3 民権の拡大と立憲政体の樹立 <新政府への反動>

 明治政府の近代化政策は御一新に期待して倒幕を支持した民衆を裏切る結果となった。このため、徴兵令には(1)、税制改革には[2]という民衆反乱が起 きている。特に1876年の(2)では、鹿児島で勃発が予想された[3]との連動を恐れ、政府は地租を(4)%に引き下げている。1872年に導入された (5)による義務教育制に対しても、学費が高かったことで反対が起きた。また、武士は(6)による武装解除や秩禄処分に不満で、後には(7)など政府高官 を暗殺する事件を起こしている。
 一方、政府内では富国強兵を最優先する[7]の主流派と、士族の活用を主張する[8]の反主流派が対立していた。藩閥では前者は[9,10]藩、後者は [11,12]藩の者が多く、主流派が外遊している間に反主流派が実権を握った。彼らは士族を活用して朝鮮に開国を迫る[13]を展開し、その実行を決定 する。しかし、この動きは直前に主流派の岩倉具視によって抑えられ、反発した反主流派は下野することとなった。これが(13)政変である。下野したのは (8)の他[14〜17]らで、以後、反政府運動のリーダーとなってゆく。
 [18]は、国会開設によって政府の専制を抑止しようとする政治運動であり、下野した(14〜17)の手で始められた。彼らは(19)年、日本初の政党 である(20)を設立し、太政官の(21)に[22]を提出して国会開設を求めた。これが新聞「(23)」に掲載されて運動は一般に知られるようになる。 (11)に戻った(14)は[24]とともに政治結社[25]を設立して運動を拡大し、翌年には全国組織として[26]を作っている。政府の(7)は (14)と台湾出兵を非難して下野した木戸孝允との妥協を図るため[27]を開き、彼らが参議に復する代わりに[28]を出して将来の立憲体制の確立を約 した。こうして指導者を懐柔する一方、運動に対しては[29.30]を出して反政府の言論、出版を弾圧し、運動自体を押さえ込むことに成功した。このた め、言論による反政府運動に限界を感じた士族たちは、いわゆる[31]を激発させることになる。
 (19)年に起きた[32]は、(13)を支持する士族が(16)を指導者として起こしたものであり、(6)が出されて秩禄処分が完成する1876年に は、熊本の太田黒伴雄による(33)、福岡の宮崎車之助による(34)、長州藩閥の前参議(35)による(36)が起きている。いずれも倒幕に加担した西 南日本の士族が起こしたものであるが、小規模な挙兵であり、徴兵軍の手によって鎮圧された。
 一方、下野した後、鹿児島に戻った(8)は、軍事教育をおこなう(37)を設立して士族を集め、そのメンバーによって鹿児島県政を動かすようになった。 政府は士族王国として独自の路線をゆく鹿児島県と対立し、勃発したのが[38]年の(3)である。不平士族はこの戦いに結集し、(8)軍は4万の兵力を擁 して半年間を戦い、最大の(31)となった。しかし、この戦いに同じく政府に不満を持つ農民たちは呼応せず、(8)軍は敗れ去り、以後、武力反抗は終息し て(18)に合流することになる。

<解答>
(1)血税一揆 (2)地租改正反対一揆 (3)西南戦争 (4)2.5 (5)学制 (6)廃刀令 (7)大久保利通 (8)西郷隆盛 (9)薩摩  (10)長州 (11)土佐 (12)肥前 (13)征韓論 (14〜17)板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣 (18)自由民権運動 (19) 1874 (20)愛国公党 (21)左院 (22)民撰議院設立建白書 (23)日新真事誌 (24)片岡健吉 (25)立志社 (26)愛国社  (27)大阪会議 (28)漸次立憲政体樹立の詔 (29)新聞紙条例 (30)讒謗律 (31)不平士族の乱 (32)佐賀の乱 (33)神風連の乱  (34)秋月の乱
(35)前原一誠 (36)萩の乱 (37)私学校 (38)1877


