3 民権の拡大と立憲政体の樹立
<新政府への反動>
[反政府運動の発生]

A 新政策への不満

・民衆は「御一新」に世直しを期待していた。しかし、裏切られる。このために世直し一 揆が起きる。「復古は元通りなので借金も帳消しだ」として質地取り戻しや踏み倒すもの。

Q1 1871〜74年の一揆件数は90件。そのうち1万人以上参加の大一揆は11 件。その6件が1873年に集中している。この年には民衆の期待を裏切る政策が出されていることになる。何が起きているか?

A1 徴兵令、地租改正がやられている。これに学制を加えたものが3大不満である。

 1 農民
    徴兵令→血税一揆

・1873年の徴兵令への反対が血税一揆。岡山では30万人参加。福岡の一揆では 4500軒が焼かれる。壊されたものは学校29、役場43の他、電柱181本。新政府になってできたものを壊すという態度。

     地租改正→地租改正反対一揆 ex)明治九年の大一揆(地租2.5%へ引き下げ)

・1873年の地租改正への反対。改正作業の進展で増える。明治政府には負担軽減を期 待していたが裏切られる。地主を含めて地価算定の見直しを図って起こしたもの。愛知県でも、1875〜78年に東春日井郡43か村が嘆願している。
・明治九年の大一揆は1876年、松阪で起きる。御一新後にできたものは全て焼き払え。学校や役場を襲撃。愛知、岐阜、和歌山、大阪に飛び火し、西南戦争と連動するのを恐れて地租2.5%に引き下げる。

    学制

・1872年の学制では8大学区に分け、一つの大学区に32中学区、一つの中学区に 210小学校区を置いた。53760小学校を建設する。建設費は地元負担。このうち24000校はできる。
・4年間は義務教育。学問は自分のためにするのだから、費用は自分持ちで月謝50銭。富岡製糸場の一等工女の月給が1円75銭なので、50銭は大金。学費 は出せない。
授業内容は寺子屋以下。寺子屋では読み書きそろばんを徹底 してくれた。往来物による実践教育。授業料は志でよかった。明治の学校では欧米の教科書の翻訳。「これは猫である。この猫は机の上に寝ている。この猫はよ き猫たるや」。
・1881年、就学児は260万人で就学率43%。実際には出席率は64%。92万人が恒常的に欠席し、28万人は1日も通わず。

 2 武士

Q2 武士にとっての不満は何か?

A2 廃刀令や秩禄処分でそれまでの特権を失い、没落したことである。

    特権消失(廃刀令、秩禄処分)=没落

廃刀 令=特権の消失。近代国家とするためにはチョンマゲと刀はみっともない。1871年、「散髪脱刀は勝手」としたが、武士の魂の刀を手放すこ とはない。
・刀は命の次に大切。江戸時代、鞘当てを防ぐために左側通行になっていた。
・1876年、政府は決戦覚悟で廃刀令を出す。廃刀は武装解除を意味する。後に見る神風連の乱などは廃刀令に反対して起きる。

     →政府高官暗殺 ex)大久保利通

・1876年は秩禄処分の年。一挙に反政府運動が盛り上がる。
・政府高官暗殺がされる。徴兵令を出そうとした大村益次郎は士族の敵として 1869年暗殺。大久保利通も1878年、紀御井坂の変で暗殺される。

B 政府内部の対立

・政府内では大久保派(官僚中心主義)と西郷派(士族中心主義)が路線争いをしてい た。
・大久保派は富国強兵を最優先。この政策は農民に負担を強いるため、インフレを抑制して農民をなだめる。薩長中心の主流派。
・西郷派は不満を持つ士族を活用しなければ爆発してしまうと考える。

Q3 士族の不満をそらすにはどうするとよいか?

A3 働き場を与えることである。そのために征韓をしようと主張。成功すれば士族独裁を目指す。西郷は薩摩閥の中で孤立し、土・肥と結んで反主流派にな る。

   主流派(薩長)→外遊
   反主流派(土肥)→諸政策で実績、征韓決定

・主流派は1871〜73年7月まで外遊。この間に新政策を出すなと命令するが無視さ れる。
西郷は主流派のいない間に征韓をしようとした。そのための 閣議を開けと留守政府の長・太政大臣の三条実美に迫る。三条は岩倉が帰るまで待てと言うが押し切られ、8月17日、征韓を決定する。西郷は9月20日、朝鮮に行って国交開設の交渉をし、 決裂すれば開戦と考えていた。

