<税制改革と殖産興業>
[政府財源の安定]

Q1 明 治政府の台所事情は厳しかった。日本中の土地を手に入れたはずなのに、赤字で悩んだ理由はなぜか?

 戊辰戦争の軍事費、藩債の引き継ぎ
  →大量の公債、不換紙幣の発行

Q2 廃藩以前の政府収入は2096万円である。しかし税収は932万円(年貢 88%、関税7%)しかない。あとの収入源は何か?

A2 公債と不換紙幣による収入が1014万円もある。不換紙幣は物価高をもたらす。

 but財 源が不安定で借金の解消不可

Q3 財 源が不安定というのはどういうことか?

A3 年貢収入に頼っていたためである。

 ∵年貢米=豊凶、米相場により歳入変動

・年貢は現物徴収であって運搬や保管に手間がかかる。旧藩の年貢の取り方を踏襲してい るので土地ごとに年貢率もバラバラだった。

Q4 どのように収入を拡大するのがよいか? ヨーロッパは地租は低く、関税収入、消 費税が多い。関税収入の拡大は可能か?

A4 日本は不平等条約があるため、関税収入は期待できない。

A 地 租改正

・松方正義は土地に目をつけ、土地所有権を国家が認め、地価を定めて地租をとることを建議した。
・江戸時代の土地は、幕府のものであり、それを大名が割り当てられたので大名のものでもあり、それを農民が耕したのだから農民のものでもある。農民の私有 地ではないため、売買は禁じられていた。

 1 封 建的土地法令の廃止
    ex)田畑勝手作の禁、田畑永代売買禁止令

・1871年、田畑作物の自由を認める。1872年、田畑売買を認める。この年から地 券交付を開始。

     →土地所有権の承認(地券交付・・・所有者、地価記す)

・地券交付が終了した地域から地租をとる。7年かかって完了。

 2 地 租改正条例 1873
    課税基準=地価(土地使用価値より計算)←収穫高
    税率=地価の3%(豊凶に無関係)
    納税法=金納(米相場の影響なし)←物納
    納税者=地主

・地租は地価の3%なので、地価がいくらになるかで金額が変わる。地価の算定は実売価格ではなく、計算で算出した。土地を貸した場合、毎 年6%の貸し賃を取れると考え、土地の使用価値で計算する。

Q5 地租と年貢ではどちらが高率か? AとBの比較
    A 作物収入−(地租+1/3地租=村入費)=6/100地価
      地租=3/100地価

    B 年貢=作物収入×4/10・・・四公六民(年貢率4割)の場合

A5 地租は収入の30%を占め、村入費を合わせると40%となる。年貢と変わらない。

B 地租改正の影響
 政府収入の安定

・1881年以降、税収入の65〜80%は地租収入となる。4300万円の固定財源を 確保する。

  but重負担と貨幣経済浸透→農民の階層分解進む

・定額地租のもたらすものは貧農と富農で違う。地租納入は収穫後すぐ。貧農は米価の安いときに換金して地租を納入しないといけない。富農はとりあえず手持ちのお金で地租を納め、米価の上がる来年の端境期まで待って米を 換金することが可能
・地租は全国一律なので富裕なものに有利に働く。

<モデルケース(富農と貧農)>
A家=6人家族で1町の土地を持ち、10石の米をとる。地租は12円。B家=6人家族で2町の土地を持ち、20石の米をとる。地租は24円。Bはどれだけ 豊かになれるか?
・秋の米価:1石=3円。A家は4石を換金して12円の地租納付。残り6石は飯米となる。B家は8石を換金して24円の地租納付。残り12石のうち飯米は 6石だけ。
・夏の米価:1石=4円。B家は残った6石を換金して24円を得る。次回からはこれを地租として納入し、収穫分は翌年回しにできる。2年目の米を夏まで持 てば、飯米を除いて14石を換金し、56円の貯金可能。
・累進課税ではないのでこういうことが起きる。

