<薩長連合と幕府の滅亡>
#1 [薩長連合の結成]
#2 A 薩長両藩の外国との接触
#3 B 討幕による新政体樹立への動き
#4 C 列強の対日政策
#5 [幕府の滅亡]
#6 A 第二次長州征討(1866)
#7 B 討幕の動き

<薩長連合と幕府の滅亡>

[薩 長連合の結成]
A 薩長両藩の外国との接触

・薩長両藩の提携の契機は、互いに外国と戦って敗北した経験の中から出てくる。戦った と言っても全面戦争ではない。

 1 薩 摩藩
  生麦事件(英人殺傷)

・1862年8月21日、久光が江戸から帰る途中、神奈川に近い生麦村で4人のイギリ ス人と遭遇し、斬り殺した。殺されたリチャードソンは上海から避暑のために横浜に来ていた。この日が月曜日で遊歩日だったので馬に乗り、男性2人、女性1人の友人と一 緒に遠乗りに出る。大名行列に遭うと面倒と言われるが、アジア人の扱いには慣れていると言って出てきた。久光の行列が来て脇に寄れと言われ、脇を行くと駕 篭が来た。今度は引き返せと言われたが、馬を返そうとした時に切られ、落ちたところをとどめを刺された。生麦事件という。
・1863年2月、イギリスは幕府に対して犯人逮捕と賠償金を要求した。10万ポンドを20日以内に払えと言い、受け入れられなければ24時間以内に攻撃 するとした。軍艦12隻を出して圧力をかけてきたため、幕府は5月9日に賠償金を払っている。しかし、犯人は薩摩にいるため、それについて幕府は薩摩に掛 け合えと言うしかない。

  →報復:薩英戦争(1863)(鹿児島の砲撃)

・イギリスは、薩摩藩に対して犯人引き渡しと2万5千ポンドの賠償金を要求してきた。 6月27日、圧力をかけるため、アームストロング砲101門を搭載した軍艦7隻で鹿児島の南12キロに迫った。薩摩は10砲台、83門の軍事力である。薩 摩はイギリスの要求を拒否したため、イギリスは薩摩藩汽船3隻を拿捕し、乗り組んでいた五代友厚、寺島宗則を連行した。これを契機に戦闘が開始され、台風 来襲の風雨の中、砲撃し合った。
・旗艦ユーリアラスは油断して砲台の前に接近し、普段練習で撃っていた砲弾の軌跡に入った。徹底的に撃ち込まれ、艦長は戦死し、全体では60名が死傷する 大被害を出した。
・薩摩の砲台の射程は1キロで、この外に離脱すれば射程4キロのアームストロング砲の威力が優った。薩摩藩の砲台は沈黙させられ、鹿児島市街も1割を焼失 し、集成館も破壊された。
薩英戦争の敗戦で、それまでは攘夷論者だった大久保も攘夷 の無謀なことを知った。「小攘夷」を捨て、外国の長所を導入して富国強兵に 努め、武力で万国に対峙する「大攘夷」に進むべきという考えに転換してゆく。

  ∴外国の実力知る=イギリスへの接近

・薩摩は賠償金を払い、犯人の逮捕と処刑を約束した。一方、イギリスも薩摩の実力を知 り、幕府に代わる安定政権を作れる存在と期待し、薩摩が軍艦を買う際の仲介を約束した。これにより、薩摩とイギリスは関係を強化してゆく。

 2 長 州藩
  関門海峡封鎖
  →排除:四国艦隊下関砲撃事件(1864)

・長州は下関事件のあと、対岸の小倉藩領を占領し、砲台で睨みを利かせて関門海峡を外 国船が通れないようにしていた。外国船は横浜・長崎間のルートを断たれる。オールコックは、列強に軍事力による排除を持ちかけ、四国連合が結成された。
・伊藤博文、井上馨は密航してイギリスに来ていてこのいきさつを知り、あわてて帰った。藩庁に戦争回避を訴え、封鎖を解くように説得するが無駄だった。
・8月5日、英9隻、仏3隻、蘭4隻、米1隻が下関に終結し、大砲288門で攻撃をしてきた。午前4時に開戦となり、4日間に及ぶ戦いで砲台は完全に破壊 され、大砲109門が奪われる。高杉・伊藤の働きで和議が結ばれた。この四 国艦隊下関砲撃事件で、長州藩も攘夷などできっこないということを知る。

  ∴攘夷の無謀知る

Q1 中国に対してはアヘン戦争やアロー号事件を見ると、イギリスはちょっとしたこと で因縁を付けて戦争を起こし、中国の半植民地化を試みている。下関事件などをきっかけに全面戦争を仕掛けてくることもできたはずであるが、どうしてしな かったのか?

