<幕府独裁制の閉幕>
#1[幕政の混迷]
#2A 幕内の対立
#3B 井伊直弼の大老就任

<幕府独裁制の閉幕>
[幕政の混迷]

A 幕内の対立
 ハリス駐下田総領事の通商要求

・1856年7月、寧波領事からハリスが日本にやってきた。53歳の老獪な外交官。ハリス着任は日本側 には寝耳に水であった。
・領事の派遣について、日本文条約文では「両国においてよんどころない事があった場合、模様により」着任となっており、日米両国が必要としないと着任は認 められない。しかし、英文条文は「either of two govenments」となっていた。eitherは形容詞なら「両方の」と訳すことができるが、代名詞だと「どちらか」となる。これは「両国政府のうち どちらかが」と訳すべきものであり、漢文もオランダ語もこの訳になっていた。誤訳であることに気づいたが、後の祭りになる。ハリスは下田の玉泉寺に領事館を設置した。通訳にはヒュースケンという 25歳のオランダ人を連れてきた。
・ハリスは通商条約の締結を要求してきたが、これは大問題で あった。「和親条約」は特別の計らいで外国に来航を許してやっているという立場のものであり、外国人はすぐに帰って行くので日本人との接触もない。これに ついては朝廷も許可していた。しかし、通商条約となるといろいろな品物が日 本に入り込み、外国人商人もたくさん出入りすることになる。影響が大きい。
・ハリスの通商の要求にしたがい、幕府は1857年5月、下田条約を締結。貿易に先立ち、輸出入に必要となる通貨について同種同量交換を定め、外国人が日 本で犯罪を起こした場合の領事裁判権について交渉している。
・日本は欧米諸国と貿易をしないのではなく、今までもオランダとは貿易をしてきた。1857年8月、日蘭条約を結び、長崎、箱館でオランダとの通商が開始 している。それまで江戸時代を通じておこなってきた通商関係を条約化したもの。この貿易は会所貿易でおこなわれていた。会所に日本品を陳列し、オランダ商人に注 文してもらう。一方、外国のものは幕府役人が必要とするものを買う。幕府役人立ち会いのもとで制限されておこなうため、この貿易なら統制が可能であり、拡 大しない。しかし、アメリカは自由貿易を求めてきた
・1857年10月、ハリスは江戸に来て通商を要求。中国ではアロー号事件が 起きていた。英船アロー号が海賊船として拿捕されたことにイギリスが抵抗し、フランスとともに清と戦ったもの。アロー号には、実際には中国人が乗り組んで おり、海賊行為もしていた可能性が高い。ハリスに言わせれば、アメリカは平和主義であり、アロー号事件で軍事行動を起こしているイギリスが来ないうちに条 約締結をした方がよいと勧めてきた。ただし、アメリカ公使が駐在し、自由貿易、開港場を増加することが条件だった。和親条約の時とは異なり、幕府側では締結やむなしの状態になっていた。

 13代将軍家定の継嗣問題

家定は この頃は30歳であったが、正座もできず、ぶるぶると震えて近親者にしか会えない人だった。跡継が問題。1853年頃から浮上し、次期将軍候補は御三家、 御三卿(吉宗の時に一橋、清水、田安)から探すことになっていた。
通商問題と継嗣問題が絡み、幕府内部は2つの派閥が形成されて争うこ とになった。

1 一 橋派
 次期将軍慶喜(水戸)

慶喜 は水戸藩主の徳川斉昭の子。跡目を狙って一橋家に養子に入った。21歳の優秀な人物。これを次期将軍として推すのが一橋派。普通なら血統で 選ぶが、ペリー来航の緊迫した中なので、外国使節に会うときなど、将軍の名代が務まる人物でないとまずいとして慶喜を考えた。

 (松平慶永、島津斉彬ら親藩、外様大藩中心)+徳川斉昭(通商反対)

・斉昭、慶永、斉彬などは慶喜を推したが、この連中は、阿部正弘が抜てきした新興勢力
・通商要求に対して大名に諮問したところ、事なかれの譜代はほとんどが通商やむなしであった。拒否して戦争にでもなればたいへんである。これに対し、斉昭は通商条約締結には断固拒否の考えであった。

