1906)=西園寺内閣での初の合法的無産政党(堺、片山)

日本 社会党(1906)は「国法の範囲内で社会主義を主張する」として、自由主義的な西園寺内閣のもとで認められる。西園寺は若い時にフランスに留学し、物 わかりがよかった。
・議会を通じて徐々に社会主義の政策を実施しようという議会派と、直接行動を主張した幸徳が対立して分裂。治安警察法が適用されて1年で解散させられる。

B 政 府の弾圧
 1 治安警察法(1900)
    集会・結社・言論の自由抑圧

・従来の治安立法の集大成。女子の政治結社加入の禁止なども加える。団結権、同盟罷業権を制限したので、ストライキをおこなえば罰せられ る。

 2 大 逆事件(1910)
    天皇暗殺計画をでっち上げて無政府主義者弾圧

・宮下太吉は天皇を殺さなければ社会主義は実現しないと考えた。宮下は爆弾を製造し、 実験にも成功する。幸徳を誘うが、聞き流される。爆発物取締罰則で4人が検挙された。

    =幸徳ら処刑

桂内 閣は、これを社会主義者弾圧の口実とした。天皇暗殺を企てたとして、特に直接行動を主張してきた幸徳秋水がねらわれて逮捕される。実際には、幸 徳の直接行動はストなどによる革命の実行であり、テロには反対していた。しかし、宮下の話を聞いていたということで捕まる。数百人が起訴される。天皇に危 害を加える大逆罪は控訴も上告もなく、大審院で判決。
・夢のような計画を話しただけでは、未遂罪も成立しないのが普通であり、実際には計画すらも立てられていなかった。証人を認めない秘密裁判で24人に死刑 判決が下され、天皇の恩命によって12人は無期徒刑に減刑される。幸徳は処 刑された。
・啄木は日記に「今日ほど頭の興奮した日はない。日本は駄目だ」と記している。
・徳富蘆花は一高弁論部の講演会で「謀反論」の講演をしている。「幸徳はただの賊ではない。志士である。謀反人とされて殺されたが、謀反を恐れてはいけな い。新しいことをするのはすべて謀反である」。これは一高生に感銘を与えるが、不敬として問題化した。校長の新渡戸稲造が一身に責任を負って譴責処分を受 けている。
・これから、社会主義運動は「冬の時代」を迎えることにな る。

Q4 運動の息の根を止めるにはどうするか?。ちなみに大逆事件はムチの政策である。

A4 アメの政策として、一定の妥協を労働者とおこなうのである。長時間労働が問題となっているので、現在の労働基準法が必要になる。

    cf)工場法(1911)による労働者との妥協

・イギリスでは1802年に労働時間制限を規定している。日本では1900年に工場法 案が出されるが資本家側の反対でつぶれ、1909年に出したものも修正され、1911年にやっと議会を通過した。実際に使われたのは1916年という遅さ だった。

       12時間労働規定、but小企業適用外で不徹底

・労働者の最低年齢は12歳。15歳未満と女子は労働時間12時間。休憩1時間、休日 は月に2日と定めた。しかし、15人未満の工場には適用されず、製糸工場は14時間労働を認める。監督機関も不備だったので守らなくても平気だった。


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