<公武派と尊攘派の対立>
#1 [幕府の公武合体構想]
#2 [雄藩の政界進出]
#3A 薩摩藩=公武合体→江戸
#4 B 長州藩=尊王攘夷→京都
#5 [薩摩・長州の対立]


<公武派と尊攘派の対立>

・井伊直弼暗殺により、幕府独裁体制は続けることができなくなっていった。幕府政治を維持するためには権力強化を図る必要がある。

Q1 どうすれば幕府の権威を高めることができるか?

A1 朝廷権威を利用することが考えられる。日本では、天皇の伝統権威はいざというときに活用されるものだった。

Q2 天皇権威と幕府権威は矛盾しないのか? 天皇権威を高めると、幕府はないがしろ にされるということはないのか? 天皇権威をどのように利用して幕府権威を高めるのか?(確認)

A2 天皇権威を利用する立場を尊王論という。初期の尊王論は幕藩体制強化の考えだった。この背景には、江戸時代を通じて朱子学がもてはやされたことがあ る。朱子学の大義名分論は、「目上の者には一生懸命仕えろ」という考えである。幕府が天皇を崇めることで、下々のものは天皇に仕える幕府を崇めることにな ることを期待している。天皇−幕府−大名−藩士−人民のピラミッド秩序を作ることで、幕府の権威も高まるのである。

 公武 合体=朝廷+幕府+雄藩連合→体制維持、内外の事態に対応

・公武合体の考えはここから登場する。これは幕府が唱えたものと雄藩が唱えたものがある。
・幕府は朝廷と幕府が手を結んで政治をする形を考え、旧一橋派の雄藩は、ここに自分たちが加わることで政治に介入しようとした。いずれにしても、公武合体の考えは古い体制を守ろうとするものである。

 尊王 攘夷=攘夷→討幕→朝廷主体の政治体制

・同じ尊王の立場でも、尊王攘夷は体制変革の考えである。外国貿易の開始によって日本は混乱し ている。この混乱を収拾するには外国人を追い出す攘夷が必要となる。孝明天皇は攘夷を希望しているので、その意を汲むことは尊王を実施することになる。
・これだけのことであれば、尊王攘夷の思想は変革に向かわない。無謀な外国人排斥思想であり、発展しない。
吉田松陰は天皇と人々との関係において、「一君万民論」を唱えた。天皇−幕府−大名−藩士−人民というピラミッ ド状の体制ではなく、個々人が天皇に直接 つながり、忠誠を誓う形を念頭に置いていた。これであれば、幕府も大名も藩士も人民も、様々な階級が天皇への忠誠を共有することになり、横断的な結束が可 能になる。

Q3 一君万民論に基づけば、どのような政治体制が作られることになるか?

A3 江戸時代のようなバラバラの主君に仕える分権体制ではなく、天皇中心の集権国家の建設へ道が開けることになる。

Q4 その政治体制は、日本ではできたのか? いつのことなのか?

A4 明治政府がそれを作った。ここで、尊王論が中央集権国家を築く理念になることがわかるだろう。

Q5 攘夷は外国人を追い出すだけの行動で終わるだろうか? 追い出せないときはどの ようなことになるのか?

A5 攘夷は外国勢力に対抗する考えである。目の前の外国人追い出しは失敗する。これを「小攘夷」という。追い出せない場合は、日本の国力を高めて外国に 対抗 しようということになる。これを「大攘夷」という。ここでは、開国、国力充実、富国強兵、海外進出で列強と張り合うことになる。

天皇 を中心として結束し(尊王)、内外の危機に対応して海外進出を果たす(攘夷)というものは、近代日本の路線である。このレールが幕末期にで きている。この点で尊王攘夷思想は重要となる。
・中央集権化と海外進出は、日本が生き残るために必要な路線とされた。最後の太平洋戦争では、「鬼畜米英」をやっつけろが合言葉であり、「天皇陛下万歳」 といって特攻していった。まさに尊王攘夷である。結局は破綻してしまう。
・尊王攘夷思想の中身は変転している。初めは佐幕的尊王攘夷である。しかし、安政の大獄で尊王攘夷派が弾圧され、討幕的尊王攘夷へと変わる。この時は「小 攘夷」である。各藩の実力のある下級武士に尊王攘夷派が生まれる。「大攘夷」にはいつ変わるのか?。