<民権運動の拡大>

 参議に復した板垣退助は再び下野し、愛国社を復興して自由民権運動を再開した。この頃、政府は地方実力者の[1]層に地方政治への参加を認める代わりに 地方税負担を強いようとし、1878年にいわゆる(2)を制定している。中身は(3〜5)で、地方自治の単位を設定し、府県会を設置し、地方税徴収につい て定めたものであった。このため、負担増に反発するとともに地方政界で発言権を得た(1)層が国政に対しても目を向けるようになる。彼らが合流したことで 自由民権運動は全国的な国民運動となり、各地に政社が結成された。演説会と新聞を通じて国会開設の要求は高まり、1880年には[6]が結成され、8万人 以上の署名を集めた(7)が政府に出された。政府は[8]を出して警察力による集会の弾圧を図り、対立は激化した。
 1881年、役目を終えた北海道開拓使の解散に伴って起きたのが[9]である。薩摩閥の[10]が同郷の政商[11]に優先的かつ安価に払下げを図った ことが民権派から藩閥の横暴と非難され、政府内でも反主流派の[12]が異議を唱えた。このため、政府は払下げを中止して(12)を罷免し、政府攻撃をか わすために[13]を出し、[14]年の国会開設を約束せざるを得なかった。これは民権運動の勝利である。
 国会開設に備え、政党の結党が相次いだ。板垣退助を総理とする[15]は主権在民、議会制度は(16)という(17)流の急進民主主義を主張し、士族や (1)、農民の支持を得る地方的な政党であった。メンバーには後藤象二郎、片岡健吉の他、東北の自由民権運動を担った(18)、急進左派となる(19)が いた。(12)が結成した[20]は主権は君民合体、議会制度は(21)という(22)流漸進民主主義を目指し、知識人や(23)などの産業資本家を支持 基盤とする都市的な政党であった。一方、[24]は[25]を結党し、政府寄りの御用政党として神官や国学者に支持された。
 自由民権運動の拡大は、一般に民権思想を普及させることになった。[26]は「民権自由論」を著わして政府は国民の自由と権利を守るものと説き、[27]は「(28)」を著わしてルソーの「民約論」を紹介し「東洋のルソー」と称された。
 政府は憲法の制定に着手したが、民間でもその動きを牽制するために独自の憲法案が作成された。これを[29]と呼び、現在45本ほどが確認されている。 当時の政党は綱領などを整備していなかったことから、これらを見ることで各政党の主張を把握することができる。(20)系の政社・交詢社が作成した 「(30)」は、首相は天皇が任命し、軍事・外交・行政・司法などは天皇の権限としているのに対し、(15)系の(26)が作成した「(31)」や立志社 の「(32)」などには国民主権や抵抗権が記されている。東京の山間の人々が作った「(33)」でも基本的人権についての記述があり、この運動が一部の人 のものでなく、広範な広がりを持つ民主主義革命の要素があったことを指摘できる。しかし、これら(29)でも天皇制を否定する文言はなく、天皇は政府の思 惑通り国民に受容され、特に民権運動の時期に盛んにおこなわれた(34)を通じ、君主として定着していったことがうかがわれる。

<解答>
(1)豪農 (2)三新法 (3〜5)郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則 (6)国会期成同盟 (7)国会開設請願 (8)集会条例 (9)北海道 開拓使官有物払下げ事件 (10)黒田清隆 (11)五代友厚 (12)大隈重信 (13)国会開設の詔 (14)1890 (15)自由党 (16)一 院制 (17)フランス (18)河野広中 (19)大井憲太郎 (20)立憲改進党 (21)二院制 (22)イギリス (23)三菱 (24)福地源 一郎 (25)立憲帝政党 (26)植木枝盛 (27)中江兆民 (28)民約訳解 (29)私擬憲法 (30)私擬憲法案 (31)東洋大日本国国憲按  (32)日本憲法見込案 (33)五日市憲法草案 (34)地方巡幸


