<新政府の外交>
 新政府の外交方針=列強 への従属、アジアへの圧迫
Q1 この外交方針は長州藩のある人物によって提示されている。誰か?

A1 吉田松陰である。鮮満侵略論では「交易にて魯墨に失うところは、土地にて鮮満にあがなうべし」。長州藩出身の桂、高杉、伊藤、山県は門下生だった。 対外侵略を説いた伊藤や山県が含まれているところに注目したい。

・萩に行くと、吉田の生家は海を見下ろす位置。ここで海を見ていたので海外雄飛を考え ていたと地元の人は説明する。銅像が建って海を見ているが、その方角は朝鮮、満州の方角。

[欧米との関係]
A 欧米派遣使節団(1871)
 岩倉具視大使、

・全権は岩倉、副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、48名。
政府内は官僚派と反官僚派に分かれていた官僚派はほとんど参加した。残った実力者は西郷、板垣、大隈、井上、山県くらい。

Q2 岩倉の外遊は1871年12月から1873年9月にかけての長期間。どうして長 期間留守にすることが可能だったのか? 何を目的に出かけたのか?

A2 廃藩置県が成功して一段落した。これから維新の改革のために欧米諸国の視察が必要になった。

 条約改正交渉と視察

・新政府の教育・文化政策顧問のオランダ人・フルベッキが欧米の制度の視察を提案。安政の五カ国条約は、1872年7月から改正交渉ができるとされていたので予備交渉に当たるべきと考えた
・三条実美は木戸と大久保の参加を渋るが、岩倉は新日本建設のためには視察が必要と訴えた。留守中に西郷が何をするか心配。視察中は何もするなと念を押 す。

 (米・

・新暦1871年12月23日、横浜出発。1872年1月4日、サンフランシスコ入 港。1869年に開通した大陸横断鉄道を使う。ワシントン着は2月になった。グラント大統領の歓迎を受ける。
アメリカでは条約改正の下交渉をする。治外法権撤廃、関税 自主権回復を申し出るが無視され、逆に居留地拡大と内地雑居を求められる。伊藤博文は、アメリカはもっとも日本のことを考えていてくれる国であり、ここは 改正条約を結んだ方が日本の開化を進めるのに役立つと主張し、締結を岩倉に勧めた。
・岩倉の持ってきた国書には改正交渉全権大使の委任状がない。アメリカはこのままでは交渉ができないとする。2月12日、大久保、伊藤の2人が取りに帰 り、3月24日東京着。政府側では交渉に反対する声があり、これを説得して横浜を出たのが5月17日、ワシントンには6月17日に着いている。
・岩倉は日米二国間会議ではなく、列国との会同会談を望むがアメリカは二国交渉に固執した。
・ここで駐日ドイツ公使フォン・ブラントが帰国の途中でアメリカに寄る。岩倉に忠告した。「日本がアメリカに新しい利益を与え、アメリカが日本に代償とし て利益を与えた場合、日本が与えた利益は発効するが、アメリカが与えた利益は発効しない」。

Q3 どうしてそういうことが起きるのか?

A3 最恵国待遇を規定しているからである。岩倉はアメリカが二国交渉にこだわった理由を知り、だまされそうになったことを後悔して交渉を打ち切る。欧米 を信じることの怖さを知った。

  英・仏 ・独・

・7月3日、ボストン出港。イギリスに4カ月。11月にフランスに行って2カ月滞在。 翌年、ベルギー、オランダを経てベルリンに入る。
ビスマルクに激励される。「万国公法は大国の理屈で変えら れてしまう」。プロシアが大国の間で独立を守ってゆくことの大変さを話し、日本の独立の努力を励ます。木戸や岩倉、伊藤は大感激。

  アジア植民地)

・東南アジアを経由して帰国。「野蛮」「怠惰」と映る。これだったら植民地になっても 仕方ないと考え、脱亜入欧を目指すことになる。
・夏に帰国。日本の向かうべき道はプロシアに手本をとることとした=大国主義。ベルギーやオランダのような小国も見ている。その文化の優れていることも認 識したが、ビスマルクに押され、アジアの大国を目指すことに なった。日本の外交方針を決定した外遊。