A1 欧米列強はアジア人との戦争には懲り懲りしていたし、手が回らなかった。オールコックは「アジアの民族で抵抗しなかったものはない」と言っている。

・アジア民衆との戦いの例として、イギリスが手を焼いたセポイの乱が 挙げられる。19世紀半ば、インドを抑える4万のイギリス兵の下に22万のインド人傭兵・セポイがいた。その後、インドの植民地化が進み、セポイの待遇は 悪化した。宗教的な理由から、豚か牛の脂を塗った弾筒の使用をセポイが拒否したことで厳罰に処される出来事があり、インド人をないがしろにするイギリスへ の不満が爆発した。1857年5月、セポイは打倒イギリスを目指して蜂起している。イギリスは鎮圧に手こずり、2年後の59年4月まで戦う羽目になった。
・中国では、この時期に太平天国の乱が起きている。アヘン戦 争後の賠償金支払いのため、清朝が農民に重税をかけたため農民が蜂起した。1851年、洪秀全がこれをまとめて「太平天国」を建国し、南京を占領して17 省を制した。太平天国は、清が締結した条約の破棄を主張したため、列国が鎮圧に乗り出した。10万人以上が殺害され、1864年7月に太平天国は崩壊す る。
・これらのアジアの民衆の抵抗は、欧米諸国に自制心を芽生えさせた。日本が大規模な侵略を受けなかったのはこのためである。

Q2 外国の実力を知ると、日本も一刻も早く富国強兵を進め、外国に対抗する実力をつ けなければ植民地にされるという危機感が募るようになる。そのためにはどのような政治形態がよいか。

A2 幕府のもとで大名が地方分権で政治をしている状況では難しい。中央集権が必要。その中核に幕府がなれるか。別のものを持ってくるか。


B 討幕による新政体樹立への動き
   日本の植民地化警戒→藩論転換、下級武士台頭
   薩摩=西郷隆盛、大久保利通

・西郷は幕府の海軍操練所を経営する勝海舟と会い、勝に「幕府に力はない。大名会議で 政治をするのがよい」と言われ、その先見性に驚かされている。勝は坂本龍馬などの浪人も抱えていて、頭の固い幕臣とは一線を画していた。西郷は従来通りの 公武合体路線で幕府中心の政治をしてゆくことに疑問を持つようになった。
・薩摩藩は幕府に無断でイギリスに留学生を派遣していた。その寺島宗則、五代友厚らが帰国し、大久保に対して諸藩連合による統一政権が必要であることを進 言した。それをまとめるためのトップは「最上の君主」である天皇がよいとした。西郷、大久保は幕府を見限り、諸藩連合による共和政治を目指すようになった

   長州=高杉晋作、木戸孝允

・長州藩は下関事件で米仏に簡単にやられ、武士の無力さを露呈した。外国来襲の恐れが 強く、一般庶民にも武装を許し、陣地構築にも庶民をかり出す。女台場は萩の北海岸に武士の奥さんたちが土を運んで築いた。人材登用も急ピッチで進み、山県 有朋、伊藤博文は、この時に足軽から抜てきされる。

    cf)奇兵隊による保守派の一掃

高杉晋作は志願制の奇兵隊を組織した。正規軍に対する「奇兵」の意味で、この他にも多数結 成される。ひっくるめて諸隊と言い、半数以上は農民、町人 だった。これが後の徴兵制へと展開される。
・1864年11月、高杉は博多に逃れ、諸隊を使って藩庁を攻撃する段取りを立てた。「死んだら墓の前に芸者を集めて三味線を弾いてくれ」と言い、決死の 覚悟だった。12月16日、下関の役所を攻撃して奪うと、瀬戸内海の豪商は 諸隊を支持した。経済発展している地域のブルジョアは新たな発展を求めて正義派を応援したのである。高杉は保守的な萩の勢力を倒し、実権を握った
・この頃、桂は朝敵とされていたため、もとの名前だと藩としては都合が悪く、藩命によって木戸孝允に改名している。木戸は「下関を開港し、世界に出てゆ く」という方針を立て、そのためには旧勢力の幕府は倒す必要があると主張し、藩主の支持を得た。
・志士が個別に動いていても大きな力にはなれない。水戸のように分裂してテロに走ったら失敗する。ことを成すには藩権力の掌握が大切なのであり、長州はこ れで政治主導権を確保することができた。

