1 幕藩体制の崩壊 <ペリーの 来航と開国>

 列強の鎖国日本への接近は18世紀に始まった。シベリア開拓の物資補給を必要としていたロシアは、1792年に(1)が根室に、1804年に(2)が長 崎に来航して交易を求めている。19世紀に英仏戦争が起きると、イギリスはフランス支配化に置かれたオランダの拠点を叩くべく長崎に侵入し、1808年に (3)事件を起こしている。危機感を持った幕府は1825年に(4)を出して外国船の接近に備えることとしたが、これによってアメリカ商船が撃退される (5)事件が1837年に起きている。
 産業革命が進行すると、列強は植民地獲得の要求を強めていっそうアジアへ進出するようになる。イギリスからアジア向けの綿布輸出が輸入を上回るのは 1820年であり、以後、大量の綿製品がインドに送られた。イギリスはインドから代金としてアヘンを吸い上げて清国にもたらし、1840年には(6)を起 こした。42年に清が敗れて香港を割譲した情報がもたらされると、清国の二の舞になることを恐れた幕府は(4)を撤廃して(7)を出し、江戸湾防備に本腰 を入れた。日蘭貿易を独占していたオランダは日本の植民地化を恐れ、1844年には開国勧告を寄せている。
 一方、アメリカは北洋捕鯨や対清貿易の基地として日本の開国を必要とし、1846年には(8)が来航している。この後、アメリカは米墨戦争に勝利してカ リフォルニアを領有し、西部開発が進行するといっそう対清貿易の欲求が高まった。(9)年に(10)が(11)に来航して武力で開国要求を出したのはその ためである。老中首座の(12)は、大統領(13)の国書を受領し、翌年の回答を約してその場をしのぐとともに、従来の幕府独裁制を転換して大名から開国 の是非について意見を求めた。また、親藩の(14)や外様の(15)を政治に参加させ、雄藩の政治的発言を認めるようになる。同年には、ロシア使節 (16)も長崎に来航して開国を求めており、幕府は挙国体制で開国問題を対処しようとしたのである。
 軍事的圧力を伴った(10)の再来に対し、幕府は(17)を締結して開国せざるを得なかった。ここでは(18)と(19)の2港が開かれたが、その位置 を見れば日本貿易を想定したものではなく、アメリカの対清貿易基地として必要とされていたことがうかがえる。ただ、この条約ではアメリカに(20)の着任 を認め、日本にとって不利な(21)をアメリカに与えており、その後に問題を残すことになった。幕府は同様の条約をロシアや(22,23)とも締結した が、ロシアと結んだ(24)の中では千島の国境を(25,26)間に定め、(27)は両国雑居とする措置をとっている。
 列強の軍事的脅威にさらされた幕府は(28)と呼ばれる改革を実施している。海防係となった(29)は江戸湾防備のために(30)、大砲鋳造のために (31)を築いた。また、陸軍施設として開設された(32)には(33)を招いて洋式砲術を指南させ、海軍施設として開いた(34)では(35,36)な どを養成している。この改革では家柄にとらわれずに人材登用がおこなわれており、それまでの幕府門閥制が揺らぐことになった。

<解答>
(1)ラックスマン (2)レザノフ (3)フェートン号 (4)異国船打払令 (5)モリソン号(6)アヘン戦争 (7)天保の薪水令 (8)ビッドル  (9)1853 (10)ペリー (11)浦賀(12)阿部正弘 (13)フィルモア (14)徳川斉昭 (15)島津斉彬 (16)プチャーチン (17)日米和親条約 (18,19)下田、箱館 (20)領事 (21)片務的最恵国待遇 (22,23)イギリス、オランダ (24)日露和親条約  (25,26)択捉島、得撫島 (27)樺太 (28)安政の改革 (29)江川太郎左衛門(英龍) (30)品川台場 (31)反射炉 (32)講武所 (33)高島秋帆 (34)海軍伝習所 (35,36)勝海舟 榎本武揚


