1 幕藩体制の崩壊
<ペリーの来航と開国>
#1 [列強の日本接近]
#2[鎖国体制の崩壊]
#3A ペリーの来航 1853
#4B 開国=日米和親条約(神奈川条約)の締結(1854)
#5[幕府の軍制改革}(安政の改革)

・幕末の歴史を扱う前に、簡単に江戸時代の構造を見ておこう。

後期封建社会=「領主(幕府・大名)−小農民」の支配構造

・江戸時代を後期封建社会という。当初、社会の仕組みは単純 だった。幕府や大名の領主階級が、土地の所有面積1町くらいの、どれも同じ規模の小農民を支配するというもの。
・体制維持のために必要なのは次のようなことである。(1)士農工商の身分 制を固定して農民が武士にたてつかないようにすること、(2)農民の中に持つ者と持たざる者が現れ、持つ者が中間搾取をすることを防ぐた め、現物経済の中に留めておくこと、(3)これらのことを実 現するため、鎖国をおこなって外国からの経済的な影響を最小限に抑えるこ と。
・以下、左欄に「体制維持の条件」を記したが、江戸時代中期以降、これらを揺るがす不安定要素として→の後ろのような事柄が出現してくる。

士農工商の身分制の固定→一揆・打ちこわし
現物経済(年貢の現物納)→貨幣経済の進展(武士の困窮、農民の階層分化)

農業の発展は新たな余剰を生み出して貨幣経済を進展させた。農民の中に貧富の差が発生し、困窮者が土地を手放し、豊かな者に兼併される。一 方、貨幣経済に巻き込まれた武士は消費支出を拡大させ、借金を重ねて困窮化す る。生活に困った農民は一揆を起こし、武士が農民を押さえ込 む体制も崩れてゆく。

鎖国による体制の安定→列強の接近

・鎖国が維持できなくなったことで、封建体制は一挙につぶれる。1853年にペリーが来航し、1867年には幕府がつぶれている。この間、15年とかかっ ていない。ペリー来航のインパクトがすごく大きいことがわかる。

Q1 列強の接近はペリーが初めてではない。この時期、どうして列強が接近してきたの か?

A1 産業革命によりヨーロッパ世界が市場や資源を求めて拡大したからである。この動きは18世紀から見られるが、アジアにまで進出してくるのは19世紀 になってからである。その画期は1840〜42年のアヘン戦争に求められる。

1 幕藩体制の崩壊
<ペリーの来航と開国>
[列強の日本接近]
1 アヘン戦争以前
 ロシア=シベリア開拓の物資補給目的→ラクスマン(1792)、レザノフ(1804)の来航 

・ロシアは16世紀後半から毛皮をとるためにシベリアに進出、カムチャッカに拠点を持つ。シベリア開発のために必要 な物資をロシア本国から送るのは容易でなく、日本との交易で 入手することを検討。当時、多くの日本人漂流民がシベリアで日本語教師としてロシア人に日本語を教える状況が展開していた。
ラクスマンは漂流民の一人、大黒屋光太夫を送還するために根室に来航し、交易を求めた。松平定信は、長崎でしか対応しないと言って交易を許可しなかった。彼は 長崎に廻ってくれば、交易の開始も覚悟していたという。
・この後、レザノフ長崎に来航する。定信は政権から退いていて、幕府は通交拒否。レザノフ は怒って帰国し、「日本の海軍は大したことがない。簡単に撃破できる」と宣伝。千島の沿岸部がロシアに襲撃される。日露関係は緊張し、ゴローニンの箱館幽閉、高田屋嘉兵衛の拉致がおこなわれた。

 イギリス・・・フェートン号事件(1808)→打払令(1825)

・1808年、長崎港外にオランダ国旗を掲げた異国船が出現。長崎奉行が迎えに行った ところ、拉致される。
・オランダ国旗を掲げていたのはイギリス軍艦のフェートン号。 当時、フランスのナポレオンがヨーロッパを席巻し、オランダ を支配下においていた。これと対立するイギリスは東洋におけるオランダの根拠地を叩こうと長崎に来た。オランダ商館員をつかまえて薪水を奪ったりしたた め、長崎奉行は切腹する羽目になった。
・この結果、幕府は異国船打払令を出す。外国船は片っ端から 大砲で追っ払えという法令で、外国との間に紛争を引き起こす可能性があった危険な政策。

  cf)モリソン号事件(1837)

・太平洋を航行中、日本人漂流民を救出したアメリカ商船モリソン号浦賀に来航。打ち払われる。その後、鹿児島県の山川でも打ち払い。
・反撃してこなかったからよかった。開明的学者グループは幕府のやり方を批判。蛮社の獄で弾圧される。