  亀山社中(海援隊・坂本龍馬)を通じ、イギリスの武器購入

・長州は朝敵のため、外国から大っぴらに武器を買うことはできない。当時、南北戦争の 中古品が上海には大量に出回っていて、その武器の斡旋をグラバーがしていた。薩摩がグラバーから盛んに武器を購入していたので、長州の伊藤博文や井上馨は 薩摩藩士の名義でミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁を買い付けることにした。
・この薩摩の武器を長州に運んだのが坂本龍馬である。勝海舟 門下の神戸海軍繰練所出身で、繰練所が閉鎖されたため、その航海技術に目を付けた薩摩藩にかくまわれていた。坂本は長崎に行き、亀山に社中を作って海運業 を始めた。薩長両藩の物産を売却し、武器を購入する商社であり、薩長間を行き来したことから、坂本が両藩を提携させる存在となった。薩長バラバラで動いて いてもダメだと説得する。

 →薩 長連合(討幕密約)の成立(1866)
   坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介

・1866年1月、西郷、木戸、坂本が京都薩摩藩邸に集まって同盟を結んだ。薩摩は八 月十八日の政変以来の仇敵のため、木戸はものを言わなかった。坂本が促し、西郷が謝罪をしたことで話がまとまる。攻守同盟であり、幕長戦争が起きた場合、 長州敗勢の時は薩摩が援軍を出す約束をする。新たな「皇国」=統一政権を作 ることを目指した

C 列強の対日政策
 1 イギリス(パークス)

・1862年、外交官として着任していたアーネスト・サトウ(日本名:佐藤愛之助)は 日本をよく理解していた。「英国策論」を執筆し、横浜の英字新聞「ジャパンタイムス」に掲載される。翻訳されて京都や大坂の書店で販売されたが、中には 「幕府では外国人殺傷に対処できない。天皇が本当の元首であり、諸大名の連合政権に期待する」と書かれている。イギリスと薩摩とは利害が一致している。
・1865年5月、オールコックに替わり、パークスが着任。パークスはサトウの路線を歩むことになる。

    貿易発展のため安定政権必要
    →薩摩援助(cf)鹿児島紡績所建設)、討幕促す

パー クスは鹿児島を訪問し、西郷と会談。イギリスの方針を説明し、意気投合。薩摩藩はパークス接待に2〜3万両を使う。
・薩摩藩はイギリスから機械を取り寄せ、鹿児島紡績所を建 設。1867年操業を開始し、日本最初の機械紡績所。イギリスは薩摩に対 し、討幕を促す

 2 フ ランス(ロッシュ)
    幕府を援助、フランス式軍隊の育成

・フランスはイギリスのライバル。公使のロッシュは1864年3月に着任。ナポレオンの対外伸張策の中で、極東 市場の拡大を考えていた。「イギリスはアヘン戦争で見られるように侵略国である。フランスは違う」と言って幕府に接近。最大の封建領主が統一国家の元首になる構想だった。幕府内 には、小栗忠順(ただまさ)のような親仏派が結成されてゆく。
・幕府は、フランスの援助で横須賀製鉄所の建設に着手し、軍艦を作る計画を立てた。第二次長州征討がおこなわれる頃になると、ますますフランスに頼るよう になる。長州を抑えるために横浜にフランス軍隊が駐留することを喜んだり、敗戦後はフランスから軍事教官を招いて1万数千人のフランス式軍隊を養成し、一方では軍艦も購入している。
・幕府内の官僚組織の充実を目指し、老中の役割分担をはっきりさせて首相、陸相、海相、内相、蔵相、外相に匹敵するものを置くようになった。これは絶対主 義政権を目指したものという評価がされている。
・歴史は単線的に発展するという考えがあり、封建制→絶対主義→市民革命→ 帝国主義というヨーロッパ式の発展を日本の歴史にも当てはめる試みがされている。江戸時代の封建制の次には絶対主義が来るが、これは商業資 本が台頭して小領主と対立するようになった際、国王が調整役となり、専制を 強化して強力な常備軍を作り、官僚制を導入して対処するものである。フランスのルイ14世がその例で、日本では、在郷商人などの台頭で大名 がこれを抑えられなくなってきたため、最大の封建領主の幕府が絶対君主化し たという。

