4 大陸進出と資本主義の発達 <朝鮮問題と日清戦争>

 日本が近代化路線をとっていた頃、朝鮮では従来からの清との宗属関係を維持しようという国王の父・(1)の一派と、日本の援助で改革を図ろうという王妃 の一族・(2)の一派が対立していた。政権を握った(2)は、軍隊の近代化を進めようとしたが、1882年、整理対象となった旧軍の反乱が起き、これに (1)が絡んだ反日クーデターに発展した。これが(3)と呼ばれるもので、日清両軍の出兵で鎮圧された。日本は軍隊駐留を認めさせる(4)条約を締結して 残りは撤兵したが、清は(2)に対する政治工作でこれを親清派に転換させることに成功した。この党派を(5)と呼ぶ。一方、(6)は引き続き日本の援助で 改革を目指し(5)と対立する。この一派が(7)である。この頃から、日本は清との戦争に備えて本格的な準備を開始する。
 1884年、ベトナムに対する主導権をめぐって(8)が勃発すると、ソウルにあった清軍が手薄となった。この機に(6)が日本軍の援助を得て起こした クーデターが(9)である。しかし、清軍が(2)の救援に駆けつけると政変は失敗に終わった。対峙した日清両軍は、翌年に(10)が締結されると撤兵した が、以後の出兵にあたっては通告することが義務づけられた。
 その後も朝鮮には親清派の政権が温存されたため、日本は劣勢であった。このため、自由党の(11)らが中心となり、朝鮮内政改革のために(2)一派を殺 害しようとする計画を立て、検挙される(12)が起きている。また、朝鮮は日本への米や大豆の輸出を制限する(13)を出し、日朝間が緊張する場面もあっ た。こうして日本では対清強硬論が台頭するようになる。福沢諭吉が「(14)」を唱えるのもこの頃である。
 開国後の朝鮮の経済は混乱し、攘夷運動が展開していた。(15)年に勃発した(16)は、(17)と呼ばれる新興宗教を信奉する農民たちが外国勢力の駆 逐のために蜂起したものである。これは日清両軍の出兵で鎮圧されるが、日本は朝鮮の政治改革を主張して清と対立し、(1)と結んで清とつながる(2)政権 を倒した。これが日清戦争へと発展することになる。日本軍は(18)で勝って清の北洋艦隊を沈黙させ、次いで陸軍は清国領の(19)、海軍は(20)を占 領する。
 日清戦争の講和条約が(21)で、日本側全権は(22,23)、清は(24)であった。この条約で清は(25)の独立を承認し、それまでの宗属関係は完 全に否定された。また、(19,20)の他に(26)が日本に割譲され、賠償金として庫平銀(27)、当時の日本円で(28)円が支払われた。さらに揚子 江流域の(29〜32)が開港されている。
 日清戦争の勝利は、清の影響力を排除し、日本の(25)への進出を決定付けた。莫大な賠償金でそれまでの銀本位制に代わって(33)が確立し、日本は世 界経済と結ばれたし、(25,26)という海外市場も手に入れて資本主義の発達が促された。(26)の統治機関として置かれたのが(34)で、初代長官に は(35)が任じられた。ただ、植民地支配に対する抵抗運動は根強く、児玉源太郎と後藤新平の時代になって製糖事業をはじめとして(26)統治は軌道に乗 る。日清戦争の勝利は日本の国際的地位を向上させることになったが、反面、中国は列強の侵略を招くことになる。

<解答>
(1)大院君 (2)閔氏 (3)壬午事変 (4)済物浦 (5)事大党 (6)金玉均 (7)独立党 (8)清仏戦争 (9)甲申事変 (10)天津条 約 (11)大井憲太郎 (12)大阪事件 (13)防穀令 (14)脱亜論 (15)1894 (16)甲午農民戦争 (17)東学 (18)黄海海戦  (19)遼東半島 (20)澎湖諸島 (21)下関条約 (22,23)伊藤博文、陸奥宗光 (24)李鴻章 (25)朝鮮 (26)台湾 (27)2 億両 (28)3億 (29〜32)重慶、沙市、蘇州、杭州 (33)金本位制 (34)台湾総督府 (35)樺山資紀


