<近代軍隊の創設>
[武士の解体]

 武士(私兵)→国民皆兵による常備軍の創設

・版籍奉還後の藩兵は知藩事支配下に入ったが、この段階では明治政府直轄の中央軍はな かった。そのため、廃藩置県に備えての御親兵は薩長土からとった。これを近衛軍として1万人。これだけでは足りない。
・廃藩置県によって知藩事がいなくなったので、一元的常備軍整備が可能となり、新しい軍隊のあり方が問題となる。

Q1 常備軍は徴兵によって国民から集めることにした。武士を用いることを避けた理由 は何か? 武士を軍隊にすることのデメリットは何か?

A1 武士は身分制に基づき、世襲である。年をとっても武士として扱うことになり、俸禄を支払い続ける分だけ無駄が多い。徴兵で若いのをとった方がよい。

Q2 国民から兵隊をとれば、どうして武士で組織しないのかという不満が募るはず。ど うすればよいか?

A2 様々な特権を持った武士を解体し、一般国民と同列にする必要である。

A 四 民平等
 士農工商の平等(苗字、通婚、移転、職業の自由)

・江戸時代、苗字を名乗ることは武士だけの特権だった。一般庶民も持っていたが、長く 使っていないため、忘れている。近世に分家して成立したような家では認識していない。
・民部省役人・細川潤次郎「人間は平等だから武士だけに苗字があるのはおかしい」。明治3年9月に苗字を名乗ることを許可した。庶民は名乗らず。明治8年 に強制になった。

Q3 どうして強制したのか?

A3 同名が多くて紛らわしいからである。陸軍省が要請した。徴兵したときに苗字がないと呼ぶこともできない。名乗らない場合、戸長役人が適当な苗字を勝 手につけ、表札を打ち付けていった。

・わからない場合は名主がつけてやることが多かった。多くは地名。橋のたもとなので 「橋本」など。へんてこな名主にかかると、魚の名前や野菜の名前を付けられたりする。ファミレスのバイトに「鱸」さんを発見。
・「四月一日」で「わたぬき」。名主の家までの歩数で「九十歩」。
・日本人の苗字は本来は名字であり、名と呼ばれた土地の名を取って人の呼び名としたものである。どこかの名の持ち主がその土地の主ということになる。10 万種類あるとされる。

 →身分制改定
  大名・公卿=華族(2800人)・・・特権付与
  武士=士族(+卒族)(190万人)・・・秩禄支給
  農工商=平民(3100万人)

・卒族は足軽階級である。後に1代限りの者は平民へ。世襲だった者は士族に回して解消 した。

   cf)穢多・非人→解放令

・江戸時代に四民の下の身分に置かれていたえた・ひにんに対しても解放令が出された
・えた・ひにんの数は50万人、1.7%。江戸時代には差別をされていた。一般農民は 結婚を避け、着物も渋染めのものを着せたりする。裸足を強制したりチョンマゲを結わせないなどのこともあった。えた・ひにんはその中同士で結婚し、周りと は別の場所、川のそばのじめじめしたところなどに住まわせられていた。仕事は死牛馬の解体、死体の火葬などで、身分制の江戸時代では他には替われなかっ た。

Q4 どうしてこういう人たちが存在したのか?

A4 様々な説があるが、多くは中世末期の混乱で戦火で家を焼かれたりし、没落した人たち。ホームレスというよりも難民である。漂泊を続ける者と村で雇わ れて定住する者に分かれる。

・家を失い、村を離れざるを得なかったので、農業以外の仕事を探すことになる。戦乱で 多くの死牛馬がでるのでその処理をして皮革業をおこなう人が おり、これが「えた」と呼ばれる人になる。死体を扱うので穢れているとされたのである。武具を作るのに貢献したので大名は重宝した。血を洗い流し、川をな め すためには大量の水が必要。城下周辺の川のそばなどに住んだ。清洲城下、名古屋城下などにも形成されていた。
・漂泊してゆく者も出る。乞食、芸人、死体処理、番人として活動し た。これが「ひにん」と呼ばれる人になる。

Q5 「ひにん」の仕事のもとは乞食だった。この仕事の意義は何か?

