<日露戦争と大陸政策>
[日露戦争]

A 対露戦の準備

・ロシアとの戦争に勝つにはどうするか。ロシア陸軍は70個師団、200万人である。 これに対し、日本陸軍は6個師団で平時兵員5万人、戦時兵力で20万人だった。これでは到底勝てない。しかし、ロシア陸軍の主力はヨーロッパにあり、極東 のウラジオストックに配備できるのは、シベリア鉄道が全線開通したとしても20万と推定された。

   軍備の拡大

・戦争に勝つには3倍の兵員が必要である。陸軍は6師団を13師団。平時20万、戦時60万体制にすることが絶対条件となる。
・海軍の戦艦は2隻しかなく、議会の承認を取り付けて10年間で1万5千トン級甲鉄戦艦4隻をイギリスに発注した。

Q1 戦費はどうやって調達したのか?。

A1 戦費は予想では5億で国家予算の2倍だった。いずれも清国賠償金を充て、足りない分は増税するしかない。開戦前はめどが立たず、欧米資本家からの外 債でまかなうことになった。

     =大幅増税、英米からの借金

・実際には20億円近くを使い、日清戦争2億円の10倍である。1888年から 1908年にかけての軍事費増加率は、英87%、露127%、米200%に対して日本は1300%だった。
・これにより、陸軍の平時戦力は1898年末には達成した。海軍は戦艦6隻、25万8千トンとなった。ロシア海軍は戦艦12隻、51万トンだが、極東では 戦艦5隻、19万1000トンで日本が勝っていた。ただ、開戦直前に戦艦2隻が使えなくなっている。

   開 戦論の展開・・・戸水寛人ら東大七博士意見書、対露同志会

・臥薪嘗胆の合い言葉もあり、国民の中は開戦論が強かった戸水寛人らは「満州を占領すれば次は朝鮮。朝鮮が勢力圏になれば次は日 本」と警告する意見書を出す。
・この後、民間の国家主義団体・対露同志会が結成され、盛ん に開戦論の演説をおこなう。政府は世論を喚起してロシアに圧力をかけ、日露協商妥結も考え、だめなら開戦と腹をくくった。

     cf)非戦論・・・内村鑑三、平民社(幸徳秋水、堺利彦)

「万 朝報」の非戦論は内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが執筆した。内村は日清戦争を義戦として讃えていたが、掠奪戦に気づいてクリスチャンの立場 から非戦を主張するようになった。しかし、「万朝報」はロシアが第2次撤兵をしなかったため、開戦論に転換する。3人は退社した。
平民社は幸徳、堺が結社したもので、「平民新聞」を発刊し、開戦後にも反戦を唱えた。「戦争の責任は両国政 府にあり、平民にはない。人的・物的被害は平民にかかる。人民同士は同志・兄弟だ」。しかし、弾圧で1905年1月廃刊。
・国民の自然な感情からの戦争批判は与謝野晶子の詩が有名。 開戦後の1904年9月号「明星」に掲載された「君死にたまふことなかれ」である。「旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても何事か」。しかし、家が大事、 国は滅びてもよいというのは賊であると非難される。

B 日 露戦争 1904

・日本は小村・ローゼン会談を主催し、満韓国境両側50キロの中立化を提案した。しか し、ロシアは39度線以北の中立化を主張し、韓国の軍事利用を禁止する案を出してきた。打開の道なしで開戦決める。
軍事的、財政的に限界がある日本は勝つ見込みを持っていなかった。短期・ 局地戦で勝ち、米英の仲介で講和に持ち込むストーリーである。列強を味方にするため、朝鮮の植民地化の代わりに満州を列強に開放する考えも 示していた。明治天皇は憂慮し、「今回の戦いは朕が志にあらず」と言っている。