<列強の中国分割>

 下関条約が批准されて間もなく、露独仏三国は日本が獲得した(1)を清に返還するよう、軍事力を背景に要求してきた。これが(2)と呼ばれる出来事であ る。表向きは朝鮮の独立と清の首都北京を守るためとされたが、ロシアは返還させた(1)への南下政策を進め、独仏は清から利権を獲得するのがねらいであっ た。三国相手に戦う力のない日本は、代償金(3)を清から受け取ってこれを受諾した。外交失策を追及された政府は「(4)」を合言葉にロシアに対する国民 の敵愾心を鼓舞した。
 この後、ロシアは対日軍事同盟である(5)を清と締結して東清鉄道を敷設し、(6,7)を租借するとともに同地と東清鉄道を結ぶ(8)の敷設権も獲得し た。また、ドイツは(9)、フランスは(10)を租借した。これに対し、もともと清に多くの利権を持っていたイギリスは、(11,12)を租借してロシア とフランスに対抗し、アメリカは国務長官(13)がいわゆる(14)宣言を出して平等な清への進出権を主張した。その中身が(15〜17)である。当時、 ヨーロッパではドイツを中心に(18,19)が(20)を結成し、これに対抗するため露仏同盟が結ばれていた。イギリスはどことも同盟を結ばず、その立場 は「(21)」と称されていた。
 大韓帝国となった朝鮮は日本を警戒していたが、ロシアはここに親露政権を作って進出を図った。焦った日本は(22)を暗殺する事件を引き起こして韓国皇帝をかえってロシアの側に追いやり、朝鮮に対する主導権を失う危機を迎えた。
 一方、列強の急速な侵略を受けた清では、土地収用に反対する民衆が排外闘争を展開していた。ことに拳法と民間信仰を融合した(23)と呼ばれる一派は、 「(24)」をスローガンに外国勢力の追い出しを図り、北京の外国人が孤立する事態が起きた。清はこれを利用して列強を駆逐しようと宣戦布告をおこなった ため、列強は共同出兵をおこなうことになった。しかし、折しもイギリスはボーア戦争、アメリカはフィリピン独立闘争で大軍を投入できず、最大兵力を出した 日本軍が「(25)」と称されて活躍する。武装蜂起は列強の手で鎮圧され、清は(26)を締結して賠償金の支払いと北京への軍隊駐留を認めさせられ、以 後、植民地化が進行した。
 この戦いのさなか、ロシアは鉄道保護を名目に満州を軍事占領し、戦後も撤兵をおこなわなかった。ロシアが満州を支配することになれば日本の利益線・韓国 のみならず、主権線としての本土も危うくなる。列強のうち西アジア進出をもくろむ(27)は、ロシアとの利害調整のため極東進出を後押ししていた。ロシア 南下阻止のため、日本が戦争に踏み切れば、露仏同盟を結んでいるフランスと(27)をも敵に回す恐れがあり、この場合は勝ち目がない。そのため、(28) らはロシアと妥協して満韓交換をおこなう(29)を締結すべきだと主張した。一方、イギリスは中国利権の維持、アメリカは中国市場の確保のためロシア南下 を阻みたいと考えていた。このため(30)らは、イギリスとの間に(31)を結び、戦争に至った場合には第三国の参戦をイギリスに阻止させる方策を主張し た。この結果、(32)年、(31)が締結された。これにより、日露開戦は避けられないものとなっていった。

<解答>
(1)遼東半島 (2)三国干渉 (3)3000万両 (4)臥薪嘗胆 (5)露清密約 (6,7)旅順、大連 (8)南満州鉄道 (9)膠州湾  (10)広州湾 (11,12)威海衛、九龍半島 (13)ジョン・ヘイ (14)門戸開放 (15〜17)領土保全、門戸開放、機会均等  (18,19)イタリア、オーストリア (20)三国同盟 (21)名誉ある孤立 (22)閔妃 (23)義和団 (24)扶清滅洋 (25)極東の憲兵  (26)北京議定書 (27)ドイツ (28)伊藤博文、井上馨 (29)日露協商 (30)山県有朋、小村寿太郎 (31)日英同盟 (32) 1902