<松方財政と民権運動の収束>

 西南戦争の莫大な戦費をまかなうため、政府は不換紙幣を乱発し、超インフレを招いていた。物価上昇は定額の地租の実収入を目減りさせるものであり、財政 再建が急務となる。大蔵卿だった大隈重信は外債による財源補強、岩倉具視は地租の現物納を主張したが、これらはいずれも問題をはらむものであった。
 大隈失脚で新たに大蔵卿となった[1]は、支出削減と[2]の大増税、[3]の払下げによる財政の強化を図った。そして不換紙幣を整理する一方、銀を正 貨として蓄積し、1882年には国立銀行に代わる発券銀行として[4]を設立する。1885年には銀兌換券を発行して[5]制が確立され、貨幣の信用が確 保された。この一連の財政政策を松方財政と呼ぶ。
 松方財政は光と陰の部分を持っている。この結果、インフレは終息して政府財政は好転し、(3)の払下げを受けた政商はやがて財閥を形成して日本資本主義 の牽引役となってゆく。しかし、デフレの進行で農産物価格は大幅に下落し、農村は不況に見舞われることになった。このため、多くの自作農が没落し、土地を 失って小作になったり、賃労働者化して資本主義の労働源となってゆき、一方ではこれらの者の土地を集積した地主の寄生地主化の動きが顕著であった。松方財 政は貧しい者の犠牲の上に成し遂げられた財政再建であり、貧富差は拡大し、没落農民の政府に対する不満は高まった。やがて彼らは自由民権運動に合流するの である。
 政府は民権運動を抑えるため、その中心であった自由党の切り崩しを図った。総理の板垣に洋行費用を与えて渡仏させ、幹部や地主が懐柔されたため、松方財 政で困窮する士族や貧農は幹部の統制を離れて左派を構成し、過激化していった。1882年の[6]事件は、不況下にも関わらず、土木工事を強行しようとし た県令[7]に対し、抵抗した県会議長の[8]が弾圧されたものである。新潟県で自由党員が大臣暗殺を企てたとして検挙される(9)事件が起きると、自由 党左派は実際に政府高官の暗殺を計画し、1884年には北関東で(10)事件、(11)事件が相次いだ。こうした中、左派を統御できなくなった板垣は自由 党を解散してしまう。これらの出来事は松方デフレで打撃の大きかった養蚕地帯で起きたものであるが、埼玉県西部では没落した養蚕農家が(12)を結成し、 高利貸しに対して借金の減免を要求していた。遊説に訪れた大井憲太郎の勧めもあり、(12)の指導者たちは自由党に入党して請願運動を展開したが受け入れ られず、最終的には武装蜂起をおこなった。これが最大の民権運動の激化事件となった[13]事件である。革命を唱えて郡役所を奪ったが、軍隊の出動で鎮圧 され、これで民権運動は一頓挫することになる。
 1886年暮れ、解散していた自由党系有志が民権運動の再興を呼びかけた。これが[14]運動である。折しも政府は条約改正交渉で列強に迎合的態度を 取っており、船舶遭難で日本人乗客が見殺しになる(15)事件が起きたことで世論は沸騰した。政府に対して(16〜18)の3つの政治要求を掲げる [19]運動が起き、(14)運動はこれに収斂してゆく。政府は運動の中心の(20)を閣僚に迎えて懐柔し、一方では[21]を出して(22)らの活動家 を東京から追放した。これにより、民権派と政府の対立の場は国会開設後に持ち越されることになった。

<解答>
(1)松方正義 (2)間接消費税 (3)官営事業 (4)日本銀行 (5)銀本位 (6)福島 (7)三島通庸 (8)河野広中 (9)高田 (10) 群馬 (11)加波山 (12)困民党 (13)秩父 (14)大同団結 (15)ノルマントン号 (16〜18)地租軽減、言論の自由、外交失策挽回  (19)三大事件建白 (20)後藤象二郎 (21)保安条例 (22)尾崎行雄、星亨、中江兆民