 →文明の遅れ痛感、殖産興業急ぐ

B 樺太・千島交換条約 1875
 樺太(日露雑居)の開発競争に敗れる

・樺太については、日本人は18世紀末から南部に漁場を持っていた。ロシアは北からお りてくる。日露和親条約では国境画定していない。樺太をロシアに取られると 北海道が危ない。1869年、政府は蝦夷地開拓を急務とした。
・1869年、ロシアは1200人の兵を樺太南部に派遣。日本はどうしてよいかわからず、イギリス公使パークスに相談した。外交機密であるはずの日露問題 を英公使に相談する態度にあきれ、「こんな調子では樺太は維持できない。放棄して北海道開拓に全力を尽くすべきだ」と忠告される。
・1870年、ロシアの駐清公使ビュツォフが来日。日本は「樺太をくれたら日本人は永久にロシアを尊く思う」といって懇願。この時、ロシアは全島領有の方 針を立てていたのであっさり拒否。日本は樺太を売るといったがロシアは買わないといい、それなら買い取ろうというと売らないという。

 →千島と交換し、北海道開拓に全力

北海 道開拓使次官となった黒田清隆は樺太と千島の交換を考える
・1874年、ロシアは樺太問題の決着を迫る。黒田清隆は榎本武揚を駐露公 使に任命。かつて、箱館にこもった榎本軍を黒田が攻略。敵将であるが人物に惚れていた。
・翌年1月、交換条約締結。江戸時代には樺太南部は日本がおさえていた。これを脅し取られ、貧弱な北千島を入手したものと言える。

C 小笠原の領有 1876

・東京の南1000km。小笠原へは東京から船が週1便。25時間半。2万円。
・1593年、小笠原貞頼が発見したとされてきた。実際には、1675年の発見後、小笠原の子孫と称する者が偽文書を出して権利を主張したもので、あとか ら処罰されている。
・1675年、紀州から江戸に向かうミカン船が難破、南に漂流して小笠原に漂着する。人が住まない無人島だった。北に向かい、江戸に帰着し、島の存在を知 らせる。幕府は探索船を派遣し、島の調査をして地図も作る。伊豆諸島から移住させ、開拓しようとしたが失敗。ここで地図を作っていたことが、日本領となることに貢献した。「無人島」と称される。 鎖国時代、異国を見たい者は小笠原に渡って外国船の寄航を待ち、外国に渡ろうという計画も立てられる。
・1827年、イギリスが一方的に領有宣言。日本や諸外国は認めず。
・1830年、アメリカ人一家族が移住する。太平洋横断の船が立ち寄り、物資の補給と交換で生活してゆく。
・1853年、ペリー来航時にアメリカが領有宣言。日本や諸外国は認めず。
・1876年、日本も開国し、米英もこの離島を維持する価値がなくなったた めに領有放棄した。兵隊を駐留させて腕尽くで守るには負担が大きい。そのために日本が領有宣言する

Q4 小笠原をとったことは大きい。特に南鳥島と沖ノ鳥島の存在が大きい。なぜか?

A4 小笠原は南鳥島、沖ノ鳥島まで含み、日本の経済水域を拡大してくれている重要な存在となる。人の住む父島から800キロ以上離れた孤島だが、それぞ れの 周囲200カイリ(370キロ)が排他的経済水域であり、天然資源の権利が認められる。九州の10倍で日本の面積より広い。

・沖ノ鳥島は満潮時には大小2つの岩を残して水没。満潮時に水没するものは島として認 められず、領土にならない。波に削られて岩がなくなりそうになった。このため、300億円をかけて岩を保護する。
・日本の排他的経済水域は405万平方キロもある。ロシア、カナダ、アメリカ、中国、ブラジル、オーストラリアの陸地に次ぐ面積。

[対清政策]
A 日清修好条規 1871

・アジアの大国になるためには周辺の弱小国を支配してゆく必要がある。日本は朝鮮に国 交を求め、支配する意図を持っていた。

Q5 日本が朝鮮に対して国交開設の国書を出した。「天皇」「勅」の字があり、受け取 りを拒否された。なぜか?

A5 朝鮮は清を宗主国としていた。「皇」「勅」は上国である清朝皇帝だけが使える字であり無礼だとして受け取りを拒否してきたのである。

Q6 朝鮮に「天皇」の字を用いた国書の受取を迫るにはどうするか? 朝鮮の上国にな ればよいのだが、その方法は?