<日露戦争と大陸政策>

 日本は大幅増税と米英からの借金で軍備増強に努め、国内では開戦論が盛んとなった。(1)ら東大七博士が意見書を出し、民間国家主義団体・(2)の活動 も活発化した。これに対し(3)はキリスト教の立場で、(4,5)は社会主義の立場から「万朝報」を舞台に非戦論を展開した。同紙が開戦論に転ずると、 (4,5)は(6)を設立して(7)を発行し、非戦論を唱え続けたが、世論は開戦一色であった。
 (8)年、日露戦争が始まった。制海権を手に入れた日本は多大な犠牲と引替えに遼東半島の港町・(9)を占領し、次いで満州の中心都市・(10)の占領 に成功する。また、海軍はウラジオストックに向かうバルチック艦隊を(11)海戦で壊滅させた。しかし、日本にそれ以上の継戦能力はなかった。一方、ロシ アも(12)が勃発して大軍の派遣が不可能となり、アメリカ大統領(13)の仲介で停戦となった。
 日露戦争の講和条約が(14)で、全権は日本が(15)、ロシアは(16)であった。戦争に勝ったと考える日本国民は多額の賠償金と領土の引き渡しがあ ると信じていたが、ロシアは日本に継戦能力がないことを知っており、交渉は難航した。この条約で日本は(17)に対しての指導権を確保し、(18,19) の租借権、(18)と長春を結ぶ(20)をロシアから引き継いだ。また、(21,22)の漁業権を手に入れた。しかし、敗戦を認めないロシアからこれ以上 のものを獲得することは難しく、最後に(23)の割譲を受けただけで賠償金は得られなかった。国民は屈辱的な条約であるとこれに反発し、(24)などの暴 動が起きている。
 日露戦争後、日本は韓国への支配権を強めた。イギリスとは第二次(25)を結び、インドへのロシア南下を牽制する代わりに韓国保護権の承認を受け、アメ リカとは(26)を結んで韓国とフィリピン支配を相互に認めあった。こうして第二次(27)を強要して韓国の外交権を接収し、(28)を設置して保護国と したのである。韓国の外交は初代(29)の(30)が担った。韓国はこうした日本のやり方を列強に訴えようと万国平和会議に使いを送った。しかし、この (31)事件で日本は態度を硬化させ、第三次(27)で内政・軍事権を接収する。韓国では反日闘争である(32)が本格化し、(33)の手で(30)は暗 殺される。このため、日本は(34)年、韓国を領土に編入する(35)を実施し、朝鮮と改めて(36)を置いて統治した。初代の(37)となった(38) は武断政治を展開し、植民地経営は半官半民の(39)が担当した。この後、朝鮮では(40)が実施され、大量の土地が収用されて多くの農民が没落していっ た。
 一方、租借した(18,19)の地は(41)と呼ばれ、統治のために(42)が置かれた。また、鉄道経営のために(43)が設立されている。(42)は 後に政治をおこなう(44)と軍事担当の(45)に分離し、日本の大陸経営の柱となった。日本は南満州の権益を確保するため、ロシアと(46)を結び、互 いの勢力圏を決めている。

<解答>
(1)戸水寛人 (2)対露同志会 (3)内村鑑三 (4,5)幸徳秋水、堺利彦 (6)平民社 (7)平民新聞 (8)1904 (9)旅順 (10) 奉天 (11)日本海 (12)第一革命 (13)T.ルーズベルト (14)ポーツマス条約 (15)小村寿太郎 (16)ウィッテ (17)韓国  (18,19)旅順、大連 (20)南満州鉄道 (21,22)沿海州、カムチャッカ (23)南樺太 (24)日比谷焼打ち事件 (25)日英同盟  (26)桂・タフト協定 (27)日韓協約 (28)統監府 (29)統監 (30)伊藤博文 (31)ハーグ密使 (32)義兵闘争 (33)安重根  (34)1910 (35)韓国併合 (36)朝鮮総督府 (37)朝鮮総督 (38)寺内正毅 (39)東洋拓殖株式会社 (40)土地調査事業  (41)関東州 (42)関東都督府 (43)南満州鉄道株式会社 (44)関東庁 (45)関東軍 (46)日露協約