A5 乞食のことを東北では「ホイト」と言う。目に出きる出来物は「ものもらい」だが、東北では「ホイト」。これは「祝ぎ人」の意味である。乞食はモノを もら うことで、くれた人から災厄を取り除き、幸福を授ける。芸人も同じ。厄を払って祝福する芸が初め。

・「ひにん」は、本来はケガレを浄めて幸いをもたらす職業だった。キヨメという。平安 時代には成立しており、祭りの時に先頭を歩き、神が通る前に道を清めたりする。八坂神社のツルメソ。犬神人などと呼ばれた人たちである。また、死体の処理 も請け負ったが、これも穢れたものを取り除く仕事だったからである。
・江戸幕府はえた・ひにんを被差別階級として身分固定するこ とにした。年貢を収奪する農民の下に設定することで、農民からの反発を緩和する目的だと言われる が、意図的に設定したものでもない。民衆側にも差別意識を持つ体質があったのである。例えば、ひにんはお上によって番太、目明かしとし使われ、庶民の監視 をさせたことで恨みを買っていた。
・差別をされる一方で、彼らの職業には他の者は就くことができず、保護されていた。皮革業、ササラ作り、箕作り、雪駄作り、芸人などの仕事を独占でき、年 貢を納める必要もなかったた め、経済的には豊かになれた。歌舞伎では千両役者が登場している。
・明治4年に解放令が出され、「身分・職業とも平民同然」とされた。これで職業選択は自由になったものの、納税や徴兵の義務が課されることになる。

 but「新平民」として差別

・今まで差別をしていたため、差別はなくならない。大和国柏原村の「えた」の庄屋は、付近数か村の大 庄屋に呼び出され、「解放令は5万日の日延べになっ た」と騙される。110年も先である。解放令反対一揆も発生している。
・皮革業の職業独占も崩れて細民化してゆく。貧しいので余計に差別される。戸籍には「新平民」「旧えた」と記載される。
・関西では、役場に「同和問題を解決しよう」の横断幕が必ずかかっていて身近な存在であるが、愛知県にいるとあまり知らないというものが多い。しかし、愛 知県は関西に続いて被差別地域が多いところである。尾張で2カ所、三河で2カ所の同和地区は規模も大きい。名古屋市内にも存在している。
・西尾張には「番人」と呼ばれる差別にさらされる人が昭和30年代まで多くのムラに住んでいた。各ムラにいて秋の収穫物の番をしていた。夕方に拍子木を叩 いて田からあげさせ、以 後、盗みに来るものを取り締まる。他には火葬の仕事をしていた。竈もないので穴を掘った中で焼いていた。収入は盆暮れに米や餅を恵んでもらいに歩く。最後 に世話になるため、結婚式では必ず呼んだが、座敷には上げず、小縁で食事をさせていた。当時を知るおばあさんの話では「本当に気の毒だった」という。
現在の最大の差別は職業差別と結婚差別。えた・ひにんの人 は異民族という誤解はさすがに減ってきたが、近親婚を繰り返したため、血が濃いので奇形が生まれるという噂は跡を絶たない。

「同和問題」私の考え

・同和問題の解決方法として2つの見解が分かれている。一つは事実を知らせなければみんな知らないのだから、放っておけば差別はなくなるというもの。もう 一つは、噂が立ったりして差別は残るの で、差別するのは理由のないことであることを知らなければいけないというものである。
・残念ながら、人間は他人を差別することで優越感に浸りたい性向を持っている。そうであるなら、放っておいても差別は再生産されるはずであり、いわれのな い差別がどれだけ問題のあることなのかを知らしめることが大切だと思う。

・大阪にある人権博物館「リバティ大阪」は、同和問題を始めとし、日本に存在する差別問題に正面から取り組んでいる博物館である。その最初の展示は、あな たはどちらがよいかという問いかけで始まる。
・「学歴が高いのと低いの」「健康なのと不健康なの」「金持ちと貧乏人」「よい仕事とそうでない仕事」など。そんなの決まっていると思うだろうが、実はそ こに差別意識が隠されている。何でもできて、競争で一番を続けてきた者が陥りやすい落とし穴である。
・「学歴」のところでは、ある予備校の出した「日本の大学30傑」が展示されている。さて、自分の卒業した大学はそこに入っているだろうかと見てしまう。 入っていれば一安心。では、入っていなかった人はどう思うのだろう。寂しい気持ちになるだろう。就職に際し、学歴差別があるのはよく知られている。有名大 学を出たって遊んでいた人もいれば、無名の大学で一生懸命に研究して実績を残した人もいる。しかし、世間では「○○大学卒業」が一人歩きしている。

