<松方財政と民権運動の収束>
[松方財政]1881〜
  新政府の不換紙幣乱発→超インフレ(地租の実収入の目減り)

・不換紙幣の乱発がインフレを招いたので、何とかしようというのが松方財政。

Q1 不換紙幣とは何か? 貨幣の歴史とはどういうものか?

A1 金銀と交換できない紙幣のこと。物々交換→物品貨幣→秤量貨幣→定位貨幣→兌換紙幣。しかし、裏付けとなる金銀がないと不換紙幣を出して一時しのぎ をする。政府がつぶれればただの紙。 大量に出せば信用・価値を失い、インフレが起きる。みんなが1億円ずつもらって店に殺到すれば、品物の数は限られているので、店側では値段を吊り上げる。

・不換紙幣の乱発でインフレ=1877年、米1石は5円。1881年には米1石が15 円で3倍になる。

Q2 どうして不換紙幣を乱発したのか?

A2 背景は西南戦争の戦費である。4156万円。当時の税収は6500万円。不換紙幣発行でまかなった。発行紙幣は1億5300万円であるが、正貨準備 は700万円しかない。

A 財 政再建の実施

・大隈財政=イギリスから5000万ポンドの外債募集案。イギリスは喜んで貸すとい う。借金で危機を乗り切る。この金で産業を興して貿易で儲かれば返済できる。

Q3 しかし払えなければどうなるか?

A3 エジプトは25億フランの外債の利子が払えず。スエズをとられる。チュニジアは英仏伊がどんどん金を貸したが、返せないためにフランスに併合され る。

・岩倉の案=物価上昇にスライドする税制にすればよい。定額地租だから目減りをする。 元の米納に戻す。

Q4 岩倉案の問題は何か?

A4 せっかくの改革は何だったのか。地主を敵にまわすことになる。

   松方正義大蔵卿による

Q5 インフレを押さえ込むにはどうするのか?

A5 通貨量を減らすことである。

Q6 どうやって通貨量を減らすのか? ターゲットを絞って税金を集めれば反乱の可能 性がある。広く薄く集めるにはどうするのか?

A6 インフレを抑えるには通貨量を減らす。増税して紙幣を回収し、支出を抑え、政府の有形財産を処分して金を稼ぐ。地租を上げれば地主を敵に回す。特定 の人間をねらい撃ちにした増税はできない。広く薄くとるのは消費税しかない。

   間接消費税の大増税

間接 消費税の大増税=醤油税、菓子税、酒造税、煙草税など、広く薄くとることを考える。酒税は1875年に250万円の収入。1884年には 1400万円となり、5〜6倍になる。贅沢品からとるので目立った反対はないが、金を使わなくなるのでデフレが起きる。

   支出削減、官営事業払下げ

・富岡製糸は31万円で整備した。三井に12万円で売却。院内・阿仁鉱山は古河、兵庫 造船は川崎、長崎造船は三菱など、いずれも破格の値段で払い下げている。唯一、整備費より高い値段で払い下げたのは三池炭鉱。日本最良で入札になり、三井 が落とした。整備費の6倍。

  ∴不換紙幣の整理実現

・回収した紙幣は焼却し、一方では銀を買ってゆく。1886年、発行紙幣は9700万 円、正貨準備は4200万円になる。

  →日 本銀行設立(1882)
    銀兌換の日銀券発行(銀本位制確立)

1882 年、国立銀行の発券権を奪って日本銀行設立。発券銀行とする。1885年に銀兌換の日銀券を発行し、翌年から兌換開始=銀本位制。銀と交換 してもらえるので紙幣の価値は常に一定。インフレ収束。
・紙幣の図案は大黒天。当時は日本武尊、武内宿弥、藤原鎌足、和気清麻呂、聖徳太子、坂上田村麻呂、菅原道真など、天皇家にゆかりの人物。