※産業 革命の進行で植民地獲得要求強まる

・この間、イギリスでは産業革命が進行。それまで、東洋最大の綿織物産地のインド の製品がヨーロッパに流れてきていた。1820年を境にイギリスから東洋に輸出される綿布の量が逆転。安価な産業革命による製品の威力が発揮されるのはこ れ以後である。
イギリスからは大量の綿布がインドに流れた。しかし、イン ドには支払い能力がない。イギリスは綿布の代金としてインドから阿片を買い 取り、これを中国に輸出。その代金として中国から銀を入手し た。また、中国からは茶がイギリスにもたらされた。イギリス、インド、中国を舞台とする三角貿易が成立。
・被害を受けた中国ではアヘン中毒患者が蔓延したため、密輸されたアヘンを焼却した。これに対し、イギリスは中国に対して戦争を仕掛けた。イギリス議会も 無茶だといった侵略戦争の開始。

2 アヘン戦争(1840〜42)以後
 イギリスの清国侵略

・中国はこてんぱんにやられ、1842年、南京条約が結ばれて香港が割譲された。翌年の追加条約では、関税5パー セント、領事裁判権、最恵国待遇を認め、中国の半植民地化が 始まる。
・イギリスの拠点はシンガポールから2600キロ北上。香港・上海間は1週間、上海・長崎間は3日の距離であり、日本のすぐそばにイギリスが登場する。

 →対外危機強まる(薪水令、1842)

・アヘン戦争のニュースは日本にもたらされる。幕府では老中水野忠邦が天保の改革に着手していたが、すぐに打ち払い令を改め、天保の薪水給与令を出し、江戸湾の防備体制を整えている。

Q2 ヨーロッパは資源と市場を求めて東洋に進出したが、それを可能にした物理的な条 件は何か?

A2 蒸気船の発達がなければ、東洋に来ることは難しい。

・1807年、フルトンが汽船を発明してハドソン川で走らせた。この後、1837年に はイギリスが大西洋横断用にグレートウェスタン号を作り、16日で横断している。
・大西洋横断は、帆船時代は1カ月半から5カ月はかかっていた。帆船の場合、赤道北貿易風をつかまえるため、カナリア諸島まで南下しなければならず遠回り であり、時間がかかった。東洋に進出することは不可能。ペリーは4隻で来るが、そのうちの2隻は蒸気船だった。

 オランダ=日本の植民地化恐れる→国王の開国勧告(1844)

・日本が清と同じ運命になると、日蘭貿易は絶滅してしまう。1844年にウィリアム2 世は特使を派遣し、開国を勧告する手紙を日本にもたらす。老中水野忠邦を中心とする幕府は、鎖国を「祖法歴世の法」として、政策は変えないと回答。 1852年にもアメリカの来航を予想し、オランダが連絡してきているがこれも無視。このアメリカの来航予想というのはペリーのこと。
・フランスは1844年、那覇に入港して通商を要求。琉球は国土が狭く、余裕がないと拒否。1846年にも来て日本の周りが慌ただしくなる。

Q3 日本を開国させたのはどうしてイギリスではなく、アメリカだったのか?

A3 イギリスも来るが、中国の方が市場としては魅力的だった。日本は後回しにされるのである。

 アメリカ=北洋捕鯨、対清貿易の基地目的

・アメリカは大西洋の抹香鯨を取り尽くし、北太平洋で操業。カムチャッカ、オホーツク には鯨の漁場があり、1846年には736隻が出漁している。この補給基地として日本は魅力的。「白鯨」には、鎖国をしている日本を開国させるのは捕鯨船 であろうという趣旨のことが書かれている。

Q4 アメリカが中国貿易をするのに、どうして日本の開国が必要になるのか?

A4 当時は汽船でも補給なしに太平洋横断は難しかった。石炭補給地として日本の開国が必要。アメリカは日本との貿易目的で接近してきたのではない。列強 のねらいはあくまでも中国。中国が半植民地化し、日本が助かったのは、最初の標的が中国だったという事情もある。


 ビッ ドルの来航(1846)