    →生糸貿易独占、北海道開拓権要求

・幕府は大砲もフランスに注文したが、費用捻出が難しかった。フランスは生糸を租税と して納めさせ、フランスに輸出するように進言。当時、イギリスは日本貿易で大量の生糸を買い付けていたため、フランスはロンドンに入った生糸を買うことで 国内の需要を満たしていた。これを直接マルセイユに入れ、日本産生糸を独占 しようとしたもの。イギリスの反対で失敗している。
・600万ドルの借款契約も進め、見返りとして生糸貿易独占のための商社設立や北海道開拓権を与えることが話されている。

Q2 開拓権を与えた場合、どのようなことが心配されるのか?

A2 北海道開拓権を与えると、フランスが開拓した鉱山や敷設した鉄道は全てフランスのものであり、最後には土地も取られることにつながりかねない。日本 の半植民地化を招く危険な政策。これらは、実現前に幕府が瓦解して事なきを得ている。

・アメリカに対しては江戸・横浜間の鉄道共同経営権を与えるなど、幕府は列強に利権を 供与している。これらは明治政府が補償金を払って回収せざるを得なかった。

[幕府の滅亡]
A 第二次長州征討(1866)

・フランスと提携して力を付けた幕府は反動化し、参勤交代を復活させる。一方、長州藩は反幕府的な姿勢を強め、10万石削減と藩主蟄居の長州処分は実行し なかった。のみならず、下関での密貿易や軍備増強がばれてしまう。

 幕府権威の高揚かける
 but薩摩不参加で士気低下、長州の洋式軍隊の前に苦戦

・幕府は長州藩に対し、処分の履行を求めて軍事行動を計画。これに勝って、一挙に幕府 権威を高めようとした。今回は薩摩藩は参加してこないため、長州藩も屈せず、幕府は大坂まで将軍を出陣させて圧力をかけることとした。第二次長州征討という。
・1865年5月16日、家茂は家康伝来の金扇、銀三日月の馬標を立て、大坂に進軍。しかし長州は屈服しない。天皇から長州攻撃の勅許を出してもらった が、それでも降伏しなかった。1年間もにらみ合いが続き、幕府側は士気が低下し、金もなくなって大坂商人に250万両の御用金献納を命じることになる。
・ここで帰れば幕府の権威は形無しなので、やむなく1866年6月に開戦となった。芸州、石州、小倉口は苦戦を強いられ、大島口だけが優勢という有様だっ た。

  一揆・打ちこわしの激化

・戦いが始まると物価が高騰し、一揆・打ちこわしが激化した。摂津国慶応二年一揆と呼ば れるものは、5月8日、米価が3倍になったことを受けて2000人 が兵庫で打ちこわしを起こしたもの。5月13日には大坂に飛び火し、885軒が打ちこわされて1500石の米が奪われる。犯人は「元凶は大坂城内にいる」 と言って将軍を非難した。
・一揆は5月末に江戸に波及し、6月13日からは10万人参加の武州大一揆が 勃発している。
・1866年の一揆は71件、打ちこわしは25件で近世最大であり、幕府支配の天領内が多いのが特徴。

 →将軍家茂の死去で撤兵=幕府権威の失墜、諸大名の離反生じる

・7月、家茂は大坂城で死去した。21歳の若さ。幕府は将軍病死を口実に撤兵し、新将軍は慶喜になる。
・幕府は長州一つ相手に勝てなかったのであり、権威は地に墜ちた。 諸大名の中にも幕府から離反する動きが出てくる。

B 討幕の動き

Q3 薩長は討幕で手を結んだが、討幕派にとって邪魔な人間がいる。誰か?

A3 孝明天皇である。彼は攘夷は望んでも討幕はしたくなかった。

 孝明天皇急死、明治天皇即位討幕可能

・1866年12月11日、孝明天皇は風邪をおして神楽の見物をした。直後から発熱 し、17日には天然痘と診断される。23〜24日は食欲もあって膿も止 まったが、突然容態が急変し、25日に死去した。36歳。遺体には斑点が生じていたといい、毒殺されたのではないかという噂が明治の頃から出されている。 その場合、やるとすれば岩倉ではないかとされる。これによって明治天皇が即 位したが、年齢は15歳であり、薩長としては思い通りに動か せる年齢だった。

