<民権運動の拡大>
[民権運動2期]
(豪農民権) 1878〜81
A 愛国社の活動

・板垣は大阪会議のあと参議に戻るが、すぐに下野する。
・立志社の活動は続き、西南戦争の間に天皇に立志社建白を出し、自由民権の大切さを訴える。西南戦争の時期に植木枝盛は30回近い演説会を開き、着実に支 持者を増やし、ルソーの「民約論」が盛んに読まれるようになる。
1878年9月に愛国社が再興される。民権運動家が集まる が西日本中心。遊説をおこない、民権運動を復活させる。
・1879年3月、第2回大会が開かれるが、やはり西日本中心。士族の運動家80人という規模。
・1879年11月、第3回大会。東日本の代表が参加する。福島の河野広中が代表格で、これによって愛国社の活動は全国に拡大するようになった。

Q1 自由民権運動が国民運動になるためには、どのような勢力が加わることが大切か?  地方で実力を持っている層は誰か? 地租の負担者でもある。

A1 地主である。地租納入者なので、政府も意見を聞かざるを得ない。

   府県会の開設で豪農が政治に参加

・地租改正での反対運動は豪農が中心。自分たちの生活に直結する地方政治には関心が高 かった。
・公共事業や地方警察制度の充実など、地方政治のためには彼らを財源せざるを得ない。彼らを手なずけるには、ある程度言うことを聞いてやる必要。豪農を地方政治に参加させ、その代わりに地方税の負担を強いようとした。

    cf)三新法の制定
     (郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)(1878)

・明治政府は当初、古い江戸時代の村の仕組みをこわした方が反抗を防ぎ、統治しやすい と考えた→1872年に大区・小区制。いくつかの村を集めて 大区を作り、ここに区長を置く。その中を小区に分けて戸長を置く。それぞれ番号で表記し、第1大区、第3小区のように表す。意図的に機械的に表現。
・大区、小区制は実態にあわず機能せず。長年親しんだ村の区切りの方がやはりよかった。三新法を出して改正した。
郡区町村編制法=地方自治の単位を定め、元の郡制に戻した。 都市には区を置いた。
府県会規則=1878年に制定。1872年頃から、地方の 判断で府県会を設置するところが出ていた。区長や戸長を議員とする。しかし、民権運動がおきると公選にすべきという声が強くなり、知事の諮問機関として府県会を作った。選挙権は20歳以上、地租5円以上納付者。被選 挙権は25歳以上、地租10円以上納付者
地方税規則=地租の5分の1以内の付加税をとり、地方財源にあてるもの
・三新法はアメとムチの政策。豪農は地方税規則は一方的に国が決めてきたもの。地方の生活を向上させるには、地方の政治だけでなく、国政に目を向ける必要があること を豪農が自覚していった

   =豪 農、士族、産業資本家を含む国民運動に組織(各地で政社結成)

・政社の結成ブームが起き、1874〜84年までに1275社が作られる。

Q2 多くの人に国会開設の必要性を訴えるための方策は何か?

A2 演説会と新聞である。

演説 会ブームが 起き、1880年の1年間、東京の民権家が関東でおこなった演説会は259回。植木枝盛は1カ所の演説会に3日間、5回出演し、客は500〜800人集ま る。板垣が大阪夷座で演説をしたときは5000人分のチケットが売り切れ。聴衆の反応で中身も変わるパフォーマンスだった。
・時代は下がるが、自由党壮士となった川上音次郎は、時局を諷刺した歌に仕立て、オッペケペ節として演説がわりに演じている。
新聞ブームも起きた。大新聞は社説を載せて政治を動かす。 小新聞は三面記事中心でフリガナ付き。

Q3 日本の三大紙は何か?

A3 「朝日」「毎日「読売」。このうち「朝日」「読売」は小新聞、「毎日」は大新聞としてスタートした。

「東 京日日」1872年創刊。1874年に福地源一郎が入って政府系となる。「毎日」の前身。
「郵便報知」1872年創刊。福沢門下の尾崎行雄、犬養毅 らが入る。後に改進党機関紙になる。一時は年間に664万部を発行。太平洋戦争中に「読売新聞」に吸収され、「スポーツ報知」として名を残す。
「東京横浜毎日」も「郵便報知」と同じ改進党系。「朝野新聞」は1872年創刊で自由党系機関紙になる。1881年頃に 年間発行部数300万部。
・新聞は高い。「東京日日」で1部4銭。酒1升が11銭の時代(今は1500円くらいなので、新聞は1部500円の計算)。みんなでとって縦覧所で読むも の。

