<立憲政体の樹立>
[帝国憲法の制定]

A 憲法制定の過程

Q1 明治政府が最初に立憲体制の樹立を約束したのはいつだったか?

A1 大阪会議の時である。

 1 大 阪会議 1875
    立憲体制、三権分立樹立へ
     ex)立法(元老院、地方官会議)、司法(大審院)

元老 院=官僚が議官になり、憲法原案を作ることになった。
これにより、「日本国憲按」が1880年にできる。9編88条。立憲君主 制の常識を盛り込んだ憲法原案だった。

Q2 この憲法原案は岩倉の手によって握りつぶされている。どうしてだろうか? そも そも、憲法というのはどういう経緯でできたものなのか? 大憲章を思い出してみる。そこから、立憲君主制というのはどういう政治のスタイルになるのか?

A2 君主権の濫用を防ぐ目的で、議会がイギリス国王に突きつけたのが大憲章だった。立憲君主制は、憲法によって君主権が制約される政治体制である。

     but「日本国憲按」廃案

・この中には「皇帝即位の時は両院の議員に対して憲法を守ることを誓う」という条文が あった。これは立憲君主制の常識である。しかし、これでは明治天皇の名をか たって好き勝手ができなくなる。岩倉と伊藤が握りつぶした。

 2 憲 法制定の準備 1881〜
    岩倉の方針(欽定、プロシア憲法手本)

・岩倉は、立憲制に移行してからも、明治政府が自らの政治のスタイルとして天皇制官僚の政権独占 を継続してゆきたいと考えた。そのためには、権威と権力の源泉である天皇の絶対化を図る必要がある。
・絶大な君主権を保障するためには、国民が定めて天皇を縛る民定憲法ではまずい。欽定として天皇が自分の行動に自分で枠をはめたものを、国民に与える形でなければなら ない。

    →伊藤の欧州視察(ドイツ、グナイスト、シュタインに学ぶ)

・伊藤は女好きで功名心、自慢心の固まり。しかし、国際感覚や協調心にはたけていた。 明治天皇は「世界には天狗が3匹いる。ビスマルク、李鴻章、伊藤」と言っていた。それでも伊藤を高く買っていた。
・1882年3月、伊藤はドイツに渡り、ベルリン大学グナイストから憲法に ついて、ウィーン大学シュタインから選挙、議会と政府の関係を学ぶ。
・強大な君主権を得る代わりに、見返りとしてある程度の権利を国民に与えておくことも必要。伊藤はアメとムチで人民を抑えるビスマルクの政治手腕を学び、 「皇室の基礎を固定し、大権をおとさないための大眼目を立てた」として、岩倉に手紙で伝えている。
・岩倉は伊藤の外遊中に食道ガンとなる。ベルツに告知を求め、伊藤の帰国まで命を長らえさせてくれと求めるが、1883年7月19日に死んだ。伊藤の帰国 は8月3日。

    制 度取調局設置
     伊藤、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルの草案

・伊藤は、1884年、憲法の調査のために制度取調局を設置する。伊藤が長官となった。
・井上は法律の専門家で熊本出身。伊東は長崎、金子は福岡でいずれも藩閥にとらわれずに実務派を選んでいる。ロエスレルはドイツ人法学者で法律顧問。
・東京はうるさいため、夏島の伊藤の別荘に4人(伊藤、伊東、井上、金子)が集まって作る。1886〜87年にはほぼ完成。1888年2月、ロエスレルの 意見で修正する。
憲法原案を審議するため、枢密院を設置する。元勲や練達の 人が集まり、伊藤はここで黒田に首相を譲り、枢密院議長として憲法草案を練った。

Q3 この間、民権運動家の側はどうしていたのか?

A3 1884年には自由党は解党し、1887年には大同団結運動が起きていたが、保安条例で抑えられていた。後退していて意見を出せなかったため、「臣 民の権利」しか認めらないことになる。

B 政 治主導権の確保

・作成側は、明治14年の政変の印象から、体制維持に向けての盤石の布陣をする。
・民権側は国会を通じて政府の政策に待ったをかけるはず。それを切り抜ける方策を立てた。

 1 天 皇権力確立
    軍人勅諭、

・何かの時に手足となる軍人をしっかり把握しておく必要がある。
・1878年、西南戦争の論功行賞の遅れや給料の減額で軍人に不満が拡大。近衛砲兵一大隊260名が反乱を起こす。すぐに鎮圧され、53人が死刑。竹橋事件という。
・軍隊が民権運動と結んで反政府組織になるとまずい。1882年に「軍人勅 諭」を出す。天皇は軍の大元帥であり、軍人は政治に関わらず天皇への忠節が本分。義は山よりも重く、死は鳥の羽よりも軽いとする。軍人には 暗記させた。

Q4 政府は軍備の拡張をしたいと考える。このことで国会と政府の間でもめるとすれ ば、まずは何が考えられるのか?

