2005年度 3年生第1回定期試験 正誤問題出題例

2 つぎのA〜Oの文章を読み、正しいものの番号を記せ。両方とも正しいときは3、両方とも誤りの時は4と記せ。(30)


1 更新世は新生代第四紀の前半にあたり、人類が誕生した時代である。この時代は、その全期間を通じて地球上は厚い氷河に覆われており、いわゆる氷河 時代であった。
2 更新世に出現した人類のうち、現世人類につながるのは旧人と呼ばれる人たちであり、ドイツで発見されたネアンデルタール人が有名である。


1 我が国では更新世の人類の化石がなかなか出土しない、これは火山灰からなる酸性土壌が多いためである。この土壌は関東地方では関東ローム層とも呼 ばれ、台地上に赤土となって堆積している。
2 更新世の人骨の可能性のあるものとして、我が国で最初に発掘されたのは兵庫県の牛川人である。この他、浜北人や三ヶ日人などが出土しているが、更 新世の人骨ではないという説もある。


1 更新世の日本は、海退現象によって大陸と地続きになっていた。このため、朝鮮海峡や宗谷海峡を経由して、ナウマン象やマンモスが渡ってきた。長野 県野尻湖遺跡は、ナウマン象のキルサイトとされる。
2 更新世には南西諸島も九州と陸続きであった。沖縄県港川で発掘された人骨は縄文時代人の形質を備え、九州から渡ったものとされている。


1 我が国の旧石器文化の存在は、戦前、相沢忠洋が群馬県岩宿で打製石器を発掘したことで確認された。この文化は、土器を伴わないところに特徴があ る。
2 初期の打製石器は核石器が多く、握槌などに加工された。後期旧石器時代になると剥片石器の使用が拡大し、石刃や石槍が用いられている。


1 完新世は今から1万年前以降、気候が温暖化して現在に至るまでの期間である。この時代、縄文海進と呼ばれる現象により、日本列島が形成された。
2 縄文文化の遺跡は、明治政府の御雇い外国人であったモースが大森貝塚を発掘したことで考古学的に確認された。

解答
A 4    B 1    C 1    D 2    E 3


1 炭素14の分析により、縄文土器は世界最古の土器の可能性がある。土器の登場により、木の実のアクを抜くことが容易となり、可食部分が拡大した。
2 縄文土器は低温で焼成したため、厚手で黒褐色を呈するものが多い。中期の土器は複雑化し、煮炊き用に特化した尖底土器が登場した。


1 縄文時代には漁労具として網が用いられていた。植物性の網は遺物として残りにくいが、網漁の事実は骨角器の出土によって確認される。
2 磨製石器で作られた主な道具は弓矢である。象やオオツノシカなどの大型動物が姿を消したため、イノシシやシカなどが主要な狩猟対象となり、犬を用 いた狩りがおこなわれていた。


1 旧石器時代に比べ、縄文時代は生産性が向上し、富や権力、階級が発生するようになった。抜歯や研歯を施された人骨は、縄文社会の支配者であったと 考えられる。
2 土偶は豊穣や多産を祈った呪具、屈葬は死霊の復活を防ぐための葬法と考える説がある。ここから、縄文時代の人々は、アニミズムのような素朴な信仰 を持っていたと推測される。


1 弥生文化は大陸から日本に渡来した人々によってもたらされた。水稲耕作が開始されたが、初期の農具は木製のものが多く、金属器のうち鉄器がこれら の加工のために用いられた。
2 弥生時代の田は、初期には低湿地を利用した湿田が多く、田下駄や田舟が用いられた。収穫の際には石包丁を使った穂首刈がおこなわれ、高床式倉庫に 収納された。脱穀には竪杵と木臼が使われた。


1 支石墓は北九州に特徴的な墓制で、同様のものは朝鮮半島南部にも見られる。これが有力者の墓であると考えられるのに対し、一般の人たちは共同墓地 の箱式石棺に埋葬されていた。
2 弥生時代のムラの首長は司祭者としての性格を持っていたと考えられる。副葬品には銅鉾や銅鐸、玉や鏡があり、これらは祭りに使用した道具と推定さ れている。

解答
F 1    G 4    H 2    I 3    J 4

K1 銅鉾や銅戈、平型銅剣はいずれも武器として用いられたものである。弥生時代中期の遺跡からこれらが大量に出土するところから、当時、国内で大規模 な戦乱があったことが考えられている。
2 銅鏡は祭りの道具として使用されたと考えられる。魏の年号を刻した三角縁神獣鏡は近畿地方で大量に出土し、3世紀の日本が魏と交渉していたことを 示す証拠となっている。


1 4世紀になると中国王朝が弱体化し、朝鮮半島北部では高句麗が台頭した。半島南部は馬韓、辰韓、弁韓の地に分かれ、それぞれ国家連合が形成されて いたが、馬韓は百済、辰韓は新羅によって統一された。
2 百済は他国との対抗上、倭と呼ばれた日本との同盟関係を強化した。石上神宮に伝来する七支刀は、この同盟の証として百済からもたらされたものとさ れる。また、当時の日本は半島南部の伽耶の土地から鉄資源などを移入していた。


