2 近代国家の形成
<徳川勢力の一掃と新政府発足>
#1 [徳川勢力の一掃]
#2 A 王政復古の大号令(1867,12,9)
#3 B 戊辰戦争(1868〜1869)
#4 [新政府発足]1867,12,9〜
#5 A 五箇条の誓文 1868,3
#6 B 政体書 1868,閏4
#7 C 東京遷都 1869,3

2 近代国家の形成
<徳川勢力の一掃と新政府発足>
[徳川勢力の一掃]
 公議政体への討幕派の不満
 徳川氏、土佐藩の発言権大、政治秩序不変
 ∴クーデター必要

・大政奉還で幕府は政権を朝廷に返上したが、徳川氏は最大の政治勢力として残されている。これを打倒しなくては、封 建制を廃し、日本民族を結集させ、欧米の半植民地から独立する方向には向かない。新しい政権の中で徳川氏を排除するクーデターが必要である。
・進んで政権を返上した徳川氏をつぶすには大義名分が必要である。このため、尊王の志士を多く殺したということで朝敵に仕立てて領地を没収することを考え た。
・計画は大久保、西郷、岩倉で立てた。天皇の外祖父・中山忠能と結び、この方針で宮廷を動かす。京都守護職(会津)と京都所司代(桑名)の兵を引き取ら せ、代わりに薩摩、土佐、尾張、越前、安芸藩に命じて参内させ、兵で宮門を固める。そして12月8日、長州藩父子の朝敵赦免、蟄居を命じられていた岩倉の 復権、三条の返り咲きを会議で図るというもの。長州藩の罪を解くということは、反対にそれと戦った徳川氏を朝敵として処分するということに発展するのは見 え見え。
・討幕派は、自分たちの力だけでは足りないため、土佐、尾張、越前という大政奉還派も迎え入れざるを得なかった。山内容堂は事前に計画を知らされていた が、腹を立て、動かなかった。しかし、そのままだと自分が朝敵とされかねないので9日夕方に参内する。

A 王政復古の大号令(1867,12,9)

・薩長は御所の門を固めて徳川勢力を閉め出し、15歳の明治天皇が王政復古の大号令を出した。

Q1 王政復古は、かつての政治に戻るという復古的な印象がある。しかし、ここで復 すべき過去は建武新政や大化改新ではなく、「神武創業」であるとされた。これは何を意味するのか?

A1 復古というよりも新しく何でもやれるのである。

 天皇中心の政府(摂関、幕府廃止)
 三職(総裁、議定、参与)の設置

・幕府を廃して新しい政治をするため、三職を任命している。有栖川宮が総裁議定は2人の親王と公家3人、薩摩、土佐、尾張、越前、安芸藩の藩主。参与は岩倉など5人と5藩から3人ずつを推薦した。ここには徳川氏の名 前はない。
・大政奉還派は議定の山内豊信、松平慶永、これに対する討幕派は参与の西郷、大久保、岩倉である。

 →小 御所会議開く
  慶喜の辞官納地決定=徳川氏の反発

・新メンバーによる最初の会議が小御所会議総裁、議定、参与が出席した。
・山内豊信は怒っていて、「徳川内府が来ていないのはなぜか。200年の泰平を維持してきたのは徳川氏のお陰である。今は大政奉還をして忠誠を誓ってい る。内府を招かないのは、幼い天子を抱えて権力を私しようとしているのではないか」。岩倉は「御前である。慎め。皇室を侮り、勅命をないがしろにし、勝手 に欧米と条約を結んで勤王の志士を殺してきた。本当に反省しているなら官位を辞して土地・人民を朝廷に返せ」と徳川氏を糾弾した。松平春嶽などが抵抗した が、深夜12時になっても決しない。会議の様子を聞いた西郷は「短刀一つあればよい」と言い、反対派を殺すこともほのめかした。
・深夜2時、結局は徳川氏を処分することとなり、徳川慶勝と春嶽が慶喜に辞 官納地を伝えることに決定した。辞官納地の話を聞いて旧幕臣たちは憤激した。徳川氏として話が違うということになる。
・慶喜は京都に1万の兵を持っていたが、大坂城に退いて親藩・譜代が結集し、薩長が国元と連絡を取れないようにした。
旧幕府勢力は巻き返しを図り、山内は納地は徳川氏の処分で はなく、新しい政治に必要な資金を負担するものである。幕府が辞官納地するなら、諸藩もならうべきだと説得した。全ての大名勢力が辞官納地をした上で公議政体を作る路線を考えたのであ る。12月28日、慶喜は、納地は政治資金を分担するために実施するとし、徳川氏が処分されたのではないと主張して朝廷を納得させた。これで12月9日の 決定の骨抜きに成功したことになる。
・このままでは、やはり徳川氏の勢力が残ることになる。西郷は10月から江 戸に騒乱を起こす計画を立てた。 幕府に薩摩討伐の挙兵をけしかけようというのである。ここでは29歳の相楽総三を使った。相楽は下総の地主の子で、浪人やごろつきとわざと喧嘩をし、仲直 りとして羽織や金を与えて「食えなかったら薩摩藩邸に来い」といって人を集めた。11月末までに500人が集まる。彼らは30〜50人で徒党を組んで富豪 の家を襲い、3000両、5000両と盗んだりする。また、下野や相模では幕府打倒の挙兵があった。江戸では薩摩屋敷の浪人が江戸城襲撃という噂も流れる ようになり、江戸警備の庄内藩の屯所にも発砲されたりした。
・薩摩の挑発を受け、12月25日、勘定奉行小栗上野介の決断で江戸の薩摩 藩邸の焼き討ちが実行された。庄内藩兵1000人が主力で、相楽らは汽船で大坂に脱出し、あとは討ち死にしてしまう。このニュースは28日 に大坂に知らされ、幕府方を怒らせた。
・1868年1月1日、慶喜は「討薩の表」を出し、君側の奸を取り除くとして諸藩に薩摩打倒の出兵を命じた。2日、幕府側15000人が大坂を出て淀に 入った。まんまと薩摩に乗せられたのである。この日、京都朝廷では慶喜に上京を認めて公議政体を作ることを決定していたのであり、もう少し辛抱していれ ば、歴史は違う方向に動いたはずである。