・1846年、東インド艦隊司令長官ビッドルが2隻の船を引き連れて浦賀に来航。日本に通商条約締結の意思 があるかどうかの確認が目的。ビッドルは簡単に引き下がっており、腕尽くで開国させるつもりはなかった。
・この後、西部の開拓が進行し、どうしても日本を開国させる 必要が出てくる。1846年、アメリカはメキシコと戦争をし、ニューメキシコ、カリフォルニアを領土とした。48年、カリフォルニアで金が発見され、49年には世界中から10万人が金掘り に来た。西部は急速に発展し、52年、パナマ地峡横断鉄道ができ、ここからサンフランシスコへの航路が開かれた。
・ロンドン−喜望峰−上海とニューヨーク−サンフランシスコ−上海は同日数で移動ができるようになり、太平洋航路で清国との貿易をする強い希望が出される。

[鎖国体制の崩壊]
A ペリーの来航  1853

・1852年10月13日、ペリーは4隻の軍艦を率いてノーフォークを出港し、喜望 峰・シンガポール経由で、1853年2月29日香港に着た。

Q5 太平洋航路が開かれていたのに、どうしてペリーは大西洋経由できたのだろうか?

A5 経由地で日本の情報を得るためであった。それだけ開国させる強い意志があった。琉球、小笠原に先に行き、拠点化している。


 軍艦4隻で浦賀来航武力で開国要求

・1853年6月3日(新暦7月8日)、来航時は汽船2隻(サスケハナ、ミシシッ ピ)、帆船2隻(プリマス、サラトガ)で、いずれも黒く塗られた黒船で あった。乗組員は総勢2000人。当時、日本最大の船は千石船で200トン程度。それに対し、サスケハナは2450トンもある外輪船である。
・ペリー艦隊は大砲を開いてやって来た。4隻の大砲数は63門。浦賀に配置されていた日本側の大砲数は20門で太刀打ちできない。浦賀奉行戸田氏栄は長崎 に回航する要求したがペリーは拒否し、国書受取を強要した。「拒否すれば江戸表に乗り込む気配」と江戸に急使が走る。
・ミシシッピは、6日は江戸湾奥に侵入し、測量をしたりデモンストレーション。江戸の市民は疎開をしたり、黒船見物に来たりと大騒ぎだったという。

 →老中阿部正弘の対応

・当時の幕府の政治責任者は阿部正弘。備後福山10万石の出身で27歳で老中になる。ペリー来航時 は30代後半で老中首座。阿部のことを徳川斉昭は「ヒョ ウタンでナマズをおさえるような人」と評価。のらりくらりと角がない人で協調主義を貫き、悪く言えば優柔不断。難事に当たって人材を積極的に登用する姿勢 を示したが、反面、これが幕府の権威を低下させることになった。

 フィルモア米大統領の国書受領、翌年の回答約す

・幕府は、9日、久里浜に応接所を作って国書受領し、回答は来春と約して退去しても らった。ひょっとすると、来年は来ないかもしれないという期待。

 幕府 独裁制の転換
  ex)大名への諮問、

・鎖国を守るか開国するか、阿部は幕府1人に責任が来るのを避けたかった。7月1日、大名への諮問をおこない、町人に対しても、よい考えがあれば出せと命 じている。雄藩の政治発言を認める結果につながる重要な政策の転換である。
・大名250、幕臣450、計700の意見書が出されたが、ろくなものはなかった。断固拒否もあったが、戦争になったら勝てないので、時間稼ぎをして、だ めなら開国する、という意見が多かった。

 徳川 斉昭、島津斉彬の政治参加

・意見書には見るべきものがなかったが、人材の登用は積極的。水戸藩主の徳川斉昭を用いた。水戸藩主は江戸に定住することになってい て、参勤交代が免除さ れている。斉昭はずばずばものをいう人で、阿部正弘と連携する幕政参与を依頼している。
島津斉彬なども斉昭を通じて政治に自分たちの意見を反映さ せようと接近。薩摩藩は琉球を通じて海外事情に詳しく、製錬 所建設など殖産興業政策をとってい たので期待されていた。この他には松平慶永、伊達宗城などに も声をかける。
・これらの中には親藩や外様大名が含まれている。江戸時代 は、幕府の政治をおこなう当事者は譜代と決まっていた。この方針が転換されている。
・この間、ペリーは琉球に停泊し、日本が開国しないときは琉球占領を企図していた。

 cf)プゥ チャーチン(ロシア)の長崎来航

・7月18日、ロシア艦隊4隻が長崎入港し、アメリカと同じ要求をしている。ロシアは アムール川方面を経営し始め、アメリカに後れをとりたくなかった。

B 開国=日米和親条約(神奈川条約)の締結(1854)

・ペリーの再来は1854年1月11日。英露仏の干渉を避けるため、早めに来ている。 再来時は船を増やして7隻。浦賀沖での停泊要求を無視して羽田沖まで 入ってきた。幕府は将軍代替わりを理由に返答延期しようとしたが、3月3日、調印することになった。

Q6 アメリカ人と日本人は、どんな言葉によって交渉し、どんな言葉で条約文を作った のだろうか?

