<古墳時代の文化>
#1[固有信仰の確立]
#2A 自然神、氏の祖先神への信仰
#3B 神話の成立
#4[渡来文化]
#5[後期古墳の登場](6C)
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<古墳時代の文化>
[固有信仰の確立]
Q1 固有信仰は、後の神道になってゆくものである。神道では何を神として崇めるの
か?
A1 原始信仰に根ざしているため、山、滝、海、島、大岩、大木などの自然物を崇拝している。三輪山、那智の滝、沖ノ島などがそれに当たる。沖ノ島祭祀遺
跡では、4〜5世紀に巨岩に対して鏡、玉などを供えていた。他には氏の祖先も神としている。
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A 自然神、氏の祖先神への信仰
神事の成立
・日本の神は一カ所にじっとしているのではなく、神事の時に迎えてもてなし、それが済
めば送り返すのが特徴。神は去来するもの。神事では迎え、祭り、直会、送り
の要素が大切。神を迎えたとき、それを宿らせる依り代が
必要。
Q2 年の神を招く正月行事を例に取ると、迎え、祭り、直会、送り、依り代はどうなる
か。
A2 初めに神を迎えるためにその場所を清浄にする=煤払い、大掃除。年の神は松に乗ってやって来る。門松迎えが神迎えの行事。鏡餅は年の神の依り代、み
んなでお節料理を食べて神と会食をし、さいごはドンド焼きで送る。
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ex)禊、祓(ケガレの除去)、太占・盟神探湯(神意を知る)
・禊は
ミソソギ。水に入ってケガレを除く。祓は禊ぎ以外でケガレを
除くもの。人形につけて災厄を除くなどが挙げられる。
・神を招いて豊作を祈ったりする。その時、豊凶も占う。
・太占は鹿の肩胛骨を焼いてひび割れによって判断するもの。
モンゴル・ツングース方面の占いと同じことをやっていた。
・盟神探湯は熱湯中の石をとらせることで、嘘をついたものを
見破る方法。素早くとると手の周りに空気の膜ができ、火傷しないという。
農耕儀礼 ex)祈年祭、新嘗祭
・豊作を祈って神事をするのだから、来臨時期は農耕と関わる=農耕儀礼。春、田の神が田に来ることで豊作がもたらされる。この時に祈年祭=予祝の儀礼がおこなわれる。田に来た神は、秋の終わりに山に帰
り、力を蓄える。この時に収穫感謝の新嘗祭がおこなわれる。
これが春祭りと秋祭りの系譜につながる。
神社建設 ex)大神神社
・やがて来臨の場に常設建物=神社を建設するようになる。日本最古の神社の大神神社に
は神を祭る本殿がなく、拝殿だけ。三輪山がご神体になっている。
・神社が作られると、神の依り代として鏡、剣、玉が置かれ
る。天皇家には、皇位の象徴として三種の神器=ヤタの鏡、ヤ
サカニノ勾玉、草薙の剱が伝わる。いずれも神の依り代。
・大和政権の大王の系譜を引くと説明される天皇家の祖先は伊勢神宮に
祭られる。天皇家の祖先は太陽神なので、東方の伊勢に神社を祭ったものであり、もともとは畿内にあったものを5世紀末か6世紀に伊勢に移したという。神殿
は高床式倉庫から発展したものであり、古い形態を伝えている。外宮は内宮への食物提供神である。
Q3 政権が安定してくると、為政者が次に手がけることは何か?
A3 自らの支配を正当化するため、歴史をまとめようとする。この時代の歴史は、言い伝えを集めたもので、宗教がかった神話ということになる。
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B 神話の成立
大和政権の統一=大和中心の神話体系(地方神社の服属)
・大和政権の支配者の祖先はアマテラスである。地方豪族も自分たちの祖先などを神とし
て、出雲大社、諏訪大社などを建てた。これらは、大和政権に服属する中で、大和中心の神話の中に位置づけられている。例えば、出雲大社はオオクニヌシを祭
るが、国土をニニギノミコトに献上している。これは出雲にあった勢力が大和政権に服属したことを物語っているとされる。他の豪族の神々も、大和政権の祖先
の神から分かれたと説明されてゆく。後の天皇が全国の神とつながるのも、こういう経緯があったからである。
・全国の神社は、律令制を整えてゆく中で主要神社を官社とし、神祇官が幣帛を供える官幣社、各国で幣帛を供える国幣社に序列化されてゆく。このうち、延喜
式に載る古社2861社を式内社と呼び、由緒あるものとして別格扱いされている。
・多くの神社は、室町時代に惣が形成される中で、新しく作られたものである。
「帝紀」「旧辞」の成立
・大和中心の神話をまとめたのが「帝紀」「旧辞」。「帝紀」は天皇の系譜、「旧辞」は
神話で、いずれも「古事記」「日本書紀」の元とされている。23代とされる顕宗天皇(5世紀後半)の時期までは、「古事記」も「日本書紀」も同じ調子で叙
述されている。「帝紀」「旧辞」は、その後、あまり時間が経たない間にまとめられたと推定されている。有力なのは6世紀半ばの欽明朝に成立したのではない
かという説で、だんだんと統一国家らしくなってきた時期である。
・この頃、朝鮮でも修史事業がおこなわれている。ただし、「帝紀」「旧辞」が口伝えの口承だったのか、文字で伝える記録だったのかは不明である。
Q4 政権の統治範囲が拡大すれば、その仕組みも複雑化する。大和政権が日本を統治し
てゆく上で欠かせない知識はどうやって獲得したか?