    仁川奇襲→

・日本は戦争当初に韓国に軍を置く必要がある。ソウル・釜山間の鉄道が未開通なため、 釜山に上陸したのでは戦場は韓国内になり、敗戦の場合は朝鮮半島をとられて日本は本土が危なくなる。日本としては満州で戦いたい。しかし、黄海の制海権に は自信がなかった。陸軍を朝鮮半島の根元に上陸させつつ、黄海の制海権をとる必要がある。このため、日露戦争も奇襲によって開戦した。
・2月6日、海軍は艦隊を2つに分けた。一つは陸軍を護衛して仁川上陸。9日、仁川港にいたロシア艦2隻に砲撃・自沈させる。もう一方は旅順を8日に夜 襲。艦隊に対して打撃を与え、旅順港から出てこないようにする。10日、宣戦布告した。
・開戦直後の2月下旬、日本は韓国に圧力をかけ、日韓議定書を締結した。韓国のためにロシアと戦うという形にしたもので、これで韓国を戦争に利用できる。 日本は韓国を守るため、第三国の侵略に対して軍用地を臨機収用できることになった。

    旅順、

黄海 の制海権をとる切り札が旅順港閉塞作戦。ボロ船に石やセメントを詰めて旅順港の入口に沈める作戦。2月23日、敢行し、5隻が自沈した。し かし、閉塞は失敗。以後、2回おこなうが、完全には閉塞できなかった。しかし、港の出口が狭まったことでロシア艦隊は旅順港内にこもり、本国から応援に来 るはずのバルチック艦隊を待つ姿勢をとった。
・広瀬中佐の軍神伝説が語られている。閉塞作戦の「福井丸」の指揮官で、自沈する船内に3回、部下を探しに入り、カッターに乗り移ったときに敵弾を浴びた というもの。
・陸軍は5月1日、鴨緑江を渡って満州に入った。ロシア3万、日本4万で勝つ。
・2軍に分け、第一軍は北のロシア軍の南下を阻止。第二軍は遼東半島の基部を占領して大軍を上陸させる作戦をとった。遼陽会戦で場所を確保した後、さらに第三軍が旅順攻略に向かった。
ロシアは本国からバルチック艦隊を救援のために発進させる。戦艦7隻を含 む38隻。6カ月かけて来ることになる。ロジェストヴェンスキー提督が指揮し、旅順の戦艦を合わせるとロシア12隻対日本4隻(三笠、朝 日、敷島、富士)となり、黄海の制海権を奪われかねない。
バルチック艦隊の来航前に旅順を攻略し、艦隊を沈めておく必要。 そうすれば、バルチック艦隊はウラジオに行かざるを得ず、黄海の制海権を維持できる。
・旅順攻略は乃木将軍の第三軍がおこなう。1904年7月25日から攻撃、8月末までに落とすと約束した。しかし、日清戦争時の地図しかない。望遠鏡で見 ても要塞の存在がわからず。しかし、この間にロシアがコンクリートを流し込んで作ったベトン要塞の威力は偉大だった。1トーチカに70トンの砲弾を撃ち込 むがびくともしていなかった。第一回攻撃(6日間)で5万が出撃したが、1.5万が死傷して失敗した。日本は突撃が得意だったが、銃弾の切れ目がなかっ た。ロシアが持ってきた機関銃の威力である。
・海軍は旅順陥落が目的ではなく、ロシア艦隊を叩くのが大事なので、203高地をとって旅順港の攻撃をしてくれと要請した。しかし、乃木は過去2回の戦死 者に報いるためにも正面突破しかないとし、11月26日の第三回攻撃でも正面戦をして1万の死傷を出して失敗する。
・この後、203高地攻略に変更。しかし、9月以降、防備工事をしていて乃木の力では落とせなかった。
・このため、元帥の児玉源太郎が旅順に行った。駅に連絡所がなく、戦地への途中に墓が作られているのを見てあきれる。児玉は乃木に司令官を譲れといい、 12月3〜5日に全砲を203高地に集中、10日間に6万人を投入して占領した。ここで1.7万人死傷している。
・日本は28センチ砲を203高地に上げ、旅順港の艦隊を狙う。戦艦、巡洋艦7隻を撃沈。1月1日、旅順防衛のステッセルは降伏した。