 富農の土地兼併
 地主・小作への分化

<モデルケース(地主と小作)>
・小作料=現物納であるため、米価が上がっても儲からない。
・1町を小作して10石の米をとる。小作は6石をとって残りを地主に支払う。地主は4石を売却して12円の地租を払う。1石=3円なら地主の儲けはない。
・米価というのは年々上がるもの。しかし、農民の反対もあって地価はなかなか上げられない。1石が倍の6円になったらどうするか。12円が地主の収入にな る。小作は現物で小作料を払うので、米価高騰の恩恵に浴さない

 寄 生地主の増大(現物小作料徴収、米価上昇で富裕化)

Q6 地租改正は、もう一つ別の面で農民の生活を圧迫した。当時の農民は、肥料や薪炭 をどうやって入手していたのか?

A6 村共有の入会地を持ち、そこで落ち葉をとって堆肥を作り、薪を得ていた。

  cf)入会山野の国有地化による生活圧迫

・土地の所有権を曖昧にし、生えている木を薪炭として利用してきた入会地は、所有権を立証できなかったために没収されて行く。国土の 53%が国有地となり、農民は刈敷、薪がとれなくなる

[殖産興 業]
  民間資本の蓄積不十分→政府出資の産業(大久保利通、内務・工部省主導)

工部 省は1870年に設置。鉱山、製鉄、造船、鉄道、機械製作などを管轄。官営工業の中心。1880年頃から民間払い下げが進み、1885年に廃 止された。伊藤博文が取り仕切る。
内務省は1873年設置。勧業、警察、土木が仕事であり、近代産業育成のためのインフラ整備に当たる。欧米の視察をおこなって産 業の遅れを痛感した大久保は、自らが内務卿になって殖産興業に力を入れる。

   cf)お雇い外国人の指導、

御雇 い外国人はのべ3000人。工部省だけで580人。
・造幣寮で貨幣を造ったキンダーの月給は1045円。米1石は3円なので、現在の米価換算なら1700万円となる。年収2億でプロ野球選手並。富岡製糸工 場長のブリューナは600円。岩倉が600円、大久保が500円、一等工女は1円75銭。工部省の経費227万円の3分の1は御雇い外国人の俸給だった。

  官営模範工場、内国勧業博覧会

内国 勧業博覧会は1877〜1902年に5回おこなわれる。発明品や優良物品を展示して近代化を刺激しようというもの。第1回は上野公園で開か れ、8万点が出展され、45万人が見に来る。最優秀は臥雲辰致のガラ紡だっ た。

A 官営事業
 1 富 国(輸出産業)=富岡製糸場、堺紡績工場

富岡 製糸場は300釜、210人の設備。士族の娘を募る。血を採られるとして応募は少なかった。一等工女になると他の指導にまわる。
堺紡績工場はもとは鹿児島紡績所の分所。鹿児島から機械を 移して官有になる。

 2 強兵(軍需産業)=東京・大阪砲兵工廠、横須賀・長崎造船所

東京 砲兵工廠は幕府の関口製作所が元。大阪砲兵工廠は 長崎製鉄所の機械を大阪城内に移す。
横須賀造船所、長崎造船所はいずれも幕府が持っていたもの を受け継ぐ。元はフランスの援助で作ったもの。

Q7 政府は北海道開拓に力を入れていた。その理由は何か?

A7 北辺の守りのために注目。ロシアは幕末には樺太開発のため、年間1万人の囚人移民や兵隊を送っていた。これと対抗するため、北海道開拓に全力をあげ る必要があった。もたもたしていると北海道をとられる可能性がある。


 cf)北 海道開拓=開拓使設置、アメリカ式大農場制度、札幌農学校

黒田 清隆が北海道開拓使次官、次に長官となって一国を任せられる。30歳。10年間にアメリカの西部開拓を手本として開発する計画で、米農務局 長ケプロンを連れてくる。労働力がないため、官営の模範工場 を作り、囚人や屯田兵に開拓させる。
・1876年、札幌農学校にクラークが赴任。8カ月いただけ であるが、寝食を共にして影響力行使。新渡戸稲造、内村鑑三ら が育つ。
・紡績工場、製糸工場などをアメリカの技術で移植する試み。しかし開拓は進まず、1877年でも、札幌の人口は2700人に過ぎなかった。