<条約改正問題>

 幕末に締結された不平等条約の改正は、明治国家の悲願であった。1872年には(1)がアメリカで改正のための下交渉をしているが、日本は欧米諸国に (2)を与えていたため一国を対象とした改正には意味がなく、この問題を解決することがきわめて困難であることが明らかとなっている。
 本格的な交渉は外務卿となった(3)が着手した。国家財政が逼迫していたこともあり、彼は(4)の回復を目指して各国別に交渉を開始し、アメリカは改正 を承認したものの(5)の反対によって失敗に終わる。この後、最大の難敵は(5)となってゆく。折しもイギリス商人のハートレーが(6)を密輸する事件が 起き、領事裁判によって無罪となったことから、以後の改正交渉は(7)の回復が優先されることになった。
 ついで外務卿となった(8)は、(9)を認め、(10)を任用することを条件に改正を実現しようとし、会議方式での交渉を開始した。外国の歓心を買うた め、極端な(11)政策がとられ、接待のために建設された洋館で毎日音楽会や舞踏会が催されたことからこの時代を(12)と呼んでいる。しかし、(10) の任用については屈辱的であるとして世論の反発を買い、政府内部でも法律顧問だったフランス人(13)や農商務大臣の谷干城が反対にまわった。(5)の貨 客船が沈没した際、多くの日本人が見殺しにされたにも関わらず、領事裁判で船長が微罪とされた(14)が起きたこともあり、(8)に対しての攻撃は厳しく なった。民権運動家たちは言論の自由、地租軽減と並び、外交失策の挽回を求める(15)を展開したことから、(8)は辞職に追い込まれる。この時代、条約 交渉をめぐってナショナリズムが高揚し、改正交渉に当たっては国内世論の動向も考えなければならなくなった。
 改正交渉を受け継いだのは外務大臣となった(16)である。彼は(8)案を継承し、(17)の任用を条件に極秘交渉をおこなったが、交渉内容がスクープされて世論の憤激を買い、右翼に襲われて失脚することになった。
 このように、改正交渉は困難を極めたが、1890年代に入ると状況は一変する。この頃、日本はアジアで最初の立憲国家となり、また、ロシアが極東への南 下政策を展開し始めたことから、ロシアが日本に接近し、これを牽制するために(5)も日本に歩み寄りを見せたのである。外務大臣となった(18)は、無条 件の(7)回復を目指して(5)と交渉を開始し、その承認を得ることに成功した。しかし、折しもロシア皇太子が日本で警官に襲撃される(19)が起き、 (18)は辞職に追い込まれて改正交渉は失敗に終わる。なお、日本政府は大審院長の(20)に犯人を死刑にするよう圧力をかけたが、(20)は独自の判決 を下して司法権の独立を守り、日本の司法に対しての欧米諸国の評価を勝ち取っている。
 次いで改正交渉をおこなったのは外務大臣の(21)である。(18)を駐(5)公使に任じて交渉をおこなった結果、(22)年、(23)が締結されて (7)と(4)の一部が回復された。この後、日本は14ヵ国と同様の条約を締結する。そして(4)が完全回復されるのは、(24)が外務大臣を務めた (25)年のことであった。

<解答>
(1)岩倉具視 (2)片務的最恵国待遇 (3)寺島宗則 (4)税権 (5)イギリス (6)アヘン (7)法権 (8)井上馨 (9)内地雑居  (10)外国人裁判官 (11)欧化 (12)鹿鳴館 (13)ボアソナード (14)ノルマントン号事件 (15)三大事件建白運動 (16)大隈重信  (17)大審院外国人裁判官 (18)青木周蔵 (19)大津事件 (20)児島惟謙 (21)陸奥宗光 (22)1894 (23)日英通商航海条約  (24)小村寿太郎 (25)1911


