<大和政権の動揺>
#1[政治抗争と外交の失敗]
#2A 内乱の発生
#3B 半島拠点の失陥
#4[蘇我・物部氏の政治]
#5A 政権機構の改変
#6B 蘇我氏(大臣)の台頭
#7C 物部氏の滅亡

<大和政権の動揺>
[政治抗争と外交の失敗]

A 内乱の発生
 応神王朝(河内王権)末期の王位継承争い
 →葛城、平群氏の没落、王統の断絶

・初め大和三輪山の麓に作られていた古墳は、5世紀に河内平野に展開するようになる。 ここから、三輪王朝から河内王朝へと政権の交代があったのではないかという説が出てくる。この王朝は「応神」で始まって「仁徳」に継承されるが、「仁徳」 については、「古事記」に国中にカマドの煙の立たないのを見て3年間課税をやめたとするなど、その仁政が強調されている。これは中国の史書などに見られる 話であり、作り話らしい。
・この系統は、始まって10代めの「武烈」大王で断絶している。「武烈」は暴君として描かれ、「日本書紀」では女を裸にして馬の交尾を見せ、局部が濡れた ら殺し、そうでなければ奴隷にしたと記している。暴君であったために滅びたというストーリー。実際には、大王の地位は長子が継承するというルールができて おらず、兄弟間で継承することがあり、大王の跡継ぎ争いに葛城、平群の両豪族が介入し殺し合いをしたものであると考えられている。

 大伴金村による継体天皇擁立(越前王権)

・大王の血を引くものがいなくなり、この抗争で葛城、平群氏も没落
大友金村が「応神」の5世の孫のオオトを越前で発見して連 れてきた。実際には越前の一豪族だった可能性もあり、大和入りには抵抗が強く、20年間も近江、河内を転戦している。彼は即位して「継体」を名乗るが、大王家の娘を妻とし、後の欽明天皇をもうける。一 方、地方豪族・尾張氏の娘とも結婚し、後の安閑・宣化天皇をもうける。

Q1 公式な仏教伝来は欽明天皇に仏像が贈られたことを指す。「日本書紀」 では552年であるが、「上宮聖徳法王帝説」では538年である。「日本書紀」では、安閑は534即位、宣化は536年即位、欽明は540年即位となって いるが、538年に仏教が伝わったとする「上宮聖徳法王帝説」が正しいとすると、どのような矛盾が生じるのか? その矛盾を解決するにはどうしたらよいの か?

A1 欽明は540年即位なので、仏像は宣化にもたらされたことになってしまう。欽明に伝えられたとするならば、538年即位の年代をずらさなくてはなら ない。「日本書紀」はこれをずらしている。

Q2 「上宮聖徳法王帝説」では、欽明即位は531年となっており、538 年に仏教が伝わっても矛盾は生じない。ここには安閑・宣化のことは書いていない。「元興寺縁起」も同じことを記しているため、「上宮聖徳法王帝説」の記述 は信用できる。とすれば、誤魔化しのあるのは「日本書紀」である。どうして欽明即位と仏教伝来の年代を誤魔化しているのか?

A2 欽明が531年に即位していたとすれば、安閑・宣化と重なってしまうからである。これが事実なら、この時には2人の大王がいたことになる。「日本書 紀」は天皇の権威を高め、支配の正統性を主張するために書かれたものである。天皇の祖先が2系統に分かれて争っていたということは書きたくない。

 cf)欽明(蘇我氏)、安閑・宣化(大伴氏)朝の対立説

欽明 と安閑・宣化の系統に分かれ、再び抗争が繰り広げられたらしい蘇我氏は欽明を擁立し、大伴氏は安閑・宣化を擁立した。この後、大伴氏が没落することで、大王 の位は欽明の血統で世襲されるようになる。

B 半島拠点の失陥
 1 百済からの任那4県割譲要求
  大伴金村の認可→伽耶諸国の離反(金村失脚)