<立憲政体の樹立>

 政府が立憲体制の樹立を約束したのは1875年の(1)のときであった。このときには三権分立の体制を整えるため、立法機関として官僚からなる(2)と 地方の実情を把握するための(3)を置き、司法機関として(4)を設置している。(2)では憲法草案の作成に着手し、(5)が出されたが岩倉具視はこれを 是とせず廃案とした。
 本格的に憲法が作成されるのは1881年からである。岩倉は民定でなく(6)、ヨーロッパの中では[7]憲法を手本とする方針を出し、伊藤博文が欧州視 察に出かけた。伊藤はベルリン大学の(8)とウィーン大学の(9)から憲法と政治について学んで帰国し、憲法調査のための[10]を設置して自ら長官と なった。他には[11〜13]が加わり、ドイツ人法律顧問として[14]も参加した。一方、憲法体制下で政治主導権を確保するために天皇権力の確立を図 り、軍人を統制するため(15)を出し、政府財政と別に(16)を設定して急な支出に備え、憲法草案の審議のために設けた[17]を後に天皇の諮問機関と した。さらに上院議員選出のために特権階級の整備を図り、[18]を出して(19〜23)の爵位を定めた。また、地方政治から民権派を締め出すため、府県 会議員の間接選挙を定めた[24,25]を出している。[26]年には内閣制度を定めて伊藤が首相となり、各大臣が天皇に直接責任を持つ体制がとられ、閣 僚を薩長藩閥で占めた。
 大日本帝国憲法は紀元節にちなんで[27=年月日]に発布された。このときの首相は[28]である。天皇は[29]と位置づけられて政治を総攬し、国会 閉会中に法律に代わる[30]を出すことができ、[31〜33]の天皇大権を有していた。また、陸海軍の[34]権を持った。議会は[35,36]の二院 制で、(35)は(37,38)の特権階級で構成された。内閣と議会は無関係で、内閣は解散権を持ったが議会の弾劾で総辞職する義務はなかった。天皇は執 政しなかったがその名をかたって独裁することが可能であり、権力が多元的であったため無責任体質になる危険を含んでいた。国民代表の(36)の選挙権は満 (39)歳以上男子で直接国税[40]円以上納付者に限られ、国民の[41]%に過ぎなかった。加えて(28)は[42]主義を唱えて議会を無視して執政 する方針を宣言した。また、国民の権利は法律の範囲内でしか認められず、基本的人権はなかった。
 憲法発布によって六法体系も整った。民法はフランス人顧問[43]が民主的なものを作成したが、(44)らが施行に反対して(45)論争が起こった。結果として戸主権の強い民法に出し直され、家制度が確立することになる。
 [46]首相のもとでの第1回総選挙は民党が過半数をとり、(47)を唱えて(48)を主張する政府と対立した。買収で議会を乗り切った政府は次の議会 を解散し、第2回総選挙では[49]内相が選挙干渉を企てた。それでも吏党は過半数をとれず、日清戦争まで対立は続いた。

<解答>
(1)大阪会議 (2)元老院 (3)地方官会議 (4)大審院 (5)日本国憲按 (6)欽定 (7)プロシア (8)グナイスト (9)シュタイン  (10)制度取調局 (11〜13)井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎 (14)ロエスレル (15)軍人勅諭 (16)皇室財産 (17)枢密院  (18)華族令 (19〜23)公・侯・伯・子・男爵 (24)市制・町村制 (25)府県制・郡制 (26)1885 (27)1889年2月11日  (28)黒田清隆 (29)神聖不可侵 (30)緊急勅令 (31〜33)宣戦・講和・条約締結 (34)統帥 (35)貴族院 (36)衆議院  (37)華族 (38)勅撰議員 (39)25 (40)15 (41)1.1 (42)超然 (43)ボアソナード (44)穂積八束 (45)民法典  (46)山県有朋 (47)民力休養 (48)軍備増強 (49)品川弥二郎


戻 る

Copyright(C)2007 Makoto Hattori All Rights Reserved