[幕府の公武合体構想]
 老中安藤信正の就任

・井伊直弼暗殺後、安藤信正が老中首座となり、久世広周とコンビを組んで水戸藩対策を練っ た。朝廷権威の利用で幕権の強化を図ろうというものであり、公武合体路線で ある。

  →朝廷権威の利用で幕権強化図る(公武合体)

Q6 朝廷権威を利用するに当たり、もっとも手っ取り早い方法は何か?

A6 親戚関係となればよい。伝統的な政略結婚政策である。

 =和宮降嫁(孝明天皇妹と家茂の結婚)

・当時、将 軍家茂は13歳だった。有力な花嫁候補は孝明天皇の妹宮の和 宮、13歳である。彼女は有栖川宮と婚約済であり、これを解消して結婚させる必要があった。
・和宮は心細いところには行きたくないと懇願したため、孝明天皇は幕府に娘の寿万宮ではだめかと問い合わせる。彼女は1歳であり実現は難しかった。
・朝廷の策士の岩倉具視は、ここでは幕府に恩を売り、その代わりに天皇が希望する攘夷を幕府に約束させるべきと進言し、天皇はそれに従うことになった。岩 倉はこの進言のため、後に尊王攘夷派の志士に命をねらわれ、隠遁生活を送る羽目となる。

  攘夷と引替に実現

・和宮は10月20日に京都を発した。江戸行きに反対する勢力があり、東海道は危険であるとされ、中山道経由で下った。7800人の大行列であり、馬篭宿 の記録によれば、1時半に先頭が到着し、夜まで往来していたとされる。11月15日に江戸に到着して婚礼となる。
・家茂は第二次長州征討に出陣し、そこで病死する。和宮は5年後には未亡人となってしまい、18歳から死ぬまで、一人暮らしとなる。政略結婚の犠牲者で あった。
・仲はよかった。将軍夫婦の夜の会話は、全て記録されている。家茂の大坂出兵に際し、和宮は西陣織が欲しいとおねだりしている。家茂は約束通りに反物を買 うが病死してしまい、和宮は送られてきた反物を抱いてさめざめと泣いたという。

 but政略結婚に尊王攘夷派の憤り

・幕府は攘夷は実行するつもりがない。条約を結んでいるのに反故にすることもできない し、戦争になっても困る。幕府の進めた公武合体は形式的なものであ り、和宮が犠牲になったいう声があがった。攘夷にこだわる孝明天皇を廃帝にするのではという噂も流れたため、安藤を襲撃する計画が立てられる。

 →坂下門外の変 1862
  水戸浪士により安藤負傷

・1月15日、安藤は6人の水戸浪士によって坂下門外で襲撃される。 訴状を出してピストルで撃つパターンは桜田門外の変と同じであった。警備が厳しくなっ ていたため、安藤は負傷しただけで命は助かった。しかし、戦わないで逃げたのが武士らしからぬ振る舞いであったとしてクビになる。

 ・・・幕 府主導の閉幕

[雄藩の政界進出]