     but征韓延期で反主流派下野(征韓論政変)1873

・9月13日、西郷の渡韓の直前に岩倉が帰国。征韓実施を延期し、審議し直しとする。 閣議は延期に延期が続き10月になる。西郷は三条に迫り、閣議を開かなければ薩摩士族を動員するとおどして閣議を開かせる。
・閣議では大久保は断固反対、西郷は決行でまとまらず。三条は西郷に押し切られて15日に閣議で征韓を決定。16日、大久保、木戸、大隈などが参議を辞 職。
・17日に閣議を開き、天皇への上奏をおこなう予定。しかし、大久保派はいないし岩倉は病気。西郷派だけが集まる。三条は岩倉が出てくるまで待ってくれと 頼み、翌日開催となる。この日、三条はにわかに病気となって頭がおかしくなる。
・20日、天皇は三条を見舞い、岩倉を太政大臣代理にした。西郷は岩倉に天皇への上奏を迫るが、「余の見解がある。参議より太政大臣代理が上だ」と言って 無視。
・23日、逆の上奏をして征韓は中止となった。西郷はすぐに辞表。翌日、板 垣、後藤、江藤、副島が辞表。

    ex)西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎
     =反政府運動の指導者となる

[民権運 動1期](士族民権) 1874〜77
 言論による反政府運動=国会開設による政府専制抑止
 下野派、不平士族中心
A 民撰議院設立建白書 1874
   愛国公党設立、国会開設要求(板垣、後藤、江藤、副島)

・1874年1月18日、板垣、後藤、江藤、副島が愛国公党を作り、民撰議院設立建白書を左院に提出。 イギリス人ブラックの出す「日新真事誌」に発表する。
・民撰議院の根拠は、「租税を払う義務のあるものは政府のことに関知する権利を持つ」。日本で初の人民参政権要求であったこと、初の政党ができていることがポイント
・従来板垣が主張してきたのは旧大名などの合議政治。ここでは人民から選ばれた人民代表による立法機関樹立を求めている。
・愛国公党は初の政党であり、政府に反対する政治結社が公然と活動をしたことで画期 的。今までは徒党として弾圧されてきた。
・加藤弘之は「国体新論」を著して天賦人権説を主張していた。しかし、民撰議院につい ては時期尚早と批判。「人民は政治的自覚がなく、民撰議院を作っても愚論の府となる」。板垣はミルの「自由論」を引いて「参政権を与えなければ人民は進歩 しない」と反論した。ニワトリが先か卵が先かの議論。

   →立 志社(板垣、片岡健吉)の活動(→愛国社  1875)

板垣 は土佐に帰り、立志社を作る。社長は板垣の部下・片岡健吉。 徳島に自助社、石川に忠告社、大分に共有社などもできる。
・1875年2月、立志社の呼びかけで大阪に各地の民権政社の代表が集まって愛 国社を作る。本部は東京、年2回の大会。
・実際には士族数十名の集まりに過ぎず、資金難。板垣の政府復帰で消滅する。

B 政府の対応

Q4 力尽くでおさえるのでなければ、政府はどのように対応したらよいか? 

A4 アメとムチである。自由民権運動に対しては、以後もこの路線で押さえにかかる。ビスマルク流。

 1 大 阪会議 1875

・大久保は西郷や板垣、木戸(台湾出兵で下野)に去られ、新政府内で孤立してゆく。井 上馨は坂本龍馬が薩長同盟を樹立したことに因み、木戸、大久保、板垣が偶然に会った形にして大阪で会談させることとした。これが大阪会議。大久保には子分となった伊藤博文が付き添う。
元老院を作って立法の仕事をさせ、憲法を作らせる。裁判の 基礎のために大審院を作る。民情を知るために地方官会議を作る。これによって木戸、板垣は参議に戻ることになり、愛国社は休業状態となる。

    漸 次立憲政体樹立の詔を出して収拾

・1875年4月、漸次立憲政体樹立の詔が出る

 2 新 聞紙条例、讒謗律 1875
    言論の弾圧

・7月、讒 謗律と新聞紙条例を出して言論・出版に弾圧。「人の栄誉を害する」ことを禁ずる。この「人」は官吏のこと。「政府変改、国家転覆の論を新聞 に載せたら1年以上3年以下の禁錮」。翌年末までに49人の新聞人が処罰された。
・トップを懐柔し、残ったメンバーを弾圧するというのが明治政府の基本方針。

[不平士 族の乱]
 武力による反政府運動

・言論では政府を倒せないという判断がされる。武力を用いる。

Q5 地図では、不平士族の乱は西日本に多い。なぜか?

