4 大陸進出と資本主義の発達
<朝鮮問題と日清戦争>
Q1 明治期の思想家として第一に思い浮かぶのは誰か?。その人物はどうしてお札の肖 像にまで使われているのか?

A1 福沢諭吉は「学問のすゝめ」を著わした啓蒙思想家として知られ、民権運動にも理解を示していた。この点で肖像にふさわしいとされたのだろう。

・福沢は外交についてはどのような考えを持っていたのか。福沢は文明化こそが植民地支配から身を守ることにつながると考え、アジアの国も文明化が必 要だと考えていた。
・1881年の段階で彼が主張していたのは「アジア改造論」で ある。西洋のアジア侵略に対抗できるのは日本だけである。最も弱いのは中国 の属国になっていた朝鮮であり、この友だちを救うため、日本の手で文明化し、守ってやるべきだとした。
1885 年になると、清や朝鮮は文明化できない悪友であり、この近代化を待っていたら日本の独立も危なくなるとした。日本は悪友とは手を切って「脱 亜」し、西洋諸国とともにアジア侵略に参加すべきだとした。これが「脱亜論」であり、日本はアジア諸国を裏切って侵略のターゲットにすることになる。
・一流の民権運動家、啓蒙思想家がわずか4年間でどうして気が変わったのか。

[朝鮮をめぐる日清の対立]
A 朝鮮内部派閥抗争の発生
   親清派・・・大院君 清との宗属関係継続
   親日派・・・閔氏一族 日本の援助で改革推進→政権掌 握

朝鮮 は長らく清の属国であり、外交権を握られていた。国王は李太王であったが、政治の実権は父親の大院君が持っていた。李太王が閔妃を妻とすると、その実家の閔氏一族が政界で力を持つようになる。
従来 の清との宗属関係を続けようとする大院君と、日本を手本として近代化を進めようという閔氏は対立したが、閔氏が政権を掌握して改革が図られ た。
・福沢が「アジア改造論」を主張したのはこの時期である。

B 壬 午事変 1882

・閔政権は軍制改革に着手し、日本から軍事教官(堀口少尉)を招いた。これによって 「別技軍」という精鋭部隊が作られることになったが、役立たずの旧軍隊は整 理されることになった。これは日本の武士の解体政策と同じである。
・当時、無関税貿易をおこなっていた日本は朝鮮米を大量に輸入していた。日本は3000万石の米しか生産できなかったが、明治になって急速に人口が増えて きて食料不足になっていたのである。この後、日本の人口は、昭和初期には1億近くになるのだが、この食料は国内では全くまかなえず、海外領土と中国米の輸 入でしのいでいる。日本がアジア植民地を獲得してゆく背景には、このような食料不足が隠されている。
朝鮮では米価が開港前の3倍になり、多くの人がインフレで苦しむこ とになった。生活苦の現況は日本にあるとし、排日運動が起きるよ うになる。

   大院君の反日クーデター 日清両軍の出兵

・整理されることになった兵士へは、米の支給が10カ月も遅れた。1882年7月に配 給されたが、米に石が混ぜられたりして量目がごまかされていた。これで兵士 の不満が爆発し、7月23日、堀口少尉は殺害され、日本公使館が襲撃される。国 王は逃げ出し、閔政権は瓦解した。これを見て、大院君が反乱軍を統制し、閔氏にかわって権力を掌握した。
閔氏は宗主国の清に救援を依頼した。清軍3000名が朝鮮 に来た。日本は居留民保護を名目として軍艦4隻で1500名の軍隊を送った。清 軍は大院君を逮捕して反乱軍を鎮圧した。

   済物浦条約で撤兵

・日本は、一方的に軍事教官を殺して公使館を襲撃したのは朝鮮の落ち度であるとし、賠償金55万円を要求し、あわせて公使館護衛のための軍隊駐留権を獲得した。済物浦条 約という。

   →清の政治工作で閔氏が清に接近

・清は、朝鮮のクーデターは閔氏が日本に接近したためと判断した。このため、軍隊を派遣して清の宗主権を条文化し、袁世凱を派遣して閔氏を親清政権として 再建することにした。強力なてこ入れによって朝鮮に対する主導権を維持しようとしたのである。これで日本は後退することになる。

      親清派事大党、閔氏)VS親日派(独立党、金玉均)

閔氏 は事大党として親清派を形成した。
・一方、壬午事変の謝罪使として来日した金玉均は、日本の発展ぶりに驚い た。彼は福沢諭吉に接近して親日派グループを作り、朝鮮の内政改革、清国からの独立を目指すようになった。このグループが独立党である。
・福沢はこの時期、金玉均に目をかけ、朝鮮の独立を妨げる清を排除するため、開戦を覚悟すべきだと主張している。

       cf)対清戦争の準備開始

・日本政府は、福沢に言われるまでもなく、朝鮮での主導権を確保するため、壬午事変の 後に大陸作戦を準備し始めている。山県有朋は、朝鮮を独立国とするためには清との戦争を覚悟すべきと言っている。