A4 予算である。軍備に廻すのか、国民の福利のために使うのか、減税をするのか。国会の手で軍事予算が減らされてもよいような手だてを講じた。

    皇室財産強化、

皇室 財産を増やし、いざというときの支出をその収入でまかなうことにした。収入の多い官有地を御料地に組み入れてゆく。官有地であれば国会に よって使い道が問われる。これを天皇の名義に書き換えれば好きに使える。天皇の領地は82年=1000町、86年=31000町、89年=113万町、 90年=365万町とうなぎ登り。日本最大の寄生地主となる。これで宮内省官僚を養い、各種式典、功労金に充てる。

    枢密院(諮問機関)設置

いざ というときは、天皇が国会に代わって勅令の形で法律を出せるような手はずを講じることにした。そのために、天皇の最高諮問機関として枢密院を作る。最初は 憲法の諮問機関としてスタートしたが、憲法発布後も残る。
・内閣・議会の外に置かれ、元勲という維新の功労者がメンバーになる。政党内閣ができても手の届かない天皇大権を守る憲法外的機関だった。

Q5 国会と政府が対立したとき、政府や天皇の味方になる勢力が欲しい。どうするか?

A5 二院制にして貴族院を作るのがよい。そのためには政府の味方になってくれる特権階級を確定する必要がある。

 2 上 院の準備
    華族令=公・侯・伯・子・男爵の特権階級作る

国会 は二院制とし、国民の代表である衆議院と対抗できる貴族院のもとを作ることにした。皇族と華族で作ることとし、国民の議会に対抗する。
・このために華族令を出す。公爵11、侯爵24、伯爵76、子爵323、男 爵74。508人。100人が新華族であり、その半分が薩長である。30歳以上の公爵、侯爵は全員。伯爵以下は互選で議員となる。政府に よって特権を与えられたため、政府の言いなりになる。

 3 地 方政治での民権派締め出し
    市制・町村制(1888)、府県制・郡制(1890)

・三新法体制が作られたことで、府県会や区町村会が民権運動の基盤となっていた。このため、府県会規則を廃止して市 制・町村制、府県制・郡制に改定し、新しい地方議会制度を導入する。地方人民と国会の間に「中間緩衝装置」としての地方議会を置こうとした。
・市会は25歳以上男子で2円以上納税者が選挙。市会で市長候補を3人出し、内務大臣が決める。
・町村会も同じで、町村長は町村会で互選された。郡会議員は町村会で互選されるものと大地主の中で互選されるものの二本立て。
・府県知事は内務大臣が任命し、郡長は府県知事が任命したもので、いずれも官選の天下りである。府県会議員は市会、郡会で互選された。
議員の直接選挙は市町村までで、その上は間接選挙としているところがミソである。間接選挙に すれば、「老成着実の人士」が地方議会に出て、やがて代議士になれば、国会運営はスムーズに行く。but実際には「民権派豪農議員」が多く 選出される。
・市町村までの直接選挙も等級選挙制がとられた。市では1級〜3級選挙人が級ごとに議員定数の3分の1を選挙。1級の者の方が1票の重みが大きい。このた め資産家の意見が反映されやすかった。

 4 内 閣制度発足 1885

・太政官制では太政大臣、左大臣、右大臣がトップ。その下に参議が置かれ、さらに下に 大臣に当たる卿がいた。卿は各省を率いている。
天皇に政治責任を持つことになっていたのは皇族・華族の太政大臣、左大 臣、右大臣だけ。実権を持っていた参議は、仕組みの上では三大臣を補佐するだけ。参議が天皇に直結していないのが問題。
・内閣制にしたことでの改善点=三大臣をやめた。参議と従来の卿とを合わせ、各省の大臣とした。太政大臣の三条は内大臣に祭り上げ、天皇・国璽の保管をさせる。政党内閣ができても天 皇への国政助言を理由に判を押さないことで、最後の砦になる。
宮中と府中の分離=宮内省を作り、宮廷のことを扱わせた。憲法に拘束され ない皇室典範を作った。

Q6 このメリットは何か?