<産業革命と日本資本主義>

 産業革命が成立するためには生産手段と資本家、工場労働者が欠かせない。日本の場合、政府の(1)政策によって生産手段が移植され、(2)によって官営 事業の払下げを受けた者たちが財閥を形成して資本家となっている。また、工場労働者は同じく(2)の結果もたらされた農民層の階層分解で創出された。こう して、(3)年代には(4,5)という軽工業を中心に機械化が進み、第一次産業革命が成立する。
 (4)業は日本の輸出の花形である。当初は簡単な道具を用いる(6)と呼ばれる形態で生産がおこなわれていたが、次第に蒸気力を利用した(7)が拡大し た。この時期に設立された(4)工場として、(8,9)などが知られている。生糸は主にアメリカに輸出され女性用靴下に加工されたが、この意味では原料輸 出であり、(7)は女工の職人技に依存するところが大きかった。一方、綿糸を生産する(5)業は、当初は(10)と呼ばれる手作業に依存していたが、 (11)が水車動力を用いた簡便な(12)という道具を発明し、生産効率が高まった。政府は2000錘規模の機械(5)の工場の設立を奨励したが業績が伸 びず、(13)が1万錘規模の(14)を建設したことで成功を収めた。後には3万錘規模の(15)が東京に設立されている。日清戦争で海外市場が拡大した こともあり、(16)年代には日本は綿糸の大量輸出国になっている。綿織物業は幕末貿易の開始で安価な機械織り製品が流入して衰退したが、明治になると (17)と呼ばれる飛び杼の仕組みを備えた道具を使い、安い輸入綿糸を用いた出機やマニュファクチュアによる生産が再生した。一方、(18)は国産力織機 を発明し、副業として内機生産を始める農家が拡大した。
 製鉄・造船・機械工業などの第二次産業革命は、日露戦争の軍需をきっかけに(16)年代に起きている。大資本が必要なため国家・財閥主導で進められた。 中国の(19)の鉄鉱石と(20)の石炭を用い、(21)年に操業を開始した(22)はこれを象徴している。工作機械や発動機のメーカーとして (23,24)なども操業を始めた。
 貿易も拡大した。明治後期の主要輸出品は(25,26)、輸入品は(27〜29)などで、商事会社の(30)、海運会社の(31)、外国為替を扱った(32)などが貿易を支えた。しかし、日本は慢性的な輸入超過であり、国際収支の赤字に悩むことになる。
 急速に資本主義を発達させるため、国家の果たした役割は大きかった。(33,34)などの特殊銀行は低利で長期の融資をおこない、(35)などの私鉄は (36)によって買収され国家管理となった。財閥は政府の保護を受けて成長し、銀行を核に(37)を形成し、(38〜41)が四大財閥と称された。軍需中 心に工業が発展したのに対し、農業は(42,43)の設立で農業改善が試みられたが、耕地の半分を小作地として持つ(44)制度の前に自ずと限界があっ た。高率の現物小作料を収奪する(44)は米価高騰で収入を拡大したが、小作農の没落は進み、都市の低賃金労働者に転化した。このため、国内購買力の低い 日本は、常に軍需景気と海外市場が必要となったのである。

<解答>
(1)殖産興業 (2)松方財政 (3)1890 (4,5)製糸、紡績 (6)座繰製糸 (7)器械製糸(8,9)片倉組、郡是製糸 (10)手紡  (11)臥雲辰致 (12)ガラ紡 (13)渋沢栄一 (14)大阪紡績 (15)鐘淵紡績 (16)1900 (17)バッタン機 (18)豊田佐吉  (19)大冶鉄山 (20)筑豊炭田 (21)1901 (22)官営八幡製鉄所 (23,24)池貝鉄工所、新潟鉄工所 (25,26)生糸、綿糸  (27〜29)綿花、鉄鉱石、機械 (30)三井物産 (31)日本郵船 (32)横浜正金銀行 (33,34)日本勧業銀行、日本興業銀行 (35)日 本鉄道 (36)鉄道国有法 (37)コンツェルン (38〜41)三井、三菱、住友、安田 (42,43)農会、協同組合 (44)寄生地主