・475年、百済は国都の漢城を高句麗に攻め取られる。このため公州(熊津)に遷都 し、さらに南の伽耶の地への勢力拡大を考えた。伽耶は小国が分立し、日本の軍事援助で独立を維持しているような状況だったが、割譲の要求を受けた大伴金村は、512年、オコシタリ、アルシタリ、サダ、ムロの4県を百 済に譲ってしまう。これらは伽耶の小国で、日本のものではないので併合を認めたものであるが、百済は、513年にはさらに2県を併合してしまう。
・日本に裏切られた伽耶の国々は日本から離れてゆく。金村は 賄賂をもらっていたとして、540年、物部尾輿によって失脚させられた。

 2 新 羅による伽耶支配の進行

・残った伽耶の地のうち、南伽耶は新羅にとられ、日本の拠点は安羅のみとなる。友好国 の百済に併合されるのはまだしも、新羅にとられてしまうのはまずい。

  出兵により阻止図る but筑紫国造磐井の反乱で失敗(527)

・新羅にとられた2県奪還のため、6万人を率いて近江毛野が遠征。大和政権は九州の有 力豪族の磐井に協力を求めた。磐井は生前に132メートルの岩戸山古墳(八女市)を築く有力者だった。
磐井は新羅と結び、近江毛野の渡海の前途を遮断。磐井は 「元もと同じ釜の飯を食べていたお前に命令されたくない」と言っている。磐井による九州独立戦争であった。
・大和政権は、新羅攻撃どころではなくなってしまった。大連・物部麁鹿火(アラカビ)を派遣し、御井郡の戦いで磐井を討った。この時、岩戸山古墳の石人・ 石馬を破壊され、磐井の子・葛子は糟屋屯倉を献上して死を免れたとされる。
・この後、毛野臣は渡海し、伽耶問題で百済、新羅と話し合おうとするが拒否される。
・友好国の百済も厳しい情勢にあった。538年、聖明王は都 を扶餘に移し、欽明天皇に仏像を贈った。今後の軍事行動のため、日本と手を結ぼうという証だった可能性が高い。550年、百済は新羅と連合して漢城を奪還 する。しかし、新羅が横取りしてしまい、聖明王は新羅によって斬首される。

 →「任 那日本府」滅亡(562)

・562年、新羅によって残りの伽耶の地がとられ、日本は朝鮮半島の拠点を完全に失った。欽明は9年後に死に、皇太子に対 し「新羅を討って任那を復興せよ」と遺言を残している。

※以後は百済を通じて大陸との関係維持

[蘇我・物部氏の政治]

・国内では、欽明支持者の蘇我氏が大臣となる。大伴金村失脚のため、物部氏との二頭体制が展開。急変する半島情勢に呼応するため、国内では 政治改革が求められることになった。

Q3 半島で急成長する新羅に対抗するためには、大和政権はどのような政治改革をする べきか? どうして磐井の反乱を未然に防げなかったのか。

A3 連合すれば地方豪族は勝手なことをしていてもよいという地方分権を改め、中央集権化を進める必要がある。地方豪族を手先として使ってゆくのである。


A 政権機構の改変
 民衆の成長→地方支配の動揺=朝廷と国造の結合必要

・国内でも大きな変化があった。遺跡からはU字型鉄刃を持つ鋤、鍬が出土する。乾田を 開発するのに使われたものらしい。乾田は、湿田に比べて生産力がぐんと高くなる。開発ができるのは有力農民である。6世紀になって作られるようになった群集墳も彼らの墓。群集墳はたかだか10メートルくらいの古墳だが、作 るには十数人で2〜3カ月はかかる。

Q4 有力農民の出現は、地方豪族の地方支配をどのように変えるだろうか?

A4 言うことを聞かない連中であり、これを従わせるためには大和政権の力 を借りる必要が出てくる。そのためには、地方豪族は大和政権の言うことを聞かなくてはならなくなる。これは中央集権化の動きである。


 cf)屯倉の拡大、品部の充実、国造親衛軍の組織

中央 集権化は屯倉の拡大などの現象として現れる。535年、筑、火、東国など26カ所に新しい屯倉が設置されている。地方の反乱を大和政権が鎮 圧する一方で設置したものもあると考えられる。
・蘇我稲目は吉備の白猪屯倉に派遣され、田部を掌握するために籍を作ったという。大和政権が、地方の屯倉に住む者たちを直接把握しようとした出来事であ り、中央集権化の動き。
・改革の背後には、蘇我氏の影が感じられる。

B 蘇我氏(大臣)の台頭
 渡来人と結合=開明的政策
 財政管理(三蔵=斎・内・大蔵)

Q5 蘇我氏という豪族は、稲目以前には韓子、高麗など異国的な名前を持つ者が多い。 ここから、どのような性格を持っていたと考えられるか。それは、蘇我氏にとってはどのようなメリットがあるのか?