    奉天占領、

・旅順が落ちたので、陸軍は全軍を挙げて南下するロシアを食い止めることになる。日本 は、ロシアの極東配備可能兵力は20万人と考えていた。シベリア鉄道は単線なので、行き違いの手間があるために配備に時間がかかるとみたのである。しか し、実際には35万人規模になっていた。貨車を新造して兵員を満載し、使ったら廃棄したのである。
・3月にロシア35万、日本25万(7万人死傷)で衝突した。奉天会戦とい い、日露戦争での陸軍の最大の激戦だった。3月10日、日本は奉天を占領し、この勝利を記念して、この日は陸軍記念日になる。しかし、北に逃げるロシアを追うだけの力はなかった。日本は33万発を撃ち尽く し、弾薬もなかった。

    日本海海戦の勝利で優勢

・1905年の5月になってバルチック艦隊は日本に接近してきた。途中、イギリスの勢 力下を通らざるを得ないため、十分な補給が得られず。日本接近が大幅に遅れていた。
・バルチック艦隊はウラジオに向かうはずなので日本海の入り口のどこかで待ち伏せすることになる。ルートは対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡のいずれかである が、艦隊を迎え撃つには日本の軍艦すべてを集結させてあたる必要がある。
・東郷平八郎は、バルチック艦隊は疲れているため最短距離を来ると考えて、対馬に連合艦隊を集結させた。
・5月27日、信濃丸が大艦隊を発見。「本日、天気晴朗なれど波高し」と打電した。2時開戦。Z旗(皇国の荒廃この一戦にあり)を揚げる。日本海軍がZ旗 を揚げたのは2回で、次のマリアナ海戦では大敗北を喫して連合艦隊は壊滅した。
・艦隊決戦は巡航戦と反航戦の二つの戦い方がある。軍艦は前と後ろに大砲があるので、横腹を見せあって撃ち合うことになる。

Q2 この戦いでは、巡航戦と反航戦のどちらが有利だろうか?。

A2 巡航戦に持ち込むためには、初めはロシア側に向かって走り、転回して一緒に走ることになる。転回の際に逃げられる恐れがある。反航戦はすれ違い様に 撃ち合うが、しとめられなければウラジオに入られてしまう。どちらも難しいのである。

・東郷は反航戦をすると見せて南下する。距離8000メートルになったとき、旗艦「三 笠」が突然敵前で左に回頭を始めた。回頭中は大砲撃ができないため、ロシアは大喜びで撃ってくる。しかし、この距離では当たらないと東郷は確信していた。全艦 が回頭すると、日本側はロシアに対してT字型になる。これだと全艦の大砲がすべてロシア艦隊の先頭の船に集中できる。
・距離6500メートルで旗艦「クニャージスボーロフ」に攻撃集中。小砲が多いため接近戦に持ち込む。この日本海海戦は日本の圧勝で、38隻中20隻撃沈、捕獲5、ウラジオ にたどり着いたのは2隻のみ。
・最近、T字作戦はなかったという説も強く、実際には反航戦で始まってあとは巡航戦だったらしい。そうすると作戦勝ちというよりも、戦闘力の差になる。 30センチ主砲はロシア33に対し日本17だったが、15センチ副砲では106対202で日本が優勢であり、距離6500メートルの接近戦なら有利とな る。日本側は射撃速度で3倍、命中率で3倍、弾丸破壊力で2倍の力があったという。新開発の下瀬火薬の威力が大きかったという。この計算だと、有効弾は日 本100とすればロシアは6発であり、17倍の実力があったことになる。
・アドミラル東郷の名は世界的なものになり、ロシアに圧迫されていたフィンランドでは、東郷ビールが販売されている。