   but土地囲い込みによりアイヌ圧迫

・北海道はもともとはアイヌの島。原始林が生い茂り、数十万頭の鹿、熊、狼がいる未開 の地で、鮭の大群とニシンが押し寄せていた。アイヌは江戸時代には3万人とされる。
・アイヌは狩猟採集民族であり、自然に対しては敬意を払って利用してきた。着物を作るのに木の皮一枚取るにしても木の神に祈りを捧げ、片側だけを剥いで木 が枯れないようにする。
・アイヌは自然と共生してきたが、そのためには広大な土地が必要であり、開拓のためにアイヌに広大な土地を使わせることはできなくなる。また、アイヌは日本人に同化させないと対ロシアに対して不都合。1877年、 旧土人住居、山林、原野は官有地に編入する。
・1871年、アイヌ風俗を禁止し、日本語教育強制。入れ墨などを禁じる。
・開拓で入ってきた連中は自然破壊。まず鹿を乱獲。角は中国に輸出、鹿肉は缶詰で輸出。1875年だけで7万頭の鹿が獲られる。サケも自由に獲らせたため 激減。1875年、漁業権を設定してアイヌが自由に鮭を捕ることを禁止。1876年、鹿猟の制限。
・1883年、主食を奪われた十勝のアイヌは餓死寸前の状況。

     →北海道旧土人保護法下の差別

・1899年、絶滅寸前のアイヌを救うため、北海道旧土人保護法が出る。1万5千坪の土地を与えて保護。220メー トル四方に過ぎない。アイヌの土地は痩せていたり傾斜地だったりして、じきに農業ができなくなって取り上げられてしまう。これに対して移民は10万坪がも らえていた。
アイヌは差別されたため、日本人と同化することで生き残りを目指した。 「あ、犬だ」のいじめの他、近年まで就職や結婚で差別されていた。全く同化してしまったため、アイヌ民族が日本にいることに気づかない人が多い。
・萱野茂氏はアイヌ人のアイヌ文化研究家。アイヌ民族初の国会議員。「アイヌ民族から国会議員を」のスローガンを見たときは、何を馬鹿なことを言い出す者 が出てきたかと感じた。当時の参議院は、怪しげな芸能人がたくさん出馬していた。
・二風谷に私財を投じて資料館を作っていた。行ったところ、気さくに会ってくれた。アイヌ差別が横行。公務員などへの就職が難しかった。警察官になろうと して、最終面接まで残り、「苗字が○○か。アイヌだな」と言われて落ちることもあった。アイヌは不穏分子と見られていた。
・元もとは差別されるのでアイヌが嫌だった。祖母は学者から、研究目的で何度も血を採られた。博物館に入れるため、大切にされていたイクパスィ(神に供え 物をするときに使う箸)などを買いたたいて持ち去る本土の学者に反発。研究材料扱いし、仕事を奪い、文化も奪ってゆく日本人に抵抗し、持ち去られる前にア イヌの文物を集めようとする。
・アイヌ語しかしゃべれない祖母と暮らしていたため、アイヌ語が堪能。金田一京介が萱野氏と会い、アイヌ語が堪能なのを知って「神様はいい人を残してくれ た」。
・現在、アイヌ人を自覚している人は2万4千人。生活保護家庭は平均の2倍、大学進学率は平均の半分。目に見える形での差別を受けた経験のある人は9人に 1人(平成11年調査)。
・萱野氏は社会党の比例代表で出て次点。当選した者が死んで繰り上げ当選となる。1997年、その努力で、アイヌ文化振興法が出る。アイヌの人権尊重、アイヌ文化の振興目的。
・最後に残されたのは言葉。アイヌ語を守ろうという運動が起 きている。ラジオ放送でアイヌ語講座が持たれるようになった。

B 産 業基盤の整備
 1 鉄道(1872、新橋−横浜間開通)、電信(1869)

・1872年9月、新橋−横浜間が開通した。明治天皇臨席で開通式。30劼鬘瓜間ほ ど。一日9本。上・中・下等に分かれ、上等だと1円12銭。現在の貨幣価値だと2万円くらい。トイレなし。履き物を脱いで乗る客。この時、大阪−神戸間、 大阪−京都間も工事中。1880年には大津−神戸間が開通。

Q8 鉄道建設にはパターンがあり、東京から順につないでいない。どういうところから 作るのか?