A6 天皇が政争の外に置かれることになる。

    初 代首相伊藤博文(天皇の大命降下)
     =薩長藩閥内閣の形成 cf)大臣9人中7人

・長州出身者3人、薩摩出身者4人。土佐(谷干城)と幕臣(榎本武揚)が一人ずつ。

B 大 日本帝国憲法 1889,2,11発布

Q7 2月11日は何の日か?。この日に出した理由は何か?。

A7 紀元節であり、神武天皇が即位して日本ができた日とされる。この日に発布したのは、憲法に定めた君主である天皇の権限の根拠が、「万世一系」という神話 に基づいているからである。天皇家は神武以来の日本の統治者 であり、明治天皇はその後継者として立憲国家を作るという立場から、紀元節の憲法発布は絶対必 要であった。近代天皇制は、権威の源泉を神話に求めるという宗教性が特徴。

・長州閥の伊藤は、憲法発布の時の首相を薩摩閥の黒田にすることで花を持たせた。黒田 は酒乱で伊藤にのけ者にされて暴れていた。この後も「イクヤマイマイ」でバランスをとる。
・式典宮中正殿で実施(この日に合わせて6年かけて建設。400万円。鹿鳴館は18万円)。天皇→黒田首相に憲法授ける。10分で終わる。(多くの皮肉= 黒田は憲法に反対。天皇は黒田が大嫌い=酒乱、妻殺し、不貞の若妻)→初めて内容がわかる。
・ベルツの日記「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語を絶した騒ぎを演じている。いたるところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが 滑稽なことに、だれも憲法の内容をご存じないのだ」。

  主権在君の欽定憲法

  天皇(神聖不可侵)−(総攬)−貴族院(華族、勅選議員など)<協賛>「立法」
   緊急勅令          衆議院(一般選挙)
   天皇大権          内閣(>議会)       <輔弼>「行政」
 (宣戦・講和・
条約締結)    裁判所           <代行>「立法」
            (諮問) 枢密院(>議会)
            (統帥) 陸海軍           (統帥権の独立)

<特色>

 権力は多元的=天皇の名の下での 専制可能

天皇 大権=法律認可権(拒否権)、解散権、統帥権など。実際には行使しなかった。立憲君主制であればこれは当然。したがって、天皇の配下の者が天皇の名で政治をおこない、時には専制的な色彩を帯びていた。

Q7 現在は国会、内閣、裁判所はどういう関係にあるか?

A7 互いにけん制し合う関係である。国会は内閣に対して不信任決議を出し、裁判所に対して弾劾裁判をおこなう。内閣は国会に対して解散権を持ち、裁判官 を指名する。裁判所は国会に対して違憲立法審査権を持ち、内閣に対して行政審査をする。互いに抑制し合う。

・明治憲法の体制はこういうシステムではなく、国会や内閣、裁判所は個々に天皇に対して責任を持つのであり、この三権が互いに関連し 合うことはない。このため、その時々の力関係で声のでかい者が天皇の名をかたって政治をおこなうことになる。
・互いに関係を持たせると、国会によって政治がおこなわれる可能性が出てくる。これを警戒したものであった。内閣の中では、国務大臣も天皇に対して責任を 持ち、首相の言うことに従う義務はなかった。首相と国務大臣が連帯責任を持つと。ひいては国会と内閣が連帯責任を持つ議院内閣制に移行する恐れがあり、井 上毅がこれを防ぐために手を入れたという。
当時の政治権力者が、自分たちで政治を動かすのに都合がよいように作った 政治体制である。彼等は横の連携を取り、傑出した伊藤博文や山県有朋のような人物がいる限り、国家の政治姿勢が揺らぐことはなかった。しか し、その世代が退くと小者ばかりになり、互いに勢力争いを始め、日本の政治 は一貫性がなくなってゆく。
・憲法外的機関があるのも問題。天皇や元老は全く私的な存在。準憲法外的機関としては内大臣、軍部(統帥権の独立)、枢密院、内閣(∵大命降下で選ばれる から)がある。憲法的機関は議会(貴族院、衆議院)、裁判所ぐらいだった。