    cf)ロシア=第一革命で大軍派遣不可能

・簡単に勝てると思っていたロシア民衆は、戦争長期化にともなうインフレで生活難にな る。
1905年1月22日に平和請願の15万人のデモ隊に軍隊が発砲し、 1000人が死亡する。この血の日曜日事件のあと、断続的に戦争反対の運動が繰り広げられる。ロシア第一革命という。夏には戦艦ポチョムキンで海軍の兵隊が蜂起し、 秋には200万人のゼネストに発展してゆく。これにより、大軍を極東に派遣 するのが難しくなっていた

  but日本も財政難で戦争継続不可能

・一方の日本は常備、予備、後備をすべて投入し、108万人を動員していた。戦費は 17億円、戦死は8万人で、捕虜・廃疾者を加えると12万人となり、戦傷者は38万人にのぼった(日清戦争は戦費2億、戦死1万3千。1903年の国家予 算は2億6千万だった)。これ以上の戦争継続は不可能である。日本海海戦の 大勝利を背景に停戦に持っていきたかった。

Q3 停戦斡旋国はどこが考えられるか?。どうしてその国は停戦斡旋の労をとるの か?。

A3 日本優勢で終戦にしたい国でなければならない。イギリスは戦争当時者のようなものだからアメリカがふさわしい。アメリカはロシアが一方的に勝っても 日本 が一方的に勝っても満州の利権を取られてつまらない。機会均等を掲げて満州利権をねらっていたのだから、仲介をすることで比較的現状維持でゆきたかった。

  ∴T・ルーズベルト(米)の調停で停戦

・6月10日、ルーズベルトの講和斡旋を受け入れることになる。日本は講和を有利に進 めるため、どこかでロシア領をとっておくことが望ましかった。7月27日までに第13師団に樺太を占領させる。守備が手薄で簡単にできた。

C ポー ツマス条約 1905
   講和条約(全権=小村寿太郎×ウィッテ)

・講和会議はアメリカ東海岸の軍港ポーツマスで開催されることになった。日本全権はネ ズミ大使の小村寿太郎であるが、この全権は誰も引き受け手が なかった。

Q4 小村は横浜から出港した。たくさんの「万歳」を叫ぶ見送りがくる中で、伊藤は 「帰ってきた時はみんな石を投げにくるだろう。他人はどうあれ、自分は出迎えにくる」と話した。どうしてこういう発言になったのか?。

A4 戦争継続が不可能であることを国民は知らされず、大きな期待を寄せ、賠償金50億円という声もあがっていた。しかし、日本は戦争継続能力がないた め、と にかく講和に持ち込むことが大切であった。賠償金や領土は初めからあきらめる予定で、それは国民の不満を招くに決まっていたからである。

日本 側条件は、(1)韓国は日本が自由に処分する。(2)遼東半島の租借権、南満州鉄道の引き渡し。(3)事情が許せば賠償金、樺太割譲。

 1 韓国への指導権確保
 2 旅 順、大連の租借権、南満州鉄道獲得

・8月10日、ポーツマスで講和交渉。(1)の韓国の保護国化、(2)の遼東半島還付、南満州鉄道譲渡まではロシアはすんな り了承した。
・(3)の協議に入り、日本が要求した樺太割譲、賠償金支払いは拒否される。樺太は固有の領土であり、賠償金 は負けたわけではないので絶対拒否という。日本は国民世論を考えると、この2つを譲るのは厳しかった。しかし、これでごねて講和が成立しないと、戦争継続 となり、勝てることはおぼつかない。小村は難しい交渉になる。
・ウィッテはもともとが戦争反対。軍事的に戦争継続は可能でも、財政的には厳しいので、何とかまとめたかった。
・小村は北樺太返還の代償として12億円をロシアがはらう妥協案を提示した。ウィッテも理解を示して本国に相談する。しかし、ニコライ2世は「一寸の地も 1ルーブルの金も払うな」と返答し、譲ぐらいなら戦争継続だと言ってきた。
・小村はこの事情を本国に打電し、政府は飲まないだろうから交渉決裂を覚悟した。しかし、日本政府は「賠償金、領土はあきらめて交渉をまとめろ」と指示し てくる。
・最終会談は、ウィッテは決裂を見越して荷物をまとめて出席する。小村がロシア本国の返事はどうなったか最終回答を求めた。しかし、ロシア皇帝は一部の譲 歩を示し、「賠償金は払えない。樺太南部は割譲してもよい」との返事とな り、樺太南部だけは確保できた。小村はこの条件で調印する。