A6 清と対等の条約を結べば、日本も朝鮮の上国になれると考えた。

・1873年、交渉開始。清は「日清両国は古くからの友好国なので、西洋の真似をして 条約を結ぶ必要はない」と拒否した。

Q7 清をくどくよい手はないか? 清は西洋の侵略に悩んでいる。

A7 日本は「日清が手を結べば協力して西洋に対抗できる」と訴え、清もこれを認めた。欧米諸国はこの動きに危機感を持っていた。日本も本気で清と手を結 ぶことを考えれば、世界史は変わっていたかも知れない。

 領事裁判権、協定関税の相互容認=絶対対等条約

・実際には、日本は清と欧米諸国の条約を元に不平等な内容を押し付けようとした。清は 拒否し、対等条約となった。
最恵国待遇は互いに与えず、日清両国民の紛争は双方で協議して裁判するこ ととし、協定関税。

Q8 治外法権を双方が相手に認めさせ、関税自主権を奪い合っている。この条約はどっ ちに有利なのか?

A8 互いに不平等内容を押し付けることで見かけは対等になっている。清の法律は苛酷なので、日本人が清で自由に裁かれると不利になる。双方で協議という ことにしても清は領事を送ってこないかも知れないだろうから、日本での清国人犯罪者は実質的には日本単独で裁ける。

B 琉球処分
 cf)本土とは別の文化・歴史

・縄文時代人が日本人の原型。ここに弥生時代になって朝鮮半島から移住者が来る。
・縄文末期の人口8万人。これが7世紀に540万人に増えている。農耕民族の人口増加率の最大値0.2%で増えたとすると、新しく150万人の渡来が必 要。紀元前3世紀から7世紀にかけ、100万人規模で渡来。年間1000人程度。この人たちは縄文人と混血するので、7世紀での純系縄文人と渡来人系の比 は1:8.6になる。
・渡ってきたのは新モンゴロイド。ヴュルム氷期にシベリアにいたモンゴロイドが、寒冷気候に順応するため、吸った空気を暖めるために高顔になり、凹凸が少 なくなり、目を保護するために一重瞼になっていた。これが弥生人として流入した。耳垢は乾性である。耳垢は湿性が優性遺伝であり、熱いところに住むニュー ギニアの人では100%が湿性となる。
・これに対し、沖縄には弥生時代 に移住者がなく、その後も本土との交渉はあまりなかった。そのため、沖縄の人は縄文人の形質を多く受け継ぐことになる。混血があまりおこなわれていないの で、低顔で凹凸が多い彫りの深い顔である。湿性の耳垢もよく残り、沖縄は3人に1人で、本州の5人 に1人、朝鮮半島の8人に1人に対して多い。
・言葉も本土と沖縄では大きく異なる。日本語は本土方言と琉球方言に分類されるが、文法は同じでも語彙や発音が異なり、スペイン語とポルトガル語 の差よりも激しい。別の言語としてもおかしくない。テープで聞くと琉球方言はまったくの外国語。明治になるまでは琉球語として扱われていた。
・しかし、本土方言と琉球方言にはみごとな音韻対応が見られる。o→u、e→iへ音韻対応しているのであり、ククルkukuru→心kokoro、シル siru→白siro、フニhuni→骨hone、クリkuri→これkoreとなる。 英語とドイツ語も同様の関係であり、thank→danken、that→das、north→nordとなる。thはdに対応。対応する語は近い関係で あり、琉球語 は日本語から分かれたことがはっきりする。
・言語年代学は、生活に密着した語彙は変わりにくいが、1000年で19%変わると仮定する。これによると、琉球方言と奈良方言は1600年前(弥生時代 末期)に分岐したことになるらしい。

 =琉球王 国建国(1429)
  →清の属国

・15世紀までは本土でいうところの弥生時代。統一政権がなく、互いに抗争をしている 段階。三山=明に朝貢、册封を受けることで政権維持→邪馬台国などと同じ。2年に1度、2隻ずつ。
・1429年、尚巴志が三山を統一して琉球王国を建国。大交 易時代となる。日明貿易途絶の隙をつく。南方と中国、日本との間で中継貿易。シャムへは年1回。マラッカに手を伸ばし、アラビア商人がもたらしたヨーロッ パの産物も仕入れる。胡椒。中国に渡航した琉球人は10万人、東南アジアは3万人。長さ47メートル、200〜300人乗りの船で渡る。