 1 徳 川勢力打倒の動き
  薩長芸三藩盟約(1867,9)→討幕密勅出る 1867,10,14

・長州の罪を許すため、4侯会議が開かれ、島津、山内、伊達、松平が参加。しかし5月 に決裂する。
・9月には大久保と木戸が話し合い、これに芸州が加わって三藩が共同出兵を約した。9月下旬に京都を占拠し、大坂城を攻略する計画。しかし、薩摩が決断で きず到着が遅れて延期。薩摩藩兵が長州に来たのは10月上旬になってから。
・討幕には大義名分が必要であり、これを確保するため、岩倉を通じて討幕勅 命を天皇に出させることにした。岩倉他3人で書き、10月14日に薩摩と長州に与えられた。明治天皇の許可を取ったものというがはっきりし ない。これで挙兵ができるようになった。

 2 徳 川勢力存続の動き
  土佐藩公武合体(公議政体論)の主張
  ”天皇−議長(徳川氏)−列藩会議(大名)”
   cf)坂本龍馬のプラン、後藤象二郎の建議

・討幕の挙兵となれば、大きな内戦となって列強の介入を招く恐れもある。武力討幕では なく、穏健な形で新政権を作り、近代化を進める道もあるはず。
土佐藩は、独自の公武合体論である公議政体論を掲げて将軍慶喜に接近し てきた。公議は会議のこと。
・幕府は政権を朝廷に返上し、新しい政治体制を作る。新しい国は天皇をトッ プにいただき、その下に公議政体という会議を置く。議長には最大の大名である徳 川氏が就任してイニシアチブをとり、各大名が議員として政策を論じる、というプラン。徳川氏としては、幕府は滅びるので名は捨てることにな るが、議長とし て主導権を握ることはできる。
・このプランは坂本龍馬のものとされる。土佐藩の後藤象二郎は、元土佐藩士の坂本に接近し、航海技術を手に入れて土佐藩 の経済力を強化しようとした。このため、土佐藩のもとに海援隊が設立される。
・1867年、後藤は坂本と同じ船に乗って長崎から京都へ行った。坂本はここで新国家の構想「船中八策」を述べた。それは朝廷による政治、上院下院の設 置、軍隊の整備、憲法の制定などのプランである。後藤はこれを元に武力討幕を避け、自発的に政権を朝廷に返還し、列藩会議の議長に旧将軍が就くプランを立 てた。

  →山内豊信の15代将軍慶喜への説得
  ∴大政奉還 1867,10,14

・この考えは、土佐前藩主山内豊信を通じ、10月3日に老中に提出され、慶喜は14日に朝廷に対 して大政奉還を上表した。討幕密勅と大政奉還は同日だったた め、武力討幕は実施されないことになる。

 幕府独裁制廃し、公議政体樹立目指 す(幕府の滅亡)

・幕府独裁体制は崩壊し、徳川氏を中心とする公議政体の樹立に向けて動くことになっ た。

※世直 しを期待した民衆の討幕支持
 ∵農民の階層分解による社会不安、矛盾

・この頃、一般民衆はどうしていたのか。農民の階層分解が進んで貧窮する者が増え、現 状から救ってくれる新時代の到来を期待していた。このため、討幕を支持し ていた。新時代到来の期待を「世直し」と呼んだ。

Q4 この頃、「世直し」として貧民が期待していた現象は何か?

A4 地震である。

・地震は金持ちにも貧乏人にも分け隔てなくおとずれるが、金持ちにより多くの被害をも たらし、借家に住んで失うところのない貧乏人は、地震後 の復興で仕事にありつけることになる。地震は貧民にとって最大の世直しであった。1855年の安政の大地震では江戸で7000人が死んでいるが、これに よって職人は儲かり、次の地震を期待するようになった。しかし、地震は能動的ではないので「世直り」である。
・この他、弥勒の世が来ることへの期待もあった。弥勒は釈迦の死後56億7千万年後に出現し、全てを救うメシアである。弥勒を期待して「実禄」などの私年 号を使うところもあった。