 3 南樺太割譲
 4 沿海州、カムチャッカ漁業権獲得

・ロシアはロシア領である沿海州とカムチャッカの漁業権を引き渡した。

   butロシアは敗戦認めず、賠償金なし=国民の不満

国民 は屈辱的条約として憤激する。増税に耐え、多くの国民が戦死したのにそれで獲得したものがこの程度では怒りたくなる。横浜には伊藤が出迎 え、桂首相と山本海軍大臣が、東京駅に着いた小村を両側から抱える。

    cf)日比谷焼打ち事件

・9月5日、頭山満などの右翼と河野広中などの野党進歩党メンバーが中心となり、日比谷公園で講和条約締結反対の全国大会が計画された。警視庁は公園の 入口にバリケードをして阻止しようとするが、3万の群衆が突入して集会を強行した。この後、参加者は暴徒となり、政府系の国民新聞社を焼打ちし、警察、交番、教会などを襲撃し た。戦争の犠牲者で、賠償金が入って景気がよくなることを期待した下層民が多く参加している。政府は戒厳令を布いて軍隊を出動させて鎮圧。
・ポーツマス条約は、国民的ビジョンを崩壊させた。「富国強兵」の旗のもとで国民は頑張ってきたが、生活苦に耐えてそれが達成されてロシアに勝っても、得 るところはなかった。急激な失望感が広がる。

[日露戦争の意義]
 1 韓国支配、満州進出の決定

・一見、得るところがなかったように見えるが、実はそうではない。これで「利 益線」と呼んできた韓国を手に入れることができるようになった。人口が増え続ける日本に対し、韓国は食糧補給基地となる。

 2 国際関係の変化

・日露戦争は大国の思惑が絡んで起こされているので、戦争の前と後では国際関係が大き く変わった。ロシア南下をどうするかという対立軸に代わり、ドイツの膨張を どうするかという対立軸になる。

    イギリス=ロシアの南下阻止達成
     →ドイツの膨張(バルカン、北アフリカ)阻止

ドイ ツはバルカンから北アフリカ方面に出てくる。ここに利権を持つイギリスと対立する。イギリスはカイロ、ケープタウン、カルカッタで囲まれる 三角地帯を植民地化することを考えていた。3C政策という。ドイツはベルリン、ビザンチン、バグダッドを結ぶラインに伸びようとする。3B政策という。3Cと3Bはどこかで衝突する。

      cf)3C政策×3B政策
    英仏協商(1904)・・・日露戦争けん制

イギ リスは、日露戦争勃発直後、フランスと英仏協商を結んだ。三国干渉でドイツと歩調を合わせたフランスが、ロシア側に立って参戦することを阻止したものである。

    英 露協商(1907)・・・対独包囲

・日露戦争が終わってロシア南下が阻止されると、イギリスはロシアと英露協商を結び、対独包囲網を作った。

     =三国協商VS三国同盟

・かねてからのドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟と、新しくできた三国協商の対立が発生する。

   cf)日米対立=満州利権をめぐる対立(ex)日本人移民排斥)

・日露戦争の時は日本に同調していたアメリカが、この戦争の後に日本と対立するようになった。

Q5 日米対立はどうして生じたのか?