2 南 紀派
 次期将軍慶福(紀伊)、通商容認
 (井伊直弼ら譜代門閥中心

慶福 は将軍のイトコで紀州藩主。まだ12歳だった。推したのは井伊直弼を中心とする譜代門閥の勢力で、従来から幕府の政治を動かしてきた保守派 の者たち。血統という伝統的な観念を重視し、幼少の将軍を立てて実権を握り続けたいという希望があった。一方の通商問題は、条約締結もやむなし、と考えていた。
・阿部はバランス感覚にすぐれた政治家。自分が外様を登用したことに反発する譜代の意見を聞き、譜代大名の堀田正睦を老中の上位につけ、1856年6月に 死去した。これにより、斉昭は政治発言の場を失った。

 →老中堀 田正睦(南紀派)の調整

Q1 堀田は難しい舵取りを迫られた。一橋派をおさえて南紀派の主張を通すにはどのよ うな方法が考えられるか?

A1 通商については朝廷の勅許を得た方が、人心の折り合いがつくという意見が出される。権威者の判断を仰ぐというものである。

 孝明天皇に条約 勅許を求め、正当性確保(∵水戸藩=尊王論)

・幕府は、天皇の許可があれば水戸藩も引っ込むと考えた。水戸藩には水戸学という尊王思想が充満していた。これは水戸光圀が「大日本史」と いう歴史書の編さんを命じたことで生まれてきた学問である。「大日本史」は 397巻で、1657〜1906(明治39)までかかってできている。この中で、古代においては天皇の権威が絶対であることが確認された。

Q2 尊王というと反幕府と考えられる。後には尊王か佐幕かで争う。しかし、初期の尊 王論は討幕には発展しない。むしろ尊王によって幕府の政治独裁体制が維持されるという。どうしてか?

A2 儒教の大義名分論を受け継いだものだからである。徳川の将軍はどうして日本の支配をしているのか。それは天皇から日本の統治をするように依頼されて いる からだと説明した。その方が、将軍も自分の統治行為に対して正統性を確保できる。大名には将軍を敬えと言っているので、それであれば将軍も天皇を敬う必要 が出てくる。水戸学の学者・藤田幽谷は「将軍が天皇を尊べば、大名も将軍を尊ぶ。大名が将軍を尊べば藩士も大名を尊ぶ」という。一般には「尊王敬慕」と呼 ばれる素朴な観念であった。

・堀田は、1858年1月に上京し、天皇に1万両の献金をすることで交渉を有利にしよ うとした。これを京都手入れという。

 but孝明天皇の拒否(攘夷希望)で失敗

・今まで、朝廷が幕府の言うことに反対することはなかった。しかし、孝明天皇は、神の 国に夷が来て商売をするようになっては末代までの恥であるといい、通商条約 締結は絶対反対と言った。堀田は3カ月粘るが失敗し、4月20日に江戸に戻った。

 朝廷の政治力行使の始まり

・この時以来、朝廷には、一橋派、南紀派、開国派、攘夷派がいろいろと接近するようになり、政治の キャスティングボードを握るようになった。難問に直面したとき、朝廷を利用しようというのが日本の政治の特色である。お墨付きをもらえれ ば、自分の主張が正義の主張になる。

B 井伊直弼の大老就任(←彦根藩主) 1858

・堀田が4月20日に江戸に戻った直後、23日に井伊直弼が大老に就任した。老中は4〜5人いて合議で政治を進めるのに 対し、大老は老中の上に臨時に置かれるポストであって独裁が可能。 井伊はハリスへの返事は7月27日まで延期とし、その間に再度、勅許を得ようとした。先に継嗣を慶福に決定し、6月18日に発表する計画を立てた。
・その直前の1858年6月17日、突然にハリスが軍艦ボー ハタン号に乗って江戸に来た。中国ではアロー号事件に端を発する軍事衝突の結果、6月には英仏が清に天津条約を押しつけていた。この条約では、開港場を増 やすことや賠償金600万両の支払いを押し付けている。ハリスはこの情報を得て、英仏が大船団を派遣して日本に開国を求めに来ると脅した。「英仏は海賊国 家であり信義がなく、武力を背景として日本に法外な条約を押し付けてくるだろう。その前にアメリカとの間に有利な内容での通商条約締結をおこなうのが得策だ」と 主張した。
・中国ではこの後も戦いは続き、1860年、北京条約で11港を開港させられている。しかし、この段階で英仏に日本に対しての野望はなく、ハリスのやり口 は、英仏を利用した老練な外交官としての手口だった。