A5 佐賀の乱=肥前藩、萩の乱=長州藩、西南戦争=薩摩藩の士族による。新政府を作ったのは自分たちという自負がある。

・土佐の士族も西南戦争に呼応しかけたが、片岡健吉がくい止め、植木枝盛が盛んに演説 会をおこなって自由民権運動を維持していた→土佐は民権運動の中心になる。

  ex)佐賀の乱(江藤)、

・佐賀藩では不平士族が征韓論を支持し、征韓党を作っていた。佐賀に帰った江藤新平は首領となり、1874年2月16日に挙兵。2500人の大軍 で佐賀城を攻略して県令を追放する。佐賀の乱という。鹿児 島、久留米、長州、土佐藩の士族が呼応することを期待。
・政府軍は2月23日、佐賀を攻略。江藤は西郷を頼って佐賀を脱出し鹿児島に行く。保護を断られ、高知に逃げるがここでも保護してもらえず逮捕。4月13 日、江藤が決めた新律綱領の謀反の罪で死刑、さらし首となる。

    神風連の乱、

・1876年は不平士族が荒れ狂う。秩禄処分と廃刀令が出たため。
・1876年10月、廃刀令に反対して熊本の太田黒伴雄が 200名で挙兵。県庁を襲うが鎮圧。神風連は熱狂的な攘夷主 義の一派。

    秋月の乱、

・1876年10月27日、福岡で秋月藩士・宮崎車之助が400人で神風連の乱に呼 応。小倉鎮台兵によって鎮圧。

    萩の乱(前原一誠)

・同じ28日、萩の前参議・前原一誠が500人で蜂起。越後府知事の時、水害で苦しむ人のために減 租して政府にとがめられ、参議を辞していた。長州の不平士族の指導者になっていた。

  →西南戦争 1877
    西郷隆盛、私学校メンバーの挙兵(最大の不平士族の乱)

・西郷は鹿児島に帰り、賞典禄で私学校を作る。銃隊学校と砲隊学校によって士族に軍事訓練をしたもの。 136の分校を持ち、軍隊と変わりない。
・県令以下の役人は全て鹿児島県人とし、区長や戸長には全て私学校の幹部をあて、私学校の指導で県の政治を動かすようになった。税は中央に入れず、秩禄 処分、地租改正もおこなわれず。旧暦を維持し、士族は刀を差して西郷の元に集まっている。中央から独立した鹿児島軍閥政権である。
・大久保は鹿児島の内情視察のために部下を派遣したが、私学校メンバーによって捕らえられる。西郷を暗殺にきたと自白。私学校党は西郷に挙兵を求める。
・政府軍の強さを知っている西郷は、挙兵しても勝てないことを知っている。しかし、政府が徴発してきた以上、部下を抑えきれないと見た。「おいどんの命は 諸君に預け申す。存分にするがよい」。

     but熊本鎮台軍により制圧

・2月15日、西郷の指揮の元、1万5千の軍が熊本に向かう。「政府に尋問すべきこと があり、兵を連れてゆくが通して欲しい」。大西郷が立ったと聞き、途中でこれに合流する兵もあり、最大で4万2000人となる。
・2月20日、山県有朋を中心とする軍隊が東京を発し、26日福岡着。ここを本営とする。徴兵などで集めた政府軍は4万だが、その全部を投入する。海軍 11隻も全て投入した。
・2月22日、熊本鎮台(熊本城)を包囲。谷干城が守る。 「土百姓に銃を持たせてもどれだけ役に立つか。薩摩隼人にかなうはずなし」とタカをくくっている。
・鎮台側は武器弾薬・食糧を十分に備える。西郷軍は政府軍の応援が来る前に片づけようとするが10日攻めてもだめ。
・3月になり、熊本の北・田原坂に政府軍到着。20日間の激戦。政府軍の使った弾薬は40万発。この間、8日には勅使が軍艦で鹿児島に乗り付け、島津久光 に旧藩士を鎮めるように説得。鹿児島を占拠する。西郷軍は戻るところなし。
・熊本城は籠城50日を持ちこたえ、4月14日、応援の政府軍を迎え入れる。西郷軍は大分方面に転戦するが補給は続かない。政府軍は東北の士族を警視庁巡 査として動員し、8000名を送り込む。
・西郷軍は延岡北の長井の戦いで敗れて1万人が投降。西郷は精鋭を率いて囲みを破り、鹿児島に戻って城山に籠もる。9月24日の総攻撃で西郷は股の付け根 を撃たれて歩けなくなる。島津一門の屋敷の前で側近の別府晋助に対し「晋どん、もうここらでよか」と言って西郷は切腹。別府が介錯。
・政府軍6万のうち6000人が戦死。4200万円の軍費を使う。西郷軍は4万のうち半分死ぬ。

Q6 西郷軍が勝つとすればどうすればよかったのか? この前年、政府を屈服させた勢 力を味方に取り込めばよかったはず。では、彼らはどうして呼応しなかったのか?

A6 西郷軍に農民が呼応しなかったのが敗北の要因。明治九年の大一揆を起こした農民が加われば大乱になっていた。しかし、士族独裁では農民は解放され ず、農民は西郷軍に対しては冷たかった。

西郷 の動きは歴史の流れを戻そうとするもの。支持されない。

 武 力反抗の閉幕→民権運動への合流


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