A5 日本はロシア南下を阻止し、満州を列国に開放するとしていた。しかし、実際には独り占めしたからである。

・鉄道王ハリマンは、満鉄を買収しようとして阻止され、ノックスの満鉄中立案(清国に 満鉄を還付=7カ国共同管理)も日本は拒否した。
アメリカでは日本人移民に対しての排斥がおこなわれるよう になる。それまで、カリフォルニアに毎年1万人規模で移民が行っていた。明治になるとすぐにハワイ移民が行き、次いでアメリカ西海岸が入植地になった。日 本は狭い国土の割に人口が多く、海外に出稼ぎに行かなくては食べてゆけなかった。愛知県は零細農家が多かったため、海部郡を中心にたくさんカリフォルニア に出ている。
・日本人は単純労働から始めて金を貯め、土地を手に入れてゆく。仕事をとられたアメリカ人は不満を持った。当時、ドイツ人のカイゼルにより、黄禍論が唱え られ、日本の進出は白人、キリスト教、西欧文明にとっての危機だと主張された。
1906年、日本人学童は中国人街の東洋人学校へ行けという命令が 出る。中国人学校は中国語教育のため、アメリカに同化しようとしていた日本人のニーズには合わなかった。その後、日本人の土地所有禁止法案が提出されたりもする。

Q6 この対立はいつまで続くのか?

A6 太平洋戦争まで続くことになる。

Q7 アメリカでの居心地が悪くなったことで、移民先はどこに変わるのか?

A7 アメリカ移民が減少し、ブラジル移民となる。

[大陸政 策の推進]
A 韓国の領土化

・韓国を領土化するため、日本は外交攻勢をかけて列強の支持を取り付けた。だんだんし たたかになっているのである。

 1 英米の承認
    日英同盟(第二次)・・・韓国保護権確認し、インドへのロシア南下阻止

・ポーツマス条約の締結交渉と同時進行で、8月12日、イギリスと日英同盟改定調印をしている。ここで韓国保護国化を承認させた。極東へのロシア南下が阻止されれば、次にはアフガン、インドに南下する恐れがある。ここはイギリスが利権を持って いるので、ロシア南下を阻止するため、日本が手を貸すことを取引材料に した。

    桂・タフト(米)協定・・・韓国支配とフィリピン統治の相互容認

・8月7日には、アメリカと桂・タフト協定を結んでいる。アメリカは1898年に米西戦 争でフィリピンを獲得していた。日本の韓国支配とアメリカのフィリピン統治 を相互に容認するものである。

 2 日 韓協約

・第一次日韓協約は日露戦争中(1904年8月)に締結している。日本の推薦する外 交・財政顧問を用いることを認めさせ、外交顧問としてアメリカ人スチーブンソンを推薦した。日本人を推薦しなかったところがミソで、彼は日本の外務省で働 いていたので日本の言いなりだった。

    第二次=外交権接収、統監府設置(保護国化)

・日露戦争の勝利で列強は韓国保護国化に反対しないと考える。皇帝に圧力をかけて外交権を接収することにした。これで韓国は日本に断 りなく条約を結べなくなる。韓国の外交は日本が派遣する統監がおこなうと した。
・宮廷の外で日本軍が行進し、大砲を引きずる中で交渉がおこなわれた。参政大臣が泣いて反対するが、「それなら日本と絶交すればよい」と伊藤がすごむ。
・日本人の悪徳商人なども入り込み、朝鮮人の反日感情はいっそう高まる。

      cf)ハーグ密使事件

・1907年、オランダのハーグで第二回万国平和会議が開かれることになり、韓国は日本のやり口を列強に訴えて助けてもらおうとした。皇帝の信任状を持っ た使者がハーグに行く。しかし、韓国は日本のものという雰囲気の中で列強は相手にしなかった。伊藤は「こういう陰険なやり方をするなら、保護権を拒否して 日本に宣戦布告をしたらどうだ」とすごむ。責任をとって高宗皇帝が譲位し た。