Q2 戦争して勝つにはどうするのか。それまでの日本の軍隊の性格はどのようなもの だったか?。

A2 日本の軍隊は国内の治安維持が第一で、対外戦争の軍隊ではなかった。外国との戦争に備えての編制替えが必要になる。

・まず、軍隊の引き締めを図るため、1882年に軍人勅諭を出している。天 皇が軍隊の統帥者であり、軍人は天皇に絶対服従することを求めたものである。
・清は軍事大国である。日本政府は緊急軍拡案を出し、10年で歩兵14連隊 を28連隊に増やし、常備軍6万人に倍増する計画を立てた。これが実現したときに清と戦争が可能になる。実際には日清戦争時に達成してい る。
1883、1889年に徴兵令を改正して免役の規定を見直している。さ らに、1888年に鎮台を師団にして対外戦争を前面に打ち出 すようになった。

Q3 清との戦争に勝つのに欠かせない軍事力は何か?。

A3 戦争は海を渡った向こうでやることになり、制海権を確保する必要がある。問題は海軍である。

・日本の軍艦は28隻しかなかった。このため、8年間で42隻 を新造、整備する計画を立てた。特に7000トン級の鎮遠、定遠に対抗するため、3700トンクラスの船を3隻発注している。

C 甲申事変 1884
   清仏戦争の機に独立党がクーデター(日本軍援助)、

・フランスは、1873年、北部ベトナムのグエン朝に侵略を開始していた。1883 年、フランスはフエを占領して保護国とする。しかし、清はベトナムの宗主権を主張して対立した。
1884年、清仏戦争が勃発した。福州、寧波でフランスは 優勢となり、清は朝鮮駐留の袁世凱の軍隊の半分をベトナムに派遣することにした。金玉均にとって、清国軍が手薄になったため、閔氏政権打倒のチャンスと なった。
・ちなみに、この後、フランスはベトナムを領有するようになり、1885年、清仏条約を締結している。フランスはコーチシナに加えてトンキン、アンナンを 獲得してフランス領インドシナを作って植民地とした。
朝鮮では甲申事変が勃発する。金玉均は福沢、後藤と打ち合 わせをし、クーデターの計画を立てる。日本公使館も了解する。ソウル郵便局落成記念式典に閔氏 一派が出席するので、空となった王宮に放火して駆けつける者を殺害する計画だった。しかし、これは失敗して金は日本公使館に逃げ込む。結局、日本軍が助け て王宮を占拠し、重臣を殺害した。金は新政権樹立を宣言。

   清軍出兵で失敗

・閔氏は清に救援を依頼した。清国軍1500の兵に対し、王宮を占拠していた300の 日本軍は撤退を余儀なくされ、金を連れて脱出した。

   天津条約(1885) =撤兵、出兵通告義務づけ

・その後、ソウルでは日清両軍が対立を続ける。清仏戦争で負けたばかりの清は戦争した くなかったし、日本は対外戦争をすると民権家に虚をつかれる可能性があった。お互いに軍同士の対立は好ましくない。
・日本としては朝鮮で清と対等の立場に立つ条約を結んで引き上げたい。伊藤 博文が天津に飛び、李鴻章との間に天津条約を締結する。これで日清両軍は撤兵することになり、次回の出兵の際は通告を義務づけた。

     but親清派政権の温存=朝鮮での劣勢

・甲申事変の後も朝鮮では親清派が温存され続けた。日本は主導権がとれないまま。

       cf)自由党(大井憲太郎)による朝鮮内政改革計画=大阪事件

・日本国内では、日本政府は弱腰だとし、清との開戦論が激しくなる。清は朝鮮の独立、改革を妨げる元凶という思いこみがあった。もっとも、実際には日本が 朝鮮の独立を危うくする立場になるのだが。
大井憲太郎は閔氏を爆弾で殺し、親日派に政権を取らせる計画を立てる。爆 弾は完成するが資金不足で実行できない。大阪で協議中に逮捕されてしまう。これを大阪事件といい、民権家が朝鮮問題に強い関心を持っていたことの現れで ある。
・この時期、福沢は「脱亜論」を唱えている。清は悪いが、その清と縁が切れない朝鮮も悪いとして、朝鮮も見限るのである。