・坂下門外の変により、幕府が政治を主導することさえできなくなった。この後、幕府の 弱体化を見て取った雄藩が政治に乗り出すようになってくる。 中心は薩摩、長州である。
薩摩は天保期の政治改革に成功して台頭してきたものであ る。この藩は、幕府予算の4倍の500万両の借金を抱え、その利息の支払いが年収を超えていた。絶対に返せない。これに対し、下級武士の調所広郷が抜てきされて改革に乗り出した。
・調所は借金を整理することが先決として、金を借りていた三都の商人を集め、利息は払えないと宣言し、残りについては250年賦払いにすると宣言する。抵 抗する商人に対しては、証文を破り、あとは煮るなり焼くなりしろと開き直る。この結果、事実上の借金帳消しに成功していた。
・この後は砂糖の専売、琉球経由の密貿易、てんぷら金の鋳造などで財政再建を果たす。しかし、調所はあくどくやりすぎたため、幕府に密貿易を追求されて切 腹に追い込まれる。
・この後、島津斉彬が改革を引継いだ。しかし、これは下級武 士が成功させた改革路線を藩主が乗っ取ったものである。調所が残した100万両の貯金(これは小銃10万丁分だった)を使い、斉彬は集成館を建設してガラ スなどを製造している。
・下級武士の改革を藩主が受け継いだため、薩摩藩では藩主の政治発言力が強 いままに残された。したがって、幕末の政界進出でも、いきなり西郷や大久保が登場するのではなく、まずは藩主に連なる久光が出てくる。

A 薩摩藩(島津久光)公武合体→江戸

島津 久光は斉彬の弟。斉彬の死後、久光の子供が藩主となり、その父として実権を持った。久光は幕府のおこなった見せかけの公武合体ではなく、こ こに雄藩を交えた実質的な公武合体を主張した。
・1862年3月、久光は兵1000人を連れて上京し、朝廷にこの方針を明かして承認をとった。この後、勅使・大原重徳(しげとみ)を連れ、6月に江戸へ 行き、安政の大獄の失脚者の返り咲きを企てた

  文 久の改革(一橋慶喜将軍後見職、松平慶永政事総裁職)

・この改革を文久の改革という。幕臣を押し切って実現し、隠居していた一橋慶喜、隠 居慎みの処分を受けた松平慶永が復権してきた。また、参勤交代を3年1勤と して大名の負担を軽減する措置もとっている。

Q8 文久の改革とは、実際にはどういう立場の者を復権させることになったのか?

A8 旧一橋派である。

   =旧一橋派による幕府門閥勢力の一掃 cf)寺田屋事件(尊攘派志士弾圧)

・一方、薩摩藩の下級武士は、久留米水天宮神主の真木和泉の影響を受け、討幕を考えて いた。真木は最も早く、討幕を主張した人物で、天皇が天下を取り、徳 川氏は甲斐・駿河の大名でよいと言っていた。そのためには諸侯に勧めて兵を挙げるか、諸侯の兵を借りて大坂城を乗っ取る。それがだめなら同志だけで事を起 こし、京都市内で攪乱戦術をとり、天皇を比叡山に連れ込むというプランを立てていた。
・薩摩藩の討幕派は久光が討幕に動いたと判断して京都に結集した。有馬新七が中心で真木も京都に来て、公武合体派の公卿を切ろうと計画した。
・久光はこれを聞いて激怒し、有馬の友人、奈良原喜八郎ら9人を刺客に選んで「寺田屋」に差し向けた。挙兵を辞めるように説得したが応じないため、「上 意」と叫んで切った。有馬ら6人が即死した。寺田屋事件は薩 摩藩の同士討ちである。

B 長州藩(下級武士=桂小五郎、高杉晋作)尊王攘夷→京都

・薩摩藩が江戸で幕府に対して政治工作をしている間、京都では別の動きが長州藩によっ てもたらされていた。
・長州は銀85000貫の借金抱える。財政改革のために専売を強化したが、反対一揆が起きて失敗していた。どうにも困ってしまい、下級武士の村田清風を抜 てきして改革をおこなわせることとした。村田は藩の財政事情を公開し、広く一般から改革案を募集した。この中で、長州藩では下級の者でも自由にものが言え る風潮が作られていった。
・改革で成功したのは越荷方の設置である。西廻り航路を使う廻船が関門海峡で潮待ちをするのに目をつけ、これに資金を貸し出す金融業をおこなって儲けた。 下関の豪商の白石正一郎なども政治に関わるようになり、下級武士と結んで活動資金を供与したりしている。
・藩主の毛利敬親は下の者に任せていたため、いきなり下級武士が政界に進出し てきている。