A4 常に最先端の文化を持った人間を大陸から招き続ける必要がある。
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[渡来文化]
1 4C末〜5C初
小豪族の政治亡命→渡来系豪族の形成
・4世紀末から5世紀初めにかけては、朝鮮半島の動乱期で、半島三国間で抗争が繰り広
げられていた。この中で、政治亡命してきた者も多かったはずである。
ex)弓
月君→秦氏(養蚕)、
・弓月氏
は秦の始皇帝の末裔で、100以上の県の者を連れて来日したとされる。日本では「君」の姓を与えられ、養蚕と機織りで仕えた。後には秦氏を名乗るようになる。秦氏は渡来人ではなく、京都盆地在来の豪族と
する説もある。渡来人であるといった方が、一目置かれたためであろう。
Q5 日本全国に大和政権の命令を行き渡らせようと考えたとき、欠かせなくなる大陸の
文化は何か?
A5 文字である。日本固有の文字がないため、漢字を用いるしかなかった。
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阿
知使主→東漢氏(文筆)、王仁(百済から「論語」招来)→西文氏(文筆)
・阿知
使主は後漢・霊帝の曾孫とされ、17県の民を率いて渡来している。東漢氏を名乗り、「直」の姓を与えられた。ヤマトノアヤノアタエと呼ば
れ、文事で活躍している。後に政治、外交、軍事にも進出した。
・王仁は漢・高祖の子孫とされ、百済から文事の師として招か
れた。このような中国系譜の者は、朝鮮半島に中国が進出していた時期にやってきていたものであろう。王仁は論語10巻、千字文をもたらした。西文氏を名乗り、「首」の姓を与えられ、カワチノフミノオビトと呼ばれ
て文筆で活躍した。
漢字
の伝来
cf)隅田八幡宮人物画像鏡(和歌山)など
・隅田
八幡宮人物画像鏡は、
江戸時代末期に古墳から出土したものである。「癸未年、男弟王が意柴沙加宮(オシサカノミヤ)にいた時にこの鏡を作る」と記されている。癸未は443年か
503年であり、男弟王をオオトノミコ(継体)とすると503年となる。しかし、継体は507年に越前から大和にやってきて即位した天皇であり、その前に
は大和にいたことがない。オシサカを允恭天皇の皇后が住んだ忍坂宮とすれば、443年となる。これであれば、隅田八幡の鏡は日本最古の年紀を持つものと言
える。
・大切なことは、漢字の音を用いて日本語を表記していることであり、後の万葉仮名につながる使い方がされている。史部と呼ばれる渡来人たちが記録業務をお
こなっていった。
2 5C末〜6C
技術系部民の充実 ex)陶部、韓鍛冶部、錦織部、鞍作部
・5世紀末以降は、先進技術を持った人たちをたくさん招くようになった。陶工、鍛冶
屋、機織り、皮細工などの技術を求めていた。
・須恵器は灰色硬質の陶器で、半島からもたらされた技術で焼
かれた。それまでの土師器は煮沸、須恵器は貯蔵に適するとされる。須恵器はロクロを用いて成形し、穴窯で焼いていた。
Q6 技術と並び、支配者の権威を高めるための大陸文化も欲しくなる。どのようなもの
があるか?