   薩摩藩の実効支配

・島津氏は琉球を支配しているかのように秀吉に振る舞っていた。朝鮮出兵に際し、島津 は秀吉の命として7000人分の食糧10カ月分を要求。册封使を迎えたばかりで金がなく、半分しか出せなかった。
・藩財政の悪化した島津氏はこれを咎め、1609年、3000の兵で攻撃。1カ月の攻防で国王・尚寧を生け捕りにし、江戸に連れてゆく。
・奄美5島割譲、掟15条を示し、薩摩に年貢米12000石を出させる。実高は5万石。江戸時代を通じて薩摩が琉球を実際には支配することになる
・琉球は一度滅びたが、薩摩の恩によって復興できた。国王の代替わりごとに就任感謝の使節を江戸に派遣=謝恩使。将軍が代わるごとに慶賀使を出す。100 人が300日かけて行く。異国風に装い、異国を従える幕府の権威を示す。
・一方では清に朝貢を続けさせ、中国暦を使わせる。中国との貿易で得られたものを薩摩は入手でき、後には密貿易もおこなう。

 1 琉球藩設置 1872 (藩王=尚泰)
  琉球漁民殺害事件→

・1871年、廃藩置県で琉球は鹿児島県の管轄とした。
・1872年、琉球国を琉球藩として政府直轄にした。国王の尚泰を藩王にして外交権は接収するとした。しかし、実際には、この後も 朝貢を続け、琉球藩は独立国として振る舞ってゆく。
・この前年の1871年、琉球漁民殺害事件が起きていた。宮 古島の66人が台湾に漂着。54人がパイワン族に首狩りされる。これが1872年に報告されてくる。
・政府はこの事件をきっかけに琉球を日本領とするため、台湾に出兵して清に 圧力をかけることを計画した。清に対して「日本の琉球藩民」を台湾人が殺していたことに対して見解を求める。清は台湾人が「清の属国民」を 殺したことは知っているが日本人は殺していないとし、琉球を日本人と認めなかった。清は「台湾は清国領であるが、住んでいるのは化外の民」と言ってきたた め、「化外の民」を懲らしめるのは日本の勝手だとした。

  台 湾出兵(1874)(琉球支配権の強化)

・この後、征韓論が起き、台湾出兵計画は延期された。西郷隆盛は、秩禄処分されて用済 みの士族の働き場所を作るため、朝鮮に出兵しようと主張していた。しかし大久保が反対し、西郷は下野する。このご機嫌取りのため、大久保は士族も使って台 湾出兵をすることを認めた。
・1874年2月、計画決定。木戸孝允は金がかかると言って大反対する。西郷従道が遠征費は50万円、これを超えたら切腹するという。木戸は「腹を切って 責任がとれるものではない」と激怒し、下野してしまう。
・3600人の兵を率いて長崎を出港する間際、イギリスが遠征に反対。当初は協力するとしていたアメリカは腰砕けとなり、輸送船を貸してくれない。軍艦だ け先に出し、輸送船はあとから買い入れて三菱会社に運航させる。
・6月1日、台湾出兵を実施して牡丹社攻撃。1日で降伏させ るが、出兵費用は771万円。
・清は強硬に抗議をしてきたが、日本は化外の地の住民を懲らしめただけとし、台 湾を清国領として認める代わりに、琉球漁民に見舞金を払わせることとした。これは、清が琉球人を日本人と認めさせられたもの。

 2 沖 縄県設置 1879

・清への朝貢を続ける琉球に対し、1879年、沖縄県を設置して藩王を上京させることにした。兵400人と警官160 人で連行する。
・清の抗議を受け、アメリカのグラント前大統領が仲介に乗り出す。日本は全 琉球を領土とするよりも、清に不平等条約を押し付けた方が儲かると考え、先島を清に譲る代わりに清に対して最恵国待遇を獲得しようとした

Q9 最恵国待遇を獲得すると何が得なのか?