A6 日本語は外国ではほとんど通用しない。アメリカ人で日本語が分かるものはいなかったため、アジアの共通語が用いられることになる。漢文である。

Q7 日本には、ジョン万次郎などアメリカに漂流経験のある者が英語が理解できた。彼 らが交渉の際の通訳として用いられなかったのはなぜか?

A7 アメリカ有利の通訳をする恐れがあった。中浜万次郎は15歳の時に漂流し、アメリカ捕鯨船に救われた。その後はアメリカで教育され、1852年、 26歳 で帰国した。江川英龍の配下となったが、ペリー来航時は、アメリカ人に助けられて恩義を感じているに違いないとし、通訳になれなかった。

・アメリカ側では英語を使うと日本が交渉を拒否すると考えていた。ついでオランダ語の 使用を考え、オランダ系アメリカ人を上海で雇い入れた。しかし、日本 のオランダ語通詞とのやりとりで、オランダ語で条約締結は難しいという判断をした。日本人のオランダ語の知識は、商業関係の言葉に偏っていたのである。後 にハリスに言わせれば、「日本人が知っているオランダ語は貿易業者、水夫の言葉ばかりで、それも250年前に使われていたもの。抽象的概念は通じない」と こき下ろされている。
・もっとも適したのは日本語であり、日本語ができるという中国在住のアメリカ人宣教師を広東で雇用した。しかし、彼の日本語は漂流民から学んだものであ り、文語はわからなかった。中国語の読み書きには自信があったことから、漢文での条文交渉を考えた。
・日本側はオランダ語での交渉を念頭に置いていた。アメリカが漢文で交渉をしてくるとは考えていなかったが、儒学者はたくさんいるので、漢文だったら交渉 ができた。最終的に条約文は日本語、オランダ語、漢文、英文の4種類が作られた。
・交渉は日本文を漢文に翻訳、それを英文にするという作業を経ておこなわれたため、どうしても間違いが出てくる。このうちの日本文の和親条約には誤訳があ り、アメリカ領事の駐在を認めることになった。両国が認めた場合に駐在とあるつもりが、片方が認めた場合に駐在となっていた。これが後にハリス来日を招 き、通商条約締結を強要される伏線になってゆく。

 下田、箱館の開港(駐日領事来日)

Q8 下田、箱館という都市から遠い土地を開いたのはなぜか?

A8 下田は伊豆半島先端の風待ち港である。西風に乗って大坂方面から来た船は、ここで南風を待って江戸湾に入る。アメリカは対清貿易の基地としたいの で、太 平洋に突き出した下田は都合がよかった。箱館は大圏航路を取る場合、アメリカに一番近い港町である。ここで最後の補給をして太平洋を渡るのに都合がよかっ た。

 一方 的最恵国待遇与える(他国に与えた特権を適用)
  →露、英、蘭とも同じ条約締結
   cf)日露和親条約

・ロシアとは、プチャーチンと川路聖謨との間で、日露和親条約を下田で12月に締結している。ここでは長崎開港を約している。この規定はアメリカにも自動 的に適用された。

   北 辺国境画定=千島(択捉、得撫間)、樺太(両国雑居)

・日露和親条約では、千島・樺太の国境を画定している。択捉島は1644年の松前藩の地図に記載され、1798年には近藤重蔵が探検して「大日本恵土呂 府」の標注を立てていた。1799年には択捉場所が設けられて、実質的に支配をしている。ロシアは1700年代後半になって、ウルップ島まで南下してい た。そこで、両島間を国境にした。
・現在、択捉、国後、歯舞、色丹の北方四島はロシアが支配している。日本はこれを固有の領土であるとして返還を求めているが、その根拠の一つが、日露和親 条約にある。
樺太は日本人には16世紀から知られていた。1635年に は松前藩領となっている。1808年に間宮林蔵が探検し、離 島であることが確認された。した がって、それまでの間、松前藩領とはいっても、全島を支配していたわけではない。住んでいるのは南部には北海道と同じアイヌ民族で、中部以北はオロッコな どの別民族が住んでいた。ここは線引きができず、日露雑居と した。
・英とは1854年閏8月、蘭とは1855年12月締結している。

Q9 日露和親条約締結の日は、1855年2月7日で、北方領土返還を求める「北方領 土の日」とされている。図説年表では、和親条約締結は何年となってい るのか?