B 戊辰戦争(1868〜1869)
 鳥羽伏見の戦い

・3日、幕府軍の到着を受け、朝廷は兵を引かないと逆賊として扱うと連絡した。伏見奉 行所の幕府軍に対して薩長土軍が対峙し、開戦となる。幕府軍15000、朝廷側5000で、朝廷側は負けることを覚悟していた。天皇を比叡山に移すと見 せ、薩長が守って山陰道に脱出する計画まで立てていた。

Q2 しかし、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍は苦戦している。これはなぜか?

A2 薩長の銃は元ごめのスペンサー銃。これに対して幕府は旧式のゲベール銃で先込めだった。幕府軍が一発撃つ間に薩長は10発撃てる。また、幕府側の指 揮官 は身分が高いだけで無能だった。朝廷側は錦の御旗を持ちだし、手向かうものは賊だと宣伝する。これで幕府軍に動揺が走った。

・4日、鳥羽・伏見を取りに行って阻止された幕府は、5日、淀城に退却しようとした。 しかし、淀藩兵は入城を拒否した。淀藩は幕府現役老中だったが、幕府を裏切った。幕府軍は山崎に退却したが、6日、今度は津藩が裏切り、「徳川家の恩は忘 れないが、勅命を受けた以上仕方ない」といい、返事も聞かずに幕府軍を攻撃してきた。紀伊藩など、日和見大名はこれで朝廷側に付いた。1月7日には慶喜追 討令が出る。
・大坂城の慶喜は、明日は陣頭指揮をとって反攻すると宣言し、部下は喜んで部署についた。しかし、慶喜は8日夜10時に大坂城を脱出して「開陽」に乗り、江戸へ逃げてしまう。将兵は「こんな事だから300年の天下を3日で失 うのだ」とグチをこぼして霧散してしまう。榎本武揚は大坂城の18万両を軍艦に移して江戸へ逃げた。
・この後、朝廷組織が整備され、事実上、新政府が発足した。 総裁は親王が就任し、一切の事務を専決した。議定は親王、公卿、諸侯が就任し、政策を決定した。参与は政策を評議した。徴士は諸藩士と平民の中から優秀な 人材を集め、議事所の議員を務めた。任期は4年であった。貢士は各藩藩主が差し出したもので、これも議事所の議員。大藩3人、中藩2人、小藩1人で任期は なかった。天皇を玉としていただく官僚政府の第一歩である。
・1月25日、諸外国が新政府を交戦団体として認知し、戦争については局外中立を決めた。外国が関心のある大坂、兵庫、長崎は新政府支配地であった。
・2月15日、新政府軍は薩長土が中心で東海、東山、北陸三道にそれぞれ5万を組織して江戸に向かう。総裁の有栖川宮が東征大総督となり、錦旗をかざして 東下した。この時に歌われた「宮さん宮さん」が日本の流行歌第一号とされる。
・勝海舟は新政府軍の東下に対し、慶喜に恭順を説得した。軍 事的には勝てても、民心が離反しているためである。2〜3月にかけ、信州、上野、武蔵一帯に空前の世直し一揆が 起きていた。主戦派の小栗上野の領地でも7000人が蜂起している。勝海舟は降伏の条件として、慶喜の助命と徳川家存続を要請した。西郷、大久保は不届き と言うが岩倉は認めた。勝にとって西郷が知り合いなので手紙を書くことにした。この手紙を持って駿府の西郷のところに行ったのが山岡鉄舟である。「江戸攻 撃をすれば大変が起きる」とし、幕府最高責任者を殺す下剋上をおこなえば、 民衆からの下剋上も心配だ と説いた。また、大きな戦いになると外国が介入する恐れもあった。1月18日、ロッシュは軍事援助をするので戦うように勧めるが慶喜は拒否している。ま た、アーネスト・サトウも西郷にフランスに対抗して援助しようと申し出ているが、「外国の人に頼む気はない」と言っている。このあたり、幕末の指導者は偉 かったと言える。
・東海道軍は3月12日、品川に到着。この間は一戦もしていない。江戸城総攻撃の日は3月15日に決定される。13日、西郷は高輪の薩摩藩邸に入ったが、 勝はただちに訪問した。14日、江戸城明け渡しと引替に慶喜は助命されて水 戸に謹慎、徳川家は田安亀之助が駿河70万石で相続すると決める。4月11日、江戸城が明け渡される。