A9 欧米の対清不平等条約が全て適用されるのである。これは先島の住民を清国に売り飛ばすようなもの。

・清は先島は清国領、本島は琉球国として独立、奄美は日本領とする案を逆提示する。
・交渉中に日清戦争となり、台湾も割譲させたためにうやむやになる。

  cf)旧慣温存政策→後進性

・琉球には旧慣温存政策をとった。国王は連行したが、その配下の士族がいるため、近代化で彼ら士族の権利を奪うと反乱が怖かったのである。
・「間切り」制を残し、元の地方役人をそのまま使う。貢租は一村の連帯責任で納める(江戸時代と同じ)こととした。
・このままでは沖縄の近代は来ない。謝花昇らの運動の結果、衆議院議員選挙は1912年から(本土は1890年)。市町村自治は1920年から(本土は 1888年に市制、町村制)ようやく認められる。
・税金586万円を納めるが、沖縄県のために使われるのは162万円で明らかな搾取。平均耕地面積も7反(本土は1町1反)で食えず。戦前の大学生の数は 10万人あたり1.8人(本土は108人)。

  =移民・出稼ぎの流出、

・島で食べられない沖縄の人は南方移民や大阪などへの出稼ぎに出た。本土では出稼ぎ沖縄出身者の町が 作られる。
・就職差別で「朝鮮人、琉球人お断り」。「劣等国民」とされたため、差別克 服のために本土への同化を懸命におこなう
・最大は言葉の障害。琉球方言は全く通じない。方言撲滅のため、学校では「方言札」を用いる。方言をしゃべると胸から下げさせられ、取るには、他に方言を しゃべった者を密告し、それによって渡せる。琉球方言撲滅のための相互監視体制。

  本土の捨て石

・戦時中は劣等国民と言われたくないため、本土人よりも熱心に戦った。実際には本土上陸を遅らせるため、沖縄は捨て石として使われる。上陸を阻止する 戦いはあえてせず、出血持久作戦と位置づけ、全滅するまで小規模な戦いを続ける。10万人の県民の死者は4人に1人。日本軍に虐殺されたり集団自決を迫られた人も多い

  →米軍統治で基地の島へ

戦後は30年近く米軍が占領して基地が建設される。アメリ カは中国が共産化し、ソ連と対抗するために沖縄に基地を必要としていた。日本にとっては、ソ連の脅威に対抗するため、沖縄の米軍基地は必要だった。昭和天 皇は、米軍が沖縄に基地を置くことを歓迎する発言をしている。
・沖縄では、国内の基地の70%が狭い島の平らなところに集中し、基地優先 の経済構造を作る。沖縄の通貨のB円は1$=120円。日本本土は1$=360円。沖縄の生産物を本土に出そうとすると高くて売れず、本土 のものは安いので大量に入ってくる。基地の労働者として稼ぎ、安い本土産物を買っていれば何とかなるので、沖縄には製造業が生まれなかった。

・2002年の県民所得=全国平均は292万円。一位の東京は408万円、愛知は2位で342万円、最下位の沖縄は203万円。
・2005年10月の沖縄の失業率は8.8%。愛知県は3.2%。全国平均は4.4%。
・2005年11月末の高校生の就職内定率=全国平均は72.8%。愛知県は89.8%。沖縄は32.9%で最下位。次の北海道は47.5%でかなりの 差。僻地だから仕方ないのではなく、30年近くアメリカに占領されていたのが大きいのである。

「沖縄問題」私の考え

・こういうことを本土の人はあまり知らない。首里城に行ったとき、本土から来る若者が沖縄のことを何も知らないと言われたことがある。「ひめゆりの塔のこ とも知らないで修学旅行に来る者がたくさんいる。近現代史で沖縄の歴史を学んでいるのか」。
・バカンスに来ていた若い子を沖縄の若者がナンパに来た。本土の若い子はそれに対し、「沖縄って何にもないよね。海だけじゃん。首里城とかひめゆりの塔と か行ったけどすっげーつまんなかった」と言っていた。
・首里城は琉球文化の象徴で誇りだった。沖縄戦で壊滅した。瓦礫の中から文化財を掘り起こし、本土復帰20年を記念して再建されたもの。ひめゆりの塔は従 軍看護婦として働いた女学生たちが立てこもっていた場所。アメリカ兵に囲まれて解散命令が出され、別れの学芸会をやったあと、ガス弾を投げ込まれて大勢が 死んだ場所。そういうことがわかっていれば出なかった発言である。