Q9 下級武士が台頭してくる長州藩では、薩摩藩とは異なって、その主張はどうなって ゆくか。

A9 藩主などに比べれば、もっと過激な考えを持っていた。高杉晋作は「大名も公卿もあてにならない。志士の結束が必要」と、土佐藩の坂本龍馬に呼びかけ た。「尊王攘夷のためには幕府も藩も滅びてよい」とまで言うが、これは幕府の老中や藩主では出てこない発想である。

・長州藩の下級武士は、公卿に対して公武合体を捨てさせ、尊王攘夷に転換す るように政治工作を繰り広げた。そのために、京都市中で「天誅」を繰り返した。 安政の大獄関係者、公武合体派をねらい打ちにし、天皇側近や関白九条尚忠(ひさただ)の家来が殺され、看板付きで首がさらされた。和宮降嫁を企てた岩倉た ちは脅迫され、頭を丸めて隠遁している。このようなテロによる恐怖で公武合体派の公卿勢力は後退し、急進派で尊王攘夷を叫ぶ三条実美が台頭した。

 急進派公卿(三条実美)との結合

・9月に久光が京都に戻った時は、長州藩が公卿たちを尊王攘夷に変身させていた。攘夷 を願う天皇はこの動きに乗っかった。久光はこれを見てガッカリし、鹿児島に帰ってしまう。
・天皇は、約束の攘夷をいつやるのかと幕府に問いつめる。1863年3月、家茂が京都に呼ばれて攘夷の約束を迫られた。将軍上洛は3代家光以来200数十 年ぶりのことだった。

 →攘 夷の命を出させることに成功(1863,5,10実施へ)

・3月11日、賀茂神社行幸で攘夷の祈願がおこなわれ、4月11日には石清水へ行幸 し、攘夷の節刀を家茂に渡す段取りだった。これが渡されれば攘夷をしなくてはいけなくなる。家茂は仮病をつかい、慶喜が代理で出た。しかし、直前に腹痛に なったという。
・天皇は何月何日に攘夷をするのか返事をしろと迫ったため、幕府は1863 年5月10日に攘夷決行を奏上した。ただし、向こうが攻撃してきたらということであり、実際に攘夷を実行したのは長州藩だけだった。

 cf)下関砲撃事件(1863)
  長州藩による米・仏・蘭船への砲撃

・長州藩では、彦島〜長府間の15キロに14砲台、117門を築造していた。5月10 日、米船ペムブローグ号(横浜→長崎)が関門海峡で潮待ちをしていた ところに、長州藩船庚申丸が暗闇に乗じて砲撃した。米船は豊後水道に離脱したが、この後、仏船キンシャン号に壇ノ浦砲台から砲撃し、さらに庚申丸、癸亥丸 が追い討ちをかけている。蘭船メジュサ号は攘夷のニュースを聞くが無警戒で接近してきた。オランダはかねてからの交易国であり、油断があった。結局砲撃さ れて30発が被弾し、メインマスト、煙突を打ち抜かれ、死傷者9を数える大被害を出した。
・長州砲台の実力は射程距離4キロまでだった。キンシャン号には180発撃って7発しか命中せず、当たったものも球形弾で威力はなかった。結局、逆に攻め 込まれて砲台を破壊されてしまい、攘夷は失敗に終わった。

[薩摩・長州の対立]

・攘夷派は真木和泉主導で攘夷親征を決定し、討幕の兵を挙げようとした。8月13日、 孝明天皇が10余の大名に随行を命じて大和行幸をおこない、神武天皇陵を参拝して攘夷の祈願をする。これを合図に討幕の挙兵をするというものだった。
・しかし、天皇には攘夷はしたいが幕府を倒すことは考えなかった。「和宮を討たなければならないし、外国を叩くには武備が整っていない」。天皇は怖じ気づ き、公武合体派の中川宮朝彦親王に不安を漏らした。中川宮は京都守護職の松平容保に相談し、会津は薩摩に応援を求めた。
松平容保は文久の改革で京都守護職になっていた会津藩主で ある。守護職は京都の治安維持をおこなう役職で、話があったとき、容保は引き受けると会津藩に 災いと考えて固辞している。しかし、切望されて引き受けることになり、その後は孝明天皇の信任篤く、徹底的に尊王攘夷派を取り締まっている。しかし、これ が後の会津戦争の伏線になる。