  →国 会期成同盟結成(1880)
    国会開設請願提出(8万7千人の代表)

・1880年、愛国社第4回全国大会。民権各社59団体、114人が大阪に集まる。国 会開設の請願をするため、草の根で同志を拡大していた。国会期成同盟を作 り、請願書名簿を作成。2府22県8万7千人分の署名を持って片岡健吉、河野広中が上京して提出。却下されたが、「個人の土地から税をとっ たのだから、それをどう使うかはとられた人に相談すべき」と応酬。
・1874年以後の請願数=31万9千人分。現在の人口にあてはめれば3000万人分の署名に当たる。

    but集会条例による弾圧で対立深まる

・請願、演説、新聞が民権派の運動の中心。新聞紙条例で新聞を弾圧し、発禁処分は46 件。
演説に対しては集会条例を出す。届出制、屋外禁止、制服警官派遣。 政府批判をして1回目は「弁士注意」。2回目は「解散」。弾圧されれば、「こういうことだから国会が必要なのだ」といって支持拡大。

B 明 治十四年の政変 1881

・この時期の政府の政治勢力=1877年、西郷は戦死。木戸は病死。1878年、大久 保は紀尾井坂の変で不平士族によって暗殺される。維新の三英傑は姿を消し、政治は第二世代の手に移る。
大久保の後継者は長州閥の伊藤博文で、国会は必要と考える。薩摩は黒田清 隆がいて国会開設には反対。肥前は大隈が唯一残り、バックに民権派の福沢がいるため国会即時開設を唱える。

 1 北海道開拓使官有物払下げ事件
    黒田清隆と政商五代友厚の癒着露見(藩閥の横暴)

北海 道開拓使が解散することとなり、官有物品を払い下げる動き。三菱が払い下げを希望するが拒否した。1881年7月、黒田は同じ薩摩閥の政商・五代友厚に払い下げようとする。条件は破格。 1400万円以上かけて揃えた官有物を38万円無利子30年賦で払い下げ。
・払い下げを拒否された三菱は大隈重信と結び、大隈は福沢諭吉とつながる。このため、三田系の「郵便報知」「東京横浜毎日」が払い下げの概要をすっぱ抜 き、キャンペーンを張る。「朝野新聞」が加わり、政府攻撃が拡大した。多額 の税金をかけた官有物品がただ同然で政治家の仲間に払い下げられようとしている。

    →大隈重信、民権派の政府攻撃(払下げ中止、大隈罷免)

・黒田は大隈が漏らしたとして対立する。
伊藤は抵抗できないと考えて払い下げを中止。黒田の顔を立てて大隈を罷免 した。

 2 国 会開設の詔
    10年後(1890)を約束する

・10月12日、10年後の国会開設を勅諭で約束する。民権派に譲歩したと見せ、10年 後という時間かせぎをしている。民権派の思い通りの国会としないために、この間に巻き返しをもくろむ。

 ※民 権運動の勝利

[民権思想の拡大]
A 政党の結成
 1 自由党板垣、後藤、片岡、河野広中、大井憲太郎)

・1881年、中江兆民(東洋自由新聞)、河野広中(東北有志会)、植木枝盛(立志 社)が結束して自由党を作る。板垣を総理に迎える
河野広中は会津藩の支藩・三春藩出身だが、戊辰戦争では藩 論を動かして官軍支持。官軍参謀の板垣を知る。1875年に福島で石陽社を作って東北自由民権運動の中心になる。14回連続当選。
大井憲太郎は左派の中心。長崎で洋学を学んで幕府の開成所 に入り、フランスの政治・法律を学ぶ。後に自由党の妥協的態度に飽きたらずに東洋自由党を作って普通選挙期成同盟、日本労働協会、小作条例調査会を作り、 社会運動の担い手となる。

    フランス流急進民主主義(主権在民、一院制)

Q4 一院制と二院制の違いは何か? 第二院はどのような勢力から代表を出そうという のか?