<幕府独裁制の閉幕>

 幕府が鎖国政策を放棄した頃、13代将軍(1)に継嗣がなかったことから、次期将軍擁立をめぐって幕府内には二つの派閥が形成されていた。このうち、難 局を乗り切るためには英邁な将軍が必要であるとし、御三卿から(2)を立てようとしたのが(3)派で、阿部正弘に抜擢された越前藩の(4)、薩摩藩の (5)などの親藩、外様大藩によって構成されていた。派閥の中心は(2)の父で水戸藩主の(6)であった。一方、彦根藩主の(7)など、従来の幕府政治を 動かしてきた譜代門閥は、(1)との血のつながりの濃さから紀伊藩主の(8)を推し、これを(9)派と呼んだ。この時期、日米和親条約に基づいて(10) が駐日領事として下田に着任したが、彼は通商条約の締結を幕府に求め、将軍継嗣問題と絡んで派閥争いに拍車をかけた。(3)派の(6)が通商拒否だったの に対し、(9)派は通商容認の立場に立ち、老中の(11)が調整に当たった。水戸藩は「大日本史」の編さんを通じて(12)を主張していたため、(11) は(13)天皇に通商条約締結の勅許を求めて正当性を確保し、(3)派を抑えようとした。従来、天皇が幕府の要請を拒否することはなく、この政治工作はう まくゆくと思われた。しかし、(13)天皇は極端な外国人嫌いであり、むしろ(14)を希望して条約締結の勅許を出さなかった。これは朝廷が自らの意思で 政治力を行使した最初の出来事であり、以後、朝廷は政治のキャスティングボードを握るようになる。
 窮地に立った(9)派は、(7)を(15)に就任させて専断権を与え、もう一度朝廷に対して勅許を求めようとした。この頃、中国では(16)事件に端を 発して英仏との軍事衝突が拡大していた。清は敗北を喫して天津条約が結ばれ、賠償金の支払いが課されたが、(10)は英仏は次に日本の開国を求めて押し寄 せてくると言って幕府に圧力をかけ、アメリカとの早急な通商条約締結が英仏の機先をそらすことになると説いた。このため、(7)は勅許を得られないまま (17)の締結に踏み切り、一方では(8)を次期将軍に決定した。まもなく(1)が死去し、(8)は改名して14代将軍(18)となった。これに対し、 (3)派は(7)の専断を非難し、朝廷を動かして(19)を水戸藩に出させることに成功した。これは譜代門閥の独裁体制を改め、御三家以下との群議を求め る勅命で、従来の幕府の政治体制そのものを否定する内容であった。このため、危機感を深めた(7)は、(3)派に対しての大弾圧を実行した。これが (20)と呼ばれるものである。越前藩の(21)、長州藩の(22)らは死罪となり、(6)は蟄居、(2)は隠居とされた。水戸藩は(19)の返上を迫ら れたが、その受け入れをめぐって藩論は激派と鎮派の二つに分かれ、断固拒否の立場に立つ激派が脱藩して浪士となっていった。彼らはテロによって反対派を封 じ込める道を選ぶようになる。
 (23)年に起きた(24)は、水戸浪士による(7)暗殺事件である。白昼、江戸城の前で(15)が殺害されたこの出来事は、幕府独裁制が通用しないこ とを示すことになった。この後、力のある有力大名、すなわち雄藩の発言力が無視できなくなるのである。

<解答>
 (1)徳川家定 (2)一橋慶喜 (3)一橋 (4)松平慶永 (5)島 津斉彬 (6)徳川斉昭 (7)井伊直弼 (8)徳川慶福 (9)南紀 (10)ハリス (11)堀田正睦 (12)尊王論 (13)孝明 (14)攘夷  (15)大老 (16)アロー号 (17)日米修好通商条約 (18)徳川家茂 (19)戊午の密勅 (20)安政の大獄 (21)橋本左内 (22) 吉田松陰 (23)1860 (24)桜田門外の変