A9 1854年12月21日である。

Q10 どうして食い違いがあるのか。どちらかが違っているのか? 2つとも正しいの である。なぜか?

A10 新暦だと1855年2月7日締結。旧暦だと安政元年(1854)12月21日締結になる。図説年表は、明治5年(1872)の新暦採用以前は旧暦 で記し ている。教科書の注を見よ。

Q11 旧暦と新暦は何をもとに作られているのか。新暦正月の基準は何か?

A11 冬至。クリスマスも冬至祭りがもととされる。緯度の高いヨーロッパでは、冬は3時頃には日没となる。日が長くなるのが恋しく、冬至はこの日を境に 昼が長 くなってゆく日である。これを太陽や神の復活の時、一年の始まりと考えたということは理解できる。

Q12 旧暦正月の基準は何か?

A12 立春。中国が起源の暦であり、冬至と春分の真ん中の日を立春とし、この日から春が始まるとした。前日の節分は季節を分ける意。春夏秋冬の最初が春 なのだ から、一年の開始は春の最初がふさわしい。

Q13 旧暦の一カ月は何を基準に決められたか?

Q13 月の満ち欠け。そのため、「ひと月」というように「月」がつく。新月の日を朔日としている。「月立ち」の意。新月から次の新月までを1か月とする と、 29.5日にしかならない。これだと1年は354日で、新暦の365日には10日ほど足りない。そのままにしておくと正月がどんどん早くなっていってしま うので、19年に7回の閏月を入れ、一年を13カ月にすることで調整している。旧暦では立春に一番近い新月の日が正月一日になる。そのため、新暦とは1か 月ずれることになる。

[幕府の軍制改革](安政の改革)
 品川台場、韮山反射炉の建設

・黒船の大砲に対抗するためには、江戸湾に大砲の陣地を築く必要=品川台場。ペリー来航後に昼夜兼行で築造を始めたが、財政難で継続でき ず、第4台場の工 事途中で中止。できたものも、実際には役立たず。
・設置するための大砲を作る必要。日本では釣り鐘のようなものは作っていたが、一度に鋳込むのではなく、つぎはぎだらけ。大砲は打つときの衝撃が大きいた め、継いだところから割れてしまう。また、従来の鋳物はたたら製鉄であり、木炭と砂鉄を混ぜて熱して溶かした鉄を使っていた。不純物が入り、弱くなってし まう。
・大砲築造のために導入されたのが反射炉。耐火煉瓦を使い、 熱を天井に反射させて溶かすもの。直接溶かさないので不純物は入らない。1850年に肥前藩が 初めに作り、1863年にはアームストロング砲の製作に成功。
・韮山反射炉は、韮山代官の江川太郎左衛門が作ったもので 現存している。

 cf)高島秋帆、江川太郎左衛門の洋式砲術

高島 秋帆は長崎のオランダ人から砲術を学び、講武所砲術指南となった。江川太郎左衛門は幕府の海防係で、台場と反射炉を作った人物。

 講武所、海軍伝習所の開設

講武 所は陸軍で江戸に置き、海軍伝習所は繰船技術 を学ぶところで長崎に作った。
・それまでの大船建造の禁を解いて、オランダに軍艦を作らせた。オランダからもらった観光丸、咸臨丸を使い、海軍伝習所でオランダ人海軍士官を頼んで教育 している。咸臨丸は、1860年に通商条約批准の際、首席全 権新見(しんみ)正興の乗った船の護衛艦として、日本人の繰 船で初めて太平洋を横断している。 この艦長が勝海舟

 cf)勝海舟、榎本武揚らの養成

勝海 舟は幕府の下級武士で、無職者組というあぶれ者だった。禄高はわずかに40俵であった。暇なので蘭学を勉強していたが、阿部正弘が意見書を 求めたと きは人材を登用し交易をおこない、その利益で軍備を増強し、大船を作って海外貿易をすべしという意見を出して目にとまった。蕃書調所で外国の本の翻訳にあ たり、次いで海軍伝習所に入った。咸臨丸の艦長となったが、実際には途中で嵐に遭い、船酔いで繰船を外国人に委ねたと言われている。
・航海技術では榎本武揚の方が長けていた。彼は名家の出であ るが、一介の火夫として働き、そのことをカッテンダイケ中尉が褒めている。
・他に岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)など、小禄から目付や勘定奉行、外国奉行になっていった者がたくさん出る。川路は勘定奉行、海防掛と なり、条約締結の当事者でもあった。いずれも阿部正弘の人材登用策を受けたものである。
・このような家柄にとらわれない登用が、従来の幕府門閥制を揺るがすこ とになった。

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