         防穀令による日朝対立

・この時期、日朝間は険悪になっている。朝鮮米の収奪や貿易における日本人商人の搾 取、日本漁船の侵略などがあった。これで反日感情が高まってくる。
・朝鮮米を大量に輸入する日本に対し、朝鮮は取り締まりを考える。これで出されたのが防穀令(1889)である。大豆・米の禁輸を実施したもの。日本の抗議で1890年に解除された が、日本は損害賠償を求めたりしている。
・この時期、列強も朝鮮に関心を向けるようになってきた。具体的にはロシアの南下である。朝鮮では清の宗主権を排除するために、日本よりもロシアに接近し た方がよいという考えが登場する。これに対し、ロシア南下を警戒するイギリスは巨文島を占領(1885)し、清をもり立ててロシア南下を防ごうとしてい る。日本はもたもたしていると、ロシアに朝鮮をとられることになりかねず、 それは日本の独立を危うくすることにつながる。
1890年の第1議会で、山県有朋首相は主権線(領土)のみならず、利益 線(朝鮮)防衛のために軍備拡大を主張した。これは以上のようなことを意識した発言だった。

※対清強硬論の台頭

[日清戦争]
Q4 幕末の日本の状況を参考にすると、外国勢力が入り込み、経済混乱が続く朝鮮の民 衆の間には、どのような状況が生じるだろうか。

A4 朝鮮では新興宗教が盛んになり、これをもとに反政府運動が起きてくる。「ええじゃないか」や世直し一揆と同じである。

A 甲 午農民戦争 1894
   東学党(宗教結社)の排外一揆、日清両軍の出兵で鎮圧

・西学に対し、呪文と護符で病気を治す新興宗教として東学が盛んとなった。これは「斥倭洋」をスローガンとした攘夷運動に発展し、「世直し」一揆とな る。 農民軍は全州を占拠したため、閔氏は宗主国である清に出兵を依頼した。この判断は間違っており、清軍が出兵すれば日本も出兵してくることになり、日清の戦 争が朝鮮でおこなわれることになってしまう。
・居留民保護を名目に日本が出兵してきたことから、朝鮮政府はあわてて全力で東学の乱を鎮定する。しかし、遅かった。

   →朝鮮の政治改革をめぐり日清対立

日清 両軍は東学党壊滅後も駐留し続ける。この頃、日本の伊藤首相は国会で叩かれており、政府批判をそらすために開戦の口実を探す。
日本は甲午農民戦争は朝鮮の近代化が遅れていたために起きたとして、内政 改革のため、日清両国から委員を出すことを提案する。しかし、内政改革は内政干渉になるといって清が拒否してくる。日本はこれを口実にする ことにした。
閔氏と対立する大院君に接近し、大院君は改革を希望しているとし、7月 23日、日本軍の力で閔氏政権を倒す。

B 日 清戦争 1894

・日本は開戦後速やかに陸上での主導権をとる必要があった。25日、宣戦布告前に清国 増援兵輸送の軍艦を攻撃する。この豊島沖海戦をきっかけに牙山の清軍を追い、平壌を占拠した。
輸送を安全にするためには北洋艦隊をつぶすべき。最大の敵 は7000トンの船の鎮遠、定遠。世界最大の30センチ砲を積む。1886年に長崎に入港して偉容を示し、水兵が町で乱暴を起こしている。

   黄海海戦で勝ち、遼東半島占領

・中国は鎮遠、定遠は温存し、日本側に恐れを抱かせる作戦をとり、なかなか遭遇できな かった。
・9月17日、黄海で遭遇。清国14隻対日本12隻で黄海海戦を戦う。7000トン級定遠、鎮遠に対し、日本は速力、砲数で勝り、3艦を撃沈する。鎮遠、定遠は威海衛に逃げ込む。
陸奥宗光は、黄海海戦の勝利を見て、「外国の介入のある前にどこでもいい から占領すべき」と主張。この段階で、日清戦争は朝鮮の独立のための戦争ではなく、領土獲得のための侵略戦争になっている。
陸軍は遼東半島に上陸。11月21日、旅順を占領。ここで 非戦闘員6万人が虐殺されたとも言われる。
・続いて山東半島に上陸し、威海衛を攻撃して定遠を沈める。鎮遠は拿捕。清軍の丁汝昌は部下の命乞いをして毒を飲む。95年2月12日、威海衛を占領。清 は講和を申し入れる。

   =「富 国強兵」策をとった日本の圧勝

C 下関条約 1895

・3月20日から会談に入るが、日本側はただちに停戦することなく、軍事行動を続け、 締結条件を有利にしようとする。海軍もどこかをとろうとして3月26日、澎 湖島を占拠している。

   講和条約(全権=伊藤、陸奥宗光×李鴻章)