B 松方財政の影響
 1 インフレの収束=政府財政の好転

・インフレが収束し、財閥形成。

 2 政商への払下げ→財閥の形成(資本主義の主導者)
 3 デフレによる農産物価格の下落=農村不況

デフ レで農産物価格が暴落。1884年は、米価は3分の1に落ちる。自作農は21万軒が破産。100万人が没落する。1885年、自殺者は 7282人。

    →自作農の没落

・当時の農村の窮状を知り、民俗学をうち立てたのが柳田国男。「山の人生」=西美濃の 炭焼きの父。もらってきた子供2人と暮らす。炭が売れずに帰ってきて、食べ物もなくてふて寝。起きると夕日が小屋に射し込み、子供が斧を研いでいる。「こ れでひと思いに殺してくれ」。丸太に首をのせて横たわり、父親はふらふらとして首をはねる。つかまって裁判。柳田はその裁判記録から、山の人の暮らしの厳 しさを綴る。
・柳田は農商務省の役人として農村を視察。茨城県のある村で、松方財政の時期に生まれた子供の少ないことを知る。男女いずれかの一人っ子。間引きをしてい る=障子紙で窒息させるか押しつぶす。
・今までの歴史は貧しい人たちに光を当てず、権力を持つ人の歴史。貧しい人は文字を残さないので、この歴史を聞き書きによって組み立てようとした。

     小作化、土地の集積(寄生地主制発展)

寄生 地主制の進展=1873年の小作地率は27.4%。1887年には39.5%になる。
1000町地主の出現=新潟の伊藤家。明治初年には100 町を持つだけ。1903年に1214町になる。1877〜81年の5年間では30町増やしただけ。82〜86の5年で193町増やし、87〜91の5年で 251町増やす→松方財政期に没落する自作が多かったことを示す。

     賃労働者化(資本主義の労働源)
  ∴政府への不満拡大→民権運動への合流

[民権運動3期](貧農民権) 1882〜84

・1882年4月6日、午後6時。岐阜県下の演説会後、懇親会を終えて外に出たところ で知多の小学校教員に短刀で胸を刺される。いずれも2センチ以内の傷。「板垣死すとも自由は死せず」。
・各地の自由党員が100人単位で刀、鉄砲を持って駆けつける。後藤は岐阜で板垣を弔う演説をすると主張。傷は浅く、天皇は板垣慰問の使いを送って鎮静化 図る。
・板垣が死んでいたら国民的英雄となり、政府は自由民権運動を抑えられなくなった。

A 自 由党の分裂
 右派・・・政府の切り崩し工作で幹部、地主の軟化
  cf)板垣の洋行

・山県有朋が主導。板垣を洋行させ、自由党に内紛を起こさせる。自由党と改進党の連携を防 ぐ。金の出所は三井。板垣は洋行したことがなく、どうしても行きたい。幹部は大反対するが出かける。
・改進党は汚い金をもらって出かけたといって自由党攻撃。自由党は改進党こそ三菱のひも付きとしてやり返す。手を結ばないといけない自由、改進が喧嘩を し、政府にとっては思うつぼ。
幹部は国会ができるので運動から距離を置く。1883年、 板垣は帰国。あこがれの自由の国・フランスは世紀末で頽廃。それを見て幻滅し、自由党解党を言い出す。

 左派・・・松方財政による困窮で士族、貧農の過激化

・没落する農民が合流し、これを何とかしなくてはいけないと、左派が結成。大井憲太郎 が中心。中には幹部を見放して過激化し、政府攻撃の決死隊を作るものも出る。

B 左 派の武力抗争
 1 福島事件 1882
    県令三島通庸の圧政に河野広中が対抗、鎮圧される

・1882年、三島通庸が福島県令として着任。薩摩隼人。「火付け強盗と自由党は一匹 も置かない」。県令は中央から派遣。実績を残して出世し、内務官僚になってゆく。三島は「土木県令」とされ、土木工事でアピール。
・福島県会の議長は河野広中。自由党県会議員は20人で多数。
・三島は着任早々に会津に三方道路(会津から山県、新潟、東京に伸びる)を 作ると主張。15〜60歳の男女は2年間、毎月1日に道路建設に出る。出られなければ代夫賃。地方税は2倍半。
河野はこれに県会で抵抗。全ての議案を否決。7月から自由 党主体の抵抗運動が始まる。
・県会は諮問機関であるため、県令は無視してもかまわない。農民が工事に出ず、代夫賃も出さなかった場合、家を差し押さえて公売。裁判に訴えようとした自 由党員が逮捕。
・11月28日、3000人が弾正が原に集まり、釈放を警察に訴えようとし たところ、凶徒集合罪で鎮圧。河野はこの指導者ではなく、武装蜂起には反対だったが、糸を引いていたとして禁錮7年。