 南紀派主張の強行
 日米修好通商条約締結(勅許なし)

・井伊直弼は岩瀬忠震に締結交渉を任せたが、その指示は「ぶらかせ」というものだっ た。直弼を開国の恩人とするのは間違っている。岩瀬はぶらかすことなく、6月19日、即決で締結した。

 慶福将軍(→家茂)

・慶福を次期将軍とする決定は6月25日におこなわれた。7月6日には家定が死んだた め、慶福は14代将軍家茂となった。

 一橋派巻き返しで戊午の密勅出る→一橋派弾圧へ

・井伊直弼の強行に対し、水戸藩は抵抗する。水戸藩主の名で藩士が公家に働きかけをし、9月に朝 廷から戊午の密勅を出させることに成功した。
・天皇は条約締結を批判し、徳川三家以下との群議を要求。密勅は水戸藩と幕府に降り、水戸藩は諸藩に連絡を始めた。朝廷が幕府の頭越しに諸藩に指令を出す のは初めてであり、自分の政策を天皇から否定された井伊直弼は苦境に陥った。

 =安 政の大獄(橋本左内、吉田松陰死刑、斉昭蟄居) 1859

・政治主導権をとられると判断し、密勅を出させるのに動いた志士を弾圧。1858年か ら逮捕が進行し、最終的には100余名が連座した。死刑となった者は8人。安 政の大獄は近世最大の政治弾圧事件とされる。
・切腹・死罪は水戸藩家老、藩士3人、橋本左内、吉田松陰など。橋本左内は 越前藩士で26歳。開明、理論家で、西郷とも交友があった。吉田松陰は ペリー来航時に密航を企図し、長州で蟄居させられていたもので、この間、松 下村塾を開き、高杉、桂、伊藤を育てている。条約締結に反対し、老中暗殺計画を立てたとして処刑。
・この他、斉昭蟄居、慶喜隠居他、慶永、山内豊信も慎など で、一橋派の大名は根こそぎやられた。
・井伊は、軽輩が朝廷や幕府にもの申すのでさえ不遜であり、死罪は当然と考えていた。阿部のように、身分の低い者に自由に政治介入をさせては、幕府独裁制 が維持できなくなる。政治における身分制の維持が大切であっ たと考えたのであり、この点では完全な守旧派であった。
・幕府は、密勅が一人歩きしないようにするため、水戸藩に対して戊午の密勅の返上を命令した。返上しようという鎮派と返上を拒否する激派に分かれ、激派は 脱藩した。
・水戸藩と長州藩下級武士は、1860年の7月に丙辰丸盟約を結んでいる。水戸藩が破壊活動をし、長州藩が事態収拾をするというもの。結局、藩内をまとめ られなかったことで、水戸藩はテロリスト集団となり、幕末維新で活躍できなかった。

 ∴水 戸浪士により井伊暗殺
 →桜田門外の変(1860)

・1860年3月3日(新暦では24日)は大雪。上巳の節句の儀式のため、朝9時頃に 登城途中の井伊直弼の篭が襲われた。彦根藩邸からは400メートルほどの距離。襲撃した浪士は18人で、井伊の側は60人だった。しかし、雪のため、合羽 を着て柄袋をしていた。篭訴を装って接近し、いきなり斬りつけ、篭の周辺に人がいなくなったことで篭を突き刺し、井伊の首をはねた。胴体は彦根藩邸に戻 り、首は自身番に届けられた。

 ※幕 府独裁政治の閉幕→雄藩の発言力無視できず

・井伊の暗殺は、強硬手段を用いて政治をおこなう手法が通用しなくなっていたことを示し ている。以後、幕府は雄藩の政治的発言力を無視することができなくなる


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