 国民の意志の反映不可能
  議員選挙権=満25歳以上の男子、国税15円以上(国民の1.1%=大地主)

・立憲体制は恣意的な政治の抑制のためにあるはず。しかし、衆議院しか国民の意見を反映できない。それも50万人の金持ちのみだった。
有権者は直接国税15円以上納付者で、これは地価600円 以上の土地を持つ者。または所得税納付者でもよいが、これによって選挙ができたのは全体の2.97%に過ぎない。したがって、ほとんどが地主ということに なる。岩手県では4.5町、大阪で9反の土地持ち。

 基本的人権なし(法律の範囲内での権利)

・基本的人権は何人もこれを侵せないはず。明治憲法では、法律の範囲内でしか認めず、それも臣民の権利とされていた。
・こうして見ると、大した憲法ではないように見える。しかし、アジアで憲法を持っていたのは日本とトルコだけ。東アジアでは初めてであり、トルコはじきに 憲法を停止している。立憲国家となったのは重要。

   cf)六法体系の整備
     民法=ボアソナード(仏)による民主主義的民法

・憲法ができるとその他の法律も整備できる。国民生活に影響を与える点で民法が大切。
民法はフランス人の御雇い外国人、ボアソナードが原案を作る。家族個人の 財産所有権、結婚、居住の自由を認めた。植木なども長子単独相続を批判し、均分相続にすべきとしていた。

     →民法典論争(穂積八束「民法出デテ忠孝亡ブ」)で実施されず

・ボアソナードの民法は1890年に出る。これに対して穂積八束が日本の道徳規範を揺るがすものとして反対。子供が親の、妻が 夫の言うことを聞かなくなると危惧した。梅謙次郎は抵抗するが施行は延期される。

      =戸主権強い男尊女卑の民法へ

・1898年、民法は出し直しとなり、親の権利、夫の権利の強い民法になる。子どもが親の言いなりであったことを示すのは結婚年齢である。

Q8 今は結婚が許されるのは何歳か?。親の同意がなく結婚できるのは何歳か?。

A8 男18歳、女16歳。同意を必要としないのは20歳である。

・明治民法では30歳までは親の同意がないと結婚できなかった。30歳まで待っていた ら結婚できなくなってしまう。適齢期は女子は二十歳前、男子で25歳前だった。
・このため、恋愛よりも見合結婚が多くなる。見合結婚が普通になるのはこの民法が出たからであり、それまでは娘遊びというグループ交際など恋愛結婚が多 かった。
・当時の見合はまさに見るだけ。薄暗いところで夜おこなう。若者が娘の親と話をし、娘はお茶を出しにゆくだけ。もっと顔が見たいときはお代わりをする。そ の後はデートもせず、式となる。当日見た人物と違うこともあった。
女子に財産権はないし、離婚しても親権はなかった。
・幻の童謡詩人とされる金子みすずは親権の問題で自殺している。
・父親が早くに死去。母が大きな本屋の社長と再婚。本屋の店番をしながら童謡を作る。跡継がしっかりするまでの間、番頭に店を任せるために政略結婚。23 歳。夫は女遊びが盛んなため、離婚させようということになるが妊娠していたため見送る。夫は本屋をクビになって仕事を転々。遊郭通いの夫から淋病をうつさ れて寝込むようになり、金にならないとして童謡作りも禁止される。
・26歳で子供を引き取ることを条件に離婚。養育費や慰謝料なども当然なし。夫は親権を盾に子供を連れに来ようとして手紙を書いてくる。子供を取られる前 日、写真屋で最後の写真を撮り、桜餅を買ってみんなで食べ、その晩に睡眠薬で自殺。子供は夫には渡さない。叔父のところで育ててほしいという遺書があり、 子供はその通りになる。
・あと10年生きていたらすごい詩人になっていたという説。昭和初期には婦人解放運動も盛ん。しかし、女性の自立を目指して戦うような人ではなく、「かわ いそう」な人。だから弱い者へ目を向けることができたとも言える。
・お魚はその代表作。「海の魚はかわいそう/お米は人に作られる/牛は牧場で飼われてる/鯉もお池で麩をもらう/けれども海のお魚は/なんにも世話になら ないし/いたずら一つしないのに/こうして私に食べられる/ほんとに魚はかわいそう」。

