<条約改正問題>
Q1 改正すべき条約とは何か?。何が問題だったのか?。

A1 日米修好通商条約をはじめとする不平等条約であり、関税自主権の回復、治外法権の撤廃が必要だった。英米仏蘭露の安政の5カ国条約締結国だけではなく、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ベルギー、スイス、スウェーデン、オーストリアのヨーロッパ諸国、南米のブラジル、ペルーの計15ヶ国に不平等条約を押し付けられていた。

・条約改正は、明治期の国民的念願であり、この成否が世論対策として政府にとって重要 だった。
・1890年を境に2期に分けて理解するのがよい。

[改正交渉1期](〜1889)
  cf)岩倉具視の条約改正打診(1872)
A 寺島宗則

本格 的な交渉の開始は、1873〜1879年に外務卿を務めた寺島宗則の時から。寺島は薩摩藩士で薩英戦争で捕まり、イギリスに渡ったことがあ り、明治維新後、外務畑で用いられた。マリア・ルーズ号事件、千島樺太交換条約、日朝修好条規締結の時に外交交渉をおこなった人物。
・マリア・ルーズ号事件は、1872年、ペルー船マリア・ルーズ号が中国人苦力230人を輸送中、横浜に入港して起きた。苦力が脱出して人身売買だと訴え たため、日本で裁判をおこない、奴隷を解放して本国に送還した。しかし、ペルーは不服でロシア皇帝に仲裁を求めてもめている。最終的には日本の主張が通っ たが、日本にも人身売買があるとされ、娼妓のことが指摘される。このため、公娼制度が見直され、遊廓は廃止となったが、実際には貸座敷として残り、娼妓が 自由意志で売春するものはよいとされた。

   税権回復で各国別交渉 butイギリスの反対で失敗

関税 収入が欲しかった大蔵省の要望によって税権回復を優先させた。法権は法体系が整備されていないので難しいと判断。1878年、アメリカとの 間に関税自主権を回復した。国別に交渉したがイギリスが反対したため、アメ リカとの新条約も無効となった。

Q2 どうしてアメリカとの条約も無効なのか?

A2 最恵国待遇があるからである。一つでも反対するとダメになる。

    cf)ハートレー事件で法権回復を優先に

・この時、ハートレー事件が起きる。イギリス人ハートレーがアヘン密輸をしたため 捕まえた。裁判はイギリスの領事がおこない、アヘンは薬なのでよいという判決が出て無罪となった。治外法権を認めていると麻薬密輸も取り締まれない。法権回復が先という声が強くなる。

B 井 上馨
   法権、税権の一部回復で条約改正会議開く

井上 馨は1879年に外務卿となり、8年間、1887年まで務める。寺島は国別にやろうとして手間がかかったため、1882年、条約改正予備会議を開催し、一度に片づけようとした

   内地雑居認め、外国人裁判官任用

・1886年、治外法権撤廃なら外国人の内地雑居を認め、外国人判事を任用するとし、 税権も輸入税5%→11%、輸出税5%という案を提示した。
・井上案のポイントは外国人判事である。大審院判事の過半数を外国人とし、西洋風の法律を2年以内に制定して外国に通達すると約束した。

   欧 化政策 cf)鹿鳴館時代=列強の歓心を買う 努力

・井上は交渉を有利にするため、欧化政策で歓心を買うことにした。煉瓦作り2階建ての洋館・鹿鳴館を作り、外国人との社交の場とした。連日の舞踏会。民間で も漢字廃止論が登場し、西洋人との混血を勧める意見も出るほどの西洋かぶれの時代になった。

     but政府・世論の反対

・司法権を外国人に与え、法律制定も自由にできないので、日本は一人前の国ではないこ とを認めるようなものであり、かえって不利になるとして、ボアソナード、谷 干城が反対した。谷は土佐藩出身、西南戦争で熊本を守った人物。伊藤内閣で農商務大臣。この時に辞任して藩閥政府に対抗。日露戦争にも反対 している。

        cf) ノルマントン号事件(1886)

・この時、ノルマントン号事件(1886年10月)が起きている。イギリス貨物船 ノルマントン号が紀州沖で沈没し、船長ドレーク以下イギリス人乗組員26人はボートで脱出した。しかし、日本人客25人を含む36人が溺死。見殺しにした として訴えられた。
・神戸のイギリス領事・海事審判所での審判では、「日本人に乗れと言ったが、英語が通じないので乗らずに沈んでいった」の主張が認められて無罪となっ た。国民は憤激し、政府はドレークを殺人罪で告訴した。横浜領事裁判でドレークは3カ月の禁固となったが、賠償金は出なかった。治外法権を認めていることの問題が吹き出す。
・こういう時にも井上は欧化政策崩さず。1887年、伊藤首相主催の仮装舞踏会では、伊藤がベニスの貴族、井上外相は三河万歳、他に浦島太郎、石川五右衛 門、弁慶が登場する奇観だった。