 →江戸開城(徳川氏=駿遠70万石の大名へ)

・江戸開城後、薩摩に抵抗する幕臣が彰義隊に参加し、上野に篭もって抵抗した。幕府は 出家した親王を輪王寺宮として迎えていたが、これを押し立て、関東一円でゲリラ戦を展開した。上野にこもる1000人に対し、大村益次郎が2000人で包 囲殲滅する。

 奥羽越列藩同盟の抵抗

・新政府は会津、庄内を賊として追討する方針を出した。容保の斬首を求めている。これ は会津が禁門の変などで長州の恨みを買い、庄内が薩摩藩邸焼き討ちで薩摩の恨みを買っていたためである。
・西郷は東北諸藩に叩かせようとしたが、逆に仙台、米沢藩は寛大処分を嘆願してくる。5月3日、奥羽越後の25藩が白石で会合し、会津救済のために奥羽越列藩同盟を作ることになった。後に31藩に拡大 している。新政府の中心が薩長であり、これをよく思わなかったためである。
・会津攻略は8月23日〜9月22日の一カ月間で、藩士は全て従軍する。50歳以上は玄武隊、16,7歳は白虎隊を組織した。しかし、領民は政府軍の味方 となり、藩主を支持しなかった。新政府軍に炊き出しをしている。会津は落城す る。

  →箱館・五稜郭の戦い(榎本武揚投降)

・8月19日、榎本武揚は軍艦8隻を率いて蝦夷地に脱出した。フランス軍事教官も乗 り、18万両の軍資金を携える。東北戦争の敗残兵を収容して10月下旬に北海道に上陸し、箱館と五稜郭を占拠した。五稜郭は五角形の洋式城郭だった。
・蝦夷島共和国として榎本が総裁になる。英仏が榎本を交戦団体として認知した。しかし、プロシャ人に土地300万坪の99年租借を認めたりの失態を演じて いる。
・1869年春、雪解けを待って攻略が始まり、5月15日、降伏している。

 =旧 幕府勢力一掃

・政府軍の出征者は12万、戦死は3500人。幕府側の戦死者は4700であった。こ こには会津藩士の妻、娘200人が含まれている。これは日清戦争に匹敵する規模である。

   cf)民衆の討幕支持(御一新への期待大)

新政 府が勝てたのは民衆が討幕を支持したためである。1868年に出た「復古論」には、「建武新政は上の考えでおこなわれ、下、万民の考えでは ないのでつぶれた。今度は万民、草莽、浪士、藩士、大夫と伝染した下からの改革だった」と記している。明治維新は民衆が望んだことだというのである。

    →官軍への協力 but期待に反す(ex)赤報隊の処分)

・世直し、御一新に期待を寄せた民衆は、討幕の行動を支持した。新政府もこれを見て民 衆工作をおこなっている。赤報隊の活動はその一つで、幕府領 の年貢は半減という宣言を出すことを許可される。馬篭の青山半蔵は相楽一行に20両のカンパをしている。
・しかし、途中で年貢半減は撤回される。民衆の力が強くなりすぎて一揆が激発する状況に対し、新政府側が怖じ気づいた。2月29日、下諏訪の相楽に出頭命 令が出されて逮捕される。3月2日、相楽の字で赤報隊は全員集合という手紙が出される。出てきたところを全員逮捕される。3日、相楽以下幹部は処刑され、 その罪状は「官軍の名をかたって良民を略奪した」というものだった。

[新政府発足]  1867,12,9〜
A 五箇条の誓文  1868,3
 新政の基本方針を天地神明に誓う(由利公正、福岡孝弟、木戸孝允による)

・3月14日、新政府は政治の基本方針を出した。初めは天皇が大名に誓う形式だった が、これだと誓いを破ったときに天皇が咎められることになる。したがって、天 地神明に誓う形をとった。起草者は原案を越前藩士で参与の由 利公正が書き、それを土佐藩士で参与の福岡孝弟が なおし、さらに木戸孝允が訂正している。

 →開 明的内容

五箇 条の誓文はきわめて開明的であり、東久邇宮内閣が戦後政治の開始に当たり、民主主義の根幹であると述べたほどであった。

   公議世論の尊重、開国和親

・ポイントは「広く会議を興し、万機公論に決すべし」「知識を世界に求め、大いに皇基 を振起すべし」「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」の3つである。

Q3 どうして開明的な内容のものを出したと思うか?