 薩摩藩の巻き返し
1 八月十八日の政変 1863
 薩摩・会津による尊攘派公卿の一掃(cf)七卿落ち)

・薩摩と会津は、天皇の周りを取り囲む尊王攘夷派の公卿を追い出し、穏健派の公卿でか ためようと考えた。8月18日、このためのクーデターを決行する。 夜 中の1時、御所の9門を閉じ、ここを薩摩・会津藩が固めた。天皇が公武合体派公卿に参内を命じ、それ以外の公卿は中には入れないこととした。御所では攘夷 親征を延期するとともに、尊王攘夷派公卿の参内を禁止し、尊王攘夷派志士(真木、桂)の指名手配が決められた。長州藩は駆けつけて薩会と対峙するが、勅命 の前に撤退せざるを得なかった。
・三条らと長州藩兵は、天皇を薩摩にとられ、19日、長州へ退いた。

  cf)尊攘派の挙兵の失敗(天誅組の変、生野の変)

・天皇をとられた尊王攘夷派は、この頃に討幕の挙兵を相次いで起こしている。天 誅組は草莽崛起の考えで、8月17日、いち早く討幕挙兵に踏み切っていた。 土佐の吉村寅太郎が急進派公卿をトップにして30名で五條代官を襲撃したものである。しかし、この間、京都で政変が起きた。天誅組は十津川に籠もり、郷士 1000名を集めて拠点とした。十津川は南朝の天皇が立て篭もって以来、郷民は武士の格式であり、朝廷に対しての思いが強いところだった。しかし、9月 25日、攻撃されて敗退した。
・平野国臣は天誅組と呼応して応援しようと、急進派公卿を押し立てて但馬で挙兵した。生野の変という。天誅組崩壊後は弔い合戦となったが、10月12日、 2000人で生野代官所を襲撃し、翌日には鎮圧されている。

 京都守護職松平容保による尊攘派弾圧(新選組による ex)池田屋事件)

・京都に残る尊王攘夷派の残党狩りには新選組が使われた。新選組は、1862年、江戸で尊王攘夷派の横行に苦 しんだ幕府が、取締のために200人の浪士を集めて作ったものである。
・局長の芹沢鴨は乱暴で女たらしだったため、仲間に暗殺された。この後は近藤勇が局長になり、副長は土方歳三、一番組長には沖田総司がついた。初めは24 人の隊だったが、そのうちに130〜140人の大部隊になった。京都見回りが任務である。
・近藤は試衛館で教えた剣術の達人だったが、真剣でないと弱かったという。気合で切る剣術であり、「今宵のコテツは血に飢えている」が名セリフとして知ら れる。字が下手だが、手習いをして別人のような字になった努力家であった。難しい連中を5年にわたって統率した技量はすごいとされる。
・新選組は1863年の将軍上洛について京都へ行っていた。8月18日以後は尊王攘夷派の取締に乗りだし、袖に山形の衣装で、「誠忠」の旗を掲げた。
・尊王攘夷派は洛中に放火して天皇を長州に連れ去り、松平容保を討つ計画を立てた。1864年6月5日、20人の志士が旅館・池田屋に集まる情報を得て、 新選組が夜10時に襲撃した。池田屋事件という。近藤の気合 で「100万の味方」を得たとされる。血の風呂に入ったような状況で、この時、桂は屋根づたいに逃げたと伝えられ る。近藤は「一時あまり戦った。みんなの刀は折れたが、自分のはコテツなので無事だった。二合せした者は覚えているが、今回は凄腕が多かった」と語ってい る。

 =公 武合体派が天皇を擁す

・政治は完全に公武合体派に握られ、参与会議が招集されるようになった。天皇の前で慶 喜、容保、慶永、久光、山内豊信、伊達宗城が会議をして政策を決定する形である。

Q10 追い出された長州藩が政治的発言力を取り戻すにはどうするのか?