    第三次=内政・軍事権接収

・この事件後、日本は内政上の監督権を強化し、軍隊を解散した。

     ∴韓国の抵抗=義兵運動の本格化、

第三 次日韓協約により、義兵闘争が本格化した。ゲリラを組織して日本支配に反抗するものであったが、ゲリラが出ると、日本は懲罰と称して民家を 焼打ちし、暴力の連鎖となってゆく。

       安重根による伊藤博文前統監の暗殺

・伊藤は曽爾荒助に統監を交代し、次は満州での勢力確保に目を移す。1909年10月 26日、ハルビン駅で伊藤博文は暗殺される。ロシア大蔵大臣 と車中会談し、各国公使と握手をして日本人歓迎者に歩み寄ったときに撃たれる。犯人は安重根。3発命中し、いずれも致命傷だった。
・安重根は前年の3月に同志14 人とともに左手の薬指を切って、伊藤を3年以内に必ず暗殺すると誓っていた。日本に引き渡され、1910年3月に死刑となる。韓国では国を守ろうとした英 雄だが、日本では長らく暴漢とされていた。

 3 韓国併合 1910

・ゲリラの抵抗を排除するためにはどうするか。違う民族に支配されると思うから反発す る。同じ民族であれば納得するはず。日鮮同祖論を振りかざして民族の差がな いとし、日本に併合することにした。
・日本人が朝鮮半島からの移住者によって形成されてきたことは事実。縄文時代の人口は10万人に過ぎなかったが、弥生時代から古墳時代にかけて大量の移民 がやってきた。その数は1000年間で150万人とされている(10万人が農耕を始めると、1000年間では400万人ぐらいまで増えることができる)。

Q8 この政策はうまくゆくだろうか。問題は何か?

A8 実際には言葉も異なる違う民族なのだから、同じだと言っても無理がある。日本に合わせさせようとしたため、朝鮮民族としての自主性まで奪うことに なっ た。欧米はアジア・アフリカを植民地にしたが、文化までは奪わなかった。日本は朝鮮文化を奪おうとしたといって非難される。

・1910年8月22日、ソウルでは憲兵が30メートルおきに立ち、朝鮮人が2人以上 で話をすると尋問される。この日、調印された。

    総督府設置(初代総督・寺内正毅)、日本領土への編入

寺内 正毅が初代朝鮮総督として赴任する。韓国併合の感想を歌に詠み、「小早川、加藤、小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」とした。大 韓帝国は日本の一地域名として朝鮮となった。
・反面、石川啄木は「地図の上、朝鮮国にくろぐろと、墨を塗りつつ秋風を聴く」と詠み、朝鮮に同情している。

       武断政治

・初期の日本人の移住者は60万人で、これが2000万人の朝鮮人を支配した。
・犯行を抑えるために武断政治をおこなう。普通警察ではなく、憲兵が警察を 務める憲兵警察制度をとり、1624カ所に1万6千人の憲兵を置いて言論、出版、集会、結社の自由を奪った。反政府分子は徹底的に弾圧し、 反抗者は1年で14万2千人を検挙した。
・日本人にしてしまうためには教育が大切である。1911年、朝鮮教育令が 出され、小学1年生で週10時間の日本語授業をした。帯剣した教師が教える。朝鮮では私学校ができ、朝鮮の歴史と言葉を教えようとしたが、 日本はこれを閉鎖させる。
・現在でも、韓国の70歳ぐらいの人は日本語が堪能である。小学生の子供を連れて韓国に行った時、屋台でおもちゃを買った。財布からお金をこぼすと、店の おばあさんが「あら、お金が山だ」と言った。普段は日本語は使わないようにしているのだろうが。