<沖縄にいる米兵>

・沖縄の米軍基地は日本全体の75%を占めている。沖縄県の面積は2268平方キロ。そのうち基地は243平方キロ。日本全体の 米軍基地は314平方キロ である。ただでさえ平地が少ない島で、中部の平地の嘉手納を基地としてとられているため、沖縄は南北が分断され、発展できない。
・戦後のアメリカの世界戦略は3本柱。核による東側牽制、同盟国との関係強化、有事の際の前方展開=手向かう奴を叩きに行く。在日米軍は、本土には横田、 横須賀、三沢、佐世保、岩国があるが、基本的にはデスクワーク中心。沖縄は海兵隊が中心。
・米軍は陸軍、海軍、空軍、海兵隊からなる。海兵隊は帆船時代に海外居留民保護などを目的に軍艦に陸軍の兵隊を乗せたのが始まり。水兵ではなくて陸軍の兵 隊であるため、上陸戦などに使われ、もっとも機動性、攻撃性が強い軍隊。「ボーイ」と呼ばれ、危険な任務であるため荒っぽい連中が多いとされる。前方展開 の主役。
・米海兵隊は3個師団しかなく、カリフォルニアとノースカロライナの他は沖縄に第三師団がある。日本駐留は2万人。在日米軍の50%を占める。4万人いる 在日米軍の半分。半年交代で本国から派遣。

<1995、県民総決起の波紋>
・米兵がらみの事件が跡を絶たない。1995年9月、米兵による小学校女子児童暴行事件が起きている。買い物帰りの12歳の女の 子が米兵3人に襲われる。 頭を殴られて意識不明とされ、レンタカーに押し込まれてテープで縛られる。3人に強姦される。
・日米地位協定によって犯人の身柄を日本側では拘束できない。県民総決起大会が開かれ、8万5千人が日米地位協定見直しを求める。米軍基地の返還要求。県 の住民投票では89%が米軍基地の整理縮小を求める。返還後、最大の沖縄の怒りの爆発だった。

・1997年5月に使用契約が切れる米軍基地の土地を持つ地主3000人が契約更新を拒否した。県が強制収用をすることになるが、沖縄県の大田知事は、強 制収容のための代理署名を拒否する。
・このまま1997年になると、沖縄の米軍基地は撤去せざるを得なくなる。

<普天間移設問題>
・政府は沖縄をなだめるため、1996年、普天間基地(ヘリコプター飛行場)返還交渉を始める。普天間基地は米海兵隊の飛行場。 市街地にあり、ヘリコプ ターが離発着するため危ない。返還の要望が強かったため、橋本首相がモンデール駐日大使と交渉し、5〜7年以内に返還となる。嘉手納基地に併設すればOK というシナリオ。
・普天間返還は、基地縮小への大きなアピール。初の縮小で県民感情は軟化した。
・普天間問題をテコにして、国は駐留軍用地特別措置法を改正して収用委員会が使用を認めるまで、暫定的に使用許可。沖縄県が拒否できなくした。

・ところが、海兵隊は普天間返還に難色。返還する替わりに別のところに引っ越しさせろと主張。代替地が必要となる。名護市の海兵隊のキャンプ地沖に建設す ることとなる。北部のサンゴ礁を埋め立てて移転させる計画。1兆円必要。後には海上フロートで作ることになる。
・政府は名護市に対して受け入れを要求。市長は住民投票で民意を聞くとした。しかし、名護市の住民投票では過半数の住民が移転反対。名護市長は受け入れを 認めて辞任した。
・沖縄県民は、政府にダマされたという思いを強く持つ。

<移設問題と県知事選>
・1998年、この中で沖縄県知事選が戦われる。あくまでも基地縮小を叫ぶ大田昌秀前知事と、基地問題ではある程度政府と妥協 し、見返りを求めた方がよい とする自民党の稲嶺恵一。
・政府は1000億円の沖縄振興策を出し、基地縮小を叫ぶ大田知事の再選を防止しようとする。
・1998年11月15日投票。投票率76.5%。大田が勝つと考えられたが、大田昌秀33万7369票、稲嶺恵一37万4833票。稲嶺知事が当選。新 聞は「沖縄県民苦渋の選択」の見出し。
・沖縄の矛盾が露呈した選挙=沖縄は3K経済(基地、公共事業、観光)。基地がなくなって困る人もいるし、余計に経済危機に陥ることを恐れた県民の判断。
・基地の地主には日本政府が800億円の地代を払い、基地従業員8400人の賃金も日本政府が払っている。関連を含めれば、基地関係の従業員は37000 人。生産面では3270億円のお金が落ちているという。基地によって沖縄経済が保たれているのは一面で確か。