・同和問題に取り組む近畿大教授の話である。三重県のある女性が相談してきた。「○○村が同和地区かどうか教えて欲しい」と言う。それはトップシークレッ トであり、「そんなことは教えられない」と答えると、「結婚前 提でつきあっていた彼がよそよそしくなった。女性の先祖の出身地を調べると被差別部落だった。行ったこともないところであり、親も知らないと言っている。 こんなことで結婚できなかったら本当に悲しいことだ。そこが被差別部 落なのかどうかをぜひ調べて欲しい」と泣き出したのだという。
・差別に関わることなので放っておけず、調べてみた。確かに○○村は差別を受ける人の住む地区の地名であったが、そこは被差別地区とそうでない地区に分か れており、依頼者の先祖の出身地はそうでない地区であった。「違う」と言ったところ、依頼者は「ああよかった」と答えたという。
・教授は、この答えには腹が立ったという。では、被差別地区だったらどう思ったのだろう。差別をされる不条理を知ることができたにもかか わらず、その立場でないことが確認された段階で他人事になっているのであり、差別者の意識に変わっているのである。
・差別をすると損をする社会を作ることが差別をなくすことにつながる。「リバティ大阪」では、えたの人たちの展示がある。皮を加工して太鼓を作る際の皮な めしの技術などを展示し、これだけの技術者をどうして差 別するのか、と訴えている。

Q6 武士が解体されたことで、無駄なものは何か?

A6 武士に払ってきた給料である。

 ※秩 禄(家禄+賞典禄)=国家財政の30%占める重負担

B 秩禄処分
 秩禄奉還の法 1873

武士 には退職金を支払うことにした。秩禄奉還の法は、 奉還を願い出た者には数年分の禄の半分を現金、半分を金利8%の公債で払うもの。1年分の国庫を 使って30%を処分。足りない分はイギリスで外債募集した。早めに退職を申し出れば退職金がアップするのは今も同じ。これで半分の武士は退職した。

 金禄 公債証書発行条例 1876
  公債による一時金支給で秩禄打ち切り

・残った武士に対して適用されたのが金禄公債証書発行条例。元高の数倍〜10倍を公債で支給するもので、今 度は現金はもらえない。公債は5年間据え置き で、1882年から抽選で金に換える。30年で全て換金する。公債なので金利5〜7%がつく。今で言えば国債をイメージすればよい。
・政府収入の3倍に当たる1億7000万円の公債を発行し、利子だけで1000万円を払うことになった。
・年間の金禄総額(利子や現金など、30年間で政府が士族に対して支給する金額の1年あたり合計?)1767万円のうち519万円は476人の華族で分け てしまう。残りを32万人の士族で分配することになった。
・18万石の大名なら、額面30万8000円の公債をもらえる。5%の利子でも1万5000円つく。当時は米1石が3円。今は約5万円なので1万6000 倍とすれば、利子だけで2億4000万円の収入になる。
・士族の平均額面は548円だった。5%の利子で現在の金額に換算すると年43万8000円である。これでは生活できない

C 士 族授産
 実業界(岩崎弥太郎、渋沢栄一)=政商としてブルジョア化

・一時金を使って事業に乗り出して成功するものもいた。
岩崎弥太郎は土佐の人。廃藩置県の時に藩船の払い下げを受 けて三菱商会を作って海運業を始める。後の三菱財閥を作る。
渋沢栄一は一橋家や幕府に仕えていた。大蔵省に入ったが退 官後は実業界に打って出る。第一国立銀行など金融界で活躍し、名を連ねた会社の数は500以 上。

 「士族の商法」

・とりあえず本屋か骨董屋を始める。家にあるものを並べたりするが、揉み手で客に接す ることができずに威張っているため失敗する。

 帰農、北海道開拓(屯田兵)=多くは失敗し没落

・帰農したもので有名なのは静岡牧ノ原台地の徳川氏の士族。福島安積原野の開拓は九 州、東北諸藩の3000人でやった。粥と大根飯で開拓したが借金がかさ み、入植10年目には8〜9割を高利貸しに持ってゆかれ、ほとんどが炭鉱夫、アメリカ移民、夜逃げで姿を消した。
・政府は北海道開拓事業のために大々的に士族を募集した。尾 張藩からは徳川慶勝が家臣たちに仕事を得させるため、開拓使から長万部近郊の土地の払い下げを 受けて入植させる。1878年。品川から船で4日かけて函館着。ここから歩いて入り、早速家から建て始める。15家族72人+単身者10人が最初。初めは 大豆などを作って自給。それでも士族には食料の支給があったため、飢えは少なかったとされる。今は八雲町になる。
屯田兵は1874年、東北諸藩の士族から募集して翌年入 植。ロシアの南下に備えて開拓者兼兵隊の性格を持たせたもの である。8畳、6畳2間で板張りの家を与え、食糧は保証した。起床ラッパで起き、人員点呼。一列横隊 で「かかれ」の合図で荒れ地を開墾する軍隊のような生活。1875年に千島樺太交換条約が結ばれ、北の脅威がなくなると一時募集が停止される。後にシベリ ア鉄道が建設されるようになり、北の脅威が復活する1890年代には全道要地で開拓が進められた。1899年に募集中止されるまでの25年間に37か村、 7337戸、4万人が入植した。このうち士族は半分以下。
・屯田兵でも成功した者は多くはない。失敗して土地を手放す者は多かった。

Q7 没落した士族は政府に対してはどのような感情を持つのか?