・日本側の講話条件を見て、李鴻章は「苛酷、苛酷」と叫ぶ。しかし、24日、李鴻章を 銃撃する者が出て日本は国際世論の非難を受けることになった。このため、30日に停戦に踏み切る。
・李は「領土をとると清国民の恨みを買う。朝鮮独立のための戦争だと言ったではないか。日清間に友好援助の条約を結ぶべき」と主張した。陸奥宗光はもっと もな話だと言うが、結局はこれを無視する。
・陸軍は遼東半島が欲しい、海軍は台湾が欲しいという主張を押し付けることにした。

 1 朝 鮮の独立承認
 2 遼東半島、台湾、澎湖諸島割譲

・台湾は日清戦争では無占領であり、李鴻章も筋が通らないといって抵抗した。しかし、 澎湖島をとられていたため手出しができなかった。

 3 賠 償金2億両(3億円)

戦費 は2億円で獲得賠償金は3億円なので大儲けである。戦争は儲かるという認識を国民に与えることになった。
・賠償金2億両は清朝の国家財政の3年分に当たり、外国からの借款で払うしかなかった。露仏から1億両、英米から2億両を借款している。

 4 沙市、重慶、蘇州、杭州開港

・日本に与えた権益は最恵国待遇規定のため、すべての欧米諸国に適用される。このた め、いっそうの市場開放を余儀なくされている。

[日清戦争の意義]
 1 朝鮮進出の決定
 2 資本主義の発達
    賠償金・・・金本位制の確立(世界経済とつながり貿 易拡大)

・賠償金のうち、皇室財産と三基金(教育基金、災害準備金、軍艦水雷艇補充基金)をプールし、正貨準備 に充て、金本位制を確立した。これで世界経済につながることになった。

    海外市場・・・朝鮮、台湾
     cf)台湾総督・樺山資紀による統治=抵抗抑圧と同化政策、製糖事業

・台湾官民は「台湾民主国」を作って日本軍の上陸に備える。樺山資紀が台湾総督として赴任し、5月29日に北部に上陸した。日本軍 は台北、台中までは行け たが地元民のゲリラ戦が続く。10月21日に台南を占領して抵抗を排除したが、この間、1万7千人を殺害したという。この台湾征服戦争の日本側死者は 9000人以上であり、日清戦争の13000人に匹敵している。
・その後も台湾住民の抵抗運動は続いた。樺山の次に台湾総督になった桂太郎、乃木希典も手を焼く。台湾はフランスに売る話も出る。
抵抗運動は4代目総督児玉源太郎の時にようやく沈静化す る。「ゲリラは日本が作ったもの」とし、温情主義で投降を呼びかけた。アメ とムチの政策であり、投降しないゲリラ1万1千人を殺害している。
後藤新平が植民地経営に乗り出し、殖産興業政策を展開し た。これによって台湾経済は軌道に乗った。

Q5 台湾の領有は日本人の食生活に大きな変化を与えた。何か?。

A5 一つは米の供給基地となって米食が普及したこと。もう一つは砂糖の消費が拡大したことである。

砂糖 の生産と移入ができるようになった。甘いはうまいの語源であり、一般の日本人が砂糖を賞味できるようになるのはこの後である。

 3 国際的地位向上

・欧米諸国は日本が負けると思っていた。これに勝ったことで日本の名が高まった。ま た、下関条約は日清修好条規に代わるものであり、日本は列国並不平等条約を 押しつけて侵略国の仲間入りを果たした。

Q6 戦争に勝ったことで、日本人の戦争に対する意識、清に対しての意識はどう変わる だろうか。

A6 戦争を美化する軍国主義が高揚することになる。多くの軍国美談が作られ、名誉の戦死することが讃えられる。一方では清国蔑視が始まる。

・ちなみに、日清戦争の10カ月で動員したのは24万人。戦死は1万3千人だったが、 そのうちの1万2千人は病死だった。多くは脚気、マラリア、コレラ、凍傷で死んでいる。「木口小平は死んでもラッパを離しませんでした」は教科書になっ た。
・当時、嘉納治五郎が清から留学生を招いたことがあった。しかし、すぐに帰国してしまう。「町を歩くと子供が『日本勝った、支 那負けた』といってついてくる。それをみて大人も止めようとしない」。チャンコロ、チャンチャン坊主といって蔑視することが始まり、中国侵略への下敷きと なっていった。

Q7 列強の清国観はどうなり、それは何をもたらすだろうか?。

A7 今まで、列強はベトナムなど中国の周囲を植民地化していた。「眠れる獅子」として中国本土侵略は警戒していた。しかし、日清戦争敗北で「死んだ獅 子」で あることが判明し、侵略するようになる。

列強 の野望が中国本土に向かったことで、世界は帝国主義段階に入ったとされる。これが日清戦争の持つ最大の世界史 的意義かもしれない。

  →列強の中国侵略始まる

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