A4 特権階級である。二院制をとる場合は、国内に階層差のあることが前提となる。特権階級の存在を認めることになるため、二院制の方が現実妥協的とな る。

    士族、地主、農民(地方的→大衆への広がり)

 2 立 憲改進党大隈、犬養毅、尾崎行雄)

・1882年、立憲改進党は大隈と三田派によって結成
犬養毅は「郵便報知」記者から官界入り。大隈にしたがって 下野。衆議院17回連続当選。藩閥政治に反対して第一次護憲運動で活躍。昭和初期最後の政党内閣を組織。
尾崎行雄は「郵便報知」記者。衆議院25回連続当選の記 録。大隈内閣の文相の時に共和演説事件で辞職し、以後は東京市長となる。第一次護憲運動で先頭に立ち、戦時中は軍部批判をして不敬罪で逮捕。戦後、 1953年の選挙で落選したが、国会は名誉議員の称号を与える。「憲政の神様」とされ、演説の名手。応援演説の代わりに「尾崎の蓄音機」がもてはやされ る。

    イギリス流漸進民主主義(主権の君民合体、二院制)
    知識人、産業資本家(都市的)

・元老院(貴族院)、国会院を作るイギリス流を目指す三菱を中心とする資本家と結んだ。

 3 立 憲帝政党(福地源一郎)
    御用政党→神官、国学者

・政府の承認と支持の元に1882年結成。欽定憲法、制限選挙、主権在君の御用政党。翌年解散。

B 民 権思想の広まり
   植木枝盛「民権自由論」、中江兆民「民約訳解」

・「民権自由論」=政府は国民の自由、権利を守るもの。

Q4 中江兆民はなぜ「東洋のルソー」なのか? 著したものは何か?

A4 「民約訳解」はルソーの「民約論」の漢文訳であり、中国へも輸出されたためである。

・国家は国民のための政治を契約しているものであり、できなければつぶれる。中江兆民は土佐藩士でフランス留学。第1回選挙では財産制限のために立 候補できず。大阪市民が財産をカンパして立てる。東京に用足しに行っている間に選挙となり当選。国会に出るが議員のだらしなさに「無血虫の陳列場」といっ てやめてしまう。

C 私 擬憲法の発表

・45が確認されている。政府案をけん制するもの。政党の綱領はいい加減で、自由党は3章しかな い。「善良なる立憲政体を確立する」としか書いていないので、政党が目指すものは私擬憲法を見ないとわからない。

   改進党系=「私擬憲法案」交詢社

「私 擬憲法案」=福沢系の慶應義塾社交クラブの交詢社が、1881年4月から「交詢雑誌」「郵便報知」に発表。政党内閣、イギリス流、首相は天皇が任命、軍事・外交・行政・司法は天皇の権限と した。保守的。

   自由党系=「東洋大日本国国憲按」植木枝盛
        「日本憲法見込案」立志社

「東 洋大日本国国憲按」は1881年夏、植木枝盛が作る。220条のうちで35条は国民の自由や権利を謳っている。連邦制、主権在民、立法権は人民が握り、その範囲で君主が政治をする。 人民の自由を奪う政府に対しては兵器を使う抵抗権があるとし た。
「五日市憲法草案」は1968年に蔵の中から発見。204 条。基本的人権を唱え、36条を割いて言論・思想・宗教の自由を記す。これの元として、欧米の政治、法律の本も発見され、山の中の人たちでも自由民権に高 い関心を持っていたことの証明である。ここから、自由民権運動は限られた人 の運動ではなく、一種の民主主義革命の要素があると指摘できる。

    →天皇制認めつつ政府案けん制

・私擬憲法は、国民の新しい政治に対しての期待を示したもの。天皇をどう扱っている か。
・天皇を否定する共和制は0。多くは天皇を万世一系と理解。植木と立志社案は、天皇即位は国会が認定するものとしているが、否定していない。フランス流を 唱える一流の民権運動家も天皇制を容認。

      cf)民権運動期の地方巡幸で、天皇は国民に受容される

地方 巡幸は72年西日本、76年東北、78年北陸・東海、80年中央道、81年東北・北海道、85年山陽。76〜81年までは4回、235日を 費やす。民権期に頻繁におこない、運動の盛んな地方をねらい撃ち
・口ひげ、軍服の24歳。タレント並の人気で宿泊、行在所では2000円の金をかけて整備(庶民の年収70円の時代)。妻篭宿の例。
・天皇は生き神であった。天皇の歩いた砂を持ち去り、これを田に撒くと豊作と信じた。それが沿道の戸長を集めて声をかけ、功労者に金品を渡す。国民統合のシンボルになってゆく。天皇制の根強さ。

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