A7 政府を恨むだろう。

 →不 平士族化

・1884年には、公債証書の8割は食うに困った士族の手から放れ、高利貸しの手に集 められる。これら不平士族によって反政府運動が進められることになる。

[徴兵制 の導入]
Q8 徴兵制導入となれば、ノウハウのあるのは誰か?

A8 奇兵隊の実績を持つ長州藩である。

 大村益次郎、山県有朋の構想

・長州藩の大村、木戸は農兵を募って親兵とすることを主張。これに対し、薩摩派は薩長 土から精鋭を出させて親兵とする方針を出した。結局は大村益次郎の構想が山 県有朋に受け継がれ、陸軍が作られてゆく。

Q9 農民によって軍隊を作ることでのデメリットは何か?
      
A9 徴兵軍反乱があればどうするか。農民出身の徴兵軍は役に立つのかという疑問があった。

・軍隊創設をめぐる薩長の対立は、当面の敵を不平士族と見る(長州)か一般大衆と見る か(薩摩)の差である。
・1869年12月、長州藩では、用済みとなった奇兵隊などを解散する。維新最大の功労者が銀300匁の手切れ金でクビになった。1870年には2000 人で反乱を起こし、百姓一揆も発生する。これを薩摩は問題にしていた。
・外城制を持つ薩摩は士族人口が2割もいて(他藩は1割)、士族を外すことは難しいと考えていた。
・最初は薩摩が勝利していた。大村は西国諸藩の士族の反乱を恐れ、大阪を拠点に陸軍施設を作るが、士族を抑圧するものとして暗殺されている。その後、山県 有朋は国民からの徴兵による軍隊を作りたいと主張。西郷は反対したが、山県に説得された。
・1872年、兵部省を陸軍省、海軍省とした。御親兵を近衛兵としたが、士族の1万では足りない。

 1 徴 兵告諭 1872
    武士の否定、国民皆兵主義

徴兵 告諭では、上古は徴兵制だったとする。武士は威張って仕事もせず、禄だけもらえるのでおかしい。四民平等と自由を基礎とし、自己を守るため に兵役に つく義務があるとして、国民皆兵を主張している。

 2 徴兵令 1873
    20歳以上男子に兵役義務(陸軍=6鎮台(師団)に編制)

・3年間の兵役義務。その後は後備役として4年間過ごす。40歳までは兵籍にあり、戦 争になればかり出される。兵隊に行けば食糧と給料は支給された。
鎮台は東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本。兵員数は 31680人。鎮=しずめで国内の治安維持目的。対外戦争より国内の反乱に備える軍隊であった。
1888年に師団となった。師=いくさで対外侵略戦争目 的。1888年は朝鮮をめぐって清との対立が厳しくなる時期である。
・海軍は17隻しかなく、東京と長崎が本拠。

     cf)免役規定
       官吏、戸主または長男、代人料(270円)納付者

免役 規定があった。支配階級者と家父長制維持に関係する者の他は、身長5尺1寸以下、代人料270円納付者などが免役。結局、貧しい農家の次三 男が兵隊 になる。

  but平民の負担増大
    →徴兵反対一揆(血税一揆)、徴兵忌避の発生

血税 一揆=1873年5月、美作で発生。大阪鎮台兵が鎮圧。死刑15人、処罰26000人。

Q10 徴兵逃れの方法は何か?

A10 次三男であれば、免役規定を利用して積極的に徴兵忌避する。養子にゆくのが手っ取り早い。新潟では6歳の娘と養子縁組。やたらに分家が増えたりす る。そ のための手引き書がベストセラーになる。

・1876年の20歳男子人口は29万6000人。そのうち24万2000人は免役さ れていた。100人中6人しか徴兵できない。1883年、免役は不具 廃失に限るとしたら逃亡が増加した。1889年には35667人の逃亡が記録され、全壮丁の10%に当たる。それでも3万人が確保できればよかったのであ る。

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