   →三 大事件建白運動で辞任、ナショナリズムの高揚

1887 年、三大事件建白運動が起きて政府攻撃がされる。7月に条約改正交渉は中止となり、9月に井上は辞任した。
屈辱的外交に対してナショナリズムが高揚した。
徳富蘇峰は平民主義を唱え、1887年、民友社設立。雑誌 「国民之友」を出し、上から押し付けられるのではなく、民衆的立場から西洋文化を摂取することを説いた。「田舎紳士」を目指せ。
三宅雪嶺は国粋主義を唱えて日本の伝統文化を擁護し、 1888年、政教社作り、雑誌「日本人」を出した。いずれも特権階級による 皮相的な西洋文化受容に反対したものである。

C 大隈重信
   井上案継承、極秘交渉

大隈 重信は1888年〜1889年まで外務大臣。井上がオープンにしすぎたと反省。個別に極秘交渉として、国民の非難をかわすことにした。基本的には井上 案継承で、治外法権を撤廃するなら内地雑居を認めるというもので、大審院に 限ってではあるが、外国人判事を認めるとした

    but大審院外国人裁判官任用・・・違憲の疑い、失脚(1889)

・アメリカ、ドイツ、ロシアは承認した。しかし、イギリスと交渉に入ったところで「ロ ンドンタイムス」がスクープする。黙って国辱的な交渉をしたとして、国民の 憤激を買い、右翼団体・玄洋社メンバーが爆弾を投げて大隈は失脚した(1889年)。黒田内閣総辞職。
・条約交渉は列強の抵抗と合わせて、それを排除しようとすると国民の反対にあうのが大変である。

[改正交渉2期](1890〜)
Q3 1890年以降、改正交渉はやりやすくなった。どうしてか?。

A3 国会が開設され、アジアで初めての立憲国家となったこ とは、一目置かなくてはならない。また、ロシアはこの頃から南下を始めている。南下を有利にするには日本と手を結んだ方がよい。一方、イギリスはロシアが日本と結ぶと南下が達成されるため、日本に色目を使うよ うになる。

・1891年からシベリア鉄道建設着手。ロシアの南下はイギリスにとって厄介。清と朝 鮮の宗属関係維持が望ましい。しかし、清はあてにならないと思われ、日本を抱き込むことを考える。

  日 本の国力充実(立憲国家となる)
  極東情勢の変化(ロシアの南下)→英露の日本接近

A 青木周蔵
   無条件の条約改正→英の承認(露をけん制)

青木 周蔵は長州出身の外交官。1889年〜1891年まで外務大臣。各公使を歴任して外相となる。治外法権撤廃、列強の特別輸出品のみに低い協定関税を認める案でイギリスと交渉開始。 ダメ元だったが妥結の見通しが出てきた。

    but大津事件(1891、ロシア皇太子襲撃)で辞職

・シベリア鉄道起工式に際し、ロシア皇太子ニコライが来日する。ロシアも南下を容易にするため、日本 との関係改善を図ろうとしていた。巡査津田三蔵は日本侵攻のための調査に来たと思い、大津市で切りつける。ニコライは頭を2カ所傷つけられ、津田は人力車夫 に押さえられる。軍艦7隻を従えており、ロシアが戦争を仕掛けてくる可能性があった。
・明治天皇は皇太子の見舞いに行き、帰国の時も見送りに来る。青木は引責辞 職することになった
・津田の故郷では、「三蔵」という名前は付けないようにという触れが出たりする。

      cf)児島惟謙が司法権独立守る

・政府は津田を皇族に対する大逆罪で死刑にするよう裁判所に圧力をかけた。しかし、大 審院長の児島惟謙は、外国皇族に対する反抗は大逆罪を適用できないとし、謀殺未遂罪で無期徒刑にした。政府は児島のせいで戦争になると言って嘆いたが、児島惟謙が政治圧力をはねのけて司法権の独立を守ったことで、日本の司法に対しての信 頼が増すことになった。

B 陸奥宗光
   法 権、税権一部回復日英通商航海条約  1894
    (日清戦争後に他14カ国と調印)

陸奥 宗光は1892年から外務大臣を務める。日清戦争の時期の外務大臣である。青木を駐英公使にして交渉を続けさせる。キンバレー外相と話して法権、税権一部回復(税率1割)を内容とする日英通商航海条約を締結する。 日清戦争直前の7月16日(日清戦争は7月25日に豊島沖海戦)のことだった。戦後、他の14カ国とも締結。

C 小 村寿太郎
   税権回復(1911)

関税 自主権の残りは小村寿太郎が1911年になって完全回復。

Q4 1911年は明治何年か?。明治は何年まであるのか?

A4 明治44年のことである。明治は45年の夏までなので、明治一代かかって条約改正をしたことになる。

※条約改正の完成

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