<不平等条約と開国の影響>

 (1)年に締結された日米修好通商条約では、(2〜6)の開港が約された。このうち幕末に開港されたのは(2〜4)の3港で、(2)は実際にはその近隣 の(7)が開かれている。ここでの貿易は、従来の長崎貿易に見られた会所貿易が否定され、商人による(8)が認められていた。幕府は(9)を設定して外国 人を住まわせ、日本人との接触を最小限に抑えようとしたが、そこは外国領土のような様相を呈すことになった。
 日米修好通商条約は日本側の不平等条約であった。国内産業保護のため、輸入品に対して課す(10)は、協定(10)が約されて日本側が自由にかけること ができなかったし、外国人の犯罪に対しては日本側が裁判権を持たず、(11)が認められていた。これらは、欧米列強がアジア後進国を植民地支配してゆくた めに共通した手口であり、日本は半植民地化の危機に直面していたと言える。同様の条約は(12〜15)とも結ばれ、総称して(16)と呼んでいる。
 貿易は(17)年から始まり、(7)での対(14)貿易が中心であった。主要輸入品は機械で大量生産された(18,19)であり、武器や艦船がこれに続 いた。輸出は欧州での蚕の病気の影響もあり、(20)が圧倒的で、次いで(21,22)が上位を占めた。(20)の大量輸出は国内製糸業で分業に基づく (23)による生産を進展させ、桐生や足利の生産地は活況を呈した。一方、やはり(23)生産が成立していた(19)生産は、輸入品に圧されて衰退し、明 治期に(24)を利用して再生するまで低迷することになった。地方で生産された(20)は、都市の問屋商人の手を介さず、地方の(25)が直接(7)に回 送して取引をしたため、国内の絹織物産地は原料不足に陥った。
 幕末の貿易は、当初は日本側の輸出超過であったため、無計画な輸出によって都市では物不足に悩み、物価が高騰していった。このため、1860年に幕府は (26)を出し、(27〜31)は江戸経由で(7)に回送するよう命じたが、その効果は一時的であった。また、日本と外国では(32)が異なり、日本では 金の銀に対する価値が外国の3分の1となっていた。このため、大量の金が銀と交換されて海外に流出することになり、幕府はこれを阻止するため貨幣の改悪を 実行せざるを得なかった。こうして(33)が鋳造されたが、この措置は急激な物価上昇をもたらすことになったのである。いずれにしても、貿易の開始により 封建日本の経済は大混乱に陥ったのであり、10倍にも及ぶインフレで生活苦となった都市下層民は米屋や酒屋に対する(34)を激化させた。さらに武士の中 には外国人排斥を唱え、いわゆる(35)運動を展開する者が相次いだ。これは異人切りという外国人襲撃の形でおこなわれ、ハリスの通訳だった(36)が殺 されたり、(14)が公使館としていた(37)が襲撃されたりした。その都度、幕府は列強から賠償金を求められ、国内ではその態度が弱腰であるとして (35)を叫ぶ者たちから非難された。こうして、弱体化する幕府に代わり、新しい政治体制を構築しようという動きが出てくるのであり、開国によって幕府滅 亡が促進されることになったのである。

<解答>
(1)1858 (2~6)神奈川、箱館、長崎、新潟、兵庫 (7)横浜 (8)自由貿易 (9)居留地 (10)関税 (11)領事裁判権  (12~15)蘭、露、英、仏 (16)安政の五ヵ国条約
(17)1859 (18,19)毛織物、綿織物 (20)生糸 (21,22)茶、蚕卵紙 (23)マニュファクチュア (24)輸入綿糸 (25)在 郷商人 (26)五品江戸廻送令 (27~31)生糸、水油、雑穀、ろう、呉服 (32)金銀比価 (33)万延小判 (34)打ちこわし (35)攘夷  (36)ヒュースケン (37)東禅寺