<社会運動の発生>

 農村での「口減らし」の結果、資本主義を支える工場労働者が生み出されたこともあり、彼らの労働環境は劣悪であった。極端な低賃金と長時間労働がその特 徴であり、製糸業では15時間労働、紡績業では昼夜二交代制による夜業の存在が当たり前であった。いずれも安価な女工労働力が用いられたが、前借金による 強制労働や衛生条件の悪い寄宿舎での生活、罰金制度による賃金抑制など、前近代的なシステムのもとで働いていたと言える。毎日新聞の記者だった(1)が、 彼らの実態をルポした「(2)」や、政府が調査した「(3)」などは、資本主義勃興期の労働者の様子を知るための史料である。(4)は大正末期の紡績女工 の実態を「(5)」にまとめたが、時代が下がっても労働環境が改善されていないことがわかる。
 こうした状況下、自然にストライキや暴動が引き起こされた。最初のストである(6)は1886年、鉱山暴動として雑誌「日本人」に掲載されて問題化した (7)は1888年であり、かなり早い時期に労働問題が生じている。飯場制のあった鉱山での争議は日露戦争に向けて生産強化が指示されてから激増し、 1907年には栃木県の銅山で(8)が起きている。労働組合は、1882年に人力車夫によって(9)が組織されたが、本格的なものはアメリカで労働者生活 を経験して帰国した[10]が、(11)を結成して組合の育成を開始したことで発足する。この組織には(12)が加わり、[13]へと改組され、砲兵工廠 の労働組合である(14)や鉄道労働者を組織した(15)が作られた。生産第一の姿勢は公害問題を引き起こし、(16)が経営する銅山が原因で渡良瀬川が 汚染された[17]に対しては、[18]が反公害闘争を展開している。
 労働者の地位向上を目指し、社会主義の考えも日本に紹介された。社会主義的要求として貧富差の是正を最初に求めた政党は1882年に組織された(19) である。1898年に発足した(20)は本格的に社会主義の研究をおこない、1900年には(21)となって社会主義の宣伝を始めた。翌年には最初の本格 的社会主義政党として[22]が組織され、(12,23〜25)らが8時間労働や普通選挙の実施、軍備縮小、労働組合の公認などをうたった。しかし、 [26]法が適用されて即日禁止とされている。この後の日露戦争の時期、[23]と[27]は[28]を結成し、「(29)」を発刊して非戦論を展開して いる。1906年には、自由主義的な[30]内閣のもとで(12,27)らが[31]を発足させた。「国法の範囲内で社会主義を主張する」として初めて認 められた無産政党だったが、(23)が直接行動を主張したことで(26)法により解散させられた。
 (26)法は、社会運動を抑えるため1900年に制定されたもので、集会・結社・言論の自由を制限した他、女子の政治活動や労働組合の結成、争議を禁じ ている。1910年には天皇暗殺を企てたとして(23)が処刑される[32]が起き、社会主義の活動は冬の時代を迎える。一方、政府は労働運動との妥協を 図り、1911年には12時間労働など労働者保護の規定を盛り込んだ(33)が制定されたが、小企業を例外とするなど抜け穴が多く、完全な労働者の待遇改 善にはつながらなかった。

<解答>
(1)横山源之助 (2)日本之下層社会 (3)職工事情 (4)細井和喜蔵 (5)女工哀史 (6)雨宮製糸争議 (7)高島炭鉱事件 (8)足尾銅山 争議 (9)車会党 (10)高野房太郎 (11)職工義友会 (12)片山潜 (13)労働組合期成会 (14)鉄工組合 (15)日本鉄道矯正会  (16)古河財閥 (17)足尾銅山鉱毒事件 (18)田中正造 (19)東洋社会党 (20)社会主義研究会 (21)社会主義協会 (22)社会民主 党 (23〜25)幸徳秋水、安部磯雄、木下尚江 (26)治安警察 (27)堺利彦 (28)平民社 (29)平民新聞 (30)西園寺公望 (31) 日本社会党 (32)大逆事件 (33)工場法


戻 る

Copyright(C)2007 Makoto Hattori All Rights Reserved