A10 天皇を取り戻すしかない。天皇は「玉」と呼ばれ、これを手に入れた者が日本を動かせるのである。このように、天皇はその意志とは無関係に政治勢力 に利用される。これがよい意味でも悪い意味でも、日本の政治が抱える一つの問題点である。

2 禁 門の変 1864
 長州藩が天皇奪還企てる

・長州では、久坂玄瑞たちが天皇を取り戻して攘夷打ち払いの実行を主張した。これに対 し、一度攘夷を実行してこてんぱんにやられた経験から、桂や高杉は「大攘夷」に転換し、久坂たちを抑えようとしていた。
・ここに池田屋事件の知らせが入り、一挙に京都奪還の藩論にまとまった。家老・国司信濃らは京都へ攻め込み、7月19日、開戦となった。これが禁門の変、 または蛤御門の変と呼ばれるもので、天皇奪還のために御所を攻めたものである。長州は会津の誇る15センチ砲の前に敗退し、真木や久坂は戦死した。京都で は、28000戸が3日間で焼失する騒ぎであり、長州は賊扱いとなった。

  but薩会連合の前に敗退=古い尊攘派の解体(cf)天狗党の乱)

・禁門の変の敗戦は、やみくもに外国人の打ち払いを叫ぶ古い攘夷派の解体を意味している。小攘夷を叫び続けても、実現不可能な ことがわかりだしていた。
・この時期には、各地で同様の古い尊攘派の解体が起きている。1864年3月、水戸藩の激派が筑波山で挙兵し、幕府に鎖国攘夷を迫ろうとした。しかし、鎮 圧されたため、武田耕雲斎が800人を連れて10月に上京し、京都にいた慶喜に志を訴えようとした。一行は戦いながら信濃から美濃に行き、行く手を阻まれ て越前に入った。しかし、12月、ここで討伐され、380人が処刑されている。天狗党の乱という。これで水戸藩は政界から姿を消すことになった。
・水戸藩は安政以後、1500人もの藩士が政争で倒れ、政治主導権をとれなかった。藩が一枚でなく、分裂した勢力がテロに走ったためだったと言える。

3 第 一次長州征討 1864
 禁門の変の罪を問い、幕府、薩摩軍などが出兵

・長州藩は御所を攻めたため、これによって朝敵となった。幕府は西国の21大名に出兵 を命じ、尾張慶勝が1万7千人を率いて長州を攻めることになった。
・この主力は薩摩で、西郷隆盛が征長総督参謀であった。幕府 は広島、小倉に布陣したが、西郷隆盛は戦費をかけると年貢増徴につながって民心が離反するので、戦わずして勝つ戦法をとった。
・包囲された長州藩では全面的に恭順しようとする俗論派と、表面は恭順して武備を整えようとする正義派がもめた。結局は俗論派の天 下となり、11月18日 の総攻撃を前に禁門の変の責任者として家老3人を切腹させ、首を差し出して謝罪した。この直前に四国艦隊下関砲撃事件があったことも屈服した原因だった。 幕府は、領地削減を柱とする長州藩の処分を考えた。

 →長州降伏、藩内保守派が下級武士抑える
※公武合体の推進
 cf)薩長の反目=幕府の安泰

・長州征討が成功し、長州藩内で討幕派が抑えられたことから、幕府滅亡の危機は去っ た。雄藩の代表である薩長が反目している間は、幕府は安泰な のである。 ここまで、薩長は常にライバルとして対立を繰り返してきている。この両藩が手を結んだとき、幕府は危なくなる。やがて、手を結ぶときが来るのである。

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