<公武派と尊攘派の対立>

 井伊直弼暗殺により、幕府独裁体制は維持できなくなった。衰えた幕府権威を強化するため、老中首座となった(1)は朝廷権威の利用を考えた。これが (2)と呼ばれる政治手法である。その手っ取り早い方法としてとられたのが(3)で、孝明天皇の妹宮(4)を将軍家茂と結婚させようというものであった。 天皇は躊躇したが、(5)と引替えに実現することになった。しかし、幕府は(5)を実行しようとせず、尊王論を唱える水戸浪士から政略結婚であるとの憤激 を買って(1)は襲撃される。これが1862年の(6)であり、負傷した(1)は失脚を余儀なくされた。
 幕府の政治主導権が失われたのを見て、政界進出を企てたのが薩摩藩の国父(7)である。彼は幕府と朝廷に雄藩を加える新たな(2)の構想で政権立て直し を唱え、勅使を伴って改革を迫った。安政の大獄で失脚した旧一橋派の政界返り咲きを求めたこの政治改革が(8)である。一橋慶喜は(9)、松平慶永は (10)として政界に復帰し、(11)を3年に一度とするなどの措置がとられた。こうして政界は(2)の路線で動いたが、これは幕藩体制を維持しようとい う点では保守的な考えである。一方、長州藩の政治主導権を握っていた(12,13)は、弱体化した幕府を倒して朝廷を中心とした新しい政権を構築し、外国 勢力を排除する(14)を主張した。この考えは下級武士を中心に広まり、(7)も同藩の(14)派を(15)事件で粛正している。
 長州藩の下級武士は京都で急進派公卿の(16)らに接近し、(5)を実現するためにも幕府を倒す必要があるとして天皇の支持を取り付けた。天皇は家茂を 京都に呼び、1863年5月10日に(5)を実行するよう命令を出させた。この日、長州藩は下関で米・仏・蘭船に対して砲撃をおこなう(17)を起こして いる。この後、長州藩は天皇の大和行幸を契機に倒幕の挙兵を計画するが、天皇は幕府と戦うことには躊躇する。このため、(2)派は(14)派の公卿を一掃 するクーデターを実行して天皇を自派に呼び戻した。これが(18)である。薩摩藩と(19)藩の兵が宮門を固める中、(16)らの参内が禁じられ、彼らは 長州に落ち延びた。これを(20)と呼ぶ。この時期、大和行幸に合わせての(14)派の挙兵騒ぎが相次いでおり、土佐藩の吉村寅太郎が五條代官を襲撃した (21)、これに平野国臣が呼応した(22)が起きている。京都では(19)藩の(23)が(24)に就任し、浪士組の(25)を使って(14)派の志士 を徹底的に弾圧した。(26)事件はその代表である。
 長州藩は天皇の奪還を目指して御所を攻撃する挙に出た。この(27)で長州藩は薩摩(19)連合の前に敗退し、やみくもに(5)を叫ぶ古いタイプの (14)派は瓦解することになった。水戸藩の(14)派が(28)で解体したのもこの頃である。以後は目の前の外国人を排撃するのではなく、天皇のもとに 日本人を結集して幕府に代わる新しい政権を樹立し、国力を充実させて外国に対抗しようという路線が目指されてゆく。(27)の罪を問うため、幕府は (29)を実施した。主力は薩摩藩兵で、直前に(17)の報復として下関を外国勢力に攻められた長州藩は、戦わずして降伏した。これで藩内保守派が下級武 士を抑え、藩論は(2)にまとめられて倒幕は遠ざかった。

<解答>
(1)安藤信正 (2)公武合体 (3)和宮降嫁 (4)和宮 (5)攘夷 (6)坂下門外の変 (7)島津久光 (8)文久の改革 (9)将軍後見職  (10)政事総裁職 (11)参勤交代 (12,13)桂小五郎、高杉晋作 (14)尊王攘夷 (15)寺田屋 (16)三条実美 (17)下関事件(長 州藩外国船砲撃事件) (18)八月十八日の政変 (19)会津 (20)七卿落ち (21)天誅組の変 (22)生野の変 (23)松平容保 (24) 京都守護職 (25)新選組 (26)池田屋 (27)禁門の変 (28)天狗党の乱 (29)第一次長州征討