1 古墳は3世紀末から4世紀にかけて出現した。初期の大規模古墳は大和地方に築かれ、この地域に強大な王権が誕生したことが推測される。古墳は墳墓 であるとともに斎場であり、形象埴輪には葬儀の様子を再現したものもある。
2 古墳は5世紀になると河内平野に巨大なものが築かれるようになり、支配者の権力が強まったことがうかがわれる。大仙陵古墳は日本最大級の古墳であ り、その竪穴式石室からは武具や馬具が出土している。


1 姓は大和政権と協力関係を持った豪族に与えられたものである。畿内の有力豪族には臣の姓が与えられ、その代表は蘇我氏や物部氏であった。また、古 くから政権に服属して職務の分担をおこなってきた豪族には連の姓が与えられた。
2 豪族の社会組織を氏と呼び、これは共通の先祖を持つ者の集まりである。その長である氏上は、氏神を祀るとともに氏人を統率し、田荘と呼ばれる私有 地、部曲と呼ばれる私有民を支配していた。


1 特定の職業で大和政権に奉仕する人々を品部と呼び、伴造に率いられていた。玉作部や土師部、陶部などの在来の品部の他、渡来人の流入によって韓鍛 冶部、鞍作部など大陸伝来の技術で奉仕する品部が形成された。
2 地方豪族で大和政権と連合した者は国造の姓を与えられ、地方支配を委ねられた。その一部は、大和政権のために屯倉と呼ばれる土地を献上した他、子 代・名代という部民の貢納が義務づけられた。

解答
K 2    L 3    M 1    N 2    O 4


2004年度 2年生第1回定期試験 正誤問題出題例


3 つぎのA〜Jの文章を読み、正しいものの文章番号を加算し、その合計の数字 を記せ。(2と4が正しい場合、2+4=6が答えとなる。全て誤りの場合は0と記せ。)(30)


1 1853年のペリー来航は、それまでの幕府の政治方針を一変させ、親藩や外様大名が政治に参加する途を開いた。この結果、薩摩藩の島津久光、水戸藩の 徳川斉昭、福井藩の松平慶永などが幕府政治の中枢に加わった。

2 安政の改革は、列強の接近に伴う幕府の軍制改革である。江川太郎左衛門は高 島秋帆に洋式砲術を学び、品川台場を築いて江戸湾防備を進め、韮山反射炉を建設して大砲の鋳造に当たった。
4 安政の改革の一環として江戸に設置された講武所では、洋式砲術による演習を おこなった。長崎海軍伝習所では航海術が教授され、咸臨丸を繰船して太平洋を横断した勝海舟はここで学んだ。

1×、2○、4○→6


1 江戸時代を通じて日本と貿易をおこなっていたオランダは、イギリスとフランスが清国を侵略したことを受け、1840年に国王名で日本に開国を勧告する 国書を送っている。開国後の日本貿易の主導権をとりたいということが背景にあった。

2 神奈川条約は、日本が欧米諸国と締結した最初の不平等条約であり、日本はア メリカに対して一方的に最恵国待遇を与えている。この後、ロシア、イギリス、オランダと結んだ条約でも、同様の規定がされた。
4 千島列島における幕末の日露の勢力範囲は、日本は択捉島以南、ロシアは占守 島以北であり、両島の間の海峡が国境と定められた。ここで択捉島以南を日本領としたことが、現在、日本が北方領土返還を求める根拠の一つとなっている。

1×、2○、4×→2


1 工場制手工業は、幕末の日本では綿織物業や製糸業などの分野で確立していた。問屋制家内工業と比べ、分業制を採用し機械を用いた大量生産がおこなわれ るのが特色であり、近代資本主義が確立する前段階であると理解される。

2 幕末貿易では生糸が主要な貿易品となったため、製糸業のマニュファクチュア が飛躍的に進展した。ヨーロッパの絹織物産国であるフランスが中心となって買い占めがおこなわれたため、日本国内の物価騰貴の原因となった。
4 尾張の綿織物業は、尾西地方ではマニュファクチュアの段階まで進んでいた。 幕末の貿易でイギリスから安価な綿織物製品が大量に流入することで一時は廃れたが、明治になって輸入綿糸を用いて生産が復活した。

1×、2×、4○→4


1 江戸幕府の将軍は、将軍家に継嗣のない場合は尾張・紀伊・水戸の御三家から跡継を出すことになっていた。しかし、8代将軍吉宗の時、新たに継嗣を出す 家として一橋、田安、清水家が立てられ、これを御三卿と称した。

2 13代将軍の家定は病弱であり、将軍継嗣をめぐって幕内での対立が生じた。 譜代大名は有能な人材をつけることを主張して紀伊藩主の徳川慶福を推し、政治力の拡大をねらう親藩・外様大名は、血筋の近い御三卿の一人、一橋慶喜を推し た。
4 アメリカが要求してきた通商条約の締結に対し、譜代大名で構成する保守的な 南紀派はこれを拒否し、開明的な親藩・外様大名からなる一橋派は、条約締結を受容しようとした。