 新興宗教の発生(貧民の救済) ex)天理教、黒住教、金光教

・不安な気持ちは人々を宗教に向かわせる。既成の宗教では救われないので、新興宗教が流行る
天理教は大和の中山みきが開いたものである。13歳で大庄 屋へ嫁ぎ、夫と厳しい姑に仕えた働き者であったが、夫は浮気がちで家庭的には恵まれなかった。 1838年、長男が謎の病気になったとき、山伏を招いて、寄加持と言って神を誰かに乗り移らせて病気の原因を探ることになった。この時、神が乗り移る加持 台がいなかったため、みきに乗り移らせることにした。みきについた神は天の将軍と名乗り、「みきの身体を貸せ」といって三日三晩の神がかりが続いた。
・みきは、この後、病気直しを開始した。医者にかかれないような貧しい人たちがみきの元に集まり、加持を受けるようになる。みきは金持ちに嫁いだが、家庭 的に恵まれなかった。むしろ助け合って生きている「貧民こそ本当は幸せ」として、財産を処分して貧民の立場となり、「谷底せり上げの道」を掲げて貧民救済 を目指す。天理王命=天理に従って奉仕生活をすれば、互いに愛し合える理想の世になると解き、「陽気暮らしの世」を作ろうとする。つまり世直し。現在は信 者170万人を数え、地元の丹波市は天理市と改名している。
黒住教は黒住宗忠が朝日を拝んでいるうちに日の神との一体 感を得て天命を受けたとして布教し始めたもの。金光教は川手 文治郎によるもので、土地にいる廻 り神の金神の祟りを恐れ、動けなくなったことがきっかけで創唱された。そのうち、そんなものは迷信であり、金神も望んでいない。暮らしやすいように暮らす のが一番として迷信を排撃して布教を始めた。
・これらは、明治になって教派神道として認められている。

 「世 直し」一揆(貧民による豪農の襲撃→質地返還、村政改革)

・「世直り」を期待したり、宗教にすがったりする以外に、民衆が直接行動に訴えて「世 直し」を実現しようとしたのが世直し一揆。攻撃対象はお上で はなく、自分たちの土地を奪っていった豪農たちであり、土地の取り戻しや村の政治改革を要求。

 cf)「え えじゃないか」の発生(1867)

・世直し一揆が、宗教的色彩を帯びて起きたのが「ええじゃないか」。伊勢神宮のお札が降ったと言って、何かめでたいこ とが起こる、世直しがされるとして民衆が踊り狂った現象。
・江戸時代には爆発的に伊勢信仰が高揚する年があり、その時はお蔭年と 言って、たくさんの人が伊勢にお蔭参りをした。1650年、 1705年、1771 年、1830年が記録されていて、ほぼ60年に一度。どうしてこの年がお蔭年だったのかはわかっていない。伊勢神宮は、もともとは天皇家の祖先神を祭るも ので、平安時代までは一般の参拝は許されていなかった。しかし、朝廷の力が衰えるとそれでは神官たちが食べてゆけなくなり、御師という布教者を組織し、全 国に伊勢信仰を広めて廻った。この時は、天皇の祖先神の内宮に加え、その神に食物を用意する外宮の神を農業神として宣伝している。東国では、一生に一度は 伊勢に参るものとされ、関東当たりでも「死に伊勢参り」の言葉が残っている。
・お蔭年には参拝者が殺到するが、1705年の場合は、50日間で362万人が参拝した。また、伊勢参りに必要な旅費がなければ、この年は沿道の人たちが 施しをする慣わしで、柄杓一本を持って、お金を恵んでもらいながら行くことも可能だった。普段、主人にこき使われている使用人や、夫にしたがっている奥さ んなど、抜け参りと言って主人などに無断で伊勢に行っても怒 られることはなかった。一種日常のストレスから解放される年がお蔭年だった。
・「ええじゃないか」は、実際に幕府が倒れて世直しがされそうになったとき、お蔭参りの伝統の上に立って日常のストレス発散で起きたものと理解されてい る。
・1867年7月下旬に吉田でお札が降ったのが最初で、名古屋は8月下旬に降っている。東は江戸、西は広島まで行き、関西では10月下旬に大流行してい る。ちょうど大政奉還の時期。
・それぞれの地域ごとの民間信仰と結びついて発生しているが、お札降りは共通している。お札は豪農や豪商の家に降り、民衆がめでたいことの前兆だからと 言って、その家に太古や笛を奏でながら踊りながらやってきて、金品、飲食を強要するようになっていった。「これくれてもええじゃないか」「それやってもえ えじゃないか」と言う具合である。疲れると寝込み、起きればまた踊り出す。女装、男装して踊るところから、秩序を破壊する騒ぎだった。
・豊明市の阿野の場合、村の豪農のところに繰り返し降り、酒を振る舞っていることがわかる。幕府崩壊から明治政府発足にかけて、民衆はこういう形でその動 きを支持していたと言える。

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