A6 中国起源の一流の思想文化であり、儒教や仏教が挙げられる。
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儒教
伝来=五経博士の来日(513)
・五経
博士は儒学に通じた学者であり、百済が交代で
派遣してきた。これは日本が百済に軍事援助をしたことの見返りであった。
仏教
伝来=百済・聖明王→欽明天皇へ仏像・経典贈る
・仏教はインドから中国に入ってきていたが、高句麗には372年、百済には384年に
伝わっている。百済は高句麗に圧迫されたため南遷し、伽耶に進出してくる。このため、伽耶に勢力を張ろうとする日本ともめ、友好のためにも仏像などを送る
必要があった。
・仏像と経典は聖明王が欽明天皇に贈ったとされる。ここには
二つの問題が発生し、一つは年代の相違、一つは崇仏論争である。このことは後述する。
cf)「上
宮聖徳法王帝説」(538)、「日本書紀」(552)
・聖徳太子の伝記の「上宮聖徳法王帝説」や日本最初の寺院の縁起である「元興寺縁起」には538年伝来とされている。正式な歴史書である「日本書紀」は552年である。
[後期古墳の登場](6C)
山の尾根を利用、群集墳、円墳 ex)吉見百
穴
・それまでは大規模な墳墓が平野に作られていた。後期になると、小規模なものが山の尾
根を利用したりして築かれ、群集墳と呼ばれて密集する。和歌山市岩橋千塚は600基、奈良県新沢千塚は593基もの古墳が集まっている。また、埼玉県の吉
見百穴は、崖に横穴を掘って墳墓としたもので、228基が集まっている。
横穴式石室(玄室−羨道−前庭)(追葬可能)
・もう一つの変化は横穴式石室が登場している点である。これは大陸の形式である。
Q7 竪穴石室と横穴石室では、用途がどのように違うのか? そこから、それぞれの石
室に埋められている者の性格の違いがうかがわれる。群集している事実と合わせると、どのような違いが認められるのか?
A7 竪穴式であれば一人しか埋葬できない。横穴式であれば後から追加が可能である。このため、竪穴式に埋められている人は絶対的な権力者であり、横穴式
に埋められている人は、そこまでの力はないが家族の墳墓を作ることができた人であると推定される。
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副葬品=土器・日用品
Q8 横穴式石室には土器や日用品が副葬されている。それまでの鏡や武器を埋めた墓と
比べ、遺体を埋めた人たちは、石室内をどのような場所として考えていたのか?
A8 死者がすむ世界である。死後の暮らしができるように日用品を用意してやったと考えられる。
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・「古事記」には、死後の世界が記されている。国土を生んだイザナミノミコトは、最後
に火の神を生んで身体を焼かれて死んでしまうが、夫のイザナギノミコトは悲しみ、黄泉の国に妻を連れ戻しに行った。
・真っ暗闇の中でイザナミが言うには、黄泉の国の食べ物を食べたので戻れないとのことだった。妻の姿を見ようと、イザナギは櫛に火を付けるが、そこに現れ
たイザナミは、蛆が群がる死体だった。驚いたイザナギは逃げ帰ろうとするが、醜い姿を見られたイザナミは夫を黄泉の国に留めておこうと、醜女に命じて追い
かけさせる。
・イザナギがつかまりそうになった時、髪飾りを投げると葡萄になり、醜女が食べている間に逃げ、また追いつかれそうになったときは、櫛を投げて竹の子に変
え、醜女が食べている間に逃げ切った。
・最後はイザナミ自らが追いかけて来たが、イザナギは黄泉の国の入口の黄泉ひら坂を大きな岩でふさぐ。中からイザナミは、「仕返しとして人間を一日に千人
殺す」と言い、イザナギは「それなら自分は千五百人を生もう」と言ったという。これが、人が生まれて死ぬ理由なのだとされる。
・ここに描かれた黄泉の国は、横穴式石室の世界である。黄泉
ひら坂は羨道、大きな岩は閉塞石であり、石室の中ではヨモツヘグイができるよう、土器や日用品が
用意されているのである。
→有
力農民の家族墓(農民の成長)
Q9 有力農民の墓が作られる頃から、地方では大型の古墳が姿を消している。これはど
のようなことを意味しているのだろうか?
A9 地方豪族の没落である。
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※地
方大型古墳の消滅=地方豪族の大和への服属度高まる
・大和政権は、地方豪族連合の長を政治協力者として従えていた。地方の大型古墳は、連
合の長が中央の文化である古墳を受け入れて築いたものであり、長は古墳築造ができるだけの力を持っていた。
・農民が成長するにつれ、地方豪族はこれを従えることができなくなり、労働力を取り立てて古墳が作れなくなったと考えられる。
・大きな力を持つ連合の長は、大和政権としては怖い存在である。地方豪族連合を分断し、個々に支配する形をとり、長の勢力を削減することがおこなわれて
いった。
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