A5 半島系の渡来人と関係が深いとされている。当時の最先端技術は半島からもたらされるため、この技術力をバックに蘇我氏は台頭する。蘇我氏は斎蔵、内 蔵、大蔵の管理をし、東・西の文氏に中身の記録をさせており、財政を掌握する豪族だった。

Q6 蘇我氏は臣、対立する物部氏は連である。両者の決定的な違いは何か?

A6 蘇我氏は臣系の葛城氏の同族とされ、「欽明」に娘(姉妹)を入れて外戚の地位を獲得している。臣の姓を持つ者は大王と同じく身分が高く、大王家と通 婚できる。堅塩媛は用明、推古を生み、小姉君は崇峻を生んでいる。連系の物部氏はもともとの家来であるため、大王家とは通婚できなかった。蘇我氏と物部氏 の決定的な違いはここにある。

 欽明 天皇との姻戚関係
 →物部氏(大連)との対立 cf)崇仏論争(蘇我稲目×物部尾輿)

聖明 王から贈られた仏像に対し、欽明は「敬うべきかどうか」を諮問した。蘇我稲目は「中国、朝鮮が礼拝しているので敬うべき」と答えたが、物部、中臣は「蕃神を礼拝すると国神の怒りを買う」と言って反対。物部 も中臣も神事を仕事にしていたので、国神に替わって仏像が祭られると困る。
・欽明は仏像を稲目に渡して祭らせることにした。痘瘡が流行したので物部尾輿はこれを国神の祟りであるとし、塔を切り倒し、仏像を難波の堀江に捨てた。し かし、とたんに雨が降り出し、尾輿も痘瘡になって死んだという。
稲目と尾輿の対立は、その子供の馬子と守屋に受け継がれた。敏達の葬儀の際、馬子が刀を差して弔辞を読 んだところ、守屋は「矢の刺さった雀のようだ」と言って笑った。次に守屋が弔辞を読んだときは手足が震えたため、馬子は「鈴をつけたらチャラチャラ鳴る」 と笑ったという。
・敏達は死んだが、その子供は小さかったため、馬子は敏達の異母兄弟の用明を立てたいと言いだした。蘇我稲目の娘・堅塩媛の腹であり、馬子の甥になる。
・これに対し、小姉君の腹の穴穂部皇子も大王位を望み、敏達の后・炊屋姫(推古)に圧力をかけた。これも馬子の甥だが、馬子は支持しなかったため、穴穂部 は物部守屋と結んで対抗した。しかし、結局は用明が即位している。

C 物部氏の滅亡
 用明天皇後の皇位継承争い→蘇我馬子による物部守屋打倒

・用明は2年で病死し、再び跡継争いが浮上した。敏達の子は病弱だったので、馬子は小 姉君の腹を大王位につけることを考えた。守屋と結んでいた穴穂部は避け、泊瀬部皇子の擁立を図った。
・馬子は穴穂部を殺害して守屋を攻撃することにし、臣の姓を持つほとんどの豪族を味方に引き込んだ。馬子は二軍に分けて河内の守屋の本拠を攻撃したが、軍 事の物部相手に苦戦した。馬子について出陣した厩戸皇子(聖徳太子)は、 ヌルデの木で四天王を刻んで戦勝を祈願し、勝てば寺と塔を建てると約束した。最後の決戦は蘇我氏の勝利となり、厩戸は約束を守って四天王寺を建立した。蘇我氏も飛鳥寺を建てたという。

 =崇峻天皇擁立 but馬子と対立し、崇峻暗殺(592)

・守屋滅亡により、馬子が推していた泊瀬部が即位して崇峻となった。しかし、実権はな く馬子が政治を動かす。ないがしろにされた崇峻は、592年、イノシシが献上されたとき、「この頭を切るように嫌な男の首をはねたい」と言った。これを聞 いた馬子は先手を打ち、東漢直駒に崇峻を殺させた

※蘇我 氏の独裁体制確立

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