 2 高田、群馬、加波山事件 1883〜84
    政府高官暗殺計画→検挙

高田 事件=1883年3月、政府が北越自由党偵察のためにスパイを差し向ける。大臣暗殺事件があると密告し、自由党員を検挙。でっちあげであ り、自由党弾圧に利用。自由党はこれで過激化。
群馬事件=1884年5月、群馬自由党員が高崎線開通式に集まる大臣を暗殺しようと計画。政府は事 前に察して中止したため、3000人の農民を指導し、高利貸しや警察署を襲撃させる。食料欠乏と疲労で離散。主謀者は逮捕。
加波山事件=福島事件で三島が自由党に対して弾圧をしたた め、福島自由党員はこの暗殺を企てた。茨城、栃木の自由党員と連絡。爆弾を 開発して政府高官を吹き飛ばし、挙兵して政府転覆を図ろうとした。実験中に爆弾が破裂し、事が露見。1884年9月23日、政府の追及が来 る前に加波山に爆弾を持って立て篭もり、「革命挙兵」の檄を飛ばす。16人しかいなかったが、政府側は大軍と見て遠巻きにするだけ。脱出して宇都宮の栃木 県庁襲撃を目指す。三島が県令になっていた。宇都宮目前で雇った人足が運んでいた箱の中が爆弾と知って捨て、警官隊と衝突したときには爆弾がない。斬り合 いとなって逃げるが逮捕。死刑7人。

    =自由党解散(1884)

・板垣は、10月、自由党を解散する。
・左派の激化事件には、他に飯田事件、名古屋事件、静岡事件など。いずれも大臣を暗殺しようとする激化事件である。

 3 秩 父事件 1884
    没落農民が困民党結成

Q7 秩父はどういうところか? 幕末以来の生業は何か?

A7 秩父は90%が養蚕農家。投資をして繭にかけていた。

・蚕は春蚕が一番儲かる。しかし、梅雨時に温度調節が難しい。換気が出きる家にする必 要。屋根を切り開いた兜作り。桑もたくさん植える必要。年利20%の高利貸 しから借金をして養蚕に着手する農家が多かった。
・松方財政で繭価暴落。1882年には1斤が7円92銭だったものが、83年には3円88銭と半値。借金を返せないものが続出。
高岸善吉、落合寅市は困民党(借金党)を結成し、高利貸しに対して借金返 済の猶予、減額を求める運動を起こす。

    →借金減免を要求し蜂起、鎮圧される

・1884年2月、大井憲太郎が遊説。デフレは政府の政策によってもたらされたとし、国政を変える必要を 演説。高岸と落合は自由党に入る。
・博徒の親分・田代栄助を頭領にして大宮警察に請願。借金返済の10年据え 置き。村費の減免を願う。これに失敗し、1884年10月31日、蜂起を決める。8000人が椋神社に集まり、大宮郷を襲う。警察を占拠して郡役所を奪う。こ こに「革命軍本部」の看板を出す。
・秩父事件は暴動ではなく、政策を掲げた革命であり、パリコミューンの日本版という評価もある。パリコミューンは、1871年3月から2ヶ月間、労働者が パリを占拠して革命政府を作ったもの。
軍隊が投入されて秩父は9日足らずで屈服。田代、高岸、落 合ら7人は死刑。3000人以上が罰せられる。

  ※民権運動の挫折

   cf)民権運動の復活=大同団結運動(1886、各派の連合)

・1886年暮れ、解散していた自由党系の有志が懇談し、「小異を捨てて大同につこ う」と主張し、運動が再開。

     →三大事件建白運動に集約(1887)
      (地租軽減、言論の自由、不平等条約改正)(星亨、後藤)

・1886年10月、ノルマントン号事件が起き、翌年には井上馨の条約改正交渉が問題となって三大事件建白 運動が発生=片岡健吉が言論の自由、地租軽減、外交の回復を 建白する。大同団結と三大事件建白が合わさってゆく。尾崎行雄、星亨たちの活躍。
・1887年10月には丁亥倶楽部を作った後藤象二郎が合流して運動の中心 になった。

     but保安条例で弾圧

・1887年12月、政府は突然に保安条例を出して弾圧。星、中江、尾崎らの運動家570人を、内乱を起こす恐れある 者、治安を乱す恐れある者として皇居外3里以遠に追放。3年間は戻れず。
・後藤は買収されて引っこ抜かれ、最終的には黒田内閣の逓信大臣に迎えられる。尾崎愕堂の号。

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