・日本政府は名護市に普天間からの基地移設を認めさせたかった。2000年、先進国首脳会議は日本が当番。小渕内閣は沖縄サミットと銘打って名護市で開催 すると発表した。記念で出した2000円札には守礼の門を図案 化するサービス。名護市に普天間移設を認めるように圧力をかけてゆく。
・これらに応える形で、沖縄県と名護市は普天間移設を受け入れている。しかし、条件は使用期限15年。この点は政府は触れないようにして曖昧決着を図って いる。キャンプシュワプ沖は貴重なサンゴ礁でジュゴンもいる。今も建設反対があって作られていない。

<本土人にできること>
・沖縄としては、基地は撤廃し、必要ならば日本全体で傷みを分かち、本土へ移せという論理。日本国民はみんな平等だと思うなら、 本土人は基地受け入れを認 めるべき。しかし、本土人の腰は重い。多くの本土人は、沖縄の犠牲の上に今の本土の経済発展があることに気づいていない。我々にできることは沖縄の置かれ た状況を把握し、米軍基地がなくても沖縄が経済的にやってゆけるように支援することが大切。観光旅行も大切だし沖縄経済を助けるためにものを買うことも重 要である。
・基地経済は年間1700億円。これがなくなると困ることになる人がいるのは確か。基地をなくすには、基地がなくても食べてゆけるようにすることが大切。 観光は3800億円。
・観光客を50%増やせば基地の分はまかなえる。それよりも、農業・漁業・商業で1700億円を埋めることが大切。本土の人の手が必要。

[対朝鮮政策]
A 征韓論
 朝鮮への国交要求→拒否

・1868年10月、明治政府が新体制ができたという通告をした際、「皇」「勅」の字 に対して朝鮮が受け取り拒否をしたが、朝鮮は日本が西洋と結び、朝鮮 を侵略してくることを警戒していた。
・江戸時代は、対馬宗氏に恩恵として貿易をさせていた。朝鮮は対馬を属国扱いし、朝貢の形で貿易を認めていた。西洋風の条約で日本と対等の国交を開く意図 はなかった。事実上は鎖国。

 ∴武 力による開国要求(西郷隆盛ら、不平士族の活用)

・明治元年の段階で、木戸孝允は国内の不満をそらすため、朝鮮を攻めようと言ってい る。
・明治政府の最大の難物は没落してゆく士族が不平士族化してゆくこと。 西郷は士族から何とかして欲しいと頼まれる人物。薩摩藩が廃された後、薩摩の士族に商社を作ら せ、砂糖専売を引き継がせたりしていた。彼は征韓をおこなえば、士族を活用 できると考えた

 but征韓派抑圧で延期

征韓 派は1873年の明治6年の政変(征韓論政変)で下野。対朝鮮武力行使は一時中断。

B 日 朝修好条規(江華条約) 1876

Q10 朝鮮を開国させるためにはどうするとよいか?

A10 ペリーと同じことをすればよい。

   江 華島事件(1875)により黒田清隆が軍事圧力

・1875年9月、日本は「雲揚」など2隻の軍艦を朝鮮に派遣し、ソウルにつながる漢 江をさかのぼる。航路測量が名目だが明らかに挑発行為であっ た。ボートを下ろして江華島砲台に近付 いたところ、砲撃される
・日本は軍隊を下関に置いて軍事的圧力をかける。開戦できる 条件として、ポアソナードに国際法を調べさせ、各国公使にも通知。黒田清隆が特命全権大使として1876年2 月10日に江華島に上陸し、脅しをかけた。上国の清が、戦争となると負けるからやめるように説得。27日には日朝修好条規に調印

    →朝鮮に不平等条約押しつける
      釜山、仁川、元山開港
      治外法権認めさせ、関税免除
      清との宗属関係否定

治外 法権を持ち、協定関税で当面は無税とした。第一条で朝鮮と清との宗属関係を否定する。

 =朝鮮進出の足がかり築く but清との対立生じる

・新政府は10年経たないうちに、欧米に抑圧される一方、隣国に圧力をかける国とな る。岩倉の外遊の成果が出たのである。



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