A3 江戸総攻撃を前にして大名や外国の協力を得るためである。大名に対しては公議世論の尊重で公議政体を作るように見せかけ、外国に対しては「旧来の陋 習」の名で攘夷を否定している。

   ∵外国、大名の協力を得る必要

・五箇条の誓文は具体的なものではないため、どうとも読めるものになっている。公議世 論の尊重の部分について見れば、その中でも変化している。
・1月に出た由利案では、「庶民志を遂げ、士民心を一つにして万機公論に決すべし」となっていた。これは草莽の発想である。「士民」というところで民衆の意見も聞く振りをして いる。
・福岡案では「列侯会議を興し、万機公論に決すべし」となっていて、会議のメンバーは「列侯」とされて大名に限定された。これは公議政体論の流れであり、 少なくとも民衆の政治参加は否定されている。
・木戸案では、「広く会議」として、その会議に誰が出るのか、大名も全部入るのか、それとも一部の実力者に限るのかの線引きが全くうやむやにされている。

 cf)五 榜の掲示
   幕府民衆統制の継続(徒党、強訴、キリシタン禁止)

・同じ日、新政府は民衆向けのお触れを出している。幕府の統制策を継続させたもの。「五倫の道」を守ることとして「君臣の 義」「長幼の序」などの儒教道徳を説いている。他には徒党や強訴の禁止、異人殺傷の禁、脱国の禁も盛り込まれている。徒党や強訴は「万機公論に決すべし」 の誓文とは明らかに矛盾している。

B 政体書 1868,閏4
 新官制の発足

・三職は臨時のポストだったので、これだけでは政治がまわらない。江戸が新政府の手に 落ちた後、新しい官制を発足させた。
・天下の権力が太政官に帰することを宣言している。従来の総裁はなくし、議定や参与を新官制に分けたものである。福岡と副島がアメリカの「連邦史略」をも とに作った。

 太政官7官制
 三権分立=行政官、議政官(上局、下局の議会制度)、刑法官

・この制度は太政官7官制と呼ばれる。太政官は三権の3機関に分かれ、それぞれに7 官を配置している。
立法は議政官上局=議定+参与、政策、法令などを審議。下局(げきょく)=諸藩の貢士、上局から下げられた議題の審議)。行政は行政官+神祇、会計、軍務、外国官の5官(天皇を補佐して政 治)。司法は刑法官(監察、裁判)が担当している。

 官吏公選制

・各官は任期4年で、公選入札で半数交替とした。

 but実 体は公家、大名、藩士の派閥連合による政治

・官吏公選は無能の参与を辞めさせるために一回だけ実施しただけで、あとはやっていな い。
・議会制度は「広く会議」を形にしたものだったが、議決機関ではなく討論クラブだった。上局は一回だけしか開いていない。下局は貢士対策所、公議所、集議 院、左院と、4年で5回も名前が変わっている。「切腹禁止令」が出たとき、武士の体面をめぐって論争があり、大久保はあきれて「議会はまだ早い」と言って いる。議会制度を整えても、機能しなかった。

C 東京遷都 1869,3

・7月、江 戸を東京と改称し た。10月13日、天皇が江戸城に入り東京城とする。孝子や節婦を褒賞し、老人に慰問の金品を渡して人気取りをし、12月22日、京都に戻った。往復費用 は77万両で、今の金額では10億円以上になる。翌年3月に東京に来てそのまま居続け、明確な宣言のないままなし崩しで東京が首都になった。

 明治への改元(一世一元制発足)

・1868年9月8日、慶応4年を明治と改元した。この時に一世一元を制度として定めている

Q4 元号とはどういうものなのか?

A4 東洋の紀年法で、一つの年をもとに何年と表すもの。元号は皇帝は時間も支配するという思想から作られたものだった。天皇の代替わりによるものが一般 的だが、天変地異や不作などの時には改元がされていた。また、何代もの天皇が同じ元号を使うこともあった。

・天皇一代で改元が相次げば権威も不安定なものになってしまう。明和9年は安永元年と 改元されている。「めいわく」になって縁起が悪いということで、語呂を重視したのである。明和は天皇の代替わりでできたはずなのだが、その天皇の権威は語 呂合わせに負けたことになる。

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