1○、2×、4×→1


1 水戸藩には、「大日本史」の編さん事業を通じ、伝統的に尊王論が展開していた。このため、幕府に対しては批判的であり、徳川斉昭は討幕によって天皇中 心の集権国家を作ろうという意見を持っていた。

2 水戸藩は戊午の密勅の返上を巡り、鎮派と激派に分裂し、激派が大挙して脱藩 した。桜田門外の変で井伊直弼を暗殺し、坂下門外の変で堀田正睦を襲撃したのは激派の浪士たちであった。
4 天狗党は尊王攘夷を叫ぶ水戸浪士の組織であり、八月十八日の政変の後、天誅 組の動きに呼応して京都を奪還しようと挙兵した。しかし、この挙兵は失敗に終わり、水戸藩の尊王攘夷派は解体することになった。

1×、2×、4×→0


1 安政の大獄は、1859年、大老で彦根藩主の井伊直弼が、対立する一橋派を弾圧したものである。橋本左内や吉田松陰が処刑され、徳川斉昭は国元蟄居と なり、一橋派は中央政界から一掃されることとなった。

2 井伊直弼が暗殺された後、老中の安藤信正は幕府権威回復のために公武合体の 政策を進め、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に嫁がせる計画を立てた。朝廷は攘夷と引替に降嫁を認めた。
4 幕府は攘夷を実行しなかったため、孝明天皇は家茂に対して約束の履行を強く 迫った。幕府は1863年5月10日を攘夷実行の期日と定めたため、この日、全国的に外国船に対しての砲撃事件が発生した。

1○、2○、4×→3


1 公武合体論は、衰えた幕府権威を高揚させるため、朝廷権威を利用しようという考えである。坂下門外の変の後、薩摩藩の島津久光は勅使を伴って江戸に行 き、幕閣に対して一橋派の復帰を求め、公武合体を推し進めようとした。

2 一橋派を政界に復帰させる改革を文久の改革と呼ぶ。この中で、一橋慶喜は将 軍後見職、島津久光は政事総裁職に就任し、幕府門閥をおさえて政治をリードするようになった。
4 一度は尊王攘夷派に政治主導権を奪われた公武合体派は、1863年の八月十 八日の政変で宮中から尊王攘夷派の公卿を一掃することに成功した。このクーデターの中心となった薩摩藩は、以後、尊王攘夷を目指す長州藩と激しく対立した。

1○、2×、4○→5


1 尊王攘夷論は、当初は経済的混乱を日本にもたらしたのは外国人であるという認識から、天皇の望む攘夷を実行しようというものであった。桂小五郎、高杉 晋作など長州藩の下級武士の政治工作により、三条実美など尊王攘夷派の公卿が天皇を動かすようになった。

2 八月十八日の政変の後、京都守護職の会津藩主・松平容保により、京都の尊王 攘夷派に対しての弾圧が進められた。取り締まりに当たったのが新選組であり、池田屋事件では長州藩などの志士が多数殺害された。
4 1864年の禁門の変は、京都を追われた長州藩が天皇奪還を企て、御所に攻 め込んだものである。しかし、薩摩・会津連合軍の前に敗退し、いたずらに攘夷を主張する古いタイプの尊王攘夷派は姿を消すことになった。

1○、2○、4○→7


1 第一次長州征討は、禁門の変の罪を問うために幕府が西日本の大名に出兵を命じたものである。戦いは長州藩の敗北に終わり、無謀な藩内の尊王攘夷派は正 義派と呼ばれる保守派によって処分された。

2 第一次長州征討に際し、長州藩はイギリス、アメリカ、オランダ、フランスに よって砲撃を受け、下関などの砲台を破壊されていた。保守派が幕府に対して恭順の態度をとるよう主張したのはこのためでもあった。
4 高杉晋作や桂小五郎など長州藩の下級武士が尊王攘夷を主張した背景には、多 分に吉田松陰の影響がある。彼は藩校の明倫館で講義し、「一君万民論」に基づいて日本人を天皇に結集させ、強力な中央集権国家を作ることを説いた。

1×、2○、4×→2


1 長州藩は外国来襲の危機意識を強く持っていたことから、武士以外の町人や農民を組織した軍隊を育成していた。奇兵隊はその一つで、高杉晋作はこれを用 いて藩内保守派を一掃し、藩論を討幕に向けていった。

2 土佐藩出身の坂本龍馬は亀山社中を組織して海運業に従事し、薩長両藩のため に物産や武器の運輸に当たった。このため、討幕を目指す薩長両藩の下級武士に働きかけをし、薩長同盟(薩長連合)の提携を斡旋した。
4 薩長同盟が発足する時期、15代将軍となった徳川慶喜は第二次長州征討を準 備していた。これは第一次長州征討で降伏した長州藩が降伏条件を守らなかったためで、この戦いに勝利し、幕府権威を高めようというねらいがあった。

1○、2○、4×→3

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