A8 鉄道は港のそばから作ってゆく。

・このあたりでは武豊−大府間が最初。大津−神戸間の場合、反対側は長浜まで。琵琶湖 を連絡船でつないだ。東海道線は1889年に御殿場回りで全通。トイレをつけるが駅に止まると用を足すために駅が汚くなる。

・電信は1869年、東京−横浜間に敷設。軍事・警察のためであり、民間には1878年から開放。「針金便り」と称される。カナ1字が銀1分。遠くに届く ので電線に風呂敷を下げる。東北では「電信がくる」が「伝染病を引っ張ってくる」となり、電線に石を投げる。切り取るなどの行為。周りに囲いを作ったり陣 笠姿の見回りが来たり。キリシタンの魔術とされて電信棒を切り倒すことも。

 2 郵便(1871、前島密)

・郵便は1871年に官営で東京−大阪間に実施。1873年、民間の飛脚を禁じて全国 均一郵便税率となる。ポストを置いて「郵便」と記すが、「垂れ便」と読まれ、公衆便所と間違える。「口が高いので外国人用だ」。切手、ハガキの呼称は前島 がつけた。

 3 海運(岩崎弥太郎、三菱汽船)

・岩崎弥太郎は土佐藩の廃藩に当たり、藩債などをが引き取って所有汽船を入手。三菱会 社を興す。

Q9 三菱会社は政府の全面的な援助を受ける。海運は確保しておきたかった。どうして か?

A9 海運保護は軍事上の理由から。兵員や軍事物資輸送に欠かせないからである。佐賀の乱の時、政府軍を運んだのが最初。

・台湾出兵では、当初はアメリカ汽船をあてにしていて断られた慌てた。大商船隊を自前 で持ち、いざというときにはこれを使う方がよい。台湾出兵では政府が13隻の大型汽船を購入して三菱に預けた。この後も無償で貸与させ、その代わりに政府 は巨額の補助金を三菱に与えてイギリスのPO汽船と競争させて勝たせている。

 4 貨幣制度・・・新貨条例(円銭厘十進法)

・江戸時代は三貨制度。金=両・分・朱の4進法。銀=貫・匁。銭=貫・文。金1両= 銀60匁=銭4貫。金は江戸、銀は大坂中心に流通。
・両替に手間がかかるため、1871年、伊藤博文の建議で新貨条例が出て十 進法に改める。太政官札や民部省札の不換紙幣が大量にでていて、偽金も横行。ドイツのフランクフルトで印刷したゼルマン紙幣を出し、交換さ せる。兌換券とする予定ができず、不換紙幣となる。

 5 金融制度・・・国立銀行条例(渋沢栄一)

国立 銀行条例は1872年、資本金の4割を金貨で持った銀行を国立銀行として紙幣を発行させ、金兌換させようとしたもの。三井・小野組が第一国立銀行を創立し、渋沢栄一が頭取となる。第二は横浜、第三はすぐに解散し、第四は新潟、 第五は鴻池により大阪に作られる。紙幣はすぐに金に交換され、兌換に応じら れず破綻してしまう。
・1876年、金禄公債証書を引き受ければ額面の80%の紙幣が出せること にした。兌換の義務はなくしている。たくさん金禄公債を持っ ている華族は国立銀行を設立する。貧しい者の金禄公債を安く買いたたき、それによって紙幣が出せるので儲かった。153銀行まで作られ、 3400万円も不換紙幣を出し、インフレ招く。

※上からの近代化=民衆に受け入れられず

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