    東洋拓殖会社による植民地経営、

・1909年、東洋拓殖株式会社がソウルに本店を構えた。社員はピストルを腰に釜山に 上陸し、「経営活動には多少の血を見るくらいの決心」と訓示があった。
鉱山、港、鉄道の経営とともに、朝鮮人の土地の強制買収し、 小作人7万9千人、田3万6千町を経営した。

    土地調査事業で土地収用→農民没落

・朝鮮には封建的土地所有制度が残っていた。土地は国王からもらった両班貴族のもの で、これを農民が耕作する。日本で言えば江戸時代の制度である。ここに日本の地租改正を持ち込むことになった。
土地調査事業として、土地所有者を確定する作業がおこなわ れる。この時に農民の権利は無視され、国王の土地は国有地となり、これを日本人や両班貴族に払い下げた。一般農民はここから土地を小作することになり、小 作料も30%から50%に跳ね上がった。最終的に日本が取り上げた土地は 100万町と言われ、これが日本からの移民の生活を支えた。

Q9 生活に困った朝鮮の人たちはどうなるのか?

A9 耕作権を失った農民が日本に流れ込んでくる。

     =日本移住
  cf)朝鮮統治・・・1910〜1919=義兵闘争を武断政治で抑圧

・1期は1910〜1919年(三一独立運動まで)で、義兵闘争に対して武断政治で臨んだ。憲兵警察を用いて土地調査事業を推 進し、東洋拓殖が巨大地主になった時期である。

           1919〜1930=三一独立運動のため文化政治に転換

・2期は1919〜1930年(満州事変勃発前)で、斎藤実が総督となり、文化政治への転換を図った。普通警察になり、朝鮮 人官吏も登用した。親日派を育てて内地国化進めた時期であったが、朝鮮は日本への米移出基地とされ、食糧不足などから朝鮮人の内地移住が進んだ。

           1931〜1945=戦時体制強化で皇民化政策

・3期は1931〜1945年で兵たん基地とされた時期。資源を徴発し、人的資源として労働力を日本へ 移し、鉱山労働や兵力などに充てた。皇民化政策として神社参拝を強制した り、創氏改名などを実施し、朝鮮文化を奪った時期である。

B 満州進出
   関東都督府、南満州鉄道会社 (満鉄)による租借地経営

旅 順、大連、南満州鉄道の租借権は1898年から25年間(ロシアのものを継続したため)である。この地域を関東州と呼び、鳥取県程度の広さ だった。関東都督府を旅順に設置して武官の都督が関東州の政治を 行った。
南満州鉄道株式会社設立。本社は大連で総裁は後藤新平。鉄 道の他、鉱工業、調査、拓殖、関係会社経営の5部門を経営した。

     cf)→関東庁、関東軍による支配へ

・関東州は日本が勢力伸長を図る満州への入口であったため、特に重視された。関東都督府は、1919年、民政担当の関東庁と軍事担当の関東軍に分離し た。関東軍は1個師団だったが精鋭を集め、ここの司令官になるのが陸軍の出世コースになった。

Q10 日本の満州支配をよく思わない国が2つある。どこか?。どのような外交を展開 するとよいのか?

A10 ロシアとアメリカである。両方を敵に回すと危ない。どちらかと手を結べばよい。アメリカは満州全体の開放を叫んでいるので、ロシアとも馬が合わな い。それぞれ利権を独り占めしたい国同士で手を結び、アメリカと対抗するのがよい。

  日露協約=満州二分→南満州の権益確保

・1907年、第一次日露協約を締結した。満州を南北で分けて勢力範囲と する。ロシアはドイツ、オーストリアと対抗するため、東を安定させたかった。日本は、ロシアと協調して満州進出を楽にしたかった。1910年、1912年 に改定し、外蒙古、内蒙古の権益についても了解し合う。実際には中国の領土なのだが、そんなことは関係なしに日露で話をしているのである。

※帝国 主義的侵略体制の成立

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