[初期議会]
 超然主義(議会無視)で臨む(黒田首相)
  but第1回総選挙(山県内閣)で民党過半数

・最初の選挙は1890年7月1日〜3日。257選挙区。定数300。一選挙区の定員 1〜2名。45万有権者。投票率93.9%(現在までの最高記録)。記名投票(住所氏名を書いて実印を押す)。1000票取れば当選。士族109人、平民 191人。3分の1は10町以上の寄生地主。
・有権者は都市に少なかったため、京都1区では27票で当選。滋賀3区では3085票でも落選。
・選挙結果は民党(自由党130、改進党41)、吏党(大成会79)、他50。政府側は全部足しても129議席。300人中171人が民党なので国会運営はたいへんとなった。

   →政府VS民党(軍備増強VS民力休養)
    =予算審議権を武器に政府と対立

・藩閥と民党との対立が激しい。この対立は、政府側の予想を上回っていた。明治天皇 「議会開設が早すぎたのではないか」。日常生活も変わるほど。
衆議院には政府財源としての地主への配慮から予算の先議権があり、これを 武器として対立している。
・衆議院の権限は大きくないため、対立しても民党が政権を奪うことはできない。対立は政治の停滞を招く。

・第1議会(1890年11月)の冒頭、山県有朋首相は主権線(領土)のみならず、利益線(朝鮮)防衛のために軍備拡大を主張 した。
・これに対し、民党は90年が大凶作だったため、「民力休養」を主張して 8300万円の予算中、軍事費800万円を削る。予算を通せない山県は窮地に立たされる。しかし、議会解散はまずい(全世界から注目される 第1議会)。
・後藤、陸奥を使って自由党の土佐派を買収して予算を通すことにする。植木は買収に応じ汚点を残し、中江は「無血虫の陳列場」といって議員を辞職した。
・第2議会(1891年11月)でも民党は予算委員会で軍事費892万円を削る。首相は松方正義。松方は土佐派の買収に失敗する。樺山資紀(海相)は「日 本をここまで繁栄させたのは薩長藩閥だ」という蛮勇演説をおこない、かえって民党の反発を招いて解散となる。

    cf)第2回総選挙・・・品川弥二郎の選挙干渉

・第2回総選挙では、政府は絶対に民党に勝たせたくない。品川弥二郎(内相)は選挙干渉をおこなうことにした。警官が有権者脅す もので、天皇が解散した民党議員を選ぶのは不忠、警官の言うことを聞かないと強盗があっても関知しないと脅した。この選挙中、死者25人、重傷者388人 を出す。立候補者は水盃をかわして決死の覚悟で選挙戦を戦った。
・尾崎行雄は、選挙演説に行っても宿に泊まることは拒否され、やっと泊まることができたところでは、夜中に天井から槍が降ってきたと述懐している。
・選挙結果は自由党94、改進党38で民党は過半数をとれず。しかし、政府側も137議席で過半数に達せず。実際には民党側は中立派を取り込んで160〜 70人の勢力となる。

・第3議会(1892.5)には当選者が包帯・松葉杖で登院。選挙干渉の責任を追及さ れ、松方内閣不信任決議が出されたことで松方内閣は総辞職した。
・第4議会(1892.11)は伊藤博文が背水の陣を敷き、元勲内閣を組閣して臨んだ。星亨が議長で、民党が海軍拡張費を削ったため、政府によって停会と される。国会は停会明けに内閣弾劾を天皇に「上奏」した。しかし、伊藤は天皇の「詔勅」で予算を通す。天皇は30万円を6年間下付するので協調すべしと国 会に命じている。
・困ったときには「上奏」「詔勅」で天皇にお出まし願っていることに注意したい。
・第5(1893.11)〜6議会(1894.5)は日清戦争が近づくにつれて国権論が台頭し、歩み寄りが生じるようになる。自由党の政府接近、藩閥の政 党接近が生じ、日清戦争が近づいたことで軍事費をめぐる対立は消滅する。しばらくは条約改正問題が対立の柱となり、列強に対して強硬に改正を求める「対外 硬」が民党の主張となった。これが甲午農民戦争勃発で「対外清」に転換し、日清戦争を迎える。


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