<薩長連合と幕府の滅亡>

 公武合体と尊王攘夷という路線の違いから薩長両藩は常に反目し合っていた。両藩の溝は外国との接触によって埋められることになる。薩摩藩は島津久光の大 名行列を横切った英人を殺傷する(1)事件を起こしていたが、その報復として1863年、鹿児島が砲撃される(2)を経験している。外国の実力を知った同 藩は、イギリスに接近して軍事力強化を図り、(3,4)らの下級武士は植民地化を防ぐためにも幕府に代わる新たな政治体制が必要であると説いて藩論を倒幕 に転換していった。イギリス公使(5)は貿易発展のための安定政権を求めており、幕府を見限って薩摩藩に期待した。イギリスの紡績機械を導入して(6)が 建設されるのもこのためである。
 一方、長州藩は外国船砲撃事件の後も関門海峡の封鎖を続けていたが、1864年には英仏蘭米によって下関が攻められる(7)を経験した。攘夷の無謀を 悟った同藩の(8,9)らは公武合体路線をとる保守派を(10)など諸隊の軍事力を用いて一掃し、倒幕へと藩論を転換した。長州藩は朝敵であったため、外 国から武器を購入することが難しかった。このため、薩摩藩の名目で武器を購入し(11)を通じて横流しさせた。(11)を運営していた(12)は(13) とともに薩長両藩の下級武士と通じ、倒幕の実現のために提携を持ちかけた。こうして1866年に実現したのが(14)である。
 第一次長州征討で幕府に屈服した長州藩は、領地削減などの処分を受け入れなかった。このため、権威の高揚を目指した幕府は第二次長州征討を計画した。し かし、前回主力の薩摩藩は参加せず、幕府軍の士気は低かった。開戦後も長州藩の洋式軍隊の前に苦戦し、一揆や打ちこわしも多発したため、徳川家茂の死去に 伴って撤兵を余儀なくされた。長州藩相手に勝てなかったことは幕府の権威を失墜させた。
 15代将軍に就任した(15)は、フランス公使(16)の援助で幕権を強化しようとし、フランス式軍隊を育成した。しかし、フランスに生糸貿易を独占さ せ、北海道の開拓権を与えようとするなど幕府の改革は買弁的であり、雄藩の倒幕の動きは高まった。倒幕を望まない(17)天皇が死に、(18)天皇が即位 したことは討幕派に有利で、1867年9月には(19)が結成され、10月14日には(20)が出された。一方、討幕挙兵は内戦を招き、列強の介入が避け られないと見た土佐藩の(21)は、(15)に対し政権を返上する(22)の実行を勧めた。その後は天皇のもとに列藩会議を招集し、徳川氏がその議長とし て主導権を握るプランで、(23)論と呼ばれるものである。会議の構想は(12)のもので、土佐藩家老(24)が(21)に伝えた。(15)は説得に応 じ、討幕派の機先を制して10月14日に(22)がおこなわれて幕府は倒れた。
 ところで、階層分解が進み社会不安が高まる中、民衆は討幕=世直しを支持していた。不安な情勢の中、貧民救済を掲げる中山みきの(25)、黒住宗忠の (26)、川手文治郎の(27)などの新興宗教が発生し、貧民が豪農を襲撃する(28)が相次いでいた。(29)は(28)が宗教的色彩を帯びて起こされ たものとも言われる。近世に多くの参拝者を集めた(30)などのお札が降ったとして、豪農に酒食の提供を求めて打ちこわしを起こしたりしたもので、その混 乱の中で(22)がおこなわれたのである。

<解答>
(1)生麦 (2)薩英戦争 (3,4)西郷隆盛、大久保利通 (5)パークス (6)鹿児島紡績所 (7)四国艦隊下関砲撃事件 (8,9)高杉晋作、 木戸孝允 (10)奇兵隊 (11)亀山社中(海援隊) (12)坂本龍馬 (13)中岡慎太郎 (14)薩長連合 (15)徳川慶喜 (16)ロッシュ  (17)孝明 (18)明治 (19)薩長芸三藩盟約 (20)討幕の密勅 (21)山内豊信 (22)大政奉還 (23)公議政体 (24)後藤象二 郎 (25)天理教 (26)黒住教 (27)金光教 (28)世直し一揆 (29)ええじゃないか (30)伊勢神宮


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